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越前松平家の福井城跡を歩く。 その4 ~福井神社~

「その3」の続きです。

福井城天守跡から内堀を挟んで北西にある、福井神社を訪れました。

このあたりには、かつて西三の丸御座所があり、藩主の生活の場でした。


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福井神社は福井藩16代藩主・松平慶永(春嶽)を祀る神社として、昭和18年(1943年)に創建されました。

旧社格は別格官幣社

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。

ここ福井神社は、日本最後の別格官幣社の指定となった神社です。


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この社標は昭和23年(1948年)6月28日の福井大地震によって福井城の堀の中に埋没していたそうですが、昭和58年(1983年)の内堀浚渫の際に発見され、引き上げられて復元設置されたものだそうです。


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コンクリート製鳥居拝殿です。


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創建当時の社殿は総檜造りだったそうですが、創建からわずか2年後の昭和20年(1954年)7月19日の福井大空襲焼失し、戦後12年経った昭和32年(1957年)に福井大学工学部の設計により再建されたそうです。

総コンクリート造りで、表面はコンクリート打ち放し、神明造を大幅に変形した傾斜の無いフラットな屋根という、他の神社には見られない独特の社殿ですね。

社殿前の大鳥居(二の鳥居)も、同じく福井大学工学部の設計によって再建されたものだそうで、貫がない特殊な形をしています。


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境内には、春嶽の像があります。


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春嶽といえば、幕末、薩摩の島津斉彬、土佐の山内豊信(容堂)、宇和島の伊達宗城と並んで四賢侯のひとりに数えられ、徳川親藩・譜代大名のなかでも尊皇派の支柱となった大名として知られます。


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また、藩内の行政においても、積極的な人材登用殖産興業の推進、富国強兵による藩財政の立て直しなど、藩政改革を行った名君と称えられました。

しかし、幕府大老・井伊直弼の行った安政の大獄によって隠居・謹慎処分を受け、家督を養子茂昭に譲り、5年間に及ぶ謹慎生活を送りました。


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やがて桜田門外の変で井伊直弼が落命すると、再び幕府の要職に復帰。

政事総裁職として参勤交代制の緩和、洋式軍制の採用、幕府職制の改正、京都守護職の新設、そして、229年ぶりとなる将軍・徳川家茂上洛を実現させるなどの働きを見せますが、尊皇派がやがて倒幕論に変わっていくと、佐幕派、倒幕派の間で春嶽の立場は微妙となり、その後は政治的に大きな成果を挙げられませんでした。

まあ、所詮は殿様だったってことですね。


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こちらは境内にある摂社・恒道神社

春嶽の改革を支えた鈴木主税、中根靱負(雪江)、橋下左内が祀られています。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-02 01:20 | 福井の史跡・観光 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その167 「臥雲山即宗院」

「その164」で紹介した東福寺の塔頭のひとつである臥雲山即宗院は、薩摩藩ゆかりの寺院として知られています。


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即宗院は、南北朝時代の元中4年(1387年)に薩摩国の守護大名だった6代目・島津氏久の菩提を弔うため創建されました。

その後、永禄12年(1569年)に火災で焼失しますが、慶長18年(1613年)、島津家久よって再興され、以来、薩摩藩の畿内菩提所となりました。


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即宗院が建立される以前は、関白・藤原兼実が晩年に営んだ山荘「月輪殿」があったとされます。

その名残を感じさせる庭園は現在京都市名勝に指定され、紅葉の名所としても知られています。


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幕末、島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定に輿入れすることとなった篤姫も、薩摩から江戸にむかう途中の嘉永6年10月5日(1853年11月5日)に、ここを訪れたという記録が残っています。


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境内の奥へと進むと、かつて採薪亭という茶亭があった場所があります。

安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政5年(1858年)、ここにあった採薪亭で西郷隆盛と清水寺塔頭・成就院の住職・月照が、たびたび密議を交わしていたと伝えられます。


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採薪亭の跡地には「西郷隆盛密議の地」と書かれた説明書が立っています。


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ここ即宗院は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍の屯所となりました。

鳥羽・伏見の戦いから会津戦争までの薩摩藩士の戦死者は524名とされています。

西郷隆盛は、その戦死者を弔うための薩摩藩士東征戦亡之碑を、ここ即宗院に建立します。


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その碑は、境内の裏山にあります。


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石段を登りきると石の鳥居があり、その奥の玉垣に囲まれた空間に石碑があります。


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正面には、西郷隆盛が藩士の霊を供養するために斎戒沐浴し、524霊の揮毫を行ったという石碑が5基、整然と並びます。


