人気ブログランキング |

タグ:城跡 ( 299 ) タグの人気記事

 

丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>

「その2」のつづきです。

登山をはじめて約40分、ようやく黒井城本城の東曲輪に到着しました。

パンフレットによると、東曲輪の広さは20m×15mだそうです。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15035662.jpg


見事な野面積み石垣の遺構に圧倒されます。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15050582.jpg
丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15061954.jpg


縄張図によると、三ノ丸櫓台石垣のようです。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15133830.jpg


その縄張図です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15155294.jpg


三ノ丸に上がって来ました。

広さは28m×23mあります。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15172244.jpg


縄張図を見てもわかるように、本丸、二ノ丸は直線上にあるのに対して、三ノ丸と東曲輪は「くの字」型をしており、矢掛りがかかるように配置しています。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15324071.jpg

三ノ丸からの270度パノラマビューです。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15324424.jpg
丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15333800.jpg
丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15334552.jpg
丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15334842.jpg

この山が、黒井城攻城戦のときに明智光秀軍が陣城を築いたとされる茶臼山です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15352299.jpg
丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15352596.jpg

こちらも、明智軍が攻め城として改修した朝日城跡


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15352941.jpg

北丹波を一望といった感じですね。

「丹波の赤鬼」と呼ばれたた赤井(荻野)悪右衛門直正は、ここから丹波一円に睨みを効かせていたのでしょう。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15390733.jpg


三ノ丸の北西端にある二ノ丸櫓台石垣です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15390924.jpg
丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15391299.jpg


三ノ丸櫓台より幅が広いですが、高さは低いようです。

あるいは、もとはもっと高く積まれていたのでしょうか?


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15410335.jpg


二ノ丸、本丸に上がる前に、その周りを取り巻く帯曲輪を歩いてみましょう。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15432268.jpg


南側の帯曲輪です。

向こうに石垣、そしてその上にが見えます。

ここを訪れたのは元号が「令和」に変わる少し前の平成31年(2019年)4月13日。

平成最後の桜です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15432519.jpg


縄張図にある、帯曲輪と帯曲輪にせり出した曲輪の石垣です。

出隅は算木積みっぽい兆候が見られます。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15454438.jpg


これらの石垣は、赤井氏の時代ではなく、明智光秀の丹波平定後に入城した重臣・斎藤利三時代のものと考えられています。

斎藤利三は、あの春日局の実父です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15454710.jpg


見上げると桜の木が。

本丸、二ノ丸と帯曲輪の高低差は5mほどです。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15454931.jpg


反対側から見た石垣。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15473922.jpg


そして最西端にある西曲輪にやってきました。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15474294.jpg


西曲輪から見た本丸です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15490122.jpg


そして北側の帯曲輪です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15505986.jpg


こちらも南側の帯曲輪と同じく、本丸、二ノ丸との高低差は5mほどありますが、石垣は残っていません。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_15510428.jpg


一周して三ノ丸に戻ってきました。

二ノ丸、本丸は「その3」にて。

丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>_e0158128_14542834.jpg



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-03-28 08:58 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>

「その1」のつづきです。

黒井城跡登山口にやってきました。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_10522458.jpg


ここに車を停めて、ここから登山です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_10523297.jpg
丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_10522683.jpg


駐車場には、明智光秀赤井(荻野)悪右衛門直正の戦いを紹介した説明板があります。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_10535046.jpg


登山口の石碑。

「保月城趾」と刻まれています。

黒井城の別名です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_10560235.jpg
丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_10560573.jpg


これはヤマザクラでしょうか?


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_10573702.jpg


登山道は「急坂コース」「なだらかコース」がありますが、迷わず後者を選択。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_10583985.jpg


防獣柵を開けて、登山道に入ります。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_11081136.jpg


たしかに緩やかです。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_11081379.jpg


でも、やはりシンドイ。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_14382141.jpg


しばらく登ると、なだらかコースの途中にも、また「急坂コース」「ゆるやかコース」の分かれ道が。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_14382756.jpg
丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_14382481.jpg


迷いましたが、今度は急坂コースを選びました。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_11153923.jpg
丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_11154124.jpg


