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西郷どん 第13話「変わらない友」 ~篤姫の輿入れと大久保利通の熊本行き~

e0158128_20010581.jpg安政の大地震などによって先送りになっていた篤姫将軍家輿入れがようやく決定したのは安政3年(1856年)2月のことでしたが、このとき、島津斉彬の命で篤姫の嫁入り道具の調達にあたったのが、西郷吉之助(隆盛)でした。その内容は、箪笥長持、挟箱、櫛、髪飾りなど姫君の嫁入り道具全般に及び、文字通り金に糸目を付けない方針で、西郷自身が店の暖簾をくぐって店との交渉も行ったといいます。現在、残っている書状などを読むと、このときの西郷がいかに花嫁道具の調達に腐心していたかが窺えます。その苦労の甲斐あってか、自身は貧乏な家庭に育ちながら、高価な貴重品の鑑識眼を身につけることになったといいます。


 この嫁入り道具調達のエピソードと、後年の江戸城無血開城に至る嘆願書の話の2つが、西郷と篤姫の接点を史料で確認できる数少ない史実です。つまり、それ以外はすべてフィクションということになります。ところが、今回のドラマでは、その2人の関係を濃厚に描いてきていたので(前話ではラブシーンまで)、きっと、この嫁入り道具調達のエピもたっぷり尺をとって描くのかなぁと思っていたのですが、意外にもあっさり流していましたね。まあ、嫁入り道具を買い集める姿を多く描いても物語上意味がないといわれればそうなんですが、西郷と篤姫の関係をここまでフィーチャーしてきたことを思えば、この数少ない史実エピをもう少し丁寧に描いてもよかったのではないかと。


 西郷が調達した豪華絢爛な品々を携えた篤姫の長大な輿入れ行列は、先頭が江戸城内に到着しても最後尾は依然、渋谷の薩摩藩邸にいたといい、すべてが江戸城に入るのに6、7日間ほどもかかったといいますから、驚くよりほかありません。


e0158128_17375658.jpg 翌年の安政4年5月24日(1857年6月15日)、西郷は約3年4ヶ月ぶりに薩摩に帰国しました。しかし、そのわずか半年後の11月1日(12月16日)には、斉彬の命によって再び江戸に向かうことになります。このとき、同志の大久保正助(利通)が熊本まで同行したという話は史実です。物語では、その大久保の熊本行きを斉彬に進言したことで、逆に大久保の自尊心を逆撫でしてしまうという話でしたね。実際には、このときのふたりの役付けは同じなんですが、斉彬の腹心として江戸、京都と国事に奔走していた西郷に対して、大久保はまだ薩摩を一歩も出たことがなく、あるいは、ドラマのように多少の劣等感を抱いていたかもしれません。また、同格といっても、西郷が徒目付に昇進したのは同年10月1日(11月17日)で、大久保が昇進したのはその1ヶ月後の11月1日(12月16日)。まさに、熊本に向けて出発する当日のことでした。あるいは、ドラマのように西郷の口利きがあったのかもしれませんね。


 たしか10年前の大河ドラマ『篤姫』でも、似たようなシーンが描かれていました。熊本を訪れた西郷と大久保が肥後熊本藩家老の長岡監物と面会するのですが、そこで、西郷と監物との間で内密な話が始まると、西郷が大久保に座を外してほしいと頼み、その言葉に大久保は屈辱を味わうというもの。実際にこのようなことがあったかどうかはわかりませんが、ふたりが長岡監物と面会したのは史実で、このときのことを監物は他者に宛てた書簡に記しています。しかし、そこにあるのは西郷の名だけで、大久保の名はまったく出てきません。監物から見れば、まだ無名だった大久保は西郷の付き人程度にしか思えなかったのかもしれません。そういうものは態度に出るでしょうから、このとき大久保は、西郷との大きな差を実感したでしょうね。


 ただ、後年のそれが示すとおり、大久保という人は、逆境を逆境と思わない強靭な精神力と粘り強さを持った人物です。このときの屈辱は、のちの大久保利通を形成する大きなバネになったのではないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2018-04-10 17:42 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第2話「立派なお侍」 ~郡方書役としての西郷吉之助~

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 弘化元年(1844年)、西郷吉之助(隆盛)は数えの18歳で郡方書役助に任じられ、藩の役人の末席に名を連ねます。この役職は、農政を担当する郡奉行の配下で、役人としては最下級でした。そのお役目の具体的な内容は、藩内のあちこちを常に巡回して、道路などの普請の必要性を調べたり、農家のの出来具合を管理し、年貢徴収の監督にあたるというものでした。西郷はこのポスト(やがて書役に昇進)を約10年間務めることとなり、そのため困窮している農民の実態を熟知し、農政に精通するようになります。西郷の官吏としての実務能力は優れていたようで、そのことは、これより十数年後の安政3年(1856年)に島津斉彬に直接提出したとされる農政に関する上書からも窺えます。

