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西郷どん 第34話「将軍慶喜」 ~慶喜の将軍就任と大政奉還~

 第二次長州征伐、第14代将軍・徳川家茂の急死、孝明天皇の崩御、一橋慶喜の将軍就任から、一気に翌年秋の大政奉還まで話が進みました。約1年間が一瞬で過ぎてしまいましたね。薩摩視点の物語ですから、その全てを描く必要はなかったかもしれませんが、この1年間というのは幕府にとっても雄藩にといっても激動の1年間で、普通なら3~4話ほどかけて描くべきところです。慶喜にしても、これまでヒー様として本来は面識などなかったであろう西郷吉之助(隆盛)とさんざん接点を持たせておきながら、将軍慶喜の期間はなったく描かないというのは、意味がわからない。何のためのヒー様だったのでしょう? 慶喜がやった仕事は大政奉還だけではありません。


e0158128_15131310.jpgまた、西郷だけにスポットを当てたとしても、この間、慶応3年(1967年)5月には慶喜に対抗した四侯会議を画策し、土佐宇和島などに足を運んで周旋し、これを実現させています。このとき、土佐藩主の山内容堂や宇和島藩主の伊達宗城との会見時にも、面白いエピソードがあったのですが、残念ながら描かれませんでしたね。結果的にこの会議はうまく運ばず、この失敗を契機に薩摩藩は討幕路線に舵を切っていくことになります。そして、同月には中岡慎太郎の仲介によって土佐藩の乾退助、谷干城好戦派との間で武力討幕を念頭においた薩土密約を結ぶのですが、しかし、その翌月には、こんどは武力討幕によらない大政奉還のための薩土盟約を、坂本龍馬の仲介のもと土佐藩の後藤象二郎、福岡孝弟らと結びます。つまり、薩摩藩と土佐藩は同時期にこの2つの相反する同盟を結ぶのですが、このどちらの会談にも薩摩藩の代表として臨んだのが西郷でした。政治家・西郷にとってこの二重契約はどんな意図を含んでいたのか。今回のドラマではどのような解釈で描かれるのか楽しみにしていたのですが、まったくスルーとはびっくりです。


今年のドラマでは、そういった西郷の政治活動というのがほとんど描かれないため、西郷がいかに心優しい素晴らしい男だったかということは伝わっても、西郷がなぜ維新の巨魁となったのかが、ぜんぜん伝わらないんですよね。この前まで戦わずして勝つと言っていた西郷が、ここに来て急に好戦的になってきた理由もよくわからない。わたしは、最終回を観るまであまり批判はしたくないのですが、はっきり言って、今話は内容がスッカスカでした。


e0158128_19210653.jpg 今回のサブタイトルは「将軍慶喜」なので、慶喜の将軍就任について少し触れておきましょう。長州再征の最中に将軍家茂が急死したわけですが、その後継者は、慶喜以外、適当な人物はほとんどいませんでした。家茂は死に際して田安亀之助(家茂の従兄弟)を後継者とする遺言を残したといわれますが、このとき亀之助はわずか4歳、国事多難な情勢のなか、幼君では舵取りが困難との理由で多くの大名らが反対。老中・板倉勝静、稲葉正邦、前福井藩主・松平春嶽、京都守護職・松平容保、所司代・松平定敬らが、こぞって慶喜を推します。


 ところが当の慶喜は、徳川宗家の相続は承知したものの、将軍就任は容易に受けようとはしませんでした。この態度は、困難な政局を前にして、多くの人々の推薦を得てから将軍職に就き、恩を売ったかたちで将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったのでは・・・との見方がありますが、その真意は定かではありません。いわば、幕府=沈みかけの船の船頭となるのを拒んでいただけかもしれません。支持率を落とした政権与党の党首になるようなものですからね。慶喜は後年の回想録で、このときの気持ちを次のように語っています。


 「遂に板倉・永井を召し、徳川家を相続するのみにて、将軍職を受けずとも済むことならば足下等の請に従わんといいしに、それにてもよしとの事なりしかば、遂に宗家を相続することとなれり。されども一旦相続するや、老中等はまた将軍職をも受けらるべしと強請せるのみならず、外国との関係などもありて、結局これをも諾せざるを得ざるに至れり。かかる次第にて、予が政権奉還の志を有せしは実にこの頃よりの事にて、東照公(家康公)は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を葬るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり。」と。


 慶喜がすでにこの頃から大政奉還の志を持っていたという述懐は眉唾ものですが、英明な慶喜のことですから、この局面での将軍職就任が、いかに「貧乏くじ」であることは、直感的に感じていたのかもしれませんね。


