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いだてん~東京オリムピック噺~ 第27話「替り目」 ~皇紀2600年の東京オリンピック招致~

 関東大震災復興がなんとか形になってきた昭和5年(1930年)頃から、東京へのオリンピック招致の声があがり始めました。金栗四三三島弥彦が日本人選手として初めて参加したストックホルムオリンピックから20年近くが経ち、いよいよ日本も自国での開催を企画できるレベルにまで来ていたんですね。そもそもの発案者は、関東大震災時に東京市長を務めていた永田秀次郎でした。永田は昭和5年(1930年)に再び東京市長に選ばれると、関東大震災からの復興を象徴するイベントとして、東京オリンピックの招致を唱えます。昭和39年(1964年)の東京オリンピックは戦災からの復興、令和2年(2020年)に開催予定の東京オリンピックは東日本大震災からの復興といった具合に、国内外に復興をアピールするには、オリンピックはもってこいのイベントなんでしょうね。


e0158128_17104791.jpg また、このときの東京オリンピック招致は、もうひとつ、開催予定の昭和15年(1940年)が皇紀2600年にあたることから、その祝賀イベントにしようという意図もありました。「皇紀」(戦前は「紀元」とも言われていた)というのは、戦後生まれの私たちには耳なじみがあまりありませんが、戦前に使われていた紀年法で、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とします。その元年は、西暦(キリスト紀年)でいえば、紀元前660年とされています。戦前の日本では、キリスト紀年の西暦はあまり使用されず、元号もしくは皇紀で年をよむのが一般的だったそうです。もっとも、この皇紀の歴史はそれほど古いものではなく、明治5年(1872年)に明治政府が太陰暦から太陽暦への改暦を布告した際に制定したもので、それ以前の江戸時代にはなかったものです。まあ、日本が皇国であるということを国民に植え付けたいという意図から作られたものだったのでしょうが、それでも、明治、大正期はあまり国民に浸透していなかったようで、多用されるようになるのは、昭和期に入ってからだそうです。第二次世界大戦前国定歴史教科書では、元号も西暦も用いられず、一貫してこの皇紀が用いられていたとか。こうして皇国日本のナショナリズムが作られていったんですね。


 もっとも、神武天皇の即位は『日本書紀』に基づくもので、これが信憑性に乏しいことは、当時でも少し学のある人なら周知のことだったでしょう。国民がこの皇紀をどれほど尊重していたかは疑問です。それでも、この皇紀2600年記念事業というのは、かなり盛大なイベントだったようで、紀元節(2月11日、現在の建国記念日)には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会体育大会など様々な記念行事が全国各地で催されました。わたしは、城跡や寺社などの史跡めぐりを趣味にしていますが、史跡に建てられている戦前の石碑などの裏を見ると、「皇紀二千六百年記念」と刻まれているのをよく見かけます。国全体が祝賀ムードだったようですね。


e0158128_19143177.jpg 話が脱線しちゃいましたが、東京オリンピック招致を思い立った永田は、IOC委員である嘉納治五郎にその意図を伝え、協力を求めました。しかし、当初、嘉納は慎重だったようです。その理由は、参加国の大半が欧米諸国であるなか、極東の東京は地理的に遠すぎて移動費がかかりすぎること、選手や役員を宿泊させる十分なホテルがないこと、語学の面で欧米語を使える人材がスポーツ界に乏しく、十分な接待ができないことなどから、時期尚早ではないか、ということでした。これまでオリンピック参加には積極的だった嘉納でしたが、自国での開催となると、IOC委員であるだけにその難しさを熟知しており、そう簡単には決断できなかったのでしょう。しかし、永田をはじめ東京市関係者の熱心な説得を受け止め、嘉納は70歳代になってから、東京オリンピック招致で世界を駆け回ることになります。


 ドラマでは、金栗四三のお兄さんが亡くなりました。幼い頃に父を亡くし、父親代わりだった兄の死は、金栗にとって大きな悲しみだったことでしょう。日本初のオリンピック選手としてマラソンに熱中できたのも、兄の支えがあってこそだったでしょうから。これを機に、金栗はしばらく故郷の熊本に帰ることになります。ここから、物語は田畑政治を中心に展開していくんでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-15 17:18 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第24話「種まく人」 ~関東大震災~

 今回も前話に引き続いて関東大震災の話でしたね。大正12年(1923年)9月1日に発生した大地震は、死者・行方不明者10万8000人に達するという未曽有の被害をもたらしました。被災者340万人、その被害の大半が火災による二次災害で、死者・行方不明者の9割が焼死全焼した家屋が38万世帯といいますから、その被害の甚大さは筆舌に尽くしがたいものでした。それだけ多くの家が焼けたということは、それだけ住む家を失った人がいたということに他なりません。そこで政府は、応急措置とし学校、官公庁、寺社などの公共施設へ被災者を収容し、また、明治神宮外苑屋外天幕を張り、約1万人を収容しました。


 続いて、現代でいうところの仮設住宅にあたる「バラック」の建設が計画され、9月4日以降、東京府、市、警視庁の分担によって建設が開始されます。明治神宮外苑、日比谷公園、靖国神社境内、上野公園、芝離宮、芝公園の6ヵ所に大規模なバラックが建設され、また、小学校の焼け跡や公園、空き地、広場など90ヵ所に小規模なバラックが建てられ、10月上旬から収容が開始されました。わたしも、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災を経験したひとりですが、私の住まいは一部損壊ですんだため避難所生活を送る必要はありませんでしたが、町中の学校や公園、スポーツ施設など至るところに仮設住宅が建てられ、そこで生活している方々の姿を毎日目にしていました。平成の仮設住宅ですら、その過酷な生活環境には目を覆うものがありましたが、この時代のバラック生活の劣悪さは、おそらくその比ではなかったでしょう。


e0158128_19143177.jpg この惨事のなか、大日本体育協会の名誉会長となっていた嘉納治五郎は、9月30日に帝国ホテルで理事会、常務委員会を開き、翌年に行われる予定の第8回パリオリンピックに日本人選手を派遣することを決議します。その一環として、この秋に第一次予選会を行い、翌年の4月中旬には第二次予選会を東京で開催することを決定します。そして、そのために、競技場建設を急ぐよう求めるということも。翌10月1日に発表した大日本体育協会の宣言文には、こうあります。


