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大久保利通終焉の地「紀尾井坂の変」跡地にて。

大久保利通が殺されたのは明治11年(1878年)5月14日でした。

場所は紀尾井坂付近だったといわれ、その地名をとって、この事件を「紀尾井坂の変」と呼びます。

紀尾井坂とは、現在の参議院清水谷議員宿舎前の坂道です。

江戸時代、このあたりは紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の大名屋敷があったことから、その頭文字をとって「紀尾井」と呼ばれるようになったそうです。

ただ、実際に大久保が襲撃されたのは紀尾井坂ではなく、少し先へ進んだ清水谷のあたりだったことが現在では立証されているそうです。

現在、その近くの清水谷公園内には大久保の哀悼碑が建てられています。


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事件当日の午前8時、大久保は明治天皇に謁見するために裏霞ヶ関の自邸を出発し、赤坂の仮皇居に向かいました。

共は下僕で馭者の中村太郎と、同じく下僕で馬丁の芳松の二人だけでした。

本来なら、大久保邸から赤坂仮皇居に向かうには、紀尾井坂を通るより赤坂見附を通ったほうが近道だったのですが、なぜか大久保はこのコースを選びました。

その理由は、赤坂見附は人通りが多くて危険だから、あえて人通りの少ないこの道を選んだと言われていますが、暗殺団がこの道で待ち伏せしていたことから考えれば、大久保は日常的にこの紀尾井坂コースを使っていたのでしょう。


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大久保を乗せた馬車が紀尾井町一丁目に差し掛かったとき、2人の書生が現れて通路を遮りました。

馬丁の芳松が馬車を降りて、脇によって道をあけるよう注意しますが、そのとたん、男たちは刀を抜き、いきなり馬の前脚を薙ぎ払いました。

この襲撃を合図に身を潜めていた4人の男が一斉に飛び出してきました。

刺客は全部で6人

芳松は背中から斬りつけられるもそれをかわし、助けを呼びに馬車を離れました。

馭者の中村は馬車から飛び降りたところを、刺客に一刀のもとに斬り下げられ、即死しました。

刺客たちは馬車によじ登り、中にいた大久保に斬りつけました。

このとき大久保は書類に目を通していたといい、一説によると「待て!」といって書類を風呂敷に包んだといいます。


大久保の最後のことばは、「無礼者!」という一喝だったといいます。

その後、大久保は馬車から引きずり出され、めった切りに斬りつけられました。

そして最後のトドメは喉に短刀が突き刺され、その短刀は地面にまで達していたといいます。

大久保は全身16ヶ所に刀を受けていましたが、その大半は頭部に集中していたといいます。

事件直後に現場にかけつけた前島密の証言によると、大久保の遺体は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」状態だったといいます。

さすがに、ドラマや映画ではそこまで描けません。


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実行犯は、石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、および島根県士族の浅井寿篤の6名、いずれも太政官政治に不満を持つ不平士族でした。

彼らにとってこの襲撃は暗殺ではなく、政治でした。

なので、大久保を殺害するとすぐに自首しています。

彼らは、大久保さえ斃せば、やがて天下は転覆して世直しされると信じていました。


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この大久保襲撃については、まったく寝耳に水だったわけではなく、事前に予想できたことでした。

彼らは闇討ちのような卑怯な行為ではないことを主張するため、事件の4、5日前に大久保に宛てて殺害の予告状を送っています。

しかし、これを見た大久保は顔色ひとつ変えることなく、まったく意に介する様子もなかったといいます。


また、島田らが石川県を発ったとき、石川県令がすぐさま警戒すべきことを内務省に通報しており、そのことは大久保の耳にも届いていました。

さらに内務省は、警視庁に大久保内務卿の護衛を要請しますが、大警視の川路利良は、その必要はないとして、「加賀の腰抜けに何ができるか」と、相手にしなかったといいます。

これは、薩摩人特有の他藩蔑視の通癖が露骨に出た言葉ともいえますが、この当時、政府の要人警察が護衛するという習慣がまだなかったことと、他の大官に護衛がついていないのに、大久保だけに護衛をつけるのは、世間体から見て大久保を臆病者にすることになり、大久保を侮辱することになるといった思いもあったようです。

明治維新から10年以上が経ったこの時代でも、大官は役人である以前に、ひとりのサムライだったんですね。


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有名な話ですが、大久保は事件当日の朝、自邸に挨拶に訪れた福島県令の山吉盛典に対して、まるで遺言とも取れる明治30年計画を語ったといいます。

それによると、明治元年から10年を創業の時期として、戊辰戦争士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期と定義し、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものでした。

しかし、結局は第2期の入り口で凶刃に倒れたわけです。


また、どういうわけか、大久保はこの日、西郷隆盛からもらった古い手紙を2通、懐に忍ばせていたといいます。

それは、いずれも二人が蜜月の間柄だった頃の手紙で、この手紙を持参していた話は、事件後ほどない5月27日付の東京日日新聞に報ぜられています。

大久保がどういう意図で手紙を持参していたかはですが、大久保は西郷を死に至らしめたことでよほど悩み苦しんでいたようで、自分と西郷とは、かつて深い絆で結ばれていたということを、しきりに人々に話したがっていたといいます。

あるいは、近々自分が殺されるかもしれないことを想定し、その死後、自分と西郷との友情関係世に知らしめるために手紙を持ち歩いていたのでしょうか。

その真偽はいまとなっては確認しようがありません。


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作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、大久保の死についてつぎのように述べています。


「結局は大久保とその太政官が勝ち、西郷がほろびることによって世間の士族一般の怨恨や反乱への気勢は消滅したかにみえた。大久保とその権力はほとんど絶対化するかの勢いになった。日本における政治風土として、権力が個人に集中してそれが絶対化することは好まれず、それに対する反対勢力が相対的に公認されている状態が好まれる。権力が個人に集中して絶対化した例は日本の歴史でまれであったが、遠くは織田信長の末期、近くは井伊直弼の大老就任後がそうであったであろう。結局は爆走する絶対権力をとどめる方法がないままに暗殺者がそれを停止させることが、ほとんど力学現象のようにして生起する。」


大久保の死も、あるいは歴史の必然だったのかもしれませんね。


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また、作家の半藤一利氏はその著書『幕末史』のなかで、


「戊辰戦争のつづきといえるこの明治の権力をめぐってガタガタした十年間は、古代日本人的な道義主義者の西郷と、近代を代表する超合理主義の建設と秩序の政治家大久保との、やむにやまざる「私闘」であったといえそうです。」


