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幕末京都逍遥 その73 「常林寺(勝海舟宿坊跡)」

京都御苑の北西角から300mほど東へ進んで鴨川に架かる賀茂大橋を渡ってすぐのところに、常林寺というお寺があります。

ここは幕末、勝海舟宿坊だったと伝わるお寺です。


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常林寺山門前に立つ駒札の説明書きによると、創建は天正元年(1573年)、念仏専修僧魯道上人によって開創された寺院だそうです。

往時は知恩院末の有力寺院として活躍したそうですが、寛文11年(1671年)の大火で焼失し、現在の地に移ってきたそうです。


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時代は進んで幕末、常林寺は勝海舟の京都における宿坊だったと伝わり、子母澤寛の歴史小説『勝海舟』でも取り上げられています。

長崎に神戸に安芸と飛び回っていた勝でしたから、京都に宿坊があって当然だったでしょう。


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説明書きによると、勝を訪ねてきた坂本龍馬中岡慎太郎が本堂に宿泊したと紹介されていますが、これはどうでしょうね。

龍馬はともかく、中岡と勝の接点があったとは思えません。

ふたりで勝を訪ねてくるなんてことは、ちょっと考えにくいですね。

なんでも龍馬に結びつけて観光誘致に利用するのは感心できません。


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勝の京都でのエピソードとしては、龍馬が勝の進めていた海軍操練所設立のために奔走していたとき、勝の側にいられない自分に代わって土佐勤王党のメンバーで人斬りの異名で恐れられていた岡田以蔵を勝の京都での護衛役にし、勝が路上で3人の浪士に襲われた際、以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てたという有名な話があります。

そのあと勝は以蔵に対して、「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭しますが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返したといいます。

勝は「これには俺も一言もなかったよ」と、後年に述懐しています。

あるいは、以蔵こそ、ここに泊まっていたかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-12 23:54 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その66 「梨木神社」

京都御苑東の清和院門を出てすぐの場所にある梨木神社を訪れました。

ここは、幕末維新に活躍した公家・三条実万、三条実美を祭神として明治18年(1885年)に創建された神社で、入口の鳥居の横には、「別格官幣社」と刻まれた石碑があります。


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「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。

つまり、政治的な背景を持つ神社ということです。


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大鳥居の向こうには、どう見ても近代的なマンションのような建物が見えます。

これが社殿????・・・のはずはなく、よく見ると、参道の石畳が左に直角に折れています。

どうやら、参道にマンションが建っちゃって、迂回参道になっちゃったようですね。


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マンションの外周を辿って参道を進みます。


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また鳥居がありました。

こちらの扁額は新しそうです。

ここからは、まっすぐ社殿まで参道が伸びています。


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梨木神社が建つこの場所は、かつて三条家の屋敷があった場所だそうで、ここの地名が「梨木町」だったことから、梨木神社と名付けられたそうです。

創建当初は、久邇宮朝彦親王の令旨によって父の実万だけが祀られていたそうですが、その後、大正4年(1915年)、大正天皇(第123代天皇)即位を記念して、息子の実美を合祀したそうです。

まあ、創建された明治18年(1885年)は、実美はまだ生きていましたからね。


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正門です。


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拝殿です。


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本殿です。


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境内の井戸の水は「染井の水」と呼ばれ、京都三名水のひとつとされています。

京都三名水(醒ヶ井・県井・染井)のうち、現存するのはここだけだそうです。

この日も、多くの人がペットボトルに水を入れて持ち帰っていました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-01 23:20 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その39 「久坂玄瑞・吉田稔麿等寓居跡碑(法雲寺)」

「その33」で紹介した長州藩邸跡ホテルオークラから200mほど北上したところに法雲寺というお寺があるのですが、その入口に、「久坂玄瑞 吉田稔麿等 寓居跡碑」と刻まれた石碑があります。


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長州藩邸がこの近くにあったことから、当時、このあたりには多くの長州藩士が居住しており、法雲寺もそのひとつとして使用されていました。