 結局、孝明天皇の強い希望で慶喜に将軍宣下がなされ、家茂の死から4ヶ月後の慶応2年12月5日(1867年1月10日)に第15代将軍の座に就きますが、そのわずか10ヶ月後の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜は政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。いわゆる大政奉還ですね。これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として264年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げます。


 ドラマ中、西郷が慶喜の大政奉還に対して、武力討幕派の勢いをかわしただけの詭弁だと言っていましたが、これについては、わたしもおそらくそうだったのではないかと思っています。政権を返されたとて、700年もの間政治から遠ざかっていた朝廷に政権運営能力はなく、実質的にはこれまでどおり徳川家が運営していくこととなるだろう。慶喜はこの大政奉還に便乗して、あるいはこれを利用して、これまで以上に幕権を強化していこうとさえ考えていたといわれています。天皇を隠れ蓑にして実権を握る・・・つまり、名を捨てて実を取るというわけですね。たしかに、内乱回避して、なお且つ徳川本家を守るという道は、この時点ではもはや大政奉還しか道はなかったでしょう。その意味では、慶喜の選んだ道は最良の方策だったといえます。しかし、大政奉還後の構想は、慶喜が考えるほどあまいものではありませんでした。慶喜が考えるほど、討幕側は馬鹿じゃなかったんですね。「家康の再来」と讃えられるほど英明として知られた慶喜でしたが、このあたりの甘さは、やはり苦労知らずの貴公子、所詮はおぼっちゃんだったのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-09-10 18:56 | 西郷どん | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その114 「泉涌寺・孝明天皇陵(後月輪東山陵)」

東山にある泉涌寺を訪れました。

泉涌寺は、歴代天皇家の菩提所で、鎌倉時代の四条天皇(第87代天皇)以来14代の天皇陵をはじめ、皇妃、親王陵墓など39の陵墓があります。


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大門は慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したもので、重要文化財です。


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こちらは、江戸幕府4代将軍徳川家綱によって再建されたという仏殿

重要文化財です。


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こちらは御座所

建物内には、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用する玉座の間があります。

今上天皇も在位中に3度、ここを訪れて玉座の間を使用されたそうです。


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ここを訪れたのは平成29年(2017年)11月20日で、御座所の庭園は見事に紅葉が色づいていました。

せっかくなので、アップします。


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そして、こちらが境内の奥にある月輪陵

四条天皇(第87代天皇)をはじめ後水尾天皇(第108代天皇)から仁孝天皇(第120代天皇)までの25陵、5灰塚、9墓が営まれています。


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こちらがその一覧です。


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門の横の道を進むと、月輪陵内が見渡せます。

九重塔が各天皇の陵だそうです。

圧巻です。


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月輪陵のさらに背後に、後月輪東山陵と呼ばれる孝明天皇(第121代天皇)陵があります。

幕末シリーズなので、ここからが本題です。


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天保2年(1831年)生まれの孝明天皇は、弘化3年2月13日(1846年3月10日)から慶応2年12月25日(1867年1月30日)まで、約21年弱の間、在位していました。

まさに、「幕末」と言われる時代は、孝明天皇の時代だったといえるでしょう。

この孝明天皇が大の外国人嫌いだったことで、それまであった「攘夷論」「尊王思想」という本来別々だったものが結びつき、「尊王攘夷」というスローガンが生まれました。

これが、やがて討幕の導火線となっていくのですが、当の孝明天皇自身は、攘夷論であっても佐幕派であり、公武合体論でした。

このあたりに、幕末のややこしさが生じるんですね。


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孝明天皇の死については、暗殺説がかなり流布していたようです。

従来の定説となっている病状を見ると、亡くなる半月ほど前の12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、その翌日からひどく発熱します。

12日、13日と熱は下がらず、14日に診察した医師によると、「痘瘡(天然痘)か陰症疫の疑いあり」と診断されます。

睡眠も食事も満足にとれず、うわ言を発し、16日になると全身に発疹があらわれ、17日正式に痘瘡と公表されました。

そこで七社七寺への祈祷が命じられ、将軍以下、京都守護職松平容保らも見舞いに参内したようです。

翌18日以降、少しずつ病状は回復に向かっていたのですが、24日夜から病状が急変し、翌25日の公卿・中山忠能の日記に「何共恐れ入り候御様子」と書かれるほどの病状となります。

嘔気をもよおし、は多く、しだいに体力を失い、脈も弱まり、25日亥の刻(午後11時ごろ)に、ついに崩御となりました。


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このような病状の急変が、さまざまな風説を生む原因となったようです。

