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日本最大の山城、高取城登城記。 その5 <二ノ丸上段~本丸下>

「その4」の続きです。

太鼓櫓跡新櫓跡をあとにして東側に向かうと、ど迫力の高石垣が目に入ります。


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ここは二ノ丸の一段高くなっている場所で、本丸のすぐ下。

二ノ丸上段といえば良いのか、本丸下段といえばいいのか、まあ、呼び方なんてどっちでもいい。

とにかく圧巻のロケーションです。


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正面の巨大な高石垣は天守台石垣

高取城には大小ふたつの天守があったそうで、この石垣は大天守石垣。


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大天守石垣の前にある巨木

樹齢はわかりませんが、かなりデカイです。

あるいは、往時を知っているかもしれません。


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大天守石垣の前には、石碑が建てられています。


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大天守石垣を見上げます。


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本丸の石垣は打込み接ぎです。


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本丸高石垣を1周してみましょう。


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作家、司馬遼太郎さんはその著書『街道をゆく』のなかで、高取城を訪れたときの感想を次のように述べておられます。


高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていていい。

その石垣も、数が多く、種類も多いのである。

登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐあいで、まことに重畳としている。

それが、自然林に化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコール・ワットに入った人の気持がすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。


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こちらは南西の出隅。

算木積みになっています。

「算木積み」とは石垣の出隅部分に用いられる技法で、長方体の石を交互に重ね合わせて積み上げられるため、強度が増します。

この上に、小天守があったとされます。


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南側石垣。


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東南出隅。


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東側石垣。


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花には詳しくないのでわかりませんが、ユリの仲間でしょうか?


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北東部の本丸下にやってきました。


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司馬さんのいうように、自然林と石垣が同化したような神秘的な空間が広がります。


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まるでジブリアニメ『天空の城ラピュタ』神殿のようなロケーションです。

近年、兵庫県但馬地方の竹田城跡「天空の城」として有名になりましたが、あちらは、雲海の上に浮かぶ城跡という意味での天空の城で、アニメに出てくる神殿のロケーションでいえば、高取城のほうがイメージに近いです。

あるいは、宮崎駿氏も、ここを訪れたことがあったのではないでしょうか?


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北側の本丸へ通じる虎口前に来ました。

が本丸を誘導してくれます。


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これ、切り株の上に彫刻を乗せているのではなく、自然の木から彫り出したもののようです。

スゴイ!


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こちらのお城も、同じく木を彫り出したものです。


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さて、次稿では、いよいよ本丸に登ります。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-23 03:58 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その4 <大手門~二ノ丸>

「その3」の続きです。

高取城三ノ丸大手門からスタートします。


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高取城には複数の登城ルートがあって、「その2」で紹介した壺阪口門からのルート、「その3」で紹介したニノ門からのルート、そして、この日は通行止めになっていて通れなかった吉野口門からの登城ルートの三方からのルートが、すべてここ三ノ丸の大手門につながる仕組みになっています。


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案内板です。


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明治20年頃に撮影されたという大手門から見る古写真と、CG再現された画像が紹介されていました。


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それにしても見事な石垣です。

もっとも、城門はここではなく、ここを更に曲がったところにあったそうです。


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ここまでの石垣は野面積みでしたが、ここからは打込み接ぎと野面積みが混在し始めます。


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ここまでの入口は喰違虎口でしたが、ここからは枡形虎口になっています。

ここを曲がったところに城門があったそうです。


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ここがその城門跡

正面にドドーンと高石垣が見えます。


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後ろを振り返った大手門。


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大手門を過ぎると、二ノ丸下段の空間に出ます。

正面に見える高石垣は、二ノ丸の十三間多門櫓台石垣

ど迫力です。


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二ノ丸下段です。


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二ノ丸下段から二ノ丸に登る十三間多門です。

城門が十三間あるという意味ではなく、十三間多門櫓に付随した城門という意味でしょうね。


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それにしても山城としては異例の巨大な城門です。


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石垣は打込み接ぎ、出隅は算木積みです。


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苔むした石垣がいいですね。


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載せたい写真がありすぎて、先に進めません。


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ここも枡形虎口です。


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おそらく、城門は天正17年(1589年)から豊臣秀長本多利久に命じて大改修させたときのものだと思います。


