タグ:寺社 ( 141 ) タグの人気記事

 

幕末京都逍遥 その152 「城南宮」

「その150」で紹介した小枝橋から300mほど東にある城南宮は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩軍が陣を布いた場所です。


e0158128_22125244.jpg


鳥羽街道を北上してきた旧幕府軍に対して、薩摩藩を中心とする新政府軍は、ここ城南宮から小枝橋方面に東西に長い陣を布いて北上軍への備えとしました。


e0158128_22125613.jpg

境内には、鳥羽・伏見の戦いを説明する駒札が建てられています。


e0158128_22104836.jpg

この大鳥居からの参道に、薩摩軍の大砲がズラリと並んでいたと伝えられ、明治に入って描かれた合戦絵巻にも、ここに大砲が並んでいる様子が描かれています。

「その150」でも紹介しましたが、鳥羽・伏見の戦いの戦端は、薩摩軍が放った一発の砲によって開かれました。

その最初の砲は、ここ城南宮に置かれた砲だったという説もあります。


e0158128_22163989.jpg


ニノ鳥居です。


e0158128_22165363.jpg


舞殿です。


e0158128_22172266.jpg


わたしがここを訪れたとき、本殿は改修工事中でした。


e0158128_22193939.jpg


後年、西郷隆盛が鳥羽・伏見の戦いを回顧して、

「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」

と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、薩摩は、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、どうしても戦争がしたかったんですね。

だから、一旦は恭順を公言していた旧幕府軍を挑発し、無理にけしかけて戦争に持ち込みます。

しかも、偽の錦旗まで用意して。

これって、すでに瀕死の状態にある日本に対して、戦争を終らせるためといって原爆を投下したアメリカ軍と同じですよね。

歴史を否定するつもりはありませんが、歴史を歪曲して賛美するのも好きではありません。

鳥羽・伏見の戦いは「義戦」ではありません。

薩長と旧幕府との「私戦」です。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-20 00:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その146 「御香宮神社(薩摩軍本営跡)」

伏見にある御香宮神社を訪れました。

ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、薩摩藩の本営が置かれていた場所です。


e0158128_13155412.jpg


御香宮神社の創建の由緒は不詳ですが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録があるほど古い神社です。


e0158128_13215402.jpg


現地説明板によると、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が下されますが、その2日前の12月7日、ここ御香宮神社の表門に「徳川氏陣営」と書いた大きな木礼が掲げられました。

ところが、その翌日に薩摩藩士の吉井幸輔(のちの友実)がその札を外し、ここに部隊を置いたのが最初だそうです。


e0158128_13183891.jpg


やがて年が明けた慶応4年1月2日1868年1月26日)、徳川慶喜は大軍を率いて大阪より進軍し、その先鋒が翌3日の午後に伏見京橋に着きます。

そこで薩摩藩士との間に小ぜり合いがおこり、そうこうしていると鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに、御香宮神社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(のちの巌)の指揮により、御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対して砲撃を開始します。

敵方の陣営より少し高い位置にあったこの地は、砲撃にはもってこいの場所だったようです。


e0158128_13184231.jpg


これに対して土方歳三の率いる新選組は、砲撃の火蓋切って応戦しますが、やがて薩摩軍の放った砲弾が奉行所を炎上させ、新選組をはじめとした旧幕府軍は徹底を余儀なくされ、市街戦へと持ち込まれました。


e0158128_13184543.jpg


新選組二番組隊長である永倉新八は、島田魁、伊藤鉄五郎など10名の配下とともに重い甲冑を脱いで身軽となり、「決死隊」と称して御香宮神社の薩摩本営に向けて斬り込んできますが、戦局を変えることができぬまま圧倒的な火力の前に撤退させられています。


e0158128_13231772.jpg


本殿です。

激戦のなか、奇跡的に戦火を免れました。


e0158128_13254072.jpg


境内には、「明治維新伏見の戦跡」と刻まれた石碑があります。


e0158128_13254363.jpg


明治100年を記念して建てられたもののようで、揮毫は当時の内閣総理大臣佐藤栄作によるものだそうです。


e0158128_13270030.jpg


その横には、説明版が。


e0158128_13254615.jpg


説明板の最期には、こうあります。

「かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繋ってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上、否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。」


見事な薩長史観ですね。

このような戦争賛美の文面を内閣総理大臣の名が記された看板でうたうのは、いかがなものでしょう?


