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天誅組の足跡を訪ねて。 その11 「櫻井寺(天誅組本陣跡)」

文久3年8月17日(1863年9月29日)、天誅組隊士はいっせいに挙兵し、五條代官所を襲って代官の鈴木正信(源内)を殺害すると、ここ櫻井寺を本陣として五條新政府を号し、討幕の旗をあげました。


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現在、櫻井寺の入口には、「天誅組本陣跡」と刻まれた石碑が建てられています。


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明治100年を記念して建てられたもののようです。


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彼ら天誅組が五條で旗揚げしたのは、攘夷を望まれる孝明天皇大和行幸先鋒となり、御親兵として戦うためでした。

ところが、これに震え上がったのは当の孝明天皇。

自分は攘夷論ではあっても、幕府体制を否定する気は毛頭ない、討幕の先頭に立つなど滅相もない、と、京都守護職松平容保SOSを求めます。

そうして起こったのが、京の尊皇攘夷派が一掃された「八月十八日の政変」でした。


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彼らがここで旗揚げした翌日に京の政局は一変し、天皇の大和行幸の計画は頓挫します。

これにより天誅組は皇軍御先鋒の大義名分を失い、梯子を外されたかたちとなります。

つまり、天誅組は皇軍として旗揚げした翌日に「暴徒」となったんですね。


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境内には、代官・鈴木源内を殺害した後に首を洗ったと伝えられる水盤があります。


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さらに、本堂の下に置かれたこんなものを見つけました。


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旧本堂の柱だそうです。


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「天誅組 槍尻之傷跡」と書かれています。

追討軍との戦闘時の傷ということでしょうか?


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確かに、言われてみればそのようにも見えます。


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天誅組がここで立ち上げた五條新政府は、わずか3日間の命でしたが、このとき五條新政府は、この年の年貢を半減することを宣言したそうです。

高速道路無料化とか高校無償化など、財源を無視して民衆に耳あたりの良い公約を掲げて一時的に政権を担ったどこかの党と似ていますね。

結局は絵に描いた餅、政府と名乗るには稚拙な集団だったということでしょう。

そうか!平成の世間交代は、天誅組の変だったのか!!!

どうりで短命に終わったはずです。



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by sakanoueno-kumo | 2019-10-11 07:29 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(2)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その7 「岡八幡宮」

文久3年8月17日(1863年9月29日)、国境の千早峠を越えて大和国に入った天誅組一行は、昼過ぎ、五條北方にある岡八幡宮で休息しました。


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このとき天誅組は100人以上に膨れ上がっていたといいます。


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鳥居の横には、天誅組を紹介する看板が設置されていました。

馬上は主将の中山忠光

このとき若干19歳です。

この人の姉が明治天皇の生母なので、明治天皇の叔父にあたります。

薄化粧を施し、緋絨の鎧に鍬形を打った兜をつけ、馬に乗った忠光の姿を見た何も知らない地元民たちは、役者の顔見世かと思ったという伝承が残っているそうです。


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鳥居の奥には割拝殿があります。


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割拝殿の奥にも鳥居があり、その向こうに本殿があります。


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中央に祀られているのが品陀和気命、右が天照大神、左が春日大神です。

かなり傷んでいます。


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境内には、かつてあった御神木の切り株が屋根に守られて鎮座しています。


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説明板によると、御神木は本能寺の変があった天正10年(1582年)に植えられものと想定されていたそうですが、枯れてきたために昭和49年(1974年)に伐採したそうです。

かつては幹の直径が約2m、高さは30mに及ぶ巨木で、4m上で二又に別れ、地元では夫婦杉と称されてその威容を誇っていたそうです。

天誅組一行も、この巨木を見上げて勝利を誓ったかもしれません。


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切り株の根本に建てられた駒札にも、天誅組の説明が。


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こちらにも説明板があります。


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境内東側の広場です。

ここに一行が集結したのでしょうか?

