人気ブログランキング |

タグ:寺社 ( 157 ) タグの人気記事

 

明治政府初の外交問題となった神戸事件。 その1 「三宮神社」

神戸市中央区のド中心部にあたる大丸神戸店前に、三宮神社という小さな神社があります。

幕末、ここで大きな国際事件が起きました。

慶応4年1月11日(1868年2月4日)、ここ三宮神社前で備前岡山藩兵外国人水兵が衝突し、負傷させた事件です。

この事件は明治政府初の外交問題となり、後世に「神戸事件」とよばれます。


e0158128_19510988.jpg


京都では鳥羽伏見の戦いが開戦した慶応4年1月3日(1868年1月27日)、明治新政府は兵庫開港に際して、備前岡山藩に摂津西宮の警備を命じます。

これを受けた備前岡山藩は、家老の池田伊勢、同じく家老の日置帯刀2000の兵を率いて1月5日に出立、兵庫に向かいました。


e0158128_20203371.jpg


1月11日昼過ぎ、藩兵の隊列が西国街道を三宮神社近くに差し掛かったとき、近くの建物から出てきたフランス人水兵2人が、行列の前を横切ろうとしました。

これは当時の武士たちにすれば、武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た第3砲兵隊長の滝善三郎正信が槍を持って制止に入ります。

しかし、言葉が通じず、フランス人水兵が強引に横切ろうとしたため、やむなく手にしていた槍で突きかかり、腰に軽傷を負わせます。

負傷した水兵は逃げ出しますが、別の水兵たちが拳銃を取り出したため、それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲し、銃撃戦となります。


e0158128_20203777.jpg


現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークスは激怒し、折しも兵庫開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達。

アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が備前藩兵を居留地外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなりました。

備前側では、家老の日置が藩兵隊に射撃中止、撤退を命令し、お互いに死者も無く負傷者もほとんどなく終わりました。


e0158128_20243114.jpg


しかし、列強諸国は事件を重く見、6ヵ国の公使連名で政府に発砲を命じた士官の死罪を求めます。

これを受けて政府は2月2日、砲兵隊長・滝善三郎の死罪、隊の責任者である日置帯刀の謹慎を命じました。

本来であれば、日置が責任を取るべき立場であったのかもしれませんが、一説には、藩が日置を失うことを惜しみ、滝に因果を含めたともいわれます。

また藩主の池田茂政が滝に対し、「馬前の討死に勝る忠臣」と称え、「国家のため、藩のため、帯刀のために頼む」と声をかけたともいわれます。

現代の企業でもよくある話ですね。

いわゆる「トカゲの尻尾切り」ってやつです。

ただ、この時代のそれは、命を差し出すことですから、たまったもんじゃありません。


e0158128_20243357.jpg


神社の境内には、事件当時、備前岡山藩兵が率いていた大砲と同じ型のものが展示されています。


e0158128_20243939.jpg


事件から1ヶ月足らずの2月9日、永福寺において列強外交官列席のもと、滝は切腹して果てました。

享年32。

「その2」では、滝の最期を追います。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-12-11 01:31 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その3 <山口護国神社(生野義挙志士殉難之地)>

「その2」のつづきです。

「その1」で紹介した生野代官所跡から6kmほど北上したところに鎮座する山口護国神社は、「生野の変」を起こした尊王攘夷派志士たちが自刃した場所と伝えられます。


e0158128_17253751.jpg


参道の入り口には、「生野義挙史跡」と刻まれた石碑が建てられています。

何度も言いますが、わたしは彼らの行動は「義挙」ではなく「暴挙」だと思っています。


e0158128_17254031.jpg


文久3年10月12日(1863年11月22日)に生野代官所を占拠した彼らは、総帥・澤宣嘉の名で諭告文を発表して農兵を募り、たちまち2000人以上の農兵が集まりました。

