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明治維新を血に染めた堺事件。 その2 「妙國寺・土佐十一烈士之墓」

「その1」で紹介した堺事件発祥の地碑から1kmほど西にある妙國寺で、くじ引きで決められた20人の土佐藩士が切腹することになりました。

現在、その境内には、切腹して果てた土佐藩士と、堺事件死亡したフランス水兵たちの供養塔が建てられています。


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事件から8日後の慶応4年2月23日(1868年3月16日)、ここ妙國寺の本堂庭前でフランス水兵に向けて発砲した土佐藩士の切腹が行われました。

急に降り出したのせいで2時間ほど執行が遅れましたが、居並ぶフランス関係者と日本側の立会いの元、順番に切腹が始まります。


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最初に切腹したのは、六番隊警備隊長の箕浦元章(猪之吉)

箕浦はみごとに横一文字に腹を切り裂くも、介錯人の切り込みが浅く、3度目の刃でようやく首が落とされたといいます。

一説には、箕浦は腹を切り裂いた直後、腹部に手を入れて自らの腸を取り出し、目の前で検分するフランス人に差し出して大喝したという話も残ります。

これが本当なら、介錯人が仕損じた理由もうなずけます。

その後も箕浦に続けとばかりに、深く切り裂いた口から内臓が外に飛び出すなど、凄まじいシーンの連続だったといいます。

そのあまりの凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールが恐れおののき、11人が切腹したところで、切腹に立ち会っていた外国局判事・五代友厚(才助)中止を要請し、ここで打ち切りとなりました。

偶然だったのかどうか、奇しくも事件で死亡したフランス水兵と同じ11人が切腹したことになります。

結果として、喧嘩両成敗、両者痛み分けという着地点になったわけですね。


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こちらが境内にある供養塔です。


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真ん中の碑には「南妙法蓮華経」、左の石碑には「土佐藩十一烈士之英霊」、そして右側の石碑には「佛国遭難将兵慰霊碑」と刻まれています。

これらは事件から50年後の大正5年(1916年)に建てられたものです。


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真ん中の碑の台には、切腹した11人の名前が刻まれています。


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フランス水兵の慰霊碑には、Themonument of the French martyrs(フランスの殉教者の記念碑)」と刻まれています。


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切腹した11人の亡骸は、妙國寺の向かいの宝珠院に葬られています。


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現在、宝珠院は幼稚園を兼ねており、わたしが訪れた土曜日は休日で、中には入れませんでした。

堺市のホームページによると、中に見える巨木の下に、11人の墓石が並んでいるそうです。


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宝珠院の前にある石碑です。


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一方、生き残った9人死ぬ覚悟だっただけに、突然の中止に納得がいかず、「死者の家族に合わす顔がない。この期に及んで死を免じられることは志士の恥じることとなる。」として、潔く腹を切ることを望んだといいます。

しかし、五代友厚は「フランス側がこれ以上の切腹を望まない以上、無駄に死ぬ必要はない」として、これを許しませんでした。

結局9人は、熊本、広島両藩預かりとなったのち、土佐に帰されました。


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その後、11人の墓標には多くの市民が詰めかけ「ご残念様」と参詣し、生き残った9人は「ご命運様」と呼ばれ、死体を入れるはずであった大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかったといいます。

周辺に残る石碑や道標が、参拝者が絶えなかった往時の様子をしのばせています。


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先日の稿で紹介した神戸事件と、この堺事件が、世界に日本の「ハラキリ」を広めるきっかけとなりました。

明治新政府最初の外交問題は、血まみれの決着となりました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-14 00:57 | 大阪の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その6 <美玉三平・中島太郎兵衛終焉の地(美国神社)>

「その5」のつづきです。

「その1」で紹介した生野代官所跡から直線距離で南西に25kmほど離れた宍粟市山崎町木ノ谷で、生野の変の挙兵メンバーの美玉三平中島太郎兵衛が落命しました。

現在、その近くにある美国神社に、ふたりのがあります。


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美玉三平は薩摩藩出身の脱藩浪士、中島太郎兵衛は地元但馬国の豪農でした。

彼らは早くから地元の農兵組織化に奔走しており、平野國臣らと計画段階から密議を交わして生野挙兵を具体化した、いわば生野の変の首謀者メンバーでした。


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美国神社入口の石碑には、「勤皇志士之碑」と刻まれています。