登り初めて25分ほど、赤く塗られた門のようなものが見えてきました。

寺院の山門のようにも見えますが、左右に仁王像はなく、説明板のようなものもなかったので、詳細がわかりません。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_11184968.jpg


門をくぐると、曲輪のような削平地となっていました。

立て札には「石踏の段跡」と書かれています。

これも説明板がなく、パンフレットにも説明がないのでよくわかりませんが、たぶん、曲輪跡だと思われます。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_11182710.jpg


赤門から南を見ます。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_11183055.jpg


南側の眺望です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_11205968.jpg


石踏の段跡に、墓石のような石碑が建てられています。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_11210241.jpg


「故緇井邑主赤井公招魂碑」と刻まれています。

「赤井公」とは、おそらく赤井直正のことでしょうね。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_14410605.jpg


赤井直正は丹波国氷上郡を中心に勢力を誇った赤井氏の生まれで、叔父の荻野秋清を宴の席で刺殺し、そのまま黒井城を乗っ取って城主となったという豪傑で、通称の「悪右衛門」はこの事件からついたといわれています(諸説あり)。

黒井城主となった直正は、黒井城の改修に手を付けて防御を固めるとともに、その勢威を丹波一円に広げ、さらに但馬にも進出して、その勇猛ぶりから「丹波の赤鬼」と呼ばれました。

当時の名将十三人の1人にも数えられます。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_14411767.jpg


もしかして、石踏の段の「石踏(いしぶみ)」は、この「碑(いしぶみ)」の当て字でしょうか?


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_14433161.jpg


さて、石踏の段跡でしばし休憩したあと、山頂を目指します。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_14432245.jpg


本丸まで200m


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_14451288.jpg


ここでまた、防獣柵があります。

麓の防獣柵は動物が街に降りてこないように防ぐための柵ですが、これは、おそらく頂上の城跡を動物に荒らされないようにするための柵でしょうね。

史跡を守ろうという取り組み、いいですね。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_14432497.jpg


本丸まで100m

もうすぐ山頂ですが、長くなっちゃったので、「その3」に続きます。

黒井城の全体図も載せます。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その2 <登山道~石踏の段>_e0158128_14542834.jpg



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-03-26 23:20 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>

兵庫県丹波市にあった黒井城は、戦国時代、豪勇をうたわれた赤井(荻野)悪右衛門直正の居城として知られています。

天下統一を目指していた織田信長丹波攻めの際、二度に渡って明智光秀の攻撃を支え、苦しめた城です。

平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城に選定されました。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_10430452.jpg


上の写真は南側の麓から見た黒井城跡です。

中央の猪ノ口山本城で、そこから尾根伝いに写真左端に見える小さな頂が丈寺砦です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_10430717.jpg


本城は標高356mだそうですが、山頂部分が150mほど削平されていて、麓から見ても、いかにも人工的に作られた遺構ってことがわかりますね。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_10430921.jpg


その山頂をズームします。

ここを訪れたのは元号が「令和」に変わる少し前の平成31年(2019年)4月13日。

山頂に石垣、そしてが見えます。

いまから、あそこに登ります。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_14100645.jpg


大きな誘導看板があります。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_14243724.jpg


登山前に、黒井城のパンフレットをもらうべく、丹波市春日庁舎を訪れました。

ここの敷地内にある春日民族歴史資料館でパンフレットがもらえます。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_14243027.jpg
丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_14243360.jpg


このパンフレットがめっちゃいい出来で、城の全体図もわかりやすく、黒井城跡に登るには必ずゲットすべきでしょうね。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_14244066.jpg


庁舎には、大河ドラマ『麒麟がくる』に向けてのPR懸垂幕が。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_14244382.jpg


こちらの幟も「明智光秀ゆかりの地」とあります。

ここを訪れたのは大河ドラマが始まる8ヶ月ほど前だったので、まだそれほど巷では話題になっていなかったのですが、観光誘致は始まっていました。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_10473698.jpg


庁舎の前から見た黒井城跡。

桜が綺麗です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_14262130.jpg


猪ノ口山山頂にズーム。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_10473979.jpg


登山の前に、麓を流れる黒井川で桜見物。

平成最後の桜です。


丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>_e0158128_14262440.jpg


さて、麓だけで長くなっちゃいました。

「その2」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-03-25 23:32 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>