しかし、天誅組の変の直後とあって幕府側の動きは早く、報せを受けた豊岡藩、出石藩、姫路藩はただちに兵を動かし、翌13日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動します。


e0158128_17292945.jpg


この諸藩の素早い動きに対して、浪士たちはまた解散か強硬かの両論に分かれましたが、平野國臣河上弥市らの強硬論に押され、いったん解散は立ち消えになります。

ところが、13日夜、肝心の総帥である澤宣嘉が解散派とともに本陣から脱出してしまいます。

元出石藩士の多田弥太郎、入江八千兵衛らから情勢の不利を説かれたからといいますが、生野本陣を去るにあたって、澤は机の上に和歌を一首残していったそうです。


頼みもし 恨みもしつる 宵の間の うつつは今朝の 夢にてありぬる


これを読んだ残党は、「ハァ~?」と声をあげたでしょうね。

尊攘派といっても、所詮、公卿は公卿です。

まあ、武士でも、鳥羽・伏見の戦いの真っ只中に江戸に逃げ帰った将軍もいましたが・・・。


e0158128_17293429.jpg


澤脱出の事実が知れ渡ると、もともと烏合の衆と農兵の集まりだった挙兵ですから、たちまち統制がとれなくなり、翌14日朝には、農兵たちが「騙された」と怒って一党を偽浪士と罵り、逆に攻撃し始めました。

こうなると、もはや万事休す

川上ら13人は妙見山麓のこの地に集まり、8人は切腹、残り5人も附近で討死しました。


e0158128_17293751.jpg


その説明板です。

ここでも「義挙」という言葉が使われています。

説明文に出てくる南八郎という名は、河上弥市の変名です。


e0158128_17364144.jpg
e0158128_17364489.jpg


境内には、この地で落命した13名の慰霊碑が建てられています。


e0158128_17364853.jpg


中央の墓碑に刻まれた「殉節忠士之墓」は、明治の元老・西園寺公望の揮毫だそうです。

慶応4年(1868年)2月、西園寺公望が山陰道鎮撫総督として但馬入りしたときに揮亳し、建立されたものだそうです。


e0158128_17432425.jpg


左隣に建つ墓誌名の碑は、同じく参謀の折田年秀によるものだそうです。

右隣の石碑は、何が書いているのかよくわかりませんでした。


e0158128_17452264.jpg


こちらの石碑は、「正義十七士之神霊」と刻まれています。


e0158128_17472327.jpg


そして、その奥には、「正義十三士自盡之址」と刻まれた石碑と、苔生した巨岩があります。


e0158128_17472839.jpg


この地に集まった河上弥市(南八郎)以下13人は、この山伏岩「今月今日討死」

血書し、8人はこの場にて切腹、残り5人もこの付近で討死したと伝えられます。


e0158128_17490223.jpg


反対側から見た山伏岩です。

「南無阿弥陀佛」の文字が刻まれています。

彼ら13人の首は生野代官所に届けられ、打ち捨てられていた首なしの遺骸は、付近の住民によってこの岩の裏に埋められたそうです。

その後、他の場所で死んだ4人の首を加えた17人の首が、この岩の裏に埋められたそうです。


e0158128_17510078.jpg


こちらは、大正5年(1916年)に建てられた招魂碑です。


e0158128_17531908.jpg


この石碑は、河上弥市(南八郎)の辞世が刻まれた歌碑です。


奉献 議論より実を行へ なまけ武士 国の大事を余所に見る馬鹿 皇国草莽臣 南八郎


e0158128_17545700.jpg
e0158128_17550152.jpg


こちらの石灯籠には、平野國臣の歌が刻まれています。


我たまは 但馬の国の神となり 大君思う人を助けん 


でも、平野はここには祀られていないんですけどね。


e0158128_17575906.jpg


この地で死んだ13人は、全員、長州藩の奇兵隊士でした。

奇兵隊の創設者である高杉晋作は、天誅組と生野の挙兵の失敗を知り、こう言って悼んだといいます。


「予、知己天下に多し、而して能く我心を知る者は、土州の吉村寅太郎、我藩の河上弥市也、弥市節に但馬に死し、寅太郎節に大和に死す。二士之名頗る近時に冠たり、而して寅太郎は張巡に類し、弥市は霽雲に類す。然して、二士之節義は固より巡雲の及ぶ所に非ざる也。」


