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天誅組の足跡を訪ねて。 その12 「乾十郎宅跡・顕彰碑・墓所」

「その11」で紹介した櫻井寺の南側に、五條出身の天誅組隊士・乾十郎の住居がありました。

現在、その跡地には石碑が建てられています。


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乾十郎は4歳にして孟子を諳んじるほどの秀才だったといい、同じく五條出身の森田節斎儒学を、その弟の仁庵医学を、そして京に出て梅田雲浜国学を学びます。


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大坂に出て町医を開業した後、再び五條に戻って医者をする傍ら、吉野川に放流する材木に課せられる材木税不当として紀州藩に撤廃を談じ込み成功させたり、容認はされなかったものの、吉野川の水を大和平野に疎通させて灌漑設備を整えようと上書したりしています。


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現在は櫻井寺の南の大通りより一筋南の細い路地に石碑が建ちますが、当時は、櫻井寺の門前に住居があったそうで、挙兵前は五條代官所に近いこの地で代官所の様子を探り、挙兵後は櫻井寺に本陣を布く手筈を整えたといいます。


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近くには、乾十郎顕彰碑が建てられています。


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贈正五位乾十郎先生顕彰碑」と刻まれています。

乾は明治24年(1891年)に靖国に合祀され、明治31年(1898年)に正五位を贈られました。

天誅組隊士のほとんどが、明治に入って名誉回復となり、位階が贈られています。

でも、彼らのやったことは、所詮はテロリズム

幕府の役人というだけで何の罪のない代官を殺害し、それを「義挙」と言っているわけですからおかしな話です。

殺された鈴木正信(源内)たちのことを思えば、釈然としないものがあります。

明治政府の贈った位階というのは、自分たちが作った新政府を正当化するための道具に過ぎなかったというのが、よくわかりますね。


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顕彰碑裏面には、「獄中歌」と題して次の詩が刻まれています。


いましめの 縄は血汐に染まるとも あかき心は などかはるべき


いわゆる辞世の句ですね。

乾十郎の兄・乾竹次郎の孫である乾材三の揮毫で、碑は昭和12年(1939年)に建てられました。


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顕彰碑の前の石碑には、坂本龍馬勝海舟とも親交があったと書かれています。

これはあまり知られていませんが、いくつかの文献に出てくる話です。

文久3年6月2日(1863年7月17日)、土佐藩士で神戸海軍操練所の塾生だった廣井磐之助仇討を龍馬が助けますが、このとき見物人のなかに乾がいて、「助勢の士一同凱歌を唱。山号谷応じ、凄々愴々」と、その模様を伝えています。

また、同月11日、龍馬は勝海舟の使いとして乾のもとを訪ねていますが、伝わるところによると、陸奥陽之助(宗光)が水戸藩士兜惣助らに狙われている乾を救助してくれるよう龍馬に頼み、龍馬は乾を助けたといいます。

五條代官所襲撃2ヶ月前のこと。

せっかく龍馬に救ってもらった命を無駄に使っちゃいましたね。


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五條市岡口一丁目には、乾十郎の墓があります。


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司馬遼太郎の短編『五条陣屋』では、代官所の手代になり損ねて恨みを持っている狂人として描いています。

あるいは、多少そういう要素があったのかもしれません。


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天誅組壊滅のあと、乾は大阪に逃亡して潜伏していましたが、やがて捕縛されて京の六角獄(別稿:幕末京都逍遥 その90 「六角獄舎跡」)に投獄されます。

そして元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)によって起きた大火災によって京都の町は火の海となり、火災に乗じて囚人が逃亡することを恐れた西町奉行所の役人・滝川具挙が、判決が出ていない状態のまま独断で囚人37名の処刑を断行しました。

そのなかには、乾を含む天誅組隊士16名が含まれていました。

獄舎で斬首された乾らの遺体は、西の京刑場にまとめて埋められ、その後、幕末のドサクサのなか忘れ去られていましたが、それから13年後の明治10年(1877年)、化芥所(ごみ処理施設)となっていた西の京刑場跡から姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見され、調査の結果、これらは六角獄舎で斬首された乾らの遺骨であることがわかり、あらためて京都の竹林寺に移葬されました(別稿:幕末京都逍遥 その92 「竹林寺」)。


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この墓がいつ建てられたものなのか、京都の竹林寺から分骨されたのか、そのへんの情報はわかりませんでした。

まあ、他の天誅組隊士たちも、複数の墓が存在する場合が多いですからね。

乾の墓は大阪市天王寺区の正念寺にもあるそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-12 00:46 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

