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幕末京都逍遥 その114 「泉涌寺・孝明天皇陵(後月輪東山陵)」

東山にある泉涌寺を訪れました。

泉涌寺は、歴代天皇家の菩提所で、鎌倉時代の四条天皇(第87代天皇)以来14代の天皇陵をはじめ、皇妃、親王陵墓など39の陵墓があります。


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大門は慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したもので、重要文化財です。


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こちらは、江戸幕府4代将軍徳川家綱によって再建されたという仏殿

重要文化財です。


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こちらは御座所

建物内には、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用する玉座の間があります。

今上天皇も在位中に3度、ここを訪れて玉座の間を使用されたそうです。


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ここを訪れたのは平成29年(2017年)11月20日で、御座所の庭園は見事に紅葉が色づいていました。

せっかくなので、アップします。


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そして、こちらが境内の奥にある月輪陵

四条天皇(第87代天皇)をはじめ後水尾天皇(第108代天皇)から仁孝天皇(第120代天皇)までの25陵、5灰塚、9墓が営まれています。


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こちらがその一覧です。


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門の横の道を進むと、月輪陵内が見渡せます。

九重塔が各天皇の陵だそうです。

圧巻です。


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月輪陵のさらに背後に、後月輪東山陵と呼ばれる孝明天皇(第121代天皇)陵があります。

幕末シリーズなので、ここからが本題です。


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天保2年(1831年)生まれの孝明天皇は、弘化3年2月13日(1846年3月10日)から慶応2年12月25日(1867年1月30日)まで、約21年弱の間、在位していました。

まさに、「幕末」と言われる時代は、孝明天皇の時代だったといえるでしょう。

この孝明天皇が大の外国人嫌いだったことで、それまであった「攘夷論」「尊王思想」という本来別々だったものが結びつき、「尊王攘夷」というスローガンが生まれました。

これが、やがて討幕の導火線となっていくのですが、当の孝明天皇自身は、攘夷論であっても佐幕派であり、公武合体論でした。

このあたりに、幕末のややこしさが生じるんですね。


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孝明天皇の死については、暗殺説がかなり流布していたようです。

従来の定説となっている病状を見ると、亡くなる半月ほど前の12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、その翌日からひどく発熱します。

12日、13日と熱は下がらず、14日に診察した医師によると、「痘瘡(天然痘)か陰症疫の疑いあり」と診断されます。

睡眠も食事も満足にとれず、うわ言を発し、16日になると全身に発疹があらわれ、17日正式に痘瘡と公表されました。

そこで七社七寺への祈祷が命じられ、将軍以下、京都守護職松平容保らも見舞いに参内したようです。

翌18日以降、少しずつ病状は回復に向かっていたのですが、24日夜から病状が急変し、翌25日の公卿・中山忠能の日記に「何共恐れ入り候御様子」と書かれるほどの病状となります。

嘔気をもよおし、は多く、しだいに体力を失い、脈も弱まり、25日亥の刻(午後11時ごろ)に、ついに崩御となりました。


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このような病状の急変が、さまざまな風説を生む原因となったようです。

なかでも多くささやかれたのが毒殺説

専門家によると、何かに中毒したことによる急死の症状に酷似しているらしく、毒を盛られた可能性は否定出来ないとのことです。

もっとも、当然のことながらそれを立証できる証拠はなにもなく、全ては憶測に過ぎません。


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ただ、当時このような風説が流布される客観的な条件はじゅうぶんそろっていました。

この当時、政局は混沌としており、公武のトップである天皇と将軍の死は(この5ヶ月前には、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂も急逝していた)、佐幕派、倒幕派ともに大きな政治的意味があったことはいうまでもありません。

当時、日本に駐在していたイギリスの外交官・アーネスト・サトウが後年に書いた日記でこう述べています。


「当時の噂では、帝の崩御は天然痘によるものだと聞いていたが、しかし数年後、その間の消息によく通じているある日本人が、わたしに確言したところによれば、帝は毒殺されたのだという。この帝は所信をもって、外国人に対していかなる譲歩にも断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなることを予見した人々によって、殺されたというのだ。この保守的な帝がいたのでは、戦争を引き起こすような事態以外のなにものも期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺に求めるのは、東洋諸国ではごくありふれたことであり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋のために毒殺されたという噂が流布した。しかし当時は、帝についてそのような噂は聞かなかった。帝が、ようやく15、6歳になったばかりの少年(睦仁親王)を継承者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役だったであろうことは否定できない」