天誅組の変も生野の変も、義挙ではなく暴挙だったと思いますが、国を思うピュアな精神は、偽りではなかったでしょう。


e0158128_17580259.jpg


長くなっちゃいましたが、もう少し「生野の変」シリーズにお付き合いください。

「その4」に続きます。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-11-23 00:22 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その2 <延應寺>

「その1」で紹介した生野代官所が占拠される前日の文久3年10月11日(1863年11月21日)午後2時ごろ、澤宣嘉を中心とした尊王攘夷派浪士たちは、生野街道を北上して森垣村の延應寺に到着しました。

現在、JR生野駅から南西に歩いて5分ほどのところに延應寺はあります。


e0158128_16524090.jpg


参道を登ります。


e0158128_16524214.jpg


道中、生野の変の説明板がありました。


e0158128_17075624.jpg


境内です。


e0158128_17080259.jpg


彼ら浪士たちがここに陣を布いたのは、浪士のひとり、本多素行延應寺法印とが懇意だったため、生野に到着の際にはここを一時の休息所として利用するという手筈はついてはいたそうですが、浪士たちのいでたちを見て、寺の住持は仰天したといいます。

この時点で大和の天誅組は壊滅しており、ここでもう一度、挙兵中止すべきではないかとの議論が起こりますが、天誅組の復讐をすべしとの河上弥市(南八郎)らの強硬論に押され、挙兵は決行されることになります。


e0158128_16543397.jpg


境内には、樹齢1000年以上といわれる欅の巨樹がそびえます。


e0158128_16585129.jpg


幹周8.6m、樹高30mだそうです。


e0158128_16585406.jpg


大きく傾いた主幹を鉄骨が支えています。


e0158128_16562084.jpg


主幹が地上10mほどのところで切られており、蓋がされています。


e0158128_17002103.jpg


樹齢1000年以上というのが本当ならば、生野の変が起きたときもすでにかなりの巨樹だったでしょう。

血気にはやる浪士たちの暴挙を、この欅は雄大に見下ろしていたはずですね。


e0158128_17022288.jpg
e0158128_17022841.jpg


欅の前には、生野の変の由来が記された石碑が建てられています。

昭和14年(1939年)に建てられたもののようです。


e0158128_17031849.jpg


本堂です。


e0158128_17052424.jpg


境内から見た生野のまちです。

浪士たちもこの景色を見たでしょうか。


e0158128_17052897.jpg


向こうに見える山の頂上には、中世から戦国時代にかけて生野城がありました。


e0158128_17053100.jpg


山頂にズーム。

以前、生野城跡に登ったときの稿がありますので、よければ一読ください。

2015夏休み但馬路紀行 その3 「生野城跡」


e0158128_17091956.jpg


彼らがここに入山してから約1時間後、生野代官所に対して澤宣嘉名義(変名の姉小路五郎丸)の代官所借用の書状を送りつけ、午後8時ごろ、猪野々町の丹後屋次郎左衛門方に移ります。

彼らがここに滞在していたのは、約6時間ほどでした。

「その3」につづきます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-11-21 21:11 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その11 「櫻井寺(天誅組本陣跡)」

文久3年8月17日(1863年9月29日)、天誅組隊士はいっせいに挙兵し、五條代官所を襲って代官の鈴木正信(源内)を殺害すると、ここ櫻井寺を本陣として五條新政府を号し、討幕の旗をあげました。


e0158128_18055115.jpg


現在、櫻井寺の入口には、「天誅組本陣跡」と刻まれた石碑が建てられています。


e0158128_18055538.jpg


明治100年を記念して建てられたもののようです。


e0158128_18172840.jpg


彼ら天誅組が五條で旗揚げしたのは、攘夷を望まれる孝明天皇大和行幸先鋒となり、御親兵として戦うためでした。

ところが、これに震え上がったのは当の孝明天皇。

自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない、討幕の先頭に立つなど滅相もない、と、京都守護職松平容保SOSを求めます。

