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いだてん~東京オリムピック噺~ 第38話「長いお別れ」 ~東京オリンピック中止と第二次世界大戦~

e0158128_19143177.jpg 嘉納治五郎が命をかけて死守した昭和15年(1940年)の東京オリンピック開催でしたが、その嘉納が急逝すると、たちまちオリンピック開催反対論が息を吹き返します。日中戦争が激化するなか、昭和13年(1938年)4月に公布された国家総動員法によって、すべての物資が軍の統制下に置かれ、競技場並びに関連施設の建設がさらに難しい状況になります。また、諸外国からの日本に対する風当たりもますます強くなり、アメリカをはじめヨーロッパ各国から東京オリンピックボイコットの声が高まり始めました。こうなると、これまで東京開催を支持していたIOC会長ラトゥールも、ついに反対論に押され、日本に開催辞退を求めるようになります。これを受けて日本は、7月15日、正式に東京オリンピック中止を閣議決定し、翌日、組織委員会によって発表されました。嘉納の死からわずか2ヶ月後のことでした。


 「オリンピックの開催は、政治的な状況などの影響を受けるべきではない」


 嘉納が最後のIOC総会で訴えたオリンピック理念ですが、その理想は間違っていないにしても、それを実行するのは実質的には不可能で、それは、21世紀の現代でも変わっていません。国家規模で行われるイベントである以上、国はそれをガッツリ政治利用しようとします。百歩譲って平和親善のための政治利用はやむを得ないとしても、その逆は(たとえばボイコットとか)、やはりやるせないですね。何よりいちばん気の毒なのは、4年に一度の舞台にかけるアスリートたちです。


 その後、辞退した東京に代わってフィンランドヘルシンキ代替開催地となりますが、その翌年の昭和14年(1939年)9月3日、ドイツがポーランドに侵攻したことにより、イギリス、フランス両国が宣戦を布告。ここに第二次世界大戦が始まります。その煽りを受けて代替開催地のフィンランドにもソ連軍が侵攻する事態となり、結局、IOCは第12回オリンピック開催を断念します。欧米諸国もアジアも、世界中がスポーツどころじゃなくなっていました。


 そして国際的に孤立する日本は、東京オリンピックが開催されるはずだった昭和15年(1940年)、ドイツとの関係を強化するため、イタリアも加えた日独伊三国同盟を結びます。これにより、アメリカ、イギリスとの対立は決定的となり、翌年の対米戦開戦につながっていくんですね。それにしても、東京オリンピック招致のために立候補取り下げを談判したムッソリーニと、東京オリンピック招致を後押しした(とされる)ヒトラーとここに来て手を結ぶに至るとは、やはり、オリンピック招致運動は政治だということですね。


 ドラマでは第二次世界大戦はほとんど描かれないようで、一気に年月が過ぎていきました。まあ、物語の主題はオリンピックですから、それでいいんじゃないでしょうか。そして描かれたのは、昭和18年(1943年)10月の学徒出陣。戦局はいよいよ悪化し、その兵力不足を補うために在学中の高校生や大学生も徴兵されることになったわけですが、そのなかには、平時であればオリンピック代表選手になっていたであろう有名アスリートたちが多く含まれ、戦地へ送られました。そして、その出陣学徒壮行会が行われたのが、皮肉にも東京オリンピックが開催されるはずだった明治神宮外苑競技場だったんですね。ドラマの金栗四三の愛弟子・小松勝は架空の人物のようですが(たぶん、誰かモデルとなる人がいるのでしょうね)、彼のように、東京オリンピックに出るはずだった若者が、軍服を着てここを行進し、そして帰らぬ人となったケースがたくさんあったのでしょう。嘉納治五郎が平和の祭典を開催するために全精力を注いで建てた競技場が、一転してアスリートを死地に送り込む舞台となってしまった。これ以上の皮肉があるでしょうか。嘉納の無念極まりない嘆きが聞こえてきそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-07 21:27 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第37話「最後の晩餐」 ~嘉納治五郎の死~

 昭和15年(1940年)の東京オリンピック招致に成功した日本でしたが、その開催準備に入ると、すぐさま様々な問題が浮き彫りになります。まず、最も大事なメインスタジアムの計画が、いきなり暗礁に乗り上げてしまいます。当初、メインスタジアムは神宮外苑陸上競技場12万人収容できるものに改修し、その周辺にある代々木練兵場の一部を利用して各競技場を建設する予定でしたが、陸軍がこれに難色を示し、この計画は頓挫してしまいます。その後、代替案をめぐって東京オリンピック組織委員会は迷走し、スケジュールは大幅に遅延することになります。


 また、昭和12年(1937年)7月7日に起きた盧溝橋事件に端を発し、日本と中国は交戦状態となっていました。現在ではこれを「日中戦争」と呼びますが、当時は「支那事変」と呼ばれていました。その理由は、両国ともに宣戦布告がないまま戦闘状態に突入したので、国際法上は「戦争」ではなく「事変」にあたるということだったようですが、現在では、事実上の戦争状態だったという見解から、「日中戦争」と呼ばれることがほとんどになっています。実際に宣戦布告が行われたのは、真珠湾攻撃の翌日の昭和16年(1941年)12月9日に蒋介石側から日本側に布告され、日中間が正式に戦争状態になったのは、そこからという見方もあります。まあ、呼び方はどうあれ、日中間は交戦状態にあったわけです。