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その横の小さな石碑には「生野義挙志士最期の地」と刻まれ、その両側面には、その説明文が刻まれています。

何度も言いますが、わたしは生野の変を「義挙」だとは思っていません。

「暴挙」です。


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境内です。


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境内の片隅に、ふたりのがあります。


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文久3年10月13日(1863年11月23日)夜の生野破陣後、美玉三平は中島太郎兵衛と弟の黒田興一郎とともに逃走します。

翌14日の午後4時ごろ、ここ播磨国山崎の木之谷に入りますが、そのとき、後方から500人近い農兵は押し寄せ、発砲してきました。

怒った美玉は抜刀して追い払おうとしますが、やがて銃弾が胸を貫き、しばらく息があったものの、その後、絶命します。

中島太郎兵衛と弟の興一郎は神社そばの民家に逃げ込みますが、兄・太郎兵衛の傷は深く、弟の介錯によって自刃します。

太郎兵衛はその死の直前、手持ちの270両を弟に渡し、これを持って逃げろと説得したといいます。

しかし、兄を介錯した興一郎はそのあと自ら縛につき、京都六角獄舎に送られ、慶応2年2月9日(1866年3月25日)に獄中死します。


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墓の建立者のなかには、生野挙兵メンバーの生き残りで維新後には京都府知事貴族院議員を務めた北垣国道の名があります。

北垣国道は中島らと同じ但馬出身ですから、同郷のよしみだったのでしょう。

また、その横には、蘭方医・松本良順の実弟で元幕臣の林董の名もあります。

その理由がよくわかりませんが、林董は一時期、兵庫県知事を務めており、おそらく、その縁で建立者に加わったのではないでしょうか。

だとすれば、おそらく、この墓石は林が県知事を務めていた明治23年(1890年)から翌24年の間に建てられたのでしょう。


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境内には、彼らの顛末を説明した石板があります。

それを読むと、明治21年(1888年)9月に美玉三平が、同24年(1891年)9月に中島太郎兵衛と黒田興一郎兄弟が、それぞれ靖国神社に合祀され、美玉と中島に従四位、黒田に正五位が贈られたとあります。

靖国合祀については色々と言いたいことがありますが、ここではひとまずそれは置いといて、おそらく靖国合祀に合わせてここに墓碑が建てられたのではないでしょうか。


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石板の文末には、黒田興一郎が獄中で兄の中島太郎兵衛と美玉三平を悼んだが刻まれています。


もののふの 名はいつまでも 木の谷の そのかんばしき 楠のもと


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せっかくなので、美国神社にも参拝して帰りましょう。


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社殿です。


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社殿から見下ろすと、ふたりの墓石が見えます。

青のプリウスαはわたしの愛車です(笑)。


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さっきの石板の説明によると、ここの元の名称は「山神社」でしたが、美玉、中島、黒田の3人の霊を併せ祀り、通称を「美国神社」としたのも、国に殉じた美徳を称えるためとあります。

美談にしちゃいけないんですけどね。

彼らのやったことは、単なるテロリズムですから。

「その7」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-29 21:39 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その29 「天誅義士湯ノ谷墓所」

鷲家には「天誅義士湯ノ谷墓所」があります。

ここも、「その26」で紹介した明治谷墓所と同じく天誅組隊士たちが葬られています。


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伊勢街道沿いに「天誅義士墓所」と刻まれた石碑が建てられています。


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この石碑は比較的新しいもののようです。


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柵を開けてなかに入ると、このあたりの集落の墓地があり、墓地内に「天誅義士湯ノ谷墓所」と書かれた案内板が。


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墓地のいちばん奥の一角に、特別な場所といった雰囲気の古い玉垣に囲われたスペースが見えます。


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手前の石灯籠は、天誅義士百二十年祭のときに作られたもののようです。


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錆びた古い看板、読めません。


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明治谷墓所には、文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で討死した隊士が葬られていましたが、ここ湯ノ谷墓所は、その翌日以降に落命した隊士が眠っています。


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ここに眠っているのは、松本奎堂、村上萬吉、藤本鉄石、福浦元吉、森下幾馬、森下儀之助の6名。