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これらすべて、西郷の揮毫といわれています。

この中には、西郷隆盛のすぐ下の弟で西郷従道の兄にあたる西郷吉二郎の名が刻まれているというのですが・・・。


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ありました・・・って、よく見ると「西郷宗次郎」となっていますね。

別人なのか、あるいは変名なのか、それとも誤記なのか・・・でも、弟の名前を間違えたりしないですよね。


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いちばん奥には、篆額「東征戦亡之碑」と記された石碑が建ちます。

その下の碑文は漢文なので詳しくはわかりませんが、「慶應之役其」という書き出しから想像するに、戊辰戦争の概要を記した文章だと思われます。

で、文末を見ると・・・。


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「西郷隆盛 謹書」とあります。

西郷の本当の名は「隆永」で、「隆盛」は父の名を間違って登録してしまったものだったため、西郷は終生、手紙などで「隆盛」の名を使ったことはなかったといいますが、公式な文書などでは、「隆盛」と記していました。


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過日、大阪歴史博物館で行われていた「西郷どん展」を観覧してきたのですが、そこで、ここ「薩摩藩士東征戦亡之碑」の設計図が展示されていました。

そこで紹介されていた文によると、除幕式に西郷は参列し「南洲翁の姿はフロックコートに白羽二重の帯に草履を履き、大小を手挟み、しずしず霊前にしばしもくとう、おもむろに祭文を読まれ、しばらくして、涙、滂沱として慟哭また慟哭、声なく全軍の士また貰い泣き、また慟哭」と、西郷の下僕だった永田熊吉が回想しています。


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せっかくなので石碑の前で記念撮影。


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この奥にある墓地には、人斬り新兵衛の異名で知られる田中新兵衛や、生麦村で大名行列を横切る英国人に斬りつけた奈良原喜左衛門、イギリス公使・パークス襲撃事件で負傷しながらも襲撃犯からパークスを守った中井弘などの墓があるそうですが、一般の方の墓もあるということで、残念ながら観光客は立入禁止でした。

最後に、石段を降りる際に目の前に広がっていた紅葉に彩られた景色をアップします。


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さて、明治維新150年にあたる年を記念して、今年2月から「幕末京都逍遥シリーズ」を続けてまいりましたが、本稿をもってひとまず終わりにさせていただきます。

167稿に渡った幕末史跡ですが、これを巡るのに、約2年かかりました。

1日で4~5ヶ所まわっていたのですが、30~40回は京都に足を運んだんじゃないでしょうか。

神戸から京都は、同じ関西ではあっても決して近くはなく、交通費も結構かかります。

われながら、よくやったなあと・・・。

楽しかったですけどね。

ただ、結構くまなく調べたと思っていますが、わたしの知らない幕末史跡が京都にはまだ残っているかもしれません。

そのときは、また続きをやろうと思いますので、その際はまたお付き合いください。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-24 03:50 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その166 「退耕庵(戊辰役殉難士菩提所)」

「その164」で紹介した東福寺の塔頭のひとつである退耕庵は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、東福寺とともに長州軍のが布かれた場所です。

そして戦後、長州藩戦死者の菩提所となりました。


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現在、山門の横には、「戊辰役殉難士菩提所」と刻まれた石碑が建ちます。


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駒札の説明書きによると、退耕庵は貞和2年(1346年)東福寺第43世住持性海霊見によって創建され、応仁の乱の災火により一時荒廃しましたが、慶長4年(1599年)に安国寺恵瓊によって再興されたそうです。


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茶室・作夢軒は、再興の際に恵瓊によって建てられたもので、豊臣秀吉の没後、ここで、恵瓊、石田三成、宇喜多秀家らが、関が原の戦いの謀議を行ったと伝えられているそうです。

それはすごい。


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ここが長州藩戦死者の菩提所となったのは、恵瓊が住持したということで毛利家との縁も深かったのかもしれませんね。


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維新後、「その78」で紹介した尊攘堂を建てて勤王の志士を慰霊に力を注いでいた品川弥二郎は、長州と退耕庵との浅からぬ縁に鑑み、明治27年(1894年)退耕庵維持会を作って後援していたそうです。

ここの本堂には、「その165」で紹介した防長藩士の墓に眠る48人の位牌が安置されています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-23 01:46 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その164 「東福寺」

東山九条にある東福寺を訪れました。

ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで長州軍の本陣が布かれた場所です。


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嘉禎2年(1236年)、摂政の九条道家が九條家の氏寺として建立したと伝わる東福寺は、京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭を有する大寺院です。


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東福寺は紅葉の名所としても知られています。

わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)11月26日で、観光客でたいへん賑わっており、庭園はほとんど牛歩状態でした。


