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軍師官兵衛 第38話 「追い込まれる軍師」 ~官兵衛を警戒する秀吉~

 「お主の父鎮房は、関白殿下の命により中津にて成敗した。お主にも死んでもらう。腹を切れ。」
 中津城にて留守を預かっていた黒田長政が、宇都宮鎮房謀殺したという知らせを聞いた黒田官兵衛は、すぐさま出陣中の肥後国にて、鎮房の息子・宇都宮朝房の命を奪います。詳細はわかりませんが、自刃させたとも言いますし、家臣によって暗殺されたとも伝えられます。ドラマではどのように描かれるか興味深かったのですが(まさか助けたりしないだろうなぁと)、まずは切腹を申し付け、狼狽える朝房を自らの手で殺害するといった、なかなか迫力あるシーンだったと思います。家臣に首を打たせるのではなく、官兵衛自ら手をかけたところが、もはや後戻りできないといった官兵衛の覚悟がうかがえる演出だったんじゃないでしょうか。喚く朝房に歩み寄った官兵衛の哀れみの目は、死にゆく朝房に向けたものだったのか・・・あるいは、関白殿下の命に逆らえない自身に対するものだったのか・・・。

 朝房と同じく黒田家の人質となっていた鎮房の娘・鶴姫は、哀れんだ官兵衛が豊臣秀吉に助命嘆願し、釈放されてひっそりと暮らした・・・とも言いますが、別の説では、長政によって侍女とともににされて殺害されたとも伝えられます。ドラマでは、の機転によって逃されていましたね。まあ、それもありなんじゃないでしょうか。

 長政は鎮房を謀殺したのち、その亡霊に恐れおののいたとの伝承があります。また、官兵衛は鎮房を謀殺したことを悔い、中津城内に城井神社を創建してその霊を祀りました。他にも、のちに朝房が殺害された肥後国の国主となった加藤清正は、朝房の霊を弔うために宇都宮神社に祀ったといいます。それらの伝承から想像できることは、官兵衛、長政父子にとっても、鎮房謀殺は決して本意ではなかっただろうということ。城井谷の人々は、こののちも黒田家を恨み続け、現代でもその空気は残っているといいます。黒田家にとって大きな汚点ともいえる鎮房謀殺ですが、それほどのリスクを背負ってでも、秀吉には逆らえないといった空気に覆われ始めていた時代だったということでしょうね。

 そんな秀吉が、官兵衛を警戒していたという有名なエピソードが出てきましたね。あるとき秀吉が、「自分の死後、次に天下を治めるのは誰か」と家臣に尋ねたところ、家臣たちが徳川家康前田利家の名をあげるなか、秀吉はそれらをすべて否定して官兵衛の名をあげたといいます。曰く、「官兵衛がその気になれば、自分が生きている間にも天下を取るだろう」と。それを聞いた家臣たちは、官兵衛は小身の大名に過ぎないと答えますが、秀吉は、「官兵衛に百万石を与えたらすぐにでも天下を奪ってしまう」と答えたとか。官兵衛はこの話を伝え聞くと、「我家の禍なり」と、すぐに剃髪して如水と号し、隠居したといいます。

 この有名なエピソードは、幕末の館林藩士・岡谷繁実によって編纂された『名将言行録』に記されたものだそうです。この『名将言行録』は、入念な調査、検証を行って書かれたものではなく、歴史学的には信憑性に乏しい「俗書」扱いされているもののようですね。これと似た話でいえば、『名将言行録』より100年以上前に岡山藩士・湯浅常山によって記された『常山紀談』のなかにある話で、ある日、秀吉が官兵衛に対して次の天下人は誰かと問うたところ、毛利輝元の名前をあげた官兵衛に対して、秀吉は「目の前の者である」と答えたといいます。『名将言行録』のエピソードは、『常山紀談』のなかの話を脚色して盛った話かもしれませんね。ただ、その『常山紀談』も、官兵衛の死後100年以上経ってからの書物であり、信憑性があるとは言えません。つまるところ、秀吉が官兵衛を天下人の器として警戒していたという逸話は、明確な根拠がないんですね。

 しかしながら、火のないところに煙は立たぬ、後世の過大評価も多少はあるでしょうが、秀吉と官兵衛の間に何らかの溝が生じ始めてはいたんでしょうね。秀吉を天下人に押し上げ立役者の官兵衛ですが、それゆえ天下人になった秀吉にとっては、疎ましい存在になっていたのかもしれません。
 「耳の痛いことを言ってくれるお方がおられるうちが花でございます。」
 この千利休の台詞が、案外的を射ているかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-23 21:40 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)  