そうして起こったのが、京の尊皇攘夷派が一掃された「八月十八日の政変」でした。


e0158128_18172586.jpg


彼らがここで旗揚げした翌日に京の政局は一変し、天皇の大和行幸の計画は頓挫します。

これにより天誅組は皇軍御先鋒の大義名分を失い、梯子を外されたかたちとなります。

つまり、天誅組は皇軍として旗揚げした翌日に「暴徒」となったんですね。


e0158128_18075133.jpg
e0158128_18172251.jpg


境内には、代官・鈴木源内を殺害した後に首を洗ったと伝えられる水盤があります。


e0158128_18130308.jpg


さらに、本堂の下に置かれたこんなものを見つけました。


e0158128_18130713.jpg


旧本堂の柱だそうです。


e0158128_18131141.jpg


「天誅組 槍尻之傷跡」と書かれています。

追討軍との戦闘時の傷ということでしょうか?


e0158128_18131496.jpg


確かに、言われてみればそのようにも見えます。


e0158128_18173120.jpg


天誅組がここで立ち上げた五條新政府は、わずか3日間の命でしたが、このとき五條新政府は、この年の年貢を半減することを宣言したそうです。

高速道路無料化とか高校無償化など、財源を無視して民衆に耳あたりの良い公約を掲げて一時的に政権を担ったどこかの党と似ていますね。

結局は絵に描いた餅、政府と名乗るには稚拙な集団だったということでしょう。

そうか!平成の世間交代は、天誅組の変だったのか!!!

どうりで短命に終わったはずです。



「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
   ↓↓↓

天誅組の足跡を訪ねて。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-10-11 07:29 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(2)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その7 「岡八幡宮」

文久3年8月17日(1863年9月29日)、国境の千早峠を越えて大和国に入った天誅組一行は、昼過ぎ、五條北方にある岡八幡宮で休息しました。


e0158128_15420999.jpg


このとき天誅組は100人以上に膨れ上がっていたといいます。


e0158128_15404906.jpg


鳥居の横には、天誅組を紹介する看板が設置されていました。

馬上は主将の中山忠光

このとき若干19歳です。

この人の姉が明治天皇の生母なので、明治天皇の叔父にあたります。

薄化粧を施し、緋絨の鎧に鍬形を打った兜をつけ、馬に乗った忠光の姿を見た何も知らない地元民たちは、役者の顔見世かと思ったという伝承が残っているそうです。


e0158128_15435309.jpg


鳥居の奥には割拝殿があります。


e0158128_15435506.jpg


割拝殿の奥にも鳥居があり、その向こうに本殿があります。


e0158128_15451226.jpg


中央に祀られているのが品陀和気命、右が天照大神、左が春日大神です。

かなり傷んでいます。


e0158128_15463348.jpg


境内には、かつてあった御神木の切り株が屋根に守られて鎮座しています。


e0158128_15491705.jpg
e0158128_15492071.jpg


説明板によると、御神木は本能寺の変があった天正10年(1582年)に植えられものと想定されていたそうですが、枯れてきたために昭和49年(1974年)に伐採したそうです。

かつては幹の直径が約2m、高さは30mに及ぶ巨木で、4m上で二又に別れ、地元では夫婦杉と称されてその威容を誇っていたそうです。

天誅組一行も、この巨木を見上げて勝利を誓ったかもしれません。


e0158128_15492325.jpg


切り株の根本に建てられた駒札にも、天誅組の説明が。


e0158128_15492879.jpg


こちらにも説明板があります。


e0158128_15505328.jpg


境内東側の広場です。

ここに一行が集結したのでしょうか?