なかでも多くささやかれたのが毒殺説

専門家によると、何かに中毒したことによる急死の症状に酷似しているらしく、毒を盛られた可能性は否定出来ないとのことです。

もっとも、当然のことながらそれを立証できる証拠はなにもなく、全ては憶測に過ぎません。


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ただ、当時このような風説が流布される客観的な条件はじゅうぶんそろっていました。

この当時、政局は混沌としており、公武のトップである天皇と将軍の死は(この5ヶ月前には、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂も急逝していた)、佐幕派、倒幕派ともに大きな政治的意味があったことはいうまでもありません。

当時、日本に駐在していたイギリスの外交官・アーネスト・サトウが後年に書いた日記でこう述べています。


「当時の噂では、帝の崩御は天然痘によるものだと聞いていたが、しかし数年後、その間の消息によく通じているある日本人が、わたしに確言したところによれば、帝は毒殺されたのだという。この帝は所信をもって、外国人に対していかなる譲歩にも断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなることを予見した人々によって、殺されたというのだ。この保守的な帝がいたのでは、戦争を引き起こすような事態以外のなにものも期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺に求めるのは、東洋諸国ではごくありふれたことであり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋のために毒殺されたという噂が流布した。しかし当時は、帝についてそのような噂は聞かなかった。帝が、ようやく15、6歳になったばかりの少年(睦仁親王)を継承者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役だったであろうことは否定できない」


これによると、倒幕派が攘夷論者である孝明天皇を毒殺したということになりますね。

攘夷論では朝廷が外国と関係を持つようになっては大障害になるという観点からの毒殺説ですが、イマイチ理由としては弱い気がします。

それよりも、佐幕派の天皇では、倒幕を遂行するにはどうにも邪魔である、というほうがまだ説得力がある気がします。

事実、岩倉具視がこれを画策したという風説があります。

岩倉具視の義妹である堀河紀子が宮中女官として入っており、その紀子を操って痘瘡の薬のなかに毒物を混入させた・・・と。

もちろん風説であって、岩倉にしてみれば迷惑千万なはなしかもしれませんが、岩倉の場合それ以前の和宮降嫁問題のときにも、天皇毒殺をはかったという評判がたったことがあった人物で、疑惑の目で見られたのも無理はなかったかもしれません。


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薩摩藩士・大久保利通は、「玉(天皇)をわが方に抱えることが、千載の一事で、もし幕府に奪われては藩の滅亡」としていました。

天皇を味方につけた方が勝つということですね。

しかし、ときの天皇である孝明天皇は、はっきりとした政治的発言をおこない、しかもそれは佐幕説でした。

倒幕派にとっては、孝明天皇は邪魔な存在で、その死が倒幕派にとって有利なことであったのは明らかでした。

だからこそ毒殺説が生まれたのでしょう。

実際に毒殺が行なわれたのか、あるいは本当に痘瘡による病死だったのか、今となっては真相は闇の中ですが、いずれにせよ、孝明天皇の死が倒幕派を大きく勢いづかせたことは間違いありません。

古代・中世はさておき、孝明天皇は日本の近世以降の天皇のなかで、珍しく政治的行動・発言をおこなった、ただひとりの天皇といえるかもしれません。

そのため、36歳の若さでこの世を去ることとなってしまった・・・かどうかは定かではありませんが・・・。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-15 23:41 | 幕末京都逍遥 | Comments(4)  

幕末京都逍遥 その80 「平安神宮」

平安神宮にやってきました。

平安神宮は幕末の戦乱で荒廃した京都の街の復興のシンボルとして明治28年(1895年)に創建された神社で、主祭神は桓武天皇(第50代天皇)と孝明天皇(第121代天皇)です。

つまり、平安京最初の天皇最後の天皇を祀った神社です。


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上の写真は参道の大鳥居

高さ24.4mあるそうで、国の登録有形文化財に登録されています。


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平安神宮が創建された明治28年(1895年)は、平安遷都1100年の記念の年にあたり、創建当初は平安遷都を行った桓武天皇のみが祭神とされました。

その後、皇紀2600年にあたる昭和15年(1940年)に、平安京最後の孝明天皇が合祀されたそうです。


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写真は正面玄関にあたる應天門

重要文化財です。

平安京が創建された明治28年(1895年)、京都では平安遷都1100年を記念して内国勧業博覧会が開催されました。

應天門はそのモニュメントとして、桓武天皇が開いた当時の平安京の正庁、朝堂院の應天門を模して建てられました。


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振り返ると、遠くに大鳥居が見えます。


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そして、應天門をくぐると、正面に社殿が見えます。

左から白虎楼・西歩廊・大極殿・東歩廊・蒼龍楼です。

これらの社殿も、内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏を復元したものだそうですが、スケールは8分の5の規模だそうです。

