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明智光秀と一族の菩提寺・西教寺。

先日より紹介してきた近江坂本城跡から北西約3kmの比叡山南東山麓に、西教寺という大きな寺院があります。

ここは、明智光秀とその一族の菩提寺です。


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西教寺縁起によると、創建は聖徳太子で天智天皇8年(669年)に西教寺の号を下賜されたと伝わります。

しかし、これは伝承に過ぎず、はっきりしているのは、室町時代、中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である僧・真盛が入寺してから栄えるようになったようです。


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現在でも全国に450以上の末寺を持つ天台真盛宗の総本山です。


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元亀2年9月12日(1571年9月30日)、織田信長比叡山を焼き討ちにしますが、その際、ここ西教寺も焼失しました。

その後、比叡山焼き討ちの中心実行部隊として活躍した明智光秀が、近江国滋賀郡5万石を与えられて坂本城を築城します。

その目的は、比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得だったといいますが、ここ西教寺は、特に坂本城と近く、寺の復興にも光秀の援助があったといいます。


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光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が、いまも寺に現存しているそうです。


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本堂です。

本堂は焼失の3年後に復興したそうで、焼失した旧本尊の代わりに、甲賀郡の浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えて本尊としたそうです。

この阿弥陀如来像は現存し重要文化財に指定されていますが、この像がもとあった浄福寺については詳細不明だそうです。


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現存する本堂はその後改築されたもので、江戸時代中期の元文4年(1739年)の上棟だそうです。


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そして、その斜め向かいに、明智光秀とその一族の墓と供養塔があります。


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その説明板です。


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供花台には、明智家の桔梗の紋が。


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隅にある小さな墓石は、明智光秀の正妻・煕子の墓だそうです。

ただ、「煕子」という名前は、三浦綾子の小説『細川ガラシャ夫人』で広く知られるようになったもので、それ以前に知られていた光秀の室の名前は「お牧の方」でした。

司馬遼太郎『国盗り物語』では「お槙」でしたね。

実際のところ、確かな史料でその名前を確認することはできないようです。


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また、その死についても、天正4年(1576年)に病没したという説もあれば、天正10年(1582年)の坂本城落城の際に落命したという説もあり、諸説あって定かではありません。

また、生年も定かではなく、子についても細川ガラシャを含む3男4女をもうけたとされますが、それぞれ母は別であるという異説もあり、判然としません。

つまり、ほとんど謎の女性といっていいでしょう。

もっとも、この時代の女性については、織田信長の正室と伝わる濃姫もそうですが、ほどんど史料になるような記録が残っておらず、みんな謎の女なんですよね。


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月さびよ 明智が妻の はなしせむ


松尾芭蕉が光秀の妻の詠んだ歌です。

光秀が越前にいたころ、朝倉義景に仕えるも生活は貧しく、そんな中で連歌会の催しを光秀が担当することになったもののお金がなく、酒宴の用意に苦労する光秀をみかねた妻は、自分の黒髪を売って費用を工面したという伝承があります。

この逸話を越前丸岡に訪れた芭蕉が聞き、この歌を詠んだといわれています。


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こちらは、濃州妻木(明智)一族供養塔


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説明板によると、山崎の戦いから坂本城の攻防の戦乱のなかで、妻木城主・妻木廣忠の兄弟ら一族が討死し、一族郎党も多数討死しました。

天正10年6月14日(1582年7月4日)の坂本城落城後、明智一族に殉死した人々をここ西教寺に埋葬して供養したあと、6月18日、光秀の妻・煕子の墓前で廣忠は自刃したと伝わるそうです。