これによると、倒幕派が攘夷論者である孝明天皇を毒殺したということになりますね。

攘夷論では朝廷が外国と関係を持つようになっては大障害になるという観点からの毒殺説ですが、イマイチ理由としては弱い気がします。

それよりも、佐幕派の天皇では、倒幕を遂行するにはどうにも邪魔である、というほうがまだ説得力がある気がします。

事実、岩倉具視がこれを画策したという風説があります。

岩倉具視の義妹である堀河紀子が宮中女官として入っており、その紀子を操って痘瘡の薬のなかに毒物を混入させた・・・と。

もちろん風説であって、岩倉にしてみれば迷惑千万なはなしかもしれませんが、岩倉の場合それ以前の和宮降嫁問題のときにも、天皇毒殺をはかったという評判がたったことがあった人物で、疑惑の目で見られたのも無理はなかったかもしれません。


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薩摩藩士・大久保利通は、「玉(天皇)をわが方に抱えることが、千載の一事で、もし幕府に奪われては藩の滅亡」としていました。

天皇を味方につけた方が勝つということですね。

しかし、ときの天皇である孝明天皇は、はっきりとした政治的発言をおこない、しかもそれは佐幕説でした。

倒幕派にとっては、孝明天皇は邪魔な存在で、その死が倒幕派にとって有利なことであったのは明らかでした。

だからこそ毒殺説が生まれたのでしょう。

実際に毒殺が行なわれたのか、あるいは本当に痘瘡による病死だったのか、今となっては真相は闇の中ですが、いずれにせよ、孝明天皇の死が倒幕派を大きく勢いづかせたことは間違いありません。

古代・中世はさておき、孝明天皇は日本の近世以降の天皇のなかで、珍しく政治的行動・発言をおこなった、ただひとりの天皇といえるかもしれません。

そのため、36歳の若さでこの世を去ることとなってしまった・・・かどうかは定かではありませんが・・・。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-15 23:41 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その113 「戒光寺(御陵衛士菩提寺)」

東山にある泉涌寺の塔頭・戒光寺に、慶応3年11月18日(1867年12月13日)に起きた油小路通事件で落命した伊東甲子太郎御陵衛士4人の墓があります。


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ここに葬られているのは、新選組・近藤勇らの謀略によって殺された伊東甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の4人。

彼らの遺体は、事件後3日間現場に放置されていたといいます。

これは、生き残った御陵衛士の他のメンバーを誘き寄せるための新選組の策でしたが、結局、残党は現れず、その後、4人の遺体は新選組の手によって「その104」で紹介した光縁寺に葬られたそうです。

その後、明治に入って、御陵衛士の残党が光縁寺から戒光寺に改葬したそうです。


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戒光寺の本寺である泉涌寺は歴代天皇家の菩提所で、慶応2年12月25日(1867年1月30日)に崩御した孝明天皇(第121代天皇)の御陵(後月輪東山陵)もありました。

彼らの結成した「御陵衛士」の名称は、孝明天皇の御陵の護衛者という意味です。

熱烈な勤王志士だった伊東は、戒光寺の長老である堪然の仲介によって、孝明天皇の御陵守護の任を拝命していました。


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現在、4人の墓は一般公開されていません。

以前は普通に墓参できていたみたいですが、現在は墓参するには事前申し込みが必要で、それも、わたしのような観光客には許可いただけないみたいです。

その理由は、過去の聖霊に畏敬の念を持たない不心得者から墓を守るため、だそうです。

残念ですが、何か、そうせざるを得ない出来事があったのでしょうね。

たしかに、墓は観光名所ではないので、やむを得ません。


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御陵衛士を結成してからわずか8ヶ月で落命した伊東甲子太郎ら4人。

さぞかし無念だったに違いありませんが、ここ戒光寺に葬られたことで、死してなお、御陵をお守りし続けているといえます。

ある意味、武士の本懐かもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-14 23:20 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その112 「御陵衛士屯所跡(月真院)」

