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漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その5「旭川~後楽園」

「その4」の続きです。

岡山城本丸下の段の北側を流れる旭川を渡り、名勝・後楽園に向かいます。


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旭川に架かる月見橋です。

月見櫓の北側にある橋ということでそう名付けられたのでしょうが、もちろん、往時にはそんな橋はありませんでした。

昭和29年(1954年)に架けられたそうです。


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月見橋から見た岡山城天守と旭川です。

川が城を巻くようにカーブしているのがよくわかります。


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これは、宇喜多秀家の岡山城築城時に、旭川を城および城下町の防御を固めるための堀の代わりとして用いるために、旭川の流路を岡山城の手前で大きく東方へ曲げて城の北東面に沿わせ、さらに南流するように変えるという土木工事によるものです。

つまり、人工的に作った流路ということですね。

これにより、岡山城の防御は強固なものとなりましたが、一方で、急激なカーブというあまりに不自然な流路となったため、以後、岡山城下はたびたび洪水に悩まされることになったそうです。


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岡山城北側の旭川沿いには、昭和9年(1934年)の大洪水の被害を伝える石碑が建てられています。


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旭川を渡って北側から見た天守です。

こちらから見た天守もかっこいいですね。


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天守台石垣の高さが約15m、その上の天守が約22mですから、総高約37m

10階建てのビルくらいの高さですね。


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そして、旭川の北側に、かつての名勝・後楽園があります。


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後楽園は岡山藩4代藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせた庭園で、貞享4年(1687年)に着工し、14年の歳月をかけ元禄13年(1700年)に完成しました。


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「後楽園」という名称は明治に入ってからのもので、江戸時代には、城の背後にあることから「御後園」または「後園」と呼ばれていたそうです。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク中の5月4日。

新緑と芝生が美しい季節です。


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藩主の居間として使われた延養亭です。

園内で最も重要な建物で、園内外の景観が一望できるように建てられています。

戦災で焼失し、昭和35年(1955年)に再建されました。


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延養亭の奥にある永昌の間には、能舞台があります。

池田綱政は能を好んだそうで、自ら舞い、時には家臣や領民にも見せたといいます。


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園内北側にある慈眼堂

池田綱政が元禄10年に池田家と領民の繁栄を願って建立し、観音像を祀っていました。


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南を見ると、天守が見えます。


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園内南側に、小さな丘が見えます。


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この丘は唯心山といって、池田綱政の子・池田継政が作った高さ6mの築山です。


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登ってみましょう。


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園内を一望できます。


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さすがは日本三名勝のひとつ。

素晴らしい眺めです。


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明治に入り、後楽園(当時は御後園)は岡山城とともに一時新政府の手に渡りますが、しばらくして再び岡山藩の所有となり、その後は岡山県に譲渡され、明治17年(1884年)から広く一般に公開されるようになったそうで、その後は、日本三名勝のひとつとして多くの人々で賑わうようになります。


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しかし、太平洋戦争時には園内の芝生部分がイモなどの畑として利用され、昭和20年(1945年)6月29日の岡山大空襲によって延養亭など江戸期から残されていた園内の建造物の多くが焼失しました。

さらには、終戦後には進駐軍の宿舎として使用されていたそうですが、その後は岡山県の手に戻り、昭和29年(1954年)から有料で一般公開されるようになり、昭和42年(1967年)に園内のすべての建造物の復元が完了し、後楽園は往時の姿を取り戻して現在に至るそうです。


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さて、5回に分けて岡山城を歩いてきましたが、この辺でシリーズを終わります。

最後に、日本100名城のスタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-05-09 00:07 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その4「本丸上の段」

「その3」の続きです。

岡山城本丸本段まで登ってきました。


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本段にもかつては複数の櫓が存在し、中央には本段御殿の建物がありましたが、現在は芝生広場に昭和41年(1966年)に復元された天守があるだけです。

この日はゴールデンウィーク中とあって、子供向けのイベントが行われていました。


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岡山城の天守は、宇喜多秀家が築城を開始して8年を経た慶長2年(1597年)に完成しました。

外観5重・内部6階で、高さ約15mの石垣に約22mの建物が乗っています。

「その2」の下の段の稿でも紹介したとおり、天守台が不整形な五角形になっていることから、天守の一重目も天守台に合わせた不等辺五角形になっています。

天守台東西の幅は約24m~30.5m、南北の奥行は約13~17mあり、二重目もほぼ同じ大きさです。


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岡山城天守には天守台に地下室がないため、天守に入るための付櫓が必要となります。