 「翌年七月にパリで開かれる国際オリンピック大会に選手を送る計画のあったことは一般の知るところであり、この震災のために全ての計画を放棄するのは極めて遺憾であるとし、この際海外に日本国民の元気と復興の意気を示すためにも、派遣したほうがよい」


 こんなときだからこそ、国民の士気を鼓舞するためにもオリンピックに出るべきだ、と。東日本大震災のときも、プロ野球の開幕前だったことで、自粛すべきか否かで議論がありましたよね。100年前も今も、直面する問題は同じようです。


e0158128_22162429.jpg そんな震災のドサクサのなか、人見絹枝が上京してきましたね。実際には、この翌年の4月に上京し、二階堂トクヨが塾長を務める二階堂体操塾に入学します。ドラマでもいっていましたが、彼女はこの年の岡山県女子体育大会において、走幅跳4m67という当時の日本最高記録(非公認)で優勝しています。そんな彼女のスポーツの素質に注目した岡山高等女学校の教師が、彼女に東京の二階堂体操塾に進学するよう勧めたそうですが、ドラマでは、シマちゃんこと増野シマが彼女の素質を見抜いたという設定でしたね。シマちゃんはドラマのオリジナルで、実在の人物ではありません。そんな架空の人物であるシマちゃんに、物語は人見絹枝をスポーツの世界へ導くという重要な役割を与えていたんですね。シマちゃんのような名もなき女性がいたからこそ、人見絹枝のような稀代のアスリートが生まれた、と。まさにタイトルどおり「種まく人」でした。あるいは、本当にシマちゃんのような「種まく人」がいたかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-06-24 22:17 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第16話「ベルリンの壁」 ~第一次世界大戦~

 大正3年(1914年)6月28日、バルカン半島のサラエヴォで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が自動車に乗っているところをピストルで撃たれ、夫婦揃って暗殺されました。犯人はオーストリアのバルカン半島支配に反発する青年でした。この事件でセルビアドイツの関係が悪化し、とうとうドイツがセルビアに宣戦布告。それがきっかけとなって第一次世界大戦が勃発します。


 この時代の世界情勢は、19世紀から続く植民地争奪競争の真っただ中でした。明治43年(1910年)にはイギリスがアフリカ大陸の南の端のボーア人の国に攻め込み、これを征服して植民地とし、南アフリカ連邦を作りました。そして、その奥地のキンバリーという鉱山を押さえ、そこから出るダイヤモンドを独占します。これを見たドイツやフランスも、指を加えて見ているわけにはいかず、負けじとアフリカ大陸に植民地を作りました。アジアでも、ロシア旅順、大連を租借して鉄道を敷くと、ドイツは青島を租借して、そこから済南まで鉄道を造る。フランスはベトナムを領土にしていましたから、そこから更に手を伸ばして南の広州湾を租借する。そして日本も、韓国併合に続いて満州に手を伸ばすなど、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、世界の植民地争奪競争は激化していました。


 そんななか、ドイツはオーストリアと手を結び、イギリスはフランス、アメリカと協力し、両陣営の対立が深まっていきます。そして、上述したサラエヴォ事件をきかっけに第一次世界大戦に発展し、これが、4年も続くことになります。


日本は、当時、日露戦争前に結んだ日英同盟があったので、イギリスに加担していました。日本にとっては、遠いヨーロッパでの戦争ということで、特にドイツと敵対する理由もなかったのですが、イギリスからの要請もあり、戦争に加わります。当時の日本は大隈重信内閣でしたが、イギリスに恩を売るために、ちょっとだけ軍事行動っぽいことをやって、勝ち馬に乗っかったという感じの参戦でした。ただ、戦争期間中、ヨーロッパ諸国は大戦に手一杯でアジアに手が回らず、その間、アジアに対する輸出を日本が独り占めにし、たいそうボロ儲けをしたようです。当時、日本は日露戦争で使った莫大な戦費により借金まみれで、財政は困窮を極めていましたが、第一次世界大戦の間の好景気で、一気に財政を立て直します。まさしく、漁夫の利ってやつですね。時代は下りますが、昭和の敗戦後の日本も、焼け野原となった日本を救ったのは、朝鮮戦争の特需でした。言葉は悪いですが、対岸の火事は儲かるんです。戦争で困窮した財政を戦争が立て直す。皮肉な現実です。


