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幕末京都逍遥 その77 「陸援隊屯所跡」

中岡慎太郎が組織した陸援隊屯所があったとされる場所にやってきました。

現在その場所は京都大学の農学部や理学部がある北部構内の敷地になっています。

先日、京都大学の学生が交差点でこたつに座って逮捕されるという意味不明な事件がありましたが、あのすぐ近くです。


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残念ながら石碑などは建てられていません。

写真は大学の校門周りの風景で、当時を偲ぶようなものは何も残っていません。


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陸援隊は中岡の同志・坂本龍馬が組織した海援隊に呼応するかたちで発足し、中岡を隊長として総員70人ほどだったといいます。

ただ、龍馬の海援隊は海軍という顔と商社という側面を持っていたのに対し、中岡の陸援隊は、あくまで討幕を見据えた軍隊でした。

なので、海援隊のように団体としての収入があったわけではありません。

元々この場所は、河原町の土佐藩邸手狭になったために第二藩邸として建てられた場所で、慶応3年(1867年)6月、ここに陸援隊を駐屯させ、いざというときの遊軍として備えました。

食事は河原町の土佐藩邸から支給されていたそうです。

でも、河原町の藩邸からは4kmほど距離があります。

いざというときの部隊としては、いささか離れすぎだったんじゃないでしょうか。

龍馬と中岡が近江屋で襲撃されたとき、第一発見者の峯吉は、ここまで裸馬に乗って報せにきたといいますが、近くに土佐藩邸があったのに、なぜ、こんな遠くまで来なければならなかったのかがわかりません。


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キャンパスの一角にある地蔵堂です。

これは、大正10年ごろにここに大学の地質学教室を建てる工事中、地中から、高さ30cmぐらいの石地蔵50体以上も掘り出されたそうで、その後、ここに祀られたそうです。

陸援隊の屯所だったときは、地中に眠っていた地蔵ということですね。


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中岡の死後、陸援隊は田中光顕、谷干城らが指導し、官軍挙兵後は高野山で紀州藩兵を牽制するなどの働きをしますが、明治維新後は御親兵に吸収されました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-17 01:07 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その71 「小松帯刀寓居跡」

前稿で紹介した薩摩藩二本松藩邸跡の石碑から800mほど北上したところに、五摂家のひとつである近衛家の別邸(御花畑御屋敷)があったとされ、幕末には薩摩藩家老の小松帯刀が寓居としていました。

現在、その跡地には、「小松帯刀寓居跡」と刻まれた石碑があります。


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石碑の反対面には、「薩長同盟所縁之地」と刻まれています。


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慶応2年1月21日(1866年3月7日)、土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介で、それまで対立していた薩摩藩と長州藩の間で結ばれたという薩長同盟ですが、その締結の場となったのが、小松帯刀の邸だったと伝わります。

公式な記録は残っていませんが、長州藩士・木戸孝允の伝記『松菊 木戸公伝』の中に、この同盟について「帯刀の寓居に會合し」と記されており、ここが薩長同盟締結の場であったことを後世に伝えています(諸説あり)。


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最近まで、御花畑御屋敷のあった正確な場所はわかっていなかったそうですが、平成28年(2016年)に新たな史料が見つかり、鞍馬口通りにあったことが確認されたそうです。

その史料によると、御花畑御屋敷は鞍馬口通約90m、室町通約60m、中町通約140m、面先は約1800坪という広大な邸宅であったことがわかりました。


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一般に、薩長同盟の締結によって薩摩・長州両藩がともに幕府に対抗することを確認し、明治維新に向けての大きな転換点となった重大な同盟という認識ですが、実は、歴史家の間では、この同盟は薩長間に大きな温度差があったのではないか、と見られています。

というのも、それほど重要な会談でありながら、その内容はその場で記録されず、正式な盟約書も残されていません。

現在伝わっている6ヶ条の内容は、会談の翌日に木戸孝允が、同席していた坂本龍馬に宛てて確認のために送った書簡によるもので、その書簡の裏面に木戸の要請で龍馬が朱書をしたものだけです。