当初は実際に大内裏があった千本丸太町朱雀門が位置するように計画されたそうですが、用地買収に失敗し、当時は郊外だったこの地に、縮小サイズで復元されたそうです。


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こちらが中央の大極殿

重要文化財です。

社殿のなかの正殿で、即位、朝賀をはじめ国の主要な儀式が行われる中枢だそうです。

「大極」とは、宇宙の本体・万物生成の根源を示す言葉で、不動の指針・北極星に比定され、天皇の坐す御殿を意味するそうです。


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こちらは西の白虎楼

重要文化財です。


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こちらは東の蒼龍楼

同じく重要文化財です。


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昭和51年(1976年)1月6日、日本の新左翼による放火で本殿・内拝殿など9棟が焼失してしまいました(外拝殿である大極殿は延焼をまぬがれている)。

その当時、これらの建物は文化財指定を受けていなかったため、再建のための国からの補助金が降りなかったそうですが、全国からの募金により、本殿や内拝殿は3年後に再建されたそうです。


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現在はこの朱塗りの社殿の美しさで京都を代表する観光名所のひとつとなっています。

わたしが訪れたこの日も、外国人だらけでした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-22 22:36 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その65 「松林院旧跡(清浄華院)」

前稿で紹介した清浄華院の敷地内に、「松林院旧跡」と刻まれた石碑が建っているのですが、その側面には、「松平容保寄宿の地」とも刻まれています。

松林院とは、かつてこの地にあった清浄華院の塔頭寺院です。


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文久3年(1863年)、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂が、将軍としては229年ぶりとなる上洛を果たした際、会津藩士たちの寄宿先となったのが、ここ清浄華院でした。

京都守護職を務めていた松平容保が清浄華院に入ったのは同年12月のことで、翌元治元年(1864年)5月まで松林院に滞在したそうです。

その後、容保は本陣の金戒光明寺に戻りましたが、その直後に池田屋事件が起こり、孝明天皇(第121代天皇)から御所近くに滞在するように求められ、すぐに舞い戻ってきます。

その後は、慶応3年(1867年)正月まで、この地に居座り、御所周辺の治安を守ることとなります。


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松林院は今世紀に入るまであったそうですが、平成15年(2003年)に本坊と統合され、宗教法人としては消滅してしまったそうです。

現在は、旧本堂で現・清浄華院阿弥陀堂と、のみが残っています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-31 23:28 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その58 「九条邸跡(京都御苑)」

前稿で紹介した「鷹司邸跡」の西隣にあった「九条邸跡」を訪れました。

九条家は藤原氏の流れをくむ鎌倉時代の公卿・九条兼実を祖とする家系で、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)のひとつです。

「幕末」と呼ばれる時代の当主は九条尚忠で、前稿で紹介した鷹司政通のあと、関白に就任します。


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安政5年(1858年)の日米和親条約締結にあたり、関白だった尚忠は幕府との協調路線を推進して条約許可を求めますが、不安をつのらせた若手の攘夷派公家たちの猛烈な反発を受け、中山忠能をはじめとする合計88名の攘夷派公家たちが、ここ九条邸前で抗議の座り込みを行いました。

いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」です。

その中に、下級公家だった岩倉具視がいました。


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と称して参内を辞退した九条尚忠に対して、岩倉は面会を申し込みますが、同家の家臣たちは病を理由にこれを拒否。

しかし、岩倉は面会するまでこの場を動かず、根負けした尚忠は、明日返答する旨を岩倉に伝えました。

岩倉が九条邸を退去したのは午後10時を過ぎていたといいます。

その結果、孝明天皇(第121代天皇)は条約締結反対の立場を明確にし、以後、幕府からの勅許の要請を頑なに拒否することとなります。


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勅許を得られなかった責任を取る形で、幕府老中の堀田正睦は辞職に追い込まれ、孝明天皇の怒りを買った関白・九条尚忠も内覧職権を一時停止されました。

しかし、その後、幕府は大老・井伊直弼の独断で条約を締結し、同年、「安政の大獄」を開始。

88人の公家の中からも、多くの処罰者が出ることになります。


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現在、九条邸跡には九条池と呼ばれる池があり、美しい庭園が残されています。


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池の向こうに見える2階建ての建物は、茶室の「拾翠亭」です。

およそ200年前の江戸時代後期に建てられたものと伝えられています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-19 23:42 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その54 「京都御所」