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東福寺は東山の東南端、伏見と接する位置にあります。

大坂城から鳥羽街道を北上して鳥羽と伏見の2方に分かれた幕府軍に対して、長州軍は主に伏見方面の戦闘を担当しました。


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山門の横には、「維新戦役忠魂之碑」が建てられています。


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篆額は山縣有朋の書だそうです。

大正6年(1917年)11月に行われた長州藩殉難の士五十回忌に建てられたそうで、表には戊辰戦争の概略と長州軍の活躍をたたえた文面、裏には鳥羽・伏見の戦いで戦死した48名の名前が刻まれています。


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その横には「防長忠魂碑」と刻まれた石碑も。


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せっかくなので、紅葉の写真をアップしておきます。


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鳥羽・伏見の戦いは1月だったので、紅葉は散ったあとですね。

長州藩にとっては、文久3年(1863年)の八月十八日の政変で追放されて以来、約4年半ぶりの入京がここ東福寺だったわけです。

断腸の思いで見た景色だったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-17 01:21 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その163 「東寺」

舞台は洛中に戻って、世界遺産に指定されている東寺にやってきました。

ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍の本陣が布かれた場所です。


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周知のとおり、鳥羽・伏見の戦いの勝敗を決定づけたのは、新政府軍が掲げた「錦の御旗」だったといわれています。

このとき征討大将軍として新政府軍の大将だった仁和寺宮嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)は、戦いが始まって2日目の1月4日、天皇から節刀とともに下賜されたという錦の御旗を掲げ、ここ東寺に入りました。


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錦の御旗は、新政府軍が天皇の軍隊であることを示すもので、この時点で、すなわち新政府軍は官軍、旧幕府軍は天皇に逆らう賊軍ということになりました。

これを見た旧幕府軍の兵たちの士気は大きく低下し、またたく間に総崩れとなりました。


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この「錦の御旗」ですが、実は朝廷からもらったものではなく、岩倉具視が勝手に作った代物だと言われていますね。

いずれ始まるであろう旧幕府との開戦に備えて、岩倉が秘書官の玉松操に調べさせた資料を参考に、薩摩の大久保利通や長州の品川弥二郎らと相談して作ったものだと言われています。

実物は誰も見たことがないわけですから、それらしければいいということで、大久保利通の愛妾のおゆうが祇園で買ってきた錦紗銀紗の布を長州に運んで、2ヶ月がかりで完成させたもので、いわば捏造品だったわけです。


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偽物であれ何であれ、かつて南北朝時代でも足利尊氏が戦局を有利にするために御旗を利用したように、このときの錦の御旗も絶大な効力を発揮します。

そもそも、本来この戦いに朝廷は関係なく、薩長と旧幕府の私闘だったのですが、この錦の御旗を掲げたことにより、戦いを「義戦」にしたわけです。

自分たちから喧嘩を吹っかけておいて、相手が挑発に乗ってきたら、「正義」を主張する。

ずるいですね。

それにしても、御旗の納品がよく間に合いましたね。


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東寺のシンボル、高さ55mを誇る五重塔です。

西郷隆盛はこの五層目に上がり、伏見の戦局を眺めたといいます。


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後年、西郷隆盛が鳥羽・伏見の戦いを回顧して、

「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」

と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、あるいは、その砲声を聞いたのは、ここ東寺だったかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-16 17:18 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その160 「戊辰役東軍戦死者埋骨地(大専寺・文相寺・東運寺)」

「その159」で紹介した光明寺跡から300mほど南下したところにある大専寺にも、鳥羽・伏見の戦いで戦死した旧幕府軍の戦死者を供養する墓碑があります。


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こちらが、その墓碑。

これまで紹介してきた碑と同じく「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。


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また、大専寺から南西に100mほど歩いたところにある文相寺に境内にも、同じ墓碑があります。


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それがこれ。

同じく「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。


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さらに、文相寺から300mほど南下した場所にある東運寺にも、同じ墓碑があります。


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これです。

これもやはり「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。

石碑の後ろに大きな切り株があります。


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あるいは、往時を知っていた木だったかもしれません。


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これらの碑はすべて、ここまで何度も紹介したものと同じく、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。

こうして見ても、このあたり一帯の寺院のほとんどが、鳥羽・伏見の戦いに関係していたことがわかりますね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-09 02:09 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その158 「戊辰之役東軍戦死者之碑(妙教寺)」

「その156」で紹介した愛宕茶屋埋骨地から500mほど南西に歩くと、妙教寺というお寺があります。

ここも、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、戦火に巻き込まれました。


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ここ妙教寺のある納所・淀方面に主戦場が移ったのは、戦いが始まって3日目の1月5日でした。