「その1」のつづきです。

前稿で紹介した丹波亀山城跡大本・天恩郷を訪れたのは平成30年(2018年)6月2日だったのですが、その翌年の令和元年(2019年)5月3日、北側の南郷公園明智光秀の像が建立されたというニュースを見ました。

で、更にその翌年の令和2年(2020年)2月2日、再び亀岡の地を訪れました。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_19592343.jpg


こちらが、その光秀像

左右に亀山城の鯱瓦像もあります。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20004028.jpg


土台は亀山城の石垣をイメージしているのでしょうか。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20022316.jpg


ここを訪れたのは夕方だったので、逆光で顔がわかりづらいのが残念。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20065384.jpg


いろんな角度から。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20065500.jpg


肖像画に似ているといえば似ているかも。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20065819.jpg


少なくとも、坂本城跡に建てられていた安っぽい石像よりは、数段いい出来ですね。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20112222.jpg


こちらは、光秀像建立にあたっての説明板。

令和元年(2019年)は明治2年(1869年)に「亀山」という地名を「亀岡」に改名して150年という節目の年にあたることと、令和2年(2020年)のNHK大河ドラマが光秀を主役にした『麒麟がくる』に決定したことが、光秀像建立につながったのだとか。

その資金には、ふるさと納税による寄付金が充てられたそうです。

さすがは大河ドラマ、地方行政をも動かします。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20144525.jpg


鯱瓦像です。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20144820.jpg


その説明書きの真鍮板。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20145117.jpg
丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20145348.jpg


反対側の鯱瓦像の土台には、城づくりの名手といして名高い藤堂高虎が普請したという亀山城天守の図が刻まれた真鍮板があります。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20164630.jpg


近くには、「明智光秀公築城亀山城趾」と刻まれた石碑が。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20184885.jpg


光秀像の背後には、南郷池が横たわります。

「その1」でも紹介したとおり、この池はかつての亀山城の外堀の名残です。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20185048.jpg


前稿での南郷池は夏のロケーション、今回は冬のロケーションです。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20201889.jpg


南郷池の説明板。


丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>_e0158128_20210824.jpg


南郷公園はJR亀岡駅のすぐ南側にあります。

これから、この光秀像が亀岡市の顔になっていくのでしょうね。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-03-20 00:29 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>

かつて口丹波にある亀岡盆地の中心にあった亀山城は、織田信長の命を受けて丹波攻略中だった明智光秀が、その拠点とすべく築城した城です。

本能寺の変の際、光秀はこの亀山城から本能寺に向かいました。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19253562.jpg


写真はかつての外堀跡

現在は南郷池と呼ばれ、池の畔は公園整備されています。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19274204.jpg
丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19274551.jpg


池の東側に架かる橋には、「保津門跡」と書かれた駒札が立てられていました。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19290703.jpg


そこから南に進むと、説明書きの駒札が立てられています。

「大本・天恩郷(丹波・亀山城)」と書かれています。

亀山城は、明治維新以降、廃城処分となり、所有者が転々としていましたが、大正8年(1919年)に新興宗教団体「大本」が購入し、荒廃していた石垣を積み直すなど整備し、以後、宗教施設として現在に至ります。

説明書きの末尾に、「受付申込みで城址の一部が見学できます」とあります。

行ってみましょう。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19312876.jpg


施設外周の石垣は、城跡のものを積み直したものか、あるいは後世のものか・・・。

新しいものではなさそうですが・・・。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19313087.jpg


ここが宗教施設の正門

なんとなく入りづらい。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19334247.jpg


誰も歩いていないし・・・。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19334500.jpg


施設内にある案内板です。

城跡の説明書きはありませんが、中央上部に石垣の絵があります。

あそこが城跡の遺構かもしれません。

行ってみましょう。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19344503.jpg


施設中央にある万祥池

かつての内堀跡だそうです。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19364747.jpg
丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19365084.jpg


この辺の石垣も、城跡を感じさせてくれます。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19365341.jpg


戦前、ここを拠点として急激に拡大した大本に脅威に感じた大日本帝国政府は、徹底的な弾圧を加えはじめ、昭和11年(1936年)に施設内の神殿などを1500発のダイナマイトで徹底的に破壊したそうで、この一連の弾圧事件は、「大本事件」として昭和史に刻まれています。