京都御所にやって来ました。

言うまでもなく、明治維新までの天皇のお住い(内裏)ですね。

延暦13年(794年)に桓武天皇(第50代天皇)が平安京に遷都して以来、1000年以上の長きに渡って天皇のお住いは京都でしたが、当初の内裏は現在の京都御所よりも1.7km西の千本通り沿いにあったといわれ、現在の京都御所の場所は、「土御門東洞院殿」と言われた里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)のひとつで、元弘元年/元徳3年(1331年)、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇(北朝初代天皇)がここで即位されて以降、明治2年(1869年)に明治天皇(第122代天皇)が東京に移られるまでの538年間、皇居として使用されてきました。


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写真は、京都御苑南から望む京都御所です。

はるか遠くに見えるのが、御所南面の入口「建礼門」です。


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こちらがその「建礼門」です。

御所の正門にあたる入口で、天皇が臨幸の際に開かれます。

文久3年(1863年)の八月十八日の政変の際、かけつけた壬生浪士組がこの門を警護し、その功から、3日後の8月21日に「新選組」の名を賜ったとされるゆかりの門です。


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建礼門のある御所南側の塀です。

東西約250mあります。


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上の写真は、東南にある「建春門」です。

唐破風の屋根で、勅使の出入りに用いられたそうです。


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こちらは北面にある「朔平門」


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他にも皇后門、清所門、宜秋門があるのですが、ごめんなさい、写真撮ってませんでした。

現在、御所の一般公開の出入り口は清所門となっています。

御所内のすべてが公開されているわけではありませんが、順路に従って見ていきましょう。


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写真は「御車寄」です。

公卿をはじめとする高位の貴族などが、天皇との対面のために使用した玄関だそうです。


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こちらは「諸大夫の間」

参内した公家や将軍家の使者の控室で、身分に応じて部屋が決まっていて、写真の右側にいくほど身分が高く、「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と、ふすまの絵にちなんで呼ばれています。


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こちらは「新車寄」。

大正4年(1915年)、大正天皇(第123代天皇)の即位礼が行われた際、馬車による行幸に対応する玄関として新設されたものだそうです。


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こちらは、御所南面の建礼門を潜ってすぐの場所にある「承明門」

紫宸殿正門にあたります。


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承明門の向こうに紫宸殿が見えます。


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そして、こちらがその「紫宸殿」

京都御所において最も格式の高い正殿であり、即位礼などの重要な儀式がここで行われたそうです。

建物は安政2年(1855年)の造営だそうですが、伝統的な儀式が行われるように平安時代の建築様式で建てられています。

慶応4年(1868年)には、明治天皇がここで「五箇条の御誓文」を示されたそうです。


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こちらは紫宸殿の北西にある「清涼殿」

かつては天皇の住居だったそうですが、天正18年(1590年)に御常御殿に住居が移ってからは、主に儀式の際に使用されました。


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こちらは「小御所」

江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用された場所で、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた「王政復古の大号令」の際、将軍・徳川慶喜および徳川家の処置を定めた「小御所会議」が行われた場所です。

明治天皇を「幼い」と発言した土佐の山内容堂に対し、岩倉具視「無礼者!」と一括したエピソードは有名ですね。

また、その岩倉具視に対して西郷隆盛が、短刀一本あれば片が付く」と言って反対派と差し違える覚悟を迫ったという逸話も、ここでのことです。


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こちらは小御所の北にある「御学問所」

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、ここで明治天皇が「王政復古の大号令」を発せられました。

ちなみに、建物前のスペースは「蹴鞠の庭」だそうです。


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そして最後に、こちらが「御常御殿」

天正18年(1590年)以降の天皇のお住いでした。

「幕末」と言われる時代、ここにお住いだったのは孝明天皇(第121代天皇)でした。

この孝明天皇が大の外国人嫌いだったため、尊王攘夷派象徴的存在となり、やがてその思想が討幕の勢力となっていくのですが、当の孝明天皇自身は討幕の意志など毛頭なく、大の佐幕家だったんですね。

ここに、幕末の動乱のややこしさがあります。


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御常御殿前の庭園です。

この庭を眺めながら、孝明天皇は何を思っていたのでしょうね。

まさか、平安京が自身の代で終わることになるとは、夢にも思っていなかったことでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-15 22:56 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その48 「藤本鉄石寓居之跡」

前稿で紹介した「西川耕蔵邸址」碑から100mほど東の御幸町通に、「藤本鉄石寓居址」と刻まれた石碑があります。

藤本鉄石は岡山藩出身の尊王攘夷派志士で、文久3年(1863年)に挙兵した天誅組の3人の総裁のひとりです。


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25歳のときに脱藩して上洛した藤本鉄石は、花房厳雄の門に入って天心独明流皆伝長沼流の軍学を学び、その後、全国を遊歴したのち、再び京に戻って私塾を開き、碧梅寒店と称しました。