坂本龍馬が剣術修行をした千葉定吉道場跡

東京駅八重洲口近くの鍛冶橋通りに面した歩道の植え込みに、「千葉定吉道場跡」と書かれた説明板があります。

千葉定吉道場といえば、若き日の坂本龍馬剣術修行をした道場として知られています。


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千葉定吉は、北辰一刀流剣術の創始者と伝わる千葉周作の弟で、自身も北辰一刀流の使い手でした。

兄の千葉周作は、鏡心明智流桃井春蔵神道無念流斎藤弥九郎とともに幕末三剣豪と呼ばれ、「位の桃井・力の斎藤・技の千葉」と評され、幕末の江戸三大道場とされていました。

地方から我こそはと江戸に上ってきた剣のエリートたちは皆、この三道場の門をたたいたといいます。

現在でいえば、東大、早稲田、慶應といったところでしょうか。

坂本龍馬は19歳から24歳までの間に2度、江戸に遊学し、ここで剣術を学びました。

そして安政5年(1858年)正月には、定吉から「北辰一刀流 長刀兵法」目録を伝授されたと伝わります。

司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では、龍馬と同時期に桃井道場の塾頭に盟友の武市半平太が、斎藤道場の塾頭に桂小五郎(木戸孝允)が、そして龍馬が千葉道場の塾頭になったとされていますが、武市と桂が塾頭だったのは史実のようですが、龍馬が塾頭だったという話は、確かな史料は存在しないようです。


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龍馬の入門した千葉道場は、精神主義を排し、合理的な教授法が人気を呼んだらしく、江戸に剣術ブームを起こしたそうです。

武骨な道場というカラーを脱し、現在でいえば「剣術教室」といったカラーのとてもパブリックな道場だったようです。

のちの龍馬の観念にとらわれない合理的な発想の基礎は、この千葉道場の修行時代に作られたものかもしれません。


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あと、千葉道場での龍馬の剣術修行で思い出されるのは、定吉の娘・千葉佐那とのラブストーリーですね。

佐那(佐那子とも)は女だてらに剣の使い手で、10代で北辰一刀流免許皆伝に達したほどの腕前だったとか。

小柄で大そうな美女だったようで、「千葉の鬼小町」「小千葉小町」などと呼ばれていたといいます。

明治26年(1893年)に発行された『女学雑誌』の誌上に、「坂本龍馬の未亡人を訪ふ」というタイトルで談話が掲載され、その中で晩年の佐那自身が、龍馬から求婚された事実を語っています。

それによれば、父・定吉の承諾も得て、「天下静定の後を待って華燭の典を挙げん」と約束をしたといいます。

司馬遼太郎著『竜馬がゆく』では、佐那(同小説ではさな子)が想いを打ち明け、そのお返しに龍馬は自分の着ていた紋付の片袖を破って渡すというロマンチックなエピソードが描かれていますが、明治26年の佐那が語るところでは、婚約のしるしとして千葉家から短刀一振りを贈り、龍馬からは松平春嶽から拝領した袷衣を返したといいます。

その後、その後国事に奔走しはじめた龍馬と結ばれることはなく、佐那は生涯この袷衣を形見として側に置き、独身を通したと言われています。

何とも健気で切ない話ですが、一方の龍馬は、その後、周知のとおりお龍と結婚しています。

婚約の話が本当なら、龍馬も罪な男ですね。


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その龍馬の佐那に対する想いについては、国元の姉・乙女に宛てた手紙のなかに見ることができます。

「此はなしはまづまづ人にゆはれんぞよ。すこしわけがある。」という書き出しで始まるこの手紙には、千葉家の佐那という娘の歳は26歳で、乗馬薙刀に優れ、琴、絵画にも通じ、もの静かで、よけいなことを言わず、平井かほ(龍馬の国元の恋人だったといわれる女性)よりも美人であると紹介しています。

「まあまあ、今の平井、平井。」と書かれており、「平井に変わって今一番好きな人。」といった意味のようです。

かなりゾッコンだったようですね。

しかし、この手紙から4年後に龍馬はこの世を去ります。

このとき既に30歳になっていた佐那は生涯独身を通し、維新後、華族女学校(学習院女子部)の舎監をしたのち、千住の長屋の一角で千葉家家伝の鍼灸を生業として暮らし、明治29年(1896年)、59歳で生涯を閉じます。

東京・谷中の墓地に埋葬されましたが、独身ゆえ無縁仏になりそうだったため、鍼灸院の患者だった自由民権運動家・小田切鎌明の妻、豊次が不憫に想い、菩提寺だった清運寺に分骨し墓を建てたといいます。

その佐那の墓石の裏には、「坂本龍馬室」と刻まれています。




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by sakanoueno-kumo | 2019-01-10 00:37 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その143 「伏見薩摩藩邸跡」

前稿で紹介した大国寺から西に100mほど歩いたところに、「薩摩島津伏見屋敷跡」と刻まれた石碑があります。

江戸時代、ここに伏見薩摩藩邸がありました。


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徳川幕府は第3代将軍徳川家光以後、約230年間、江戸にこもって京都にやってきませんでした。

