「その137」に続いて寺田屋です。
本稿では、慶応2年1月23日(1866年3月9日)に起きた寺田屋事件、いわゆる坂本龍馬襲撃事件を追います。

この事件が起きたのは、坂本龍馬が尽力したとされる「薩長同盟」が締結された翌々日のことでした。
この時点では、まだ幕府側には薩長同盟の事実は漏れていませんでしたが、坂本龍馬が長州の桂小五郎(木戸孝允)と組んで何かを企てているというのは察知されており、天下のお尋ね者となっていました。

22日、京都二本松薩摩藩邸において薩長同盟の締結を見届けた龍馬は、翌23日の夜、このころ龍馬の護衛として行動を共にしていた長府藩士・三吉慎蔵の待つ寺田屋に戻ってきます。
あるいは、寺田屋に入っていく龍馬の姿を幕吏は確認していたのかもしれません。

この事件については、三吉慎蔵の日記『三吉慎蔵日記抄録』などにも詳しいのですが、事件当日の様子においての最も詳細な史料としては、龍馬が土佐にいた実兄・坂本権平に宛てた手紙に勝るものはありません。
描写が実に細やかで面白く、ここでは、わたしの駄文で説明するよりも、その龍馬の手紙の文章をそのまま紹介することにしたいと思います。
上に申す伏見の難は、去正月廿三日夜八つ時半頃なりしが、一人のつれ三吉慎蔵と咄して、風呂より上り、もふ寝やうと致し候所に、ふしぎなるかな(此時二階に居り申候)人の足音のしのびしのびにに階下を歩くと思ひしに、ひとしく六尺棒の音からからと聞ゆ。折から兼てお聞に入れし婦人(名は龍、今は妻といたし居り候)走せ来り云よふ、
「御用心なさるべし、敵の襲ひ来りしなり。槍持ちたる人数、梯子段を上りし也」
と、夫より私も立ちあがり、袴着んと思ひしに次の間に置候。その儘、大小差し、六発込の手筒をとりて後なる腰かけに凭る。つれなる三吉慎蔵は袴を着て大小とりはき、是も腰掛にかゝる隙もなく、一人の男、障子細目にあけ内を窺ふ。見れば大小さし込みなれば、
「何者なるや」
と問ひしに、つかつかと入来れば、直ぐ此方も身構へなしたれば、又引き取りたり。
早次の間にみしみしと物音すれば、龍に下知して次の間のうしろの唐紙とりはづさして見れば、早二十人計も槍もて立ならびたり。其時暫く睨み合ふ所に、私より
「如何なれば、薩州の士に無礼はするぞ」
と申したれば、敵人口々に
「上意なるぞ。坐れ々々」
と罵りつゝ進み来る。此方も一人は槍を中断に持つて私の左に立たりける。私思ふやう私の左に槍を持て立てば、横を打たると思ふ故、私が立替り、其左の方に立ちたり。其時銃は打金をあげ、敵の十人計も槍持ちたる一番右の方を初めとして、一つ打たりと思ふに其敵は退きたり。此間、敵は槍を投突きにし、又は火鉢を打ちこみ色々して戦ふ。私の方には又槍もて防ぐ。実に家の中の戦ひ、誠にやかましくて堪り申さず。又一人を打ちしが、中(あた)りしやわからず。
其敵一人は、果して障子のかげより進み来り、脇差をもて、私の右の大指のもとをそぎ、左の大指のふしを切りわり、左の人さし指の本の骨ぼしをきりたり。前の敵猶迫り来る故、又一発放せしに、中りしや分らず、私の筒は六丸込みなれど、其時は五丸込みてあれば、実にあと一発限りとなり、是大事と前を見るに、今の一戦にて少し沈みたり。一人のもの、黒き頭巾着てたちつけ穿き、槍を平青眼のやうに構へ、近く寄りて壁に沿うて立ちし男あり。夫を見るより又打金あげ、私のつれの、槍もて立ちしに、其敵は丸に中りしと見えて、唯ねむりたほれるやうに、前に腹這ふやうに斃れたり。
此時も又、敵の方はドンドン障子を打ち破るやら、からかみを踏み破るやらの物音すざましく、然れども一向手許には参らず。此時、筒の玉込めんとて六発銃の(れんこん型の絵あり)此のうやうの物を取り外し、二丸までは込みたれども、左の指は切られてあり、右の手も傷めて居り、手元思ふやうに成らず、つひ、手よりれんこん玉室取り落としたり。下を探したれども元より布団は引さがし、火鉢やら何やら何かなげ入れしものと交り、どこや知れず、此時は敵はとんとん計りにて此方に向ふものなし。其れより筒を捨て、私のつれ三吉慎蔵に
「筒は捨てたぞ」
と云えば、三吉曰く
「夫なれば猶敵中につき入り、戦ふべし」と云う。けれども私曰く
「此間に引取り申さん」
と云えば、三吉もとりたる槍を投げ捨て、後の梯子段を降りて見れば、敵は唯、家の見世の方ばかり守りて進むものなし。
夫より家のうしろのやそひを潜り、後の家の雨戸を打破りて這入りたれば、実に其家は寝呆けて出たか、ねやが延いてあり、気の毒にありけれど、其家の建具も何も引きはづし、うしろの町に出んと心掛けしに、其家も随分大きなる家にて中々破れ兼ね、右両人して散々に破り、足もて踏破りたり。夫より町に出でゝ見れば、人は一人もなし、是れ幸と五町計り走りしに、私は病気のあがりなりければ、どうも息切れあゆまれ申さず。
此時思ひしに、男子はすねより下に長きものはすべからずと、此時は風呂より上りしままなれば、ゆかたを下に着て、其上に綿入れを着て袴なしなり。着物は足にもつれ、ぐづゝしよれば敵が追ひつく。横町にそれ込みて、お国の新堀と言う様な所に行きて、町の水門よりずび込み、其家の裏より材木の棚の上にあがりて寝たるに、折あしく犬が実に吠えて困り入りたり。そこに両人とも居りしが、ついに三吉は先づ屋敷(伏見薩摩屋敷のこと)に行くべしとて立出でゝ屋敷に入り、又屋敷の人も共に迎ひに来て私も帰りたり。私の傷は少々なれども、動脈とやらにて、あくる日も血が走り止めず、三日計り小便に行くも目がまひました。此夜彼龍女も同時に戦場を引きとり、すぐざま屋敷に此由を告げしめ、後に共々京の屋敷に引取る。
まるで実況中継のようなこの手紙は、当夜の様子を実に詳細に伝えてくれています。
九死に一生を得るという一大事にもかかわらず、この手紙ではその恐怖などはまったく記述されておらず、むしろコミカルな印象さえ感じられます。
負傷した指でピストルの玉込めを替えようとして落としてしまい、それを探し回る龍馬の姿を想像すると、壮絶な場面にもかかわらずつい吹き出してしまいそうになりますよね。
近隣の家の雨戸を破って入るとその家の人は寝呆けていたとか、材木屋の屋根の上で寝ていると犬が吠えて困ったとか、龍馬の人生最大のピンチだったはずの悲壮感は微塵にも感じられません。
龍馬ならではの文章で、後世の愛すべき龍馬像が集約された手紙といっていいでしょう。