廣忠は煕子の実父だったといいます(諸説あり)。


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こちらは、光秀の辞世の碑です。


順逆無二門

大道徹心源

五十五年夢

覚来帰一元


読み下すと、

順逆二門に無し大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す

となります。

吉川英治の訳はこうです。


たとえ信長は討つとも、順逆に問われるいわれはない。

彼も我もひとしき武門。

武門の上に仰ぎかしこむはただ一方のほかあろうや。

その大道は我が心源にあること。知るものはやがて知ろう。

とはいえ五十五年の夢、醒むれば我も世俗の毀誉褒貶に洩れるものではなかった。

しかしその毀誉褒貶をなす者もまた一元に帰せざるを得まい。


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この漢詩は江戸時代の元禄6年(1693年)に書かれた『明智軍記』によるもので、山崎の戦いに敗れた光秀が、この詩を従士の溝尾庄兵衛に託して自刃したと伝えられているそうです。

光秀の死後100年以上のちの軍記物の出典ですから、光秀の辞世というのは眉唾ものですが。


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他にも、西教寺には戦国武将に関係した人の墓が多数ありました。

それはまた、別の機会に。


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西教寺墓園から東側を望みます。

琵琶湖の南湖が一望できます。


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南東に目をやると、坂本城跡が見えます。


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光秀もこうしてここから自身の城を眺めたかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-28 22:23 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

近江坂本城跡を歩く。 その4 <明智塚>

「その3」のつづきです。

坂本城二ノ丸の一角に、「明智塚」と書かれた駒札を見つけました。


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明智光秀首塚は京都の粟田口に、胴塚は京都の小栗栖にそれぞれ伝わっていますが、この明智塚はどういう由来だろうと思って説明文を読んでみると・・・。


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なるほど、「光秀の脇差名刀の郷義弘並宝器物を埋めた」とあります。

それなら理解できますね。


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あとから調べてみると、この塚にはいろんな伝承が残っているようです。

駒札の説明文にあったように、坂本城落城の際、明智左馬助秀満が光秀の愛刀「郷義弘」の脇差をここに埋めた、とか、坂本城築城の際、光秀が本家の美濃国守護土岐氏から伝領した宝刀を城の主柱の下に埋めた跡である、とか、坂本城落城で壮絶な最期を遂げた明智左馬助秀満の首を埋めた、とか、諸説あるようです。


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左馬助は安土城で光秀の死を知ると、急いで坂本城に向けて出陣しますが、大津で堀秀政軍に行く手を阻まれると、左馬助は大胆にも、打出浜から馬に騎乗したまま琵琶湖に入り、唐崎(あるいは柳が崎)に上陸して坂本城に入ったといいます。

有名な「明智左馬介の湖水渡り」の逸話ですね。

その後、左馬助はしばらく防戦を続けますが、城が完全に包囲されたことを知ると、天正10年6月14日(1582年7月4日)夜、光秀の妻子を刺し殺し、つづいて自分の妻も刺殺し、腹を十字にかっさばいて、火薬に火を付けて城もろとも自害したといいます(『川角太閤記』)。


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この塚は、地元では「さわると祟られる」との言い伝えがあり、壊されず地元の人の手によって丁重に守られてきました。

ここに左馬助が眠っているかどうかはわかりませんが、坂本城落城時の明智方の誰かが眠っているというのは、十分に考えられることでしょう。

夏草や 兵どもが 夢の跡。

合掌。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-27 19:48 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天下布武の象徴、安土城攻城記。 その9 <伝二ノ丸跡(織田信長廟所)>

「その8」天守台まで攻略しましたが、少し戻って安土城伝二ノ丸跡に向かいます。

伝二ノ丸跡には、織田信長廟所があります。


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石段を上がると、左に「二の丸阯」、右に「織田信長公本廟」と刻まれた石碑があります。


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石碑は昭和6年(1931年)に建てられたもののようです。


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信長の死について今更解説する必要はないと思いますが、天正10年6月2日(1582年6月21日)に明智光秀が起こした本能寺の変によって横死しました。

信長の遺体は見つかっておらず、したがって、ここに信長は眠っていません。


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本能寺の変の翌年の天正11年(1583年)2月、羽柴秀吉が亡き主君・信長の菩提を弔うためにこの廟所を建立しました。