そのため、原則として諸大名にも上洛を禁じました。

西国大名が参勤交代のため江戸と本国を往復するときも、京都ではなく伏見を通りました。

なので、西国諸藩は伏見に拠点となる藩邸を置いていたんですね。


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島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定に輿入れすることとなった篤姫も、薩摩から江戸にむかう途中の嘉永6年9月29日(1853年10月31日)、この屋敷に入ったと伝わります。

篤姫はここを拠点に、10月2日に洛中の近衛家へ、同4日に東福寺を訪問し、同5日に萬福寺を訪問し、同6日に伏見を発ちました。

篤姫は以後、一度も京都を訪れないので、この地は彼女の生涯たった1度の「京都観光」の宿舎だったわけですね。

石碑の側面には、「天璋院篤姫洛中洛外滞在時の宿泊地」と刻まれています。


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また、石碑の反対側の側面には「坂本龍馬 寺田屋脱出後 避難之地」と刻まれています。

「その138」で紹介した寺田屋において、慶応2年1月23日(1866年3月9日)に襲撃されて負傷した坂本龍馬は、「その141」で紹介した材木小屋に身を潜めたあと、長府藩士の三吉慎蔵やのちに妻となるお龍の通報によって助け出され、ここ薩摩藩邸に保護されました。

薩摩藩邸の石碑に土佐人の名が刻まれるというのも、珍しいですね。


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その後、薩摩藩邸は鳥羽・伏見の戦い時に会津藩兵らによって焼き払われました。

現在、その跡地は酒造会社の敷地になっています。


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by sakanoueno-kumo | 2018-10-04 00:09 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その141 「坂本龍馬避難の材木小屋跡」

「その138」で紹介した寺田屋で伏見奉行所の捕り方の襲撃を受けた坂本龍馬三吉慎蔵は、からくも脱出に成功しますが、龍馬は数日前から風邪をひいていてがあり、また、襲撃時の戦闘によって負傷した指の傷がかなり深く、出血多量による極度の貧血も重なって動けなくなります。

やむを得ず、川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、身を潜めました。

現在、その材木小屋があったと推定されている場所には、「坂本龍馬、避難の材木小屋跡」と刻まれた石碑が建てられています。

石碑は寺田屋から直線距離にして400mほど北西にある大手橋の傍にあります。

普通に大人の足で歩けば5~6分の距離ですが、そこで力尽きるほど龍馬は弱っていたんですね。


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材木小屋の棚の上に隠れていたふたりでしたが、このとき奉行所が派遣した幕吏50人とも100人とも言われ、負傷した身で見つからずに逃げおおせるのは不可能でした。

もはや助かる道はなしと覚悟した三吉は龍馬に、ここで武士らしく切腹して果てようと進言します。

しかしそれを聞いた龍馬は、こう答えました。


「死ハ覚悟ノ事ナレバ、君ハ是ヨリ薩邸ニ走附ケヨ。若シ途ニシテ敵人ニ逢ハゝ必死夫レ迄ナリ僕モ亦タ與所ニテ死センノミト」


意訳すると、「死ぬ覚悟ができているのならば、君はこれより伏見薩摩藩邸へ走ってくれ。もし、その途中で敵に会えばそれまでだ。僕もまた、この場所で死ぬまでだ。」といったところでしょうか。

「生き死には天にまかせろ。切腹して果てるのも、敵に首を討たれるのも、死ぬことに変わりはない。ならば、体の動く限り生きることを考えろ。」ということですね。

このエピソードは、『三吉慎蔵日記抄録』の中に記されている話で、後年の三吉が語ったものです。

龍馬の死生観を窺えるエピソードですよね。

龍馬にまつわる数々のエピソードのなかで、私の最も好きな話です。


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龍馬に説得された三吉は、川で染血を洗い、わらじを拾って旅人に身を変じ、伏見薩摩藩邸に駆け込んで救援を求めました。

薩摩藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、その留守居役だった大山彦八は、薩摩藩の旗印を掲げたを出して龍馬を救出に向かい、無事助け出しました。

その川が、下の写真です。

石碑のすぐ東に流れています。


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伏見薩摩藩邸はこの川を500mほど北上した場所にありました。

材木小屋のあった場所は、『三吉慎蔵日記抄録』では濠川の左岸南方にあったと伝えており、ここ大手橋付近の説と、もう少し薩摩藩邸に近い土橋付近の説があるそうです。

伏見観光協会などでは、大手橋の説をとってこちらに碑を建てたそうです。


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このとき京の薩摩屋敷にいた西郷隆盛は、翌朝この知らせをうけ、彼を知るまわりの者たちも生涯見たことがないほどの怒気を発したといいます。