 第一次世界大戦の勃発によって、大正5年(1916年)に開催される予定だった第6回ベルリンオリンピック中止となります。開催国ドイツは大戦の中心国ですから、やむを得ない決定だったでしょうね。しかし、金栗四三らにとっては、そんなことは知ったこっちゃなかったでしょう。これによって、金栗は年齢的に最もピークの時期を棒に振ることになります。気の毒としか言いようがありません。


e0158128_00063073.jpg これと似た話が昭和の時代にもありましたよね。戦前の東京オリンピックの中止もそうですが、わたしたち戦後生まれでもよく知っているのは、昭和55年(1980年)のソ連アフガニスタン侵攻による西欧諸国モスクワオリンピックボイコットです。「いだてん紀行」では、レスリングの髙田裕司選手や柔道の山下泰裕選手がクローズアップされていましたが、当時、中学生だったわたしがもっとも悔しかったのは、金栗と同じく金メダル間違いなしと期待された男子マラソンの瀬古利彦選手でした。当時の瀬古選手は向かうところ敵なしの絶頂期で、国民も、そして瀬古選手自身も、日本人初のマラソン金メダルを確信していました。事実、それを実証するかのように、モスクワオリンピック後の12月に行われた福岡国際マラソンで、瀬古選手はモスクワオリンピック金メダリストの東ドイツのチェルピンスキー選手を破って優勝します。その後、なんとか瀬古選手に金メダルを獲らせたいという国民の願いは叶わず、4年後のロサンゼルスオリンピック、さらにその4年後のソウルオリンピックでは、残念ながらメダルに届きませんでした。もし、モスクワに瀬古選手が出ていたら・・・。いまでも思わずにいられません。


 モスクワオリンピックの4年後に開催されたロサンゼルスオリンピックは、モスクワのボイコットの報復とばかりに、今度は東側諸国がボイコットしました。


「政治とスポーツは別だ。オリンピックは平和の祭典。4年に一度の相互理解の場なんだよ。たとえ戦時中でも、殺し合いの最中でも、スタジアムは聖域だ!汚されてたまるか!」


 ドラマ中の嘉納治五郎の台詞ですが、残念ながら、この嘉納の理想は、このときも、そして70年後の未来でも、そして現代でも、未だクリアできていません。人間とは愚かな生き物ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-04-30 00:07 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第15話「ああ結婚」 ~金栗四三の結婚~

 「しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。人笑わば笑え。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重圧を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」


e0158128_19143806.jpg ストックホルムで途中棄権した翌日の日記にこう記した金栗四三は、その誓いどおり、帰国するとすぐに4年後のオリンピックに向けてトレーニングを開始しました。日本人初のオリンピック選手として経験したことを未来に繋げねばならない。彼は自身の失敗を教訓に、まずは暑さを克服すること、そして欧州の硬い石畳や舗装された道路への対策など、様々な工夫を凝らして練習に励みます。そして大正3年(1914年)に東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業した彼は、当初、名古屋の愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高校)の教師に赴任することが内定していましたが、悩んだすえ、この話を断ったそうです。理由は、次のオリンピックに向けての練習に専念したいという思いからでした。彼の並々ならぬ覚悟のほどが窺えますね。そんな金栗の思いに対して、嘉納治五郎校長は東京高師の研究科に籍をおいて練習に励めるよう配慮します。金栗を日本初のオリンピック選手にしたのは嘉納ですから、最後まで支援しようという思いだったのでしょう。ドラマで、「プロフェッショナル」という言葉が出てきましたが、まさしく、日本初のプロスポーツ選手の誕生だったといえるかもしれません。


 同じ年の4月10日、金栗は地元、熊本県の池部家の養子となる話がまとまり、石貫村の医者の娘である春野スヤ結婚します。金栗は数え歳で24歳、スヤは23歳でした。ドラマではスヤは再婚という設定ですが、実際にもそうだったのかどうかは知りません。まあ、当時の女子の23歳といえば、行き遅れの年齢と言えるでしょうから、再婚は本当の話だったかもしれませんね。オリンピック選手との結婚と聞けば、現代の感覚でいえば華やかな縁談に思えますが、当時の感覚でいえば、変わり者と結婚するようなものだったかもしれません。スポーツ選手なんて職業は存在しなかった時代ですからね。当時の結婚適齢期の16、7歳の初婚の娘さんには、とても相手にはされなかったかもしれませんね。実際のところ、年増のバツイチが関の山だったんじゃないでしょうか。


 ちなみに、ドラマでは金栗とスヤは幼馴染の設定ですが、これも、本当の話かどうかはわかりません。たぶん、ドラマオリジナルの設定なんじゃないでしょうか。ちなみにちなみに、池部家の養子となった金栗でしたが、かれはその後も旧姓の「金栗」を名乗り続けます。日本初のオリンピック代表選手として彼の名はすでに全国に知れ渡っていましたからね。そのへんを考慮してのことだったのかもしれません。


 さて、晴れて妻帯者となった金栗でしたが、祝言から5日目には新妻を残して東京に旅立って行きました。次のオリンピックを目指して練習に励むためでしたが、それを可能にしてくれたのが、池部家の養母による支援でした。こののち、養母の幾江は東京の金栗に仕送りし続けます。当時、都会で働く息子は実家に仕送りをするのが当たり前でしたから、全く逆だったんですね。金栗は幾江とスヤに宛てて筆マメに便りを送っていますが、それは、仕事もせずに走ってばかりいることで、妻と養母に対しての引け目だったのかもしれません。


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 ちなみに余談ですが、オープニングのタイトルバックに現れたスヤさんの回転レシーブにはビックリしましたね。あと、スヤさんの冷水浴。あのシーンの瞬間視聴率は高かったんじゃないでしょうか(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2019-04-22 00:53 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第8話「敵は幾万」 ~ストックホルムへ~