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二ノ丸側からみた三間多門。


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二ノ丸側からみた十三間多門櫓台石垣です。


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そして二ノ丸です。


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現在は芝生広場になっていますが、往時は建物があったのでしょう。


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そして二ノ丸東側に聳える石垣。

十五間多門櫓台石垣です。

1間=約1.8mと考えて、約27mということですね。


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この石垣の上に太鼓櫓新櫓がありました。


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日本三大山城の説明板です。


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こちらは高取城の説明板。


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十五間多門櫓台石垣の上に行ってみましょう。


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十五間多門跡です。


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十五間多門櫓台石垣の裏側(東側)です。


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こちらはその北隅にあたる太鼓櫓跡です。


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反対側の新櫓跡


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石垣の上に登ってみます。


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このスペースから見て、太鼓櫓と新櫓の間を結んでいたのは、多門櫓ではなくだけだったんじゃないでしょうか?


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石垣の上から二ノ丸広場を見下ろします。

ここは一段高くなっているので、二ノ丸上段といったところでしょうか?


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さてさて、今回も長くなっちゃったので、「その5」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-22 00:45 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その3 <ニノ門~大手門>

「その2」の続きです。

大手門から本丸とは反対方向の北側に山を20分ほど歩いて下ってきました。


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写真はニノ門跡

ニノ門というくらいですから、このもっと麓近くに一ノ門があるのでしょうが、本格的な城跡はここからということで、ニノ門から大手門に向かって登ります。


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その前に、ニノ門のすぐ北側に、猿の石像があります。


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これは「猿石」と呼ばれる遺跡で、飛鳥時代の斉明朝(7世紀)に作られたものと推定されるそうです。

これと同じような猿石が、奈良の明日香村の吉備姫王墓内に4体あるそうで、この猿石も元は同じ場所にあったものを、高取城築城の際に石垣に転用するため飛鳥から運ばれたのではないかと考えられているそうです。

この猿、400年以上もの間、ここを通る侍たちから現代の観光客まで見続けてきたんですね。


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さて、もう一度ニノ門です。


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ニノ門の案内板。

本丸まで872mとあります。

高取城がいかに巨大な縄張りを誇る山城であったかがわかります。


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ニノ門の左側(東側)を見ると、巨大な野面積みの石垣が東へ伸びています。


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その東には、池が見えますが、縄張り図では水堀とあります。


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ニノ門を過ぎると、いきなり目の前に長い石垣が目に入ります。

縄張り図によると、このあたりから侍屋敷エリアが始まります。


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ここから本丸まで、ずっとこんな感じで石垣群が続いているんですよね。

すごい規模です。


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しばらく進むと、西側の国見櫓への誘導板があります。

行ってみましょう。


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国見櫓です。


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「国見」というくらいですから、大和国が見渡せるのでしょうね。


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案内板です。


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国見櫓からの西側眺望です。


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中央に見えるのは、貝吹城址のある貝吹山です。

高取城を最初に築城した越智氏の本城です。


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その右に見えるのは、畝傍山

あの山の麓に神話に出てくる初代天皇の神武天皇を祀った橿原神宮があり、先ごろ退位された上皇陛下が、平成の終わりに退位のご報告のため行幸されていた畝傍山東北陵(神武天皇陵)があります。


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霞んで見えるのが奈良県と大阪府の境にある生駒山


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その少し南に見えるのが、信貴山城跡のある信貴山

あの松永久秀自爆したことで有名な城ですね。

ここも奈良県と大阪府の境にあります。


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さらにその南に見えるラクダの背のような山が、ニ上山城のあるニ上山

ここも奈良県と大阪府の境にある山ですね。

そして、その向こうに微かに見える山が、わがまち神戸の六甲山です。


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国見櫓も石垣の櫓台跡がちゃんと残っています。

かつてここには二層造りの櫓があったそうです。


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さて、景色を堪能したので、また大手筋に戻ります。

さっそく櫓台のような石垣が。


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矢場門跡の櫓台でした。

喰違虎口の形状をしているのがわかります。


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さらに5分ほど歩くと、松ノ門跡があります。


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ここは、「その1」で紹介した高取児童公園に移築されている門があったところですね。