 また、西郷はこの職務を長く務めたことで、農民に対する深い愛情の心を持つようになったといわれます。もちろん、西郷もこの時代の武士階級一般と同じく、「愚民観」の持ち主でしたが、だからこそ、支配階級である武士として農民を助けなければならないという信念を持っていたようです。ドラマでは、借金のかたに売られそうになっていた少女を助けるために力を尽くしていましたが、似たようなエピソードが伝えられています。


 若き日の西郷が年貢の徴収作業にあたっていたとき、年貢を払えずに農耕馬を泣く泣く手放そうとしていた農夫が、夜中に愛馬と別れを惜しんでいる姿をたまたま目撃します。翌日、西郷は役所に掛け合って年貢の徴収を延期してもらったといいます。このエピソードは西郷伝には欠かせない話で、西郷の農民に対する深い愛情と、弱い者や貧しく不幸な人に対する生来の情の厚さが窺えます。


 ドラマには出てきていませんが、西郷がこの職に就いた当初の上司(郡奉行)は、名奉行として知られた迫田太次右衛門利済という人物でした。迫田は見識が高く気骨がある人物だったといい、農民への同情心に厚く、困窮した農民の生活を守るため、年貢の減額の嘆願書を藩に提出し、それが聞き入れられないと、激しく義憤して奉行を辞職してしまいました。迫田の辞職は西郷が書役助に就いて間もないころのことで、その後の西郷の人格形成に、大きな影響を与えたといわれます。

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 西郷が郡方書役助の役職に就いた2年後の弘化3年(1846年)、西郷より3つ年下の大久保正助(利通)は、記録所書役助に任じられます。書役の主な職務は、古い文書を管理し、藩内の様々な記録を整理するというお役目。いわば事務官ですね。沈着冷静な実務家の大久保には、うってつけのお役目だったといえるでしょうか。それにしても、西郷と大久保、この2人の役人としての出発点の対比は、実におもしろいですね。西郷は農村を歩き回って実態を調べる外回りの役目で、大久保は役所に詰める事務職。まるで、将来の2人の関係を暗示しているかのようです。庶民の声望高き革命家・西郷隆盛と、官僚を統率する政治家・大久保利通の原点は、ここにあったのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-16 16:41 | 西郷どん | Trackback(1) | Comments(2)  

太平記を歩く。 その166 「楠木正行墓所」 大阪府四條畷市

「その163」で紹介した四條畷神社から1kmほど西に、楠木正行墓所があります。

入口には、右手に「忠」、左手に「孝」を刻んだ石柱があります。


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その附近には、建てられた時代が違うであろう石碑が、あちこちにあります。


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正行は、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日、足利方・高師直軍と激突した「四條畷の戦い」に敗れ、弟の楠木正時と共に自害しましたが、それが、この場所だったと伝わります。


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墓所内は厳かな雰囲気で、まるで天皇陵のようです。


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墓所の門は閉ざされていて、中に入ることはできません。


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楠家の家紋・菊水です。


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玉垣の間から中を撮影。

バカでかい墓標があります。

本石の高さ約5.5m、礎石、中台を含めると約7.5mの高さになる巨大な墓標です。

墓標が立てられたのは明治11年(1878年)、銘は大久保利通の揮毫によるものだそうです。


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『太平記』巻26「楠正行最期事」は、正行の最期を次のように伝えます。


正行は左右の膝口三所、右のほう崎、左の目尻、箆深に射られて、其矢、冬野の霜に臥たるが如く折懸たれば、矢すくみに立てはたらかず。其外三十余人の兵共、矢三筋四筋射立られぬ者も無りければ、「今は是までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違へ北枕に臥ければ、自余の兵三十二人、思々に腹掻切て、上が上に重り臥す。


全身に矢が刺さって動けなくなった正行は、「もはやこれまでだ。敵の手には懸かるな」と言って、正時とともに北枕に倒れ込むと、同じく体中に傷を追った32人の兵たちは後を追って腹を切り、折り重なって倒れた・・・と。

正行23歳、正時22歳でした。


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墓所には、樹齢600年と伝わるクスノキ大樹が聳えます。


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正行らの遺骸が葬られた当初は、土を盛った上に墓石が置かれただけの墓所だったそうですが、死後80年が過ぎた正長2年(1429年)、当地の人々が彼らの塚の両脇に2本のクスノキの苗を植えたそうで、そのクスノキはその後成長を続け、墓石をはさみ込み、2本が1本に合わさって現在に至っているそうです。


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そのクスノキの根本です。

写真では伝わりづらいですが、高さ約25m、幹周り約12mというかなりの大樹で、大阪府の天然記念物に指定されています。


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境内に建つ楠木夫人の碑。

明治35年(1905年)に建てられました。


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他にも、いろんな場所に石碑があるのですが、誰の何の石碑か説明書きがないので、よくわかりません。