そんななか、国内外から東京オリンピック返上論が叫ばれはじめます。日中戦争の長期化によって鉄材の統制が厳しくなり、スタジアムの建設に必要な鉄材が確保できず、また、働き盛りの人々が多く徴兵されているため作業員も集まらず、工事は遅れるばかり。各国のIOC委員もこれを不安視するようになり、「交戦国での開催は前例がない」と、準備の遅れを危ぶむ声が大きくなっていきます。また、ドラマにもあったように、政友会河野一郎議員が衆議院予算総会で東京オリンピック反対論を声高に演説し、さらに、陸軍大臣杉山元が議会において開催中止を進言するなど、東京オリンピック開催に否定的な空気が国内で広まっていきます。


e0158128_19143177.jpg そんな状況下の昭和13年(1938年)3月、エジプトのカイロでIOC総会が開かれます。その中心議題はもちろん、東京オリンピック開催をどうするか・・・でした。開催地を他国に変更するとしても、ギリギリのリミットでした。しかし、日本を代表して会議に出席した嘉納治五郎は、あくまで東京開催を主張します。その論旨は、「オリンピックの開催は、政治的な状況などの影響を受けるべきではない」というものでした。この主張に対し、各国のIOC委員のなかで異を唱える者はなかったといいます。19日までの会議で東京オリンピック開催が再確認され、同時に札幌での冬季大会開催も決定し、20日、ラジオ演説で嘉納自身が改めてこのことを故国に伝えました。


 なぜ嘉納はそこまで東京開催に固執したのでしょう。ドラマ中、田畑政治が嘉納に対して「今の日本は、あなたが世界に見せたい日本ですか?」と諫言していましたが、嘉納ほどの人物なら、いまの日本では情勢的にも物理的にも不可能であることは理解できたはずです。「政治とスポーツは別」という理想をあくまで貫きたかったのか、あるいは、自身の晩年のすべてを費やした東京招致をここでご破算にしたくないという意地だったのか。今となってはその心中は想像するしかありませんが、ただ、このような状況下でIOC委員を説得できたのは、一にも二にも嘉納の人徳以外にはなかったでしょう。どう考えても、東京開催を支持する理由が他にないですからね。彼がIOC委員の最古参ということもあったでしょうが、よほど各国の委員から一目置かれる存在だったのでしょうね。


 かくして東京オリンピック開催中止を阻止した嘉納治五郎でしたが、彼はそれを見ることなく、その帰国途中の船上で急死してしまいます。IOC総会後、22日にカイロからアテネに入り、26日にクーベルタン男爵慰霊祭に参列したのち、ヨーロッパ各国、さらにアメリカに渡ってIOC委員たちを訪問し、礼を述べてまわったそうです。そして4月23日、カナダのバンクーバーから氷川丸に乗船して帰国の途につきますが、その船上で風邪をこじらせて急性肺炎を併発し、5月4日、帰らぬ人となりました。享年77。横浜帰着のわずか2日前のことでした。


 嘉納逝去の報は、日本のみならずアメリカでも大きく報じられ、各国から追悼文が寄せられました。幕末に生まれ、講道館柔道の創始者となり、明治、大正、昭和という激動の時代に世界を股にかけてスポーツの発展に力を尽くした嘉納。今やグローバルスタンダードとなった柔道を通して、「逆らわずして勝つ」という彼の精神は世界中に広まりました。あるいは、世界に輸出した最初のサムライスピリッツだったかもしれませんね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-30 19:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第35話「民族の祭典」 ~東京五輪招致の成功とベルリン五輪~

 二・二六事件から五ヵ月後の昭和11年(1936年)7月29日、ベルリンIOC総会が開催されました。前年の総会で日本がムッソリーニに交渉してローマを辞退させたことにより、IOCの反感を買って決定が先送りになった昭和15年(1940年)の第12回オリンピック大会の開催国を決定するための総会です。前年の政治的な運動の責任をとって杉村陽太郎がIOC委員を辞任したため、日本からの出席は嘉納治五郎副島道正の2人。嘉納はIOC委員としては最古参で、副島は初めての総会出席でした。


 候補地は東京ヘルシンキ一騎打ちでした。東京の最大の不利は、極東の遠い国ということ。これまでの11回のオリンピックは、全て欧米で開催されてきました。飛行機が発達していないこの当時、ヨーロッパから日本に来るには、船でアフリカ、インド洋を経て日本に向かうか、あるいは北米回りの航路か、はたまたシベリア鉄道でソ連を横断して日本に入るかのいずれかのコースしかありませんでした。いずれも20日間近い日数を要します。東京開催に難色を示すIOC委員の共通の理由は、渡航日数が長く旅費がかかりすぎるということでした。


e0158128_19143177.jpg しかし、これに嘉納は真っ向から反発します。


 「日本はその極東から、1912年以来二十余年、毎年多くの選手を派遣している。日本が遠いということは理由にならない。むしろ、東京で開催することによって、オリンピックはようやく欧米のものから世界的な文化になる。オリンピックは当然日本に来るべきだと思われるにもかかわらず、もし来ないのであれば、それは正当な理由が斥けられたということに他ならない。それならば、日本からヨーロッパへの参加また遠距離であるから、出場するには及ばないということになる。そのときは日本は更に大きな世界的な大会を開催してもいいと思っている」