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さらに進むと、またまた向こうに門跡らしき石垣が見えてきました。


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宇陀門跡です。

ここも喰違虎口の形状をしています。


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宇陀門の名前の由来は、おそらく同じ大和国にある宇陀松山城からきたものでしょうね。


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宇陀門を過ぎると傾斜が緩やかな尾根道になります。

右側の石垣は大きな面積の城代屋敷の石垣

ニノ門からここまでずっと侍屋敷エリアでしたが、その最上段には城代屋敷があったんですね。


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その城代屋敷の横にある千早門跡です。

千早門の名前も、おそらく楠木正成が築城した千早城に由来するのでしょう。

南北朝時代に最初に高取城を築いたとされる越智邦澄は、楠木正成と同じく南朝方の悪党だったと言われます。

ちなみに「悪党」とは、いまで言う悪人という意味ではなく、在地の土豪的武士のことです。


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ここも喰違虎口の形状です。

名前は南北朝時代に由来するかもしれませんが、石垣や喰違虎口の形状は、筒井順慶から豊臣秀長の時代のものと思われます。


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千早門を過ぎると侍屋敷エリアが終わって三ノ丸に入ります。


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そして、「その2」で紹介した大手門まで戻ってきました。

今回はめっちゃ長くなっちゃました

つづきは「その4」にて。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-17 01:08 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その2 <八幡口登り口~大手門>

「その1」の続きです。

高取城跡八幡口登り口から登山道を進みます。


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進み始めていきなりから石垣のお出迎えです。

まだ本格的な郭跡に入ってないんですけどね。


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このあたりの石垣は野面積みです。


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前稿でも紹介しましたが、最初に高取城が築かれたのは南北朝時代、地元の土豪・越智邦澄によってでした。

当時、越智氏は別に貝吹山城に本城を構えており、高取城は越智氏の一支城に過ぎませんでした。


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また、当時の城の構造は、現在残る高石垣などは存在せず、山の地形を削平してを築き、それを幾段にも連ねて逆茂木やにわか造りの板塀で防御する中世の山城で、いわゆるカキアゲ城でした。


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時代は下って戦国時代、織田信長一国破城によって、大和国は郡山城を残して他の城はすべて破却することになり、天正8年(1580年)に高取城も一旦は廃城となります。


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しかし、天正12年(1584年)に大和国を治めていた筒井順慶が、郡山城の詰城として高取城の改修を行いました。


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高石垣が見えてきました。


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このあたりも野面積みですが、見事な高石垣の始まりです。


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壺阪口門跡です。


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壺阪口門の名称の由来は、おそらく高取山の中腹にある壷阪寺からきたものでしょう。

高取城への登城ルートはいくつかありますが、壷阪寺から登城した場合の虎口が、ここ壺阪口門だったのでしょうね。


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なんか立て札があるのですが、文字が消えて読めない(笑)。


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縄張り図によると、壺阪口門を入ると、かつて侍屋敷が建ち並んでいたようです。


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しばらく進むと、木製の階段が設置されていました。

これは観光客用のものですね。

中央の木を伐採せずに階段を設置しているところがすごい!


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階段を上りきったところに、櫓台と思われる石垣があります。


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壺阪口中門跡です。


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石垣の配置からみて、壺阪口中門はおそらく立派な櫓門だったんのでしょう。

縄張り図を見ると、さっきの壺阪口門から壺阪口中門までの間が侍屋敷エリアだったようです。


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反対側から見た壺阪口中門跡。


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壺阪口中門を過ぎると、細い喰違形状になっています。


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角を曲がると、長い高石垣が伸びる通路に出ます。

おおっ! これ、パンフとかで見たロケーションだ!