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境内には、「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻まれた石碑があります。

明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうで、揮毫は榎本武揚によるものだそうです。

榎本武揚といえば、旧幕府軍として戊辰戦争を最後まで戦った人物。

東軍戦死者の招魂碑の揮毫者としては最も適任だったといえるでしょう。


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側面には、「戦死者埋骨地三所一 在下鳥羽村悲願寺墓地 一 納所村愛宕茶屋堤防 一 八番楳木」と刻まれています。

「その153」 「その154」 「その155」で紹介した東軍戦死者埋骨地を示したものです。


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境内にはもうひとつ、鐘楼の側にも関連の石碑があります。


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石碑には「史跡 淀古城址 戊辰役砲弾貫通跡」と刻まれています。

ひとつは、かつてこのあたりに淀古城があったとする記述です。

現在、この少し南に淀城跡がありますが、そこは江戸時代に入ってから築城されたもので、ここで言う淀古城とは、豊臣秀吉の時代、淀殿が居城としていたと伝わる淀城です。


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そしてもうひとつ、「戊辰役砲弾貫通跡」とあるのは、ここの本堂に鳥羽・伏見の戦い時の砲弾の跡が残されているという標示です。

伝承によると、ここ妙教寺の上を両軍の砲弾が飛び交ったといい、そのうちの1発が本堂南側の壁と位牌壇を突き破り、北側の柱も貫通したそうです。

寺にはその際飛び込んだ「四斤山砲」と呼ばれる重さ4kgもある砲弾も伝わるそうで、水平に近い弾道は、砲弾がかなりの速さで飛び込んだことを伝えています。

当時の住職の記録には、「銃丸雨の如く集まる」「嗚呼危うかりし哉」と記されているそうで、その後、戦いを後世に伝えようと、穴の開いた壁や柱をそのまま残したといいます。


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わたしが訪れたこの日は、お寺の関係者の方々が不在だったようで、残念ながら本堂の中に入ることができませんでした。

超残念


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石碑の説明書きには、「慶應四年正月四日」と記されています。

戦史の記録では、このあたが主戦場となったのは1月5日だったと思うのですが、この砲弾はその前日の4日に撃ち込まれたことになっていますね。

4日はもう少し北の下鳥羽付近が主戦場だったはずですが、ここ納所・淀方面でもすでにドンパチが始まっていたということでしょうか。

戦いが広範囲に渡って繰り広げられていたことがわかる記録です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-02 23:18 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その154 「戊辰東軍戦死之碑(法傳寺)」

「その153」で紹介した下鳥羽にある石碑のすぐ近くにある法傳寺の正門横に、戊辰戦争のの発端となった鳥羽・伏見の戦いで戦死した東軍兵を供養する石碑があります。


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もともと法傳寺は鳥羽街道沿いにあり、石碑の建つ正門前でも激しい戦闘が繰り広げられたといいます。

その縁から、東軍が使用した短銃、砲弾、太刀、槍の穂先、東軍戦死者名簿なども所蔵しており、毎年8月には慰霊祭が行われているそうです。


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この碑は、京都で初めて東軍慰霊祭が大々的に行われた明治30年(1897年)の三十回忌の年に建立されたそうです。


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石碑には、「戊辰東軍戦死之碑」と刻まれています。

揮毫は、空海の書法を究めた名筆家として知られた宮小路康文

東軍=旧幕府軍ですね。

会津の人たちはいまでも薩長軍=官軍、幕府・会津軍=賊軍という表現を嫌うそうで、あくまで東軍、西軍というそうです。

先祖が長岡藩士だという作家の半藤一利氏も、その著書では東軍、西軍という呼称にこだわっています。

たしかに、ある日突然、偽の錦の御旗が翻って賊軍とみなされたわけですから、納得できるはずがなかったでしょうね。

「東軍」と刻まれたこの石碑の発起人は、おそらく旧幕府側の人たちだったんじゃないでしょうか。


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石碑の上手には「支那事変・大東亜戦・戦没者之碑」と刻まれた石碑が並び、下手には「戦死者埋骨東北悲願寺墓地」と刻まれた標識の碑があります。

次稿では、その悲願寺墓地を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-27 00:50 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その152 「城南宮」

「その150」で紹介した小枝橋から300mほど東にある城南宮は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩軍が陣を布いた場所です。


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鳥羽街道を北上してきた旧幕府軍に対して、薩摩藩を中心とする新政府軍は、ここ城南宮から小枝橋方面に東西に長い陣を布いて北上軍への備えとしました。