 この嘉納の半分脅しともとれる強気の熱弁が功を奏したのか、投票の結果、36票対27票東京が勝利しました。アジアではじめてのオリンピック開催が決定。満州事変以降、日本は国際連盟を脱退するなど世界的に孤立して数年が経過していたこの時代に、せかいスポーツの国際大会を東京で行うことの支持を取り付けた。これは一にも二にも嘉納の功績といって大過はないでしょう。まさに、スポーツと政治は別ものという理想を体現してみせました。まったく、すごいじいさんですね。しかし、実際のアジアでのはじめてのオリンピック開催は、20年以上先になることは周知のところです。やはり、スポーツと政治は切り離せなかったんですね。それは、これから描かれていくのでしょう。


e0158128_00002262.jpg 同じ年、第11回オリンピックベルリン大会が開催されました。第一次世界大戦によって第6回オリンピックベルリン大会が中止されてから20年。ドイツ国民にとっては悲願のオリンピック開催だったでしょう。もっとも、この20年の間にドイツは様変わりしていました。昭和8年(1933年)にドイツの政権を掌握したアドルフ・ヒトラーは、昭和10年(1985年)に「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」(ニュルンベルク法)に制定し、アーリア民族至上主義のもとに国内のユダヤ人を迫害していました。この当時、第一次世界大戦の過酷な戦後措置に対して深い遺恨を抱いていたドイツ国民が、このヒトラーの思想に同調し、多くの支持を寄せるようになります。そんななか、ヒトラーは当初、オリンピックは「ユダヤ人の祭典」だとしてベルリン開催に難色を示していましたが、しかし、側近から「大きなプロパガンダ効果が期待できる」との説得を受けて、開催することに同意したといいます。ヒトラーはオリンピックを通じて国威を見せつけるべく、膨大な国家予算を投じて10万人以上を収容する巨大なメインスタジアムを建設するなど、大いに政治利用しました。やはり、スポーツと政治は切り離せなかったんですね。


 ちなみに、アテネからランナーが聖火をリレーして開催地に運ぶという、いわゆる聖火リレーが初めて行われたのが、このベルリン大会だったそうです。実はこれも、彼らゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者であるというヒトラーの思想から生まれたプロパガンダだったそうですが、当初の思惑はさておき、いまなお続いている聖火リレーを考案したのは、唯一、ヒトラーの後世に残した功績といえるかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-16 00:00 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第33話「仁義なき戦い」 ~ムッソリーニとの会見~

e0158128_20034565.jpg 昭和15年(1940年)の東京オリンピック招致運動に奔走する嘉納治五郎は、イタリアのムッソリーニ首相と交渉してローマに辞退してもらおうと思い立ち、新たにIOC委員に就任させた杉村陽太郎副島道正の2人をイタリアに向かわせます。杉村は嘉納の懐刀ともいうべき人物で、嘉納が校長を務めていた高等師範学校付属中学校の卒業生で、講道館柔道でも嘉納に師事し、六段の実力者でした。明治41年(1908年)に東京帝国大学を卒業し、外務省に入省。フランスのリヨン大学において博士号も取得し、以後、駐フランス大使館一等書記官、国際連盟事務局長次長を経て、日本が国際連盟を脱退するまで事務局長兼政治部長を務めました。身長185cm、体重100kgの巨漢で、フランス在外公館勤務時代は、柔道の指導にも尽力したそうです。まさに文武両道。嘉納の代わりが務まるとしたら、彼しかいなかったでしょう。


e0158128_20035150.jpg 一方の副島も、嘉納が学習院の教頭を務めていた頃の生徒で、当時の副島は成績があまり良くなかったようで、しばしば嘉納教頭から叱責されたそうですが、卒業後はケンブリッジ大学に学び、宮内省に入って東宮侍従式部官を務め、さらに貴族院議員を務めています。実業家としても京城日報社社長、日英水電・早川電力役員などを務めるなど活躍しています。杉村に負けずとも劣らない有能な人物でした。ちなみに彼は、幕末から明治にかけて活躍した元佐賀藩士・副島種臣の三男で、伯爵でした。


 昭和10年(1935年)2月18日、杉村と副島は陽気な独裁者・ムッソリーニと会談しますが、ドラマのとおり、副島がムッソリーニとの会見直前に体調を崩して倒れてしまい(インフルエンザと肺炎を併発)、会談は持ち越しとなります。この、病を押してまで交渉しようとした副島の情熱がムッソリーニの心に響き、イタリアは昭和15年(1940年)のローマ大会開催を辞退し、東京に譲ると約束します。まさにサムライスピリッツだったといえるでしょうか。もっとも、それは「たてまえ」で、ドラマで河野一郎が言っていたとおり、多分に政治的思惑がはたらいてのことだったでしょうね。情熱だけで国家事業が動くとは思えません。