そして、おそらく伏見奉行所が龍馬たちの引き渡しを要求に来るであろうと見た西郷は、兵力に訴えてでも拒否するという方針を示し、薩摩藩自慢の英国式一個小隊をつけ、吉井幸輔(友実)に指揮官を命じ、伏見薩摩屋敷の警護にあたらせ、さらに、龍馬の負傷を聞いて藩医・木原泰雲も同行させました。

このときの薩摩の行動に対して、「実に此仕向けの厚き、言語に尽す能はず。」と、『三吉慎蔵日記抄録』に記されています。

龍馬と三吉のギリギリの「大脱出」物語

このとき龍馬が三吉に言った言葉が、龍馬をあと1年10カ月の間生かすこととなり、三吉慎蔵にいたっては明治34年(1901年)まで生かすことになります。

龍馬にとって三吉は命の恩人であることは間違いないですが、三吉にとっても、龍馬は命の恩人といえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-30 02:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その140 「伏見竜馬通り」

史跡ではありませんが、伏見には「伏見竜馬通り」と名付けられた商店街があります。


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この付近は伏見宿の本陣・脇本陣・旅籠・船宿が軒を連ね、大いに賑わった町でした。

この通りは、はじめ本陣木津屋の前の図子(づし・小路のこと)だったことから、木津屋図子とも呼ばれ、のちに南納屋町とも称しました。


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江戸時代、伏見は水運陸運の要衝でしたが、一方で、情報収集の町でもありました。

この情報伝達業者が、江戸、大坂、京、伏見の4都市にて公許された「通日雇(とおしびよう)」と呼ばれる公用逓送、いわゆる御用定飛脚が店を連ねていました。

安栄年間刊行の『伏見かがみ』には、14軒の通日雇が記されているそうです。

「その137」 「その138」で紹介した船宿の寺田屋には、諸国の情報が船客より多く寄せられていたでしょうから、坂本龍馬をはじめ多くの志士たちがここに出入りしていたのは、そうした情報収集の目的もあったのでしょう。


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商店街の歴史は古く、中書島遊郭ができた約300年前にさかのぼります。

この遊郭で働く遊女たちに着物日常雑貨を売る店の並びが、この商店街の原型だそうです。

平成8年(1996年)から、石畳ガス灯風街路灯が設置され、また、外観を京町家風に作りかえるなどの景観の整備が行われ、「竜馬通り商店街」と名付けられました。


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龍馬や新選組のグッズを販売している龍馬館

この日、Tシャツと缶バッジを衝動買いしてしまいました。


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こちらは龍馬を描いた店舗シャッターアート

「伏見+アートフェスティバル」というイベントの一環で、「幕末維新回廊」をテーマに京都造形芸術大とのコラボで描かれたそうです。


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景色は変わっているでしょうが、龍馬たち幕末の志士たちも闊歩したであろう商店街。

今なお続いているというのがいいですね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-29 00:16 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その139 「お登勢の墓(松林院)」

寺田屋から300mほど南西にある松林院の墓地に、幕末の寺田屋の女将・お登勢の墓があります。


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6代目寺田屋伊助の妻・お登勢は、放蕩者だった伊助の死後、寺田屋の女将となって店を切り盛りしました。

もともとお登勢の実家は近江国大津の旅館だったらしく、子供の頃から女将になるためのスキルを十分に磨いてきた女性だったのでしょうね。

お登勢が女将となってから寺田屋は薩摩藩の定宿となり、たいへん繁盛していました。

「その137」で紹介した文久2年(1862年)の寺田屋事件の後には、薩摩藩から見舞金が入るとすぐに畳や襖を取り換えて営業を再開したといいます。

なかなかのやり手だったということがわかりますね。


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こちらが、お登勢の墓です。


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彼女が坂本龍馬から姉のように慕われていたというのは有名ですね。

龍馬は実の姉・乙女に送った手紙のなかで、お登勢のことを「この人、学問ある女で人物也」と評しています。

また、龍馬の頼みで、のちに妻となるお龍養女として店に置き、お龍の母親や妹たちまで金銭面で援助するなど、義侠心の厚い女性でした。

お龍は龍馬の死後、明治に入ってからも一時期お登勢を頼っており、一説には、お龍の2度目の結婚を世話したのもお登勢だったとも。

お龍は晩年の回顧談で、「龍馬の死後、親切だったのは西郷さんとお登勢さんだけだった」とも語っています。

生来、世話好きな女性だったのでしょうね。

明治10年(1877年)死去。

享年48。


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「その137」 「その138」で紹介した寺田屋の庭には、お登勢明神が祀られています。

