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江戸城を歩く。 その9 「九段坂公園~靖国神社」

北の丸まで来たので、その北側にある3人の像について触れておきましょう。

「その8」で紹介した田安門の北側にある九段坂公園に、2人の像があります。


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まずはこの人。

品川弥二郎子爵です。


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品川弥二郎は長州藩足軽の家に生まれ、15歳で松下村塾に入門。

吉田松陰の門下生となります。

松陰の死後は高杉晋作らと共に尊皇攘夷運動に奔走し、文久2年(1862年)イギリス公使館焼討事件にも参加しています。

元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀をつとめます。

維新後、明治3年(1870年)に欧州留学し、帰国後は、内務大書記官、内務少輔、農商務大輔などを歴任。

その後、駐独公使、宮中顧問官、枢密顧問官をへて、明治24年(1891年)に1次松方正義内閣では内務大臣に就任しますが、翌年の第2回衆議院議員総選挙において、次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行ない、死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職に追い込まれます。

晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。


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と、まあ、経歴をまとめれば立派ですが、実際には大した人物ではありません。

俗に明治政府は薩長の連合政府だったと言われますが、幕末、西郷隆盛大久保利通など主要な人物がすべて生き残っていた薩摩藩に対して、長州藩は、高杉晋作久坂玄瑞などの大物がほとんど死んでしまい、ビッグネーム木戸孝允(桂小五郎)くらいでした。

そこで、薩長の均衡を保つため、繰り上がり当選のように明治政府の要職に着いたのが、伊藤博文山縣有朋井上馨、そして、この品川弥二郎でした。

なので、どうしても小物感が拭いきれません。


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九段坂公園にはもうひとり、大山巌元帥の騎馬像があります。


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西郷隆盛の従兄弟にあたる大山巌は、維新後は欧州に留学し、征韓論に敗れて下野した西郷ら薩摩藩出身者に代わって、薩閥の首領としての地位を確立しました。

その後は陸軍卿、参謀本部長、陸軍大臣など要職を歴任し、陸軍内においては長州閥の山縣有朋と勢力を2分します。

明治27年(1894年)の日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官に就いて旅順攻撃を担当。

その後、元帥となり、明治37年(1904年)の日露戦争では満州軍総司令官として指揮を執りました。


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品川弥二郎の像が建てられたのは明治40年(1907年)、大山巌の像が建てられたのは大正8年(1919年)だそうです。

なぜ、この場所にこの2人の像が建てられたのかはわかりませんが、これも薩長の均衡を保つためでしょうか?


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九段坂公園から歩道橋を渡ると、靖国神社があります。

靖国神社についてはここでは詳しく触れませんが、その大鳥居をくぐってド正面に建てられた大きな像は、長州藩士の大村益次郎です。


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猪突猛進型の熱血攘夷志士を多く排出した長州藩士のなかで、大村だけは異質な存在で、蘭学者だった彼は、はじめから攘夷が不可能であることを知っていました。

もし、幕末の世に生まれていなければ、学者としてその人生を終えたことでしょう。


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ところが、木戸孝允によって見出された大村は、第二次長州征伐でその才能を発揮し、大政奉還後の戊辰戦争では司令官として新政府軍勝利の立役者となり、その後、太政官制における兵部省の初代大輔を務め、事実上の日本陸軍の創始者となりました。

新政府の軍部の最高位である兵部大輔となった大村は、旧式の封建軍隊にかわる洋式の近代兵制の創立を推し進めますが、広く国民から徴兵するという大村の国民皆兵論は、士族の特権を脅かすものとして、多くの元武士たちの反感を買っていました。

そして、その不平士族によって暗殺されます。


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大村像は明治26年(1893年)に完成した日本初の西洋式銅像で、高さ12mあります。

今では高層ビルが立ち並びますが、戦前は、異様な高さで目立っていたそうです。


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靖国神社は、戦前は陸軍省の管轄でした。

そのいちばん目立つ場所に、日本陸軍の創始者である大村の像が建てられたということは、靖国神社がどういう政治的意図を持った神社であるかが理解できます。

まあ、あまり言うと炎上するので、このへんにしときます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-25 21:08 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その166 「退耕庵(戊辰役殉難士菩提所)」

「その164」で紹介した東福寺の塔頭のひとつである退耕庵は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、東福寺とともに長州軍のが布かれた場所です。