と述べておられています。

しかし、わたしは、西郷は道義主義者だったと思いますが、大久保が超合理主義者だったとは思いません。

むしろ、西郷以上に情に厚い熱血漢だったと思っています。

ただ、その情は、西郷のように人に対してではなく、「国家」に向けられた。

彼は、彼らが作った新国家という作品を、どんなことをしても守りたかった。

その国家建設に抗おうとする勢力は、たとえそれが竹馬の友であっても、容赦なく叩き潰した。

これは、大久保の政治家としての信念だったのでしょう。

日本近代史において、大久保利通ほどの信念の政治家は、それ以前もそれ以後もいないとわたしは思っています。


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西郷隆盛が西南の城山に散ったのが、この8ヶ月前の明治10年(1877年)9月24日、さらにその4ヶ月前の5月26日には、大久保、西郷と並んで維新三傑の一人に挙げられた木戸孝允もこの世を去っていました。

わずか1年足らずの間に、維新の象徴的存在だった3人が揃ってこの世を去ったわけです。

ひとつの時代が終わりを告げました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-30 00:34 | 東京の史跡・観光 | Comments(2)  

上野の西郷さん

明治維新150年にあたるメモリアルイヤーの今年、平成30年(2018年)の大河ドラマは『西郷どん』でしたが、その第1話のオープニングに登場した上野恩賜公園西郷隆盛像についての起稿です。

今年の春、たまたま東京に行く機会を得たので、ついでに足を運んできました。


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周知のとおり、西郷隆盛がこの世を去ったのは明治10年(1877年)9月24日、西南戦争における反乱軍としての戦死でした。

そのため西郷は「逆賊」汚名を着せられることになりますが、維新最大の功労者である西郷の名声は死後も落ちることはなく、名誉回復を求める声が高まるなか、明治22年(1889年)、明治天皇の意向や黒田清隆らの尽力もあり、大日本帝国憲法が公布される大赦によって「逆賊」の名を赦され、正三位の位が追贈されます。

これを受けて、西郷の旧友である吉井友美が西郷像の建立を計画。

御下賜金(天皇から賜ったお金)や有志が集めた寄付金を資金として、明治26年(1893)に起工、明治30年(1897年)に竣工したのが、この「上野の西郷さん」です。


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なぜ上野に西郷像が建てられたかというと、当初は皇居内に建てる計画だったそうですが、一時は朝敵となったことを理由に猛反対する声が上がり、やむなく、かつて西郷が指揮官として功を上げた上野戦争の舞台であり、皇室の御用地である上野に建てられることになったそうです。


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また、その姿についてですが、当初は騎馬像として設計されたものの資金が足りず、次に、陸軍大将の正装である軍服姿の立像で計画され、雛形まで出来あがっていたそうですが、これも、とある筋からの猛反対が起こり、結果、現在の着流し姿になったそうです。

反対派の理由は、西郷の高い人気を背景に反政府的機運を醸成しかねないとのことで、西郷から武人としての牙を抜き、犬を連れて歩く人畜無害な人物というイメージを民衆に定着させようとする政治的意図があったとされます。

おそらくそのとおりだったでしょうね。


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除幕式の際にはじめて銅像を見た西郷夫人の糸子が、「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかった)」と言って周囲を慌てさせたという有名なエピソードがあり、このことを理由に、この銅像は西郷に似ていないといも言われますが、糸子の言葉の真意は、「うちの人はこのような着流し姿で人前に出る人ではなかった」といった意味だったとも言われ、その真偽はわかりません。

まあ、夫人から見れば顔も違って見えたかもしれませんが、この除幕式には実弟の西郷従道も出席しており、また、この銅像の製作においては、西郷をよく知る吉井友美黒田清隆樺山資紀らも深く関わっていたわけで、まったく似ていないというわけでもなかったでしょう。

奥さんからすれば、どこか仕上がりに気に食わない部分があったのかもしれません。


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逆賊の汚名は返上されていたとはいえ、西郷が反乱軍を指揮した事実は変えようのない歴史です。

その反乱軍の総大将である人物の銅像が、同じ政権下で、死後わずか20年で建てられたという例は、世界中探しても類を見ないそうです。

また、その銅像が日本の首都のもっとも人の目につきやすい場所に建てられたということも、諸外国からすれば理解できないことだったようで、さらに、その除幕式に政府の要人が出席するということを聞いた在日の西洋人は、西洋諸国ではあり得ないこととして驚愕したといいます。

それだけ西郷隆盛という人物が、当時から比類なき英雄として愛されていたということの表れでしょうが、一方で、その西郷の盟友でありながら最後は西郷と敵対する立場となった大久保利通の像は、没後100年経った昭和54年(1979年)にようやく鹿児島の地に建てられましたが、西郷を死に至らしめたとの理由で大久保は死後100年経っても不人気で、銅像建設にも反対運動が大きく、竣工当日も、厳重な警備体制だったそうです。

同じく維新の立役者であり、近代日本の礎を築いた二人なのに、この差は気の毒ですね。

大久保贔屓のわたしとしては、釈然としない思いです。


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一般に、西郷は自ら反乱を望んだわけではなく、不平士族の怒りの捌け口を作るため、不平士族に担ぎ出される形で自分の命を預けたのが西郷の最期だったと言われています。

しかし、この解釈は、必ずしも正しいとは言いきれません。

実際、挙兵に至る経緯からその最期に至るまで、西郷自身の心情を吐露した史料は残されておらず、すべては後世の想像にすぎません。

「西南戦争は桐野利秋が起こしたいくさで、西郷はその神輿に乗っただけだ」と言ったのは、戦後、西郷の汚名返上に奔走していた勝海舟の言葉で、西郷を尊敬しながらも政府軍として敵対せざるをえなかった将校たちも、「そうであってほしい」という思いが、不世出の英傑である西郷を死に至らしめたことを正当化する口実になったともいえます。

そう考えれば、西郷の人物像は、その死後、必要以上に美化され、英雄化していったといえなくもありません。


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作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、つぎのように述べています。


「政治家や革命家が一時代を代表しすぎてしまった場合、次の時代にもなお役に立つということは、まれであるといっていい。西郷は倒幕において時代を代表し過ぎ、維新の成立によって局面がかわると後退せざるをえなくなったという当然の現象が、一世を蓋っている西郷の盛名と同時代に存在しているひとびとには、容易にわからなかった。」


この銅像が建ったときの西郷は、その銅像以上に巨大化された存在になっていたのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-27 14:22 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)  

西郷どん 第47話「敬天愛人」その4 ~紀尾井坂の変~

 シリーズ最後です。

 ドラマは西郷隆盛の物語でしたが、西郷の生涯を語るには、西郷の死の約8ヶ月後に起きた出来事まで語らなければ完結しません。すなわち、大久保利通の死です。大久保は明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井坂付近において不平士族たちによって殺されました。


e0158128_15131733.jpg事件当日の午前8時、大久保は明治天皇に謁見するために裏霞ヶ関の自邸を出発し、赤坂の仮皇居に向かいました。共は下僕で馭者の中村太郎と、同じく下僕で馬丁の芳松の二人だけでした。本来なら、大久保邸から赤坂仮皇居に向かうには、紀尾井坂を通るより赤坂見附を通ったほうが近道だったのですが、なぜか大久保はこのコースを選びました。その理由は、赤坂見附は人通りが多くて危険だから、あえて人通りの少ないこの道を選んだと言われていますが、暗殺団がこの道で待ち伏せしていたことから考えれば、大久保は日常的にこの紀尾井坂コースを使っていたのでしょう。襲撃団は、周到な準備のもと、事に及んでいます。