もっとも、そのうち森下儀之助は翌年の京都六角獄舎にて刑死したため、遺骸はここに葬られてはいないのですが、弟の幾馬がこの墓地に眠っているので、地元の人々の気持ちで兄の墓石も建てられたそうです。


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なので、こちらの案内板には、儀之助の名前が載っていません。


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左から、「その24」で紹介した森下儀之助、森下幾馬「その28」で落命した松本奎堂「その27」で討死した藤本鉄石の墓石です。


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こちらは、一番右がひとつ前の写真と同じ森下儀之助で、その横が藤本鉄石とともに討ち死にした福浦元吉、いちばん左が松本奎堂とともに落命した村上萬吉ですが、その右側の「藤本眞金君墓」という墓石が、誰のことかわかりませんでした。

上の看板にも載ってなかったですし、隊士なんでしょうか?


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玉垣の外には「天誅組烈士ノ碑」と刻まれた小さな石碑もあります。


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こちらは漢詩の石碑です。


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ここ湯ノ谷墓所も、明治谷墓所と同じく明治27年(1894年)に整備されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-13 23:59 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その26 「天誅義士明治谷墓所」

「その25」で紹介した宝泉寺から南東に200mほど歩いたところにある墓地に、宝泉寺で菩提を弔われていた天誅組隊士たちの墓があります。


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墓所入口には、「天誅義士墓所」と刻まれた石碑が建てられています。

その横には石灯籠と「天誅義士明治谷墓所」と書かれた看板が。


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石碑です。


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天誅組隊士の墓所は何か所かありますが、ここに葬られている天誅組隊士の名簿です。

吉村寅太郎以外は、文久3年9月24日(1863年11月5日)に起きた鷲家口の決戦で最期を遂げた隊士たちですね。


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この階段を上ったところに墓所があります。

なかなかハードです。


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この石碑は古そうです。


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途中、歌碑のようなものがあったのですが、古くて読解できません。


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たどり着きました。

石垣が城跡のようです。


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墓所です。


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鉄柵の門扉と玉垣で守られています。


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向かって左から、「その20」で討死した西田仁兵衛の墓です。


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同じく「その20」で討死した天保高殿の墓です。


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こちらは「その21」で討死した山下佐吉(安田鉄蔵)の墓。


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同じく「その21」で討死した植村定七の墓。

墓石には「定七郎」と刻まれています。


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こちらは「その23」で討死した林豹吉郎の墓。

贈正五位」とあります。


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「その24」で討ち死にした鍋島米之助の墓。

こちらも贈正五位」とあります。


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「その22」で紹介した宍戸弥四郎の墓。

ひとつ位階が上がって贈従四位」とあります。


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こちらは「その19」で討死した決死隊隊長の那須信吾の墓。

宍戸と同じく贈従四位」とあります。


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そして、いちばん右端には天誅組総裁吉村寅太郎の墓が。

総裁ということもあって、贈正四位」とあります。

この中で吉村だけは鳥ヶ峰の戦いで負傷していたため本隊と逸れ、鷲家口の決戦には参戦できませんでした。

吉村はその3日後に鷲家谷付近で落命します。

その場所にも吉村の墓がありますが、明治29年(1896年)にここへ改葬されたそうです。


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全員、現在の墓石の裏側に旧墓石があったのですが、吉村の旧墓石だけ、外から見える場所に設置されていました。

この碑は吉村の死後、間もなく建てられたものだそうですが、参拝をしてお願いをすればたいへん御利益があるという噂が広まり、一時は大勢の人々でにぎわったそうです。

ところが、この話が鈴木源内の後任の五条代官・中村官兵衛の耳に入り、「賊徒の墓に参拝するとはけしからん」と、この碑を川の下へ投げ落としたそうです。

墓碑の角が取れてこのように丸くなっているのは、このときのことだそうです。

このことは、古文書で次のように記されています。


「此にて天誅組の内、主たる人、吉村寅太郎様戦死。土民浪士の石碑を刻み其の土地に葬りけり。然るにその後、近村近国より参詣人多数、追々益々群集致し、天誅組吉村大神儀として、様々の立願相込め、御利益之存り候より、誠に追々参詣人群集致し候故、其の御支配御役所より差し止め候処、なかなか百姓共、聞き入れ申さず、益々参詣人弥増、不思議なる次第、可恐々」