e0158128_18412638.jpg


ここからは私見ですが、わたしは、鳥羽伏見の戦いを含む戊辰戦争は、する必要はなかった戦争だと思っています。

幕府はすでに政権を朝廷に返上しており、王政復古の大号令の名のもと、新時代のイニシアティブは薩長にありました。

もちろん、旧幕臣たちの不満の火種が各地で燻ってはいましたが、そのトップである徳川慶喜が恭順を示していたのだから、本来、戦をする理由はなかったのです。

ところが、自分たちが起こした革命を完成させるため、手に入れた権力を盤石にするために、薩長は無理にけしかけて戦争に持ち込みます。

しかも、偽の錦旗まで用意して。

そうしてできたのちの明治政府が、この戦いを「義戦」と位置付けるんですね。

戦争に「義戦」なんてものはありません。

戦争は単なる「勢力争い」です。

戊辰戦争は、薩長の新政権が、いったんは白旗を挙げている旧政権に対して、無理やりけしかけて兵を挙げさせ、再び息を吹き返さないように息の根を止めた戦争です。

明治維新から150年が過ぎて平成も終わろうとしている今、そろそろ薩長史観から脱却せねばなりません。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-10-09 21:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その134 「村岡局(津崎矩子)墓所(直指庵)」

「その133」で紹介した村岡局(津崎矩子)が、晩年を過ごしたという直指庵が北嵯峨にあります。

JR嵯峨嵐山駅から2kmほど北上した人里離れた山のふもとにある小さなお寺です。


e0158128_18352538.jpg


山門です。


e0158128_18370744.jpg


直指庵は正保3年(1646年)に独照性円没蹤庵を建てたのに始まります。

名前の由来は、独昭が黄檗禅の正統さを「直指伝心」することを旨としたことによると伝わります。

その後、荒廃していましたが、村岡局が浄土宗の寺として再興しました。


e0158128_18371259.jpg


直指庵は紅葉の名所としても知られていますが、わたしがここを訪れたのは12月9日、ちょっと遅かったですね。

あと1週間早く来ていれば、美しい庭の景色が見られたでしょう。


e0158128_18383717.jpg


本堂です。

茅葺屋根を持つ古民家のようなお堂です。


e0158128_18384334.jpg


中は撮影禁止だったので、外観だけ。


e0158128_18404229.jpg


待合です。


e0158128_18404563.jpg


こちらは地蔵堂


e0158128_18404942.jpg


そして、地蔵堂を上った場所に、村岡局の墓があります。


e0158128_18440053.jpg


村岡局は明治6年(1873年)、88歳でこの世を去りました。

当時としてはかなりの長寿ですね。


e0158128_18440430.jpg


「女傑」「女丈夫」「烈女」などと称される村岡局ですが、彼女の女傑ぶりは作り話ではなく、彼女をよく知る梅田雲浜久邇宮朝彦親王(中川宮)の書簡などにも記されているほど、当時から伝説の女性だったようです。

たとえば、篤姫の義母の代理として江戸幕府13代将軍・徳川家定輿入れに付き従った際には、将軍や諸大名の面前で七汁二十二菜のご馳走を平らげたうえで、近衛家の家臣1人を将軍の側に置かれたいと述べて一同を驚嘆させたといいます。

彼女はもちろん篤姫の義母などではなく、江戸城に登城するのもこのときが初めてでした。

よほど肝の座った女性だったことがわかります。

このとき、将軍から三つ葉葵の紋を散らした打ち掛けを頂戴したそうですが、のちに安政の大獄で捕らわれたとき、その評定所白砂の上にその打ち掛けを着て座ったといいますから、さすがに幕府の役人も彼女の扱いに困ったと伝わります。

豪胆かつ頭の切れる聡明な女性だったことがわかりますね。


e0158128_18440875.jpg


晩年はここ直指庵で、付近の子女の教育に尽くしながら穏やかな日々を送ったといいます。


e0158128_18465845.jpg


直指庵から1kmほど南下した大覚寺大沢池の畔に、村岡局の顕彰碑があります。

近衛忠熙の篆額だそうです。


e0158128_18470207.jpg


もともと彼女は大覚寺門跡の家来・津崎左京の娘としてこの辺りで生まれ、兄の津崎元矩は大覚寺門跡の諸大夫だったのですから、その縁でここに顕彰碑が建てられたのでしょう。


e0158128_18470683.jpg


明治24年(1891年)、従四位が追贈されました。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-19 23:57 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その130 「松厳寺(坂本龍馬像)」