大久保を乗せた馬車が紀尾井町一丁目に差し掛かったとき、2人の書生が現れて通路を遮りました。馬丁の芳松が馬車を降りて、脇によって道をあけるよう注意しますが、そのとたん、男たちは刀を抜き、いきなり馬の前脚を薙ぎ払いました。この襲撃を合図に身を潜めていた4人の男が一斉に飛び出してきました。刺客は全部で6人。芳松は背中から斬りつけられるもそれをかわし、助けを呼びに馬車を離れました。馭者の中村は馬車から飛び降りたところを、刺客に一刀のもとに斬り下げられ、即死します。刺客たちは馬車によじ登り、中にいた大久保に斬りつけました。このとき大久保は書類に目を通していたといい、一説によると「待て!」といって書類を風呂敷に包んだといいます。


大久保の最後のことばは、「無礼者!」という一喝だったといいます。その後、大久保は馬車から引きずり出され、めった切りに斬りつけられました。そして最後のトドメは喉に短刀が突き刺され、その短刀は地面にまで達していたといいます。大久保は全身16ヶ所に刀を受けていましたが、その大半は頭部に集中していたといいます。事件直後に現場にかけつけた前島密の証言によると、大久保の遺体は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」状態だったといいます。さすがに、ドラマではそこまで描けません。


実行犯は、石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、および島根県士族の浅井寿篤の6名、いずれも太政官政治に不満を持つ不平士族でした。彼らにとってこの襲撃は暗殺ではなく、政治でした。なので、大久保を殺害するとすぐに自首しています。彼らは、大久保さえ斃せば、やがて天下は転覆して世直しされると信じていました。


この大久保襲撃については、まったく寝耳に水だったわけではなく、事前に予想できたことでした。彼らは闇討ちのような卑怯な行為ではないことを主張するため、事件の4、5日前に大久保に宛てて殺害の予告状を送っています。しかし、これを見た大久保は顔色ひとつ変えることなく、まったく意に介する様子もなかったといいます。


e0158128_21495406.jpgまた、島田らが石川県を発ったとき、石川県令がすぐさま警戒すべきことを内務省に通報しており、そのことは大久保の耳にも届いていました。さらに内務省は、警視庁に大久保内務卿の護衛を要請しますが、大警視の川路利良は、その必要はないとして、「加賀の腰抜けに何ができるか」と、相手にしなかったといいます。これは、薩摩人特有の他藩蔑視の通癖が露骨に出た言葉ともいえますが、この当時、政府の要人警察が護衛するという習慣がまだなかったことと、他の大官に護衛がついていないのに、大久保だけに護衛をつけるのは、世間体から見て大久保を臆病者にすることになり、大久保を侮辱することになるといった思いもあったようです。明治維新から10年以上が経ったこの時代でも、大官は役人である以前に、ひとりのサムライだったんですね。


有名な話ですが、大久保は事件当日の朝、自邸に挨拶に訪れた福島県令の山吉盛典に対して、まるで遺言とも取れる明治30年計画を語ったといいます。それによると、明治元年から10年を創業の時期として、戊辰戦争士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期と定義し、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものでした。しかし、結局は第2期の入り口で凶刃に倒れたわけです。


また、どういうわけか、大久保はこの日、西郷隆盛からもらった古い手紙を2通、懐に忍ばせていたといいます。それは、いずれも二人が蜜月の間柄だった頃の手紙で、この手紙を持参していた話は、事件後ほどない5月27日付の東京日日新聞に報ぜられています。大久保がどういう意図で手紙を持参していたかはですが、大久保は西郷を死に至らしめたことでよほど悩み苦しんでいたようで、自分と西郷とは、かつて深い絆で結ばれていたということを、しきりに人々に話したがっていたといいます。あるいは、近々自分が殺されるかもしれないことを想定し、その死後、自分と西郷との友情関係世に知らしめるために手紙を持ち歩いていたのでしょうか。その真偽はいまとなっては確認しようがありません。


 作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、大久保の死についてつぎのように述べています。


 「結局は大久保とその太政官が勝ち、西郷がほろびることによって世間の士族一般の怨恨や反乱への気勢は消滅したかにみえた。大久保とその権力はほとんど絶対化するかの勢いになった。日本における政治風土として、権力が個人に集中してそれが絶対化することは好まれず、それに対する反対勢力が相対的に公認されている状態が好まれる。権力が個人に集中して絶対化した例は日本の歴史でまれであったが、遠くは織田信長の末期、近くは井伊直弼の大老就任後がそうであったであろう。結局は爆走する絶対権力をとどめる方法がないままに暗殺者がそれを停止させることが、ほとんど力学現象のようにして生起する。」


大久保の死も、あるいは歴史の必然だったのかもしれませんね。


 また、作家の半藤一利氏はその著書『幕末史』のなかで、


 「戊辰戦争のつづきといえるこの明治の権力をめぐってガタガタした十年間は、古代日本人的な道義主義者の西郷と、近代を代表する超合理主義の建設と秩序の政治家大久保との、やむにやまざる「私闘」であったといえそうです。」


 と述べておられています。しかし、わたしは、西郷は道義主義者だったと思いますが、大久保が超合理主義者だったとは思いません。むしろ、西郷以上に情に厚い熱血漢だったと思っています。ただ、その情は、西郷のように人に対してではなく、「国家」に向けられた。彼は、彼らが作った新国家という作品を、どんなことをしても守りたかった。その国家建設に抗おうとする勢力は、たとえそれが竹馬の友であっても、容赦なく叩き潰した。これは、大久保の政治家としての信念だったのでしょう。日本近代史において、大久保利通ほどの信念の政治家は、それ以前もそれ以後もいないとわたしは思っています。


 西郷隆盛自身が語ったとされる言葉に、こんな言葉があります。


「もし一個の家屋に譬うれば、われは築造することにおいて、はるかに甲東(大久保利通)に優っていることを信ずる。しかし、すでに建築し終わりて、造作を施し室内の装飾を為し、一家の観を備うるまでに整備することにおいては、実に甲東に天稟あって、われらの如き者は雪隠の隅を修理するもなお足らないのである。しかし、また一度、これを破壊することに至っては、甲東は乃公(おれ)に及ばない」


 自分は既存のものを破壊して新しいものを造ることにおいては、大久保には負けない。しかし、新しくできたものを整備して完成させる能力においては、大久保の足元にも及ばない、と。幕府を倒して新政権を樹立させた一番の立役者は、まぎれもなく西郷隆盛でしたが、その新政権を盤石なものに仕上げるのは、大久保しかいない。この言葉がいつ発せられたものかはわかりませんが、西郷自身もそう思っていたんですね。その意味では、大久保の死は、西郷の本当の意味での死だったといえるかもしれません。