東山にある高台寺の塔頭、月真院を訪れました。

ここは、新選組から分裂した伊東甲子太郎率いる御陵衛士が屯所とした場所です。


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伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました。

そんな伊東を近藤勇参謀兼文学師範に任じて重用しますが、しかし、もともとは水戸学を学んだ勤王志士だった伊東は、近藤らとは「攘夷」の点では結ばれていても、佐幕色を強めていく新選組の方針に矛盾を感じはじめ、やがて新選組を離脱

同志14名と共に御陵衛士を結成します。


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「御陵衛士」とは、孝明天皇(第121代天皇)の御陵(墓)護衛者という意味。

熱烈な勤王志士だった伊東は、孝明天皇陵(後月輪東山陵)のある泉涌寺塔頭・戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命していたため、この名称を掲げたのでしょう。


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慶応3年3月10日(1867年4月14日)に新選組を離脱した御陵衛士は、はじめは五条橋東詰の長円寺(善立寺説もあり)に屯所を構えていましたが、同年6月、ここ月真院に屯所を移しました。

新選組とは表面的には話し合いでの分裂でしたが、その思想は佐幕勤王倒幕という真逆の立場であったため、新選組の襲来を恐れていつも刀を抱いて寝たといいます。


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高台寺の塔頭を拠点としたため、御陵衛士はのちに「高台寺党」とも呼ばれるようになります。


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それから5ヶ月後の慶応3年11月18日(1867年12月13日)、「その110」で紹介した油小路において、新選組近藤勇らの謀略によって伊東甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の4人が死亡。

残った同士は薩摩藩邸に逃げ、御陵衛士は解散を余儀なくされます。

ここに、わずか8ヵ月の御陵衛士の短い歴史が終わります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-11 01:44 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その108 「西本願寺(新選組屯所跡)」

世界遺産西本願寺にやってきました。

ここは幕末、新選組の第2の屯所となった場所です。


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文久3年(1863年)春に上洛して以来、洛西壬生村の八木邸(参照:その96)や前川邸(参照:その97)を屯所としてきた新選組でしたが、池田屋事件で一躍脚光を浴びると幕府の支援も厚くなり、やがて隊は200人を越える大所帯となり、大人数を収容できる新たな拠点が必要となりました。

そこで、元治2年3月10日(1865年4月5日)に、ここ西本願寺に屯所を移転します。


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新選組が屯所として使用したのは、西本願寺の北東にあった北集会所太鼓楼でした。

北集会所は明治6年(1873年)に姫路市の本徳寺に移設されたため、現在残る新選組ゆかりの場所は、写真の太鼓楼だけです。


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新選組が西本願寺を屯所とした理由は、西本願寺は勤王色が濃いうえに長州藩毛利家とも縁が深く、長州藩士たちが何かにつけ西本願寺を頼りにしていたため、近藤勇はあえてその場所に拠点を移すことで、将来禍根となりうる芽を摘んでしまおうと考えたとたといわれます。

このことが原因で、勤王の志が強かった総長の山南敬助との間に確執が生まれ、やがて山南の脱走、切腹に至ったともいわれます。


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西本願寺に屯所を構えた新選組は、境内で大砲を轟かせ実弾射撃を行うなど、僧侶や信徒にとっては迷惑千万な存在でした。

また、境内で食料としての豚の飼育を行っていたといいます。

当時、僧侶たちにとっては、境内で生き物を殺生するなど、許しがたき野蛮な行為でした。


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新選組が西本願寺を屯所としたのは約2年で、慶応3年(1867年)6月には近くの不動堂村に移転します。

その理由は、西本願寺のたっての願いだったようで、その移転費用も西本願寺が全額負担したそうです。

よほど嫌だったことがわかります。

幕末の京都の治安を守った新選組ですが、西本願寺の僧侶たちにとっては、厄介者でしかなかったようですね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-05 00:26 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その103 「新徳寺(清河八郎演説の地)」

前稿で紹介した壬生寺の東側の坊城通りを挟んですぐ向かいに、新徳寺というお寺があります。

ここは、は新選組にまつわる最初の大舞台となった場所です。


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新選組誕生の発端は、文久2年(1862年)に庄内藩郷士・清河八郎の献策を幕府が受け入れ、第14代将軍・徳川家茂の上洛の警護の名目で浪士を募集したことに始まります。