天誅組の面々はここで隣の窪田家から湯茶の接待を受けたといわれています。


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北を見れば、金剛山が聳えます。

一行はあの千早峠を超えてやってきました。


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南には、五條の街が見下ろせます。

ひとときの休息を終えた天誅組一行は、陣形を整え、午後3時頃に代官所をめざして丘を駆け下って行きました。




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by sakanoueno-kumo | 2019-10-02 00:13 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(2)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その5 「観心寺」

三日市の宿場を早朝に発った天誅組一行は、河内の観心寺に立ち寄りました。

観心寺には、彼ら勤王の志士たちの精神的支柱である楠木正成首塚や、第97代天皇にして南朝第2代天皇の後村上天皇陵があります。


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山門横の大楠公騎馬像です。


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観心寺の寺伝によると、大宝元年(702年)に役小角によって開かれ、当初は雲心寺と称したとされますが、天長4年(827年)に空海がこの地を訪れ、「観心寺」の寺号を与え、その一番弟子の実恵が実質的な開祖となった寺院です。


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国宝金堂です。


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そして、こちらが正成の首塚


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天誅組一行は、この首塚前に勢ぞろいして戦勝祈願をしたといいます。

結成当初は38人だった天誅組も、ここに詣でたときには100人を超えていました。

彼らが尊敬してやまない大楠公の首塚を前に、士気は大いに高まったといいます。


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首塚前の広場を挟んで向かい側には、「天誅組讃蹟碑」があります。


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石碑の高さが260cm、幅が115cm厚さ19cm、台石の高さが45cmというどデカい石碑です。


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文章は漢文なので、わたしでは読解できません。


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観心寺では、地元の吉年米蔵という人物が握飯草鞋を100人分準備して待っていました。

米蔵は、ここで帰ろうとしましたが、中山忠光が許さず次の千早村まで同行したそうです。

また、軍資金を調達に出ていた藤本鉄石が合流したのも、ここ観心寺でした。


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石碑と首塚の間の広場です。

100人ぐらい余裕で集えます。


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おそらく、このロケーションは天誅組の面々が目にした光景とさほど変わっていないでしょう。

ここで士気を高めた天誅組は、いよいよ大和国に向けて出発します。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-26 21:07 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

天誅組の足跡を訪ねて。 その3 「錦織神社」

「その2」で紹介した狭山藩陣屋跡から3kmほど南東の富田林市にある錦織神社に、天誅組顕彰碑があります。

テニスの錦織圭選手は「にしこり」と読みますが、錦織神社「にしきおり」と読みます。


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錦織神社という名称になったのは明治40年(1907年)だそうで、天誅組の時代には、水郡神社と呼ばれていたそうです。


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鳥居をくぐると、長い真っ直ぐな参道が目に入ります。

200mほどあるでしょうか?


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その参道の途中の脇に、その碑はあります。


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この碑は、天誅組に参加した河内勢を讃えたものだそうです。


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天誅組は、結成時の同志は38人で、そのうち18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士でしたが、その進軍の途上、続々と同志が増えていきました。


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この石碑には、天誅組に参加した河内勢の志士たちの名が刻まれています。


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なぜここに石碑が建てられたかというと、天誅組河内勢のリーダーで天誅組小荷駄奉行となった水郡善之祐が、かつてここ錦織神社(当時は水郡神社)の祠官だったからだそうです。

水郡善之祐は同じ年の足利三代木像梟首事件にも関与していたといいますから、なかなか過激な人物だったようです。

善之祐は天誅組を財政面で支え、当時13歳だった息子の英太郎もともに参加しました。

天誅組瓦解後は投降し、善之祐は京の六角獄舎処刑されますが、息子の英太郎は若年と言うことで命を救われ、戊辰戦争に従軍した後、明治維新後はアメリカへの留学を経て、大阪、和歌山、姫路などの地方裁判所の検事を歴任しました。

明治31年(1898年)、父子ともに贈正五位を賜ります。

善之祐辞世

「皇國のためにぞつくすまごころは知るひとぞ知る神や知るらん」


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中央の大きな顕彰碑の横には、「和田佐市碑」と刻まれた石碑があります。


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和田佐市は水郡善之祐の従者で、天誅組伍長として参戦。

水郡父子、森元伝兵衛と同じ甲田村の出身でした。

なぜ、この人の碑だけ単独で建てられているのかは、わかりませんでした。


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せっかくなので、社殿の写真もアップしておきます。


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本殿は天平18年(1368年)創建だそうです。

南北朝時代のものですね。

重要文化財に指定されています。


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主祭神は、建速素戔嗚命、品陀別命、菅原道真

でも、近年は錦織圭選手ファンの参拝が多いとか。

そのうち祭神に合祀されるかもしれません(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2019-09-20 00:53 | 天誅組の足跡を訪ねて | Comments(0)  