このとき、亀山城の遺構の多くも破壊されてしまったそうで、現在残る石垣のほとんどは、戦後、信徒の方々の手によって積み直されたものだそうです。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19390418.jpg


この橋を渡ったところにある万祥殿で、城跡見学の申込みができます。

城跡は聖域にあるということで、見学前に大麻(おおぬさ)お祓いをしていただき、その後、立ち入りが許可されます。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19390799.jpg


万祥殿横の小さな門をくぐって聖域に入ります。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19405717.jpg
丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19410063.jpg


いきなり石垣が目に入ります。

きれいに積み直されています。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19433769.jpg
丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19434091.jpg


その道中に、高さ20mを超える大きなイチョウの木があります。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19434265.jpg


説明板によると、かつてここに光秀の手植えと伝えられたイチョウの木があり、その木は江戸時代中期の台風で倒れ、若木を植え替えたものが現在の大イチョウだそうです。

光秀手植えというのは眉唾ものとしても、ここにそれだけの樹齢の大樹があったというのは本当の話でしょう。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19465015.jpg


そして、眼前にみごとな高石垣が現れます。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19465567.jpg


どうやら、天守台石垣のようです。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19465716.jpg


しかし、残念ながら天守台の上は、宗教上の理由で立入禁止となっていました。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19481406.jpg


積み直しとはいえ、みごとな復元です。

出隅はちゃんと算木積み、扇の勾配になっています。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19544147.jpg


明智光秀がここ亀山城を築城したのは、天正5年(1577年)から同6年(1578年)頃と考えられています。

しかし、正確な史料に乏しく、光秀時代の城の全容はわかっていません。

天正8年(1580年)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2年後に本能寺の変が起こり、その後の山崎の戦いで落命します。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19544511.jpg


その後は天下を統一した豊臣秀吉の支配下となり、羽柴秀俊(小早川秀秋)によって修築され、秀吉の死後は徳川家康の譜代大名である岡部長盛が入城。

天下普請によって城は大改修され、近世城郭として生まれ変わりました。

このときの築城にあたっては、城づくりの名手といして名高い藤堂高虎縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されました。

この天守台石垣も、そのときのものと思われます。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19550390.jpg
丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19550548.jpg


天守台の反対側にやってきましたが、やはり立入禁止でした。

まあ、当然でしょうが。


丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>_e0158128_19551663.jpg


光秀の時代の遺構は残っていませんが、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、ここから明智光秀率いる軍勢が本能寺に向けて出陣したのは間違いありません。

「敵は本能寺にあり

は、あるいはこの城内で発せられたかもしれませんね。

歴史の大きなターニングポイントの舞台となった亀山城です。

「その2」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-03-18 23:05 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>

「その2」のつづきです。

宇佐山城主郭の北側にある三ノ郭に向かいます。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10301283.jpg


上の写真は主郭北側の階段。

前稿で紹介したとおり、主郭にはNHKの中継設備が建てられているため、このような階段が設置されています。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10313364.jpg


階段を降りたところが、主郭と三ノ郭のあいだにある大堀切です。

おそらく往時はもっと深いだったのでしょう。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10330019.jpg


三ノ郭虎口です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10350161.jpg


三ノ郭です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10371799.jpg


三ノ郭北東から、琵琶湖畔が一望できます。

晴れていたらきれいな眺望だったと思うのですが、この日はあいにくの曇り空。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10393542.jpg


「近江富士」と呼ばれる三上山です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10394093.jpg


安土城のあった安土山も見えます。

その向こうには、観音寺城のあった繖山も。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10452756.jpg


元亀元年(1570年)9月25日、摂津から駆けつけた織田信長がここ宇佐山城に入ると、浅井・朝倉連合軍は、比叡山に逃げ込みます。

そこから同年12月までの間、両軍睨み合いとなりますが、その間、信長は比叡山延暦寺に対して、それまでに取り上げた寺領を返還するから、せめて中立を保つよう要請しますが、延暦寺はこれを受け入れませんでした。