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高石垣の通路を挟んで向かい側の石垣は、ご覧のとおり低い石垣です。


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反対側(東側)から見た高石垣です。

見事な石垣ですよね。

さぞかし立派な櫓が乗っていたのでしょう。


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で、そのまま視点を左(東)にずらすと、大手門跡です。

つまり、上の高石垣は大手門櫓跡だったんですね。

なるほど立派なはずです。


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このまま大手門を抜けて、二ノ丸、本丸に向かおうと思ったのですが、横の誘導板を見ると、南へ進めば本丸まで200m、北へ進めばニノ門跡まで560mとあります。

迷いましたが、せっかくなので、もう一つのルートも見てみたいと思い、ニノ門まで山を下ってみることにしました。

つづきは「その3」にて。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-16 08:53 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

日本最大の山城、高取城登城記。 その1 <夢創舘~八幡口登り口>

今回は日本最大の山城として名高い奈良県の高取城跡を歩きます。

高取城はかつての大和国高取藩の藩庁として幕末まで存在した城で、現在、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城のひとつに数えられています。

山城好きにとっては必見の城ですね。


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城山を登る前に、麓の観光案内所「夢創舘」に立ち寄り、案内パンフレットや縄張り図をもらいましょう。

日本100名城スタンプもここにあります。


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ここに車を停めて、歩いて登城という選択肢もあったのですが、ここを訪れたのは平成30年(2018年)7月21日。

ここから城跡本丸まで歩いて1時間半ほど掛かるということで、そんな熱中症の危険がはらんだ冒険はしません。


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夢創舘から南西に150mほど歩いたところにある高取児童公園に、かつて高取城にあった松ノ門が移設されています。


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こちらがその松ノ門の城門です。

明治4年(1871年)の廃藩置県によって高取城が廃城となった際、多くの建築物は取り壊されましたが、数棟は移築されました。

その中のひとつが「松ノ門」で、明治25年(1892年)に土佐小学校の校門として移築されていましたが、昭和19年(1944年)の火災によって一部が消失したため、解体されたままとなっていたそうです。

現在の門は平成16年(2004年)に復元されたものです。


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その説明板です。


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こちらの案内板には、松ノ門があった場所が記されています。


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さて、麓の町をあとにして、車を走らせて高取山を登り、八幡口登り口までやってきました。

駐車場はありませんが、乗用車数台は停められるスペースがあります。


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ここからだと、歩いて20分ほど本丸まで登れます。


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案内板です。


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高取城を初めに築いたのは、南北朝時代の地元の土豪・越智邦澄が、元弘2年/正慶元年(1332年)に築城したのが始まりと伝えられています。

時代は下って戦国時代、織田信長一国破城によって天正8年(1580年)に一旦は廃城となりますが、天正12年(1584年)の筒井順慶による復興を経て、豊臣秀長の家臣・本多利久によって天正13年(1585年)から大改修が行われます。

現在に残る高取城跡の遺構は、そのときのものがベースになっています。


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縄張り図です。


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さて、登城開始・・・・と言いたいところですが、つづきは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-05-15 00:10 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その5「旭川~後楽園」

「その4」の続きです。

岡山城本丸下の段の北側を流れる旭川を渡り、名勝・後楽園に向かいます。


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旭川に架かる月見橋です。

月見櫓の北側にある橋ということでそう名付けられたのでしょうが、もちろん、往時にはそんな橋はありませんでした。

昭和29年(1954年)に架けられたそうです。


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月見橋から見た岡山城天守と旭川です。

川が城を巻くようにカーブしているのがよくわかります。


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これは、宇喜多秀家の岡山城築城時に、旭川を城および城下町の防御を固めるための堀の代わりとして用いるために、旭川の流路を岡山城の手前で大きく東方へ曲げて城の北東面に沿わせ、さらに南流するように変えるという土木工事によるものです。

つまり、人工的に作った流路ということですね。

これにより、岡山城の防御は強固なものとなりましたが、一方で、急激なカーブというあまりに不自然な流路となったため、以後、岡山城下はたびたび洪水に悩まされることになったそうです。


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岡山城北側の旭川沿いには、昭和9年(1934年)の大洪水の被害を伝える石碑が建てられています。


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旭川を渡って北側から見た天守です。

こちらから見た天守もかっこいいですね。


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天守台石垣の高さが約15m、その上の天守が約22mですから、総高約37m

10階建てのビルくらいの高さですね。


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そして、旭川の北側に、かつての名勝・後楽園があります。


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後楽園は岡山藩4代藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせた庭園で、貞享4年(1687年)に着工し、14年の歳月をかけ元禄13年(1700年)に完成しました。


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「後楽園」という名称は明治に入ってからのもので、江戸時代には、城の背後にあることから「御後園」または「後園」と呼ばれていたそうです。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク中の5月4日。