天誅組の面々はここで隣の窪田家から湯茶の接待を受けたといわれています。


e0158128_15521695.jpg


北を見れば、金剛山が聳えます。

一行はあの千早峠を超えてやってきました。


e0158128_15521937.jpg


南には、五條の街が見下ろせます。

ひとときの休息を終えた天誅組一行は、陣形を整え、午後3時頃に代官所をめざして丘を駆け下って行きました。




「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
   ↓↓↓

天誅組の足跡を訪ねて。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-10-02 00:13 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(2)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その5 「観心寺」

三日市の宿場を早朝に発った天誅組一行は、河内の観心寺に立ち寄りました。

観心寺には、彼ら勤王の志士たちの精神的支柱である楠木正成首塚や、第97代天皇にして南朝第2代天皇の後村上天皇陵があります。


e0158128_15030499.jpg


山門横の大楠公騎馬像です。


e0158128_15050842.jpg


観心寺の寺伝によると、大宝元年(702年)に役小角によって開かれ、当初は雲心寺と称したとされますが、天長4年(827年)に空海がこの地を訪れ、「観心寺」の寺号を与え、その一番弟子の実恵が実質的な開祖となった寺院です。


e0158128_15111280.jpg


国宝金堂です。


e0158128_15142897.jpg


そして、こちらが正成の首塚


e0158128_15143285.jpg


天誅組一行は、この首塚前に勢ぞろいして戦勝祈願をしたといいます。

結成当初は38人だった天誅組も、ここに詣でたときには100人を超えていました。

彼らが尊敬してやまない大楠公の首塚を前に、士気は大いに高まったといいます。


e0158128_15184469.jpg


首塚前の広場を挟んで向かい側には、「天誅組讃蹟碑」があります。


e0158128_15184888.jpg


石碑の高さが260cm、幅が115cm厚さ19cm、台石の高さが45cmというどデカい石碑です。


e0158128_15202885.jpg


文章は漢文なので、わたしでは読解できません。


e0158128_15224554.jpg


観心寺では、地元の吉年米蔵という人物が握飯草鞋を100人分準備して待っていました。

米蔵は、ここで帰ろうとしましたが、中山忠光が許さず次の千早村まで同行したそうです。

また、軍資金を調達に出ていた藤本鉄石が合流したのも、ここ観心寺でした。


e0158128_15225134.jpg


石碑と首塚の間の広場です。

100人ぐらい余裕で集えます。


e0158128_15225442.jpg


おそらく、このロケーションは天誅組の面々が目にした光景とさほど変わっていないでしょう。

ここで士気を高めた天誅組は、いよいよ大和国に向けて出発します。



「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
   ↓↓↓

天誅組の足跡を訪ねて。





ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-26 21:07 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その3 「錦織神社」

「その2」で紹介した狭山藩陣屋跡から3kmほど南東の富田林市にある錦織神社に、天誅組顕彰碑があります。

テニスの錦織圭選手は「にしこり」と読みますが、錦織神社「にしきおり」と読みます。


e0158128_14320354.jpg


錦織神社という名称になったのは明治40年(1907年)だそうで、天誅組の時代には、水郡神社と呼ばれていたそうです。


e0158128_14320651.jpg


鳥居をくぐると、長い真っ直ぐな参道が目に入ります。

200mほどあるでしょうか?


e0158128_14334719.jpg


その参道の途中の脇に、その碑はあります。


e0158128_14395153.jpg


この碑は、天誅組に参加した河内勢を讃えたものだそうです。


e0158128_14395771.jpg


天誅組は、結成時の同志は38人で、そのうち18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士でしたが、その進軍の途上、続々と同志が増えていきました。


e0158128_14395457.jpg


この石碑には、天誅組に参加した河内勢の志士たちの名が刻まれています。


e0158128_14400034.jpg


なぜここに石碑が建てられたかというと、天誅組河内勢のリーダーで天誅組小荷駄奉行となった水郡善之祐が、かつてここ錦織神社(当時は水郡神社)の祠官だったからだそうです。