『信長公記』では、これが、翌年の「比叡山焼き討ち」の原因となったと説いています。

結局、同年12月に朝廷の仲介を受けて、織田軍と浅井・朝倉連合軍は和睦します。

和ぼくに際して、宇佐山城は一時的に破却されたようですが、元亀2年(1571年)の夏までには修復され、明智光秀が城代として入りました。

そして同年9月、あの「比叡山焼き討ち」が実行されます。

その際、ここ宇佐山城が信長の本陣になったとの説がありますが、確かな史料は残っていません。

でも、前年の「志賀の陣」からの流れを考えると、ここが比叡山焼き討ちの拠点となったと考えていいんじゃないでしょうか。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10413839.jpg


湖畔に見えるのようなところが、のちに明智光秀が築いた坂本城跡公園です。

比叡山焼き討ちで武勲をあげた光秀が、信長から坂本の地を与えられ、翌年の元亀3年(1572年)に坂本城を築いて移ったため、ここ宇佐山城は廃城となり、歴史的役割を終えました。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10431578.jpg


比叡山方面は、現在は樹木が遮ってよく見えません。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10483743.jpg
近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10484020.jpg


さて、城跡はひと通り制覇したので、弁当食って下山します。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10504879.jpg


登山口の宇佐八幡宮まで降りてきました。

せっかくなので、お参りして帰ります。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10505009.jpg


石段を上がったところが境内です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10533825.jpg


舞殿です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10534254.jpg


本殿です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10580642.jpg
近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10581180.jpg


ここを訪れたのは令和元年(2019年)11月3日。

天皇陛下御即位を祝う幟と垂れ幕が掲げられていました。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_10581949.jpg


由緒書の石碑には、「織田信長が山頂に宇佐山城を築いた戦乱のなか、落城の戦火により社殿は悉く焼失し荘厳な往時の様子は今に語り継がれている。」とあります。

元亀元年(1570年)の「志賀の陣」のことでしょうね。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_11001422.jpg


本殿の後ろに、何かあります。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_11032825.jpg


何かの礎石跡のようです。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_11033040.jpg


説明書によると、この礎石は創建当時のものだそうで、礎石の表面が焼けただれているのは、宇佐山城の戦火に巻き込まれたときのものと考えられているそうです。


近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>_e0158128_11033463.jpg


宇佐山城が歴史の記録に登場するのは、元亀元年(1570年)からわずか2年間ほどしかありませんが、その歴史的役割は非常に大きなものだったといえるでしょう。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-03-14 14:11 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>

「その1」のつづきです。

二ノ郭の一段下の郭のさらに下に降りてみると、立派な高石垣が残っていました。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20233048.jpg


これは素晴らしい!


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20233517.jpg


こっちの角度からも。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20261544.jpg


前が狭いので、全景を撮影するのが難しい。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20261892.jpg


ここ宇佐山城は、前稿でも述べたように元亀元年(1570年)に織田信長森可成に命じて築かせた城ですが、信長が安土城より以前に近江で最初に石垣による築城を行ったという意味では、貴重な城とされています。

宇佐山は伊勢や美濃から琵琶湖の南岸を通って京都に至る最短ルートの途中にあり、ちょうど近江と京都の境界上に位置しています。

信長が京都へ進出するにためには、重要な場所だったのでしょう。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20280326.jpg


石垣に根を張る巨樹。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20280677.jpg


とにかく、見事な高石垣。

圧巻です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20292327.jpg


このあたりは段曲輪になっていて、さらに下にも広い曲輪があります。

石垣を堪能したので、山頂に向かって登ります。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20304415.jpg


二ノ郭にも少しだけ石垣跡が見られます。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20324808.jpg


二ノ郭に登ってきました。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20325000.jpg


理由はわかりませんが、有刺鉄線で囲われていました。

特に何もなさそうですが、何を守っているのでしょう。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20340831.jpg


二ノ郭の北側が主郭ですが、現在、主郭にはNHKの中継設備が建てられていて、遺構は失われています。

残念。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20370908.jpg
近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20371233.jpg


ただ、こちらの建物の下の空間に単管の柵があり、その中を覗いてみると・・・。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20371572.jpg


水路跡のような遺構があります。

これ、たぶん遺構ですよね。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20381252.jpg


主郭の樹木に設置された看板。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20432574.jpg


主郭の西側に降りていく道があります。

この下にも曲輪がありそうです。

行ってみましょう。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20450775.jpg


やはり、曲輪跡のような削平地がありました。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20451091.jpg