新緑と芝生が美しい季節です。


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藩主の居間として使われた延養亭です。

園内で最も重要な建物で、園内外の景観が一望できるように建てられています。

戦災で焼失し、昭和35年(1955年)に再建されました。


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延養亭の奥にある永昌の間には、能舞台があります。

池田綱政は能を好んだそうで、自ら舞い、時には家臣や領民にも見せたといいます。


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園内北側にある慈眼堂

池田綱政が元禄10年に池田家と領民の繁栄を願って建立し、観音像を祀っていました。


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南を見ると、天守が見えます。


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園内南側に、小さな丘が見えます。


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この丘は唯心山といって、池田綱政の子・池田継政が作った高さ6mの築山です。


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登ってみましょう。


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園内を一望できます。


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さすがは日本三名勝のひとつ。

素晴らしい眺めです。


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明治に入り、後楽園(当時は御後園)は岡山城とともに一時新政府の手に渡りますが、しばらくして再び岡山藩の所有となり、その後は岡山県に譲渡され、明治17年(1884年)から広く一般に公開されるようになったそうで、その後は、日本三名勝のひとつとして多くの人々で賑わうようになります。


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しかし、太平洋戦争時には園内の芝生部分がイモなどの畑として利用され、昭和20年(1945年)6月29日の岡山大空襲によって延養亭など江戸期から残されていた園内の建造物の多くが焼失しました。

さらには、終戦後には進駐軍の宿舎として使用されていたそうですが、その後は岡山県の手に戻り、昭和29年(1954年)から有料で一般公開されるようになり、昭和42年(1967年)に園内のすべての建造物の復元が完了し、後楽園は往時の姿を取り戻して現在に至るそうです。


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さて、5回に分けて岡山城を歩いてきましたが、この辺でシリーズを終わります。

最後に、日本100名城のスタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-09 00:07 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その4「本丸上の段」

「その3」の続きです。

岡山城本丸本段まで登ってきました。


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本段にもかつては複数の櫓が存在し、中央には本段御殿の建物がありましたが、現在は芝生広場に昭和41年(1966年)に復元された天守があるだけです。

この日はゴールデンウィーク中とあって、子供向けのイベントが行われていました。


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岡山城の天守は、宇喜多秀家が築城を開始して8年を経た慶長2年(1597年)に完成しました。

外観5重・内部6階で、高さ約15mの石垣に約22mの建物が乗っています。

「その2」の下の段の稿でも紹介したとおり、天守台が不整形な五角形になっていることから、天守の一重目も天守台に合わせた不等辺五角形になっています。

天守台東西の幅は約24m~30.5m、南北の奥行は約13~17mあり、二重目もほぼ同じ大きさです。


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岡山城天守には天守台に地下室がないため、天守に入るための付櫓が必要となります。

現在の復元天守には南面の石垣に開いた観光客用の入口がありますが、往時の天守にはこの入口はなく、写真左側の白い付櫓・塩蔵に見える入口が、天守に通じる入口でした。

このような付櫓と一体型の天守を、複合式天守といいます。


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外壁は、すべての階で分厚い土壁の表面に黒く塗った下見板を張り、重厚感のある天守となっています。

その外観から、カラスのような黒さを表した「烏城」という別名で呼ばれていました。

宇喜多秀家の創建時は、下見板を黒漆塗で仕上げていたらしく、軒先に金箔を施した瓦を並べた屋根とともに、天下人・豊臣秀吉身内大名にふさわしい質実剛健かつ格調高い天守だったといいます。


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二重目の屋根は巨大な入母屋造で、3階はその屋根裏階となっています。

4階である三重目も入母屋造の大屋根で、その上に二重の望楼である5階(四重目)・6階(五重目)を乗せた望楼型天守です。


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岡山城天守には鉄砲狭間が少なく、破風内に数か所ある程度です。

その分、格子窓が多く、上下階で位置が重ならないように配置されています。

これは、敵への攻撃の死角をなくすためだそうです。


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天守内に入ってみましょう。


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天守内部は大方の復元天守と同様に、資料館になっています。

この日はゴールデンウイーク中ということもあって、観光客で賑わっていました。


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最上階からの南側の眺望です。


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こちらは北側、後楽園側の眺望です。

手前に流れるのは旭川


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復元天守内部にはそれほど興味がないので、天守を降りて本段内をもう少し歩きます。

