人気ブログランキング |

タグ:大村益次郎 ( 9 ) タグの人気記事

 

上野戦争に散った彰義隊の墓

前稿で紹介した西郷隆盛像のある上野恩賜公園には、彰義隊の墓があります。

彰義隊とは、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜側近の旧幕臣を中心として結成した有志隊で、ここ上野が舞台となった上野戦争における佐幕側部隊です。


e0158128_14092115.jpg


鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は、江戸城に戻ると朝廷に対して恭順の意を示し、ここ上野にある寛永寺謹慎しますが、その慶喜の護衛江戸警備の名目で結成されたのが彰義隊でした。

もっとも、表向きの名目は慶喜の護衛と江戸警備ですが、実情は、慶喜の恭順姿勢に不満を抱く強硬派の集団でした。

頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、幹事には本多敏三郎伴門五郎が就きました。

隊士には旧幕臣のみならず、町人博徒侠客も参加し、たちまち1000人を越える規模になります。


e0158128_14092510.jpg


慶応4年3月13日(1868年4月6日)、新政府軍の参謀・西郷隆盛と、旧幕府軍の陸軍総裁・勝海舟との歴史的会談が行われ、その約1ヶ月後の慶応4年4月11日(1868年5月3日)、江戸城は無血開城されることになり、慶喜も水戸にて謹慎することで決着します。

しかし、それに不満を持った彰義隊は、徹底抗戦を主張し、上野寛永寺に立て籠もります。

この不穏な空気を重く見た勝海舟は、再三、彰義隊の解散を促しますが、彼らは聞き入れることはなく、その後、彰義隊のなかでは慎重派だった渋沢成一郎が離脱して天野八郎ら強硬派がイニシアチブを取ると、ますます過激さを増していきます。


e0158128_14093664.jpg


京都に本陣を布いていた新政府軍は、関東での事態を重く見、西郷や勝では抑えきれないと判断して、大村益次郎を送り込んで指揮を執らせます。

江戸に入った大村は、たちまちにして陣形を整え、そしてとうとう5月15日(7月4日)、上野に結集した彰義隊3000人に対して、新政府軍2万人が総攻撃を開始。

その圧倒的な戦力の差から、開戦から1日も経たずに彰義隊は壊滅しました。


e0158128_14092901.jpg


この戦いにおける記録上の戦死者は、彰義隊105名、新政府軍56名といわれています。


e0158128_14093342.jpg


彰義隊士の遺体は、しばらく上野山内に放置されていたそうですが、三ノ輪円通寺の住職仏磨らによってこの地で茶毘に付されました。

説明板によると、正面の小墓石は、明治2年(1869年)に寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだそうで、のちに掘出されたそうです。

後ろの大墓石は、明治14年(1881年)12月に、元彰義隊士の小川興郷(椙太)らによって建てられたものだそうで、彰義隊は明治政府にとって賊軍だったため、政府をはばかって彰義隊の文字はありませんが、旧幕臣の山岡鉄舟の揮毫による「戦死之墓」の字が刻まれています。

その後、小川家によって墓所は守られてきましたが、現在は歴史的記念碑として、東京都が維持管理しています。


e0158128_14094054.jpg


彰義隊の墓が建てられたのが明治14年(1881年)で、西郷隆盛像が建てられたのが、その16年後の明治30年(1897年)。

同じ上野恩賜公園内に敵対した西郷隆盛の像と彰義隊の墓が隣接しているわけですが、今は問題ないとして、明治の頃は、関係者はどんな心境だったのでしょうね。

少なくとも、彰義隊の遺族は快くは思っていなかったんじゃないでしょうか。

もっとも、大村の像じゃなかっただけ、マシだったかもしれませんね。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-12-29 00:37 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その9 「九段坂公園~靖国神社」