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その横には、「夫仲吉村内分」と刻まれた墓碑があります。

ネットで調べてみると、建碑者不明の墓碑だそうですが、吉村寅太郎の妻が世を憚って変名彫刻したものであろうと伝えられているそうです。


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こちらの古い碑は、「天誅義士那須信吾・・・」と書かれているように見えますが、後半が読解不能です。


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明治22年(1889)に那須信吾の息子、那須重宗が墓参に訪れ、信吾の墓碑を建碑したそうです。

その後、明治27年(1894年)に全員の墓碑が新しく建碑され、大正元年(1912年)に石柵が設置されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-08 23:14 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その13 「井澤宜庵宅跡・墓所」

五條出身の天誅組隊士としては、「その12」で紹介した乾十郎のほかにも2人いましたが、そのなかのひとり井澤宜庵の住居あとにも石碑が建てられています。


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井澤宜庵は乾十郎と同じく、五條で医者をしていた人物です。

あまり有名な人ではありませんが、天誅組には軍医として参加していたそうです。

軍中では病傷人の面倒をよくみ、隊士の信頼も厚かったと伝わります。


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説明板によると、高取城攻めで負傷した吉村寅太郎の手当てもしたそうで、その丁寧な治療により、大将の中山忠光から褒美としてを贈られたといいます。


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近くの永楽院には、井澤宜庵の墓があります。


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説明板によると、天誅組が鎮圧された後、五條で津藩の軍勢に降伏して捕らえられ、五條の人々の働きかけによっていったん釈放されたそうですが、のちに今度は幕府の役人に捕らえられ、慶応元年(1865年)、乾が処刑された京都六角獄に投獄され、そこで毒殺されたそうです。

享年43

妻の禮以ととともにここに眠ります。


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五條代官所襲撃で殺害された代官の鈴木正信(源内)さらし首の絵が残っているそうですが、その絵を描いたのが井澤宜庵だったといいます。

明治31年(1898年)、政府は井澤宜庵に正五位を贈りました。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-17 01:46 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その10 「五條代官 鈴木源内墓所」

天誅組五條代官所襲撃によって殺害された代官・鈴木正信(源内)墓所が、五條代官所跡の石碑から北東200mほどのところにあります。


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墓は地元の人たちの墓地のなかにひっそりとあります。

その参道には、「鈴木源内外五士之墓」と刻まれた石碑があります。


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こちらがその墓です。


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文久3年8月17日(1863年9月29日)の五條代官所襲撃で殺されたのは、代官の鈴木源内をはじめ、役人の、長谷川岱祐、伊東敬吾、黒澤儀助、そして不運にもそこに居合わせた按摩師の嘉吉も巻き沿いになります。

また、後日、同じく役人の木村祐次郎、高橋勇蔵も落命します。

墓石は5基ですが、葬られているのは鈴木、長谷川、高橋、木村の4基と、伊東と黒澤が合祀された1基です。

嘉吉はここには葬られていません。


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代官の鈴木源内は700石の旗本で、前年に江戸から赴任してきたばかりでした。

温厚篤実な人物で、長寿の老人を表彰するなどして領民から慕われていたと伝わります。

幕府は、天領に対しては儒教風な善政主義をとり、代官を選任するときは、直参のなかから学識温で無欲な者を選びました。

由来、天領は大名への模範となる清廉な人物を任用したので、代官の中から汚職などの貪官汚吏が発生したことはほとんどなかったといいます。

いわゆる「悪代官」というのは、幕府直轄地にはほとんどいなかったようですね。

鈴木代官は、そういう幕府の考えを絵に描いたような代官で、善政への意欲が強く、殺される理由などどこにもありませんでした。


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中央のいちばん大きな墓石が鈴木源内の墓です。


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その左横が高橋勇蔵の墓。


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右横が長谷川泰助の墓。


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左出前が黒崎儀助伊東敬吾が合祀された墓。


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そして右手前が木村祐次郎の墓。

木村は、司馬遼太郎の短編『五条陣屋』で主人公のひとりとして描かれた人物です。

彼ら6人の首は、五条の須恵の道端に晒され、捨て札が立てられました。

捨て札に書かれた罰文は、司馬氏の『五条陣屋』のものを引用します。


「この者ども、近来違勅の幕府の意を受け、もっぱら有志(志士)の者を押えつけ、幕府を朝廷同様に心得、わずか三百年来の恩義を唱え、開闢以来の天恩を忘却し、これがため皇国を辱かしめ、夷荻の助けと成り侯事もわきまえず、かつ収斂の筋もすくなからず、罪重大、よって天誅を加える者也」