文久2年(1862年)、薩摩藩国父の島津久光の率兵上京に呼応して、野国臣、清河八郎、吉村太郎らとともに討幕の挙兵を計りますが、久光の真意は公武合体であることがわかり、計画は頓挫します。

翌年の文久3年(1863年)、長州藩を中心とする在京の尊攘派は、孝明天皇を大和に行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。

これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。

この決定を知った鉄石は、吉村太郎、松本奎堂らとともに公卿の中山忠光を主将に推し立てて天誅組を組織し、その大和行幸の先兵として大和に乗り込みます。


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しかし、これに震え上がったのは当の孝明天皇。

自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない、討幕の先頭に立つなど滅相もない、と、京都守護職の松平容保SOSを求めます。

そうして起こったのが、尊攘派が一掃された「八月十八日の政変」でした。

これにより天皇の大和行幸の計画は頓挫し、大和で挙兵した天誅組は梯子を外されたかたちとなります。

孤立無援となった天誅組の志士たちは、幕府による追討軍の攻撃によって壊滅します。

鉄石は敗走の途中、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけ、壮絶な死を遂げたといいます。

享年48。


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藤本鉄石寓居址の石碑は、写真で見るとおり、有料駐車場と自動販売機の間に埋もれています。

わたしも、何度もこの前を通りながら、なかなかこの石碑が見つけられませんでした。

もうちょっと、どうにかならないでしょうかね。




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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-05-05 00:17 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

花燃ゆ 第23話「夫の告白」 ~八月十八日の政変~

 攘夷決行報復戦でコテンパンにやっつけられた長州藩は、その名誉挽回とばかりに、朝廷内の攘夷派公家たちと手を組んで、あからさまな工作を行います。その中心となって京で動いていたのが、久坂玄瑞でした。玄瑞らは孝明天皇(第121代天皇)を大和に行幸させ、神武天皇陵(現在の橿原神宮)と春日神社に詣でて攘夷を宣言させるという計画をたてます。これにもし幕府が抵抗すれば、将軍を追放し、天皇を擁して討幕戦に持ち込もうという過激な狙いでもありました。しかし、これに震え上がったのは当の孝明天皇。自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない。討幕の先頭に立つなど滅相もない、と。

 一方、京の政局では、水面下で薩摩藩会津藩の提携が画策されていました。京都守護職として御所を警護する会津藩士が約1000人。ここに、近々交代制の藩士が会津から1000人くる予定で、そこに薩摩藩の兵約800人を加えれば、ざっと3000人近くになる。この機会に会津と薩摩が同盟して、いい気になっている長州藩を朝廷から追いだそう、というクーデター計画があがっていました。そんななか、大和行幸計画に怯えた孝明天皇からSOSが会津藩主・松平容保の元に届きます。会津、薩摩にすればチャンス到来「いつやるの?今でしょ!」と言わんばかりにクーデターに踏み切ります。

 文久3年(1863年)8月18日早朝、会津兵と薩摩兵は御所の門という門をすべて固め、登城してきた三条実美を始めとする攘夷派の公卿7人の入門を遮りました。また、長州藩の持ち場である堺町御門も、薩会の兵によって封鎖され、追い払われてしまいます。怒った長州藩士たちは、兵を率いて堺町御門に押しかけますが、あまりにも兵の数が違いすぎることを悟り、ここは残念ながらひとまず退却し、再起を期して落ち延びるしかない、という結論に至ります。まさに、おごる平家は久しからず。昨日までの栄華から一気に奈落の底に突き落とされた長州藩士と7人の公卿たちは、翌日、降りしきる雨のなか、長州に向かって京を離れます。いわゆる「七卿落ち」ですね。薩会のクーデターは成功しました。

 クーデター成功の原因のもっとも大きなポイントは、薩会および公武合体派の公家たちが天皇を手中に収めたことでしょう。のちに天皇は討幕派から「玉(ぎょく)」と呼ばれましたが、この「玉」を手にすれば天皇の名で命令を出すことができ、これに反抗することは、とくに「尊王」攘夷派であるかぎり不可能でした。天皇を尊び、天皇のために命をも賭けた尊攘派たちは、天皇の意志によって「朝敵」にされたという、なんとも皮肉な話といえます。孝明天皇にしてみれば、過激なラブコールを贈る尊攘派、ことに長州藩士たちは、ある種、ストーカーのような怖さがあったのかもしれません。