北の丸まで来たので、その北側にある3人の像について触れておきましょう。

「その8」で紹介した田安門の北側にある九段坂公園に、2人の像があります。


e0158128_16525848.jpg


まずはこの人。

品川弥二郎子爵です。


e0158128_16530140.jpg


品川弥二郎は長州藩足軽の家に生まれ、15歳で松下村塾に入門。

吉田松陰の門下生となります。

松陰の死後は高杉晋作らと共に尊皇攘夷運動に奔走し、文久2年(1862年)イギリス公使館焼討事件にも参加しています。

元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀をつとめます。

維新後、明治3年(1870年)に欧州留学し、帰国後は、内務大書記官、内務少輔、農商務大輔などを歴任。

その後、駐独公使、宮中顧問官、枢密顧問官をへて、明治24年(1891年)に1次松方正義内閣では内務大臣に就任しますが、翌年の第2回衆議院議員総選挙において、次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行ない、死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職に追い込まれます。

晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。


e0158128_16530448.jpg


と、まあ、経歴をまとめれば立派ですが、実際には大した人物ではありません。

俗に明治政府は薩長の連合政府だったと言われますが、幕末、西郷隆盛大久保利通など主要な人物がすべて生き残っていた薩摩藩に対して、長州藩は、高杉晋作久坂玄瑞などの大物がほとんど死んでしまい、ビッグネーム木戸孝允(桂小五郎)くらいでした。

そこで、薩長の均衡を保つため、繰り上がり当選のように明治政府の要職に着いたのが、伊藤博文山縣有朋井上馨、そして、この品川弥二郎でした。

なので、どうしても小物感が拭いきれません。


e0158128_16574185.jpg


九段坂公園にはもうひとり、大山巌元帥の騎馬像があります。


e0158128_16574438.jpg


西郷隆盛の従兄弟にあたる大山巌は、維新後は欧州に留学し、征韓論に敗れて下野した西郷ら薩摩藩出身者に代わって、薩閥の首領としての地位を確立しました。

その後は陸軍卿、参謀本部長、陸軍大臣など要職を歴任し、陸軍内においては長州閥の山縣有朋と勢力を2分します。

明治27年(1894年)の日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官に就いて旅順攻撃を担当。

その後、元帥となり、明治37年(1904年)の日露戦争では満州軍総司令官として指揮を執りました。


e0158128_16574761.jpg


品川弥二郎の像が建てられたのは明治40年(1907年)、大山巌の像が建てられたのは大正8年(1919年)だそうです。

なぜ、この場所にこの2人の像が建てられたのかはわかりませんが、これも薩長の均衡を保つためでしょうか?


e0158128_17000132.jpg


九段坂公園から歩道橋を渡ると、靖国神社があります。

靖国神社についてはここでは詳しく触れませんが、その大鳥居をくぐってド正面に建てられた大きな像は、長州藩士の大村益次郎です。


e0158128_17054318.jpg


猪突猛進型の熱血攘夷志士を多く排出した長州藩士のなかで、大村だけは異質な存在で、蘭学者だった彼は、はじめから攘夷が不可能であることを知っていました。

もし、幕末の世に生まれていなければ、学者としてその人生を終えたことでしょう。


e0158128_17054644.jpg


ところが、木戸孝允によって見出された大村は、第二次長州征伐でその才能を発揮し、大政奉還後の戊辰戦争では司令官として新政府軍勝利の立役者となり、その後、太政官制における兵部省の初代大輔を務め、事実上の日本陸軍の創始者となりました。

新政府の軍部の最高位である兵部大輔となった大村は、旧式の封建軍隊にかわる洋式の近代兵制の創立を推し進めますが、広く国民から徴兵するという大村の国民皆兵論は、士族の特権を脅かすものとして、多くの元武士たちの反感を買っていました。

そして、その不平士族によって暗殺されます。


e0158128_17055092.jpg


大村像は明治26年(1893年)に完成した日本初の西洋式銅像で、高さ12mあります。

今では高層ビルが立ち並びますが、戦前は、異様な高さで目立っていたそうです。


e0158128_17055549.jpg


靖国神社は、戦前は陸軍省の管轄でした。

そのいちばん目立つ場所に、日本陸軍の創始者である大村の像が建てられたということは、靖国神社がどういう政治的意図を持った神社であるかが理解できます。

まあ、あまり言うと炎上するので、このへんにしときます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-12-25 21:08 | 東京の史跡・観光 | Comments(2)  