そのことから、長州側にとっては、この会談の持つ意味は大きかったものの、薩摩側からすれば、「同盟」というほど大袈裟なものではなく、単に意思確認をしただけだったのではないか、とも見られ、しかし、会談による何らかの成果を持ち帰りたかった木戸が、書簡に龍馬の裏書きを求めたのではないか、と推察されます。

確かに、正式な盟約書が存在したのなら、龍馬の朱書きなんて必要ないですもんね。

そんな観点から、「同盟」といわれるだけの内実を有していないという理由から、学会では「薩長盟約」という表現が用いられています。


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また、よく知られているエピソードで、薩長両藩とも互いのメンツにこだわって盟約話を切り出さずに暗礁に乗り上げかけたときに、遅れて来た坂本龍馬が西郷隆盛一喝し、盟約が成立したという旧くからの説がありますが、これも、「西郷を一喝した」という記録はどこにも存在せず、後世の脚色のようですね。

龍馬が遅れて来たのは事実で、龍馬が来てから盟約が成立したのも事実ですから、龍馬が盟約の成立に何らかの役割を果たしたのは事実かもしれませんが。


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説明板によると、以前は別の場所が御花畑御屋敷跡だと判断されて石碑が建てられていたそうですが、その後、その場所が誤りだということがわかり、平成29年(2017年)3月、改めてこの地に建碑されたそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-06-09 09:32 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その53 「赤松小三郎遭難の地」

京都市営地下鉄烏丸線五条駅から東へ100mほど歩いて東洞院通を少し南下したあたりに、「贈従五位赤松小三郎先生記念」と刻まれた石碑があります。

ここは、信州上田藩士の赤松小三郎暗殺された場所です。


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赤松小三郎はそれほど有名ではありませんが、その経歴はあの坂本龍馬に似ています。

龍馬より先に勝海舟の門人となり、その従者として長崎海軍伝習所に赴き、航海術オランダ式兵学などを学びました。

慶応2年(1866年)には京都で私塾を開き、英国式兵学を教えました。

また、同時期には薩摩藩から兵学教授への就任を請われ、京都の薩摩藩邸において中村半次郎(のちの桐野利秋)や、のちに元帥海軍大将となる東郷平八郎ら約800人に英国式兵学を教えます。

一方で、慶応3年(1867年)には会津藩山本覚馬から依頼されて会津藩洋学校でも兵学を教えました。

討幕派、佐幕派のどちらにも兵学を教えたという珍しい経歴を持っています。


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赤松は、坂本龍馬が起草したとされる国家構想「船中八策」に先立つ慶応3年(1867年)5月に、前福井藩主の松平春嶽、薩摩藩国父の島津久光二院制国会創設など7項目の建白書「建白七策」を提出しています。

この建白書のなかで赤松は、二院制の議会の創設、選挙による議会政治、内閣総理大臣(赤松の訳語では「大閣老」)以下6人の大臣を議会が選出するという議院内閣制度など、現代にも通じる具体的な新国家構想を提唱しています。

一説には、龍馬の「船中八策」の原本が、この「建白七策」だったのではないかともいわれます(もっとも、「船中八策」の存在そのものを疑問視する見方もありますが)。

冒頭で、龍馬に似ていると述べましたが、龍馬が赤松の真似をしていたと考えたほうが正しいかもしれません。

赤松は慶応3年(1867年)8月に薩摩藩が長州藩と武力討幕計画を固めるなか、内戦の危機を回避しようと、薩摩の西郷隆盛小松帯刀、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していた様子が兄宛の書簡からうかがえます。

これも、また龍馬と行動パターンが酷似していますね。

しかし、同年9月、京都から上田に帰る途中にこの地で待ち伏せていた中村半次郎(桐野利秋)らに暗殺されました。

その理由は、赤松が薩摩の軍事機密を知りすぎていたこと、薩摩の武力討幕路線に反対の立場だったことで、半次郎はその日記で、「幕奸だから斬った」と記述しています。

ただ、実行犯である半次郎が独断で行ったのか、あるいは半次郎に指示した人物がいたのかは定かではありません。

あるいは、半次郎に暗殺を指示したのは西郷だったんじゃないか・・・という見方もあるようですね。

このあたりも、龍馬暗殺の薩摩黒幕説と似ています。


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勝海舟への師事、航海術の習得、新国家構想の提言、そして暗殺。