 かくして日本初のオリンピック選手に選ばれた金栗四三三島弥彦でしたが、問題はその旅費でした。当時、嘉納治五郎が会長を務める大日本体育協会は発足したばかりで、財政の余裕があるはずがありません。そこで嘉納は、国費による援助を文部省に求めますが、まだオリンピックという祭典の認知度が低かったこの時代、遊びのようなものに国費を使うなどあるまじきこととして門前払いでした。当時、日露戦争で使った莫大な戦費により日本は借金まみれで、緊縮財政により財布のひもが固かったんですね。日露戦争は、勝利とは多分に表面上のことで、ポーツマス条約において日本はロシアから賠償金はまったくとれず、財政はたちまち困窮を極めており、国内各地で政府に対する不満が爆発して暴動が起きていました。


e0158128_19143806.jpg そんな情勢のなか、日本初のオリンピック選手の渡航費、滞在費は、すべて自腹ということになります。その費用を試算してみると、およそ1800円から2000円ほどかかるといいます。当時、教師の初任給が18円から20円ほどだったといいますから、ほぼ10年分の収入に相当する金額です。今の価値でいえば、4000万円近い金額でしょうか。子爵の家柄の三島弥彦はともかく、かつては地元の名家だったとはいえ、いまは熊本の田舎で農業を営む金栗家にとっては、容易に出せる額ではありません。金栗は、一時は参加を辞退しようかとも考えていたといいますが、そんな彼の背中を押したのが、兄の応援だったといいます。ドラマで描かれていたとおり、兄は、「たとえ田畑を売ってでも渡航費を捻出するから、思いっきり走ってこい」と、弟の四三を励ましたそうです。昔の長兄って、弟妹のためなら身を削ってでも尽力を惜しまない人が多かったと聞きます。現代の希薄な兄弟関係とはぜんぜん違いますね。兄は弟妹を慈しみ、弟妹は兄を敬う。いつからなくなったんでしょうね、そういう兄弟の絆


 また、これもドラマで描かれていたとおり、学友や後援会など多くの人々からの寄付金も集まり、その金額は1500円ほどに達したといいます。「国威発揚」がスローガンだったこの時代。当時の人々にとっては、金栗と三島の渡航は、兵隊さんを戦地に送り出す心境だったのかもしれません。


e0158128_16513466.jpg 明治45年(1912年)5月15日、東京高等師範学校講堂において、大日本体育協会主催の歓送会が開かれました。このとき、金栗、三島両選手に、日の丸の大国旗が送られました。この日の丸を掲げて、ふたりはストックホルムの入場式を行進することになります。そして、翌日の5月16日、彼らはストックホルムに向けて旅立ちました。当時、今の赤煉瓦の東京駅はまだ建設中で、出発は新橋駅から。新橋駅には、金栗の学友たち百数十名が集まったそうです。三島は紺の洋服にカンカン帽という出で立ちで到着。同行する大森兵蔵監督と、その夫人・安仁子も揃って、駅前は大いに賑わったといいます。ドラマでは汽車に乗り遅れていた嘉納治五郎団長でしたが、実際には、当初から一行とは遅れて6月6日に出発し、アメリカを視察したのちにストックホルムに入る予定でした。金栗、三島両選手を乗せた汽車が動き出すと、学生たちは、今話のサブタイトルになっている軍歌『敵は幾万』を歌って見送ったといいます。そして万歳三唱。このときの2人の心境は、このように語ったと伝えられます。


 「日本運動界の全責任を帯びて出場することであれば、自分等は斃れて後止むの大決心で臨み、決して国体を辱めざることを期す」(『大日本体育協会史』大日本体育協会編)


 ドラマでは、女性記者に無理やりそう語らされていましたが、まさに国威発揚の時代。日の丸を背負う重圧は、現代の比ではなかったでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2019-02-25 00:20 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第6話「お江戸日本橋」 ~『黎明の鐘』となれ!~

 明治44年(1911年)11月18日に行われた第5回ストックホルムオリンピック国内予選大会の結果を受けて、大日本体育協会はマラソンで世界記録を樹立した金栗四三と、100m、400m、800mで優勝した東京帝国大学卒業生の三島弥彦の二人を、日本代表としてストックホルムへ送り込むことを決めました。しかし、出場要請を受けたふたりの最初の反応は芳しくはなかったようです。オリンピックと言われても、当時の日本人にとってそれほど知られてはいなかったでしょうし、オリンピック代表となることが、それほど名誉なこととも思われていなかったでしょう。また、スポーツ自体も、学生の道楽程度にしか思われていませんでした。ストックホルム行きの要請を受けた三島弥彦は、東京帝大総長に、「たかが駆けっくらをやりに外国くんだりまで出かけるのは、東京帝大の学生にとってどれほどの価値があるのでしょうか?」と相談したといいます。当時の日本人にとって、オリンピックはその程度の認識でしかなかったんですね。


 また、同じく日本代表に選ばれたマラソンの金栗四三も、当初はその要請に積極的ではありませんでした。その理由は、単純に「自信がない」ということでした。羽田のレースでは思わぬ好成績を出すことができたものの、自分が世界のレベルで戦えるとはとても思えない。とても国民の期待に答えることはできない、と。世論は金栗の世界記録樹立のニュースに歓喜していましたが、当の本人は、これが出来すぎの結果であることを、冷静に認識していたんですね。しかし、そんな金栗に対して、嘉納治五郎は次のように諭します。


e0158128_19143177.jpg「わが国はまだ各方面とも欧米の先進国に遅れ、劣っている。取り分け遅れている部門に体育スポーツがある。オリンピックは欧米諸国参加のもと、すでに20年前に開催されている。私は高等師範の校長として全生徒に放課後に1時間の課外運動をやらせ、君も徒歩部員として毎日走っているが、日本の他の大学ではほとんどこんな時間は与えていない。君の準備が十分ではなく、万一ストックホルムのマラソンで敗れたとしても、それは君一人の責任ではない。何事によらず先覚者たちの苦心は、昔も今も変わりはない。その苦心があって、やがては花の咲く未来をもつものだ。日本スポーツ発展の基礎を築くため、選手としてオリンピック大会に出場してくれ・・・」(引用:「嘉納治五郎」嘉納治五郎先生伝記編纂委員会)