室町時代の庭園が残る多気北畠氏城館跡を訪ねて。<前編> 北畠神社

南北朝時代から戦国時代にかけて伊勢国の守護大名だった北畠氏の城館跡が、三重県津市の多気の地にあります。

多気(たげ)と読みます。


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多気北畠氏城館跡は多気のほぼ中央に位置する館跡詰城およびその背後の山頂にある霧山城をあわせた総称ですが、この日は夕方からの訪問だったため、麓の館跡のみの見学です。


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駐車場にイラストマップがあります。


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現在、館跡には北畠神社が鎮座します。

北畠神社はその名のとおり、初代伊勢国司として南朝奉護に尽くした北畠顕能を主祭神とする神社です。

石碑には、「別格官幣社」とあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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ここを訪れたのは平成30年(2018年)11月18日。

紅葉まっさかりの時期でした。


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境内入口の石鳥居です。


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社殿です。

北畠神社は建武中興十五社にも数えられています。

「建武中興十五社」とは、後醍醐天皇(第96代天皇)の建武の新政(建武の中興)に尽力した人物を祀った神社のことですが、北畠神社には主祭神の北畠顕能のほかに、父の北畠親房と兄の北畠顕家が合祀されていることから、建武中興十五社に数えられたのでしょう。

北畠神社の創建は寛永20年(1643年)3月と伝わり、建武中興十五社で唯一、近世以来の由緒を持ちます。

つまり、他の14社は明治以降の創建ということ。

明治政府が多分に政治利用するために創建したバッタもんの神様、とは言い過ぎでしょうか。


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境内には、合祀された北畠顕家の像があります。


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北畠顕家は建武の新政下、わずか16歳陸奥守兼鎮守府将軍に任じられた南朝方の武将で、一時は反旗を翻した足利尊氏軍を九州へ追いやる活躍を見せますが、延元3年/建武5年(1338年)、5月22日、阿倍野・石津の戦い21歳という若さで討死した悲運の武将です。


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「花将軍 北畠顕家公」とあります。

これと同じような像が、同じく建武中興十五社に名を連ねる阿部野神社にもあります(参照:太平記を歩く。 その149 「阿部野神社」)。

顕家は紅顔の美少年だったと言われ、その貴公子ぶりからも「花将軍」と称されました。

平成3年(1991年)のNHK大河ドラマ『太平記』では、当時、「国民的美少女」と持てはやされた後藤久美子さんが演じて話題になりましたね。


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境内に設置された説明板では、日本最古の石垣が発掘されたと書かれていました。

でも、あたりを見渡すかぎり、それらしき石垣は見当たりませんでした。


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こちらにも、何か説明板があります。


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入口跡の石段が見つかったとありますが、これも、見当たりませんでした。

たぶん、埋め戻されたのでしょうね。


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こちらの説明板には、礎石建物跡が出土したとありましたが、これも埋め戻されたのでしょう。


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結局、遺構といえるようなものは見られませんでした。

仕方がないので、紅葉をアップします。


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さて、<後編>では室町時代から残る庭園を散策します。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-12 23:34 | 三重の史跡・観光 | Comments(0)  

奥大和の宇陀松山城跡登城記。 <前編> 登城道

奈良県宇陀市にある宇陀松山城跡を訪れました。

宇陀松山城跡は同じ大和国の大和郡山城から25kmほど南西、同じく大和国の高取城から13kmほど北東に位置します。

平成29年(2017年)4月6日に発表された続日本100名城に選定されています。


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宇陀松山城跡への登城コースは2つありますが、この日は、かつての大手筋のルートで登りました。

現在、大手筋にあたる入口は、春日神社が鎮座しています。


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参道を進むと、いきなり櫓台のような立派な石垣が現れます。

これは、かつての大手筋正面にあった春日門跡の石垣です。


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現在、門跡には虎口を構成する東西2つの石垣積の櫓台が残っています。