現在の復元天守には南面の石垣に開いた観光客用の入口がありますが、往時の天守にはこの入口はなく、写真左側の白い付櫓・塩蔵に見える入口が、天守に通じる入口でした。

このような付櫓と一体型の天守を、複合式天守といいます。


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外壁は、すべての階で分厚い土壁の表面に黒く塗った下見板を張り、重厚感のある天守となっています。

その外観から、カラスのような黒さを表した「烏城」という別名で呼ばれていました。

宇喜多秀家の創建時は、下見板を黒漆塗で仕上げていたらしく、軒先に金箔を施した瓦を並べた屋根とともに、天下人・豊臣秀吉身内大名にふさわしい質実剛健かつ格調高い天守だったといいます。


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二重目の屋根は巨大な入母屋造で、3階はその屋根裏階となっています。

4階である三重目も入母屋造の大屋根で、その上に二重の望楼である5階(四重目)・6階(五重目)を乗せた望楼型天守です。


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岡山城天守には鉄砲狭間が少なく、破風内に数か所ある程度です。

その分、格子窓が多く、上下階で位置が重ならないように配置されています。

これは、敵への攻撃の死角をなくすためだそうです。


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天守内に入ってみましょう。


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天守内部は大方の復元天守と同様に、資料館になっています。

この日はゴールデンウイーク中ということもあって、観光客で賑わっていました。


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最上階からの南側の眺望です。


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こちらは北側、後楽園側の眺望です。

手前に流れるのは旭川


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復元天守内部にはそれほど興味がないので、天守を降りて本段内をもう少し歩きます。

こちらの写真は、旧天守の礎石を移設したものだそうです。


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こちらは下の段東側の水の手と本段をつなぐ六十一雁木上門(要害門)です。

「その2」の下の段の稿でも紹介しています。

「六十一雁木上門」という名前の由来は、江戸時代初期に整備された際に、61段の石段があったことにちなんでいるそうです。


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本段北西側の搦手門から中の段に下ります。


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「その3」で紹介した表門の不明門は普段は使用されず、このルートで天守と行き来していたそうです。


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細い路地のようなルートです。

戦のない江戸時代になってから作られたルードだとは思いますが、一応は敵に見つかりにくい構造になっているのでしょう。


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ここから、「その2」で紹介した廊下門を抜けて、下の段に繋がります。


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明治に入って、岡山城は各地の城と同様に、その存在意義を失いました。

建物の取り壊しや堀の埋め立てが行われ、明治15年(1882年)頃までには天守とわずかな櫓を残してほとんどの建物が壊されました。

また、昭和初期には堀の埋め立てもほぼ終わり、本丸以外の地区は市街地となりました。

残った建物は旧国宝に指定され、街のシンボルとして維持管理されていく予定でしたが、昭和20年(1945年)6月29日の岡山大空襲によって焼失してしまいます。

これも、他の地域の城と、ほぼ同じ運命ですね。

爆撃機から見れば、お城ほど格好の的はなかったでしょうからね。


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さて、本段天守まで攻略しましたが、次稿、もう一回だけ、岡山城北側の後楽園を歩きます。

「その5」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-05-08 01:37 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その3「本丸中の段」

「その2」の続きです。

下の段南面から中の段に登ります。

ここも枡形虎口になっており、不明門(復元)を見上げながらL字に曲がらされます。


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石段を登ると、鉄門跡があります。


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この両側の石垣を渡すように、かつて鉄板で覆われた櫓門がありました。


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鉄門跡を過ぎてまっすぐ西へ進むと、中の段南西隅櫓の大納戸櫓跡があります。

この大納戸櫓は、櫓の多さでは全国で最多級といわれる岡山城の櫓のなかで最も大きな3重4階の櫓で、その姿は天守といってもいいような雄姿だったといいます。


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説明板に、古写真に写るその姿が紹介されていました。

一説には、永禄年間(1558~70年)に宇喜多秀家の父・宇喜多直家が築いたといわれる沼城の天守移築したものとも言われます。

沼城は岡山城の北東10kmほどの位置にありました。

古写真に残る大納戸櫓は、城郭の天守が登場したころの形態を示していることから、沼城の天守だったという説の信憑性は高いと考えられているそうです。


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大納戸櫓から中の段西側を北に向かって伸びる多門櫓跡です。

説明板によると、大納戸櫓から伊部櫓の間に、長さ37m、幅4mの多聞櫓があったそうです。


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ここがその伊部櫓跡

説明板によると、伊部櫓は白壁造りの3階建ての櫓だったそうです。


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そして、伊部櫓と北側の数寄方櫓をつなぐ長さ30m、幅5m多門櫓跡です。


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そして、ここが数寄方櫓跡

数寄方櫓も伊部櫓と同じく白壁造りの3階建ての櫓だったそうです。


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そしてこちらが、中の段北西隅にある岡山城唯一の現存する櫓月見櫓です。