 しかし、一介の学生に過ぎない金栗にしてみれば、「日本スポール発展の基礎を築くため」と言われても、「自分には荷が重すぎる。」として余計に尻込みするだけでした。


 嘉納はさらに説得を重ね、「勝ってこいというのではない。最善を尽くしてくれればいいのだ。」と促したうえで、こう続けました。


 「何事も初めはつらい。自信もなかろう。しかし苦労覚悟で出かけていくことこそ、人間として誇りがあるのではなかろうか。スポーツにしてもしかり、捨て石となり、いしずえとなるのは苦しいことだ。敗れた時の気持ちはわかる。だが、その任を果たさなければ、日本は永久に欧米諸国と肩を並べることが出来ないのだ。このオリンピックを見逃したら、次の機会は4年後にしかやってこない。もう4年の空白を指をくわえて待つ時期ではないのだ。金栗君、日本のスポーツ界のために『黎明の鐘』となれ!」(引用:「走れ25万キロ-マラソンの父金栗四三伝」)


 有名な「『黎明の鐘』となれ!」の言葉は、このときのものだったんですね。


 歴史の話を少ししておきましょう。日露戦争の以降、戦争に勝った日本から近代化の方法を見習おうと、清国から多くの留学生が日本にやってきていました。日本と清国は日清戦争で戦った間柄でしたが、その後、清国の政府は、戦前までの方針をあらため、封建社会は維持しつつも、日本政府とも協力して近代化のための改革を進める方針をとっていました。その清国からの留学生を最初に受け入れたのも、嘉納治五郎でした。嘉納は清国からの留学生のために宏文学院を開校し、13年間存続しました。その間の留学生は7192名、卒業したのは3810名でした。この頃の日清関係は、のちの日中関係のような深い溝はまだなかったんですね。


e0158128_16340747.jpg そんな最中、清国では大きな革命が起きます。日清戦争後、清王朝は義和団事件などの影響で弱体化していました。これに反発を強めた漢民族が、弱体化した清王朝の支配者である満州民族を追い落とし、新しく中華民国を建国します。これが、日本の元号でいえば明治44年(1911年)のことで、この革命を辛亥革命と呼びます。この革命の中心人物として中華民国の代表者に選ばれたのが、当時、革命運動家として有名だった孫文でした(ただし、孫文は暴動が起きた時点ではアメリカにいたため、革命そのものには参加していません)。この革命によって、約250年続いた清王朝は幕を閉じ、最後の皇帝・溥儀は退位します。映画『ラスト・エンペラー』の主人公ですね。この溥儀が、のちに日本の傀儡国家として建国された満州国皇帝に祭り上げられるのですが、それはずっと先の話。また、新たに建国した中華民国も、臨時の代表となった孫文に統治能力はなく、ゴタゴタのなか孫文を退けて実権を握ったのが、袁世凱でした。袁世凱は大総統になって独裁政治をはじめ、孫文は日本に亡命することになります。


 辛亥革命の影響は、日本に滞在中の清国留学生にも及びます。祖国が消滅したわけですから、当然ですよね。しかし、ドラマで描かれていたように、そんな留学生たちのために嘉納治五郎は多額の借金をして援助したといいます。このときの借金を、嘉納は生涯返せなかったとか。教育者の鏡といえるエピソードですが、この時代の政治家や学者たちは、国事のために私財を投げ売ったという話は珍しくありません。明治の指導者たちは、自分たちが日本を作っているという意識が強かったのでしょう。現代の政治家さんたちにも、その爪の垢を煎じて飲んでほしいものです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-02-11 16:34 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第5話「雨ニモマケズ」 ~国内予選競技会~

e0158128_19143177.jpg 明治42年(1909年)にアジア人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員 となった嘉納治五郎は、明治44年(1911年)に自らが会長を務める大日本体育協会を立ち上げ、翌年に行われる予定の第5回ストックホルムオリンピックに日本人選手を初参加させるために動き始めます。協会の主要メンバーは、東京帝国大学(現・東京大学)や早稲田大学、慶応大学、明治大学、そして自身が校長を務める東京高等師範学校(現在の筑波大学)など、大学関係者で占められていました。この当時、スポーツなどに親しんでいた日本人は、高学歴の高校生や大学生くらいのもので、当然、参加選手の選考も学生が中心となります。協会はオリンピック参加競技を陸上競技一本に絞り、明治44年(1911年)11月18日、羽田競技場において国内予選競技会を開催しました。


 競技種目は、100m、200m、400m、800m、1500m、5000m、10000m、そしてマラソンがありました。あと、走り高跳び走り幅跳びなどもあったようです。ほぼ、現在の陸上競技の種目と同じですね。最終的にストックホルム五輪には短距離走とマラソンだけ参加することになりますが、はじめからそう決めていたわけではなかったようですね。


 e0158128_19143806.jpg当時、東京高等師範学校2年生だった金栗四三は、マラソンに挑戦しました。出場選手は全部で12名。その全員が、10里(約40km)を走るのははじめてのことでした。当時のマラソンはまだ距離が定まっておらず、だいたい40km前後というアバウトなものだったそうです。現在の42.195kmに定められるのは、大正13年(1924年)の第8回パリオリンピック以降のことです。いずれにせよ、当時の日本に40kmを超える距離を走った経験のある選手など一人もおらず、未知の領域でした。出場選手全員が初心者で、しかもわずか12人の中からオリンピック代表が選ばれたんですね。