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現在、墓所は四条畷神社の管理下にあり、大阪府指定史跡となっています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-12 23:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その2

前稿の続きです。

次に、こちらも歴史ファンから根強く支持されているのが、薩摩藩黒幕説です。

坂本龍馬と親交の深かった薩摩藩ですが、慶応3年(1867年)に入ると、その関係は微妙になってきます。

龍馬の推し進める「大政奉還」に表面では賛同しながらも、実際には武力倒幕の準備を着々と進めていた薩摩藩にとっては、平和改革路線を主張する龍馬は次第に目障りな存在になりつつあり、革命成就後の薩摩閥の地位確保のために、龍馬を消したというのがこの説の推論です。


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以前はわたしもこの説に最も信憑性を感じていたのですが、ただ、よくよく考えてみると、やはり腑に落ちない点が浮かび上がります。

というのも、果たして薩摩が龍馬をそれほど重要視していただろうか?・・・と思うんですね。

薩摩藩といえば、幕府に次ぐ勢力を持つ大藩であり、その中心的指導者だった西郷隆盛は、幕末の動乱の初期段階から活動していた名士でした。

一方の龍馬は、最近にわかに名前が売れてきた程度の人物で、西郷にしてみれば、薩長同盟の仲介人といった程度の認識でしかなかったんじゃないかと思います。

その薩長同盟も、後世の小説などでは龍馬と中岡慎太郎が成立させたように描かれますが、これも見方を変えれば、薩長が手を結ぶために双方に親交があった龍馬たちを利用したともとれますし、たぶん、そんな側面もなきにしもあらずだったんじゃないでしょうか。

実際、西郷が国元にいた大久保利通に宛てた書状のなかに「坂本某という脱藩浪士を便利に使っている」といったニュアンスのことが書かれています。

西郷にとって龍馬は、それほど重要な存在ではなかったと思うんですね。


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慶応3年(1867年)に入ってからの龍馬の新国家の構想は、薩長を中心とした雄藩に徳川家も加えた連合政権だったといわれ、大政奉還から暗殺されるまでの約1ヵ月間の龍馬の政治活動は、主にその構想を実現するための周旋活動だったといいます。

この動きは、たしかに薩摩にとっては少々目障りだったかもしれませんが、とはいえ、時流は薩長にありましたから、龍馬ごときを殺そうが殺すまいが、結局は薩長主導のもとに戊辰戦争は起こっていたと思います。

むしろ、どっち付かずの土佐藩を討幕勢力に引き入れるためにも、薩長にとって龍馬はまだまだ利用価値があったといえます。

どう考えても、この時点で薩摩が龍馬を殺すことは、ハイリスクローリターンだと思うんですね。

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ただ、もし薩摩藩黒幕説が事実だとすれば、その中心人物はやはり西郷隆盛だったと思います。

一部には、龍馬とはあまり接点がなかった大久保利通が、西郷の了承なしで暗殺を指示したとの説がありますが、少なくともこれはあり得ないでしょう。

この時期、大久保は主に朝廷への工作を担っており、他藩士との外交の中心は、西郷でした。

「敬天愛人」の体現者としてのイメージが強い西郷ですが、この時期の西郷は、幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊偽官軍として処断するなど、道義に反する行いを数多く断行しており、マキャベリストとしての顔が目立ちます。

一方の大久保は、冷徹な鉄仮面というだけで、そういう面は見られません(一説には、岩倉具視とともに孝明天皇毒殺したなんて話もありますが、これも、裏付ける史料はなにもなく、俗説にすぎません)。

また、武力倒幕に最もこだわっていたのも西郷ですし、革命成就後の薩摩閥の地位確保のためという動機であれば、尚のこと西郷だと思います。

事実、維新後の明治政権におけるふたりを見てもわかるように、一貫して薩摩閥を重視した西郷に対して、大久保は薩摩人には珍しく藩閥に固執しない人物で、そのことが薩摩人からの大久保不人気の一因となり、やがては西南戦争につながっていきます。

そんな後年のふたりを比較してみても、脱藩浪士から土佐藩士に復帰した龍馬の政治活動を疎ましく思うとすれば、大久保より西郷だったのではないでしょうか。

いずれにせよ、最初の話に戻りますが、西郷にせよ大久保にせよ、殺さなければならないほど龍馬を重要視していたとは思えません。


龍馬が暗殺されたとき、西郷も大久保も、薩摩に帰国していました。

何のために帰っていたかというと、討幕のための出兵を要求するために帰っていたのです。

実は、薩摩藩はこの時期に至ってもなお藩内保守派の勢力が強く、決して一枚岩ではありませんでした(むしろ、西郷ら倒幕派のほうが少数派だったとも言われます)。

それら保守派を説得して出兵するための藩論をまとめるために帰国していました。

彼らにしてみれば、いかにして藩内の保守派を抑えるかが眼前の最大の課題であって、はっきりいって龍馬など眼中になかったと思います。

彼らの敵はむしろ薩摩藩内にあり、本当に暗殺したかったのは、藩内の政敵だったんじゃないでしょうか(その最大の政敵が国父の島津久光だったため、さすがに暗殺するわけにはいかなかったでしょうが)。