 かくしてムッソリーニから立候補取り下げの約束を取り付け、2月26日、オスロでのIOC総会に嘉納の代理として杉村が出席しますが、その席で、杉村と副島がオリンピック招致に政治を持ち込んだことが問題となります。まあ、そりゃそうでしょうね。実際には、現代でもスポーツと政治は完全に切り離すことはできていないのですが、たてまえは、やはりオリンピックと政治は無縁でなければなりません。工作が真っ向勝負すぎましたね。もうちょっと上手くやれなかったのでしょうか。


 この問題に対してIOCは、警告を促す書簡を嘉納治五郎と副島道正宛に送りました。そして、開催地決定を1年先送りにすることが決定されます。これを受けた嘉納と東京市は、IOC会長のラトゥールを東京に招待します。実際に日本をこの目で見てもらって、いかに日本が開催国にふさわしいかを知ってもらおうという趣旨ですが、まあ、言ってみれば接待攻勢ですね。これも、いわば政治工作といえるのではないかと。やはり、オリンピックと政治は切っても切り離せません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-02 20:11 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第32話「独裁者」 ~前畑秀子の決意~

 昭和7年(1932年)秋、ロサンゼルスオリンピックから帰国した選手らをたたえる「大歓迎祭」日比谷野外音楽堂で行われました。4年前のアムステルダムオリンピックでは5個だったメダル獲得数が、ロサンゼルスでは金7、銀7、銅4の18個に大躍進。そのうちの12個水泳陣が獲得していたわけで、総監督を務めた田畑政治は、さぞ鼻が高かったことでしょう。


e0158128_15562366.jpg その祝賀会に駆けつけた東京市長の永田秀次郎が、女子200m平泳ぎで銀メダルを獲得した前畑秀子に対して、「なぜ君は金メダルを獲らなかったのか。わずか0.1秒差ではないか。たったひと掻きの差だよ。」という言葉を浴びぜ、非難を浴びていましたが、あれ、本当の話だそうですね。それだけ期待していたからとっさに口に出てしまった言葉だったのでしょうが、どうも、お偉方というのはこういうとき無神経な発言をする方が多いですよね。近年でも、平成26年(2014年)のソチオリンピック女子フィギュアスケート痛恨のミスをした浅田真央選手に対して、「見事にひっくり返った」「あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね」「負けるとわかっていた」などといった配慮にかける発言をして非難された元総理大臣がいましたよね。あれと同じようなものだったでしょう。どちらも、本人としては激励の意味での発言だったのでしょうが、やはり、デリカシーがなさすぎます。そんな無神経なおっさんが、令和2年(2020年)の東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長をやってるんですから、先が思いやられますね。また、失言をやらかしそうです。


 ちなみに、ネタバレになりますが、引退を考えていて前畑秀子選手は、この永田市長の言葉に奮起して現役続行を決意し、翌年には世界記録樹立、4年後には日本人女子選手初のオリンピック金メダリストとなります。平成の浅田真央選手は、森喜朗元総理の失言の翌日のフリーで完璧な演技を見せ、自己ベストを更新しました。やはり、一流のアスリートは、デリカシーのない言葉もバネにする強靭な精神力を持っているんですね。


e0158128_15561983.jpg その永田市長が言い出しっぺではじまった昭和15年(1940年)の東京オリンピック招致ですが、道はなかなか険しいものでした。昭和8年(1933年)に満州国の承認が国際連盟否決されると、日本は連盟を脱退。満州国と国境を接する華北地方では日本軍と中国軍の小競り合いが頻発し、日本は国際社会の批判を浴びて孤立感を深めていました。そんななかで東京にオリンピックを呼ぶというのは、極めて困難な道だったのですが、嘉納治五郎は諦めずに奔走します。これまでIOC委員は嘉納と岸清一の2人だけでしたが、昭和8年(1933年)6月のウィーン総会で杉浦陽太郎を3人目のIOC委員に推挙し、就任させます。杉浦は日本が脱退するまで国際連盟事務局次長を務めていた人物で、嘉納の懐刀のような存在でした。しかし、ドラマのとおり、同年9月に岸清一が急逝。嘉納は長年の同志を失ってしまいます。ドラマで左目だけが二重で大騒ぎするというどうでもいい話がコミカルに描かれていましたが、この写真を見てみると、たしかに左目だけ二重なんですね(笑)。こういうのも「史実」というんでしょうか(笑)? こんなところに着目してあんな話を作っちゃうなんて、さすがはクドカンです。


 岸清一が逝去した翌年の昭和9年(1934年)5月に行われたIOC総会で、嘉納は副島道正をIOC委員に推挙し、就任させました。こうして体制を整えた嘉納は、東京オリンピック招致の強敵はローマと絞り、11月の東京市実行委員会で奇抜な策を提案します。すなわち、ムッソリーニと交渉してローマに辞退してもらおうという策です。さすがは、「逆らわずして勝つ」の嘉納です。ムッソリーニ、ヒトラーきな臭い名前が出てきましたね。時代に暗雲が立ち込めはじめましたが、嘉納たちは、そんなことより東京オリンピック招致だったようです。その後の歴史を知っている私達にしてみれば、少し滑稽にも思えますが、彼らは超真剣だったのでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2019-08-26 16:01 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第27話「替り目」 ~皇紀2600年の東京オリンピック招致~