こちらの写真は、旧天守の礎石を移設したものだそうです。


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こちらは下の段東側の水の手と本段をつなぐ六十一雁木上門(要害門)です。

「その2」の下の段の稿でも紹介しています。

「六十一雁木上門」という名前の由来は、江戸時代初期に整備された際に、61段の石段があったことにちなんでいるそうです。


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本段北西側の搦手門から中の段に下ります。


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「その3」で紹介した表門の不明門は普段は使用されず、このルートで天守と行き来していたそうです。


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細い路地のようなルートです。

戦のない江戸時代になってから作られたルードだとは思いますが、一応は敵に見つかりにくい構造になっているのでしょう。


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ここから、「その2」で紹介した廊下門を抜けて、下の段に繋がります。


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明治に入って、岡山城は各地の城と同様に、その存在意義を失いました。

建物の取り壊しや堀の埋め立てが行われ、明治15年(1882年)頃までには天守とわずかな櫓を残してほとんどの建物が壊されました。

また、昭和初期には堀の埋め立てもほぼ終わり、本丸以外の地区は市街地となりました。

残った建物は旧国宝に指定され、街のシンボルとして維持管理されていく予定でしたが、昭和20年(1945年)6月29日の岡山大空襲によって焼失してしまいます。

これも、他の地域の城と、ほぼ同じ運命ですね。

爆撃機から見れば、お城ほど格好の的はなかったでしょうからね。


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さて、本段天守まで攻略しましたが、次稿、もう一回だけ、岡山城北側の後楽園を歩きます。

「その5」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-05-08 01:37 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その3「本丸中の段」

「その2」の続きです。

下の段南面から中の段に登ります。

ここも枡形虎口になっており、不明門(復元)を見上げながらL字に曲がらされます。


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石段を登ると、鉄門跡があります。


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この両側の石垣を渡すように、かつて鉄板で覆われた櫓門がありました。


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鉄門跡を過ぎてまっすぐ西へ進むと、中の段南西隅櫓の大納戸櫓跡があります。

この大納戸櫓は、櫓の多さでは全国で最多級といわれる岡山城の櫓のなかで最も大きな3重4階の櫓で、その姿は天守といってもいいような雄姿だったといいます。


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説明板に、古写真に写るその姿が紹介されていました。

一説には、永禄年間(1558~70年)に宇喜多秀家の父・宇喜多直家が築いたといわれる沼城の天守移築したものとも言われます。

沼城は岡山城の北東10kmほどの位置にありました。

古写真に残る大納戸櫓は、城郭の天守が登場したころの形態を示していることから、沼城の天守だったという説の信憑性は高いと考えられているそうです。


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大納戸櫓から中の段西側を北に向かって伸びる多門櫓跡です。

説明板によると、大納戸櫓から伊部櫓の間に、長さ37m、幅4mの多聞櫓があったそうです。


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ここがその伊部櫓跡

説明板によると、伊部櫓は白壁造りの3階建ての櫓だったそうです。


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そして、伊部櫓と北側の数寄方櫓をつなぐ長さ30m、幅5m多門櫓跡です。


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そして、ここが数寄方櫓跡

数寄方櫓も伊部櫓と同じく白壁造りの3階建ての櫓だったそうです。


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そしてこちらが、中の段北西隅にある岡山城唯一の現存する櫓月見櫓です。


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月見櫓は、池田氏二代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築に際して、本丸搦め手に備えて建てた隅櫓です。

1階が×4間で、地上2階、地下1階の構造で、城外側から見ると二重に見え、城内側から見ると、地階に屋根がつくため三重に見えます。

変則的な櫓で、櫓からの眺望を考慮して城内側は開放的になっており、櫓では珍しく最上階に廻縁がついています。

その名のとおり、ここで月見の宴が催されていたのかもしれません。


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説明板です。


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石碑には、「国宝」と刻まれていますね。

これは、戦前の「旧国宝」のことです。

現在は重要文化財に指定されています。


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中の段の真ん中には、かつて表書院がありました。

表書院は岡山藩の政庁の役割を果たしていた建物で、大小60を超える部屋があったとされています。

現在、その建物は残っておらず、だだっ広い空間にその区画を示す部屋割りが地面に表示

されています。


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説明板には、その平面図が紹介されていました。


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中の段表書院跡から見上げる天守です。


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こちらは、表書院の中庭にあった泉水

復元です。


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こちらは穴蔵

もとは屋根があり、非常用の食料を保存していたと考えられています。


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中の段広場内には、発掘調査で出土した宇喜多秀家時代の石垣が展示されています。