西郷どん 第37話「江戸無血開城」その2 ~彰義隊と上野戦争~

e0158128_19210653.jpg 昨日の続きです。

 勝海舟との会談で慶応4年3月15日(1868年4月8日)に予定していた江戸総攻撃はひとまず中止した西郷吉之助(隆盛)でしたが、徳川慶喜の処遇に関しては、西郷ひとりの判断では決めかねるとして、いったん保留にして朝議にかけるべく京都に持ち帰ります。そして3月20日、二条城において緊急会議が開かれました。メンバーは、三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、広沢真臣、後藤象二郎、そして西郷の7人。この席で、これまで最も慶喜の死罪を望んでいたはずの西郷が、慶喜に対して寛大な処分を主張します。これには皆、驚きを見せましたが、ドラマでは、慶喜の助命に反対意見を訴えていた木戸でしたが、実際には、木戸が西郷の意見に賛成の態度を示し、西郷の意見が採用されることになりました。


 西郷と勝の歴史的会談から約1ヶ月後の4月10日、西郷と勝は本門寺で再び会談し、そこで、幕府側の要望通りに慶喜の水戸表での謹慎を許すことが伝えられ、江戸城明け渡しの具体的な最終条件が話し合われ、翌11日、江戸城無血開城とあいなります。そして同日早朝、上野の寛永寺で謹慎していた慶喜は江戸を去り、水戸に向けて出立しました。言うまでもなく、ドラマのように西郷が慶喜や天璋院と会ったという記録は残されていません。


 かくして江戸城は戦うことなく新政府軍の手に渡ったのですが、しかし、これにて一件落着というわけには当然ながらいかず、この結末に不満を持つ旧幕臣たちが、上野の寛永寺に集結します。いわゆる彰義隊の反乱ですね。


 もともと彰義隊は、鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に舞い戻った慶喜が寛永寺にて謹慎生活を始めた際、その慶喜の護衛江戸警備の名目で結成された集団でした。もっとも、それは表向きの名目で、実情は、慶喜の恭順姿勢に不満を抱く強硬派の集団でした。頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、幹事には本多敏三郎伴門五郎が就きました。隊士には旧幕臣のみならず、町人博徒侠客も参加し、たちまち1000人を越える規模になります。


 江戸城明渡しに不満を持った彰義隊は、徹底抗戦を主張し、上野寛永寺に立て籠もります。この不穏な空気を重く見た勝海舟は、再三、彰義隊の解散を促しますが、彼らは聞き入れることはなく、その後、彰義隊のなかでは慎重派だった渋沢成一郎が離脱して天野八郎ら強硬派がイニシアチブを取ると、ますます過激さを増していきます。


e0158128_01391458.jpg京都に本陣を布いていた新政府軍は、関東での事態を重く見、西郷や勝では抑えきれないと判断して、大村益次郎を送り込んで指揮を執らせます。江戸に入った大村は、たちまちにして陣形を整え、そしてとうとう5月15日(7月4日)、上野に結集した彰義隊3000人に対して、新政府軍2万人が総攻撃を開始。新政府軍はアームストロング砲ライフル砲など最先端の武器を駆使して上野の山を攻撃し、その圧倒的な戦力の差から、開戦から1日も経たずに彰義隊は壊滅しました。後世に上野戦争と呼ばれるこの戦いの記録上の戦死者は、彰義隊105名、新政府軍56名といわれています。


 西郷と勝の会談によって実現した江戸無血開城でしたが、やはり、260年続いた徳川政権の終焉が、そんなに簡単に決着するはずはなかったんですね。その意味で、上野戦争は当然の副作用だったといえるかもしれません。そして、その副作用はまだまだ続くことになります。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-10-02 01:40 | 西郷どん | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その31 「大村益次郎遺址」

前稿で紹介した「佐久間象山・大村益次郎遭難之碑」から木屋町通を挟んでほぼ向かい側に、「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」と刻まれた石碑があります。

ここは、大村益次郎が襲撃された宿所があった場所です。


e0158128_16400680.jpg


明治2年(1869年)8月、大村益次郎は軍事施設視察建設予定地の下見のため、京都に出張していました。

そして9月4日、この地にあった旅宿の奥座敷二階において、長州藩大隊指令の静間彦太郎、大村の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われます。