軍師官兵衛 第37話「城井谷の悲劇」 ~宇都宮鎮房謀殺~

 肥後国人一揆鎮圧の加勢のために黒田官兵衛が出陣すると、そのタイミングを待っていたかの如く宇都宮鎮房が挙兵します。このとき官兵衛より留守を預かっていた嫡男・黒田長政は、さっそくその鎮圧のために兵を出します。その知らせを聞いた官兵衛は、鎮房の籠もる城井谷城がいかに攻め落とすのが難しいかを説いて制止し、また、家臣の後藤又兵衛も慎重論を唱えますが、血気盛んな長政はそれらの声を振りきり、2000の兵を率いて城井谷城に攻め込みます。しかし、案の定、官兵衛の懸念は的中し、天然の要塞である城井谷城を攻めあぐねた長政は、いたずらに兵を失っただけの大失態を演じてしまいます。勇猛果敢で知られる長政ですが、このあたりのエピソードからは、まだまだ青さばかりが目立ちますね。

 闇雲に攻め入るだけでは落とせないと悟った黒田軍は、官兵衛の帰国後、兵糧攻めを開始。それと平行して宇都宮氏に与する周辺豪族を徐々に撃破していき、宇都宮軍を孤立無援に追い込んでいきます。さらに、黒田軍が毛利氏小早川氏の援軍を得ると、さすがの鎮房も観念し、小早川氏の仲裁の元に和議を結びます。その条件は、鎮房の息子・宇都宮朝房と、娘の鶴姫を人質に出すというものでした。一説には、鶴姫を長政の側室に差し出したという説もありますが、『黒田家譜』ではそれを虚説だとしており、真偽は定かではありません。

 ようやく豊前を落ち着かせた官兵衛は、天正16年(1588年)正月、居城を馬ヶ岳城から中津城へと移します。しかし、人質こそ出したものの、相変わらず城井谷城に居座ったまま黒田家のもとに出仕しようとしない鎮房との間には、依然として緊張感が張り詰めていました。やはり、新しい領主と元の領主が同じ領内で共存共栄するというのは、無理があったのでしょうね。

 春、豊臣秀吉より再び肥後行きを命じられた官兵衛は、鎮房の動向が気になりながらも中津城を離れます。このとき官兵衛は、鎮房より人質として預かった朝房を同行させます。そして、長政にくれぐれも鎮房のこと油断なきよう申し付けたとか。前回鎮房が挙兵したのも官兵衛不在のときでしたから、当然の警戒だったといえるでしょう。そして、案の定今回も官兵衛不在中に事が起こり、結果的に鎮房は、長政によって謀殺されてしまうんですね。

 鎮房謀殺の流れについて『黒田家譜』には、以下のように記されています。これまで城井谷城から動こうとしなかった鎮房が、官兵衛が不在と見るや200の兵を率いて中津城に押しかけ、一礼のためとして長政に謁見を求めてきます。これを受けた長政は、「まことに一礼のためならば、官兵衛・長政父子がそろっているときに、日限を伺って小勢でくるべきであり、案内もなくにわかに押し掛けるなど、無礼の極みである!もし、謁見に至ってなおも無礼をはたらくようであれば、即座に誅殺すべし!」と、家臣たちに命じたとか。そして、謁見した鎮房は、やはり無礼な態度であったため、酒席に乗じて誅殺した・・・と。あくまで鎮房の無礼による討伐だったとの記述です。

 しかし、黒田家主観で記された『黒田家譜』の記述が、どこまで信用できるかは疑問ですよね。作家・池田平太郎氏の著書『黒田家三代』では、鎮房は「傲然と押しかけてきた」のではなく、「おびき寄せられて殺された」のではなかったか、と説いています。ドラマも、その解釈で描かれていましたね。たしかに、そのほうが無理がないように思えます。

 ドラマでは、鎮房謀殺は長政の独断だったように描かれていましたが、肥後に向かう前に官兵衛が命じていたとする説もあります。そのあたりの経緯は、すべて想像するしかありませんが、おびき寄せて殺したという説が正しければ、タイミングを見て事にあたるよう、あらかじめ官兵衛が長政に示唆していたと考ても無理はないですよね。ネタバレになりますが、鎮房謀殺の知らせを聞いた官兵衛は、ただちにその子・朝房の命を奪います。はじめからそれを見据えて肥後に連れていっていたのかもしれません。

 鎮房を討ち取った長政は、その後、合元寺に待機していた200の兵を一人残らず討ち取り、さらに、残党が残る城井谷城へと兵を進め、鎮房の父を殺害し、残った兵を捕縛してにするなど、残酷な刑に処します。おそらくこのあたりはドラマでは描かれないところですが、官兵衛も長政も、九州攻めから豊前平定に至るまで、各地で抵抗勢力に残酷な刑を科しています。これらがすべて秀吉の命令だったかどうかはわかりませんが、新参者が新天地を支配するには、そういった力技もなければ不可能なことで、あまり殺生を好まなかったと言われる官兵衛とて、例外ではなかったということでしょうね。こうした試練を経て、官兵衛は九州に根を下ろしていきます。