上記は司馬さんの創作ですが、おそらく似たようなものだったでしょう。

皇国を辱かしめたのは、どっちでしょうね。


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これらの墓は事件終息後、地元の人々が資金を出し合って建立したそうです。

幕府直轄地の役人だったという、ただそれだけで殺された5人。

維新後、天誅組の面々にことごとく位階が贈られ、靖国神社に祀られたのに対して、ひっそりと五條の領民たちとともに眠る6人。

いかに靖国神社というところが、維新後の薩長史観によって利用された偏った政治的神社であるかがわかりますね。

あんまり言うと炎上するので、このへんにしておきます。




「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
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天誅組の足跡を訪ねて。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-10 01:29 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その5 「朝倉義景・朝倉孝景墓所」

「その3」で紹介した朝倉氏館跡の東南隅旧松雲院墓地内に、第11代当主の朝倉義景墓所があります。


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木標には「五代」とありますが、朝倉氏の拠点を一乗谷に移した朝倉孝景を初代とした場合、義景は5代目になりますが、越前国に入国した朝倉広景を初代とすると、義景は11代目となります。

当ブログでは、11代とさせてもらいます。


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こちらが、その義景の墓です。


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朝倉義景は、天正元年(1573年)8月20日、刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)織田信長に敗れ、従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていましたが、そこで景鏡の裏切りに遭い、自刃します。

この墓は天正4年(1576年)に村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663年)に福井藩主の松平光通によって現在の墓塔が立てられたそうです。


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義景の死によって朝倉氏は滅亡し、義景は最後の当主となります。

義景の首は信長家臣の長谷川宗仁によって京都で獄門に曝され、その後、浅井久政・長政父子とともに髑髏に箔濃を施された話は、あまりにも有名ですね。

その髑髏をにして酒を飲ませたという逸話は、後世の作り話といわれています。


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一乗谷遺跡内には、もう1ヵ所、朝倉氏の墓所があります。

「その4」で紹介した中の御殿跡の東にある山道を登ります。


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これが、その墓所。

7代目当主・朝倉孝景の墓所です。


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木札には「初代」とありますが、上記と同じ理由で当ブログでは7代目とします。

7代目当主・朝倉孝景は、朝倉氏の拠点をここ一乗谷に移した人物です。


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朝倉氏は代々、越前守護代甲斐氏、尾張守護代織田氏とともに、三管領筆頭で越前・尾張・遠江守護の斯波氏の宿老を務めていました。

応仁元年(1467年)に応仁の乱が始まると、孝景は当初は西軍に属して京都で戦いましたが、文明3年(1471年)に越前に帰国し、越前守護代甲斐氏に代わって守護代職になることを条件に、東軍(幕府側)に寝返りました。

このため、甲斐氏と越前支配をかけた激しい戦いを展開し、文明7年(1475年)、越前をほぼ平定します。

ところが、守護斯波氏は孝景の越前支配を「越前押領」とみなし、文明11年(1479年)には、東軍(幕府側)に帰順した甲斐氏や二宮氏など被官人を引きつれ、「朝倉退治」と称して越前に下国、一進一退の戦いが続きます。

この戦いの最中、文明13年(1481)7月、孝景は病死しました。


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孝景の墓は、その法名から英林塚とも呼ばれます。

高さ約2mの宝篋印塔で、昔から、越前に危機が迫ると鳴動するとの伝説があるそうです。


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さて、朝倉氏5代103年の歴史をもつ一乗谷朝倉氏遺跡をめぐってきましたが、本稿をもって終わりにします。

本当は、遺跡の東にある一乗谷城跡にも登りたかったのですが、その時間がとれませんでした。

また今度の機会ということで。

最後に、日本100名城のスタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-03-27 00:34 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