一緒にいた静間と安達は即死、益次郎は重傷を負いました。

一説には、安達が「俺が大村だ!」と叫んで窓から逃げたため、刺客は安達を追い、そのおかげで益次郎はその場で死に至ることはなかったといいます。

しかし、こめかみや膝など6か所深手を負い、その状態で1階の風呂場の湯船に身をひそめていたため、右膝の傷が化膿してしまい、当初は河原町の長州藩邸で治療を受けていましたが、その後、蘭医ボードウィンの治療を受けるため大阪の病院に移ります。

しかし、膝の傷は思った以上に悪く、足を切断する必要に迫られますが、政府要人だった益次郎の足を切断するという大手術を勝手に進めることができず、勅許を東京の政府に要請しますが、その調整に手間取り、その結果、手遅れとなってしまいました。

果して10月27日に手術を受けるも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し、5日の夜に死去します。

享年46。

もともと医者だった益次郎でしたが、自身の傷は癒せませんでした。


e0158128_16401085.jpg


益次郎襲撃の実行犯は直ちに逮捕されますが、その実行犯たちを操っていた黒幕は、旧薩摩藩士でこのとき京都弾正台大忠を務めていた海江田信義だったというのが定説となっています。

幕末には有村俊斎の名で知られた人物ですね。

海江田は戊辰戦争のときに東海道先鋒総督参謀を務めていましたが、このとき益次郎とことごとく対立し、根深い遺恨を持っていたとされています。

維新後、新政府の軍部の最高位である兵部大輔となった益次郎は、旧式の封建軍隊にかわる洋式の近代兵制の創立を推し進めますが、広く国民から徴兵するという益次郎の国民皆兵論は、士族の特権を脅かすものとして、多くの元武士たちの反感を買っていました。

その不平士族たちの感情を利用して海江田が彼らを扇動し、私怨をはらしたのではないかと言われています。

というのも、実行犯6名は弾正台によって処刑が言い渡されますが、その刑の執行の直前になって、弾正台の長官である海江田によって処刑が差し止められるという事態が起こります。

当時は司法制度が確立されておらず、警察が捕まえて裁くところまで全部行っていた時代ですから、長官の一存で処刑中止もできちゃったわけで・・・。

でも、やはり怪しいですよね。

益次郎と同郷の木戸孝允は、早くから海江田を危険視しており、このときの益次郎の京都出張にも反対していたといいますが、益次郎はそんな木戸の忠告も意に介さず、出張を強行したといいます。

益次郎死去の報を受けた木戸は、「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」と日記に綴っています。



「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-04-12 01:44 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その30 「佐久間象山・大村益次郎遭難之碑」

前稿で紹介した佐久間象山寓居之跡から少し北上した木屋町御池に、「佐久間象山先生遭難之碑・大村益次郎卿遭難之碑」と刻まれた石碑があります。

ここで二人が殺されたのか・・・と思いきや、よく見ると、「北へ約壱丁」とあります。

どうやら、この石碑は道標だったようです。


e0158128_16274365.jpg


道標が示していたとおり、100mほど北上すると、高瀬川に面して二人の遭難之碑がありました。


e0158128_16285837.jpg


左が「大村益次郎卿遭難之碑」、右が「象山先生遭難之碑」です。


e0158128_16333229.jpg


前稿でも紹介しましたが、佐久間象山は、嘉永7年(1854年)、来航したペリー艦隊に乗り込んで密航を企てた門弟の吉田松陰に連座して国元の松代で蟄居生活を送っていましたが、その罪が解かれた元治元年(1864年)3月、一橋慶喜(のちの第十五代将軍・徳川慶喜)に招かれて上洛し、朝廷内に公武合体論開国論を説いてまわっていました。

しかし、当時の京都のまちは、前年の「八月十八日の政変」によって尊攘派は表立った行動ができなくなっていたとはいえ、未だ尊攘派志士たちが数多く潜伏しており、勢力の奪還をはかっていました。

そんななかを、象山は馬上洋装で都大路をさっそうと闊歩していたといいますから、その姿が尊攘派にとって格好のターゲットとなったことは想像に難しくありません。

しかも、共も連れずに移動することもしばしばだったとも。

このあたり、彼の自信過剰な性格を表しているといえるでしょうか。


e0158128_16333665.jpg


必要以上に目立ちすぎた象山は、7月11日午後5時、このあたりの路上で刺客のために非業の最期を遂げました。

享年52.