没後100年のときに祀られたそうで、龍馬とお龍を結んだことから、若い男女の守り神となったそうです。


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その横には、お登勢の由来碑があります。

ここでは、お登勢が大勢の志士たちを庇った偉業を称える文が刻まれています。

彼女も、幕末の志士のひとりと言っていいんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-28 01:54 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その138 「寺田屋 その2」

「その137」に続いて寺田屋です。

本稿では、慶応2年1月23日(1866年3月9日)に起きた寺田屋事件、いわゆる坂本龍馬襲撃事件を追います。


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この事件が起きたのは、坂本龍馬が尽力したとされる「薩長同盟」が締結された翌々日のことでした。

この時点では、まだ幕府側には薩長同盟の事実は漏れていませんでしたが、坂本龍馬が長州の桂小五郎(木戸孝允)と組んで何かを企てているというのは察知されており、天下のお尋ね者となっていました。


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22日、京都二本松薩摩藩邸において薩長同盟の締結を見届けた龍馬は、翌23日の夜、このころ龍馬の護衛として行動を共にしていた長府藩士・三吉慎蔵の待つ寺田屋に戻ってきます。

あるいは、寺田屋に入っていく龍馬の姿を幕吏は確認していたのかもしれません。


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この事件については、三吉慎蔵の日記『三吉慎蔵日記抄録』などにも詳しいのですが、事件当日の様子においての最も詳細な史料としては、龍馬が土佐にいた実兄・坂本権平に宛てた手紙に勝るものはありません。

描写が実に細やかで面白く、ここでは、わたしの駄文で説明するよりも、その龍馬の手紙の文章をそのまま紹介することにしたいと思います。


上に申す伏見の難は、去正月廿三日夜八つ時半頃なりしが、一人のつれ三吉慎蔵と咄して、風呂より上り、もふ寝やうと致し候所に、ふしぎなるかな(此時二階に居り申候)人の足音のしのびしのびにに階下を歩くと思ひしに、ひとしく六尺棒の音からからと聞ゆ。折から兼てお聞に入れし婦人(名は龍、今は妻といたし居り候)走せ来り云よふ、

「御用心なさるべし、敵の襲ひ来りしなり。槍持ちたる人数、梯子段を上りし也」

と、夫より私も立ちあがり、袴着んと思ひしに次の間に置候。その儘、大小差し、六発込の手筒をとりて後なる腰かけに凭る。つれなる三吉慎蔵は袴を着て大小とりはき、是も腰掛にかゝる隙もなく、一人の男、障子細目にあけ内を窺ふ。見れば大小さし込みなれば、

「何者なるや」

と問ひしに、つかつかと入来れば、直ぐ此方も身構へなしたれば、又引き取りたり。

早次の間にみしみしと物音すれば、龍に下知して次の間のうしろの唐紙とりはづさして見れば、早二十人計も槍もて立ならびたり。其時暫く睨み合ふ所に、私より

「如何なれば、薩州の士に無礼はするぞ」

と申したれば、敵人口々に

「上意なるぞ。坐れ々々」

と罵りつゝ進み来る。此方も一人は槍を中断に持つて私の左に立たりける。私思ふやう私の左に槍を持て立てば、横を打たると思ふ故、私が立替り、其左の方に立ちたり。其時銃は打金をあげ、敵の十人計も槍持ちたる一番右の方を初めとして、一つ打たりと思ふに其敵は退きたり。此間、敵は槍を投突きにし、又は火鉢を打ちこみ色々して戦ふ。私の方には又槍もて防ぐ。実に家の中の戦ひ、誠にやかましくて堪り申さず。又一人を打ちしが、中(あた)りしやわからず。

其敵一人は、果して障子のかげより進み来り、脇差をもて、私の右の大指のもとをそぎ、左の大指のふしを切りわり、左の人さし指の本の骨ぼしをきりたり。前の敵猶迫り来る故、又一発放せしに、中りしや分らず、私の筒は六丸込みなれど、其時は五丸込みてあれば、実にあと一発限りとなり、是大事と前を見るに、今の一戦にて少し沈みたり。一人のもの、黒き頭巾着てたちつけ穿き、槍を平青眼のやうに構へ、近く寄りて壁に沿うて立ちし男あり。夫を見るより又打金あげ、私のつれの、槍もて立ちしに、其敵は丸に中りしと見えて、唯ねむりたほれるやうに、前に腹這ふやうに斃れたり。

此時も又、敵の方はドンドン障子を打ち破るやら、からかみを踏み破るやらの物音すざましく、然れども一向手許には参らず。此時、筒の玉込めんとて六発銃の(れんこん型の絵あり)此のうやうの物を取り外し、二丸までは込みたれども、左の指は切られてあり、右の手も傷めて居り、手元思ふやうに成らず、つひ、手よりれんこん玉室取り落としたり。下を探したれども元より布団は引さがし、火鉢やら何やら何かなげ入れしものと交り、どこや知れず、此時は敵はとんとん計りにて此方に向ふものなし。其れより筒を捨て、私のつれ三吉慎蔵に