 ドラマでは、七卿落ちに随行して長州に戻ってきていた久坂玄瑞でしたが、実際には、玄瑞は政変後も京に残り、政務座役としてしばらく京で活動します。玄瑞がに宛てた手紙は数多く残っていますが、ちょうどこの時期に書いた手紙に、義兄である小田村伊之助の次男・久米次郎養子に迎えたいと書いています。つまり、この時期、玄瑞は死を覚悟したということですね。自分が死んでも久坂家が絶えないよう取り計らったわけですが、しかし、玄瑞の死後、久米次郎が久坂家を継ぐことはありませんでした。というのは・・・と、このあとはドラマの今後に譲ることにしましょう。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-08 20:07 | 花燃ゆ | Comments(0)  

花燃ゆ 第13話「コレラと爆弾」 ~日米修好通商条約とコレラ大流行~

 「コロリ」こと伝染病コレラが日本で初めて発生したのは、文政5年(1822年)のことだそうです。このとき感染は九州から東海道まで及びますが、箱根の山を超えて江戸までは達さなかったそうです。次にコレラが日本に上陸したのが、ドラマの舞台である安政5年(1858年)でした。このときも江戸までは達することはなかったとする説と、江戸だけで10万人が死んだとする説があります。どちらが事実かはわかりませんが、いずれにせよ、感染は西日本から広まったようで、たちの住む萩城下でも、大勢の感染者が出たであろうことは想像できますね。萩には小田村伊之助こと南方仁先生がいるのにねぇ(笑)。

 このときのコレラ大流行は、幕府大老・井伊直弼日米修好通商条約に調印したタイミングと、バッチリ重なってしまいました。それも、朝廷の勅許を得ぬままの強行だったため、全国の攘夷論者たちは激怒します。時の帝である孝明天皇(第121代天皇)は大の外国人嫌いであり、そこにコレラ騒ぎが加わったものだから、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、「神聖なる日本の国土を汚す外夷は即刻討つべし!」と、過激攘夷論が一気に加熱します。さらにさらに、ドラマでは描かれていませんでしたが、徳川家内の将軍継嗣問題による一橋派南紀派の争いも加わり(この辺りを掘り下げると話がどんどん脇にそれていくので、このたびは省きます)、世情は大いに混乱します。

 本来、コレラの流行と外交問題と徳川家の跡継ぎ問題はまったく関係のない話だったはずが、それらの問題がすべて混ぜ合わさって、とんでもない化学反応を起こすんですね。開明派である一橋派が攘夷派で、守旧派である南紀派が開国派という、後世から見ればなんとも不思議な構図ができ、そんななか、南紀推しであり、条約を独断で結んだ張本人であり、コレラを日本に上陸させた(わけではないのだが)悪の権化ともいうべき、「井伊を斬るべし!」といった気運が、攘夷派内で一気に高まります。コレラ菌もたいへんなときに日本に上陸したものです。ある意味、ペリーと同格といえますね。

 条約調印の報に接した吉田松陰も、当然、激しく憤ります。そして、自宅蟄居という罪人の身でありながら、藩主・毛利敬親に向けて、直弼の横暴を大いに批判した建白書を提出します。その内容は、
「帝のご意思を無視せぬよう、今からでも幕閣に諌言すべきである。もし、その諌言が聞き入れられない場合は、幕閣を斬り捨てることもやむを得ない
という超過激なものでした。そんなとき、松下村塾の塾生から松蔭のもとに、驚愕の情報がもたらされます。それは、直弼が自身の領国である近江国彦根城に孝明天皇を移し、意のままに操ろうとしている、というもの。これに仰天した松蔭は、それに対抗する策として、直弼が帝を彦根へ連れ去る前に、長州藩兵の護衛のもと、帝を比叡山にお移ししよう、という策を立案し、藩政に提案します。しかし、当然ながらこの策が取り上げられるはずがありません。そもそも、直弼の彦根遷座策の風聞が事実かどうかもわからず(実際に行われなかった)、仮に事実であったとしても、譜代大名筆頭で大老である直弼の方針に、外様大名である長州藩が単独で対抗できるはずはありませんでした。当然ですよね。意見を採用されなかった松蔭は激しく憤り、そして、このことが契機となって、松蔭の主張は日に日に過激になっていきます。


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by sakanoueno-kumo | 2015-03-30 20:47 | 花燃ゆ | Comments(0)  

八重の桜 第17話「長崎からの贈り物」 〜孝明天皇の死〜

 慶応2年(1866年)12月25日、孝明天皇(第121代天皇)が36歳という若さで崩御しました。その5ヶ月前には、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂も急逝しており、奇しくも慶応2年後半期に、公武の最高位にある天皇将軍が相次いでこの世を去ることとなりました。政局が混沌としていたこの年、将軍家茂が死んだときにも暗殺の風説が流れたといいますが、孝明天皇の死については、暗殺説がかなり流布していたようです。現代の学者さんたちの中にも、孝明天皇暗殺説を支持する方もいます。はたして真相はどうだったのでしょう。