 ドラマで描かれていたとおり、競技はのなか行われました。マラソンのコースは、羽田競技場から東海道を通り、東神奈川で折り返して競技場まで帰ってくるというもの。当時の道はまだほとんどが舗装されておらず、ぬかるみでは足を取られて滑りまくります。加えてドラマで描かれていたように、履物は足袋わらじ。そんな悪条件が重なり棄権者も出るなか、金栗は競技場近くでトップに立ち、あとは独走状態で優勝します。記録は2時間32分45秒。なんと、当時の世界記録を27分も上回る驚異的なタイムを打ち出します。これには関係者が挙って狂喜したようで、「金栗選手、世界記録を破る」と書かれた号外を出した新聞もあったそうです。


 ただ、冷静になって考えてみると、このタイムはどう見ても眉唾ものですよね。いくら40km前後というアバウトな距離だったとはいえ、27分というと、当時のスピードでも8kmぐらいは走れます。それほどの誤差は許容範囲ではなかったでしょう。しかも、2位、3位の選手のタイムも世界記録を上回っていました。雨で足元のぬかるむなか、足袋やわらじを履いて、しかも金栗は途中で足袋が擦り切れて半分以上を裸足で走っています。その条件下で世界記録を27分も更新するなど、普通に考えてもあり得ないですよね。そんな疑問は当時もあったようで、「距離の計算が間違っていたのではないか?」といった疑いも浮上していたようです。これについて、当時、嘉納治五郎がこう語っています。


 「里程の測定は、当然測定機をもって実地に測定するのが本当であるけれども、それにしてはあまりに金と日時がかかるので、京浜電気会社の中沢工学士に相談して、参謀本部の2万分の1の地図においてコンパスをもって精密に測量した。わたしもまず実際に25マイルあるものと信ずるほかない。ところで、かくのごとく3人までもが世界記録を破った理由は不明だが、日本人は戦争などでは驚くべき忍耐力を発揮するのは隠れもない事実で、それゆえに今日の成績はそれに類するものと見ればよかろう。」


 やっぱ、あやしいですね。おそらく、30kmぐらいしかなかったんじゃないでしょうか? それでも、この悪条件からすれば、遅くはありません。


e0158128_16513466.jpg 金栗とともに注目されたのは、短距離走でほぼ一人勝ちした三島弥彦でした。彼はもともと出場する予定ではなく、審判委員として来場していたのですが、元来スポーツ好きだったことからじっとしていられなくなり、飛び入り参加したところ、100m、400m、800mで優勝。200mが2位という華々しい結果でした。その記録は以下のとおり。


100m走 12秒0

400m走 59秒6

800m走 2分19秒2


当日は雨で足元が悪かったため普段より悪い記録だったといいますが、現代でいえば、中学生の陸上部レベルです。これなら頷けますね。トラックの計測は正確だったようです。


 かくして、日本初のオリンピック選手候補が決定しましたが、ことはそうスンナリとは運ばなかったようですね。続きは次週にて。


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by sakanoueno-kumo | 2019-02-04 16:54 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第4話「小便小僧」 ~長距離走の練習法~

e0158128_19143177.jpg 金栗四三が入学した東京高等師範学校(現在の筑波大学)は、スポーツの奨励に熱心な嘉納治五郎校長の方針により、春と秋の年2回、校内長距離走のイベントが催されていました。春には三里(約12km)、秋には六里(約24km)を全校生徒が走ります。ドラマでは描かれていませんでしたが、嘉納校長自身も、巻脚絆姿で学生と共に走ったと伝えられます。上位入賞者には校長からメダルが贈られたそうですが、入賞できなかった選手たちも、ゴール地点まで走りきれば、ビール食べ物が振る舞われ、教授も学生も入り混じって語り合える園遊会のような場が設けられていました。スポーツで汗を流し、そのあとは互いを労い合って親睦を深める。このわずか30数年前まで超髷を結ってを差した侍の時代だったことを思えば、嘉納校長の方針というのは、当時としては実に進歩的な考えだったといえるでしょう。まだ、「スポーツ」という言葉自体、一般にはほとんど浸透していない時代ですからね。


e0158128_19143806.jpg ドラマで、小便をしていてスタートに間に合わず、遅れてスタートしたため3位でゴールインした金栗でしたが、トイレを探して迷ったためにスタートが出遅れたというエピソードは実話のようです。もっとも、そのときは3位ではなく、25位でのゴールだったようです。といっても、全校生徒600人中の25位ですから、立派な成績ですけどね。3位入賞二度目の挑戦となった秋の大会のときでした。タイムは1時間46分20秒で、1位の選手と40秒差でのゴールでした。上位入賞者のほとんどが徒歩部(現在の陸上部)の上級生だったなかで、専門的な練習を積んでいない1年生の金栗の3位入賞は学校始まって以来のことだったようで、全生徒を驚かせました。おそらく、嘉納校長も、このとき始めて金栗の存在を知ったのではないでしょうか。


 2年生になって金栗は徒歩部に入部しました。2年生の春の大会では、もはや校内に金栗の敵はおらず、ぶっちぎりの優勝だったようです。その後も金栗は連続優勝を続け、記録も毎回更新していったといいます。この当時、日本人初のオリンピック出場に向けて準備を進めていた嘉納治五郎としては、この金栗の走りを見て、「あるいはこの男なら世界に通用するかもしれない」・・・そう思ったかもしれません。