そんな背景から見ても、薩摩藩黒幕説というのは、よくよく考えてみると薄いように思えますね。

次回に続きます。








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by sakanoueno-kumo | 2017-11-17 00:08 | 歴史考察 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その18 「楠公生誕地」 大阪府南河内郡千早赤阪村

ここで少し時系列を離れて、楠木正成に関連した千早赤阪村の史跡を巡っていきます。

まずは、「楠木正成生誕地」の伝承地を訪れました。


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その伝承によると、楠木正成は永仁2年(1294年)、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村水分(みくまり)に生まれたといいます。


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しかし、正成の出自については様々な説があり、詳しくはわかっていません。

『太平記』では、楠木氏は橘氏の後裔と伝えていますが、これも、その真偽は定かではありません。

つまり、正成以前の楠木氏のことは、ほとんどといっていいようです。


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現地説明板によると、このすぐ横にある「くすのきホール」の建設に伴い発掘調査を行った際には、2重の堀を周囲にめぐらせた建物跡が発見され、14世紀のものとみられる出土品も見つかったことから、周囲の中世山城群と合わせて考え、楠木氏関連の建物であったと推定したそうです。


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文禄年間には増田長盛豊臣秀吉の命を受け、土壇を築き、建武以降、楠邸にあった百日紅を移植したという記録が残っているそうです。

また、元禄年間には、領主の石川総茂が保護を加えました。


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現在残る石碑は、明治8年(1875年)、大久保利通によって建立されたそうで、碑文の「楠公生誕地」は、幕末三剣豪のひとりで、明治8年当時、誉田八幡宮の祠官だった桃井春蔵直正の揮毫だそうです。


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幕末には尊皇派の精神的支柱となり、第二次世界大戦前は忠臣の象徴的存在に祀り上げられた正成ですが、戦後は価値観の転換とともにその評価も変わりました。

吉川英治『私本太平記』では、戦前までのイメージとはまったく違う正成像を描いています。

その時代背景によって政治利用されてきた楠木正成。

本人が知ったら、決して気分のいいものじゃないでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-24 02:22 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第46話「未来への絆」 ~西南戦争後の国事犯たち~

 8ヶ月に及んだ西南戦争は政府軍の勝利で幕を閉じ、政府軍の死者は6,403人、反乱軍の死者は西郷隆盛をはじめ6,765人に及びましたが、反乱軍の生き残りたちは国事犯として長崎で裁判にかけられ、そのほとんどが囚人となります。しかし、政府の管理する監獄ではそのすべてを収監しきれず、約2,700人の囚人が全国の監獄に護送されることとなりました。楫取素彦が県令を務める群馬県には、最初に57名、翌年に31名計88名が囚人として送られてきたそうです。

 ドラマでは、群馬県では囚人たちをただ労役につかせるだけでなく、仕事を与えて職業訓練をさせるという試みをはじめたとありましたが、実際には、群馬県のみならず多くの県で同じようなことが行われていたようです。ただ、それは現代のような職業訓練という趣旨ではなく、労働力としてのそれだったようですね。もっとも、奴隷のようにこき使われていたわけでもなく、むしろ囚人らが自発的に労働を望む場合が多かったようで、開墾作業土木工事に従事して、地域開発に大きな役割を果たしました。

 「国事犯」とは国家の政治的秩序を侵害する犯罪のことをいいますが、そもそも革命期においては、その政治的秩序そのものが不安定なもので、勝てば官軍負ければ賊軍、ひとつ間違えれば、裁く側裁かれる側が逆転していたかもしれないわけです。ドラマ中の美和も言っていましたが、官軍も賊軍も、国のことを憂い、国のために命を投げ出した者たちであり、罪人と言っても、極悪非道な人物たちではなかったわけです。先週、フランス同時多発テロ事件がありましたが、現代のように一定の政治的秩序が確立された時代の政治犯とは違いますからね。当時の国事犯のなかには、人格者が多くいたはずです。

 しかし、当時、国事犯とは最も重い罪で、その首謀者は、ほとんどがまともな裁判にかけられることなく死罪になっています。「佐賀の乱」江藤新平「萩の乱」前原一誠がそうですね。政治的秩序が不安定である以上、その秩序を乱す行為は見せしめとして厳罰に処し、秩序を正当化していく必要があったわけです。その恐怖政治を断行したのは大久保利通でしたが、それほど強引な姿勢で臨まないと、新しい秩序は確立されなかったんですね。新国家の陣痛時期とでもいうか・・・。現代でも、政治犯を問答無用で粛清する独裁国家がすぐ近くにありますが、それ即ち、国家の秩序が不安定な状態にあることを露呈しているといえるでしょうか。