そして戦後、長州藩戦死者の菩提所となりました。


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現在、山門の横には、「戊辰役殉難士菩提所」と刻まれた石碑が建ちます。


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駒札の説明書きによると、退耕庵は貞和2年(1346年)東福寺第43世住持性海霊見によって創建され、応仁の乱の災火により一時荒廃しましたが、慶長4年(1599年)に安国寺恵瓊によって再興されたそうです。


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茶室・作夢軒は、再興の際に恵瓊によって建てられたもので、豊臣秀吉の没後、ここで、恵瓊、石田三成、宇喜多秀家らが、関が原の戦いの謀議を行ったと伝えられているそうです。

それはすごい。


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ここが長州藩戦死者の菩提所となったのは、恵瓊が住持したということで毛利家との縁も深かったのかもしれませんね。


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維新後、「その78」で紹介した尊攘堂を建てて勤王の志士を慰霊に力を注いでいた品川弥二郎は、長州と退耕庵との浅からぬ縁に鑑み、明治27年(1894年)退耕庵維持会を作って後援していたそうです。

ここの本堂には、「その165」で紹介した防長藩士の墓に眠る48人の位牌が安置されています。




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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-11-23 01:46 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その165 「鳥羽伏見の戦い防長藩士の墓」

東福寺の山門から南東に100mほど歩いたところに、「その164」で紹介した「防長忠魂碑」に刻まれていた鳥羽・伏見の戦いで戦死した48名の墓があります。


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山門をくぐって東へ坂道を上っていくと、「右 維新戦役 防長藩士之墓道標」と刻まれた石碑があります。

ここから、石畳の坂を登っていきます。


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この道は、頂上にある仲恭天皇陵に続く参道です。

防長藩士の墓は、この坂を上りきる手前にあります。


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ここが防長藩士の墓所です。

高さ150cmほどの同じ大きさの墓碑が整然と並びます。


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鳥羽・伏見の戦いは慶応4年1月10日(1868年2月3日)に終わり、特に激戦だった千両松の戦い(参照:その155)で戦死した石川厚狭介を含む長州藩士の24名の遺体がここに運ばれ、1名ずつ木の墓標が建てられて埋葬されました。

そして、東福寺塔頭の退耕庵菩提所となり、毎年1月4日を命日として慰霊祭が執行されるようになったそうです。

これをバックアップしていたのが、維新後、子爵となった品川弥二郎でした。

晩年の品川は「その78」で紹介した尊攘堂を建てて勤王の志士を慰霊に力を注いでいました。


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その後、明治33年(1900年)の三十三回忌14名の戦傷病死者が追祀され、さらに、


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大村益次郎襲撃に遭遇して闘死した静間彦太郎なども加えられて現在の48基になり、これに合わせて墓標が現在の石標に替えられ、墓地も整備されたそうです。


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左が、千両松の戦いで戦死した石川厚狭介の墓です。


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右側が静間彦太郎の墓。


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墓所敷地中央には、三十三回忌の際に設置された大石灯籠があります。


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「崇忠之碑」と刻まれたこちらの石碑も、三十三回忌の際に設置されたそうです。

碑文は幕末から明治にかけて活躍した長州藩出身の国学者・近藤芳樹


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墓所の上に見えるのは、鎌倉時代の第85代・仲恭天皇九條陵です。

時代はまったく違いますが、ここに眠るのは皆、勤王の志士たち。

天皇陵に見守られながら眠るのは、志士の本懐だったかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-18 01:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その78 「尊攘堂」

前稿と同じく京都大学キャンパス内に、「尊攘堂」という名称の洋館があります。

ここは、元長州藩士で子爵となった品川弥二郎が、師の吉田松陰遺志を継いで建造したものに由来します。


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「尊攘」とは、言うまでもなく「尊皇攘夷」のことですね。

吉田松陰は生前、京都に尊攘堂を建てて勤王の志士を祀り、人々の心を奮い立たせようという志を抱いていましたが、それを果たせずに刑死します。

松蔭は死を前にして、その志を門人の入江九一に託しますが、その入江も、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で落命し、松蔭の遺志は遂げられませんでした。


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入江と共に松下村塾の門下生だった品川は、後年、この話を知り、師の遺志を果たそうと決意。

明治20年(1887年)にドイツから帰国すると、高倉通錦小路に尊攘堂を建造し、勤王志士の霊を祀り、志士の殉難の史料、遺墨、遺品などを収集し、祭儀を営み、一般の参拝を許し、収蔵品を観覧させました。