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文久2年(1862年)7月、久坂玄瑞は同志らと共に公武合体論者の長井雅楽殺害しようと計画しますが、失敗したため家老の浦靭負自首し、同年8月4日、謹慎処分となります。

その謹慎の場所が、ここ法雲寺だったと伝わります。

ともに謹慎となったのは、寺島忠三郎、野村和作(のち靖)、堀真五郎、福原乙之進でした。


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説明板によると、久坂らの謹慎中には、浦の家臣である秋良敦之助やその子息・秋良雄太郎赤祢幹之允(武人)、世良修蔵も慰問したほか、松島剛蔵(小田村伊之助の実兄)らも訪れています。


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また、同年7月17日には、万延元年(1860年)から亡命生活を送っていた吉田栄太郎(のちの稔磨)が、伏見街道で世子毛利定広(元徳)に自首し、ここで謹慎生活を送っています。

そのことは、久坂が萩に住む妻・杉文吉田松陰の妹)に宛てた手紙に書かれています。


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本堂です。

ここ法雲寺の伽藍は禁門の変戦火を免れたそうで、現存の本堂・書院・台所は、当時のものだそうです。

なので、ここに久坂らが居住していたということですね。


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吉田稔麿は同年閏8月13日に謹慎が解かれ、久坂らも同年9月12日に同じく謹慎が解かれ、ここを去りました。

中老の暗殺未遂でも、わずか1ヵ月余りの謹慎で済んじゃうんですね。

この緩さが、幕末の長州藩の若者を過激にしたのかもしれません。



冒頭に紹介した入口の石碑の側面には、「此南 池田屋事件 望月亀弥太終焉伝承地」と刻まれています。

次稿では、その場所を紹介します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-22 00:49 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その26 「土佐稲荷岬神社(岬神社)」

土佐藩邸跡の石碑から路地を西へ50mほど歩いたところに、岬神社という小さな神社があるのですが、ここはかつて土佐藩邸内にあった神社で、別名「土佐稲荷」と呼ばれています。


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社伝によると、創建は室町時代初期、鴨川の中州の岬に祠を建てたのが由来とされています。

その後、祠は鴨川の西岸など数度遷され、江戸時代初期、この付近に建てられた土佐藩の京屋敷内に遷されることとなったそうで、一般に「お稲荷さん」の愛称で親しまれる「倉稲魂命」を祀るため、「土佐稲荷」と呼ばれるようになったそうです。


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以降、土佐藩士のみならず、先斗町・木屋町など周辺の町衆からも「産土神(うぶすなのかみ)(地域土着の神)」として熱心な信仰を集め、わざわざ土佐藩邸内に一般人が自由にお参りするための通路を確保したほどだったそうです。

藩士たちの信仰も厚かったそうで、坂本龍馬武市半平太らも詣でたかもしれません。


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境内には、小さな坂本龍馬像が。


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土佐藩というと、どうしても龍馬になっちゃうんですよね。

でも、前稿でも紹介しましたが、龍馬は脱藩が赦されたあとも、土佐藩邸にはあまり寄り付かなかったといいます。

ここ土佐稲荷に詣でたかどうか・・・。

以前、ここに来たときには、龍馬像が何者かによって破壊されていました。

この像は、おそらく最近作り直されたものだと思われます。


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明治維新によって土佐藩邸が売却されると共に神社も移転を余儀なくされ、その後も幾多の変遷を経て、現在地に鎮座。

大正2年(1913年)には近隣の氏子たちによって現在の社殿が建立されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-03 22:44 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その20 「大西郷月照王政復古謀議舊趾碑(清閑寺)」

清水寺から山路を南へ10分ほど歩いたところに、閑静なたたずまいの清閑寺というお寺があるのですが、ここも、西郷隆盛と清水寺塔頭・成就院の住職・月照ゆかりの地と伝わる場所です。


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清水寺奥の院から山路を5分ほど歩くと、「歌の中山清閑寺」と刻まれた石碑があります。