 話を戻すと、その後わが国における囚人の数は増え続け、明治18年(1885年)には8万9千人となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するため、明治14年(1881年)に監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を、当時、開拓地だった北海道に求めました。開拓の労働力としても役に立ち、加えて、人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得だという目論見もあったようです。そんなわけで、明治14年(1881年)には月形町に樺戸集治監、明治15年(1882年)には三笠市に空知集治監、明治18年(1885年)には標茶町に釧路集治監、そして明治23年(1890年)には有名な網走囚徒外役所が置かれます。こうして北海道の監獄の歴史がはじまるんですね。

 本稿は、ドラマから少し離れちゃいましたね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-16 17:54 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第45話「二人の夜」 ~「太陽暦耕作一覧」と「維新三傑」の死~

 日本の暦が太陰暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦)に変わったのは、明治5年(1872年)12月2日を明治6年(1873年)1月1日に改めたことにはじまります。この影響をいちばん受けたのは、いうまでもなく農業でした。先祖代々、太陰暦に基づいて作物を育ててきたお百姓さんたちは、新しい暦に馴染めず、収穫に支障が出る有様だったといいます。

 これを問題視したのは、熊谷県(群馬県の前身)原之郷村(現在の前橋市)に住む船津伝次平という百姓でした。伝次平は独学で太陽暦を理解し、「太陽暦耕作一覧」と称したマニュアルを作成し、これを県令である楫取素彦に献上します。このマニュアルは、太陽暦に馴染めない農民たちでも、ひと目で理解できる優れた手引だったようです。これに感じ入った素彦は、「太陽暦耕作一覧」を県庁の予算で大量に印刷し、県下の農民たちに無料配布したそうです。このマニュアルのおかげで、熊谷県は他府県にくらべて改暦の混乱は少なくてすみました。伝次平の農業にかける熱意も素晴らしいですが、それをいち早く取り上げた素彦の英断もさすがですね。

 その後、伝次平の識見を高く評価した素彦は、伝次平を政府参議兼内務卿の大久保利通に紹介します。そして、やはり素彦と同じく伝次平を高く評価した利通は、伝次平を駒場農学校(東京大学農学部の前身)教師に登用します。後年、伝次平は奈良県の中村直三、香川県の奈良専ニとともに「明治の三老農」と呼ばれるようになります。

 「維新三傑」といえば、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、そして長州藩の木戸孝允ですが、この3人が、わずか1年の間に立て続けにこの世を去るんですね。最初に死去したのは木戸孝允。西南戦争まっただ中の明治10年(1877年)5月26日のことでした。享年45歳(満43歳)。死因は病死という以外に詳しいことはわかっていません。元来、ナイーブな性格の人物だったようですから、幕末の動乱から新国家設立の過程で、神経をすり減らして寿命を縮めたのかもしれませんね。木戸は最後まで鹿児島の情勢を憂い、京都の別邸で朦朧状態のなか、訪れた大久保の手を握り締め、「西郷、もう大抵にせんか!」と叫んだのが最後の言葉だったとか。

 そしてその4ヶ月後の9月24日、鹿児島県は城山にて西郷が自刃します。決起から7ヶ月に及んだ西南戦争は、明治政府軍の圧勝で幕を閉じます。最後の決戦場となった城山にて、股間を撃たれて歩けなくなった西郷は、肩を負っていて別府晋介に、「晋どん、もうここらでよか」と語り、その場で別府に自身の首を討たせました。享年51歳(満49歳)。その後、反乱軍幹部たちはめいめいに戦死をとげ、ここに、わが国最後の内戦は終わります。

 そして、その政府軍の首相である大久保も、木戸の死から1年が経とうとしていた明治11年(1878年)5月14日、石川県士族6人によって暗殺されます。享年49歳(満47歳)。暗殺者たちは事前に予告状を送り付けていましたが、大久保はこれに一顧だにしなかったといいます。いかにも腹の座った性格がうかがえますが、命を落としてしまったら何にもなりませんね。暗殺団に囲まれて馬車から引きずり下ろされた大久保は、抵抗する暇もなく、めった斬りにされ、喉へ突き刺されたトドメの一撃は、首を貫通して地面に突き刺さったといいます。

 こうして維新三傑たちは、その役目を終えたかのように立て続けにこの世を去りました。そして、残って国の政治・軍事をリードするのは、伊藤博文山縣有朋など、維新前後には脇役に過ぎなかった二線級の志士たちでした。このあたり、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』で、司馬氏が次のようなことを言っています。