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東櫓は東西4m以上、南北10m以上、高さ約6mの規模を持つ櫓台の南西隅に一段低く、東西約4m、南北約7m、高さ約2mの櫓台が取り付きます。西櫓台は東西約6m、南北11m以上、高さ約4mを測ります。


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いかにも大手門って感じですね。


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説明板によると、春日門の築造は16世紀末から17世紀初頭にあり、松山城下の建設時に町人地と武家屋敷・城館とを分かつ虎口として造られたことが明らかとなりました。

また、現存する櫓台は17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の向屋敷・上屋敷(藩屋敷)造営に伴う再構築であることが判明したそうです。


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かつての大手筋にあたる参道を進みます。


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宇陀松山城は、南北朝時代から戦国時代にかけて伊勢国司北畠氏から「和州宇陀三人衆」と呼ばれた秋山氏が築いた城と伝わります。

築城時期は定かではありませんが、南北朝時代には構えられていたと見られています。

秋山氏が居城としていた頃は、秋山城と呼ばれていました。


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天正13年(1585年)、豊臣秀長の大和郡山入部に伴い、秋山氏は宇陀から退去しました。

以後、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種ら豊臣家配下の大名の居城として大改修が行われ、大和郡山城、高取城と並んで豊臣政権の大和国支配の拠点となりました。


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関ヶ原の戦い時の城主・多賀秀種は西軍に属したため改易され、代わって福島正則の弟・福島高晴が入城しました。

しかし、その福島氏も、大坂夏の陣において豊臣方に内通したとして改易され、城も破却されて廃城となりました。


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境内南側に、城跡を誘導する石碑が建てられています。

ここから、神社を抜けて本格的な登城コースがはじまります。


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山道は整備されていて、進みにくいということはありません。


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「秋山城跡」と書かれた誘導板があります。

「宇陀松山城」という名称は豊臣政権下になってからのもので、それ以前は城主の秋山氏の名からとって秋山城と呼ばれていました。


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しばらく登ると、城跡まで100mと書かれた木碑の立つ開けた場所に出ました。

郭跡のような感じです。


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横に設置された案内板です。

ここを訪れたのは平成30年(2018年)7月22日。

案内板には「平成30年3月」と書かれていますから、つい最近設置されたもののようです。

続日本100名城に選ばれた影響でしょうね。


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長くなっちゃったので、<後編>に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-05-30 21:56 | 奈良の史跡・観光 | Comments(0)  

越前松平家の福井城跡を歩く。 その4 ~福井神社~

「その3」の続きです。

福井城天守跡から内堀を挟んで北西にある、福井神社を訪れました。

このあたりには、かつて西三の丸御座所があり、藩主の生活の場でした。


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福井神社は福井藩16代藩主・松平慶永(春嶽)を祀る神社として、昭和18年(1943年)に創建されました。

旧社格は別格官幣社

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。

ここ福井神社は、日本最後の別格官幣社の指定となった神社です。


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この社標は昭和23年(1948年)6月28日の福井大地震によって福井城の堀の中に埋没していたそうですが、昭和58年(1983年)の内堀浚渫の際に発見され、引き上げられて復元設置されたものだそうです。


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コンクリート製鳥居拝殿です。


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創建当時の社殿は総檜造りだったそうですが、創建からわずか2年後の昭和20年(1954年)7月19日の福井大空襲焼失し、戦後12年経った昭和32年(1957年)に福井大学工学部の設計により再建されたそうです。

総コンクリート造りで、表面はコンクリート打ち放し、神明造を大幅に変形した傾斜の無いフラットな屋根という、他の神社には見られない独特の社殿ですね。

社殿前の大鳥居(二の鳥居)も、同じく福井大学工学部の設計によって再建されたものだそうで、貫がない特殊な形をしています。


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境内には、春嶽の像があります。


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春嶽といえば、幕末、薩摩の島津斉彬、土佐の山内豊信(容堂)、宇和島の伊達宗城と並んで四賢侯のひとりに数えられ、徳川親藩・譜代大名のなかでも尊皇派の支柱となった大名として知られます。


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また、藩内の行政においても、積極的な人材登用殖産興業の推進、富国強兵による藩財政の立て直しなど、藩政改革を行った名君と称えられました。

