前稿で紹介した勝楽寺の裏山に、勝楽寺城跡があります。
勝楽寺は「婆娑羅大名」の異名で知られた佐々木道誉が、雲海和尚を請じて開山したものと伝わり、道誉の菩提寺となっています。
道誉は晩年この地に隠棲し、応安6年(1373年)に78歳で生涯を閉じました。
勝楽寺城は、道誉が館と領地を守護するために、応安元年(1368年)に家臣の高筑豊後守に命じて築城したものといわれています。

登山道入口です。
この日は先日の4月16日、桜が満開から少し散り始めといった時期でした。

登山道案内です。
所要時間は往復1時間半から2時間とあります。

防獣ネットを開けて入山します。

登りはじめてすぐに、「仕置場」跡があります。

仕置場とは、いわゆる処刑場です。
その霊を弔うための地蔵菩薩が何体もつくられていました。

そこから少し登ったところに、「経塚」といわれる平坦な場所があります。

説明看板によると、佐々木道誉の第三子・高秀が父の菩提をとむらうために、山頂に穴を掘り諸大名を始め近隣の人々を集めて大法要をいとなみ、そのとき、集った人達に法華経の経文を一字一石に書き、その穴に埋め後世に残して菩提をとむらったものだそうです。
その中央には、「大乗妙典」と刻まれていると書かれていますが・・・。

いわれてみれば、たしかに。

さらに山頂の城跡を目指します。

しばらく登ると、小さな鳥居が見えてきました。

ここは「狐塚」といわれるそうで、この塚は、狂言「釣狐」の発祥の地といわれているそうです。

道誉とは関係ない話なので、あとは、説明板をお読みください(笑)。

30分以上登り続けて、ようやく尾根にたどり着きました。
ここからが城跡のようです。
案内看板には「正楽寺城」とありますが、この山の麓にある道誉の菩提寺は「勝楽寺」ですが、その勝楽寺のある集落の地名が「正楽寺」といいます。
城名などは後世につけられたものでしょうから、どっちが正しいということもないのでしょう。

主郭近くになると、石垣跡と思われる大きな石が見え始めます。

そして本丸跡。
標高317m、比高170mあります。

それほど広い面積ではありません。

説明板によると、この城はところどころに縦堀があり、全国的にめずらしい「うね状縦堀山城」の姿をしているそうです。
「うね状縦堀山城」とは、「畝状竪堀(うねじょうたてぼり)」とも書き、竪堀(縦堀)とは、斜面に縦に造られた堀のことをいいます。
ただ、わたしにはどれが竪堀なのか、よくわかりませんでした。

本丸北側斜面の石垣跡です。

本丸跡からさらに北へ進むと、見張り台跡があります。

見張り台跡です。

説明板によると、ここから佐々木六角の居城・観音寺城と、京極家との境界である愛知川以北が一望できるとありますが、いまは高い樹木に覆われて周囲を見渡すことはできません。
道誉の時代、江北の京極氏と江南の六角氏の国境は愛知川を境としていましたが、時代は下って戦国時代になると、六角氏の勢力が拡大して国境は北上し、勝楽寺城も六角氏の支配下におかれました。
その後、永禄3年(1560年)の野良田の戦いで浅井長政が六角義賢を破り、勝楽寺城は浅井氏の支配下におかれました。
しかし、その後、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛する織田信長によって落城し、麓の勝楽寺と共に炎上したとされます。

城跡の尾根伝い南端には、「上臈落とし」といわれる場所があります。

説明看板によると、何か悲しい伝説があるみたいですが、調べがつきませんでした。
ただ、その立地からみて、ここも南側の見張り台的役割を果たしていた曲輪跡なんじゃないかと想像します。

上臈落としからの西(湖東平野)の眺望です。
前方に見える山は、荒神山城跡のある荒神山です。

そして南西に目を移すと、樹木のあいだに六角氏の居城、観音寺城のある山が見えます。
絶好の見張り台です。

最後に、下山して麓から勝楽寺城を撮影。
いかにも城跡らしい山の形状ですね。「太平記を歩く。」シリーズの、他の稿はこちらから。
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▲ by sakanoueno-kumo | 2017-04-20 00:43 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)