遺体は見つかっていないため、信長愛用の太刀や烏帽子、直垂などの遺品が埋葬されたと伝えられます。


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周知のとおり、信長の死後間もない天正10年6月27日(1582年7月16日)に行われた清須会議において、秀吉は信長の後継にわずか3歳三法師(織田秀信)を推薦し、自らがこの後見人となって織田家中のイニシアティブをとりました。

その後、秀吉は荒廃した安土城を改修して同年12月に三法師の居城とし、年が明けた正月には、三法師に年賀を表すべく安土城に登城しています。

その翌月にこの廟所を建立しているわけで、秀吉としては、三法師の後見人としてここに信長の墓を建てることで、自らが信長の後継者であることを世に示したともいえるでしょう。

この廟所は、秀吉の政治といえます。


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この門より向こうは立入禁止となっています。


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これまでの稿でも述べてきたとおり、ここが二ノ丸というのはあくまで「伝」であり、確証はありません。

現在の伝本丸、伝二ノ丸、伝三ノ丸などの呼称は、安土城廃城後100年以上経った貞享年間(1684~88年)に描かれた絵図に記されたものであって、信憑性はありません。

むしろ、本丸より二ノ丸や三ノ丸のほうが高いという構造や、秀吉がここに信長の廟所を設けたということからみるに、貞享古図の伝本丸、伝二ノ丸、伝三ノ丸は誤りで、実際には、これら3つの郭をすべてまとめて本丸(本城)としていたのではないかと考えられています。

そして、信長の廟が建立されたこの地こそ、「御座敷」「御幸の御間」からなる本丸表御殿があったのではないかと言われています。


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ここは信長の廟所ということもあって、発掘調査はされていません。

ここを掘り起こせば、御殿跡の痕跡などが見つかるかもしれないのですが、墓を掘り起こすというのは、なかなか難しいのかもしれません。


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冒頭の石碑には「本廟」と刻まれていましたが、京都の阿弥陀寺にも、信長の本廟と伝わる墓石があります。

また、現在の本能寺(かつての本能寺とは場所が違う)にも信長の廟所があります。

それぞれ建てた人が違うのですが、いずれにしろ、そのどこにも信長の遺体は眠っていませんから、うちが本廟だ!と言ってしまえば、それで通るのでしょうね。

「その10」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-12 23:34 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

明治維新を血に染めた堺事件。 その2 「妙國寺・土佐十一烈士之墓」

「その1」で紹介した堺事件発祥の地碑から1kmほど西にある妙國寺で、くじ引きで決められた20人の土佐藩士が切腹することになりました。

現在、その境内には、切腹して果てた土佐藩士と、堺事件死亡したフランス水兵たちの供養塔が建てられています。


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事件から8日後の慶応4年2月23日(1868年3月16日)、ここ妙國寺の本堂庭前でフランス水兵に向けて発砲した土佐藩士の切腹が行われました。

急に降り出したのせいで2時間ほど執行が遅れましたが、居並ぶフランス関係者と日本側の立会いの元、順番に切腹が始まります。


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最初に切腹したのは、六番隊警備隊長の箕浦元章(猪之吉)

箕浦はみごとに横一文字に腹を切り裂くも、介錯人の切り込みが浅く、3度目の刃でようやく首が落とされたといいます。

一説には、箕浦は腹を切り裂いた直後、腹部に手を入れて自らの腸を取り出し、目の前で検分するフランス人に差し出して大喝したという話も残ります。

これが本当なら、介錯人が仕損じた理由もうなずけます。

その後も箕浦に続けとばかりに、深く切り裂いた口から内臓が外に飛び出すなど、凄まじいシーンの連続だったといいます。

そのあまりの凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールが恐れおののき、11人が切腹したところで、切腹に立ち会っていた外国局判事・五代友厚(才助)中止を要請し、ここで打ち切りとなりました。