ここからが清閑寺の参道です。

「歌の中山」というのは清閑寺の山号で、清水寺から清閑寺間の山路に由来しています。

古来この路は、花鳥風月に恵まれ、多くの文人歌人が歌を詠んだ路だそうです。


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参道の途中に高倉天皇後清閑寺陵六条天皇清閑寺陵があり、そこを過ぎると、石段の上に清閑寺の山門が見えます。


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山門です。


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清閑寺は、延暦21年(802年)に紹継が天台宗寺院として創建したのが始まりとされ、一条天皇(第66代天皇)の時代(986~1011年)に勅願寺となると、全盛期には清水寺と変わらぬほどの広大な寺域を誇ったそうですが、応仁の乱によって全て焼失、荒廃し、慶長年間に性盛が再興するも、いまは本堂だけが残る小さなお寺となっています。


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その本堂です。


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本堂の北側にある鐘楼前には、「大西郷月照王政復古謀議舊趾」と刻まれた石碑が建てられています。


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かつてこの鐘楼の裏山には「郭公亭」という茶室があり、ここで、西郷隆盛と月照がしばしば密議を交わしたと伝えられています。


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説明板によると、安政の大獄によって追われる身となった月照を都落ちさせるための計画も、ここ郭公亭で行われたと言われているそうです。


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郭公亭は平成3年(1991年)まで残っていたそうですが、荒廃著しく解体され、現在は門だけが残され、その前に「茶室 郭公亭跡」と刻まれた小さな石碑が建てられています。


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在りし日の郭公亭の写真です。


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それにしても、「大西郷月照王政復古謀議舊趾」とは、ちょっと大袈裟ですよね。

月照が生きていた頃は、まだ「王政復古」などといったスローガンは掲げられていませんでした。

尊皇攘夷運動ははじまっていましたが、「討幕」などといった発想にはまだ及んでおらず、ここで西郷と月照が密議を交わしていた内容は、将軍継嗣問題が主だったと思われます。

ふたりは一橋派に与し、親藩や外様雄藩も幕政に参画する挙国一致の新体制を目指してはいましたが、まだ、幕府の権威は盤石と思われていた時代で、「王政復古」などといった言葉が使われだすのは、まだまだ先のことでした。


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石碑の側面には、「陸軍大将男爵土屋光春書」とあります。


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反対側の側面には、「奇術元祖中村天一建之」と刻まれています。

「奇術元祖」って?

気になって調べてみたら、「日本近代奇術の祖」として明治時代に一世を風靡した初代・松旭斎天一という人物と同一人物かも?・・・との曖昧な情報しか見つかりません。。

初代・松旭斎天一って、明治のMr.マリックのような人?・・・と思いながら調べていると、どうやらもっと大掛かりな奇術だったようで、あの初代・引田天功は、この人の孫弟子にあたるそうです。

「手妻」「放下」「手品」等の総称として「奇術」という用語を定着させたのも、この初代・松旭斎天一なんだとか。

へえ~!・・・ですね。

でも、なぜそんな奇術師がこの石碑を?・・・という疑問の答えには至りませんでした。


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あと、清閑寺は『平家物語』の悲恋話で知られる高倉天皇(第80代天皇)と小督局のゆかり寺でもあるのですが、幕末シリーズとは無関係なので、また別の機会に。


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清閑寺は、境内にある「要石」から見える扇状の京都の街の風景で有名なんですが、それを知らなかったので、こんな写真しかありません。

事前に知ってたら、要石を中心に撮影したのになぁ。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-24 02:15 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その17 「西郷隆盛・月照・信海 歌碑(清水寺・成就院)」

東山といえば、やはり世界遺産清水寺が最も有名ですが、幕末期、その清水寺塔頭・成就院の住職は、尊皇攘夷の志を持つ月照でした。

月照といえば、西郷隆盛とともに薩摩の錦江湾にて入水自殺を図った僧として、よく知られています。


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成就院は通常非公開ですが、毎年、春と秋には特別公開されます。