「筒は捨てたぞ」

と云えば、三吉曰く

「夫なれば猶敵中につき入り、戦ふべし」と云う。けれども私曰く

「此間に引取り申さん」

と云えば、三吉もとりたる槍を投げ捨て、後の梯子段を降りて見れば、敵は唯、家の見世の方ばかり守りて進むものなし。

夫より家のうしろのやそひを潜り、後の家の雨戸を打破りて這入りたれば、実に其家は寝呆けて出たか、ねやが延いてあり、気の毒にありけれど、其家の建具も何も引きはづし、うしろの町に出んと心掛けしに、其家も随分大きなる家にて中々破れ兼ね、右両人して散々に破り、足もて踏破りたり。夫より町に出でゝ見れば、人は一人もなし、是れ幸と五町計り走りしに、私は病気のあがりなりければ、どうも息切れあゆまれ申さず。

此時思ひしに、男子はすねより下に長きものはすべからずと、此時は風呂より上りしままなれば、ゆかたを下に着て、其上に綿入れを着て袴なしなり。着物は足にもつれ、ぐづゝしよれば敵が追ひつく。横町にそれ込みて、お国の新堀と言う様な所に行きて、町の水門よりずび込み、其家の裏より材木の棚の上にあがりて寝たるに、折あしく犬が実に吠えて困り入りたり。そこに両人とも居りしが、ついに三吉は先づ屋敷(伏見薩摩屋敷のこと)に行くべしとて立出でゝ屋敷に入り、又屋敷の人も共に迎ひに来て私も帰りたり。私の傷は少々なれども、動脈とやらにて、あくる日も血が走り止めず、三日計り小便に行くも目がまひました。此夜彼龍女も同時に戦場を引きとり、すぐざま屋敷に此由を告げしめ、後に共々京の屋敷に引取る。


まるで実況中継のようなこの手紙は、当夜の様子を実に詳細に伝えてくれています。

九死に一生を得るという一大事にもかかわらず、この手紙ではその恐怖などはまったく記述されておらず、むしろコミカルな印象さえ感じられます。

負傷した指でピストルの玉込めを替えようとして落としてしまい、それを探し回る龍馬の姿を想像すると、壮絶な場面にもかかわらずつい吹き出してしまいそうになりますよね。

近隣の家の雨戸を破って入るとその家の人は寝呆けていたとか、材木屋の屋根の上で寝ていると犬が吠えて困ったとか、龍馬の人生最大のピンチだったはずの悲壮感は微塵にも感じられません。

龍馬ならではの文章で、後世の愛すべき龍馬像が集約された手紙といっていいでしょう。


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そして、この事件におけるあまりにも有名なエピソードは、のちに龍馬の妻となるお龍が、入浴中に幕吏に包囲されていることに気づき、風呂から一糸まとわぬ姿で2階へ階段をかけ上がり、龍馬に危機を知らせたという話ですね。

写真は、その風呂釜だそうです。


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こちらは、お龍が駆け上がった階段だそうです。


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ところが、この「一糸まとわぬ」というのは、実際のところはわからないようです。

上述した龍馬の手紙には、「裸」とは書かれていませんよね。

明治32年(1899年)のお龍自身の回想録『千里駒後日譚』では、「濡れ肌に袷を一枚引っかけ」と語っており、また、明治16年(1883年)の坂崎紫瀾『汗血千里駒』では、「浴衣をうちかけた」とあります。

「裸」という言葉が確認できるのは、三吉慎蔵が後年自身の活躍をまとめた記録『毛利家乗抄録』に、「龍馬の妾全マ浴室ニ在リ、変ヲ見テ裸体馳セ報ズ」とあり、「裸体」という記述が見られるのですが、同じく三吉の日記『三吉慎蔵日記抄録』には「坂本の妾二階下ヨリ走リ上リ」とあるのみで、お龍の姿については書かれていません。

実際のところはどうだったのでしょうね?・・・て、お龍が裸だったかどうかは、歴史的にどうでもいいことではありますが・・・。

龍馬ファンとしては、実に興味深いところではあります。


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建物内には、龍馬関係の史料が所狭しと展示されています。


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こちらは、戦闘時の刀傷だそう。


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庭にも龍馬の銅像やら石碑やらが数多くあります。


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寺田屋を取り巻いた幕吏は50人とも100人とも言われます。