前稿前々稿天龍寺の塔頭シリーズが続いていますが、同じく塔頭の松厳寺坂本龍馬像があります。


e0158128_17373904.jpg


正確には、松厳寺の境内ではなく、その隣の墓地に龍馬像あります。

こちらがその像です。


e0158128_17404899.jpg


この像は、昭和49年(1974年)10月14日に除幕されたものです。

傍らには「時代之先覚者坂本龍馬先生遺徳之像」と刻まれた石碑があります。


e0158128_17405682.jpg


像はそれほど大きくなく、等身大くらいの印象でした。

黒光りしていて、よく手入れが行き届いています。


e0158128_17441479.jpg


でも、なぜ天龍寺の塔頭に龍馬像が?・・・て思いますよね。


e0158128_17441808.jpg


説明板によると、「風雲急を告げる京洛に於いて長州本陣天龍寺を訪れ、来島又兵衛、久坂玄瑞、中岡慎太郎と倒幕の密議を交わし」とあります。

う~ん・・・。


e0158128_17442369.jpg


たしかに、中岡慎太郎が長州藩士と共に禁門の変時にここ天龍寺にいたのは事実です。

ですが、龍馬はこの時期、神戸海軍操練所の塾長として、政局とは無縁の毎日を送っていました。

この当時、勝海舟が京と神戸を行き来していましたから、その勝を訪ねて京に来ることはあったと思いますが、嵯峨野を訪れる余裕なんてなかったんじゃないかと。

仮に中岡を訪ねて天龍寺に来たことがあったとしても、倒幕の密議なんて段階ではなかったと思います。

当時の龍馬なら、「神戸海軍操練所に入らんかえ?」勧誘していたんじゃないでしょうか?(笑)

でも、そんなこと言ったら、幕臣の奸物・勝麟太郎の手下の開国論者とみなされ、来島又兵衛に斬られていたんじゃないでしょうか?(笑)

どう考えても、この話は無理がありますね。


e0158128_17462121.jpg


とはいえ、ネットで調べてみると、たしかにこのような伝承が嵯峨野に残っていたそうです。

伝承っていうのは、当てにならないものですね。


e0158128_17462594.jpg


像の側には、船中八策宣言碑と書かれた錨のかたちの碑と、船中八策の内容が刻まれた石盤がありました。

いずれも、坂本龍馬会によって建てられたものだそうです。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-12 23:58 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その129 「壽寧院(お龍・楢崎将作顕彰碑)」

天龍寺の塔頭・壽寧院に、坂本龍馬の妻・お龍と、その父・楢崎将作顕彰碑があると知り、立ち寄ってみました。

なぜ、ここに顕彰碑があるのか・・・。


e0158128_17181528.jpg


龍馬の死後、しばらくは長府藩士の三吉慎蔵がお龍の面倒をみていましたが、その後、土佐の龍馬の実家に身を寄せます。

しかし、都育ちのお龍には土佐の暮らしは馴染めず、わずか3ヵ月ほどで立ち去ることになり、その後、妹夫婦の世話になったりしたのち、龍馬の墓所近くで墓守をしながら暮らしていましたが、それも長くは続かず、東京へ出て勝海舟西郷隆盛に頼り、神奈川宿の料亭で仲居として働いていた明治8年(1875年)、横須賀で造船所を営む西村松兵衛と再婚し、西村ツルと改名しました。


e0158128_17323786.jpg


明治16年(1883年)から土陽新聞に掲載された坂崎紫瀾『汗血千里駒』がベストセラーとなり、それまで忘れられた存在だった龍馬の名が広く世間に知られるようになると、その妻だったお龍の周りも取材などで騒がしくなります。

お龍の回顧談をまとめた『反魂香』の作者である安岡秀峰が明治30年(1897年)に訪ねたときの話では、お龍は横須賀の狭い貧乏長屋で暮らしていて、アルコール依存症状態となり、酔っては「私は龍馬の妻だ」と夫の松兵衛に絡んでいたといいます。


e0158128_17312638.jpg


そんなお龍に嫌気がさしたのでしょうか、松兵衛は、当時夫に先立たれて頼ってきていたお龍の妹・光枝内縁関係になってしまい、ふたりで家を出ていってしまいました。

なんとも酷い話のように思いますが、酔っては前の夫のことを口にして絡んでくるような嫁では、逃げ出したくもなるでしょうね。

でも、嫁の妹はマズいわな。


e0158128_17311573.jpg


明治39年(1906年)1月15日、お龍は66歳でその生涯を閉じます。

晩年は寂しい最後でしたが、しかし、お龍が亡くなる2年前の明治37年(1904年)、日露戦争開戦直前に美子皇后夢枕に坂本龍馬が立ったという話が広まり、再び龍馬が世間の注目を集めており、お龍が危篤に陥ると、皇后大夫・香川敬三(元陸援隊士)から御見舞の電報が送られ、海軍大将・井上良馨が救護の募金を集めたそうです。