 金栗2年生秋の明治44年(1911年)11月18日、嘉納治五郎が会長を務める大日本体育協会主催のオリンピック国内予選競技会が開催されることが発表され、金栗もこれに出場することが決まりました。距離は十里(約40km)。現在の42.195kmに定まるのは、もう少し後の時代のことで、当時のマラソンの距離は正確に定まっておらず、だいたい40km前後というアバウトなものだったそうです。オリンピックでは第1回大会からマラソン競技が行われていましたが、当時の日本に40kmを超える距離を走った経験のある選手など一人もおらず、未知の領域でした。


 40kmを走り抜くための力をつけるには、どのような練習をすればいいか。悩んだ金栗は、東京高師の卒業生ランナーの菅野新七という人物を訪問して練習法をたずねます。そこで聞いたアドバイスというのが、こうでした。


 「走るときに汗が出る。汗が出ると疲れるから、なるべく汗を出さないようにしろ。そのためには、なるべく水分を摂らず、服を着込んで練習し、汗抜き法をやれ。体内の水分を全部出してしまうと体が軽くなり、走りが楽になる」


 ドラマでは「油抜き」と言っていた手法です。「汗抜き法」とも言っていたようです。ひどいアドバイスですね。ところが、金栗はこのアドバイスを真剣に信じ、しばらくは水分を断って練習を続けました。しかし、効果はいっこうに出ないばかりか、体調を崩してしまってやめたようです。当時の日本のスポーツにおける知識のレベルというのは、その程度のものだったということですね。


 もっとも、練習中に水を飲むなという教えは、その後もずっとスポーツ指導のなかでは伝統的に引き継がれ、昭和の終わり頃まで続いていました。現在52歳のわたしは、高校時代陸上部だったのですが、わたしが高校生だった昭和50年代後半でも、「水を飲むと早くバテる」といわれて練習中の水分補給は厳禁でした。もっとも、先輩やコーチの目を盗んで、顔を洗うふりをして水道水をがぶ飲みしてましたけどね(笑)。ただ、これはわたしのような三流選手だけでなく、当時のトップアスリートでも同じだったようで、あの元マラソン選手の瀬古利彦さんも、早稲田大学の陸上部時代、夏場の練習中でも水を飲ませてもらえず、隠れて小川の水を飲んだというエピソードを後年語っておられました。箱根駅伝で優勝を狙おうというような名門校ですら、昭和の終わり頃までそんな間違った指導法だったようです。スポーツの大前提が根性論だった時代の話ですね。まあ、確かに根性は鍛えられたかもしれませんが。


 さて、次回はいよいよ第1話のエンディングで描かれていたオリンピック国内予選競技会が描かれるようです。


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by sakanoueno-kumo | 2019-01-28 16:21 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第3話「冒険世界」 ~東京高等師範学校入学~

e0158128_19143806.jpg 明治43年(1910年)4月、金栗四三東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学しました。同校はその名のとおり教師を育成する学校で、金栗の専攻は地理歴史でした。同校は創立以来、代々軍人が校長を務めてきていたそうで、そのため、学生を兵隊と同じように扱い、徹底した規律で縛るといった校風だったようです。鬼教官による軍隊さながらの体罰教育が当たり前のように行われ、寄宿舎では先輩たちによる私的な鉄拳制裁が日常茶飯事だったといいます。これについては、この時代のみならず、昭和の時代まで続いていましたし、平成の現代においても、スポーツの強豪校などでの体罰教育が問題になったりしていますが、その原点は、この時代に多くの軍人あがりが教育者となったことにあるようです。


 そんな同校の校風も、嘉納治五郎が校長に就任してからは、軍隊色を排除する改革が少しずつ行われ、金栗が入学したこの頃にはずいぶんとマシにはなっていたようです。海外渡航の経験が豊富な嘉納は、欧米の自由で個性を大切にする教育現場をよく知っており、個性を敵視するような規律一辺倒の軍隊式指導方針や、鉄拳制裁によって統制をとるやり方に疑問を持っていました。学校側からすれば、力で抑圧すれば学生を管理しやすい。しかし、それは恐怖で従順になっているだけで、それでは強く健全な精神を育めるとは思えない。嘉納はそう考えたようです。


e0158128_19143177.jpg 暴力を使わずとも生徒の心身を鍛える方法はある。嘉納は鉄拳制裁を禁じ、その代わりにスポーツを奨励しました。嘉納は授業の教科に体育を加え、柔道のコースを設けました。また、柔道部、剣道部をはじめ、撃剣部、弓技部、器械体操部、相撲部、ローンテニス部、フートボール部、ベースボール部、自転車部、ボート部、徒歩部、游泳部、卓球部、ラ式フートボール部などを設け、全生徒にいずれかの部活動に所属することを求め、放課後は体力の増強に務めるよう促しました。現在でも日本では小学校から大学まで体育の授業が行われていますが、これは、世界的に見ると珍しいそうですね。また、中学校以上で行われている部活動も日本特有のもので、このシステムを作ったのも嘉納であり、それを普及させたのは、嘉納が育てた東京高等師範学校の卒業生たちでした。現在、わたしたちが当たり前だと思っている学校の体育教育の淵源は、ここから始まったものだったんですね。