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月見櫓は、池田氏二代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築に際して、本丸搦め手に備えて建てた隅櫓です。

1階が×4間で、地上2階、地下1階の構造で、城外側から見ると二重に見え、城内側から見ると、地階に屋根がつくため三重に見えます。

変則的な櫓で、櫓からの眺望を考慮して城内側は開放的になっており、櫓では珍しく最上階に廻縁がついています。

その名のとおり、ここで月見の宴が催されていたのかもしれません。


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説明板です。


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石碑には、「国宝」と刻まれていますね。

これは、戦前の「旧国宝」のことです。

現在は重要文化財に指定されています。


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中の段の真ん中には、かつて表書院がありました。

表書院は岡山藩の政庁の役割を果たしていた建物で、大小60を超える部屋があったとされています。

現在、その建物は残っておらず、だだっ広い空間にその区画を示す部屋割りが地面に表示

されています。


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説明板には、その平面図が紹介されていました。


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中の段表書院跡から見上げる天守です。


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こちらは、表書院の中庭にあった泉水

復元です。


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こちらは穴蔵

もとは屋根があり、非常用の食料を保存していたと考えられています。


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中の段広場内には、発掘調査で出土した宇喜多秀家時代の石垣が展示されています。


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これらの石垣は、出土した場所にそのまま残されて展示されています。

写真を見てわかるように、かなり深い場所から出土しています。

この出土によって、この中の段が江戸時代での城域の拡張工事の際に作られたということがわかります。


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で、最初に紹介した鉄門跡のすぐ上にある不明門(あかずのもん)です。

その名の通り、儀式のとき以外に開かれることはなく、この名称となったそうです。

でも、南側の鉄門跡から不明門は、大手門にあたるはず。

大手門は使用せず、鉄門から表書院の中を通って北側の搦手門の廊下門から本段に登っていたのでしょうか?


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昭和41年(1966年)再建の鉄筋コンクリート製ですが、立派な門です。

こんな立派な門なのに、使われていなかったなんてもったいない。


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さて、不明門を潜って、「その4」では、いよいよ本丸本段に登ります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-26 21:09 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その2「本丸下の段」

「その1」の続きです。

岡山城本丸は、下の段、中の段、本段の三段で構成されています。

本稿では、下の段を歩きます。


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上の写真は中の段南西隅の大納戸櫓下石垣です。

見てのとおりの野面積みですが、それほど古いものではなく、関ヶ原の戦い後小早川秀秋が築いたものだそうです。


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下の段西側の石垣です。

コの字型になっているのですが、向こうの出隅部分の石垣が打込み接ぎ、入隅より手前の赤みがかった石垣が野面積み、手前の低い石垣が切込み接ぎと、明らかに築いた時代が違うであろう3種の石垣が一度に見られるスポットです。


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左が打込み接ぎ、右が野面積みですね。


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こちらは、左が野面積み、右下の低い石垣が切込み接ぎです。


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説明板によると、野面積みの部分が関ヶ原の戦い後に小早川秀秋が築いたもので、打込み接ぎ部分が1620年代に池田忠雄が築いたものだそうです。

その奥には、宇喜多秀家時代の石垣が埋まっているそうです。


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ここらで岡山城の歴史について触れておきます。

岡山城の前身は、南北朝時代に南朝の功臣・名和一族上神高直という人物が築いたとされる石山城と呼ばれる城だったといいます。

しかし、その後についての史料がなく、150年以上に渡って城主も不明で、どのような城だったかも定かではありません。


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次に石山城の存在が記録として確認できるのが、大永年間(1521~27年)に金光備前が在城し、金川城主松田氏に仕えていたという記録です。

この金光氏を滅ぼしたのが、宇喜多秀家の父・宇喜多直家でした。

元亀元年(1570年)に石山城を手に入れた直家は、城の大改修に着手し、3年後の天正元年(1573年)に入城しました。

しかし、その8年後の天正9年(1581年)に直家は死去し、その後、跡を継いだ当時10歳だった秀家は、豊臣秀吉庇護を受けて成長し、57万石の大大名に成長すると、この地に新しく大規模な城を8年の歳月を掛けて築城し、慶長2年(1597年)に完成しました。

このとき、名称を「岡山城」とし、同時に整備された城下町も「岡山」と呼ぶようになったそうです。


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その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に付いたことで秀家は八丈島へ流罪となり、代わって筑前国名島より小早川秀秋が備前・美作52万石の大名として岡山へ入封します。

しかし、その秀秋も2年後に急死し、嫡子もいなかったことから小早川家は断絶となりました。

その翌年の慶長8年(1603年)に播磨国姫路藩主の池田輝政の五男・池田忠継28万石で岡山藩主となり、その後は幕藩体制の下で岡山城は岡山藩の城府となり、池田家を藩主として明治維新に至りました。