月山富田城跡登城記 その5 「塩治興久の墓」

「その4」の続きです。

月山富田城のある月山の麓に、尼子氏一族の塩冶興久の墓と伝わる墓石があります。

塩冶興久は尼子氏の中興の祖・尼子経久の三男で、出雲国西部で大きな勢力を持つ名族・塩冶氏養子となり、塩冶姓を名乗っていました。


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享禄3年(1530年)、興久は父・経久に対して反乱を起こし、出雲国を追放されます。

『陰徳太平記』によれば、所領加増が認められなかったために反乱を起こしたとありますが、実際には、尼子家中における重臣たちの勢力争いが背景にあったといわれます。

経久の時代に一気に勢力を拡大した尼子氏でしたが、その分、在来の国人領主たちの尼子氏統治に対する不満も大きく、かつて出雲国守護を務めたこともある名族・塩冶氏を押し立てての全面対決に至ったと考えられます。


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説明板では、「尼子興久墓」となっています。

塩冶姓ではなんでダメなんでしょうね。


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出雲国を追われた興久は、妻の実家である山内氏を頼って備後国へと逃れて抵抗を続けますが、その後、天文3年(1534年)に自害

乱は終決しました。

この乱が尼子氏の勝利で終わったことにより、出雲国における尼子氏の権力基盤は盤石となっていきます。

尼子氏の栄華を築いたのは経久と言われますが、逆の意味で、興久もその功労者といえるかもしれません。


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さて、シリーズ5回に渡って紹介してきた月山富田城跡めぐりですが、本稿でひとまず終わりです。

月山富田城跡周辺には他にも尼子氏関連の史跡が数多くあったのですが、この日は時間的制約があってすべてを回ることが出来ませんでした。

また、機会を見つけて訪れてみたいと思います。

神戸から車で3時間以上かかるんですけどね。

最後に、日本100名城スタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-02-09 20:01 | 島根の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

月山富田城跡登城記 その4 「堀尾吉晴の墓・山中鹿介幸盛供養塔」

「その3」のつづきです。

月山の北西の登山道を登りはじめてすぐに、巌倉寺という古い寺があるのですが、そこに、月山富田城の最期の城主・堀尾吉晴の墓があります。


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巌倉寺は聖武天皇(第45代天皇)の神亀3年(726年)に建立されたといわれる歴史ある寺院で、元々上流の山佐にあったものを、12世紀の後半に月山富田城の城主だった佐々木義清が、祈願寺とするために御子守神社とともに城内に移したといわれています。


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本堂です。

本尊は一木造りの聖観世音菩薩だそうで、藤原氏の時代の技法を伝えるこの本尊は、同寺所有の帝釈天立像とともに国の重要文化財に指定されているそうです。


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本堂脇から奥の墓地へ向かいます。


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この石段を登ったところに、堀尾吉晴の墓があるようです。

さすがは城主の墓というだけあって、特別な場所といった感じです。


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堀尾吉晴の墓です。


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高さ3m余りの立派な五輪塔です。


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堀尾吉晴は、尾張国出身の武将で、織田信長の家臣時代から羽柴秀吉の配下として働き、のちの豊臣政権時代には三中老のひとりに任命されるなど、秀吉の信任が厚い武将でした。

秀吉の死後は徳川家康に与し、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの功により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城します。


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しかし、月山富田城は急峻な山奥の中世以来の山城だったため、交通も不便で城下町を形成する土地もなく、時代にそぐわない城でした。

そこで吉晴は、宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画。

慶長12年(1607年)に着工し、5年間にわたる難工事のすえ、慶長16年(1611年)に完成しました。

それが、先ごろ国宝に指定された松江城です。


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もっとも、吉晴は落成間近の慶長16年(1611年)6月に急死しており、息子の堀尾忠氏もそれ以前に急死していたことから、松江城の初代城主は吉晴の孫・堀尾忠晴となりました。


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吉晴の遺骸は、その遺言によってこの地に埋葬されたそうです。

なぜ、吉晴にとってはそれほど思い入れがあったとは思えないこの地を埋葬場所に遺言したんでしょうね?

あるいは、月山富田城400年の歴史を自身の代で終わらせたことに対する鎮魂の思いだったのでしょうか?