 関東大震災復興がなんとか形になってきた昭和5年(1930年)頃から、東京へのオリンピック招致の声があがり始めました。金栗四三三島弥彦が日本人選手として初めて参加したストックホルムオリンピックから20年近くが経ち、いよいよ日本も自国での開催を企画できるレベルにまで来ていたんですね。そもそもの発案者は、関東大震災時に東京市長を務めていた永田秀次郎でした。永田は昭和5年(1930年)に再び東京市長に選ばれると、関東大震災からの復興を象徴するイベントとして、東京オリンピックの招致を唱えます。昭和39年(1964年)の東京オリンピックは戦災からの復興、令和2年(2020年)に開催予定の東京オリンピックは東日本大震災からの復興といった具合に、国内外に復興をアピールするには、オリンピックはもってこいのイベントなんでしょうね。


e0158128_17104791.jpg また、このときの東京オリンピック招致は、もうひとつ、開催予定の昭和15年(1940年)が皇紀2600年にあたることから、その祝賀イベントにしようという意図もありました。「皇紀」(戦前は「紀元」とも言われていた)というのは、戦後生まれの私たちには耳なじみがあまりありませんが、戦前に使われていた紀年法で、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とします。その元年は、西暦(キリスト紀年)でいえば、紀元前660年とされています。戦前の日本では、キリスト紀年の西暦はあまり使用されず、元号もしくは皇紀で年をよむのが一般的だったそうです。もっとも、この皇紀の歴史はそれほど古いものではなく、明治5年(1872年)に明治政府が太陰暦から太陽暦への改暦を布告した際に制定したもので、それ以前の江戸時代にはなかったものです。まあ、日本が皇国であるということを国民に植え付けたいという意図から作られたものだったのでしょうが、それでも、明治、大正期はあまり国民に浸透していなかったようで、多用されるようになるのは、昭和期に入ってからだそうです。第二次世界大戦前国定歴史教科書では、元号も西暦も用いられず、一貫してこの皇紀が用いられていたとか。こうして皇国日本のナショナリズムが作られていったんですね。


 もっとも、神武天皇の即位は『日本書紀』に基づくもので、これが信憑性に乏しいことは、当時でも少し学のある人なら周知のことだったでしょう。国民がこの皇紀をどれほど尊重していたかは疑問です。それでも、この皇紀2600年記念事業というのは、かなり盛大なイベントだったようで、紀元節(2月11日、現在の建国記念日)には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会体育大会など様々な記念行事が全国各地で催されました。わたしは、城跡や寺社などの史跡めぐりを趣味にしていますが、史跡に建てられている戦前の石碑などの裏を見ると、「皇紀二千六百年記念」と刻まれているのをよく見かけます。国全体が祝賀ムードだったようですね。


e0158128_19143177.jpg 話が脱線しちゃいましたが、東京オリンピック招致を思い立った永田は、IOC委員である嘉納治五郎にその意図を伝え、協力を求めました。しかし、当初、嘉納は慎重だったようです。その理由は、参加国の大半が欧米諸国であるなか、極東の東京は地理的に遠すぎて移動費がかかりすぎること、選手や役員を宿泊させる十分なホテルがないこと、語学の面で欧米語を使える人材がスポーツ界に乏しく、十分な接待ができないことなどから、時期尚早ではないか、ということでした。これまでオリンピック参加には積極的だった嘉納でしたが、自国での開催となると、IOC委員であるだけにその難しさを熟知しており、そう簡単には決断できなかったのでしょう。しかし、永田をはじめ東京市関係者の熱心な説得を受け止め、嘉納は70歳代になってから、東京オリンピック招致で世界を駆け回ることになります。


 ドラマでは、金栗四三のお兄さんが亡くなりました。幼い頃に父を亡くし、父親代わりだった兄の死は、金栗にとって大きな悲しみだったことでしょう。日本初のオリンピック選手としてマラソンに熱中できたのも、兄の支えがあってこそだったでしょうから。これを機に、金栗はしばらく故郷の熊本に帰ることになります。ここから、物語は田畑政治を中心に展開していくんでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-07-15 17:18 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第24話「種まく人」 ~関東大震災~

 今回も前話に引き続いて関東大震災の話でしたね。大正12年(1923年)9月1日に発生した大地震は、死者・行方不明者10万8000人に達するという未曽有の被害をもたらしました。被災者340万人、その被害の大半が火災による二次災害で、死者・行方不明者の9割が焼死全焼した家屋が38万世帯といいますから、その被害の甚大さは筆舌に尽くしがたいものでした。それだけ多くの家が焼けたということは、それだけ住む家を失った人がいたということに他なりません。そこで政府は、応急措置とし学校、官公庁、寺社などの公共施設へ被災者を収容し、また、明治神宮外苑屋外天幕を張り、約1万人を収容しました。