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これらの石垣は、出土した場所にそのまま残されて展示されています。

写真を見てわかるように、かなり深い場所から出土しています。

この出土によって、この中の段が江戸時代での城域の拡張工事の際に作られたということがわかります。


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で、最初に紹介した鉄門跡のすぐ上にある不明門(あかずのもん)です。

その名の通り、儀式のとき以外に開かれることはなく、この名称となったそうです。

でも、南側の鉄門跡から不明門は、大手門にあたるはず。

大手門は使用せず、鉄門から表書院の中を通って北側の搦手門の廊下門から本段に登っていたのでしょうか?


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昭和41年(1966年)再建の鉄筋コンクリート製ですが、立派な門です。

こんな立派な門なのに、使われていなかったなんてもったいない。


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さて、不明門を潜って、「その4」では、いよいよ本丸本段に登ります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-26 21:09 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その2「本丸下の段」

「その1」の続きです。

岡山城本丸は、下の段、中の段、本段の三段で構成されています。

本稿では、下の段を歩きます。


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上の写真は中の段南西隅の大納戸櫓下石垣です。

見てのとおりの野面積みですが、それほど古いものではなく、関ヶ原の戦い後小早川秀秋が築いたものだそうです。


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下の段西側の石垣です。

コの字型になっているのですが、向こうの出隅部分の石垣が打込み接ぎ、入隅より手前の赤みがかった石垣が野面積み、手前の低い石垣が切込み接ぎと、明らかに築いた時代が違うであろう3種の石垣が一度に見られるスポットです。


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左が打込み接ぎ、右が野面積みですね。


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こちらは、左が野面積み、右下の低い石垣が切込み接ぎです。


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説明板によると、野面積みの部分が関ヶ原の戦い後に小早川秀秋が築いたもので、打込み接ぎ部分が1620年代に池田忠雄が築いたものだそうです。

その奥には、宇喜多秀家時代の石垣が埋まっているそうです。


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ここらで岡山城の歴史について触れておきます。

岡山城の前身は、南北朝時代に南朝の功臣・名和一族上神高直という人物が築いたとされる石山城と呼ばれる城だったといいます。

しかし、その後についての史料がなく、150年以上に渡って城主も不明で、どのような城だったかも定かではありません。


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次に石山城の存在が記録として確認できるのが、大永年間(1521~27年)に金光備前が在城し、金川城主松田氏に仕えていたという記録です。

この金光氏を滅ぼしたのが、宇喜多秀家の父・宇喜多直家でした。

元亀元年(1570年)に石山城を手に入れた直家は、城の大改修に着手し、3年後の天正元年(1573年)に入城しました。

しかし、その8年後の天正9年(1581年)に直家は死去し、その後、跡を継いだ当時10歳だった秀家は、豊臣秀吉庇護を受けて成長し、57万石の大大名に成長すると、この地に新しく大規模な城を8年の歳月を掛けて築城し、慶長2年(1597年)に完成しました。

このとき、名称を「岡山城」とし、同時に整備された城下町も「岡山」と呼ぶようになったそうです。


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その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に付いたことで秀家は八丈島へ流罪となり、代わって筑前国名島より小早川秀秋が備前・美作52万石の大名として岡山へ入封します。

しかし、その秀秋も2年後に急死し、嫡子もいなかったことから小早川家は断絶となりました。

その翌年の慶長8年(1603年)に播磨国姫路藩主の池田輝政の五男・池田忠継28万石で岡山藩主となり、その後は幕藩体制の下で岡山城は岡山藩の城府となり、池田家を藩主として明治維新に至りました。


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と、歴史を語っている間に下の段北側まで歩いてきました。

写真は、中の段北西の隅櫓・月見櫓を下の段から見上げたものです。


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月見櫓は本丸内で唯一現存する櫓で、元和元年(1615年)に岡山藩主となった池田忠雄が建てたものだそうです。