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-16 21:40 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(0)  

軍師官兵衛 第36話「試練の新天地」 ~豊前6郡入国と肥後国人一揆~

 九州征伐を終えた黒田官兵衛は、その恩賞として九州は豊前6郡を与えられます。豊前6郡をとは、現在の福岡県東部から大分県北部にまたがる地域で、概ね12万石でした。豊前国は8郡あったのですが、残り2郡は毛利勝信に与えられ、豊前一国とはいかなかったわけです。

 この豊前6郡12万石という扱いについて、他の大名に与えられた恩賞や官兵衛の九州征伐での働きから考えると、少ないのではないかという意見があります。これは、豊臣秀吉が官兵衛に大きな力を与えることを恐れていたのではないか・・・という見方ですね。実際に、官兵衛の家臣たちのあいだでは、恩賞の少なさに不満の声が上がっていたとか。一方で、つい3年前に5万石になったばかりだと考えれば、倍以上の加増とも言えるわけで、官兵衛が元は小寺氏の家臣という出自を考えると、妥当だとの意見もあります。どちらの見方が正しいのかはわかりませんが、家臣から不満の声が上がっていたのが事実だとすれば、やはり思ったより少ないという印象は当時からあったのでしょうね。

 豊前に入国した官兵衛はさっそく検地を開始しますが、その方法は検地奉行が田畑に赴いて測量を行う丈量検地ではなく、村々からの自己申告による指出検地だったようです。それは、そのほうが短期間で検地を行えるという理由もあったでしょうが、在地で新しい領主に対する抵抗が起きることは珍しくなく、それを踏まえたうえで、まずは領民たちの不満を買わないよう配慮したものと考えられます。政権交代後いきなり増税では、高い支持率を得られないですからね。

 しかし、そんな配慮をしてもなお、領国内の反発は激しかったようで、入国早々かなり手を焼いていたようです。そしてもうひとつ、官兵衛が手を焼いたのが、かつて豊前国内に勢力を誇った宇都宮鎮房でした。

 宇都宮氏は、下野の宇都宮氏の流れをくむ名門で、鎌倉時代からこの地の本拠を置く一族でした。戦国期に九州北部が戦乱で揺れる中でも、当主の鎮房は周防の大内義隆、豊後の大友宗麟など有力な大名に与して命脈を保ち、薩摩の島津義久が勢力を伸ばすとその配下に入るという、巧みな情勢判断で戦乱を生き残ってきた強者といえます。そんな嗅覚の持ち主である鎮房ですから、秀吉による九州征伐では島津氏を離れ、豊臣方に与します。名門である宇都宮氏にとって成り上がりの秀吉に従うことは本意ではなかったでしょうが、鎌倉時代から根付く領地を守るためには、背に腹は代えられない選択だったのでしょう。

 ところが、戦後、鎮房に下った命令は、加増というかたちで伊予国今治への転出でした。しかし、この命令をどうしてものむことが出来ない鎮房は、旧領に居座ったまま動こうとしません。これに怒った秀吉は、鎮房に与えた伊予国今治の領地も召しとってしまうんですね。これにより、鎮房はいよいよ豊前国から動けなくなります。同じ領国内に新旧の領主が同座するかたちとなった豊前国。黒田家と宇都宮家が激突するのは時間の問題となります。

 そんなとき、お隣の肥後国で大規模な一揆が勃発します。先の九州征伐も恩賞として肥後国50万石を与えられ、大大名となった佐々成政でしたが、豊前の官兵衛と違い、強引丈量検地を行おうとしたため、領民たちの大反発を買い、それが連鎖して国人たちの一斉蜂起を招き、収拾がつかなくなってしまいます。たまりかねた成政は秀吉に援軍を要請し、それを受けた秀吉は諸大名に出兵を命じて肥後の一揆鎮圧に向かわせます。その中に、官兵衛率いる黒田軍もいました。官兵衛にしてみれば、自領もまだ落ち着いてない状態での出陣は気がかりだったでしょうが、やむを得ず留守を嫡男の黒田長政にまかせて領国をあとにします。このとき、それを見ていたかのように鎮房が挙兵するんですね。これは、明らかに官兵衛の不在を狙った挙兵とみて間違いないでしょう。

 こうして、黒田家と宇都宮家の戦いの火蓋は切られます。また、この戦いをきっかけに長政と後藤又兵衛間に確執が生じ始めるのですが、それは次回以降ということで・・・。

 ちなみに、肥後国人一揆を招いた佐々成政は、翌年、秀吉の命により切腹させられます。戦上手で知られた成政でしたが、内政には明るくなかったのかもしれませんね。たかが検地と高をくくっていたのかもしれません。増税の方法を間違えると一気に政権から引きずり降ろされる。戦国の世も現代も同じですね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-08 23:50 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)