刺客は、肥後の河上彦斎、隠岐の松浦虎太郎の二人だともいわれていますが、確たる証拠はありません。

象山が殺された現場には、次のような斬奸状が残されていました。


松代藩 佐久間修理
 この者、元来西洋学を唱え、交易開港の説を主張し、枢機の方へ立入り、御国是を謝り候。大罪捨て置き難く候の処、あまつさえ奸賊の会津藩、彦根の二藩に与党し、中川宮と事を謀り、おそれ多くも九重(天皇)御動座、彦根城へ移し奉り候。儀を企て、昨今しきりにその機会窺い候。大逆無道、天地に容るべからざる国賊に付、即ち、今日三条木屋町に於い、て天誅を加え畢りぬ。但し、斬首梟木に懸くべき処、白昼其の儀も能わざる者也。
 元治元年七月二十一日  皇国忠義士


象山の死から5年後の明治2年9月4日(1869年10月8日)、この地の東側にあった旅宿の奥座敷二階において、大村益次郎が刺客の凶刃に襲われ、その傷がもとで、2か月後の11月5日に大阪の病院で歿します。

享年47。


e0158128_16334006.jpg


益次郎は周防国の医者の家に生まれ、蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高め、維新後は明治政府の兵部大輔となります。

そして旧式の封建軍隊にかわる洋式の近代兵制の創立に努めますが、そのため、不平派士族に襲われたと言われています。

象山先生のくだりで長くなっちゃったので、益次郎襲撃の話は次稿にて。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-04-08 19:40 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その4 「東山霊山護国神社~大村益次郎の墓」

前稿前々稿で、坂本龍馬、中岡慎太郎、木戸孝允の墓を紹介しましたが、ここ東山霊山の墓石のなかで、木戸の次に高い官位を贈られた人物といえば、大村益次郎でしょう。

その益次郎の墓が、これです。


e0158128_21492184.jpg


えっ?・・・と思うくらい小さな墓石で、写真もこのワンカットしか撮れませんでした。

この前はになっていて、思いっきり体をのけぞって広角レンズで撮ったのが、この1枚です。

はじめてこの霊山を訪れたとき、益次郎の墓が見つからずに探し回りました。

というのも、日本陸軍の創始者にして従二位まで贈られた益次郎の墓ですから、木戸ほどじゃないにしても、ある程度立派なものを想像していたんですね。

ところが、実際には無名の志士たちと変わらない扱いでひっそりと建っていて、そりゃ見つからんわ・・・と。


e0158128_21522856.jpg


というのは、実はここは正式な墓ではなく、本当の益次郎の墓は、山口県に立派なものがあるんですね。

この墓石は、いわば慰霊碑のようなもので・・・。

でも、だとしても、靖国神社に銅像がある程の人ですから、もうちょっと立派なものにしても良かったんじゃないかと・・・。


e0158128_21523401.jpg


猪突猛進型の熱血攘夷志士を多く排出した長州藩士のなかで益次郎だけは異質な存在で、蘭学者だった彼は、はじめから攘夷が不可能であることを知っていました。

もし、幕末の世に生まれていなければ、学者としてその人生を終えたことでしょう。

ところが、世情は彼の明晰な頭脳を必要としました。

桂小五郎(木戸孝允)によって見出された益次郎は、第二次長州征伐でその才能を発揮し、大政奉還後の戊辰戦争では司令官として新政府軍勝利の立役者となり、その後、太政官制における兵部省の初代大輔を務め、事実上の日本陸軍の創始者となりました。

でも、そのせいで暗殺されてしまうんですね。

武士たちの多くは、「志士は溝壑に在るを忘れず」の精神で時代を生き、死後、ここ東山霊山に名を連ねることを誉れに思っていたでしょうが、益次郎はどう思っているでしょうね。

学者のままの人生だったら、ここに墓碑が建てられることはなかったはずですから。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-02-24 11:36 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

花燃ゆ 第38話「届かぬ言葉」 ~奇兵隊脱隊騒動~

 版籍奉還という荒療治を断行し、急速に中央集権化を推し進めようとしていた明治政府でしたが、強引な改革というのは、当然その反作用を生みます。今話で描かれていたのは、その過程で起こった奇兵隊脱隊騒動でした。