どれもすべて坂本龍馬に先駆けていた赤松小三郎。

もうちょっと、スポットが当たってもいい人物なんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-12 20:50 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その52 「金蔵寺跡(坂本龍馬・お龍内祝言の地跡)」

前稿で紹介した土佐藩士たちの隠れ家で、元治元年(1864年)5月頃に出会った坂本龍馬お龍は、同年8月初旬に青蓮院塔頭金蔵寺祝言を挙げます。

現在、金蔵寺のあった場所には、「坂本龍馬 お龍 結婚式場跡」と刻まれた石碑が建ちます。


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後年のお龍の回顧録によると、2人の出会いは、龍馬の一目惚れにはじまったそうです。

そして、龍馬はお龍の母・にお龍を妻にしたいと申し入れ、出会って3ヵ月のスピード結婚となりました。

さすがは龍馬、行動力一級品です。

ただ、龍馬とお龍の祝言は「内祝言」、すなわち内々の結婚式でした。

このときの龍馬は神戸海軍操練所を拠点に江戸や京都や福井を行ったり来たりで、しかも、命を狙われる身でもあり、結婚を公にすることはお龍を身の危険に晒すことになると考えたからでしょう。

祝言を終えた龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍を伏見寺田屋に託します。

結婚後、いきなりの別居生活だったわけです。


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ドラマや小説などでは、慶応2年1月23日(1866年3月9日)伏見寺田屋遭難でお龍が裸で龍馬を助けたあと、避難した薩摩藩邸で西郷隆盛の媒酌のもとに2人は夫婦の契りを結んだように描かれることが多いですが、実はその説は根拠が薄く、お龍の回顧談を信じるべきでしょう。

2人の結婚はごく限られた者しか知らなかったため、そのような説が出たのでしょうね。

となれば、日本最初の新婚旅行として知られる霧島山の旅は、実はすでに新婚ではなかったことになりますね。


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2人が青蓮院塔頭金蔵寺で祝言を挙げたのは、おそらくお龍の亡き父が青蓮院で侍医を務めていた縁からだったのでしょう。

2人の結婚は今でいう恋愛スピード結婚で、どこか現代的ですね。

いかにも坂本龍馬とお龍らしいといえるでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-11 00:18 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その51 「土佐志士寓居跡」

東山の三十三間堂南大門の南に、かつて土佐藩出身の尊攘派志士が隠れ家としていた邸がありました。

現在、塩小路通に「この付近 坂本龍馬 北添佶摩など土佐志士寓居跡」と刻まれた石碑が建ちます。


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土佐藩士たちが隠れ家とした家は、河原屋五兵衛という人物の隠居所だったそうです。

河原屋五兵衛という人について調べかつかなかったのですが、説明板には、「瓦屋の五郎兵衛の意か」と書かれていたので、おそらく武士ではないのでしょう。

この当時、豪商たちが志士のパトロンとして援助するといった話は、よくあることでした。

ここに、石碑に刻まれた坂本龍馬北添佶摩をはじめ、中岡慎太郎望月亀弥太などが隠れ住んでいたといいます。

ここで、龍馬の妻となるお龍の母・と妹の君江が賄いとして働いていたんですね。

その縁で、龍馬とお龍が出会います。

まさに、ここが2人の出会いの場だったんですね。

時は元治元年(1864年)、 お龍24歳、龍馬30歳でした。

2人の出会いについて、お龍は回顧録で次のように語っています。


「名前は、聞かれ、『お龍』 と答えると 『わしと同じじゃ』 と二人はすぐに打ち解けました。お互いの身の上話で大いに盛り上がりました」(『千里駒後日譚』より)


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現地説明板によると、ここが土佐藩士たちの隠れ家だったことが、お龍の晩年の回想録「反魂香」に記録されているそうです。

それによると、「大仏南の門今熊の(野)道」の河原屋五兵衛の隠居所を借りて、「中岡慎太郎、元山(本山)七郎(北添佶磨)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚衛(千屋寅之助)、池倉太(内蔵太)、平安佐輔(安岡金馬)、山岡甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等」と同居していたといいます。