事件は午前3時頃のことだったといいますが、幸運だったのは龍馬と三吉が薩長同盟の祝杯だったのか、床に入っていなかったこと。

上述したお龍の機転もあって、襲撃までに未然に察知して身を整えることができたため、からくも逃げおおせることが出来ました。

いくら手練のふたりであっても、寝込みを襲われたり不意をつかれていたら、ひとたまりもなかったでしょう。

この幸運が、龍馬をあと1年10カ月の間生かすこととなります。


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龍馬はこの襲撃の際に左手の指に傷を負いました。

この傷はよほど重傷で、こののち負傷した指は自由がきかなかったといいます。

有名な龍馬の立姿の写真は左手を懐に隠していますが、あれは、負傷した左手を隠していたためともいわれます。

この負傷は、最初にあびせられた太刀を左手に持っていた拳銃で受け、その際に負ったものだといいます。

その後も終始拳銃で応戦していて、この北辰一刀流免許皆伝の腕を持つ龍馬が、応戦中一度も刀を抜くことがなかったと、三吉の日記に記されており、このエピソードが、のちの物語などにある、龍馬の刀に対する姿勢のイメージを作ったものでしょう。

でも、このとき龍馬は拳銃で幕吏を2人射殺しています。

決してドラマなどで描かれているような人命尊重の人だったわけではありません。


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ちなみに、この寺田屋の建物ですが、かつては当時の建物がそのまま残されているとされていましたが、最近の調査で、当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の建物は、明治に入ってから再建されたものだったと公式に認められたそうです。

じゃあ、刀傷弾痕、お龍さんの風呂釜は?・・・ということになりますが、無粋な詮索をするのはやめます。

ロマンということで・・・。

ちなみにちなみに、ここ寺田屋は現在でも旅館として営業されており、宿泊できるそうです。

かつては龍馬フリークで知られる武田鉄矢さんが、毎年龍馬の命日にここに泊まられていたそうで、それを知っていた島田紳助さんが、仲間と共に新選組の格好をして襲撃した、なんてエピソードも。

余談中の余談ですが。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-27 00:35 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その131 「土佐四天王像」

前稿天龍寺塔頭の松厳寺にある坂本龍馬像を紹介しましたが、嵯峨野にはもうひとつ龍馬の像があります。

それがこれ。


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天龍寺から竹林を北に抜けて田園風景が広がるなかに、「無動庵」というカフェがあるのですが、その前にあります。

像は龍馬だけでなく、武市半平太、中岡慎太郎、吉村寅太郎と共にあります。

彼ら4人を「土佐四天王」と言うんだとか。

そんな呼称あったっけ?


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説明板によると、「風雲急を告げる幕末の京洛に於いて元治元年(1864)坂本龍馬は中岡慎太郎と長州本陣天龍寺に長州藩士の来島又兵衛、久坂玄瑞を訪ねるために立ち寄ったという口碑を伝えている。」とあります。

これ、前稿の説明書きと同じですね。

繰り返すようですが、これは伝承であって史実ではありません。


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仮にその伝承に基づいたとしても、龍馬と中岡はともかく、武市と吉村は関係ありません。

ではなぜ、ここに4人の像があるのか・・・。


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実は、もともとこの像は「その25」で紹介した四条河原町の高瀬川沿いの旧土佐藩邸役宅址にあったそうで、現地の再開発に伴って撤去され、行き場を失ってここに移されたそうです。

なるほど、土佐藩邸前なら、この4人の像があっても不思議ではありませんね。

もっとも、武市以外の3人は、脱藩して藩邸には寄り付かなかった人物ではありますが・・・。


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せっかくなので、4人のアップを載せておきます。

まずは坂本龍馬


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そして中岡慎太郎


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吉村寅太郎


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最後に瑞山こと武市半平太


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「土佐四天王」という呼称はあまり耳にしたことがありませんが、この4人が全て死んじゃったことで、土佐は大した人物が明治まで生き残っておらず、薩長の後塵を拝することになったのは間違いありません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-14 01:10 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その130 「松厳寺(坂本龍馬像)」

前稿前々稿天龍寺の塔頭シリーズが続いていますが、同じく塔頭の松厳寺坂本龍馬像があります。


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正確には、松厳寺の境内ではなく、その隣の墓地に龍馬像あります。

こちらがその像です。


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この像は、昭和49年(1974年)10月14日に除幕されたものです。

傍らには「時代之先覚者坂本龍馬先生遺徳之像」と刻まれた石碑があります。


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像はそれほど大きくなく、等身大くらいの印象でした。

黒光りしていて、よく手入れが行き届いています。


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でも、なぜ天龍寺の塔頭に龍馬像が?・・・て思いますよね。


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説明板によると、「風雲急を告げる京洛に於いて長州本陣天龍寺を訪れ、来島又兵衛、久坂玄瑞、中岡慎太郎と倒幕の密議を交わし」とあります。

う~ん・・・。


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たしかに、中岡慎太郎が長州藩士と共に禁門の変時にここ天龍寺にいたのは事実です。