 版籍奉還によって収入が大きく減少した諸藩は、大胆な財政改革の必要に迫られます。そこで長州藩の知藩事となっていた毛利元徳は、大幅な兵制改革に乗り出します。具体的には、奇兵隊を含む諸隊、約5000人余りを御親兵四大隊2250人に再編し、残り3000人余りは解雇という、大型リストラでした。かつて高杉晋作が奇兵隊を創設してから戊辰戦争にかけて、討幕軍の中心となっていた長州藩は、他藩以上に多くの兵力を抱えていました。バブル経済に乗っかって急成長した企業が、多くの従業員を雇い入れ、やがてバブルが弾けると、人件費の圧迫に堪えられなくなるといったやつですね。こうなると、企業の存続のためにはリストラはやむを得ません。

 しかし、現在のリストラでいえば、退職金を増額するとか、再就職の手助けをするとか、対象者から「不当解雇だ!」と訴えられないように図るものでしょうが(零細企業のリストラの場合は、そうも出来ない場合も多いでしょうが)、このとき元徳が行ったリストラは、退職金はもちろん、功績の評価などもまったくなく、元武士だけを残し、平民出身の隊士を解雇するというものでした。いかにも殿さまらしい愚策ですね。これでは、不平不満が生まれないわけはありません。

 明治2年(1869年)12月に決起した旧諸隊士たちは、翌年の1月に約2000人で山口藩庁を取り囲みます。ドラマでは、あくまで話し合いを求めて蜂起したように描かれていましたが、武装蜂起した以上、反乱軍ですね。この事態を重くみた木戸孝允は、急遽、討伐軍を編成して山口に送り込み、自ら指揮を執って鎮圧にあたります。ドラマでは、説得を試みる誠実楫取素彦に対して非情な木戸孝允という描かれ方でしたが、木戸の立場としては、やむを得ない判断でした。版籍奉還が行われたといえども、諸藩には未だ軍隊が存在し、一方の中央政府には、まだ直属軍というものがありません。このままでは、諸藩のクーデターによって、いつ中央政府が倒されてもおかしくなく、一刻も早く地方の力を弱めて、政府軍を作る必要がありました。ところが、ドラマでは描かれませんでしたが、その兵制改革の中心的役割を担っていた大村益次郎が、この少し前に長州藩の不平藩士よって暗殺されていました。大村の死は、長州藩にとっても中央政府にとっても大きな痛手であり、木戸にしてみれば、見せしめの意味でも反乱軍を力でねじ伏せる必要があると考えたのでしょう。

 戦いは激戦となり、一時は木戸も退却を余儀なくされる戦況になりますが、最終的には反乱は鎮圧され、捕らえられた兵の中心人物100人以上が死罪となります。ともに幕末の動乱を戦ってきた志士たちの同志討ち。討つほうも討たれるほうも、何ともやりきれない思いだったでしょうが、使い捨てとなった兵たちの反乱はこれで終わることなく、明治10年(1877年)の西南戦争まで、各地で起きるんですね。まさに、痛みを伴う改革だったわけです。

 ちなみに、反乱軍のなかには、かつて野山獄吉田松陰と意気投合し、出獄後、松下村塾に講師として招かれていた富永有隣がいました。今話で出てくると思たんですけど、出てこなかったですね。富永は逃亡したため死罪は免れましたが、明治10年に捕らえられ、国事犯として投獄されます。その後、明治17年(1884年)に釈放されたのち、を開いて若者の指導にあたりながら著書を執筆し、80歳まで長生きします。松下村塾ゆかりの数少ない生き残りのひとりでした。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2015-09-22 14:21 | 花燃ゆ | Comments(2)  

花燃ゆ 第35話「孤高の戦い」 ~四境戦争~

 慶応2年(1866年)1月に薩長同盟が結ばれた同じ年の6月、幕府による第二次長州征伐が開始されます。幕府軍の兵力は総勢15万の大軍。一方、迎え撃つ長州藩の兵力は、奇兵隊ら諸隊を中心とするわずか4千ほどでした。誰がどう贔屓目にみても衆寡敵せず。30倍以上の兵力差では、勝ち目があるはずがありません。ところがところが、長州藩はこの戦いに勝っちゃうんですね。ここが、長州史のいちばんの見せ場です。