 話は変わって、ドラマ中、海軍兵学校の受験に失敗して軍人の夢が絶たれた金栗が教師を目指すという目標を掲げたとき、「乃木大将にはなれずとも、治五郎先生を目指そうとは見上げたやつだ!」と兄が讃えていましたが、この時代、軍人政治家の世界は相変わらず薩長閥の勢力で形成されていましたから、もし金栗が兵学校に合格していたとしても、軍人として出世するのは難しかったでしょう。当時、いわゆる幕末の官軍に属さなかった地方出身の秀才たちの多くが、比較的藩閥の影響が少なかった教育者の道を選びました。東京帝国大学(現在の東大)の歴代総長のほとんどは、旧賊軍や旗本出身の人ですからね。その意味では、金栗は兵学校に落ちて良かったといえたかもしれません。


 e0158128_17120770.jpgまた、金栗と一緒に上京した友人の美川秀信は、ドラマでは文学を志す若者という設定のようで、2人が郷里をあとにするとき、見送りにきた金栗の兄が、「将来の嘉納治五郎と夏目漱石だ!」と言って励ましていましたが、当時、文学の道を選んだ若者も、幕末に賊軍となった地方出身の秀才たちが多かったようです。夏目漱石も旧幕府旗本の家の生まれですし、漱石の友人だった正岡子規も、小説『坂の上の雲』で描かれているとおり、親藩の伊予松山藩の武家の生まれでした。また漱石のライバルだった森鴎外も、幕末に中立を保っていた津和野藩の藩医の家の出身でした。藩閥のコネに肖れない秀才たちの立身出世の道は険しかったようですが、そのおかげで、漱石や鴎外といった明治の文豪が生まれたともいえるかもしれません。


 この美川秀信という人物のことはよく知らないのですが、金栗と同郷の友人だったというのは実話のようですね。ただ、文学を志していたかどうかは定かではありません。調べてみると、金栗と共に上京したその年の夏休み、2人で揃って故郷に帰省し、その途中、2人は富士山の登山を試みましたが、準備が不十分だったため、7合目で断念したというエピソードが残されているそうです。ドラマでは、2人の帰省は描かれていましたが、富士山の登山のエピソードは描かれなかったですね。ドラマの美川はチャラ男キャラのようですから、富士山を登ろうといった気概ある青年だとキャラ崩壊になるからでしょうか。


 さて、次回はいよいよ金栗が長距離走に目覚めるようです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-01-21 17:19 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(4)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第2話「坊っちゃん」 ~金栗四三の生い立ち~

e0158128_19143806.jpg ドラマ前半の主人公である金栗四三は、は明治24年(1891年)8月20日、熊本県の春富村に生まれました。男4人、女4人の8人兄弟の7番目でした。「四三」という名は、父・金栗信彦43歳のときの子だったからと伝えられます。安直な命名ですが、この当時の名前なんて、一部のインテリ階級を除けば皆、似たような名付け方だったのでしょう。子供の名前に思いを託すなんて思想はなかったんですね。もちろん、キラキラネームもありません。四三の場合、読みも「シソウ」「シゾウ」のどちらか定かではなく、パスポートはSHIZOと記載されていたそうですが、本人のサインはShisoだったそうです。これも、その時代でもよくあることだったようですね。(実際、わたしの死んだ父も、名前の読み方が祖父と祖母で違っており、母も、どっちが正しいか知らないといっていました)。


 生家はもともと代々造り酒屋を営んでいましたが、父・信彦が病弱だったため、四三が生まれる数年前に廃業したいました。その遺伝からか、四三も幼い頃からひ弱で、よく病気をしたといいます。のちに日本初のオリンピック選手になるような片鱗は、どこにも見当たりませんでした。


 そんな四三にアスリートとしての要素が現れはじめたのは、高等小学校に進学してからのことだったといいます。当時、尋常小学校と呼ばれた義務教育は4年間で、その後、成績が優秀な子は4年間の高等小学校に進学しました。いまで言う小学5年生から中学2年生の時期ですね。四三の家は比較的裕福で、四三自身も成績優秀だったことから、高等小学校に進学したのですが、彼の村に高等小学校はなく、片道6km離れた大原村相谷にある玉名北高等小学校まで通わなければなりませんでした。この通学路を、四三は4年間、走って通ったといいます。この往復12kmの通学が、四三を日本代表のマラソン選手導いた下地だったといわれています。


 もっとも、このようなエピソードはよく耳にする話で、かの増田明美さんも、小学校の6年間に約3km近い通学路を毎日歩いていたことが、のちの増田選手を作ったといった話を聞いたことがあります。でも、四三の時代、同じような環境で通学していた子供はたくさんいたでしょうし、増田さんの時代でも、田舎に行けば珍しい話ではなかったでしょう。じゃあ、それらが皆、長距離選手としての要素を身に着けたかといえば、もちろんそんなことはありません。四三も増田明美さんも、おそらく元からアスリートとしての高いポテンシャルが備わっていたのでしょうね。


 明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発。その翌年に父の信彦が死にました。しかし、長兄の実次が学費を引き受けてくれて、四三は玉名中学校に進学しました。この当時の中学校は、いまの高校です。成績優秀だった四三は2年生に特待生となります。当時の中学校は5年制でしたが、成績次第では4年生から上級学校に進学できました。そこで、四三は海軍兵学校を受験します。日露戦争に勝利した直後のこの当時、軍人はエリートの憧れの職業だったということもありましたが、兄に学費を頼っていた四三は、国費で通える学校を選びたかったのでしょう。となると、それは軍人になるか教師になるかしかありませんでした。そこで四三は軍人になる道を選びますが、海兵といえば難関中の難関で、4年生で合格するのは至難のわざでした。玉名中学校では特待生だった四三でも、結果はあえなく不合格。結局、軍事になることは諦め、教師になるべく翌年に東京高等師範学校を受験して合格します。そこの校長を務めていたのが、四三の人生を変えることとなる嘉納治五郎だったんですね。もし、前年に海兵に合格していれば、四三が日本初のオリンピック選手になることはなかったでしょう。人の運命って、何が災いして何が幸いするかなんて、誰にもわからないものですね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-01-15 22:39 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)