その後、田中光顕や香川敬三の援助を受けて、妹の光枝が施主、夫の西村松兵衛らが賛助人となり、横須賀に墓が建てられました。

墓碑には夫の西村松兵衛の名ではなく「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれ、また、遺言により、龍馬の眠る京都霊山護国神社京都八瀬西林寺にあった父・楢崎将作の墓に分骨されたそうです。

しかし、やがて将作の墓は無縁仏となり、見かねた西村家の子孫の方が、「楢崎将作・坂本龍子顕彰会」と共にこの地に移葬して顕彰碑を建てたそうです。

長くなりましたが、ここに顕彰碑があるのは、そんな経緯です。


e0158128_17275312.jpg


碑には、龍馬がお龍との別れ際に詠んだと伝わる歌が刻まれています。


又あふと思う心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな


石碑の背面には、将作とお龍の足跡が。


e0158128_17275813.jpg


その向かいにある銘板には、将作とお龍の名が刻まれ、その横には、西村家の子孫の方々のお名前が並んでいました。

楢崎家は途絶え、坂本家からは絶縁されたお龍ですが、西村家によってこうして祀っていただいているのは、ありがたい話ですね。

妹とのゲス不倫はマズかったですが。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-11 23:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その128 「弘源寺(禁門の変時の刀傷)」

前稿で紹介した天龍寺の塔頭・弘源寺の本堂に、長州藩士がつけた刀傷が残っていると知り、立ち寄ってみました。


e0158128_17025264.jpg


前稿でもお話したとおり、天龍寺は元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変(蛤御門の変)」時に長州軍の本陣となった場所です。

天龍寺を宿営としたのは、藩内きっての豪傑・来島又兵衛率いる500の兵でした。

おそらく、その塔頭である弘源寺も、長州兵の宿舎となったことでしょう。


e0158128_17041034.jpg


門の横には、刀傷を紹介する看板が置かれていましたが、そこには、「龍馬の時代」と記されていました。

いやいや、たしかに龍馬の時代には違いありませんが、龍馬は関係ないでしょう。

なんでも坂本龍馬の名にあやかった観光客誘致は、いかがなものかと。


e0158128_17062172.jpg


本堂です。


e0158128_17072923.jpg


そしてこちらがその刀傷

たしかに、自然に出来た亀裂ではなく、何か鋭利なものでえぐったような傷であることがわかります。


e0158128_17083199.jpg


説明書きには、「血気にはやる武士が柱に試し切りした跡」とあります。

あるいは、来島又兵衛その人だったりして。

この種の刀傷の跡は、「その98」「その99」にもありましたが、江戸時代の武士道というのはモラルの塊のはずなんですが、幕末当時の武士というのは、無作法もいいところですね。

寺院側にしてみれば、戦の陣営にされるだけでも迷惑千万な話なのに、意味なく建物に傷を付けられたんじゃ、たまったもんじゃなかったでしょう。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-09 01:22 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その124 「実相院」

前稿で紹介した「岩倉具視幽棲旧宅」のすぐ北西に、鎌倉時代創建の寺院・実相院があります。

ここも、かつて岩倉村に隠棲していた岩倉具視ゆかりの寺院です。


e0158128_16230548.jpg


実相院は門跡寺院のひとつです。

門跡寺院とは、皇族公家が住職を務める特定の寺院で、かつては位階の高い寺院とされていました。


e0158128_16243711.jpg


実相院は紅葉の名所で知られています。

わたしがここを訪れたのは、晩秋の12月2日でした。


e0158128_16265820.jpg


文久2年(1862年)10月に岩倉村に落ちてきた岩倉具視は、元治元年(1864)に前稿で紹介した屋敷を購入して住居としますが、それまでの間の一時期、ここ実相院に住んでいたと伝わります。