そして、ここにも石垣跡が。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20461081.jpg


さらに西側をみると、段曲輪が何段も続いています。

降りてみましょう。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20490515.jpg


やはり、ここにも石垣跡がたくさんあります。


近江宇佐山城跡攻城記。 その2 <二ノ郭~主郭>_e0158128_20490952.jpg


段曲輪の周囲にすべて石垣が積まれています。

それだけ、宇佐山城は信長にとって重要な城だったということでしょうね。

「その3」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-03-12 00:11 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>

琵琶湖の南西、近江国と山城国を隔てる比叡山塊の南に位置する標高336m宇佐山山頂に、かつて宇佐山城がありました。

宇佐山城は織田信長森可成に命じて築かせた城で、可成に死後は明智光秀が入り、「比叡山焼き討ち」の拠点とした城です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19434189.jpg


宇佐山への登山ルートは近江神宮からも登れますが、楽したい人は、中腹の宇佐八幡宮まで車で登ることができます。

もっとも、道がかなり狭い上に道路も荒れているので、運転に自信のない方、車が汚れるのが嫌な方にはお勧めできません。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19433198.jpg


宇佐八幡宮の近くに車を停めて、ここからは登山です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19452225.jpg


宇佐八幡宮への参道の脇に、こんな看板があります。

ここから斜面を登って山道に入ります。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19491246.jpg


登山道には、地元の小学生の手作りの誘導看板が随所に建てられています。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19490558.jpg


「歴史をかんじる宇佐山城」


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19491584.jpg


「がんばって登りましょう」

おじさん、頑張る!(笑)


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19574660.jpg


宇佐山城の文献上の初見は、奈良・興福寺の僧である多聞院英俊が記した『多聞院日記』で、永禄13年(1570年)3月20日の稿に、「信長が配下の森可成に命じて宇佐山に築城させ、江南と京都を結ぶ道路を封鎖した」と記されています。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19574978.jpg


また、『信長公記』には、元亀元年(1570年)5月9日(この年の4月に永禄から元亀に改元される)に「宇佐山拵え」という記述があり、この少し前に築かれたと考えていいのでしょう。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19575234.jpg


元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いで、信長は浅井・朝倉連合軍を敗走させましたが、同じ年の8月末には敵対する三好三人衆が大坂の野田城、福島城を拠点に蜂起し、信長はすぐさま自ら摂津入りして両城を包囲するも、9月半ばに大坂の石山本願寺が信長に敵対することを決め、本願寺の指令を受けた一向宗徒が織田方へ一斉に襲いかかってきました。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19575571.jpg


摂津で信長が苦戦を強いられている最中、その機に乗じて浅井・朝倉連合軍が息を吹き返し、3万の大軍を率いて南近江の志賀郡へ進軍。

ここ宇佐山城に攻め寄せました。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_19575820.jpg


宇佐山城には城主の森可成をはじめ、信長の弟・織田信治がいましたが、その兵力はおよそ3000人ほどだったといわれ、10倍以上の兵力の差は如何ともし難く、可成、信治ともに討死します。

しかし、宇佐山城は城兵の必死の防戦で何とか持ちこたえました。

その後、浅井・朝倉連合軍は比叡山に逃げ込み、睨み合いとなります。

この戦いは「志賀の陣」と呼ばれ、織田信長の生涯で最も苦しい戦いとされています。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_20004850.jpg


と、歴史の話をしていると、石垣が見えてきました。

どうやら、あの上が主郭のようです。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_20094813.jpg


石垣のところまで登ってきました。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_20095156.jpg


きれいに残っていますね。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_20095477.jpg


450年もの時を経ているとは思えません。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_20095777.jpg


このまま主郭には登らずに、南の二ノ郭側に斜面を攻めてみます。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_20113097.jpg


石仏の転用石のようです。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_20135875.jpg


崩れかけていますが、明らかに石垣跡ですね。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_20140186.jpg


こっちにも。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_20171048.jpg


二ノ郭下の石垣です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_20171489.jpg


二ノ郭のさらに一段下の郭です。


近江宇佐山城跡攻城記。 その1 <登山道~主郭下石垣>_e0158128_20171810.jpg


その下を覗き込むと、また石垣が見えますが、長くなっちゃったので、つづきは「その2」にて。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-03-11 00:12 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>

「その2」で紹介した坂本城本丸跡から県道を挟んで西側が、かつて二ノ丸だったとされています。

二ノ丸跡を歩いてみましょう。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16071725.jpg


二ノ丸跡の真ん中あたりに、「坂本城址」と刻まれた石碑説明板がありました。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16072691.jpg


石碑は大正4年(1915年)に立てられたもののようです。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16072910.jpg


説明板です。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16072467.jpg


後ろの赤い傘は、観光客用の演出でしょうか?