そして、この事件におけるあまりにも有名なエピソードは、のちに龍馬の妻となるお龍が、入浴中に幕吏に包囲されていることに気づき、風呂から一糸まとわぬ姿で2階へ階段をかけ上がり、龍馬に危機を知らせたという話ですね。
写真は、その風呂釜だそうです。


こちらは、お龍が駆け上がった階段だそうです。




ところが、この「一糸まとわぬ」というのは、実際のところはわからないようです。
上述した龍馬の手紙には、「裸」とは書かれていませんよね。
明治32年(1899年)のお龍自身の回想録『千里駒後日譚』では、「濡れ肌に袷を一枚引っかけ」と語っており、また、明治16年(1883年)の坂崎紫瀾著『汗血千里駒』では、「浴衣をうちかけた」とあります。
「裸」という言葉が確認できるのは、三吉慎蔵が後年自身の活躍をまとめた記録『毛利家乗抄録』に、「龍馬の妾全マ浴室ニ在リ、変ヲ見テ裸体馳セ報ズ」とあり、「裸体」という記述が見られるのですが、同じく三吉の日記『三吉慎蔵日記抄録』には「坂本の妾二階下ヨリ走リ上リ」とあるのみで、お龍の姿については書かれていません。
実際のところはどうだったのでしょうね?・・・て、お龍が裸だったかどうかは、歴史的にどうでもいいことではありますが・・・。
龍馬ファンとしては、実に興味深いところではあります。



建物内には、龍馬関係の史料が所狭しと展示されています。





こちらは、戦闘時の刀傷だそう。


庭にも龍馬の銅像やら石碑やらが数多くあります。


寺田屋を取り巻いた幕吏は50人とも100人とも言われます。
事件は午前3時頃のことだったといいますが、幸運だったのは龍馬と三吉が薩長同盟の祝杯だったのか、床に入っていなかったこと。
上述したお龍の機転もあって、襲撃までに未然に察知して身を整えることができたため、からくも逃げおおせることが出来ました。
いくら手練のふたりであっても、寝込みを襲われたり不意をつかれていたら、ひとたまりもなかったでしょう。
この幸運が、龍馬をあと1年10カ月の間生かすこととなります。

龍馬はこの襲撃の際に左手の指に傷を負いました。
この傷はよほど重傷で、こののち負傷した指は自由がきかなかったといいます。
有名な龍馬の立姿の写真は左手を懐に隠していますが、あれは、負傷した左手を隠していたためともいわれます。
この負傷は、最初にあびせられた太刀を左手に持っていた拳銃で受け、その際に負ったものだといいます。
その後も終始拳銃で応戦していて、この北辰一刀流免許皆伝の腕を持つ龍馬が、応戦中一度も刀を抜くことがなかったと、三吉の日記に記されており、このエピソードが、のちの物語などにある、龍馬の刀に対する姿勢のイメージを作ったものでしょう。
でも、このとき龍馬は拳銃で幕吏を2人射殺しています。
決してドラマなどで描かれているような人命尊重の人だったわけではありません。

ちなみに、この寺田屋の建物ですが、かつては当時の建物がそのまま残されているとされていましたが、最近の調査で、当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の建物は、明治に入ってから再建されたものだったと公式に認められたそうです。
じゃあ、刀傷や弾痕、お龍さんの風呂釜は?・・・ということになりますが、無粋な詮索をするのはやめます。
ロマンということで・・・。
ちなみにちなみに、ここ寺田屋は現在でも旅館として営業されており、宿泊できるそうです。
かつては龍馬フリークで知られる武田鉄矢さんが、毎年龍馬の命日にここに泊まられていたそうで、それを知っていた島田紳助さんが、仲間と共に新選組の格好をして襲撃した、なんてエピソードも。
余談中の余談ですが。
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