その庭園「月の庭」は名勝として知られ、特別公開されていた紅葉のシーズンに訪れたのですが、残念ながら撮影禁止となっており、写真は外観のみです。


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成就院の正面の池も、紅葉でいっぱいでした。


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池の前の坂道を上ると、清水寺本堂に通じます。

坂を上ったところにある北総門の前には、西郷隆盛と月照、そして月照の弟の信海歌碑があります。


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左から、信海、月照、西郷隆盛の歌碑です。


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まずは月照の歌碑。

大君の ためにはなにか お(惜)しからむ 薩摩の迫門(瀬戸)に 身は沈むとも


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月照は尊王攘夷思想に傾倒し、将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされ、安政の大獄では追われる身となります。

月照と深く親交していた西郷隆盛は、月照を匿うべく薩摩に逃れますが、藩当局がその身柄受け入れを拒んだため、安政5年11月16日(1858年12月20日)、絶望した西郷と月照は抱き合ったまま錦江湾に入水します。

その後、西郷は奇跡的に助け出され、命を落としたのは月照だけでした。

享年46。

石碑の歌は、その内容からみて、辞世の句だと思われます。


こちらは月照の弟・信海の歌碑です。

西の海 あずま(東)のそら(空)とか (変)はれども こころ(心)はおなじ 君が代のため


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時を同じくして、兄の後を継いで成就院の住職をつとめていた信海も、攘夷祈祷をおこなったとして捕縛され、江戸で獄死しました。

享年41。


西郷隆盛の歌碑は漢詩です。

たしかに、西郷に和歌というイメージはないですね。


相約投淵無後先

豈圖波上再生緣

囘頭十有餘年夢

空隔幽明哭墓前


読み下しは、

相約して淵に投ず、後先無し。

豈図(あにはか)らんや波上再生の縁。

頭(こうべ)を回らせば十有余年の夢。

空しく幽明(ゆうめい)を隔てて墓前に哭(こく)す。


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月照の十七回忌のときに作られた詩だそうです。

ひとりだけ生き残ってしまった複雑な心境が詠われています。

自殺を図るにあたって、西郷が確実に死ねるを使わずに入水を選んだ理由は、僧侶の身体に刃を向けるのが憚られたからと言われています。

主君・島津斉彬が急死したとき、殉死しようとしていた西郷を思い留まらせたのも、月照だったといいます。

それなのに、自分は月照を助けられなかった。

西郷のその後の人生において、事あるごとに自身の命を投げ出そうとする西郷の死生観は、このときの無念にはじまったとも言われています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-21 00:54 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その14 「霊明神社」

前稿で紹介した「幕末志士葬送の道」を上ったところにある霊明神社を訪れました。

ここは、かつては霊明社といい、幕末の勤皇の志士たちを祀った神社でした。


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あの坂本龍馬中岡慎太郎の棺も、ここへ運ばれてから埋葬祭祀されました。


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一見、普通の民家の玄関に鳥居があるような小さな神社で、とてもそんな歴史がある場所には思えません。


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案内板によると、文化6年(1809年)に地下(六位以下の貴族)の村上都愷が、神道信仰素志貫徹を図るために創建したと伝わります。

当時、徳川幕府の宗教政策によって原則すべての国民が仏教徒とされていましたが、そんな中で、ここでは神道による葬式(神葬祭)を始めたそうです。

幕末に入り、神葬祭を進める長州毛利家などと縁ができ、長州藩をはじめ殉難志士を霊山に埋葬祭祀することになっていったそうです。

幕末の勤皇の志士たちは、天皇家と同じく神道を信じる傾向にあったんですね。

そして文久2年(1862年)からは、安政の大獄以降の殉難志士の「報国忠死の霊魂祭」

が営まれるようになります。


「死して護国の神となる」

「霊山の村上にて皇国の手振りにて葬らることを如何に楽しとせし事ぞ」


と、当時の志士たちは死後、ここ霊明神社に葬られ、神霊として祀られることを無上の名誉と思うようになったそうです。

これが、招魂社ならびに靖国神社創建の起源をなすものとなった・・・と。


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維新後は、明治新政府の方針で、霊明社・村上氏の所有地の大半が没収(上知)され、創建まもない東山招魂社に譲られてしまいました(霊明神社文書)。