偶然だったのかどうか、奇しくも事件で死亡したフランス水兵と同じ11人が切腹したことになります。

結果として、喧嘩両成敗、両者痛み分けという着地点になったわけですね。


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こちらが境内にある供養塔です。


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真ん中の碑には「南妙法蓮華経」、左の石碑には「土佐藩十一烈士之英霊」、そして右側の石碑には「佛国遭難将兵慰霊碑」と刻まれています。

これらは事件から50年後の大正5年(1916年)に建てられたものです。


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真ん中の碑の台には、切腹した11人の名前が刻まれています。


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フランス水兵の慰霊碑には、Themonument of the French martyrs(フランスの殉教者の記念碑)」と刻まれています。


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切腹した11人の亡骸は、妙國寺の向かいの宝珠院に葬られています。


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現在、宝珠院は幼稚園を兼ねており、わたしが訪れた土曜日は休日で、中には入れませんでした。

堺市のホームページによると、中に見える巨木の下に、11人の墓石が並んでいるそうです。


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宝珠院の前にある石碑です。


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一方、生き残った9人死ぬ覚悟だっただけに、突然の中止に納得がいかず、「死者の家族に合わす顔がない。この期に及んで死を免じられることは志士の恥じることとなる。」として、潔く腹を切ることを望んだといいます。

しかし、五代友厚は「フランス側がこれ以上の切腹を望まない以上、無駄に死ぬ必要はない」として、これを許しませんでした。

結局9人は、熊本、広島両藩預かりとなったのち、土佐に帰されました。


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その後、11人の墓標には多くの市民が詰めかけ「ご残念様」と参詣し、生き残った9人は「ご命運様」と呼ばれ、死体を入れるはずであった大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかったといいます。

周辺に残る石碑や道標が、参拝者が絶えなかった往時の様子をしのばせています。


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先日の稿で紹介した神戸事件と、この堺事件が、世界に日本の「ハラキリ」を広めるきっかけとなりました。

明治新政府最初の外交問題は、血まみれの決着となりました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-14 00:57 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その6 <美玉三平・中島太郎兵衛終焉の地(美国神社)>

「その5」のつづきです。

「その1」で紹介した生野代官所跡から直線距離で南西に25kmほど離れた宍粟市山崎町木ノ谷で、生野の変の挙兵メンバーの美玉三平中島太郎兵衛が落命しました。

現在、その近くにある美国神社に、ふたりのがあります。


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美玉三平は薩摩藩出身の脱藩浪士、中島太郎兵衛は地元但馬国の豪農でした。

彼らは早くから地元の農兵組織化に奔走しており、平野國臣らと計画段階から密議を交わして生野挙兵を具体化した、いわば生野の変の首謀者メンバーでした。


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美国神社入口の石碑には、「勤皇志士之碑」と刻まれています。


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その横の小さな石碑には「生野義挙志士最期の地」と刻まれ、その両側面には、その説明文が刻まれています。

何度も言いますが、わたしは生野の変を「義挙」だとは思っていません。

「暴挙」です。


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境内です。


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境内の片隅に、ふたりのがあります。


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文久3年10月13日(1863年11月23日)夜の生野破陣後、美玉三平は中島太郎兵衛と弟の黒田興一郎とともに逃走します。

翌14日の午後4時ごろ、ここ播磨国山崎の木之谷に入りますが、そのとき、後方から500人近い農兵は押し寄せ、発砲してきました。

怒った美玉は抜刀して追い払おうとしますが、やがて銃弾が胸を貫き、しばらく息があったものの、その後、絶命します。

中島太郎兵衛と弟の興一郎は神社そばの民家に逃げ込みますが、兄・太郎兵衛の傷は深く、弟の介錯によって自刃します。

太郎兵衛はその死の直前、手持ちの270両を弟に渡し、これを持って逃げろと説得したといいます。

しかし、兄を介錯した興一郎はそのあと自ら縛につき、京都六角獄舎に送られ、慶応2年2月9日(1866年3月25日)に獄中死します。


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墓の建立者のなかには、生野挙兵メンバーの生き残りで維新後には京都府知事貴族院議員を務めた北垣国道の名があります。