e0158128_16270223.jpg


その縁もあって、寺院内には岩倉具視の日記密談の記録などが展示されていましたが、実相院の建物内はすべて撮影禁止のため、紹介することはできません。


e0158128_16320278.jpg


せっかくなので、紅葉の写真を載せます。


e0158128_16320651.jpg
e0158128_16320910.jpg


岩倉具視もここで紅葉狩りを楽しんだのでしょうか。


e0158128_16321290.jpg
e0158128_16321561.jpg


実相院は、床に紅葉が反射して見える「床紅葉」が有名ですが、これも、撮影禁止でした。

なので、こちらでググってみてください。

  ↓↓↓

実相院 床紅葉


実相院の裏山には、尊王攘夷派の志士たちに命を狙われた具視が身を潜めたと伝わる場所があり、現在、その地に石碑が建っていると聞いたのですが、裏山に入ってみたのですが、道標がなく石碑を見つけることができませんでした。

案内板、作ってほしいですね。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-09-02 01:17 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その121 「葉山観音(一燈寺)・梅田雲浜旧蹟碑」

洛北の一条寺にある葉山観音を訪れました。

正式には一燈寺といいます。

ここは、かつて梅田雲浜が住んでいたと伝わるお寺です。


e0158128_15354559.jpg


一燈寺は、江戸時代前期、後水尾天皇(第108代天皇)の皇女の朱宮光子内親王(元瑤禅尼)観世音菩薩を信仰し、堂宇を整備したのが始まりとされています。

東山三十六峰のひとつである葉山の中腹にあることから、「葉山観音」と呼ばれてきました。


e0158128_15364956.jpg


平成25年(2013年)の豪雨で境内に土砂崩れがあり、現在も復興されないまま立入禁止になっています。


e0158128_15385541.jpg


柵の間から中を覗くと、ルーシートに覆われた状態で放置されていました。


e0158128_15390001.jpg


境内には、「梅田雲浜旧蹟碑」と刻まれた石碑があります。

幕末、梅田雲浜の一家が、一時期、ここの堂守小屋に住んでいました。


e0158128_15404476.jpg


梅田雲浜は若狭国小浜藩出身の儒学者で、8歳にして藩校・順造館に入り、その英明さは大いに期待されましたが、頭脳が切れすぎたせいか、立場をわきまえずにものを言うところがあり、藩主への建言が幕府批判と取られ、藩籍を剥奪されてしまいます。

その浪人中に住み込んでいたのが、ここ一燈寺でした。

生活はたいへん苦しかったようで、西郷隆盛が雲浜を尋ねてここを訪れたときには、着ていた着物を質に入れて酒を買い、もてなしたといいます。


e0158128_15404849.jpg


その後、雲浜は「その45」で紹介した屋敷に移住し、そこで安政の大獄によって捕らえられ、獄中死します。

その墓は、「その12」で紹介した安祥院にあり、東山霊園に慰霊碑があります。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-08-29 23:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その120 「圓光寺(村山たか墓所)」

前稿で紹介した金福寺でその生涯を終えた村山たかは、その本寺である圓光寺に葬られました。


e0158128_14105583.jpg


圓光寺の開基は徳川家康とされています。

慶長6年(1601年)、家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第9代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立して学校としました。

その後、相国寺内に移され、に寛文7年(1667年)に現在地に移されたそうです。


e0158128_14151597.jpg


山門をくぐると、いきなり視界に枝垂れ桜が飛び込んできます。


e0158128_14151903.jpg
e0158128_14152253.jpg


見事な枝垂れ桜です。


e0158128_14152580.jpg
e0158128_14152991.jpg
e0158128_14153464.jpg


品種に詳しくはないのですが、八重桜に似ているように思います。

ソメイヨシノエドヒガンなどより、鮮やかなピンクです。


e0158128_14171876.jpg


こちらは瑞雲閣


e0158128_14192138.jpg


そして本堂です。


e0158128_14192685.jpg


こちらは坐禅堂


e0158128_14193077.jpg


鐘楼


e0158128_14232135.jpg


そして、その奥にある墓地に、村山たか女墓があります。

こちらがその墓石です。


e0158128_14232442.jpg


たかは明治9年(1876年)に67歳で亡くなりました。

若き日の井伊直弼と情交を結び、直弼が幕府大老となると、大老の元カノとして京都に潜み、直弼のスパイとして働いたと伝わる村山たかですが、長らく、彼女と直弼の具体的な関係は不明でした。