現在、龍馬らの墳墓がその後身である霊山護国神社の所有・管理とされているのはそのためだそうで、かつては、ここ霊明社の墓地だったんですね。

この日、霊山護国神社や龍馬たちの墓のお参り客はたくさんいましたが、ここを参拝していたのは、わたしが見る限りわたししかいませんでした。

東山霊山に来たら、龍馬らの墓参(霊山護国神社の参拝)とあわせてここも参拝するべきでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-15 00:55 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その202 「等持院」 京都市北区

シリーズ200を超えましたが、関西を中心とした『太平記』ゆかりの地は、ほぼ網羅できたんじゃないかと思っています。

というわけで、このあたりで、ひとまず一区切りにしようかな・・・と。

そこで、その節目を飾るのは、足利将軍家の菩提寺「等持院」です。


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ここ等持院は「その158」で紹介した臨済宗天龍寺派の古刹で、室町幕府を開いた足利尊氏が、興国2年/暦応4年(1341年)に「その157」で紹介した洛中の等持寺を建立し、その2年後の興国4年/康永2年(1343年)、この地に別院北等持寺を建立したことに始まるといわれます。


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開山当初は「北等持寺」と呼ばれましたが、尊氏の死後はその墓所とされ、尊氏の法名をとって「等持院」に寺号を改めたと伝わります。


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ここ等持院は紅葉の名所としても知られていますが、わたしが訪れたこの日は11月26日。

だいぶん枯れかけてはいましたが、辛うじて残っていました。


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庫裏と呼ばれる入口を潜ると、すぐに方丈(本堂)があります。


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屋根瓦には足利家の家紋(足利二つ引)が見えます。


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方丈に入るとすぐに、達磨図の衝立が目に入ります。

これ、似たような衝立が天龍寺にもありましたよね。

こちらの絵は、天龍寺の元管長で等持院の住職でもあった関牧翁の作だそうです。


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こちらは方丈から望む南側の庭園。


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方丈の回廊を奥に進むと、はなれのような建物があります。


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それがこれ、霊光殿という建物です。

実は、ここに来たいちばんの目的はここ。

この中に、尊氏が日頃念持仏として信仰していた利運地蔵菩薩(伝弘法大師作)を中心として、足利歴代の将軍木像(第5代義量と第14代義栄を除く)が、徳川家康の像と共に安置されています。

残念ながら木像の撮影は禁止だったので、建物外から中を望遠レンズでブームイン

これくらいは勘弁してください。


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左右に木像のシルエットが見えるのがわかるでしょうか?

これらの像がいつの時代に作られたものかは、説明書きなどがなかったためわかりませんでしたが、家康の像は、42歳の厄除けのために自ら作らせたものだそうです。

時代は下って幕末、文久3年(1863年)2月22日、倒幕派の志士たちによって足利尊氏・足利義詮・足利義満三代の木像の首が鴨川の河原にさらされる事件が発生しますが(足利三代木像梟首事件)、そのときの木像が、ここに安置されている木像です。

3体の首のあたりをじっくり観察しましたが、斬首された痕跡はわかりませんでした。

どうやって繋いだんでしょう?