 分類すれば、革命は三代で成立するのかもしれない。初代は松陰のように思想家として登場し、自分の思想を結晶化しようとし、それに忠実であろうとするあまり、自分の人生そのものを喪ってしまう。初代は、多くは刑死する。二代は晋作のような乱世の雄であろう。刑死することはないにしても、多くは乱刃のなかで闘争し、結局は非業にたおれねばならない。三代目は、伊藤博文、山県有朋が、もっともよくその型を代表しているであろう。かれら理想よりも実務を重んずる三代目たちは、いつの時代でも有能な処理家、能吏、もしくは事業家として通用する才能と性格をもっており、たまたま時世時節の事情から革命グループに属しているだけであり、革命を実務と心得て、結局は初代と二代目がやりちらかした仕事のかたちをつけ、あたらしい権力社会をつくりあげ、その社会をまもるため、多くは保守的な権力政治家になる。山県狂介が、あるいはその典型かもしれない。

 楫取素彦なども、三代目に属する人物といえるかもしれませんね。幕末の英雄たちがこの世を去り、時代は変わろうとしていました。


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by sakanoueno-kumo | 2015-11-09 20:25 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第39話「新しい日本人」 ~廃藩置県~

 明治4年(1871年)7月14日、明治政府によって廃藩置県の詔が発令され、すべての藩が廃止されます。同時に、知藩事に任命されていた旧藩主たちすべても解任されて東京に集められ、代わって政府が選んだ適任者が、県令(現在の県知事)として配置されました。これにより、美和が務める奥御殿も、否応なく閉じられることになりました。ようやく、何が描きたかったのかよくわからない奥御殿編が終わりです。

 ここで、版籍奉還から廃藩置県の流れについてふれておきます。明治政府は、幕藩体制下の封建制から近代的な中央集権国家をつくるため、支配していた土地(版)人(籍)を天皇に返還させたのが版籍奉還でしたが、しかし、代わりに旧藩主を旧領地の知藩事に任命し、その下には、縮小されたとはいえ相変わらず武士団が存在し、年貢の取り立ても、知藩事が行っていました。結局のところ、便宜上、版籍を奉還したものの、かたちとしてはあまり変わっておらず、明治政府の力は依然として弱いものでした。このままでは、いつクーデターを起こされるかわからない。政府は、もっと地方の力が弱まる政策を必要としていました。

 この頃、旧天領や旗本支配地などは、政府の直轄地として「府」「県」が置かれ、政府から知事が派遣されていました。東京府、大阪府、京都府の3府と、現在まで名称が残っている県としては、兵庫県、長崎県などがそれにあたります(現在の区画とは大きく異なります)。この制度を全国に統一させようというのが「廃藩置県」でした。イメージ的に、廃藩置県によって初めて府や県ができたように思いがちですが、実は、「府」「県」「藩」が同時にあった時期があるんですね。これを「府藩県三治制」といいます。中央集権と地方自治が入り混じった複雑な時期だったんですね。

 政府としては、一刻もはやく廃藩置県を発令したかったのですが、それには、まず、直轄の軍隊をつくる必要がありました。廃藩置県の荒療治を断行するには、それ相応の反作用が予想されるわけで、それを抑えつけるだけの軍事力が不可欠。それには、徴兵制が必要だと唱えたのが、大村益次郎でした。この案に政府参議の木戸孝允は賛同しますが、同じく参議の大久保利通らは、いきなりそんな強引なことをすれば、たちまち戦になるとして、反対の立場をとります。その後、両派は連日激論を交わしますが、結局、大久保らの主張する慎重論に収まり、薩摩・長州、土佐三藩による御親兵の設置が決まりました。このときの心境を木戸は日記にこう綴っています。

 「わが見とは異なるといえども、皇国の前途のこと、漸ならずんば行うべからざることあり」

 自分の意見とは違うが、すこしずつ前進させていかなければならない、ということですね。我慢強い木戸らしい述懐です。

 その後、大久保による政府内の構造改革を経て、洋行帰りの山県有朋を兵部少輔にすえて御親兵を設置。廃藩置県を断行するお膳立ては整いましたが、さらにこの政策を強固なものにするために、大久保は鹿児島に引っ込んでいた西郷隆盛に中央政府への出仕を求めます。人望のある西郷を押し立てて、その威光を借りて改革を断行しようと考えたんですね。このあたりが、大久保の政治家としてのスゴイところです。この頃の大久保の言葉が残っています。

 「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず」

 何もせずに失敗するよりも、大勝負を打って失敗したほうが、よっぽどいいじゃないか!・・・ってことですね。さすが、決断力と行動力の人です。

 こうして水面下で準備が整えられ、明治4年(1871年)7月14日、ほとんどクーデターの如く廃藩令が下され、藩が消滅しました。懸念された暴動のようなものは、ほとんど起こりませんでした。何の前触れもなく電撃的に行われたため、呆気にとられた感じだったのかもしれません。それと、諸藩側の事情としても、戊辰戦争以来の財政難に行き詰まっていた藩が多く、廃藩は渡りに船といった感もあったようです。政府は、藩をなくす代わりに、諸藩の抱える負債を引き継ぐかたちとなりました。いろんな意味で、絶妙のタイミングでの革命だったのかもしれません。