これが事実かどうか、ながくわからなかったのですが、これを裏付けたのが、お龍の回想にも出てくる北添佶磨の書簡(元治元年(1864年)5月2日母宛)でした。

そこには、「私儀は此節は、洛東東山近辺瓦屋町と申す処へ居宅を借受け、外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく相暮し居候」と記されており、ここの南向いの地名はいまも「本瓦町」で、北添が龍馬らと暮らしていた地であったにちがいないということになったそうです。


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北添の書簡から約1ヶ月後の元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件の際、ここも京都守護職などの役人に踏み込まれました。

龍馬らは不在でしたが、貞や君江などが連行されたそうです(まもなく釈放)。

ちなみに北添は池田屋事件で落命します。

その後、8月初旬、龍馬とお龍は青蓮院塔頭金蔵寺祝言を挙げることとなります。

次稿では、その祝言の地を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-10 01:23 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その50 「お龍 独身時代寓居跡」

父・楢崎将作の死によって経済的に困窮したお龍とその家族は、前稿で紹介した柳馬場三条下ル付近にあったとされる家を離れ、「木屋町」もしくは「四条、うら通りの借家」に移住したとされます。

現在、木屋町通にあるビルの入口に、「此付近 坂本龍馬妻お龍 独身時代 寓居跡」と刻まれた石碑が建てられています。


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こののち一家は離散し、お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き、お龍の母・は、方広寺大仏殿近くの土佐藩出身の尊攘派志士たちの隠れ家賄いをするようになるのですが、その直前まで住んでいたといわれるのが、このあたりだったようです。

日々の生活に困窮していた家族は、家具や衣類を売ってなんとか食いつないでいましたが、あるとき、母が悪者に騙されて、妹の起美が島原の舞妓に、同じく妹の光枝が大坂の女郎に売られそうになります。

これを知ったお龍は、着物を売って金をつくると単身大坂に下り、刃物を懐に抱えて死ぬ覚悟で男2人を相手に「殺せ、殺せ、殺されにはるばる大坂に来たんだ。これは面白い殺せ!」啖呵を切って妹を取り返したという有名なエピソードがありますが、この出来事があったのが、ここで暮らしていた時期のことだったようです。

この話は、のちに坂本龍馬が姉・乙女に宛てた手紙のなかで語っている話なので、おそらく実話だったと思われます(多少話を盛ってるかもしれませんが)。


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それにしても、このエピソードからわかるのは、お龍という女性は相当気の強い自立した女性だったということで、でありながら、とても妹弟思いのお姉さんだったということですね。

普通なら、誰か腕っ節の強い男に助けを求めるのがこの時代の女性だったでしょう。

相当肝の座った女性だったのでしょうね。

のちに坂本龍馬からお龍を紹介された土佐藩大監察の佐々木高行は、お龍について「有名ナル美人」と日記に書いています。

美人で気が強くて妹弟思いだったお龍。

龍馬が惹かれたもわかる気がします。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-09 10:08 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その49 「お龍の実家跡」

前稿で紹介した「西川耕蔵邸址」碑から少し南下した柳馬場三条下ルにある居酒屋の入口前に、坂本龍馬の妻・お龍の実家跡の石碑が建てられています。

石碑には「この付近 坂本龍馬 妻 お龍の実家 楢崎家跡」と刻まれています。


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お龍は、青蓮院宮に仕える侍医・楢崎将作の長女として天保12年(1841年)に富小路六角付近で生まれたといわれ、しばらくしてしばらくしてこの地に移り住んだそうです。

お龍には4人の弟妹いましたが、父が侍医ということもあって比較的裕福な家だったようで、家事などを任されることもなく、生け花、香道、茶の湯などを嗜むお嬢様育ちだったようです。