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16120328.jpg


石碑から50mほど東にある東南寺です。

ここも、かつては坂本城の一部でした。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16120725.jpg


境内奥の石仏を積み上げた場所は、本能寺の変後に坂本城が落城した際、明智方の将士を葬った首塚と伝わるそうです。

ここを訪れたときはそのことを知らず、後にネットで調べて知ったので、アップの写真がありません。

痛恨です。

明智光秀の重臣だった明智左馬助秀満は、安土城で光秀の死を知ると、有名な「明智左馬介の湖水渡り」でここ坂本城に入り、しばらく防戦しますが、最後は自ら城に火を放って自害したといいます。

この首塚のなかに、左馬助の首もあるかもしれません。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16165414.jpg


南北に走る旧大道です。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16165606.jpg


この道を境に、東が二ノ丸、西が三ノ丸だったそうです。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16180019.jpg


石碑に書かれた説明文によると、この大道はかつて坂本城のだったそうで、坂本城廃城後、埋め立てられて北国へ通じる大道を作ったそうです。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16241653.jpg


三ノ丸跡を歩きます。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16241931.jpg


グーグルマップに坂本城外堀跡という表示があったので、その場所に来てみたのですが、

南に両社神社、北に酒井神社があるものの、外堀跡を示す遺構や石碑などがありません。

どこでしょう?


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16204433.jpg


こちらは酒井神社。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16204805.jpg


こちらは両社神社。

どちらも、広島藩主の浅野長晟が建立した神社だそうです。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_16242219.jpg


両社神社の石垣です。

なんとなく城跡っぽいですね。

グーグルマップの表示はここを指していたので、写真を撮りました。


近江坂本城跡を歩く。 その3 <二ノ丸、三ノ丸>_e0158128_18521948.jpg


さて、二ノ丸、三ノ丸を制覇しましたが、もうちょっとシリーズを続けます。

「その4」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-02-22 11:26 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>

「その1」で紹介した坂本城址公園から150mほど北上したところに、かつて坂本城本丸があったとされます。

現在、その場所には、「坂本城本丸跡」と刻まれた石碑があります。


近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20371525.jpg
近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20371967.jpg


石碑の説明文は読みにくいですが、こうあります。


坂本城は、元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの後、明智光秀により東南寺川河口に築かれた水城としてよく知られている。

天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査ではじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。


近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20434486.jpg


ここは以前、企業の研修所があったようですが、ここを訪れた平成30年(2018年)8月現在、企業さんが手放されたのか、看板が撤去された無人の建物だけになっていました。

「その1」にあった案内MAPによると、この本丸跡の湖岸に坂本城の石垣があるといいます。

行ってみましょう。


近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20461679.jpg


湖岸にやってきました。

たしかに石垣があります。


近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20462041.jpg


これがそうでしょうか?


近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20485576.jpg


確かに石垣の遺構のようにも見えますが、後世のもののようにも思えますが、あとで調べてみると、石垣の遺構は琵琶湖が渇水して水位が下がったときのみ姿を表すそうなので、これは違うようです。

まぎらわしいですね。


近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20485937.jpg


ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』には、坂本城についてこう記されています。


「明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。」


フロイスの個人的な感想ではありますが、彼の目には安土城に勝るとも劣らない豪壮華麗な城に見えたようです。


近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20520379.jpg


本丸跡から見た琵琶湖北東の対岸です。

たぶん、写真左端に見える山々の一角が、安土城だと思うのですが・・・。


近江坂本城跡を歩く。 その2 <本丸跡>_e0158128_20534273.jpg


さて、本丸を制覇したので、二ノ丸、三ノ丸に向かいます。

「その3」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2020-02-21 00:24 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)