 従来の定説となっている病状を見ると、亡くなる半月ほど前の12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、その翌日からひどく発熱します。12日、13日と熱は下がらず、14日に診察した医師によると、「痘瘡(天然痘)か陰症疫の疑いあり」と診断されます。睡眠も食事も満足にとれず、うわ言を発し、16日になると全身に発疹があらわれ、17日正式に痘瘡と公表されました。そこで七社七寺への祈祷が命じられ、将軍以下、京都守護職の松平容保らも見舞いに参内したようです。ドラマでは、天皇の急逝の報を受けて、「青天の霹靂」といった感じの容保でしたが、実際には、まったく予期せぬ出来事というわけではなかったようです。

 ただ、18日以降、少しずつ病状は回復に向かっており、その意味では寝耳に水だったかもしれません。病状が急変したのは24日夜からで、翌25日の公卿・中山忠能の日記に「何共恐れ入り候御様子」と書かれるほどの病状となります。嘔気をもよおし、痰は多く、しだいに体力を失い、脈も弱まり、25日亥の刻(午後11時ごろ)に、ついに崩御となりました。

 このような病状の急変が、さまざまな風説を生む原因となったようです。なかでも多くささやかれたのが毒殺説。私は医学については門外漢ですので、このような病状の急変についての知識はありませんが、専門家によると、何かに中毒したことによる急死の症状に酷似しているらしく、毒を盛られた可能性は否定出来ないとのことです。もっとも、当然のことながらそれを立証できる証拠はなにもなく、全ては憶測に過ぎません。

 ただ、当時このような風説が流布される客観的な条件はじゅうぶんそろっていました。この当時、政局は混沌としており、公武のトップである天皇と将軍の死は、佐幕派倒幕派ともに大きな政治的意味があったことはいうまでもありません。当時、日本に駐在していたイギリスの外交官・アーネスト・サトウが後年に書いた日記でこう述べています。

 「当時の噂では、帝の崩御は天然痘によるものだと聞いていたが、しかし数年後、その間の消息によく通じているある日本人が、わたしに確言したところによれば、帝は毒殺されたのだという。この帝は所信をもって、外国人に対していかなる譲歩にも断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなることを予見した人々によって、殺されたというのだ。この保守的な帝がいたのでは、戦争を引き起こすような事態以外のなにものも期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺に求めるのは、東洋諸国ではごくありふれたことであり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋のために毒殺されたという噂が流布した。しかし当時は、帝についてそのような噂は聞かなかった。帝が、ようやく15、6歳になったばかりの少年(睦仁親王)を継承者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役だったであろうことは否定できない」

 これによると、倒幕派が攘夷論者である孝明天皇を毒殺したということになりますね。攘夷論では朝廷が外国と関係を持つようになっては大障害になるという観点からの毒殺説ですが、イマイチ理由としては弱い気がします。それよりも、佐幕派の天皇では、倒幕を遂行するにはどうにも邪魔である、というほうがまだ説得力がある気がしますね。事実、岩倉具視がこれを画策したという風説があります。岩倉具視の義妹である堀河紀子が宮中女官として入っており、その紀子を操って痘瘡の薬のなかに毒物を混入させた・・・と。もちろん風説であって、岩倉にしてみれば迷惑千万なはなしかもしれませんが、岩倉の場合それ以前の和宮降嫁問題のときにも、天皇毒殺をはかったという評判がたったことがあった人物で、疑惑の目で見られたのも無理はなかったかもしれません。

 薩摩藩士・大久保利通は、「玉(天皇)をわが方に抱えることが、千載の一事で、もし幕府に奪われては藩の滅亡」としていました。天皇を味方につけた方が勝つということですね。しかし、ときの天皇である孝明天皇は、はっきりとした政治的発言をおこない、しかもそれは佐幕説でした。倒幕派にとっては、孝明天皇は邪魔な存在で、その死が倒幕派にとって有利なことであったのは明らかでした。だからこそ毒殺説が生まれたのでしょう。実際に毒殺が行なわれたのか、あるいは本当に痘瘡による病死だったのか、今となっては真相は闇の中ですが、いずれにせよ、孝明天皇の死が倒幕派を大きく勢いづかせたことは間違いありません。古代・中世はさておき、孝明天皇は日本の近世以降の天皇のなかで、珍しく政治的行動・発言をおこなった、ただひとりの天皇といえるかもしれません。そのため、36歳の若さでこの世を去ることとなってしまった・・・かどうかは定かではありませんが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-02 23:26 | 八重の桜 | Comments(2)