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その説明板です。


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月見櫓を見ながら、下の段北側を東に向かって歩きます。

石垣は、小納戸櫓下の石垣です。


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きれいな打込み接ぎです。


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小納戸櫓下の石垣の東側には、漆黒の天守が見えます。

小納戸櫓と天守台の間に、中の段に繋がる搦手門廊下門があります。


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これがその廊下門(再建)です。


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廊下門前から見上げる天守北側です。

その手前に見える石碑は、宇喜多直家・秀家父子を称える顕彰碑です。


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これがその顕彰碑。


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天守です。


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よく見ると、一層目に鈍角に突き出した角があることがわかるでしょうか?

岡山城の天守は、珍しい不等辺五角形になっています。

これは、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかという説や、豊臣秀吉の大坂城天守を模しているという説、また、当時の土地の形をそのまま利用したからこうなったという説など、様々な見方があるようです。


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天守台の石垣です。

野面積みですね。

これは、最も古い宇喜多秀家の築城時のものだそうです。


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説明板によると、石垣が赤く変色しているのは、昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲時によるものだそうです。


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天守台沿いにそのまま下の段東側に向かって歩きます。


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下の段東側の水の手と本段をつなぐ六十一雁木上門(要害門)です。

要害門とは、非常口のようなものでしょうか?


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「六十一雁木上門」という名前の由来は、江戸時代初期に整備された際に、61段の石段があったことにちなんでいるそうです。


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門は再建ですが、石垣や石段は池田氏時代に築かれたものです。


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下の段南側にやってきました。

写真左側に見える建物は、中の段と本段を結ぶ不明門(復元)です。

その右側に続く白塀の下の高い石垣は、本段の石垣。


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石垣は宇喜多時代のものだそうです。


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その説明板です。


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門の下の石垣だけ色が新しいのは、たぶん、門を復元する際に足されたのでしょうね。


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ここから中の段に登ります。

下の段だけでずいぶんと長くなっちゃいました。

次稿、中の段を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-25 10:38 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その1「内堀~大手門」

過日、備前岡山城を訪れました。

岡山城は、豊臣秀吉から目をかけられ、57万石の大大名となった豊臣五大老のひとり・宇喜多秀家が8年の歳月をかけて完成させた梯郭式平山城です。

現在、城跡は国の史跡に、岡山後楽園は国の特別名勝に指定されています。


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岡山城の登城ルートは、南側の大手門から入るルートと、北側の後楽園側の搦手門から入るルートとがありますが、この日は、南側の大手門から登城しました。

写真は、大手門前に建つ「烏城みち」の石碑。

「烏城」とは岡山城の別名で、天守が黒漆塗の外観のため、そう呼ばれるようになったそうです。


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城跡南西から見た内堀石垣です。

岡山城の内堀は本丸の南側と西側にL型で構成されています。

北側と東側には旭川が流れており、天然の堀の役割を果たしています。


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城跡公園の案内図です。

南側と西側をL型で守っているのがわかります。


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こちらは南側内堀

土橋が見えるのは、大手門に通じる目安橋(内下馬橋)です。


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内堀南西隅にある太鼓櫓跡の石垣です。

野面積みですね。


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大手門に向かって目安橋(内下馬橋)を渡ります。

寛永9年(1632年)に因幡鳥取から入封した池田光政の時代、この橋のたもとに領民からの投書を受け付けるための目安箱が置かれたことから、そう呼ばれるようになったのだとか。

かつては木橋が架けられていたそうですが、明治になって撤去され、土橋に改められました。


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橋をわたると枡形虎口の形状になっています。

その隅には、「烏城公園」と刻まれた石碑が。


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枡形虎口内にある大石の説明板です。


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枡形のニノ門跡です。

かつてここには櫓門がありました。


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その櫓門の土台の石垣です。

ここにも大石が使用されています。

説明板によると、これらの巨石は実は板状になっていて、厚さはないそうです。

発掘調査の結果、関ヶ原の戦い後に池田氏が築いたものと考えられているそうです。


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さて、本丸内に入りました。

「その2」では本丸下の段を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-24 01:02 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)