しかし、幕府大老・井伊直弼の行った安政の大獄によって隠居・謹慎処分を受け、家督を養子茂昭に譲り、5年間に及ぶ謹慎生活を送りました。


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やがて桜田門外の変で井伊直弼が落命すると、再び幕府の要職に復帰。

政事総裁職として参勤交代制の緩和、洋式軍制の採用、幕府職制の改正、京都守護職の新設、そして、229年ぶりとなる将軍・徳川家茂上洛を実現させるなどの働きを見せますが、尊皇派がやがて倒幕論に変わっていくと、佐幕派、倒幕派の間で春嶽の立場は微妙となり、その後は政治的に大きな成果を挙げられませんでした。

まあ、所詮は殿様だったってことですね。


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こちらは境内にある摂社・恒道神社

春嶽の改革を支えた鈴木主税、中根靱負(雪江)、橋下左内が祀られています。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-02 01:20 | 福井の史跡・観光 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その167 「臥雲山即宗院」

「その164」で紹介した東福寺の塔頭のひとつである臥雲山即宗院は、薩摩藩ゆかりの寺院として知られています。


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即宗院は、南北朝時代の元中4年(1387年)に薩摩国の守護大名だった6代目・島津氏久の菩提を弔うため創建されました。

その後、永禄12年(1569年)に火災で焼失しますが、慶長18年(1613年)、島津家久よって再興され、以来、薩摩藩の畿内菩提所となりました。


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即宗院が建立される以前は、関白・藤原兼実が晩年に営んだ山荘「月輪殿」があったとされます。

その名残を感じさせる庭園は現在京都市名勝に指定され、紅葉の名所としても知られています。


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幕末、島津斉彬の養女として第13代将軍徳川家定に輿入れすることとなった篤姫も、薩摩から江戸にむかう途中の嘉永6年10月5日(1853年11月5日)に、ここを訪れたという記録が残っています。


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境内の奥へと進むと、かつて採薪亭という茶亭があった場所があります。

安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政5年(1858年)、ここにあった採薪亭で西郷隆盛と清水寺塔頭・成就院の住職・月照が、たびたび密議を交わしていたと伝えられます。


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採薪亭の跡地には「西郷隆盛密議の地」と書かれた説明書が立っています。


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ここ即宗院は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍の屯所となりました。

鳥羽・伏見の戦いから会津戦争までの薩摩藩士の戦死者は524名とされています。

西郷隆盛は、その戦死者を弔うための薩摩藩士東征戦亡之碑を、ここ即宗院に建立します。


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その碑は、境内の裏山にあります。


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石段を登りきると石の鳥居があり、その奥の玉垣に囲まれた空間に石碑があります。


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正面には、西郷隆盛が藩士の霊を供養するために斎戒沐浴し、524霊の揮毫を行ったという石碑が5基、整然と並びます。


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これらすべて、西郷の揮毫といわれています。

この中には、西郷隆盛のすぐ下の弟で西郷従道の兄にあたる西郷吉二郎の名が刻まれているというのですが・・・。


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ありました・・・って、よく見ると「西郷宗次郎」となっていますね。

別人なのか、あるいは変名なのか、それとも誤記なのか・・・でも、弟の名前を間違えたりしないですよね。


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いちばん奥には、篆額「東征戦亡之碑」と記された石碑が建ちます。

その下の碑文は漢文なので詳しくはわかりませんが、「慶應之役其」という書き出しから想像するに、戊辰戦争の概要を記した文章だと思われます。

で、文末を見ると・・・。


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「西郷隆盛 謹書」とあります。

西郷の本当の名は「隆永」で、「隆盛」は父の名を間違って登録してしまったものだったため、西郷は終生、手紙などで「隆盛」の名を使ったことはなかったといいますが、公式な文書などでは、「隆盛」と記していました。


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過日、大阪歴史博物館で行われていた「西郷どん展」を観覧してきたのですが、そこで、ここ「薩摩藩士東征戦亡之碑」の設計図が展示されていました。

そこで紹介されていた文によると、除幕式に西郷は参列し「南洲翁の姿はフロックコートに白羽二重の帯に草履を履き、大小を手挟み、しずしず霊前にしばしもくとう、おもむろに祭文を読まれ、しばらくして、涙、滂沱として慟哭また慟哭、声なく全軍の士また貰い泣き、また慟哭」と、西郷の下僕だった永田熊吉が回想しています。