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方丈北側に目をやると、夢窓疎石の作と伝わる見事な庭園が広がります。


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しばし庭園を散策。


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水面に映る紅葉。

ちょっと枯れかけですが。


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紅葉、紅葉、紅葉。


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庭園の一角に、「足利家十五代供養塔」と伝わる全高5m十三重塔があります。

等持院では、代々、大切に供養されてきました。


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で、庭園の片隅に樹樹に隠れるようにひっそりとある宝篋印塔

これが、尊氏の墓だそうです。


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高さ約1.5m

室町幕府の開祖の墓としては、なんと小じんまりした墓でしょう。

これまでこのシリーズで見てきた楠木正成新田義貞などの墓と比べても、ずいぶんと小さく質素なたたずまい。

どう見ても征夷大将軍の墓とは思えません。


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尊氏が死んだのは正平13年/延文3年(1358年)4月30日、自身の落胤で弟・足利直義の養子となっていた足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、洛中の等持寺で死去したと伝わります。

享年54


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『太平記』巻33「将軍御逝去事」では、尊氏の死を次のように伝えます。


病日に随て重くなり、時を添て憑少く見へ給ひしかば、御所中の男女機を呑み、近習の従者涙を押へて、日夜寝食を忘たり。懸りし程に、身体次第に衰へて、同二十九日寅刻、春秋五十四歳にて遂に逝去し給けり。さらぬ別の悲さはさる事ながら、国家の柱石摧けぬれば、天下今も如何とて、歎き悲む事無限。さて可有非ずとて、中一日有て、衣笠山の麓等持院に葬し奉る。

(病は日を追って重くなり、時とともに容態も思わしくないように見えてきたので、将軍の屋敷に仕える男女らは固唾を飲んで見守り、側近く仕える従者らは涙をこらえ、日夜寝食も忘れていました。やがて身体は次第次第に衰え、四月二十九日の寅刻(午前四時頃)、享年五十四歳にして、ついに逝去しました。それでなくても別れは悲しいものなのに、国家の柱石が砕けてしまったので、天下は今後一体どうなるのかと嘆き悲しむ限りです。しかし、いつまでも悲しんでいるわけにもいかず、中一日おいて、衣笠山の麓にある等持院に葬りました。)


ここ等持院に葬ったと伝えていますね。

さらに『太平記』はこう続けます。


哀なる哉、武将に備て二十五年、向ふ処は必順ふといへ共、無常の敵の来るをば防ぐに其兵なし。悲哉、天下を治て六十余州、命に随ふ者多しといへ共、有為の境を辞するには伴て行く人もなし。身は忽に化して暮天数片の煙と立上り、骨は空く留て卵塔一掬の塵と成にけり。

(生まれながらの武将として二十五年、向かう先は全て彼に従ってきたといえども、死を迎えるにあたってそれを防ぐ兵士はいません。悲しいかな、天下を治めて六十余州、彼の命令に従う者は多いといえども、この世を去るにあたって伴ってくれる人もいません。身は忽ちにして暮れ行く空を立ちのぼる僅かな煙となり、はかなく残った骨は僅かばかりが墓石の塵となりました。


『太平記』は南朝よりに書かれた物語ですが、尊氏の死に際しては、ひとつの時代の終わりを伝えています。


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さて、冒頭でも述べたとおり、この稿をもって『太平記を歩く』シリーズはひとまず終わりにします。

関西を中心に山陰、北陸をめぐってきた202回でしたが、日本全土に目を向けると、『太平記』ゆかりの地は、関東、東北、東海、四国、九州などにまだまだ数多くあります。

いつの日か、また続きを再開できればと思っていますが、なにぶん遠方ばかりになるため、資金と時間が許せばですが・・・。

そのときは、また、おつきあいください。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-17 09:02 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その199 「常照皇寺(山国御陵)」 京都市右京区