ところが、お龍の父は勤王家だったようで、「安政の大獄」で捕らえられてしまいます。

お龍の父が仕えた青蓮院宮尊融法親王(のちの中川宮朝彦親王)蟄居を命じられていますから、その処分に連座した逮捕だったのでしょう。

その後、大老・井伊直弼の死によって赦免されますが、文久2年(1862年)に病死してしまいます。

そこから、残されたお龍たち家族の生活は一変し、困窮を極めることになります。


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その後、お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き、お龍の母・は、方広寺大仏殿近くの土佐藩出身の尊攘派志士たちの隠れ家賄いをするようになるのですが、そこで、お龍は龍馬と出会うことになるんですね。


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ここ柳馬場三条下ルに暮らしていた頃のお龍は、裕福な家のお嬢様でした。

龍馬も、下士の身分とはいえ裕福な家庭育ちのおぼっちゃんです。

龍馬が姉・乙女に宛てた手紙のなかで、お龍のことを「まことにおもしろき女」と紹介しているエピソードは有名ですが、きっと、お嬢様おぼっちゃんだからこそ、フィーリングが合ったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-06 00:07 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その43 「薩摩藩錦小路邸跡」

河原町通から700mほど西の烏丸通附近にやってきました。

まず紹介するのは、薩摩藩錦小路邸跡です。

薩摩屋敷といえば、いまの同志社大学の敷地にあった二本松藩邸が有名ですが、あちらが設けられたのは文久3年(1863年)のことで、それまでは、ここ錦小路にあった屋敷が薩摩藩の主な拠点でした。

現在、大丸百貨店の西側に、石碑のみが建ちます。


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現地説明板によると、この場所に大名の屋敷が設けられたのは16世紀末か17世記初頭からと考えられるそうで、江戸時代に多数出版され「京絵図」の類からその変遷をみると、最初は山城守松平忠国の屋敷で、17世紀末の一時期は松平下総守の屋敷になり、その後、18世紀初頭からは約160年間にわたり代々の薩摩の京屋敷だったそうです。

文久2年(1862年)4月に島津久光公武周旋のために兵1000人を率いて上洛した際も、この屋敷に入ったそうです。


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坂本龍馬勝海舟の紹介で西郷隆盛にはじめて会ったのも、ここ錦小路の屋敷だったといいます。

司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』のなかでは、こんな話がありました。

龍馬が薩摩屋敷で西郷を待つあいだに庭で鈴虫を捕らえ、訪れた西郷に虫かごを要求します。

その数ヶ月後に再び龍馬が薩摩屋敷を訪れると、虫かごのなかで鈴虫が生きていました。

でも、実は、龍馬がつかまえた鈴虫は数日後に死んでしまい、再び龍馬が訪れたときにいた鈴虫は、3代目だったんですね。

西郷、はいつ来るかわからない龍馬のために、ずっと鈴虫を世話し続けていたというエピソードです。

この話が事実かどうかはわかりませんが、西郷の誠実な人柄を感じさせてくれる話です。

その舞台が、ここ錦小路の屋敷だったわけです。


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屋敷は元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」で焼失。

以後、薩摩藩の京都の拠点はニ本松藩邸となります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-27 23:56 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その28 「武市瑞山・吉村寅太郎寓居之跡」

三条木屋町を高瀬川沿いに上がったところにあるビルの前に、2つの石碑が建っています。

そのひとつは「武市瑞山寓居之跡」と刻まれたもので、もうひとつは、「吉村寅太郎寓居之跡」です。


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道路沿いに建てられているのは、武市瑞山の石碑です。

横には「ちりめん洋服発祥の地」と刻まれた石碑がありますが、ここでは関係ないのでスルーしましょう。

ここに、かつて武市瑞山が住んでいた「四国屋丹虎」がありました。


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瑞山というより、武市半平太と言ったほうがよく知られているかもしれません。

坂本龍馬の遠縁にあたり、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では、龍馬の盟友として登場する人物ですね。

土佐藩の郷士ながら、お見えの権利を持つ「白札」という身分を持つ武市は、江戸での剣術修行で鏡心明智流・桃井春蔵の道場の塾頭を勤めるほどの決客でしたが、やがて勤王思想に目覚め、帰郷後は郷士、村役人らを中心とする土佐勤王党を組織し、その首魁となります。

文久2年4月8日(1862年5月6日)、公武合体路線を推進する土佐藩参政・吉田東洋暗殺すると、すかさず土佐藩の人事を尊王派で固めるクーデターを起こし、白札の身分ながら藩政を牛耳り、全藩勤王を実現。