 この革命を知った英国の駐日公使ハリー・パークスの感想が、アーネスト・サトウの日記に残っているそうです。

 「欧州でこんな大改革をしようとすれば、数年間戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つ勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一したのは、世界でも類をみない大事業であった。これは人力ではない。天佑というほかはない」

 こうして261藩は解体され、1使3府302県となり、同じ年の11月には1使3府72県に改編されます。パークスが大絶賛した無血革命でしたが、武士すべてが失業という荒療治の反動は、この後ジワジワと押し寄せてくることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-28 20:51 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(2)  

八重の桜 第38話「西南戦争」 その2 ~日本史上最後の内戦~

 明治6年(1873年)の政変によって鹿児島に帰郷した西郷隆盛は、翌7年6月、旧薩摩藩の居城であった鶴丸城の厩跡に「私学校」を設立しました。ここに篠原国幹の主宰する銃隊学校と、村田新八の主宰する砲隊学校を付属させ、また県内各地に分校を置き、幼少年を集めて軍事・思想教育を施します。その費用は、すべて鹿児島県の公費でまかないました。

 鹿児島県では、県令以下の県庁の役人や、区長、戸長の名称は中央政府が定めた名称を用いていましたが、県令・大山綱良以下の役人には一人も県外人を入れず、すべて私学校とその分校の幹部を就かせて、県政は中央政府の法令には一切従わず、私学校の指導で行われていました。県下の租税はいっさい中央にあげず、県下では秩禄処分もなく、太陽暦も採用せず旧暦を守り、士族は相変わらずを帯び、ひとたび西郷の命令が下ればただちに戦闘状態に入れるよう組織され、訓練されていました。つまりこれは、日本国内において事実上中央政府から独立した政権、鹿児島国だったといっていいでしょう。そしてそのなかで、西郷自身はなんの役職にも就かず、それらを超越した最高権威として君臨していました。

 彼らは、熊本・秋月・萩の乱にも、なお自重して動きませんでした。おそらく、西郷が軽挙を抑えていたのでしょう。しかし、中央の政権に一切従わない彼らを、政府は放っておくわけにはいきませんでした。政府・内務卿の大久保利通は、内乱を避けるべく鹿児島県士族に限って特別の優遇をしてきましたが、それに対する木戸孝允らの反対は強く、鹿児島県のみを特殊あつかいすることに対して、大久保を避難する声が高まります。さすがの大久保もこの声を無視するわけにはいきませんでした。

 明治9年(1876年)12月末、大久保は腹心の大警視・川路利良に依頼し、十数人の警察官を帰省という名目で鹿児島に送り、スパイ活動及び私学校の解体活動をさせます。さらに、鹿児島にたくわえていた武器・弾薬の一部を汽船で大阪に運ばせまました。これが私学校党を大いに刺激。明治10年(1877年)1月29日夜から、火薬局および海軍省の造船所を襲い、武器・弾薬を奪い取ります。そして2月3日、スパイ活動をしていた政府警察官を捕らえ、彼らが政府の密命を受けて、私学校党をつぶし、西郷を暗殺する計画であったことを自白させます。本当にそのような任務が与えられていたかは、いまとなってはわかりません。あるいは決起するためにでっち上げた作り話だったかもしれません。いずれにせよ、ここまでくれば、もはや西郷の力を持ってしても、彼らを抑えられなくなっていました。決起日は2月17日、兵力は1万3000人。これまでの叛乱とは規模が違います。こうして、近代日本最大、そして日本史上最後の内戦、世に云う西南戦争が起こりました。

 ここでは、戦いの詳細は省きますが、結果的に西郷率いる私学校党が敗れるのは周知のところでしょう。決起から7ヶ月後の9月24日、鹿児島は城山にて西郷は自刃します。ドラマで描かれていたとおり、股間を撃たれて歩けなくなった西郷は、肩を負っていて別府晋介に、「晋どん、もうここらでよか」と語り、その場で別府に自身の首を討たせました。享年50歳。その後、反乱軍幹部たちはめいめいに戦死をとげ、ここに、わが国最後の内戦は終わります。

 なぜ、西郷はこのような無謀な反政府軍の首領に身をおいたのでしょうか。おそらく西郷は、わずかに九州の一角の力を持って中央政府に勝てるとは思っていなかったでしょう。ただ、全国各地で燻っていた不平士族の不満の火種をなんとか消したいという思いはあったかもしれません。彼は、挙兵を迫る篠原国幹や桐野利秋らに対して、「おいの命は諸君にあずけ申す、存分にするがよい」と言ったといいます。西郷は彼自身が不平士族の頂点に立って滅びることで、彼自身の作った維新の総仕上げを行ったのでしょうか。あるいは、中央政府にいるマブダチ・大久保への援護射撃?・・・どれもこれも、結果を知っている後世から見たドラマチックな解釈でしょうか?