京都北郊の山中にある、常照皇寺を訪れました。

ここは、出家した光厳天皇(北朝初代天皇)が晩年に開山して隠棲した寺院で、光厳天皇陵(山国御陵)があります。


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参道入口です。

ここは紅葉の名所として知られていますが、人里離れた山奥ということもあり、それほど人は多くない穴場スポットです。

わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)11月11日。

もちろん、紅葉狙いです。


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真っ赤です。


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山門です。

長い石段は、まだ楓のレッドカーペットはできていません。

あと1週間ほど経ってからのほうがよかったかも。


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石段を上りきったところにある勅額門です。


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勅額門をくぐると、目の前に紅葉が広がります。

太陽が照っていればもっと鮮やかに見えたでしょうが、少し残念。


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正面に見えるのは勅使門

現在は閉ざされていて使われていません。


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光厳天皇は、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の失脚により、鎌倉幕府によって擁立されますが、その後、配流先の隠岐島を脱出した後醍醐天皇が討幕の兵を挙げると、討幕方に与した足利尊氏の軍勢によって京都の六波羅探題が攻め滅ぼされ、光厳天皇は後伏見上皇(第93代天皇)・花園上皇(第95代天皇)らとともに北条仲時に連れられ、東国に逃れるべく京を落ちます。

しかし、ほどなく近江番場宿で捕らえられ、在位僅か1年8ヶ月で廃位されます。


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その後、復権した後醍醐天皇によって、「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」として、光厳天皇の即位そのものを否定されます。

ところが、後醍醐天皇の建武の新政はわずか2年で崩壊

再び後醍醐天皇が京を追われて吉野朝を起こすと、光厳上皇は足利幕府の庇護の下、北朝院政を行いました。


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しかし、その後、南朝軍が一時京を奪還したことにより、弟の光明天皇(北朝第2代天皇)、子の崇光天皇(北朝第3代天皇)と共に捕えられ、南朝の本拠地だった大和賀名生幽囚されました。

その幽囚先で光厳天皇は失意のうちに出家し、諸国を行脚したのち、この山奥の寺を隠棲の場と定め、正平19年(1364年)7月7日、この地で崩御しました。


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中庭入口の紅葉もきれい。


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中庭の中央には、天然記念物に指定されている枝垂れ桜「九重櫻」があります。

光厳天皇の弟、光明天皇が手植えした桜と伝わるそうですが、だとすれば、樹齢650年に及びます。

これは、桜の季節にもう一度来る価値がありそう。


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庫裏入口です。


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方丈内です。


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玉座?

・・・じゃないでしょうね。


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方丈の縁側から見る庭園です。

みごとな紅葉です。


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しばし堪能。


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方丈の奥に続く怡雲庵(開山堂)に向かいます。


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怡雲庵(開山堂)のなかです。

明るく開放的な印象の方丈とは対照的に、薄暗く厳粛な雰囲気が漂う異空間といった感じです。


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外陣両脇のギャラリーには十六羅漢像が並んで見下ろしています。

その下には、昭和天皇をはじめとする歴代天皇の位牌が整然と安置されています。


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圧巻ですね。


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内陣です。

奥に、何やら僧侶のような人影が。


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どうやら、光厳天皇の木像のようです。

一瞬、即身仏かと思ってしまいました。

傍らにいるのは、側近の順覚の像だそうです。

順覚は、光厳天皇が諸国行脚の旅に出たとき、ただひとりお供した僧です。


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波乱に満ちた生涯を送られた光厳天皇ですが、木造のお顔はたいへん穏やかに見えます。


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それにしても、国の重要文化財でありながら撮影禁止じゃないのがありがたい。


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建物を出て、光厳天皇の御陵に向かいます。


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ここが、光厳天皇が眠る山国御陵です。

後花園天皇(第102代天皇)もここに眠ります。


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多くの歴代天皇が洛中にほど近い場所に眠るなか、人里離れた山奥を終焉の地に選んだ光厳天皇。

おそらく、俗世とは距離を置きたかったのでしょうね。

同じく山奥に眠りながら、最後まで京に帰ることを望んだ後醍醐天皇とは、対照的です。


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ただ、この山国御陵は、宮内庁のHPで紹介されている歴代天皇陵には記載されていません。