集まった230名余りの浪士たちは、翌文久3年(1863年)春、「浪士組」として将軍上洛に先がけて西上します。

しかし、これは清川が画策した謀略でした。

藩の後ろ盾を持たない清川は、幕府を出し抜いて、幕府の名で浪士を集め、これを天皇配下の兵力にして討幕勢力を作ろうとしたのです。

すごいことを考えたものです。


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浪士組が京に入ると、清川は230名余りの浪士たちを集め、熱弁をふるいます。

いわく、「われわれの上洛の真の目的は将軍警護にあらず、尊王攘夷の先鋒にある!」と。

清河の熱弁にうたれた200名はこれに賛同、翌日、清河は朝廷に建白書を提出することに成功します。

おそらく、清川には集団を扇動するカリスマ性があったのでしょうね。

その大演説の舞台となったのが、ここ新徳寺でした。


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しかし、少数ながら清川の扇動に異を唱えた者たちがいました。

それが、近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・井上源三郎・永倉新八・原田左之助・藤堂平助ら武蔵国の試衛館組の8人と、芹沢鴨・新見錦・平間重助・平山五郎・野口健司ら水戸藩浪士の5人、計13名でした(17名説、24名説もあり)。

清川ら在京浪士組は在京20日余りで再び江戸に戻ることになりますが、近藤、芹沢ら13名は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。

これが、やがて新選組へと発展していくんですね。

その歴史のターニングポイントとなった場所が、ここ新徳寺でした。


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残念ながら新徳禅寺は一般公開されていませんが、境内はほぼ当時のままだと言われています。

このお堂が、清川の大演説のステージだったのでしょうか?

いろいろ想像が掻き立てられます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-28 08:49 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その99 「妙蓮寺(禁門の変時の刀傷)」

前稿で紹介した浄福寺から1kmほど北上したところにある妙蓮寺にも、幕末の刀傷が残されています。


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妙蓮寺は鎌倉時代の僧・日像によって創建された寺院で、全盛期には1km四方の境内に27ヶ院を有する大寺院でしたが、天明8年(1788年)の天明の大火災によってそのほとんどが焼失し、山門鐘楼を残すのみとなりました。

その後、寛政元年(1789)より復興して今日に至ります。


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鐘楼本堂です。


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本堂です。


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本堂前にある御会式櫻です。

ここを訪れたのは平成30年(2018年)3月17日でしたが、早咲きの桜が花を開いていました。


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そして、本堂奥の庫裏内の柱に、刀傷が残されています。


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こちらがその刀傷


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その伝承によると、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)の際、長州兵がここに逃げ込み、落ち武者の捜索に訪れた薩摩藩兵(一説には新選組)によって柱に刀痕が残されたといいます。


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また、別の説では、妙蓮寺は禁門の変後に薩摩藩の野戦病院となったそうで、その後、慶応2年(1866年)に坂本龍馬の仲介で薩長同盟が締結したことを知った新選組が、怒ってここ妙蓮寺に押しかけ、山門で押し問答となりますが、天皇ゆかりの菊の御門を奉じていたため、その怒りを柱に残したといわれてます。

方丈小玄関に残る刀傷は、近藤勇・土方歳三・沖田総司らがのことしたと言われているそうで・・・。


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前述の説はともかく、後述の説は、眉唾ものでしょうね。

当時、薩長同盟は極秘に行われたもので、新選組ごときが知り得たとは思えませんし、その薩長同盟自体、長州藩ほど薩摩藩は重要視していませんでした。

ましてや、仮に新選組が知り得たとしても、単なる野戦病院だったここに押しかける理由が見当たりません。

そんな疑問を妙蓮寺の事務の方に投げかけたところ、苦笑されていました(笑)。

おそらく、禁門の変時の刀傷という説のほうが正しいのではないでしょうか。

なんでも新選組や坂本龍馬に結びつけて観光客を呼び込むというのは、あまり感心できません。


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写真は庫裏内の庭園です。

「十六羅漢の石庭」と呼ばれます。

また、写真撮影は禁止ですが、奥書院の四間に現代絵画家・幸野楳渓筆の「四季の襖絵」があります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-22 19:40 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その98 「浄福寺(薩摩藩屯所跡)」