そして満を持して京に上った武市は、この地にあった「四国屋丹虎」を政治活動の拠点にします。

丹虎には各藩の尊王派の志士が集い、武市を中心に毎夜激論を交わしたと伝わります。

武市の手足となって「天誅」と称したテロ活動を行った岡田以蔵も、ここから暗殺現場に向かったといいます。

文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」が起こると、それまで藩政から離れていた山内容堂が復帰し、にわかに状況が悪化した土佐勤王党は大弾圧を加えられます。

そして、吉田東洋殺しや京都における天誅騒ぎの嫌疑により投獄され、在獄1年半のすえ、岡田以蔵の自白によって切腹を命じられます。

享年37。

辞世

「ふたゝひと返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」


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武市の石碑から奥まったとこの植え込みのなかに、吉村寅太郎の石碑があります。

実に見つけにくい場所で、知らなければ目に留まることもない場所です。


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吉村は、はじめは武市の組織した土佐勤皇党に名を連ねていたものの、党の方針に疑問を覚えて間もなく脱藩

同じ時期に坂本龍馬も脱藩しており、龍馬の脱藩に大きな影響を与えた人物ともいわれます。

その後、文久2年4月23日(1862年5月21日)に起きた薩摩藩士の同士討ち事件(寺田屋事件)に連座して捕縛され、国元へ帰され投獄されますが、8ヶ月後に保釈されると、再び京都へ上って、ここ武市がいた丹虎の隣に居を構え、諸藩の志士と交わって国事に奔走します。

そして、文久3年(1863年)8月、天皇の大和行幸を受けて倒幕の兵を大和で挙げることを計画し、尊攘派公卿の中山忠光(明治天皇の叔父)を擁して天誅組を結成しました。

ところが、「八月十八日の政変」で状況が一変し、梯子を外されたかたちで孤立無援となった天誅組の志士たちは、幕府による追討軍の攻撃によって壊滅します。

吉村寅太郎、享年27。


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かれの残した辞世の句、

「吉野山風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」

は、あまりにも有名ですね。

なんという凄まじい辞世でしょうか。


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そんな武市半平太と吉村寅太郎が居を構えたこの地。

短い期間ながら、日本の政局の中心になった場所でした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-05 20:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その26 「土佐稲荷岬神社(岬神社)」

土佐藩邸跡の石碑から路地を西へ50mほど歩いたところに、岬神社という小さな神社があるのですが、ここはかつて土佐藩邸内にあった神社で、別名「土佐稲荷」と呼ばれています。


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社伝によると、創建は室町時代初期、鴨川の中州の岬に祠を建てたのが由来とされています。

その後、祠は鴨川の西岸など数度遷され、江戸時代初期、この付近に建てられた土佐藩の京屋敷内に遷されることとなったそうで、一般に「お稲荷さん」の愛称で親しまれる「倉稲魂命」を祀るため、「土佐稲荷」と呼ばれるようになったそうです。


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以降、土佐藩士のみならず、先斗町・木屋町など周辺の町衆からも「産土神(うぶすなのかみ)(地域土着の神)」として熱心な信仰を集め、わざわざ土佐藩邸内に一般人が自由にお参りするための通路を確保したほどだったそうです。

藩士たちの信仰も厚かったそうで、坂本龍馬武市半平太らも詣でたかもしれません。


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境内には、小さな坂本龍馬像が。


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土佐藩というと、どうしても龍馬になっちゃうんですよね。

でも、前稿でも紹介しましたが、龍馬は脱藩が赦されたあとも、土佐藩邸にはあまり寄り付かなかったといいます。

ここ土佐稲荷に詣でたかどうか・・・。

以前、ここに来たときには、龍馬像が何者かによって破壊されていました。

この像は、おそらく最近作り直されたものだと思われます。


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明治維新によって土佐藩邸が売却されると共に神社も移転を余儀なくされ、その後も幾多の変遷を経て、現在地に鎮座。

大正2年(1913年)には近隣の氏子たちによって現在の社殿が建立されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-03 22:44 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)