さて、最終稿はすいぶん長文になってしまいましたが、本稿をもって大河ドラマ『西郷どん』のレビューは終わりとさせていただきます。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-20 00:22 | 西郷どん | Comments(6)  

西郷どん 第46話「西南戦争」その1 ~西郷の挙兵~

 明治10年(1877年)2月15日に挙兵した西郷軍は、出水街道と大口街道の二道に分かれて東上を開始。そしてその総大将である西郷隆盛も、2月17日に鹿児島を発ちます。このとき、南国の鹿児島では珍しい50年に一度と言われた大雪が数日前から降り続き、町を白く染めていたと伝えられます。西郷軍は出陣するにあたって7大隊を編成し、篠原国幹、村田新八、永山弥一郎、桐野利秋、池上四郎、別府晋介に、それぞれ大隊長として指揮をとらせました。そこに集まった兵は、総勢1万3千人を超えたといいます(もっとも、そのすべてが自ら望んで集まったというわけではなく、半ば強制的に集められた兵も数多く含まれていましたが)。


 e0158128_15131310.jpgドラマでは描かれていませんでしたが、西郷は鹿児島の町を出て島津久光の暮らす磯の邸の前を通過するとき、雪の積もる門前にひざまずき、両手をついて頭を下げたと伝えられます。この時期、久光は少しずつ西郷を理解する姿勢を示し始めていたようですが、西郷自身の久光嫌いは相変わらずだったといい、先の政変で帰郷してからも、ほとんど久光の前に顔を出すことはなかったといいます。しかし、この度の出陣にあたっては、島津家の旧臣を大勢率いていく以上、武士の忠義として筋を通したのでしょう。あるいは、少し穿った見方をすれば、西郷軍のなかには久光を主筋として崇拝している者たちも多数おり、西郷としては、配下への統率上、このようなパフォーマンスも必要と考えたのかもしれません。


 西郷軍の行軍が開始されると、政府はすぐに対応策をとります。東京よりも鹿児島に近い京都と大阪に対策本部を置き、大久保利通も京都に移動しました。そして西郷が鹿児島を発った2月17日に会議が開かれ、有栖川宮熾仁親王鹿児島県逆徒征討総督に任じて勅使として鹿児島に派遣することが決まります。これは、西郷と久光が反乱軍に与しないよう説諭するためのものでした。この時点では、まだ西郷が挙兵に加わっているかどうかの情報が政府に入っていなかったんですね。


 e0158128_15131733.jpg大久保も西郷が軽々しく暴挙には与しないだろうと考えていたようで、2月7日付で伊藤博文に宛てた書簡のなかで、「仮令西郷不同意にて説諭を加ゆるにしても、到底此度は破れに相違なく候」と見たうえで、「此節、事端を此事に発しきは誠に朝廷不幸の幸と、窃かに心中には笑いを生じ候くらいにこれ有り候」と記しています。つまり、私学校党から西郷を切り離して、過激輩たちを追討できれば、むしろ喜ばしいことだというんですね。これまで中央政府に服さず、独立国のように振る舞ってきた鹿児島県士族を、これを期に叩き潰して改善するチャンスだと捉えていたようです。自身の理想のためには故郷も旧友も捨てる。さすがは信念の人・大久保、非常なまでの冷徹さです。


 「おいが政府じゃ!」


 と言ったかどうかはわかりませんが、そういう気概はあったでしょうね。


 e0158128_20170202.jpg決起した西郷軍を全面的に支援したのが、鹿児島県令の大山綱良でした。西郷とは最も古い付き合いの大山でしたが、維新後は久光の側近として鹿児島県の大参事、権令となり、西郷、大久保らの推し進める新政府の改革を批判する立場をとっていました。しかし、西郷の帰郷後は私学校設立などを積極的に支援し、このたびの決起においても援護活動を行います。大山は西郷が立つとすぐに太政大臣・三条実美と右大臣・岩倉具視に宛てて書面を発し、西郷に刺客を差し向けたことを問い詰め、これを「政府の御失体」と糾弾しています。さらに、官金を軍資金として西郷軍に送金するなどの支援をしていたため、その罪を問われて逮捕され、西南戦争終結後、長崎において斬首されます。西郷、大久保とはまた違ったかたちでしたが、大山もまた、最後まで信念を貫いて戦う侍だったんですね。

 明日の稿につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-10 22:14 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第45話「西郷立つ」その2 ~西郷暗殺計画~

 昨日の続きです。

 各地で不平士族の反乱が勃発していた同じ頃、鹿児島県では、県令・大山綱良以下の役人には一人も県外人を入れず、すべて私学校とその分校の幹部を就かせて、県政は中央政府の法令には一切従わず、私学校の指導で行われていました。県下の租税はいっさい中央にあげず、県下では秩禄処分もなく、太陽暦も採用せず旧暦を守り、士族は相変わらず刀を帯び、ひとたび西郷隆盛の命令が下ればただちに戦闘状態に入れるよう組織され、訓練されていました。つまりこれは、日本国内において事実上中央政府から独立した政権、鹿児島国だったといっていいでしょう。そしてそのなかで、西郷自身はなんの役職にも就かず、それらを超越した最高権威として君臨していました。


 彼らは、熊本・秋月・萩の乱にも、なお自重して動きませんでした。おそらく、西郷が軽挙を抑えていたのでしょう。しかし、中央の政権に一切従わない彼らを、政府は放っておくわけにはいきませんでした。政府・内務卿大久保利通は、内乱を避けるべく鹿児島県士族に限って特別の優遇をしてきましたが、それに対する木戸孝允らの反対は強く、鹿児島県のみを特殊あつかいすることに対して、大久保を避難する声が高まります。さすがの大久保もこの声を無視するわけにはいきませんでした。


e0158128_21495406.jpg各地で不平士族の反乱が続いた明治9年(1876年)の暮れ、警視庁大警視(現在の警視総監)の川路利良は、警視庁二等少警部の中原尚雄ら二十数名の警察官に対して、墓参りや母親の看病などの名目で鹿児島に帰省し、西郷らの動向を探るよう命令を下しました。中原らは年が明けた明治10年(1877年)1月に相次いで鹿児島に帰り、私学校の生徒たちに接近します。しかし、鹿児島ではこの前年より西郷を暗殺しようとする者が政府から送り込まれているとの風評があり、そのため、私学校党は西郷の身辺警護を強化していました。そんな最中での中原らの帰国だったので、私学校党は最初から中原らを疑っていたようで、中原らの密偵活動は、なかなか上手くことを運ぶことができませんでした。