西陣にある浄福寺を訪れました。

ここは薩摩藩ゆかりの寺で、薩摩藩の屯所として利用されたと伝わります。


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写真は東門です。

見てのとおり朱塗りの門で、地元では赤門と呼ばれ、寺の名称も赤門寺と呼ばれたりするそうです。


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浄福寺と薩摩藩との縁は、天正20年(1592年)、豊臣秀吉朝鮮出兵に反対して自害に追い込まれた島津歳久が、ここに葬られたことに始まります。

鹿児島の竜ヶ水にて自害した歳久の首級は、肥前名護屋城にいた秀吉のもとに届けられ、首実検ののち、京都に送られて一条戻橋に晒されました。

ところが、ちょうどその時期に、歳久の従兄弟に当たる島津忠長が入京しており、大徳寺玉仲和尚と図って晒されていた歳久の首級を盗み出し、ここ浄福寺に埋葬したといわれます。

それから280年、浄福寺は薩摩藩と深い結び付きを持つようになります。


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時代は進んで幕末の慶応3年(1867年)4月、薩摩藩国父の島津久光西郷隆盛を従え、兵700人を引き連れて入京しますが、その際、二本松の藩邸(参照:その69)ではすべてを収容しきれず、ここ浄福寺の本堂や庫裏を宿舎として利用したと伝わります。


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その本堂です。


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そして、こちらが庫裏


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庫裏の入口の軒屋根を支える柱には、複数の刀傷があります。

これは、ここに駐屯していた薩摩藩兵がつけたものだといわれています。


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たしかに、どう見ても鋭利な刃物でつけたと見られる傷ですね。

それにしても、柱を斬りつけるなど、気性が荒い藩士がいたものです。


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司馬遼太郎の作品のなかで、浄福寺の薩摩藩士のことを書いた『薩摩浄福寺党』という短編があるのですが、そのなかで、司馬氏は次のように書いています。


「薩摩藩では、錦小路(参照:その42)にふるくから藩邸があったのだが、これでは足りないため、現在の同志社大学のあたりに二本松藩邸を造営し、それでもまだ不足があったので、西陣の浄福寺の客殿、本坊などが借りあげられたのである。この浄福寺を寮としているのは二十人ばかりの下級藩士で、年も若く、妙に乱暴者ばかりがあつまった。自然たれがいうともなく、「浄福寺党」という異名で呼ばれた。」


なるほど、ここにいた兵は、皆、乱暴者だったようです。


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上述した島津歳久の首ですが、280年間ここ浄福寺に埋葬されていましたが、明治5年(1872年)、歳久の末裔に当たる日置島津家14代島津久明が首を掘り起こして鹿児島に持ち帰り、また、鹿児島の帖佐の総禅寺に埋葬してあった胴体も同時に掘り起こし、共に竜ヶ水の平松神社(心岳寺)に改葬したそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-20 22:41 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その91 「武信稲荷神社」

前稿で紹介した六角獄舎跡のすぐ北西向かいにある「武信稲荷神社」を訪れました。

「武信」というと武田信玄を連想しますが、一切関係なく、平安時代初期、右大臣・藤原良相が藤原氏の医療施設「延命院」の守護神として創建し、その後、藤原武信によって厚く信仰されたことで、「武信稲荷神社」と称されるようになったそうです。


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創建した藤原良相が藤原氏の長として一族の名付けをされていたことから、名付け・命名にご利益がある神社として信仰を集めています。


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手水舎です。

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舞殿です。


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そして本殿です。


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本殿の南側に、推定樹齢850年といわれる榎の巨木があります。

平安時代末期、平清盛の嫡男・平重盛が、安芸の厳島から苗木を移したものと伝えられます。


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こちらがその榎。

前稿で紹介した六角獄舎での平野國臣ら37名の処刑のとき、この榎の木の上に子供たちが登って、処刑現場を目撃したと伝えられます。


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獄舎は本来、処刑場ではありません。

江戸時代の京の刑場といえば、九条山の西のふもと、東海道の出入口とされる粟田口にありました。

しかし、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)の際における火災によって急遽、斬首された平野らは、処刑場に送られることなくこの地で首を落とされたのです。