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と、歴史を語っている間に下の段北側まで歩いてきました。

写真は、中の段北西の隅櫓・月見櫓を下の段から見上げたものです。


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月見櫓は本丸内で唯一現存する櫓で、元和元年(1615年)に岡山藩主となった池田忠雄が建てたものだそうです。


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その説明板です。


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月見櫓を見ながら、下の段北側を東に向かって歩きます。

石垣は、小納戸櫓下の石垣です。


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きれいな打込み接ぎです。


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小納戸櫓下の石垣の東側には、漆黒の天守が見えます。

小納戸櫓と天守台の間に、中の段に繋がる搦手門廊下門があります。


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これがその廊下門(再建)です。


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廊下門前から見上げる天守北側です。

その手前に見える石碑は、宇喜多直家・秀家父子を称える顕彰碑です。


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これがその顕彰碑。


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天守です。


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よく見ると、一層目に鈍角に突き出した角があることがわかるでしょうか?

岡山城の天守は、珍しい不等辺五角形になっています。

これは、同じく歪んだ多角形平面の天守台を持つ安土城天主を模したものではないかという説や、豊臣秀吉の大坂城天守を模しているという説、また、当時の土地の形をそのまま利用したからこうなったという説など、様々な見方があるようです。


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天守台の石垣です。

野面積みですね。

これは、最も古い宇喜多秀家の築城時のものだそうです。


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説明板によると、石垣が赤く変色しているのは、昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲時によるものだそうです。


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天守台沿いにそのまま下の段東側に向かって歩きます。


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下の段東側の水の手と本段をつなぐ六十一雁木上門(要害門)です。

要害門とは、非常口のようなものでしょうか?


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「六十一雁木上門」という名前の由来は、江戸時代初期に整備された際に、61段の石段があったことにちなんでいるそうです。


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門は再建ですが、石垣や石段は池田氏時代に築かれたものです。


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下の段南側にやってきました。

写真左側に見える建物は、中の段と本段を結ぶ不明門(復元)です。

その右側に続く白塀の下の高い石垣は、本段の石垣。


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石垣は宇喜多時代のものだそうです。


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その説明板です。


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門の下の石垣だけ色が新しいのは、たぶん、門を復元する際に足されたのでしょうね。


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ここから中の段に登ります。

下の段だけでずいぶんと長くなっちゃいました。

次稿、中の段を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-25 10:38 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)  

漆黒の烏城、備前岡山城を歩く。 その1「内堀~大手門」

過日、備前岡山城を訪れました。

岡山城は、豊臣秀吉から目をかけられ、57万石の大大名となった豊臣五大老のひとり・宇喜多秀家が8年の歳月をかけて完成させた梯郭式平山城です。

現在、城跡は国の史跡に、岡山後楽園は国の特別名勝に指定されています。


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岡山城の登城ルートは、南側の大手門から入るルートと、北側の後楽園側の搦手門から入るルートとがありますが、この日は、南側の大手門から登城しました。

写真は、大手門前に建つ「烏城みち」の石碑。

「烏城」とは岡山城の別名で、天守が黒漆塗の外観のため、そう呼ばれるようになったそうです。


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城跡南西から見た内堀石垣です。

岡山城の内堀は本丸の南側と西側にL型で構成されています。

北側と東側には旭川が流れており、天然の堀の役割を果たしています。


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城跡公園の案内図です。

南側と西側をL型で守っているのがわかります。


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こちらは南側内堀

土橋が見えるのは、大手門に通じる目安橋(内下馬橋)です。


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内堀南西隅にある太鼓櫓跡の石垣です。

野面積みですね。


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大手門に向かって目安橋(内下馬橋)を渡ります。

寛永9年(1632年)に因幡鳥取から入封した池田光政の時代、この橋のたもとに領民からの投書を受け付けるための目安箱が置かれたことから、そう呼ばれるようになったのだとか。

かつては木橋が架けられていたそうですが、明治になって撤去され、土橋に改められました。


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橋をわたると枡形虎口の形状になっています。

その隅には、「烏城公園」と刻まれた石碑が。


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枡形虎口内にある大石の説明板です。


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枡形のニノ門跡です。

かつてここには櫓門がありました。


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その櫓門の土台の石垣です。

ここにも大石が使用されています。

説明板によると、これらの巨石は実は板状になっていて、厚さはないそうです。

発掘調査の結果、関ヶ原の戦い後に池田氏が築いたものと考えられているそうです。


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さて、本丸内に入りました。

「その2」では本丸下の段を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-24 01:02 | 岡山の史跡・観光 | Comments(0)