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境内には、鳥羽・伏見の戦いを説明する駒札が建てられています。


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この大鳥居からの参道に、薩摩軍の大砲がズラリと並んでいたと伝えられ、明治に入って描かれた合戦絵巻にも、ここに大砲が並んでいる様子が描かれています。

「その150」でも紹介しましたが、鳥羽・伏見の戦いの戦端は、薩摩軍が放った一発の砲によって開かれました。

その最初の砲は、ここ城南宮に置かれた砲だったという説もあります。


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ニノ鳥居です。


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舞殿です。


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わたしがここを訪れたとき、本殿は改修工事中でした。


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後年、西郷隆盛が鳥羽・伏見の戦いを回顧して、

「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」

と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、薩摩は、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、どうしても戦争がしたかったんですね。

だから、一旦は恭順を公言していた旧幕府軍を挑発し、無理にけしかけて戦争に持ち込みます。

しかも、偽の錦旗まで用意して。

これって、すでに瀕死の状態にある日本に対して、戦争を終らせるためといって原爆を投下したアメリカ軍と同じですよね。

歴史を否定するつもりはありませんが、歴史を歪曲して賛美するのも好きではありません。

鳥羽・伏見の戦いは「義戦」ではありません。

薩長と旧幕府との「私戦」です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-20 00:01 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その146 「御香宮神社(薩摩軍本営跡)」

伏見にある御香宮神社を訪れました。

ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、薩摩藩の本営が置かれていた場所です。


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御香宮神社の創建の由緒は不詳ですが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録があるほど古い神社です。


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現地説明板によると、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が下されますが、その2日前の12月7日、ここ御香宮神社の表門に「徳川氏陣営」と書いた大きな木礼が掲げられました。

ところが、その翌日に薩摩藩士の吉井幸輔(のちの友実)がその札を外し、ここに部隊を置いたのが最初だそうです。


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やがて年が明けた慶応4年1月2日1868年1月26日)、徳川慶喜は大軍を率いて大阪より進軍し、その先鋒が翌3日の午後に伏見京橋に着きます。

そこで薩摩藩士との間に小ぜり合いがおこり、そうこうしていると鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに、御香宮神社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(のちの巌)の指揮により、御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対して砲撃を開始します。

敵方の陣営より少し高い位置にあったこの地は、砲撃にはもってこいの場所だったようです。


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これに対して土方歳三の率いる新選組は、砲撃の火蓋切って応戦しますが、やがて薩摩軍の放った砲弾が奉行所を炎上させ、新選組をはじめとした旧幕府軍は徹底を余儀なくされ、市街戦へと持ち込まれました。


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新選組二番組隊長である永倉新八は、島田魁、伊藤鉄五郎など10名の配下とともに重い甲冑を脱いで身軽となり、「決死隊」と称して御香宮神社の薩摩本営に向けて斬り込んできますが、戦局を変えることができぬまま圧倒的な火力の前に撤退させられています。


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本殿です。

激戦のなか、奇跡的に戦火を免れました。


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境内には、「明治維新伏見の戦跡」と刻まれた石碑があります。


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明治100年を記念して建てられたもののようで、揮毫は当時の内閣総理大臣佐藤栄作によるものだそうです。


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その横には、説明版が。


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説明板の最期には、こうあります。

「かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繋ってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上、否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。」


見事な薩長史観ですね。

このような戦争賛美の文面を内閣総理大臣の名が記された看板でうたうのは、いかがなものでしょう?


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ここからは私見ですが、わたしは、鳥羽伏見の戦いを含む戊辰戦争は、する必要はなかった戦争だと思っています。

幕府はすでに政権を朝廷に返上しており、王政復古の大号令の名のもと、新時代のイニシアティブは薩長にありました。

もちろん、旧幕臣たちの不満の火種が各地で燻ってはいましたが、そのトップである徳川慶喜が恭順を示していたのだから、本来、戦をする理由はなかったのです。

ところが、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、薩長は無理にけしかけて戦争に持ち込みます。

しかも、偽の錦旗まで用意して。

そうしてできたのちの明治政府が、この戦いを「義戦」と位置付けるんですね。

戦争に「義戦」なんてものはありません。

戦争は単なる「勢力争い」です。

戊辰戦争は、薩長の新政権が、いったんは白旗を挙げている旧政権に対して、無理やりけしかけて兵を挙げさせ、再び息を吹き返さないように息の根を止めた戦争です。

明治維新から150年が過ぎて平成も終わろうとしている今、そろそろ薩長史観から脱却せねばなりません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-09 21:25 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)