 幕府が負けた理由はいくつもあります。まずひとつには、そもそもこの第二次長州征伐は、約1年も前から叫ばれていたものの、諸藩がなかなか応じませんでした。というのも、前年からこの年にかけて各地で一揆が起きており、諸大名たちはその対応に負われていました。幕府の無策によって米価が暴騰し、庶民の生活が貧窮していたのです。また、諸藩は1回目の長州征伐で多くの経費を使っており、財政難に陥っていました。そんな状態のなかでの長州再征の命令だったので、ほとんどの諸藩が兵を出し渋り、足並みが揃わなかったんですね。そうこうしているうちに1年がすぎ、やむなく幕府は、なるべく地理的に長州に近い西国の藩で征長軍を結成します。西国の藩にしてみれば、貧乏くじを引かされたようなもので、そんな経緯でできた軍ですから、モチベーションが上がるはずがありません。

 一方の長州軍は、大村益次郎を総参謀長に任じ、西洋式軍備を導入。同盟を結んだ薩摩藩の協力のもと、最新のミニエー銃ゲベール銃を大量に買い込んでいました。また、奇兵隊などの諸隊は下級藩士や領民などからの志願兵によって編成されており、指揮官の戦略どおりに動く組織が構築されていました。わが国における近代式軍隊の魁ですね。敵対する幕府軍のほうは、多くの兵が動きにくい甲冑を着込み、、旧式の火縄銃を手にしていました。また、諸藩の寄せ集めのため指揮系統が整わず、大軍の力を発揮できずにいました。どれほどの大軍であっても、それを動かす指揮系統が整っていなければ、軍は機能しないんですね。逆に少数精鋭の長州軍は、大村益次郎の考案によって戦線を芸州口、石見口、周防大島口、小倉口にに分け、それぞれの戦闘は各方面の指揮官に委ねました。それでこの戦いは、のちに「四境戦争」と呼ばれるようになるんですね。

 この戦いで高杉晋作海軍総督として丙寅丸(オテントサマ丸)に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊に夜襲をかけてみごと撃沈します。また、小倉口の戦いにおいても、大暴れして幕府軍を敗走させます。天才・高杉晋作がもっとも輝いていた時期ですが、皮肉にもこのとき晋作の身体は、すでに病魔で蝕まれていたんですね。

 そんななか、幕府軍の敗走を決定づけることとなったのが、第14代将軍・徳川家茂の死去でした。享年21歳。死因は脚気衝心だったと言われていますが、幕末の動乱期にわずか13歳で将軍となり、もみにもまれ、心労につぐ心労の日々だったことも、死期を早めた要因だったかもしれません。家茂の死に関しては厳重な箝口令が布かれますが、それでも、どこからともなく情報が漏れ、またたく間に幕府方では公然の秘密となります。こうなると、もはや士気はダダ下がり。もともとこの戦いに乗り気ではなかった諸藩の兵たちは、先を争って戦線離脱を開始します。

 こうして、4千の兵が15万の大軍に圧勝しました。この敗北によって、いよいよ幕府の権威は地に落ちます。歴史が大きく動くときというのは、このような奇跡が起こるものなんでしょうね。こういうのを、大きな歴史のうねりというのかもしれません。このとき、そのうねりを起こした主役は、まぎれもなく長州藩でした。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2015-08-31 22:32 | 花燃ゆ | Comments(0)  

八重の桜 第24話「二本松少年隊の悲劇」 ~武士の本懐と玉砕戦~

 白河口を占領した新政府軍の軍事参謀・大村益次郎は、会津を討つ前に、まず奥羽越列藩同盟の弱小諸藩を落とす作戦に出ます。慶応4年(1868年)6月には、常陸平潟から北上した新政府軍が棚倉藩を陥落させ、つづいて泉藩、湯長谷藩を制圧し、磐城平藩を攻めました。磐城平藩の前半主は、老中職を務めたこともある安藤信正でした。磐城平城には仙台藩兵なども駐屯していましたが、7月13日の攻防戦で同盟軍は敗北を喫し、磐城平城は落城します。