水郡善之祐は同じ年の足利三代木像梟首事件にも関与していたといいますから、なかなか過激な人物だったようです。

善之祐は天誅組を財政面で支え、当時13歳だった息子の英太郎もともに参加しました。

天誅組瓦解後は投降し、善之祐は京の六角獄舎処刑されますが、息子の英太郎は若年と言うことで命を救われ、戊辰戦争に従軍した後、明治維新後はアメリカへの留学を経て、大阪、和歌山、姫路などの地方裁判所の検事を歴任しました。

明治31年(1898年)、父子ともに贈正五位を賜ります。

善之祐辞世

「皇國のためにぞつくすまごころは知るひとぞ知る神や知るらん」


e0158128_14422709.jpg


中央の大きな顕彰碑の横には、「和田佐市碑」と刻まれた石碑があります。


e0158128_14423020.jpg


和田佐市は水郡善之祐の従者で、天誅組伍長として参戦。

水郡父子、森元伝兵衛と同じ甲田村の出身でした。

なぜ、この人の碑だけ単独で建てられているのかは、わかりませんでした。


e0158128_14461308.jpg


せっかくなので、社殿の写真もアップしておきます。


e0158128_14461755.jpg


本殿は天平18年(1368年)創建だそうです。

南北朝時代のものですね。

重要文化財に指定されています。


e0158128_14462122.jpg


主祭神は、建速素戔嗚命、品陀別命、菅原道真

でも、近年は錦織圭選手ファンの参拝が多いとか。

そのうち祭神に合祀されるかもしれません(笑)。



「天誅組の足跡を訪ねて。」シリーズの他の稿はこちらから。
   ↓↓↓

天誅組の足跡を訪ねて。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-20 00:53 | 天誅組の足跡を訪ねて | Trackback | Comments(0)  

室町時代の庭園が残る多気北畠氏城館跡を訪ねて。<前編> 北畠神社

南北朝時代から戦国時代にかけて伊勢国の守護大名だった北畠氏の城館跡が、三重県津市の多気の地にあります。

多気(たげ)と読みます。


e0158128_11411965.jpg


多気北畠氏城館跡は多気のほぼ中央に位置する館跡詰城およびその背後の山頂にある霧山城をあわせた総称ですが、この日は夕方からの訪問だったため、麓の館跡のみの見学です。


e0158128_11462565.jpg


駐車場にイラストマップがあります。


e0158128_11462877.jpg


現在、館跡には北畠神社が鎮座します。

北畠神社はその名のとおり、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした北畠顕能を主祭神とする神社です。

石碑には、「別格官幣社」とあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


e0158128_11501729.jpg
e0158128_11502173.jpg
e0158128_11502429.jpg


ここを訪れたのは平成30年(2018年)11月18日。

紅葉まっさかりの時期でした。


e0158128_11515751.jpg


境内入口の石鳥居です。


e0158128_11540272.jpg


社殿です。

北畠神社は建武中興十五社にも数えられています。

「建武中興十五社」とは、後醍醐天皇(第96代天皇)の建武の新政(建武の中興)に尽力した人物を祀った神社のことですが、北畠神社には主祭神の北畠顕能のほかに、父の北畠親房と兄の北畠顕家が合祀されていることから、建武中興十五社に数えられたのでしょう。

北畠神社の創建は寛永20年(1643年)3月と伝わり、建武中興十五社で唯一、近世以来の由緒を持ちます。

つまり、他の14社は明治以降の創建ということ。

明治政府が多分に政治利用するために創建したバッタもんの神様、とは言い過ぎでしょうか。


e0158128_11584582.jpg


境内には、合祀された北畠顕家の像があります。


e0158128_11584907.jpg


北畠顕家は建武の新政下、わずか16歳陸奥守兼鎮守府将軍に任じられた南朝方の武将で、一時は反旗を翻した足利尊氏軍を九州へ追いやる活躍を見せますが、延元3年/建武5年(1338年)、5月22日、阿倍野・石津の戦い21歳という若さで討死した悲運の武将です。