 そこで中原は、谷口登太という旧知の友人を味方に引き込んでスパイにしようとしますが、この谷口が、実は私学校党から送り込まれた逆スパイでした。そうとは知らない中原は、谷口と酒を交わした際につい心を許し、自身の帰郷の目的は私学校の瓦解工作の任であること、また、西郷が挙兵の動きを見せれば踏みとどまるよう説得にあたり、もし聞き入れられなければ、「刺し違えるより外ない」との決意を打ち明けました。現存する中原の口供書には、こうあります。


「万一挙動ノ機ニ立至ラハ、西郷ニ対面刺違ヘルヨリ外仕様ハナイヨトノ申聞ニ随ヒ居候」


 川路から、万一の場合は西郷と差し違えよと命じられていたというんですね。また、谷口の報告書には、こうも記されています。


「第一西郷隆盛ヲ暗殺セハ、必ス学校ハ瓦解ニ可至、其他、桐野、篠原ノ両士迄斃候得ハ、其跡ハ至テ制シ安ク、尤モ西郷ニハ同人知己ノ事故、面会ヲ得テ可刺殺覚悟ニ候、勿論此人ト共ニ斃レ候得ハ、我身ニ於テハ不足ハ無之」

「まず西郷を暗殺する、そうすれば必ず私学校は瓦解する。つづいて桐野利秋、篠原国幹の両名を斃せば、あとは制しやすい。自分は西郷と面識があるから、面会して刺殺する覚悟である。もちろん、西郷とともに斃れれば、我が身において不足はない」


 これらの供述や報告書を鵜呑みにすれば、政府による西郷暗殺計画は実際にあったと判断できますが、しかし、これらは私学校党による激しい拷問を受けての供述であり、どこまで事実と見るかは判然としません。実際、中原は西南戦争の終結後、供述は拷問によって強要されたものだとして全否定しています。一説には、中原らが帰国の理由を「視察」のためと供述したものを、私学校党がわざと「刺殺」と読みかえて挙兵の名義としたとの見方もあります。つまり、決起するためにでっち上げた捏造だったということですね。これも、いまとなっては確認のしようがありませんが、ただ、一概に邪説だとして片付けられない側面もあります。それは、ポリスと私学校党の関係が背景にありました。


 私学校党の多くは元近衛兵で、西郷と同じく城下士の出身でした。一方のポリスたちの多くは、外城士(郷士)の出身でした。旧藩時代、薩摩藩では城下士が外城士を見下し、そのため、外城士は城下士を激しく憎んでいました。そんななか、西郷は外城士に対しても心配りをする人物だったといいますが、とはいえ、西郷とて当時の封建社会における例外ではなく、城下士に対する態度に比べれば、外城士への態度はいくらかは落ちました。そんな身分差別に対する不満、そして西郷との関わりの厚薄が、そのままこのときのポリスと私学校党の対立の根底にあったことは否定できません。


 西郷の暗殺計画が本当にあったのかどうか、仮に事実だったとして、それは川路利良の独断だったのか、あるいは、その背後に大久保利通の指示があったのか、いまとなっては明らかにはしえません。しかし、この報告を受けた西郷は、これを事実だと受け止めたようでした。そして、時を同じくして、もうひとつ、挙兵の実質的導火線となった事件が発生します。私学校党による弾薬庫襲撃事件ですね。続きは明日の稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-04 14:21 | 西郷どん | Comments(2)  

西郷どん 第45話「西郷立つ」その1 ~神風連・秋月・萩の乱~

 明治2年(1869年)の版籍奉還から明治4年(1871年)の廃藩置県によって武士は一律士族とされ、藩士としての知行を失いますが、そこで士族たちはいきなり収入がなくなったわけではなく、しばらくは明治政府から知行の代わりに家禄が支給されていました。この家禄は、武士時代の知行に比べると大幅な減額だったのですが、武士時代と違って藩の職務はありませんから、その間に商売をはじめたり、家禄で土地を買って農業をはじめたりと、新たに身を立てるための猶予期間を与えていたんですね。いわば武士時代の年金のようなものだったでしょうか。政府としては、いきなり侍をバサッとリストラしたわけではなく、段階的処置を施していたわけで、決して士族の失業に対して無策だったわけではありませんでした。


e0158128_15131733.jpgところが、これが国家財政の30%を占め、財政圧迫の大きな要因となります。これに苦慮した政府・内務卿の大久保利通は、明治9年(1876年)、とうとう俸禄支給の廃止に踏み切ります。いわゆる「秩禄処分」ですね。これによって士族は完全に収入源がなくなったわけです。家禄支給の間にうまく次の生き方にシフトできた者は良かったのですが、いかんせん役人上がりですから、上手く転職できない例も少なくなく、没落する者も出てきます。さらに、同じ年、大久保は追い打ちをかけるように「廃刀令」の発布を決断しました。軍人と警察官以外は帯刀を許さないという法令ですね。これは、士族たちにとってはとうてい受け入れ難い措置でした。収入を失った上に、士族の名誉の象徴「武士の魂」までも奪われたわけですから、彼らの怒りは頂点に達します。


 明治9年(1876年)10月24日、熊本で太田黒伴雄を中心とする「神風連」と名のる熱狂的な攘夷主義士族の一団約200人が決起。彼らは県庁と兵営を襲撃し、県令の安岡良亮、鎮台司令長官の種田政明らを殺害します(神風連の乱)。暴動はただちに鎮圧されましたが、つづいて同月27日、福岡県の旧秋月藩士族・宮崎車之助らが、400人の同志を結集して神風連に呼応します。しかしこれも、乃木希典率いる小倉鎮台によって鎮圧され、多くが戦死、斬首になります(秋月の乱)


 e0158128_21395944.jpgさらに時を同じくして10月28日には、山口県の萩で前原一誠が200人余りを率いて挙兵します。前原は吉田松陰の開いた松下村塾の門下生で、幕末には久坂玄瑞高杉晋作らと共に討幕運動で活躍し、維新後は政府の参議、兵部大輔を務めたほどの人物でした。しかし、政府の商人と結託する不潔と官僚主義に反感を持ち、さらに、徴兵令に反対して同藩の先輩である木戸孝允とも衝突したため、明治3年(1870年)、いっさいの官職を辞めてに帰郷し、やがて山口県の不平士族の首領となっていきます。そして神風連の決起に呼応するかたちで兵を挙げ、一時は500人を超えた前原党でしたが、結果は三浦梧楼少将率いる広島鎮台などによって鎮圧され、前原は出雲に落ち延びる途中で捕らえられ、萩にて斬首されます(萩の乱)


 こうして暴動は瞬く間に鎮圧されましたが、しかし、政府要職の経験もあり、士族仲間の徳望が高かった前原の叛乱は、政府にとってはかなりの脅威でした。そして政府は、おそらくこのつぎにくるものは、士族の大棟梁・西郷隆盛をかつぐ大叛乱であろうと予想します。そのため、西郷の身辺には、常に政府の密偵がつきまとっていました。

明日の稿に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-03 21:45 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第44話「士族たちの動乱」その2 ~佐賀の乱~