というのも、現在の天皇家の歴史は、南朝が正統とされているからです。

明治44年(1911年)に起きた南朝、北朝どちらが正統かという議論「南北朝正閏問題」で、「南朝正統論」を広めることこそ日本国民の道徳教育であると一部の歴史家が唱えたことにより、大逆事件などの政治問題と絡んで国会で追及された桂太郎内閣が、明治天皇(第122代天皇)の裁可を得て南朝を正統と決定しました。

これにより、北朝5代天皇は歴代天皇からは除外されてしまいます。

その後、「南朝正統論」は国策として進められ、教科書では「南北朝時代」「吉野朝時代」と改められ、政府を挙げて南朝の正統性を国民に浸透させようとしました。


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ちなみに、現在の皇室は北朝の血筋です。

もはや南朝正統論が政治的意味を持たなくなった今日、北朝5代天皇を歴代天皇に復帰させてもいいように思うんですけどね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-11 00:49 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その197 「栄山寺行宮跡」 奈良県五條市

奈良県五條市にある栄山寺を訪れました。

ここも、かつて南朝の行在所が置かれていたと伝えられおり、「栄山寺行宮跡」として国の史跡に指定されていいます。


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現在、本堂前には、「史跡榮山寺行宮阯」と刻まれた石碑があります。

昭和13年(1938年)に建てられた碑のようです。

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栄山寺は、藤原南家の創始者・藤原武智麻呂が養老3年(719年)、父母を弔うために創建したと伝わる古刹です。

その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として、鎌倉時代になるまで大いに栄えたそうです。


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写真は天文22年(1553年)の再建と伝わる本堂です。


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本堂には重要文化財の木造薬師如来坐像が安置されています。


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本堂前には弘安7年(1284年)との銘が打たれた石灯籠が据えられています。

こちらも重要文化財。


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こちらは大日如来像を安置する塔ノ堂(大日堂)


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塔ノ堂の前には、奈良時代のものと伝わる石造七重塔(石塔婆)があります。

こちらも重要文化財。


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こちらは、国宝の梵鐘を吊るす鐘楼です。

なかの梵鐘が国宝なのに、鐘楼が鉄筋コンクリート造なのが残念。


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こちらがその国宝の梵鐘です。

銘文から延喜17年(917年)の製作とわかるそうで、京都の神護寺、宇治の平等院の鐘と共に「平安三絶の鐘」として知られています。

四面に菅原道真撰で、小野道風の書と伝えられる陽鋳の銘文が施されています。

高さ157.4cm、口径89cm。


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そして、榮山寺境内の最も東側にある八角堂

国宝です。

天平宝字年間(757~765年まで)の建立と推定され、この時代の円堂としては、法隆寺の夢殿に並ぶものだそうです。


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八角堂は、藤原武智麻呂の菩提を弔うために、その子・藤原仲麻呂が建立したと伝えられるそうです。

平城京および斑鳩以外の地区にある奈良時代建築としては稀有のものであり、建立年次がほぼ特定できる点でも貴重な建築物だそうです。

榮山寺の堂宇は戦国時代にほとんど焼失してしまいましたが、この八角堂だけは焼け残ったのだとか。


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で、本題の南朝の行在所についてですが、吉野行宮賀名生行宮男山八幡行宮金剛寺行宮観心寺行宮住吉行宮については、それぞれ、いつの年代に行在所となっていたかが克明に記録として残されているのですが、ここ栄山寺行宮については、いろいろ調べてみたのですが、「南北朝時代に南朝の行在所がおかれていた」と記されているだけで、時代背景がわかりませんでした。

実は、わたしも栄山寺行宮のことを最近まで知らず、当ブログで『太平記を歩く』シリーズを読んでくれた方が、ここの存在を教えてくれて、さっそく足を運んだ次第です。

Wikipediaによると、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)と後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)の皇居には栄山寺行宮が載っていますが、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)のページには記載されていませんでした。

あるいは、長慶天皇以降の行在所だったのかもしれません。


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ここを訪れたのは、年末の12月23日でしたが、気候は暖かく、のどかな雰囲気を堪能して帰りました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-09 01:36 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)