北垣国道は中島らと同じ但馬出身ですから、同郷のよしみだったのでしょう。

また、その横には、蘭方医・松本良順の実弟で元幕臣の林董の名もあります。

その理由がよくわかりませんが、林董は一時期、兵庫県知事を務めており、おそらく、その縁で建立者に加わったのではないでしょうか。

だとすれば、おそらく、この墓石は林が県知事を務めていた明治23年(1890年)から翌24年の間に建てられたのでしょう。


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境内には、彼らの顛末を説明した石板があります。

それを読むと、明治21年(1888年)9月に美玉三平が、同24年(1891年)9月に中島太郎兵衛と黒田興一郎兄弟が、それぞれ靖国神社に合祀され、美玉と中島に従四位、黒田に正五位が贈られたとあります。

靖国合祀については色々と言いたいことがありますが、ここではひとまずそれは置いといて、おそらく靖国合祀に合わせてここに墓碑が建てられたのではないでしょうか。


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石板の文末には、黒田興一郎が獄中で兄の中島太郎兵衛と美玉三平を悼んだが刻まれています。


もののふの 名はいつまでも 木の谷の そのかんばしき 楠のもと


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せっかくなので、美国神社にも参拝して帰りましょう。


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社殿です。


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社殿から見下ろすと、ふたりの墓石が見えます。

青のプリウスαはわたしの愛車です(笑)。


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さっきの石板の説明によると、ここの元の名称は「山神社」でしたが、美玉、中島、黒田の3人の霊を併せ祀り、通称を「美国神社」としたのも、国に殉じた美徳を称えるためとあります。

美談にしちゃいけないんですけどね。

彼らのやったことは、単なるテロリズムですから。

「その7」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-29 21:39 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その29 「天誅義士湯ノ谷墓所」

鷲家には「天誅義士湯ノ谷墓所」があります。

ここも、「その26」で紹介した明治谷墓所と同じく天誅組隊士たちが葬られています。


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伊勢街道沿いに「天誅義士墓所」と刻まれた石碑が建てられています。


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この石碑は比較的新しいもののようです。


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柵を開けてなかに入ると、このあたりの集落の墓地があり、墓地内に「天誅義士湯ノ谷墓所」と書かれた案内板が。


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墓地のいちばん奥の一角に、特別な場所といった雰囲気の古い玉垣に囲われたスペースが見えます。


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手前の石灯籠は、天誅義士百二十年祭のときに作られたもののようです。


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錆びた古い看板、読めません。


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明治谷墓所には、文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で討死した隊士が葬られていましたが、ここ湯ノ谷墓所は、その翌日以降に落命した隊士が眠っています。


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ここに眠っているのは、松本奎堂、村上萬吉、藤本鉄石、福浦元吉、森下幾馬、森下儀之助の6名。

もっとも、そのうち森下儀之助は翌年の京都六角獄舎にて刑死したため、遺骸はここに葬られてはいないのですが、弟の幾馬がこの墓地に眠っているので、地元の人々の気持ちで兄の墓石も建てられたそうです。


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なので、こちらの案内板には、儀之助の名前が載っていません。


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左から、「その24」で紹介した森下儀之助、森下幾馬「その28」で落命した松本奎堂「その27」で討死した藤本鉄石の墓石です。


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こちらは、一番右がひとつ前の写真と同じ森下儀之助で、その横が藤本鉄石とともに討ち死にした福浦元吉、いちばん左が松本奎堂とともに落命した村上萬吉ですが、その右側の「藤本眞金君墓」という墓石が、誰のことかわかりませんでした。

上の看板にも載ってなかったですし、隊士なんでしょうか?