 昨日の続きです。 

 新政府に対する不平士族たちの反乱の狼煙は、まず九州の佐賀において上がります。佐賀は、いわゆる「薩長土肥」の一角として維新政府に人材を輩出していましたが、その実は薩長主導のもとその風下に立たされており、佐賀人はその憤懣を募らせていました。そんな背景のなか、明治6年の政変によって、江藤新平、副島種臣が政府からはじき出されたことが導火線となり、明治7年(1876年)2月1日、3000人近い士族が武装蜂起します。


 当時、佐賀には「征韓党」「憂国党」という2つの政治党派がありました。「征韓党」は、西郷隆盛や江藤新平が主張した征韓論を支持する党派で、「憂国党」は、維新政府の近代化そのものを否定し、政体をかつての封建制に戻せと主張する集団でした。この2つの党派はもともと国家観文明観が異なり、目指すところが違っていたのですが、新政府に対する憤懣という一点のみで同調し、ともに決起することになります。しかし、主義主張で共闘すべきスローガンを共有していなかったため、両党は司令部も別々でした。


e0158128_22240827.jpg 当時、東京にいた江藤新平は、佐賀士族たちの武装蜂起の報せに驚愕し、急いで佐賀に帰郷します。同じく、同郷で天皇の侍従や秋田県の初代権令などを務めた島義勇も、佐賀に向かいます。当初、2人の帰郷の目的は、反乱士族たちをなだめるためだったといいます。しかし、先に佐賀に入った島が憂国党の首領に担がれ、遅れて2月11日に佐賀に入った江藤も、島と会談して翌12日に征韓党の首領に担がれます。こうして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を起こすことになるんですね。江藤が佐賀に帰郷することを決意したとき、同郷の大隈重信大木喬任らは、いま帰郷すると反乱軍の神輿に担がれる可能性が高いと憂慮して必死で説得しましたが、江藤は聞く耳を持たず、不平士族たちを説得する自信があるとして強行しましたが、結果は、大隈たちの心配どおりとなりました。あるいは、江藤自身、こうなることは想定済みだったかもしれません。


 e0158128_15131733.jpg佐賀士族挙兵の報せが東京の大久保利通の耳に入ったのは、まだ江藤が佐賀に入っていない2月3日でした。大久保はすぐさま陸軍大輔の西郷従道に手配を命じ、熊本鎮台に出兵を下令しました。司令官は谷干城少将。このとき佐賀に向かった政府軍の総兵力は約5400人だったといい、これは、この時期の日本軍の可動兵員数の半数にあたりました。また、海軍からも軍艦2隻が出動します。そしてさらに、大久保は自らも九州に出向き、反乱の鎮圧に当たります。このとき大久保は、佐賀における軍事、行政、司法三権全権の委任を受けての佐賀入りでした。つまり、現代で言えば、軍の司令長官警察庁長官最高裁判所の裁判長内閣総理大臣をすべて兼ねた状態だったということで、これは、あらゆる事柄において、すべて大久保の独断で専決できるということでした。たとえ一時的だったとはいえ、大久保ひとりが国家権力のすべてを掌握したかたちだったんですね。大久保は、この政変以後の最初の士族反乱を、完膚なきまでに潰したかったのでしょうね。


 戦いの詳細は省きますが、反乱軍は一時、優勢に立ったこともありましたが、結局、半月ほどで鎮圧されました。江藤は戦場を離脱し、鹿児島に向かいます。鹿児島には、江藤とともに下野した西郷がいました。もともと江藤らの武装蜂起の背景には、いま佐賀が決起することによって、薩摩、土佐を中心とした全国の反政府勢力が続々と呼応して立ち上がり、天下を挙げた大動乱に持ち込んで政府を転覆させるという狙いがあったとされます。その最も頼みの綱は、全国の不平士族の期待を一身に受けた薩摩の西郷でした。江藤は、その西郷に助力を求めるため、薩摩に向かったわけです。


 e0158128_15131310.jpgドラマでは、江藤が西郷の自宅を訪れていましたが、通説では、江藤と西郷が会ったのは鹿児島県の南端の指宿にある鰻温泉だったと言われています。江藤は熱弁を振るって西郷に薩摩士族の旗揚げを促しますが、西郷は動じることはありませんでした。西郷にしてみれば、敵前逃亡ともとれるかたちで士卒を残して戦場を離脱してきた江藤に対して、苦々しく思っていたのかもしれません。薩摩隼人の倫理としては、敗軍の将は士卒とともに潔く死ぬべきだと思うのが普通でした。しかし、江藤には江藤の正義があって、鹿児島まで落ち延びてきた。これも、西郷には理解できなかったわけではなかったでしょう。このとき西郷は、江藤に対して島津久光庇護を受けるよう勧めたといい、しかし、それは江藤のプライドが許さないことで、西郷の忠告を容れませんでした。このとき西郷は、珍しく声を荒げて「拙者がいうようになさらんと、当てが違いますぞ」と、叫んだといいます。この西郷の怒号を、たまたま聞いた宿の女将のハツが、この言葉をのちのちまで語り伝えています。


 結局、西郷の助力を得ることができなかった江藤は、土佐に渡って林有造、片岡健吉らの協力を得ようとしますが、これも失敗し、それでも諦めない江藤は、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みますが、その途上、政府の差し向けた追手に捕らえられて縄に付きます。江藤の逮捕は、手配写真が全国にバラ撒かれていたために速やかに捕らえられたといいますが、この写真手配制度は江藤自身が司法卿を務めていた明治5年(1872年)に確立したもので、その制定者である江藤本人が被適用者第1となったという皮肉な結果となりました。


 捕らえられた江藤は、東京での裁判を望みましたが、江藤の身柄は佐賀に護送され、4月8日から2回に分けて簡単な取り調べを受けたのち、4月13日、除族の上、梟首の刑を申し渡され、その日のうちに刑が執行されました。通常、士族は梟首という屈辱にみちた惨刑を受けることはありませんでしたが、このときの判決は、「除族の上」という判決を付け加え、つまり、士族を廃めさせた上でさらし首にするという強引な判決でした。これは、大久保の発案だったと言われています。大久保は、何が何でも江藤を惨刑に処することによって、全国に燻る不平士族への見せしめにしたかったのでしょう。4月9日の『大久保日記』には、「江東、陳述曖昧、笑止千万、人物推して知られたり」と書かれており、また、処刑執行された13日の日記には、「江藤、醜態、笑止なり」と記しています。大久保は自身の日記が後世の学者に読み解かれるであろうことを見越して、後世の印象操作もここで行っていたようなんですね。この、かつての同志であった江藤に対する残酷な処置が、後世に大久保利通という人物を冷酷で非情な人物と印象づけている所以でもあります。