ですが、龍馬はこの時期、神戸海軍操練所の塾長として、政局とは無縁の毎日を送っていました。

この当時、勝海舟が京と神戸を行き来していましたから、その勝を訪ねて京に来ることはあったと思いますが、嵯峨野を訪れる余裕なんてなかったんじゃないかと。

仮に中岡を訪ねて天龍寺に来たことがあったとしても、倒幕の密議なんて段階ではなかったと思います。

当時の龍馬なら、「神戸海軍操練所に入らんかえ?」勧誘していたんじゃないでしょうか?(笑)

でも、そんなこと言ったら、幕臣の奸物・勝麟太郎の手下の開国論者とみなされ、来島又兵衛に斬られていたんじゃないでしょうか?(笑)

どう考えても、この話は無理がありますね。


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とはいえ、ネットで調べてみると、たしかにこのような伝承が嵯峨野に残っていたそうです。

伝承っていうのは、当てにならないものですね。


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像の側には、船中八策宣言碑と書かれた錨のかたちの碑と、船中八策の内容が刻まれた石盤がありました。

いずれも、坂本龍馬会によって建てられたものだそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-12 23:58 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その129 「壽寧院(お龍・楢崎将作顕彰碑)」

天龍寺の塔頭・壽寧院に、坂本龍馬の妻・お龍と、その父・楢崎将作顕彰碑があると知り、立ち寄ってみました。

なぜ、ここに顕彰碑があるのか・・・。


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龍馬の死後、しばらくは長府藩士の三吉慎蔵がお龍の面倒をみていましたが、その後、土佐の龍馬の実家に身を寄せます。

しかし、都育ちのお龍には土佐の暮らしは馴染めず、わずか3ヵ月ほどで立ち去ることになり、その後、妹夫婦の世話になったりしたのち、龍馬の墓所近くで墓守をしながら暮らしていましたが、それも長くは続かず、東京へ出て勝海舟西郷隆盛に頼り、神奈川宿の料亭で仲居として働いていた明治8年(1875年)、横須賀で造船所を営む西村松兵衛と再婚し、西村ツルと改名しました。


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明治16年(1883年)から土陽新聞に掲載された坂崎紫瀾『汗血千里駒』がベストセラーとなり、それまで忘れられた存在だった龍馬の名が広く世間に知られるようになると、その妻だったお龍の周りも取材などで騒がしくなります。

お龍の回顧談をまとめた『反魂香』の作者である安岡秀峰が明治30年(1897年)に訪ねたときの話では、お龍は横須賀の狭い貧乏長屋で暮らしていて、アルコール依存症状態となり、酔っては「私は龍馬の妻だ」と夫の松兵衛に絡んでいたといいます。


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そんなお龍に嫌気がさしたのでしょうか、松兵衛は、当時夫に先立たれて頼ってきていたお龍の妹・光枝内縁関係になってしまい、ふたりで家を出ていってしまいました。

なんとも酷い話のように思いますが、酔っては前の夫のことを口にして絡んでくるような嫁では、逃げ出したくもなるでしょうね。

でも、嫁の妹はマズいわな。


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明治39年(1906年)1月15日、お龍は66歳でその生涯を閉じます。

晩年は寂しい最後でしたが、しかし、お龍が亡くなる2年前の明治37年(1904年)、日露戦争開戦直前に美子皇后夢枕に坂本龍馬が立ったという話が広まり、再び龍馬が世間の注目を集めており、お龍が危篤に陥ると、皇后大夫・香川敬三(元陸援隊士)から御見舞の電報が送られ、海軍大将・井上良馨が救護の募金を集めたそうです。

その後、田中光顕や香川敬三の援助を受けて、妹の光枝が施主、夫の西村松兵衛らが賛助人となり、横須賀に墓が建てられました。

墓碑には夫の西村松兵衛の名ではなく「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれ、また、遺言により、龍馬の眠る京都霊山護国神社京都八瀬西林寺にあった父・楢崎将作の墓に分骨されたそうです。

しかし、やがて将作の墓は無縁仏となり、見かねた西村家の子孫の方が、「楢崎将作・坂本龍子顕彰会」と共にこの地に移葬して顕彰碑を建てたそうです。

長くなりましたが、ここに顕彰碑があるのは、そんな経緯です。


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碑には、龍馬がお龍との別れ際に詠んだと伝わる歌が刻まれています。


又あふと思う心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな


石碑の背面には、将作とお龍の足跡が。


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その向かいにある銘板には、将作とお龍の名が刻まれ、その横には、西村家の子孫の方々のお名前が並んでいました。

楢崎家は途絶え、坂本家からは絶縁されたお龍ですが、西村家によってこうして祀っていただいているのは、ありがたい話ですね。

妹とのゲス不倫はマズかったですが。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-11 23:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)