この榎は高さ23mあり、当時はこの木に登ればかなり遠くまで見渡せたことでしょう。

木に登っていた子供たちは、市中の延焼状況をうかがっているうちに、偶然に処刑シーンを見てしまったのかもしれませんね。


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また、この榎には、もうひとつ坂本龍馬お龍にまつわる伝承があります。

お龍の父である楢崎将作は、青蓮院宮に仕える侍医で、また、熱心な勤王家だったといわれ、将作が仕えた青蓮院宮尊融法親王(のちの中川宮朝彦親王)「安政の大獄」によって蟄居を命じられると、将作もそれに連座して捕らえられ、六角獄舎に投獄されていたようです。

説明板によると、お龍は父の身を案じて龍馬と共に何度か獄舎を訪れますが、当時女性が牢獄へ面会できることもなく、龍馬自身も追われる身であり面会はかなわなかったため、この木によじ登って獄舎のなかの様子を探ったといわれるそうです。

その後、命を狙われる龍馬はお龍と別れて身を隠すことになりますが、お龍がここ武信稲荷神社を訪れると、龍馬独特の字で『龍』の字が榎に彫られていたそうで、これが、龍馬からお龍に宛てた無事だというメッセージだったと伝えられるそうです。


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ここまで読んでふと思ったのは、お龍の父・楢崎将作が死んだのは文久2年(1862年)だったと言われ、龍馬とお龍が出会ったのは元治元年(1864年)頃だったといわれます。

また、龍馬が命を狙われるほど名を轟かせるのは慶応に入ってからのこと。

う~ん・・・この伝承、時系列的に無理がなくない?


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その矛盾に対して、武信稲荷神社のサイトではこう説明しています。

龍馬とお龍の出合いに関しては諸説あって定説はなく、将作は生前、勤皇の志士を厚く支援していたため楢崎家には志士たちがたえず出入りしており、龍馬もそんな将作と親交ができ、その長女であるお龍と出会ったと。

まあ、ない話ではないかもしれませんが、そうすっと、龍馬が将作と知り合ったのは安政の大獄前ということになりますが、当時の龍馬はまだ土佐にいて、土佐勤王党もまだ結成されておらず、当時の若者らしく尊皇攘夷の志は持っていたかもしれませんが、それほど目立った活動はしていません。

ましてや、京都にもほとんど縁がなかったのではないでしょうか(江戸に剣術修行に行く道中に立ち寄るぐらいのことはあったかもしれませんが)。

・・・とまあ、揚げ足取りのような詮索をするのは無粋かもしれませんね。

歴史はロマンですから。


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榎の折れて落下した枝を使ってチェンソーアートの世界チャンピオン城所ケイジ氏によって作られた龍だそうです。


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龍馬おみくじがありました。


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そして、龍馬ファンとして思わずお土産に買ってしまった龍馬とお龍のお守りです。


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龍馬や平重盛や平野國臣の伝承がどこまで信じられるかはわかりませんが、推定樹齢850年の巨木ですから、数々の歴史を目撃してきた木であることは間違いないでしょう。

そんな歴史の生き証人(証木?)のこの榎そのものがロマンといえるかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-09 23:13 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その83 「金戒光明寺(京都守護職本陣)」

通称「くろ谷さん」の愛称で親しまれる金戒光明寺にやってきました。

ここは幕末、京都守護職会津藩の本陣となった場所です。


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現地の説明板によると、鎌倉時代の承久5年(1175年)に法然上人が、比叡山西塔の黒谷にならって、この地にを結んだのが始まりとされているそうです。

上の写真は参道にある高麗門

「京都守護職本陣」と記された表札が掲げられています。


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その表札です。

「奥刕會津藩松平肥後守様」とは、言うまでもなく幕末の会津藩主・松平容保のことですね。


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下の写真は高麗門から東へ100mほど坂を上ったところにある山門です。

応仁の乱焼失して万延元年(1860年)に再建されたものだそうで、ちょうど容保たちが入ったころは、新築間もないときだったということですね。


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幕末、尊王攘夷派過激志士たちによる天誅押し込みなどの騒乱が京のまちに横行していました。