 江藤の首は、処刑場から4km離れた千人塚に晒されました。そのさらし首の写真が撮影され、大久保の指示によって全国にバラ撒かれたといいます。これも、不平士族に対する見せしめだったのでしょう。そのさらし首の写真は、いまでも画像検索すると出てきます。ネット上でさらされている以上、未来永劫さらされ続けることになるでしょう。これも、大久保の計算だった・・・ってことはないでしょうが。


 江藤新平辞世

 「ますらおの  涙を袖にしぼりつつ  迷う心はただ君がため」


 明日の稿につづきます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-27 00:14 | 西郷どん | Comments(2)  

西郷どん 第44話「士族たちの動乱」その1 ~喰違の変と愛国公党~

 明治6年の政変によって西郷隆盛を始めとする征韓派下野しますが、この政府分裂は世の不平士族たちをいっそう刺激することとなり、当時、盛んになり始めていた新聞雑誌などでも、激しく新政府を言論攻撃するようになります。その攻撃の矛先は、政変を指導した大久保利通岩倉具視に向けられました。


 明治7年(1874年)1月14日、宮中での晩餐会を終えて帰路についていた岩倉が、何者かによって襲撃されました。場所は赤坂喰違見附。この頃、皇居はこの前年の火災によって焼け落ちており、赤坂の迎賓館が仮皇居となっていました。そのため、江戸城二重橋前あたりに自宅が会った岩倉は、毎日この喰違見附を通るのが通勤コースとなっていたんですね。テロリストは、それを知って待ち伏せしていました。


e0158128_11234954.jpg 岩倉は馬車に乗っていましたが、襲撃団はいっせいに馬車に飛びかかり、なかの岩倉に刀を浴びせました。岩倉は眉の下を斬られ、横なぐりの刀が入りましたが、幸い帯に差していた短刀が、これを防ぎました。岩倉はとっさに馬車から転がり落ち、そのまま江戸城(当時は東京城)外堀に転がり落ちて、水の中に潜って顔だけを水面から出し、息を殺して身を隠したといいます。その間、何度か刺客がすぐ側を通ったといいますが、岩倉は動揺することなくひっそりと潜んでいました。さすがは幕末に何度も命を狙われた経験を持つ岩倉です。公家出身のなかでは、異端といえる度胸の持ち主でした。これが三条実美だったら、動揺して慌てふためいている間に、簡単に斬り殺されていたでしょう。岩倉がただ倒幕派志士たちに担がれただけのお飾りだったわけではないことがわかりますね。ドラマの岩倉は、ちょっとカッコ悪すぎじゃないでしょうか?


 e0158128_15131733.jpg報せを受けた大久保は、不平士族による政府高官の襲撃という事態を重く見、ただちに警視庁大警視川路利良に早急な犯人捜索を命じます。そして事件の3日後、犯人は逮捕されますが、捕まった犯人は士族の武市熊吉を始めとする9名で、いずれも土佐士族でした。土佐系の高官は、先の政変で板垣退助、後藤象二郎以下、ほとんどが官を辞してしまい、政府にとどまったのは佐々木高行谷干城などわずか数人で、その結果、土佐系士族のほとんどが新政府に不満を持つ野党となりました。これが、のちの自由民権運動につながっていくんですね。


 逮捕された9名は、同年7月9日、司法省臨時裁判所において裁かれ、全員が斬首刑の判決を受け、同日、伝馬町牢屋敷にて首を落とされました。


 e0158128_19013010.jpgまた、ドラマでは描かれていませんでしたが、同じ頃、西郷とともに下野した征韓派の板垣、後藤、江藤新平、副島種臣の4人の前参議が、由利公正などの同志とともに連署して、政府に対して民撰議院設立建白書を提出しました。主唱者は板垣で、その内容は、有司専制(一部の藩閥政治家数名で行われている政治)を批判し、民選の議会開設、つまり、選挙によって選ばれた議員による議会の設立を要望するものでした。そして、それと前後して、板垣たちは愛国公党を結成します。これが日本最初の政党と言われています(もっとも、2ヶ月後に解散していますが)。当初、板垣はこの結党に西郷も誘ったといいますが、西郷はその主旨には賛同しつつも、それが言論で実現するとは思わないとして、連署には加わらなかったといいます。西郷は大久保政府を批判する行動には加担したくなかったか、あるいは、板垣主導ではなく、自身の主導で事を起こしたかったのか、それとも、このときすでに、別の方法で政府を倒すことを視野に入れていたか・・・。今となっては確かめようがありません。


 こうして、各方面で新政府に対する不満が暴発し始めていました。やがて、それが士族の反乱へと発展してくことになります。その魁となったのが、佐賀の乱でした。

 続きは明日の稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2018-11-26 01:04 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第43話「さらば、東京」その4 ~明治6年の政変<西郷と大久保の決別>~

 e0158128_15131310.jpg昨日の続きです。

 辞表を提出した西郷隆盛は、まもなく日本橋小網町にあった家を引き払い、隅田川の枕橋近くにあった越後屋喜右衛門の別荘に身を隠しました。越後屋喜右衛門は旧徳川時代に庄内藩御用達だった人物で、その縁で、この当時西郷家の面倒をみていました。西郷はここに数日間滞在し、釣り詩作揮毫などをして過ごしたと言われています。西郷は東京を去ることを決意し、あるいは最後になるかもしれない東京での生活を、ここで心に刻んでいたのかもしれません。西郷は、政府を去った自分がいつまでも東京にいると、自分を担ごうとする血気の集団が騒ぎ出して何をしでかすかわからない、そう考えていたのでしょう。西郷は、「西郷隆盛」という人物が政治に与える影響力の大きさをいちばんよく知っていたといえるかもしれません。


 西郷は、彼を慕う桐野利秋ら取り巻きの面々にも、一言も報せることなく東京を去ります。ただ、ひとりだけ別れの挨拶をしにいった人物がいます。大久保利通でした。


 e0158128_15131733.jpg10月28日、西郷は突然、大久保の邸を訪れます。そこには先客がいました。伊藤博文でした。伊藤は気を使って、「拙者ははずしましょうか?」といいますが、西郷はかまいませんと言って伊藤に会釈し、大久保と向き合ったといいます。そして西郷は大久保に対して、これから鹿児島に帰る旨を伝え、「後のことは、よろしゅう頼ん申す」と言いました。すると大久保は、これまで誰にも見せたことがないほどの怒気を表し、「そいは吉之助さぁ、おいの知ったこつか!! いつでんこいじゃ。いまはちゅう大事なときにお前さぁは逃げなさる。後始末はおいがせんならん。もう、知ったこつか!」と、激しく罵倒したといいます。これには西郷も気を悪くしたらしく、珍しく激しい口調で「知らんとはどういうこつか!」怒りを顕にし、そのまま立て上がって出ていきました。大久保はよほど腹が立っていたらしく、玄関まで見送るということさえしなかったといいます。これを終始、側で見ていた伊藤がさすがに見かね、西郷が退去したあと、「アンナ場合にアンナ挨拶は善くない」と大久保をたしなめると、大久保は先刻とは別人のような疲れを見せて、「私もそう思います」と、小声でいったといいます。