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玉垣の外には「天誅組烈士ノ碑」と刻まれた小さな石碑もあります。


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こちらは漢詩の石碑です。


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ここ湯ノ谷墓所も、明治谷墓所と同じく明治27年(1894年)に整備されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-13 23:59 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その26 「天誅義士明治谷墓所」

「その25」で紹介した宝泉寺から南東に200mほど歩いたところにある墓地に、宝泉寺で菩提を弔われていた天誅組隊士たちの墓があります。


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墓所入口には、「天誅義士墓所」と刻まれた石碑が建てられています。

その横には石灯籠と「天誅義士明治谷墓所」と書かれた看板が。


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石碑です。


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天誅組隊士の墓所は何か所かありますが、ここに葬られている天誅組隊士の名簿です。

吉村寅太郎以外は、文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で最期を遂げた隊士たちですね。


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この階段を上ったところに墓所があります。

なかなかハードです。


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この石碑は古そうです。


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途中、歌碑のようなものがあったのですが、古くて読解できません。


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たどり着きました。

石垣が城跡のようです。


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墓所です。


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鉄柵の門扉と玉垣で守られています。


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向かって左から、「その20」で討死した西田仁兵衛の墓です。


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同じく「その20」で討死した天保高殿の墓です。


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こちらは「その21」で討死した山下佐吉(安田鉄蔵)の墓。


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同じく「その21」で討死した植村定七の墓。

墓石には「定七郎」と刻まれています。


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こちらは「その23」で討死した林豹吉郎の墓。

贈正五位」とあります。


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「その24」で討ち死にした鍋島米之助の墓。

こちらも贈正五位」とあります。


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「その22」で紹介した宍戸弥四郎の墓。

ひとつ位階が上がって贈従四位」とあります。


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こちらは「その19」で討死した決死隊隊長の那須信吾の墓。

宍戸と同じく贈従四位」とあります。


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そして、いちばん右端には天誅組総裁吉村寅太郎の墓が。

総裁ということもあって、贈正四位」とあります。

この中で吉村だけは鳥ヶ峰の戦いで負傷していたため本隊と逸れ、鷲家口の決戦には参戦できませんでした。

吉村はその3日後に鷲家谷付近で落命します。

その場所にも吉村の墓がありますが、明治29年(1896年)にここへ改葬されたそうです。


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全員、現在の墓石の裏側に旧墓石があったのですが、吉村の旧墓石だけ、外から見える場所に設置されていました。

この碑は吉村の死後、間もなく建てられたものだそうですが、参拝をしてお願いをすればたいへん御利益があるという噂が広まり、一時は大勢の人々でにぎわったそうです。

ところが、この話が鈴木源内の後任の五条代官・中村官兵衛の耳に入り、「賊徒の墓に参拝するとはけしからん」と、この碑を川の下へ投げ落としたそうです。

墓碑の角が取れてこのように丸くなっているのは、このときのことだそうです。

このことは、古文書で次のように記されています。


「此にて天誅組の内、主たる人、吉村寅太郎様戦死。土民浪士の石碑を刻み其の土地に葬りけり。然るにその後、近村近国より参詣人多数、追々益々群集致し、天誅組吉村大神儀として、様々の立願相込め、御利益之存り候より、誠に追々参詣人群集致し候故、其の御支配御役所より差し止め候処、なかなか百姓共、聞き入れ申さず、益々参詣人弥増、不思議なる次第、可恐々」


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その横には、「夫仲吉村内分」と刻まれた墓碑があります。

ネットで調べてみると、建碑者不明の墓碑だそうですが、吉村寅太郎の妻が世を憚って変名彫刻したものであろうと伝えられているそうです。


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こちらの古い碑は、「天誅義士那須信吾・・・」と書かれているように見えますが、後半が読解不能です。


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明治22年(1889)に那須信吾の息子、那須重宗が墓参に訪れ、信吾の墓碑を建碑したそうです。