これが、初代の尊攘堂でした。


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品川の死後、明治34年(1901年)に所蔵品は京都帝国大学に寄贈され、明治36年(1903年)、大学構内に二代目の尊攘堂が新築されます。

それが、この尊攘堂です。


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平成10年(1998年)に国の登録有形文化財として登録されています。


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この石碑は、昭和15年(1940年)10月に皇紀2600年を記念して建てられ、 第二次世界大戦が終わった昭和20年(1945年)8月21日に一度撤去されたそうです。

その後、ながらく所在が不明となっていたそうですが、平成25年(2013年)3月1日、構内で遺跡の立合調査を行った際、樹木の根元に放置された状況で置かれているこの石碑が偶然発見されたそうです。


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石碑は、正面に「尊攘堂」、側面には「皇紀二千六百年記念」と刻まれ、反対側の側面にはこの建物の由来が刻まれています。

平成26年(2014年)12月、元あった場所に近い位置に設置されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-20 23:37 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その15 「霊山正法寺・品川弥二郎夫妻の墓」

前稿で紹介した霊明神社から、さらに坂を上った突き当りに、霊山正法寺という古い寺があるのですが、ここの境内にある墓地に、元長州藩士・品川弥二郎夫妻の墓があります。


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霊山正法寺は延暦年間(782〜805)最澄が開創し、霊山寺と号したことに始まると伝わります。

光孝天皇(第58代天皇)・宇多天皇(第59代天皇)の勅願所となり、元久年間(1200〜1206)には法然上人がここを法然念仏の道場としたといわれ、永和2年(1376)に国阿上人が入寺して時宗霊山派本山寺号を正法寺と改めたと伝えられます。


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その後、応仁の乱の兵火で、一時、荒廃しますが、天正年間(1573~1592)に諸堂が整備され、江戸時代には時宗十二派の「霊山派」の本寺とされて栄えますが、明治以降衰退し、現在は本堂(釈迦堂)・庫裏などを残すのみとなっています。


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門を潜って長い石段を上ります。


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本堂が見えてきました。


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本堂です。

あまり手入れされていないようで、寂れ感いっぱいです。


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本堂脇の細い道を北に進みます。


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ありました。

これが、品川弥二郎夫妻の墓です。


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品川弥二郎は長州藩足軽の家に生まれ、15歳で松下村塾に入門。

吉田松陰の門下生となります。

松陰の死後は高杉晋作らと共に尊皇攘夷運動に奔走し、文久2年(1862年)イギリス公使館焼討事件にも参加しています。

元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀をつとめます。

維新後、明治3年(1870年)に欧州留学し、帰国後は、内務大書記官、内務少輔、農商務大輔などを歴任。

その後、駐独公使、宮中顧問官、枢密顧問官をへて、明治24年(1891年)に1次松方正義内閣では内務大臣に就任しますが、翌年の第2回衆議院議員総選挙において、次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行ない、死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職に追い込まれます。

晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。


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向かって右側が弥二郎、左側が夫人のお墓だそうです。


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こちらが弥二郎の墓石です。

師の松陰は弥二郎のことを「温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている」と評したと伝わります。


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こちらは弥二郎の妻・静子の墓石。

静子は、弥二郎と同郷の山縣有朋の姉・山縣寿子の長女だそうです。


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弥二郎夫妻の墓がある場所からフェンス越しに北側に見えるのが、「その3」で紹介した東山霊山にある木戸孝允の墓です。

実は、木戸の墓を参ったとき、傍らに弥二郎の墓を示す道標の石碑があったのですが、いくら探してもそれらしき墓石が見つかりませんでした。

それが、下の写真です。


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向こうに見えるフェンスの向こうに、弥二郎夫妻の墓があったんですね。

どうりで見つからなかったはずです。

かつては行き来できたのでしょうが、いまは東山霊山護国神社の敷地と霊山正法寺の敷地に分かれてしまい、行き来できなくなったのでしょう。

フェンスの下に見える石碑は、「元治元年甲子七月十九日戦死者埋骨所の碑」です。


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こちらは、霊山正法寺側のフェンスの上から見た同碑。


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「元治元年甲子七月十九日戦死者」とは、言うまでもなく禁門の変での死者のことです。

別名「蛤御門の変」、「甲子戦争」と呼ばれる京都のまちを火の海にしたこの事変については、また、別の機会に触れることにしましょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-16 04:42 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)