 このエピソードは、後年、伊藤がハルビンで命を落とす直前に、新聞記者に語った回顧談です。伊藤は、西郷のことをあまり良く思っていなかったのか、後年になっても西郷の思い出をあまり語ろうとしなかったといいますが、このときの光景はよほど印象深かったのか、複数の場所で人に語っています。また、西郷の死後、大久保自身が前島密に対して語ったところでは、このとき大久保が懸命に西郷の帰郷を止めたのに対し、西郷は頑なにこれを拒絶したため、頭にきた大久保が「然らば勝手にせよ」と言ったと回顧しています。このあたりのエピソードの微妙な違いは今となっては確認のしようがありませんが、このとき、二人が喧嘩別れのような別れ方をしたのは間違いなさそうですね。


 ただ、ここで考えたいのは、西郷が結果的に自分を政府から追い出した大久保のところだけに別れの挨拶をしに行ったということでしょう。西郷にとって大久保は、竹馬の友であり、幕末から維新にかけて苦楽を共にしてきた唯一無二の戦友でした。自分のことを最もよく理解しているのは大久保だという思いがあり、どれだけ政見を違えて政敵となっても、大久保を畏敬する気持ちに変わりはなかったのでしょう。また、大久保も、常に沈着冷静で感情的に人を罵ることなどなかった彼が、西郷に対してのみ、伊藤が見たこともないような怒気を表したわけで、裏を返せば、それだけ大久保にとっても西郷は特別な存在だったということの表れだったでしょう。伊藤には喧嘩別れのように見えたこのときの二人でしたが、二人なりのお互いを認めあった別れの挨拶だったのかもしれません。


 この日を境に、西郷は大久保に向けて書簡を発することは一度もありませんでした。文字通り、この日がふたりの永遠の別れとなります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-22 02:33 | 西郷どん | Comments(4)  

西郷どん 第43話「さらば、東京」その3 ~明治6年の政変<政局の結末>~

 昨日の続きです。

 ドラマでは閣議1日で終わっていたかのようでしたが、実際には10月14日の閣議では結論に至らず、翌15日、改めて閣議が開かれました。しかし、通説では、この日、西郷隆盛は閣議を欠席したといいます。その理由は、自身の言い分は前日の閣議ですべて吐き尽くしたと判断し、採否は太政大臣をはじめとする他のメンバーに委ねたのではないかと言われています。この欠席が、西郷にとって功を奏することになるんですね。あるいは、自分がその場にいないほうが、自分の意見が重みを増すといった西郷の計算だったかもしれません。


 この日の閣議では、まず参議一同に対する意見陳述が求められ、その結果、『大久保日記』によれば、大久保利通を除く参議一同が西郷を支持する意見を表明したといいます。なかでも副島種臣板垣退助がとくに西郷の朝鮮派遣を強く求める態度を示しました。これに対し大久保は、猛烈に前日に主張した反対論を主張し、副島や板垣と激論を交わします。その結果、この日も閣議が紛糾したため結論を見ず、最終決定を三条実美岩倉具視の両人に任せることになりました。そして二人は別室で話し合いますが、ここで、優柔不断な態度を示していた三条が、にわかに西郷を支持する側にまわります。前稿で紹介した閣議前の西郷の脅しの手紙がきいていたのかもしれません。西郷を敵に回すということは、西郷を慕う薩摩系近衛兵たちを敵に回すことでもあり、争いごとを好まない三条には、大久保のような命をかけた覚悟などできなかったのでしょう。いずれにせよ、ここに西郷の朝鮮への派遣が本決まりとなり、あとは、手続き上、天皇に上奏して裁可を待つだけとなりました。


 e0158128_15131733.jpgこれに怒ったのは、大久保でした。大久保は参議に就任して西郷と対決するにあたって、事前に三条と岩倉に対して、くれぐれも意見を翻さないよう証文を取っていたといいます。幕末以来、大久保は公家の優柔不断さをよく知っており、もし、今回も土壇場で梯子を外されるようなことになったら、自身の政治生命も断たれることになる。大久保は二人を信用していなかったんですね。ところが、その心配どおり、やはり、土壇場で裏切られました。怒った大久保は、閣議が開催されるはずだった17日の早朝に三条邸を訪れ、参議の辞表を提出します。これには三条はよほどショックを受けたようで、『大久保日記』によれば、「よほど御周章の御様子に候」皮肉たっぷりに記しています。また、この大久保の辞表に追随するかたちで、木戸孝允と岩倉も辞表を提出しました。この事態を受けた三条は、今度は西郷を呼んで決定した閣議の内容を再検討するよう懇願しますが、当然、西郷はこれを拒絶します。こうなると、三条はもうどうしていいかわからなくなり、やがて重圧に耐えかねて錯乱状態になり、人事不省に陥ってしまいました。


 e0158128_11234954.jpgここから、また大久保、岩倉ら征韓論反対派の巻き返しが始まります。大久保は直ちに一策を講じ、同郷の黒田清隆を動かして宮中工作を図り、天皇から岩倉に太政大臣代行を命じるよう働きかけました。そして、その工作は見事に成功します。


 岩倉の太政大臣代行の就任を知った西郷は、10月22日に板垣退助、副島種臣、江藤新平三参議とともに岩倉邸を訪れ、15日の閣議決定通りに天皇に上奏するよう要請します。しかし、岩倉は、閣議での決定事項とともに自分の考えも同時に天皇に上奏すると応えました。彼らは、代行者が自分の意見を述べるのはおかしいとして岩倉を執拗に恫喝しますが、岩倉は一歩も引かず、そして岩倉の生涯で最も凄みのある台詞を吐きます。


「わしの目の黒いうちは、おぬしたちの勝手にはさせぬぞ!」


 有名なシーンですね。これ、描いてほしかったなあ。


 この岩倉の決死の覚悟を見た西郷は、もはや勝ち目はないと判断して席を立ちます。一同が岩倉邸を出るや西郷が振り返り、一笑してこう言ったとされます。


 「右大臣、よく踏ん張りもしたな」


 これまた有名なシーンですね。このときの西郷の姿を、板垣は生涯忘れられなかったと語っています。これも描いてほしかったなあ。


 かくして西郷ら征韓派の敗北が決定しました。西郷は10月24日、参議の辞表を提出。その翌日には、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎の4参議も辞表を提出します。その後、大久保、木戸の辞表が却下され、ここに、いわゆる明治6年の政変は幕を閉じることとなります。


 明治6年の政変だけで3稿もかかっちゃいました。これでも、ずいぶん割愛したつもりです。これだけの人間模様が展開された物語の核と言ってもいい出来事なのに、ドラマではあまりにも簡素化して単純化した描き方になっていました。残念ですね。

 まだ書き足りないので、明日、もう一稿だけ、西郷と大久保の決別をやります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-21 01:28 | 西郷どん | Comments(2)