その後、明治27年(1894年)に全員の墓碑が新しく建碑され、大正元年(1912年)に石柵が設置されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-08 23:14 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その13 「井澤宜庵宅跡・墓所」

五條出身の天誅組隊士としては、「その12」で紹介した乾十郎のほかにも2人いましたが、そのなかのひとり井澤宜庵の住居あとにも石碑が建てられています。


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井澤宜庵は乾十郎と同じく、五條で医者をしていた人物です。

あまり有名な人ではありませんが、天誅組には軍医として参加していたそうです。

軍中では病傷人の面倒をよくみ、隊士の信頼も厚かったと伝わります。


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説明板によると、高取城攻めで負傷した吉村寅太郎の手当てもしたそうで、その丁寧な治療により、大将の中山忠光から褒美としてを贈られたといいます。


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近くの永楽院には、井澤宜庵の墓があります。


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説明板によると、天誅組が鎮圧された後、五條で津藩の軍勢に降伏して捕らえられ、五條の人々の働きかけによっていったん釈放されたそうですが、のちに今度は幕府の役人に捕らえられ、慶応元年(1865年)、乾が処刑された京都六角獄に投獄され、そこで毒殺されたそうです。

享年43

妻の禮以ととともにここに眠ります。


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五條代官所襲撃で殺害された代官の鈴木正信(源内)さらし首の絵が残っているそうですが、その絵を描いたのが井澤宜庵だったといいます。

明治31年(1898年)、政府は井澤宜庵に正五位を贈りました。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-17 01:46 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その10 「五條代官 鈴木源内墓所」

天誅組五條代官所襲撃によって殺害された代官・鈴木正信(源内)墓所が、五條代官所跡の石碑から北東200mほどのところにあります。


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墓は地元の人たちの墓地のなかにひっそりとあります。

その参道には、「鈴木源内外五士之墓」と刻まれた石碑があります。


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こちらがその墓です。


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文久3年8月17日(1863年9月29日)の五條代官所襲撃で殺されたのは、代官の鈴木源内をはじめ、役人の、長谷川岱祐、伊東敬吾、黒澤儀助、そして不運にもそこに居合わせた按摩師の嘉吉も巻き沿いになります。

また、後日、同じく役人の木村祐次郎、高橋勇蔵も落命します。

墓石は5基ですが、葬られているのは鈴木、長谷川、高橋、木村の4基と、伊東と黒澤が合祀された1基です。

嘉吉はここには葬られていません。


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代官の鈴木源内は700石の旗本で、前年に江戸から赴任してきたばかりでした。

温厚篤実な人物で、長寿の老人を表彰するなどして領民から慕われていたと伝わります。

幕府は、天領に対しては儒教風な善政主義をとり、代官を選任するときは、直参のなかから学識温で無欲な者を選びました。

由来、天領は大名への模範となる清廉な人物を任用したので、代官の中から汚職などの貪官汚吏が発生したことはほとんどなかったといいます。

いわゆる「悪代官」というのは、幕府直轄地にはほとんどいなかったようですね。

鈴木代官は、そういう幕府の考えを絵に描いたような代官で、善政への意欲が強く、殺される理由などどこにもありませんでした。


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中央のいちばん大きな墓石が鈴木源内の墓です。


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その左横が高橋勇蔵の墓。


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右横が長谷川泰助の墓。


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左出前が黒崎儀助伊東敬吾が合祀された墓。


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そして右手前が木村祐次郎の墓。

木村は、司馬遼太郎の短編『五条陣屋』で主人公のひとりとして描かれた人物です。

彼ら6人の首は、五条の須恵の道端に晒され、捨て札が立てられました。

捨て札に書かれた罰文は、司馬氏の『五条陣屋』のものを引用します。


「この者ども、近来違勅の幕府の意を受け、もっぱら有志(志士)の者を押えつけ、幕府を朝廷同様に心得、わずか三百年来の恩義を唱え、開闢以来の天恩を忘却し、これがため皇国を辱かしめ、夷荻の助けと成り侯事もわきまえず、かつ収斂の筋もすくなからず、罪重大、よって天誅を加える者也」