幕府はそうした状況を見かね、京都守護職という軍事職の新設を決めます。

そこで白羽の矢が立てられたのが、会津藩と容保でした。

もともと京都には、朝廷の監視を任務とする京都所司代が置かれていました。

通常、10万石前後の譜代大名が任命される役職でしたが、「天誅」と称したテロの嵐が吹き荒れる京都の治安は、所司代レベルの力で抑えられる域を超えていました。

そこで幕府は、23万石の会津藩の武力を持って京のまちを鎮撫しようと考えたのです。


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容保に京都守護職就任を求めたのは、政事総裁職松平春嶽と、当時、将軍後見職を務めていた一橋慶喜(のちの徳川慶喜)でした。

要請を受けた容保が頑なに固辞しますが、春嶽が会津藩祖・保科正之「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾せざるを得なくなります。

文久2年(1862年)8月1日のことでした。

これを聞いた会津藩の家臣たちは、「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したといいます。


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上の写真は御影堂(大殿)

昭和19年(1944年)の再建だそうです。


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こちらは阿弥陀堂

慶長10年(1612年)に豊臣秀頼によって再建されたものだそうです。


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そして、境内東の墓地にある三重塔(文殊塔)

寛永10年(1633年)の建立だそうで、重要文化財です。


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会津藩はこの地を本陣として、藩兵1000人が常駐し、1年おきに国元の藩士と交代しました。

その後、京都守護職は、大政奉還後の王政復古の大号令まで6年間つづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-28 00:34 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その80 「平安神宮」

平安神宮にやってきました。

平安神宮は幕末の戦乱で荒廃した京都の街の復興のシンボルとして明治28年(1895年)に創建された神社で、主祭神は桓武天皇(第50代天皇)と孝明天皇(第121代天皇)です。

つまり、平安京最初の天皇最後の天皇を祀った神社です。


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上の写真は参道の大鳥居

高さ24.4mあるそうで、国の登録有形文化財に登録されています。


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平安神宮が創建された明治28年(1895年)は、平安遷都1100年の記念の年にあたり、創建当初は平安遷都を行った桓武天皇のみが祭神とされました。

その後、皇紀2600年にあたる昭和15年(1940年)に、平安京最後の孝明天皇が合祀されたそうです。


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写真は正面玄関にあたる應天門

重要文化財です。

平安京が創建された明治28年(1895年)、京都では平安遷都1100年を記念して内国勧業博覧会が開催されました。

應天門はそのモニュメントとして、桓武天皇が開いた当時の平安京の正庁、朝堂院の應天門を模して建てられました。


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振り返ると、遠くに大鳥居が見えます。


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そして、應天門をくぐると、正面に社殿が見えます。

左から白虎楼・西歩廊・大極殿・東歩廊・蒼龍楼です。

これらの社殿も、内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏を復元したものだそうですが、スケールは8分の5の規模だそうです。

当初は実際に大内裏があった千本丸太町朱雀門が位置するように計画されたそうですが、用地買収に失敗し、当時は郊外だったこの地に、縮小サイズで復元されたそうです。


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こちらが中央の大極殿

重要文化財です。

社殿のなかの正殿で、即位、朝賀をはじめ国の主要な儀式が行われる中枢だそうです。

「大極」とは、宇宙の本体・万物生成の根源を示す言葉で、不動の指針・北極星に比定され、天皇の坐す御殿を意味するそうです。


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こちらは西の白虎楼

重要文化財です。


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こちらは東の蒼龍楼

同じく重要文化財です。


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昭和51年(1976年)1月6日、日本の新左翼による放火で本殿・内拝殿など9棟が焼失してしまいました(外拝殿である大極殿は延焼をまぬがれている)。

その当時、これらの建物は文化財指定を受けていなかったため、再建のための国からの補助金が降りなかったそうですが、全国からの募金により、本殿や内拝殿は3年後に再建されたそうです。


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現在はこの朱塗りの社殿の美しさで京都を代表する観光名所のひとつとなっています。

わたしが訪れたこの日も、外国人だらけでした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-22 22:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)