 続いて、現代でいうところの仮設住宅にあたる「バラック」の建設が計画され、9月4日以降、東京府、市、警視庁の分担によって建設が開始されます。明治神宮外苑、日比谷公園、靖国神社境内、上野公園、芝離宮、芝公園の6ヵ所に大規模なバラックが建設され、また、小学校の焼け跡や公園、空き地、広場など90ヵ所に小規模なバラックが建てられ、10月上旬から収容が開始されました。わたしも、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災を経験したひとりですが、私の住まいは一部損壊ですんだため避難所生活を送る必要はありませんでしたが、町中の学校や公園、スポーツ施設など至るところに仮設住宅が建てられ、そこで生活している方々の姿を毎日目にしていました。平成の仮設住宅ですら、その過酷な生活環境には目を覆うものがありましたが、この時代のバラック生活の劣悪さは、おそらくその比ではなかったでしょう。


e0158128_19143177.jpg この惨事のなか、大日本体育協会の名誉会長となっていた嘉納治五郎は、9月30日に帝国ホテルで理事会、常務委員会を開き、翌年に行われる予定の第8回パリオリンピックに日本人選手を派遣することを決議します。その一環として、この秋に第一次予選会を行い、翌年の4月中旬には第二次予選会を東京で開催することを決定します。そして、そのために、競技場建設を急ぐよう求めるということも。翌10月1日に発表した大日本体育協会の宣言文には、こうあります。


 「翌年七月にパリで開かれる国際オリンピック大会に選手を送る計画のあったことは一般の知るところであり、この震災のために全ての計画を放棄するのは極めて遺憾であるとし、この際海外に日本国民の元気と復興の意気を示すためにも、派遣したほうがよい」


 こんなときだからこそ、国民の士気を鼓舞するためにもオリンピックに出るべきだ、と。東日本大震災のときも、プロ野球の開幕前だったことで、自粛すべきか否かで議論がありましたよね。100年前も今も、直面する問題は同じようです。


e0158128_22162429.jpg そんな震災のドサクサのなか、人見絹枝が上京してきましたね。実際には、この翌年の4月に上京し、二階堂トクヨが塾長を務める二階堂体操塾に入学します。ドラマでもいっていましたが、彼女はこの年の岡山県女子体育大会において、走幅跳4m67という当時の日本最高記録(非公認)で優勝しています。そんな彼女のスポーツの素質に注目した岡山高等女学校の教師が、彼女に東京の二階堂体操塾に進学するよう勧めたそうですが、ドラマでは、シマちゃんこと増野シマが彼女の素質を見抜いたという設定でしたね。シマちゃんはドラマのオリジナルで、実在の人物ではありません。そんな架空の人物であるシマちゃんに、物語は人見絹枝をスポーツの世界へ導くという重要な役割を与えていたんですね。シマちゃんのような名もなき女性がいたからこそ、人見絹枝のような稀代のアスリートが生まれた、と。まさにタイトルどおり「種まく人」でした。あるいは、本当にシマちゃんのような「種まく人」がいたかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2019-06-24 22:17 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第16話「ベルリンの壁」 ~第一次世界大戦~

 大正3年(1914年)6月28日、バルカン半島のサラエヴォで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が自動車に乗っているところをピストルで撃たれ、夫婦揃って暗殺されました。犯人はオーストリアのバルカン半島支配に反発する青年でした。この事件でセルビアドイツの関係が悪化し、とうとうドイツがセルビアに宣戦布告。それがきっかけとなって第一次世界大戦が勃発します。


 この時代の世界情勢は、19世紀から続く植民地争奪競争の真っただ中でした。明治43年(1910年)にはイギリスがアフリカ大陸の南の端のボーア人の国に攻め込み、これを征服して植民地とし、南アフリカ連邦を作りました。そして、その奥地のキンバリーという鉱山を押さえ、そこから出るダイヤモンドを独占します。これを見たドイツやフランスも、指を加えて見ているわけにはいかず、負けじとアフリカ大陸に植民地を作りました。アジアでも、ロシア旅順、大連を租借して鉄道を敷くと、ドイツは青島を租借して、そこから済南まで鉄道を造る。フランスはベトナムを領土にしていましたから、そこから更に手を伸ばして南の広州湾を租借する。そして日本も、韓国併合に続いて満州に手を伸ばすなど、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、世界の植民地争奪競争は激化していました。


 そんななか、ドイツはオーストリアと手を結び、イギリスはフランス、アメリカと協力し、両陣営の対立が深まっていきます。そして、上述したサラエヴォ事件をきかっけに第一次世界大戦に発展し、これが、4年も続くことになります。


日本は、当時、日露戦争前に結んだ日英同盟があったので、イギリスに加担していました。日本にとっては、遠いヨーロッパでの戦争ということで、特にドイツと敵対する理由もなかったのですが、イギリスからの要請もあり、戦争に加わります。当時の日本は大隈重信内閣でしたが、イギリスに恩を売るために、ちょっとだけ軍事行動っぽいことをやって、勝ち馬に乗っかったという感じの参戦でした。ただ、戦争期間中、ヨーロッパ諸国は大戦に手一杯でアジアに手が回らず、その間、アジアに対する輸出を日本が独り占めにし、たいそうボロ儲けをしたようです。当時、日本は日露戦争で使った莫大な戦費により借金まみれで、財政は困窮を極めていましたが、第一次世界大戦の間の好景気で、一気に財政を立て直します。まさしく、漁夫の利ってやつですね。時代は下りますが、昭和の敗戦後の日本も、焼け野原となった日本を救ったのは、朝鮮戦争の特需でした。言葉は悪いですが、対岸の火事は儲かるんです。戦争で困窮した財政を戦争が立て直す。皮肉な現実です。