 「おいが、みな抱いていく」

 ドラマ中の西郷の台詞ですが、まさしくこの境地だったのかもしれません。
 ナレーションはいいます。

 内戦は深い傷を残した。 しかし、そこから立ち上がり、苦しみの先に未来を見つめた人々が、やがて新しい国づくりに向けて歩き出してゆく。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-25 21:35 | 八重の桜 | Trackback | Comments(2)  

八重の桜 第33話「尚之助との再会」 〜征韓論争と明治六年政変〜

 時代は一気に征韓論争まで進みましたね。この「征韓論」を詳細に解説するとめちゃめちゃ長文になっちゃいますし、いろんな解釈があるのでたいへん難しいのですが、ここではできるだけ簡単にまとめます。

「征韓論」とは、読んで字のごとく、お隣の朝鮮に出兵して征服する、あるいは、武力を後ろ盾に政治体制の変革を迫るという主張です。このときより遡ること約20年前、日本も米国ペリー艦隊の来航によって開国を迫られ、それをきっかけに幕末の動乱がはじまり、長く続いた封建国家体制が崩れ、近代国家を目指すべく明治政府が樹立されましたが、今度は、そのペリー艦隊の役目を日本が行おうというもので、このときまだ鎖国攘夷の策をとっていた朝鮮にとっては、ありがた迷惑な話だったわけです。朝鮮側は日本の新政府の要請を頑なに拒絶し、そんななか、明治6年(1873年)ごろから急速に日本国内で征韓論が沸騰し始めます。

 その頃、岩倉具視大久保利通木戸孝允ら政府首脳陣は欧米諸国を外遊中(岩倉使節団)、その留守政府を預かっていたのは西郷隆盛板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣らでした。西郷以外は土佐藩肥前藩の出身者で占められており、明治初期の政府としては、唯一、薩長閥政府ではなかった時期でした。その留守政府が征韓論を推し進めます。

 まずは板垣が閣議において、居留民保護を理由に朝鮮への派兵を主張。しかし、留守政府の実質首相的立場だった西郷は派兵に反対し、自らを大使として朝鮮に派遣するよう求めます。この意見に後藤、江藤らも賛成し、いったんは閣議において使節として西郷を派遣することを決定しますが、ときを同じくして順次帰国の途についた岩倉具視や大久保利通ら外遊組は、時期尚早だとしてこれに猛反対。留守番組と外遊組の対立の板挟みとなった太政大臣・三条実美は病に倒れてしまい、最終的には、太政大臣代理となった岩倉の工作により(大久保の書いたシナリオとも)、明治天皇のご裁断で遣韓は中止されます。閣議でいったん決定しながら土壇場で覆されるという異常事態に、西郷をはじめ板垣や江藤ら征韓論派は一斉に参議を辞職してしまいます。

 この征韓論争に始まった政変を明治六年政変(征韓論政変)といい、やがてこれが、明治7年(1874年)の佐賀の乱から明治10年(1877年)の西南戦争に至る内乱につながっていくわけです。

 なぜ、この時期に「征韓論」が沸騰したのか、また、彼らの主張した「征韓論」の真の目的は何だったのか、あるいは、「征韓論」が政変の真の火種だったのか、などなど、この政変については専門家の間でも様々な解釈があり、いわゆる史実・通説というものがありません。ドラマで西郷が朝鮮出兵の理由について、「不平士族(行き場を失った元武士たち)の目を国内から外に向けるため」といった意味の説明をしていましたが、それとて、後世の歴史家が説いたひとつの説であって、西郷自身がそのような記述を残しているわけではありません。後世に征韓論の首謀者的扱いとなっている西郷ですが、一説によれば、西郷はあくまで平和的な交渉を目的とする遣韓論者だったという人もいますし、いやいや、西郷の目的は武力を用いて朝鮮を植民地化しようというものだった、という歴史家もいます。結局のところ、いまもって真意はわからないんですね。

 ただ、外遊組と留守番組の間に、激しい温度差があったということは間違いなさそうです。近代文明国家を目の当たりにしてきた大久保たちと、ずっと国内にいた西郷たちとでは、見えているものが違ったんでしょうね。結果的に政局は外遊組に軍配が上がり、西郷や江藤らは政界を去ってしまうわけですが、それが、後世の日本にとって良かったのか悪かったのか、今となっては確認のしようがありません。

 さて、本話のタイトルは「尚之助との再会」でしたが、八重川崎尚之助が離縁後に再会したという記録は残っていません。そもそも八重は尚之助との結婚、離婚についてほとんど何も語っていないそうですから、実際のところは何もわかってないんですね。ただ、斗南藩の罪を被って訴訟を起こされた尚之助が東京で暮らしていたというのは事実のようです。時代が時代ですから、たぶん、八重と会うことはなかったでしょうね。のちに尚之助は、裁判の判決を受けることなく明治8年(1875年)に病死します。ドラマには、たぶんもう出てこないでしょうね。八重の女紅場での活躍を尚之助が知っていたかどうかは、知る由もありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-21 18:57 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)