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せっかくなので石碑の前で記念撮影。


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この奥にある墓地には、人斬り新兵衛の異名で知られる田中新兵衛や、生麦村で大名行列を横切る英国人に斬りつけた奈良原喜左衛門、イギリス公使・パークス襲撃事件で負傷しながらも襲撃犯からパークスを守った中井弘などの墓があるそうですが、一般の方の墓もあるということで、残念ながら観光客は立入禁止でした。

最後に、石段を降りる際に目の前に広がっていた紅葉に彩られた景色をアップします。


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さて、明治維新150年にあたる年を記念して、今年2月から「幕末京都逍遥シリーズ」を続けてまいりましたが、本稿をもってひとまず終わりにさせていただきます。

167稿に渡った幕末史跡ですが、これを巡るのに、約2年かかりました。

1日で4~5ヶ所まわっていたのですが、30~40回は京都に足を運んだんじゃないでしょうか。

神戸から京都は、同じ関西ではあっても決して近くはなく、交通費も結構かかります。

われながら、よくやったなあと・・・。

楽しかったですけどね。

ただ、結構くまなく調べたと思っていますが、わたしの知らない幕末史跡が京都にはまだ残っているかもしれません。

そのときは、また続きをやろうと思いますので、その際はまたお付き合いください。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-24 03:50 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その166 「退耕庵(戊辰役殉難士菩提所)」

「その164」で紹介した東福寺の塔頭のひとつである退耕庵は、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、東福寺とともに長州軍のが布かれた場所です。

そして戦後、長州藩戦死者の菩提所となりました。


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現在、山門の横には、「戊辰役殉難士菩提所」と刻まれた石碑が建ちます。


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駒札の説明書きによると、退耕庵は貞和2年(1346年)東福寺第43世住持性海霊見によって創建され、応仁の乱の災火により一時荒廃しましたが、慶長4年(1599年)に安国寺恵瓊によって再興されたそうです。


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茶室・作夢軒は、再興の際に恵瓊によって建てられたもので、豊臣秀吉の没後、ここで、恵瓊、石田三成、宇喜多秀家らが、関が原の戦いの謀議を行ったと伝えられているそうです。

それはすごい。


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ここが長州藩戦死者の菩提所となったのは、恵瓊が住持したということで毛利家との縁も深かったのかもしれませんね。


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維新後、「その78」で紹介した尊攘堂を建てて勤王の志士を慰霊に力を注いでいた品川弥二郎は、長州と退耕庵との浅からぬ縁に鑑み、明治27年(1894年)退耕庵維持会を作って後援していたそうです。

ここの本堂には、「その165」で紹介した防長藩士の墓に眠る48人の位牌が安置されています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-23 01:46 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その164 「東福寺」

東山九条にある東福寺を訪れました。

ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで長州軍の本陣が布かれた場所です。


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嘉禎2年(1236年)、摂政の九条道家が九條家の氏寺として建立したと伝わる東福寺は、京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭を有する大寺院です。


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東福寺は紅葉の名所としても知られています。

わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)11月26日で、観光客でたいへん賑わっており、庭園はほとんど牛歩状態でした。


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東福寺は東山の東南端、伏見と接する位置にあります。

大坂城から鳥羽街道を北上して鳥羽と伏見の2方に分かれた幕府軍に対して、長州軍は主に伏見方面の戦闘を担当しました。


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山門の横には、「維新戦役忠魂之碑」が建てられています。


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篆額は山縣有朋の書だそうです。

大正6年(1917年)11月に行われた長州藩殉難の士五十回忌に建てられたそうで、表には戊辰戦争の概略と長州軍の活躍をたたえた文面、裏には鳥羽・伏見の戦いで戦死した48名の名前が刻まれています。


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その横には「防長忠魂碑」と刻まれた石碑も。


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せっかくなので、紅葉の写真をアップしておきます。


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鳥羽・伏見の戦いは1月だったので、紅葉は散ったあとですね。

長州藩にとっては、文久3年(1863年)の八月十八日の政変で追放されて以来、約4年半ぶりの入京がここ東福寺だったわけです。

断腸の思いで見た景色だったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-17 01:21 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)