 第一次世界大戦の勃発によって、大正5年(1916年)に開催される予定だった第6回ベルリンオリンピック中止となります。開催国ドイツは大戦の中心国ですから、やむを得ない決定だったでしょうね。しかし、金栗四三らにとっては、そんなことは知ったこっちゃなかったでしょう。これによって、金栗は年齢的に最もピークの時期を棒に振ることになります。気の毒としか言いようがありません。


e0158128_00063073.jpg これと似た話が昭和の時代にもありましたよね。戦前の東京オリンピックの中止もそうですが、わたしたち戦後生まれでもよく知っているのは、昭和55年(1980年)のソ連アフガニスタン侵攻による西欧諸国モスクワオリンピックボイコットです。「いだてん紀行」では、レスリングの髙田裕司選手や柔道の山下泰裕選手がクローズアップされていましたが、当時、中学生だったわたしがもっとも悔しかったのは、金栗と同じく金メダル間違いなしと期待された男子マラソンの瀬古利彦選手でした。当時の瀬古選手は向かうところ敵なしの絶頂期で、国民も、そして瀬古選手自身も、日本人初のマラソン金メダルを確信していました。事実、それを実証するかのように、モスクワオリンピック後の12月に行われた福岡国際マラソンで、瀬古選手はモスクワオリンピック金メダリストの東ドイツのチェルピンスキー選手を破って優勝します。その後、なんとか瀬古選手に金メダルを獲らせたいという国民の願いは叶わず、4年後のロサンゼルスオリンピック、さらにその4年後のソウルオリンピックでは、残念ながらメダルに届きませんでした。もし、モスクワに瀬古選手が出ていたら・・・。いまでも思わずにいられません。


 モスクワオリンピックの4年後に開催されたロサンゼルスオリンピックは、モスクワのボイコットの報復とばかりに、今度は東側諸国がボイコットしました。


「政治とスポーツは別だ。オリンピックは平和の祭典。4年に一度の相互理解の場なんだよ。たとえ戦時中でも、殺し合いの最中でも、スタジアムは聖域だ!汚されてたまるか!」


 ドラマ中の嘉納治五郎の台詞ですが、残念ながら、この嘉納の理想は、このときも、そして70年後の未来でも、そして現代でも、未だクリアできていません。人間とは愚かな生き物ですね。



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by sakanoueno-kumo | 2019-04-30 00:07 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第15話「ああ結婚」 ~金栗四三の結婚~

 「しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。人笑わば笑え。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重圧を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」


e0158128_19143806.jpg ストックホルムで途中棄権した翌日の日記にこう記した金栗四三は、その誓いどおり、帰国するとすぐに4年後のオリンピックに向けてトレーニングを開始しました。日本人初のオリンピック選手として経験したことを未来に繋げねばならない。彼は自身の失敗を教訓に、まずは暑さを克服すること、そして欧州の硬い石畳や舗装された道路への対策など、様々な工夫を凝らして練習に励みます。そして大正3年(1914年)に東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業した彼は、当初、名古屋の愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高校)の教師に赴任することが内定していましたが、悩んだすえ、この話を断ったそうです。理由は、次のオリンピックに向けての練習に専念したいという思いからでした。彼の並々ならぬ覚悟のほどが窺えますね。そんな金栗の思いに対して、嘉納治五郎校長は東京高師の研究科に籍をおいて練習に励めるよう配慮します。金栗を日本初のオリンピック選手にしたのは嘉納ですから、最後まで支援しようという思いだったのでしょう。ドラマで、「プロフェッショナル」という言葉が出てきましたが、まさしく、日本初のプロスポーツ選手の誕生だったといえるかもしれません。


 同じ年の4月10日、金栗は地元、熊本県の池部家の養子となる話がまとまり、石貫村の医者の娘である春野スヤ結婚します。金栗は数え歳で24歳、スヤは23歳でした。ドラマではスヤは再婚という設定ですが、実際にもそうだったのかどうかは知りません。まあ、当時の女子の23歳といえば、行き遅れの年齢と言えるでしょうから、再婚は本当の話だったかもしれませんね。オリンピック選手との結婚と聞けば、現代の感覚でいえば華やかな縁談に思えますが、当時の感覚でいえば、変わり者と結婚するようなものだったかもしれません。スポーツ選手なんて職業は存在しなかった時代ですからね。当時の結婚適齢期の16、7歳の初婚の娘さんには、とても相手にはされなかったかもしれませんね。実際のところ、年増のバツイチが関の山だったんじゃないでしょうか。