e0158128_11585222.jpg


「花将軍 北畠顕家公」とあります。

これと同じような像が、同じく建武中興十五社に名を連ねる阿部野神社にもあります(参照:太平記を歩く。 その149 「阿部野神社」)。

顕家は紅顔の美少年だったと言われ、その貴公子ぶりからも「花将軍」と称されました。

平成3年(1991年)のNHK大河ドラマ『太平記』では、当時、「国民的美少女」と持てはやされた後藤久美子さんが演じて話題になりましたね。


e0158128_12004691.jpg


境内に設置された説明板では、日本最古の石垣が発掘されたと書かれていました。

でも、あたりを見渡すかぎり、それらしき石垣は見当たりませんでした。


e0158128_12061860.jpg


こちらにも、何か説明板があります。


e0158128_12062282.jpg


入口跡の石段が見つかったとありますが、これも、見当たりませんでした。

たぶん、埋め戻されたのでしょうね。


e0158128_12062543.jpg


こちらの説明板には、礎石建物跡が出土したとありましたが、これも埋め戻されたのでしょう。


e0158128_12062958.jpg


結局、遺構といえるようなものは見られませんでした。

仕方がないので、紅葉をアップします。


e0158128_12122650.jpg
e0158128_12123000.jpg
e0158128_12123329.jpg


さて、<後編>では室町時代から残る庭園を散策します。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-06-12 23:34 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

奥大和の宇陀松山城跡登城記。 <前編> 登城道

奈良県宇陀市にある宇陀松山城跡を訪れました。

宇陀松山城跡は同じ大和国の大和郡山城から25kmほど南西、同じく大和国の高取城から13kmほど北東に位置します。

平成29年(2017年)4月6日に発表された続日本100名城に選定されています。


e0158128_16150598.jpg


宇陀松山城跡への登城コースは2つありますが、この日は、かつての大手筋のルートで登りました。

現在、大手筋にあたる入口は、春日神社が鎮座しています。


e0158128_16170930.jpg


参道を進むと、いきなり櫓台のような立派な石垣が現れます。

これは、かつての大手筋正面にあった春日門跡の石垣です。


e0158128_16221383.jpg


現在、門跡には虎口を構成する東西2つの石垣積の櫓台が残っています。


e0158128_16221691.jpg


東櫓は東西4m以上、南北10m以上、高さ約6mの規模を持つ櫓台の南西隅に一段低く、東西約4m、南北約7m、高さ約2mの櫓台が取り付きます。西櫓台は東西約6m、南北11m以上、高さ約4mを測ります。


e0158128_16195683.jpg


いかにも大手門って感じですね。


e0158128_16195904.jpg


説明板によると、春日門の築造は16世紀末から17世紀初頭にあり、松山城下の建設時に町人地と武家屋敷・城館とを分かつ虎口として造られたことが明らかとなりました。

また、現存する櫓台は17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の向屋敷・上屋敷(藩屋敷)造営に伴う再構築であることが判明したそうです。


e0158128_16235107.jpg


かつての大手筋にあたる参道を進みます。


e0158128_16280235.jpg


宇陀松山城は、南北朝時代から戦国時代にかけて伊勢国司北畠氏から「和州宇陀三人衆」と呼ばれた秋山氏が築いた城と伝わります。

築城時期は定かではありませんが、南北朝時代には構えられていたと見られています。

秋山氏が居城としていた頃は、秋山城と呼ばれていました。


e0158128_16280544.jpg


天正13年(1585年)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い、秋山氏は宇陀から退去しました。