ところが、平成23年(2011年)の末に京都市東山区の井伊美術館で直弼がたかへ宛てた手紙が発見され、その手紙は直弼が20代後半に書かれたものと思われ、藩の反対でたかと会えなくなった際の辛い心情が綴られていました。

この手紙によって、伝承が事実だったことが立証されました。


e0158128_14232853.jpg


若き日のたかは、芸妓となってシングルマザーになったと思えば直弼の愛人になり、直弼と別れると直弼のブレーンだった長野主膳と男女の関係になったともいわれ、恋多き女というイメージですが、直弼の死後はとなってその菩提を弔いながらストイックな晩年を過ごします。。

彼女が悪女だったのかどうかはわかりませんが、きっと、魅力的な女性だったのでしょうね。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-08-26 00:22 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その119 「金福寺(村山たか隠棲地)」

前稿で紹介した詩仙堂から200mほど南下したところにある金福寺は、幕末の女スパイ・村山たかが晩年を過ごした隠棲地と伝えられます。


e0158128_13475602.jpg


金福寺は貞観6年(864年)に慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建したと伝えられる古いお寺です。

その後、荒廃していましたが、元禄年間(1688年~1704年)に圓光寺鉄舟によって再興されました。

その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされたため、のちに芭蕉庵と名付けられたそうですが、その後、荒廃していたため、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門が安永5年(1776年)に再興しました。


e0158128_13534760.jpg


幕末、幕府大老・井伊直弼スパイとして働いた村山たかが尼として入寺し、ここで生涯を閉じました。

山門横には、たかが創建したとされる弁天堂があります。


e0158128_13535144.jpg


20歳で祇園の芸妓となったたかは、男児を出産するもシングルマザーとなり、子供を連れて生まれ故郷の彦根に帰りますが、そこで、当時、部屋住みとして過ごしていた井伊直弼と出会って男女の関係となります。

直弼は彦根藩第14代藩主・井伊直中十四男で、本来は藩主の座に就く可能性はほとんどゼロに近い境遇でした。

だから、芸者崩れと情交を結んでも、誰も咎めたりはしなかったのでしょうね。


e0158128_13535544.jpg


ところが、直弼はその後、数奇な運命によって藩主の座に就き、さらに、幕末の混乱した政局のなか、幕府大老職に就任します。

たかは捨てられました。


e0158128_13535826.jpg


しかし、その後、たかは直弼のブレーンだった長野主膳に保護され(一説には男女の仲となり)、安政の大獄の際には京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとして暗躍します。

彼女が主膳に送ったタレコミの手紙が何通も残っているそうです。

たかは日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在となります。


e0158128_13573095.jpg


安政7年3月3日(1860年3月24日)に起きた桜田門外の変で直弼が暗殺されると、文久2年(1862年)にたかも尊攘派の志士たちに捕らえられ、三条河原に3日3晩生き晒しにされましたが、女性ということで殺害は免れます。

しかし、息子の多田帯刀は母親のかわりに土佐藩の岡田以蔵らによって斬殺され、首を晒されました。


e0158128_14004950.jpg


その後、たかは出家してここ金福寺に入り、明治9年(1876年)に67歳で亡くなるまでの14年間を尼僧としてここで過ごします。


e0158128_14005249.jpg


本堂内には、たかにまつわる品々が展示されています。

上の写真は、「たか女晒し者の図」


e0158128_14041905.jpg


こちらは、たかが59歳のときに刺繍した壇引だそうです。


e0158128_14043029.jpg


たかの筆跡だそうです。


e0158128_14044165.jpg


こちらは、長野主膳の妻・多起に宛てた書状だそうです。


e0158128_14072309.jpg


境内の裏山には、たかの参り墓があります。

彼女の本墓は圓光寺にありますが、ここ金福寺にも、彼女の菩提を弔うための本墓の土を埋め、彼女の筆跡を刻んで参り墓としたそうです。


e0158128_14072659.jpg


たかは、舟橋聖一の小説『花の生涯』ヒロインとして、昭和になってその名を広く知られるようになりました。

『花の生涯』は、NHK大河ドラマの第1作目となった作品でもあります。

自称大河フリークのわたしですが、さすがにこの作品は生まれる前なので知りません。


e0158128_14073142.jpg


金福寺には、芭蕉庵や与謝蕪村の墓などもありますが、幕末シリーズとは関係ないので、また別の機会に紹介します。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-08-25 00:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(5)