 ちなみに、ドラマでは金栗とスヤは幼馴染の設定ですが、これも、本当の話かどうかはわかりません。たぶん、ドラマオリジナルの設定なんじゃないでしょうか。ちなみにちなみに、池部家の養子となった金栗でしたが、かれはその後も旧姓の「金栗」を名乗り続けます。日本初のオリンピック代表選手として彼の名はすでに全国に知れ渡っていましたからね。そのへんを考慮してのことだったのかもしれません。


 さて、晴れて妻帯者となった金栗でしたが、祝言から5日目には新妻を残して東京に旅立って行きました。次のオリンピックを目指して練習に励むためでしたが、それを可能にしてくれたのが、池部家の養母による支援でした。こののち、養母の幾江は東京の金栗に仕送りし続けます。当時、都会で働く息子は実家に仕送りをするのが当たり前でしたから、全く逆だったんですね。金栗は幾江とスヤに宛てて筆マメに便りを送っていますが、それは、仕事もせずに走ってばかりいることで、妻と養母に対しての引け目だったのかもしれません。


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 ちなみに余談ですが、オープニングのタイトルバックに現れたスヤさんの回転レシーブにはビックリしましたね。あと、スヤさんの冷水浴。あのシーンの瞬間視聴率は高かったんじゃないでしょうか(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2019-04-22 00:53 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第8話「敵は幾万」 ~ストックホルムへ~

 かくして日本初のオリンピック選手に選ばれた金栗四三三島弥彦でしたが、問題はその旅費でした。当時、嘉納治五郎が会長を務める大日本体育協会は発足したばかりで、財政の余裕があるはずがありません。そこで嘉納は、国費による援助を文部省に求めますが、まだオリンピックという祭典の認知度が低かったこの時代、遊びのようなものに国費を使うなどあるまじきこととして門前払いでした。当時、日露戦争で使った莫大な戦費により日本は借金まみれで、緊縮財政により財布のひもが固かったんですね。日露戦争は、勝利とは多分に表面上のことで、ポーツマス条約において日本はロシアから賠償金はまったくとれず、財政はたちまち困窮を極めており、国内各地で政府に対する不満が爆発して暴動が起きていました。


e0158128_19143806.jpg そんな情勢のなか、日本初のオリンピック選手の渡航費、滞在費は、すべて自腹ということになります。その費用を試算してみると、およそ1800円から2000円ほどかかるといいます。当時、教師の初任給が18円から20円ほどだったといいますから、ほぼ10年分の収入に相当する金額です。今の価値でいえば、4000万円近い金額でしょうか。子爵の家柄の三島弥彦はともかく、かつては地元の名家だったとはいえ、いまは熊本の田舎で農業を営む金栗家にとっては、容易に出せる額ではありません。金栗は、一時は参加を辞退しようかとも考えていたといいますが、そんな彼の背中を押したのが、兄の応援だったといいます。ドラマで描かれていたとおり、兄は、「たとえ田畑を売ってでも渡航費を捻出するから、思いっきり走ってこい」と、弟の四三を励ましたそうです。昔の長兄って、弟妹のためなら身を削ってでも尽力を惜しまない人が多かったと聞きます。現代の希薄な兄弟関係とはぜんぜん違いますね。兄は弟妹を慈しみ、弟妹は兄を敬う。いつからなくなったんでしょうね、そういう兄弟の絆


 また、これもドラマで描かれていたとおり、学友や後援会など多くの人々からの寄付金も集まり、その金額は1500円ほどに達したといいます。「国威発揚」がスローガンだったこの時代。当時の人々にとっては、金栗と三島の渡航は、兵隊さんを戦地に送り出す心境だったのかもしれません。


e0158128_16513466.jpg 明治45年(1912年)5月15日、東京高等師範学校講堂において、大日本体育協会主催の歓送会が開かれました。このとき、金栗、三島両選手に、日の丸の大国旗が送られました。この日の丸を掲げて、ふたりはストックホルムの入場式を行進することになります。そして、翌日の5月16日、彼らはストックホルムに向けて旅立ちました。当時、今の赤煉瓦の東京駅はまだ建設中で、出発は新橋駅から。新橋駅には、金栗の学友たち百数十名が集まったそうです。三島は紺の洋服にカンカン帽という出で立ちで到着。同行する大森兵蔵監督と、その夫人・安仁子も揃って、駅前は大いに賑わったといいます。ドラマでは汽車に乗り遅れていた嘉納治五郎団長でしたが、実際には、当初から一行とは遅れて6月6日に出発し、アメリカを視察したのちにストックホルムに入る予定でした。金栗、三島両選手を乗せた汽車が動き出すと、学生たちは、今話のサブタイトルになっている軍歌『敵は幾万』を歌って見送ったといいます。そして万歳三唱。このときの2人の心境は、このように語ったと伝えられます。


 「日本運動界の全責任を帯びて出場することであれば、自分等は斃れて後止むの大決心で臨み、決して国体を辱めざることを期す」(『大日本体育協会史』大日本体育協会編)


 ドラマでは、女性記者に無理やりそう語らされていましたが、まさに国威発揚の時代。日の丸を背負う重圧は、現代の比ではなかったでしょうね。


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by sakanoueno-kumo | 2019-02-25 00:20 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)