 「会津は根本なり、仙台、米澤のごときは枝葉なり、枝を刈りて根を残す、ゆえに従って滅ぼせば従って起る、早く根本を絶たば枝葉随って落ちん」
 とは、大総督府参謀の板垣退助の言葉ですが、まさしく、大村の立てた作戦は、枝葉を刈って根本を枯らすというものでした。そしてその作戦はみごとに功を奏し、磐城平城城が落城すると、奥羽越列藩同盟の結束が音を立てて崩れはじめます。7月初旬に秋田藩が同盟を離脱すると、弘前藩、新庄藩、守山藩、三春藩らも次々に降伏。同盟は瓦解の一途をたどっていきます。東北がひとつになったこの同盟でしたが、必ずしも鉄の意志で結束していたわけではなかったんですね。

 7月29日、降伏した三春藩は新政府軍の先鋒隊となり、二本松藩に攻め込みます。二本松城が敵の手に落ちれば、須賀川周辺に駐屯していた仙台藩兵は前後の敵に挟まれることになります。そうなると仙台に帰れなくなるのではないか・・・との動揺が藩兵たちのなかで起こり、戦場からの離脱が始まりました。仙台藩は列藩同盟の盟主。本来であれば、二本松に敵が迫れば応援に向かわねばならないのに、盟主が最初の逃げ出したのです。同盟の瓦解は決定的でした。

 援軍を失った二本松藩は孤立無援の戦いを余儀なくされます。二本松藩兵1000人に対して新政府軍約7000人と、兵力の差は歴然としており、新政府軍に下った諸藩のように、降伏の道を選んでも仕方がない状況でしたが、家老の丹羽一学(富穀)「死を賭して信義を守るは武士の本懐」徹底抗戦を主張したため、二本松藩は新政府軍に立ち向かいます。しかしこのとき、二本松藩の主力兵は白川口方面へ出陣しており、城内にはわずかな手勢と老人兵、そして戦場に出るにはまだ早い少年たちしかいませんでした。そこで急遽結成されたのが、弱冠21歳の砲術師範・木村銃太郎を隊長とする二本松少年隊でした。

 二本松少年隊という名称は後年に付けられたもので、新政府軍に迫られ崩落寸前の城下で、出陣を志願した13歳から17歳までの少年たちで急遽結成された部隊に、名称などあるはずがありませんでした。数えの13歳といえば、今で言えば小学5・6年生ぐらいで、後年の神風特攻隊に繰り出された少年兵より遥かに幼い子どもたちです。丹羽一学が選んだ「武士の本懐」の道は、そんな子供に銃を持たせる道でした。

 少年たちの多くは木村銃太郎の門下生でした。出陣前夜、少年たちは武士として出陣できる喜びに、まるで「修学旅行のようなはしゃぎようだった」と、生き残った隊士が語っています。幼い頃から武士としての心得を叩きこまれてはいたでしょうが、それでも所詮は幼い子どもたち。この後自分たちに襲いかかる事態を、どれほど想像できていたでしょうね。出陣した62人の少年たちのなかで、戦死したのは16人。銃弾に倒れた者もいれば、斬り殺された者もいました。ドラマでスポットが当たっていた13歳の成田才次郎は、長州藩の小隊長・白井小四郎をみごとに刺し殺す功をあげますが、その後長州藩兵に撃ち殺されます。このとき白井は、「自身の油断が招いたゆえの不覚」と、自身を刺した少年の勇敢さをたたえ「殺してはならん」と部下たちに言ったそうですが、隊長を討たれた兵たちとしてはそれを見過ごすわけにはいかず、その場で銃殺されたと言います。撃つ方もまた辛かったことでしょう。

 少年たちの奮闘も虚しく、二本松城はわずか1日で落城します。丹羽一学ら重臣は、城主・丹羽長国を米沢に逃れさせたあと城に火を放ち、家臣ともども自刃して果てます。壮絶な最期でした。

 多くの東北諸藩が新政府軍に寝返っていくなかで、最後まで奥羽越列藩同盟の信義を貫き、凄まじい一藩総玉砕戦で散っていった二本松藩兵。彼らは後世に武士の鏡であるかのように美談として語られます。一方で、予科練などに10代の少年が志願し、特攻隊などに送り込まれた一億総玉砕戦は、史上もっとも愚かな戦争として後世に裁かれています。私には、その違いがよくわかりません。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2013-06-17 20:25 | 八重の桜 | Comments(0)