上記は司馬さんの創作ですが、おそらく似たようなものだったでしょう。

皇国を辱かしめたのは、どっちでしょうね。


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これらの墓は事件終息後、地元の人々が資金を出し合って建立したそうです。

幕府直轄地の役人だったという、ただそれだけで殺された5人。

維新後、天誅組の面々にことごとく位階が贈られ、靖国神社に祀られたのに対して、ひっそりと五條の領民たちとともに眠る6人。

いかに靖国神社というところが、維新後の薩長史観によって利用された偏った政治的神社であるかがわかりますね。

あんまり言うと炎上するので、このへんにしておきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-10 01:29 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その5 「朝倉義景・朝倉孝景墓所」

「その3」で紹介した朝倉氏館跡の東南隅旧松雲院墓地内に、第11代当主の朝倉義景墓所があります。


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木標には「五代」とありますが、朝倉氏の拠点を一乗谷に移した朝倉孝景を初代とした場合、義景は5代目になりますが、越前国に入国した朝倉広景を初代とすると、義景は11代目となります。

当ブログでは、11代とさせてもらいます。


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こちらが、その義景の墓です。


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朝倉義景は、天正元年(1573年)8月20日、刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)織田信長に敗れ、従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていましたが、そこで景鏡の裏切りに遭い、自刃します。

この墓は天正4年(1576年)に村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663年)に福井藩主の松平光通によって現在の墓塔が立てられたそうです。


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義景の死によって朝倉氏は滅亡し、義景は最後の当主となります。

義景の首は信長家臣の長谷川宗仁によって京都で獄門に曝され、その後、浅井久政・長政父子とともに髑髏に箔濃を施された話は、あまりにも有名ですね。

その髑髏をにして酒を飲ませたという逸話は、後世の作り話といわれています。


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一乗谷遺跡内には、もう1ヵ所、朝倉氏の墓所があります。

「その4」で紹介した中の御殿跡の東にある山道を登ります。


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これが、その墓所。

7代目当主・朝倉孝景の墓所です。


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木札には「初代」とありますが、上記と同じ理由で当ブログでは7代目とします。

7代目当主・朝倉孝景は、朝倉氏の拠点をここ一乗谷に移した人物です。


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朝倉氏は代々、越前守護代甲斐氏、尾張守護代織田氏とともに、三管領筆頭で越前・尾張・遠江守護の斯波氏の宿老を務めていました。

応仁元年(1467年)に応仁の乱が始まると、孝景は当初は西軍に属して京都で戦いましたが、文明3年(1471年)に越前に帰国し、越前守護代甲斐氏に代わって守護代職になることを条件に、東軍(幕府側)に寝返りました。

このため、甲斐氏と越前支配をかけた激しい戦いを展開し、文明7年(1475年)、越前をほぼ平定します。

ところが、守護斯波氏は孝景の越前支配を「越前押領」とみなし、文明11年(1479年)には、東軍(幕府側)に帰順した甲斐氏や二宮氏など被官人を引きつれ、「朝倉退治」と称して越前に下国、一進一退の戦いが続きます。

この戦いの最中、文明13年(1481)7月、孝景は病死しました。


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孝景の墓は、その法名から英林塚とも呼ばれます。

高さ約2mの宝篋印塔で、昔から、越前に危機が迫ると鳴動するとの伝説があるそうです。


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さて、朝倉氏5代103年の歴史をもつ一乗谷朝倉氏遺跡をめぐってきましたが、本稿をもって終わりにします。

本当は、遺跡の東にある一乗谷城跡にも登りたかったのですが、その時間がとれませんでした。

また今度の機会ということで。

最後に、日本100名城のスタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-03-27 00:34 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)