以後、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種ら豊臣家配下の大名の居城として大改修が行われ、大和郡山城、高取城と並んで豊臣政権の大和国支配の拠点となりました。


e0158128_16280833.jpg


関ヶ原の戦い時の城主・多賀秀種は西軍に属したため改易され、代わって福島正則の弟・福島高晴が入城しました。

しかし、その福島氏も、大坂夏の陣において豊臣方に内通したとして改易され、城も破却されて廃城となりました。


e0158128_16314417.jpg


境内南側に、城跡を誘導する石碑が建てられています。

ここから、神社を抜けて本格的な登城コースがはじまります。


e0158128_16315485.jpg


山道は整備されていて、進みにくいということはありません。


e0158128_16315485.jpg
e0158128_16315792.jpg


「秋山城跡」と書かれた誘導板があります。

「宇陀松山城」という名称は豊臣政権下になってからのもので、それ以前は城主の秋山氏の名からとって秋山城と呼ばれていました。


e0158128_16353215.jpg


しばらく登ると、城跡まで100mと書かれた木碑の立つ開けた場所に出ました。

郭跡のような感じです。


e0158128_16353708.jpg


横に設置された案内板です。

ここを訪れたのは平成30年(2018年)7月22日。

案内板には「平成30年3月」と書かれていますから、つい最近設置されたもののようです。

続日本100名城に選ばれた影響でしょうね。


e0158128_16364165.jpg


長くなっちゃったので、<後編>に続きます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-05-30 21:56 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

越前松平家の福井城跡を歩く。 その4 ~福井神社~

「その3」の続きです。

福井城天守跡から内堀を挟んで北西にある、福井神社を訪れました。

このあたりには、かつて西三の丸御座所があり、藩主の生活の場でした。


e0158128_18185555.jpg


福井神社は福井藩16代藩主・松平慶永(春嶽)を祀る神社として、昭和18年(1943年)に創建されました。

旧社格は別格官幣社

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。

ここ福井神社は、日本最後の別格官幣社の指定となった神社です。


e0158128_18185065.jpg


この社標は昭和23年(1948年)6月28日の福井大地震によって福井城の堀の中に埋没していたそうですが、昭和58年(1983年)の内堀浚渫の際に発見され、引き上げられて復元設置されたものだそうです。


e0158128_18231227.jpg


コンクリート製鳥居拝殿です。


e0158128_18231649.jpg


創建当時の社殿は総檜造りだったそうですが、創建からわずか2年後の昭和20年(1954年)7月19日の福井大空襲焼失し、戦後12年経った昭和32年(1957年)に福井大学工学部の設計により再建されたそうです。

総コンクリート造りで、表面はコンクリート打ち放し、神明造を大幅に変形した傾斜の無いフラットな屋根という、他の神社には見られない独特の社殿ですね。

社殿前の大鳥居(二の鳥居)も、同じく福井大学工学部の設計によって再建されたものだそうで、貫がない特殊な形をしています。


e0158128_18290883.jpg


境内には、春嶽の像があります。


e0158128_18291271.jpg


春嶽といえば、幕末、薩摩の島津斉彬、土佐の山内豊信(容堂)、宇和島の伊達宗城と並んで四賢侯のひとりに数えられ、徳川親藩・譜代大名のなかでも尊皇派の支柱となった大名として知られます。


e0158128_18291581.jpg


また、藩内の行政においても、積極的な人材登用殖産興業の推進、富国強兵による藩財政の立て直しなど、藩政改革を行った名君と称えられました。

しかし、幕府大老・井伊直弼の行った安政の大獄によって隠居・謹慎処分を受け、家督を養子茂昭に譲り、5年間に及ぶ謹慎生活を送りました。


e0158128_18292059.jpg


やがて桜田門外の変で井伊直弼が落命すると、再び幕府の要職に復帰。

政事総裁職として参勤交代制の緩和、洋式軍制の採用、幕府職制の改正、京都守護職の新設、そして、229年ぶりとなる将軍・徳川家茂上洛を実現させるなどの働きを見せますが、尊皇派がやがて倒幕論に変わっていくと、佐幕派、倒幕派の間で春嶽の立場は微妙となり、その後は政治的に大きな成果を挙げられませんでした。

まあ、所詮は殿様だったってことですね。


e0158128_18321602.jpg


こちらは境内にある摂社・恒道神社

春嶽の改革を支えた鈴木主税、中根靱負(雪江)、橋下左内が祀られています。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2019-03-02 01:20 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)