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吉晴の墓の横には、山中鹿介幸盛供養塔と伝わる墓碑があります。

これは、慶長7年(1602年)に吉晴の内儀(妻)が、鹿介の遺徳を偲んで建てたものだと伝わります。


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でも、尼子氏の家臣に過ぎない鹿介の供養塔を堀尾家が建てるだろうか・・・という疑問は拭えないですね。

鹿介が悲運の英雄として語り継がれるようになるのは江戸時代中期からで、鹿介に関する逸話のほとんどが、江戸期に創られたものだと言われます。

堀尾氏が出雲国に入ったこの時代、鹿介がそれほど英雄扱いされていたとは考えづらいですし、もし、供養塔を建てるとするならば、尼子氏のものだったんじゃないかと。

無粋なことを言うようですが。


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あと、同じく巌倉寺には、吉晴の娘・小耶姫の墓もあります。

小耶姫は若くして重い病にかかり、20歳で池に身を投げて自ら命を絶った悲劇の姫君で、ここをお参りすると、婦人病が治癒すると言われています。

あと、もう一回だけシリーズ続けます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-08 22:13 | 島根の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

上野戦争に散った彰義隊の墓

前稿で紹介した西郷隆盛像のある上野恩賜公園には、彰義隊の墓があります。

彰義隊とは、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜側近の旧幕臣を中心として結成した有志隊で、ここ上野が舞台となった上野戦争における佐幕側部隊です。


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鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は、江戸城に戻ると朝廷に対して恭順の意を示し、ここ上野にある寛永寺謹慎しますが、その慶喜の護衛江戸警備の名目で結成されたのが彰義隊でした。

もっとも、表向きの名目は慶喜の護衛と江戸警備ですが、実情は、慶喜の恭順姿勢に不満を抱く強硬派の集団でした。

頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、幹事には本多敏三郎伴門五郎が就きました。

隊士には旧幕臣のみならず、町人博徒侠客も参加し、たちまち1000人を越える規模になります。


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慶応4年3月13日(1868年4月6日)、新政府軍の参謀・西郷隆盛と、旧幕府軍の陸軍総裁・勝海舟との歴史的会談が行われ、その約1ヶ月後の慶応4年4月11日(1868年5月3日)、江戸城は無血開城されることになり、慶喜も水戸にて謹慎することで決着します。

しかし、それに不満を持った彰義隊は、徹底抗戦を主張し、上野寛永寺に立て籠もります。

この不穏な空気を重く見た勝海舟は、再三、彰義隊の解散を促しますが、彼らは聞き入れることはなく、その後、彰義隊のなかでは慎重派だった渋沢成一郎が離脱して天野八郎ら強硬派がイニシアチブを取ると、ますます過激さを増していきます。


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京都に本陣を布いていた新政府軍は、関東での事態を重く見、西郷や勝では抑えきれないと判断して、大村益次郎を送り込んで指揮を執らせます。

江戸に入った大村は、たちまちにして陣形を整え、そしてとうとう5月15日(7月4日)、上野に結集した彰義隊3000人に対して、新政府軍2万人が総攻撃を開始。

その圧倒的な戦力の差から、開戦から1日も経たずに彰義隊は壊滅しました。


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この戦いにおける記録上の戦死者は、彰義隊105名、新政府軍56名といわれています。


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彰義隊士の遺体は、しばらく上野山内に放置されていたそうですが、三ノ輪円通寺の住職仏磨らによってこの地で茶毘に付されました。

説明板によると、正面の小墓石は、明治2年(1869年)に寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだそうで、のちに掘出されたそうです。

後ろの大墓石は、明治14年(1881年)12月に、元彰義隊士の小川興郷(椙太)らによって建てられたものだそうで、彰義隊は明治政府にとって賊軍だったため、政府をはばかって彰義隊の文字はありませんが、旧幕臣の山岡鉄舟の揮毫による「戦死之墓」の字が刻まれています。

その後、小川家によって墓所は守られてきましたが、現在は歴史的記念碑として、東京都が維持管理しています。


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彰義隊の墓が建てられたのが明治14年(1881年)で、西郷隆盛像が建てられたのが、その16年後の明治30年(1897年)。

同じ上野恩賜公園内に敵対した西郷隆盛の像と彰義隊の墓が隣接しているわけですが、今は問題ないとして、明治の頃は、関係者はどんな心境だったのでしょうね。

少なくとも、彰義隊の遺族は快くは思っていなかったんじゃないでしょうか。

もっとも、大村の像じゃなかっただけ、マシだったかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-29 00:37 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)