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太平記を歩く。 その193 「楠木正儀卿駒繋樟(香具波志神社)」 大阪市淀川区

大阪市淀川区にある香具波志神社に、楠木正成の三男・楠木正儀が愛馬を繋いだ楠の切株があると知り、訪れました。


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社伝によれば、天徳3年(959年)秋、稲荷大神である食稲魂神(うかのみたまのかみ)・

保食神(うけもちのかみ)を祀ったことに始まるそうです。


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「香具波志(かぐはし)」の社名は、孝徳天皇(第36代天皇)が有馬温泉へ行幸の途中、当地を通った際、「かこはしや此花いもみせぬかもやこの花」と詠まれた御製に由来しているそうです。


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拝殿です。


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境内の北側の隅に、小さな鳥居が見えます。

どうやら、ここが伝説の「楠木正儀卿駒繋樟」のようです。


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その伝承によると、楠木正儀が神崎川で北朝方の佐々木秀詮との戦いに向かう途中、ここ香具波志神社の前身・加島神社の楠に愛馬を繋いで参拝し、必勝を祈願したというのですが、ネット情報などでは、それを正平6年(1351年)としており、香具波志神社のwikipediaでも、そう記されています(参照)。


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でも、おそらくそれは間違いで、正儀と秀詮が戦ったのは、正平16年/康安元年(1361年)か正平17年/康安2年(1362年)のことで、約10年違っています

『太平記』巻36「秀詮兄弟討死事」に、そのことが記されています。


和田・楠是を聞て、能き時分也と思ければ、五百余騎を卒して、渡辺の橋を打渡り、天神の森に陣を取る。佐渡判官入道々誉が嫡孫、近江判官秀詮・舎弟次郎左衛門、兼て在国したりければ、千余騎にて馳向ひ、神崎の橋を阻て防戦んと議しけるを・・・


上記、「渡辺の橋」とは、現在の天満橋あたりで、「天神の森」とは、おそらく西成区天神ノ森あたり。

「神埼の橋」とは、おそらく尼崎市神埼かと思われます。


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「楠木正儀卿駒繋樟」は、推定樹齢800年で、樹高27m、幹周り7mと、大阪市内ナンバーワンの巨木だったそうで、昭和13年(1938年)には天然記念物に指定されましたが、残念ながら昭和42年(1967年)に枯死してしまい、その後、樹先や枝を払ってしばらくはその姿を留めていたそうですが、それでも危ないということで、昭和51年(1976年)に今のかたちになったそうです。


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現在は、切株の上にを置き、岩木神社として祀られています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-02 00:07 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その191 「石清水八幡宮」 京都府八幡市

京都府八幡市の男山山中に鎮座する「石清水八幡宮」を訪れました。

貞観元年(895年)の創建と言われる石清水八幡宮は、数々の歴史の舞台に登場する大社ですが、『太平記』の時代にも、その地理的要衝から恰好の軍事目標となり、何度も軍事拠点となって兵火にも晒されました。


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『太平記』で最初に石清水八幡宮が登場するのは、配流先の隠岐島を脱出した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が船上山に立てこもると、天皇は共に隠岐島を脱出した千種忠顕山陽・山陰道の総司令官に任命し、援軍として京に向かわせます。

楠木正成、護良親王、赤松則村(円心)の挙兵で六波羅が混乱しているなか、忠顕は8000の兵(太平記では20万7千騎)を率いて一気に京都を目指して出陣します。

そのとき千種軍が陣を布いたといわれるのが、ここ石清水八幡宮だったと伝えられます。


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しかし、勢いだけで突き進んだ千種軍は、あえなく六波羅軍によって撃退され、忠顕は淀川を挟んだ北東の山崎に陣を布いていた円心の元に落ち延びたと伝わります。

円心は摩耶山合戦で六波羅軍を撃退したあと、兵を山崎まで進めていましたが、六波羅軍の抵抗の前に総崩れとなり、千種軍とともに退却、再起をはかります。


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次に石清水八幡宮が舞台となるのは、建武の新政が始まった年の建武元年(1334年)9月21日、討幕の成功と王政一統を報告するために後醍醐天皇の行幸が行われたときです。

この行幸の列には、前衛に足利尊氏、中衛に楠木正成、後衛に名和長年を付き従わせ、世間に新政権は武家と朝廷が共に協力しあう政権であることを喧伝したと伝わります。

しかし、この頃すでに武士たちの不満が積もり始めており、尊氏が反旗を翻すのは、この翌年のことです。


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本殿の近くには、楠木正成が建武元年(1334年)に必勝を祈願して植えたと伝わるクスノキがあります。

『洛陽名所集』によると、「戦勝軍利を祈り、楠千本を八幡山にうへけり」とあります。

その逸話が事実だとすれば、この行幸の際に植えられたのかもしれませんね。


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でも、だとすれば、この時点で正成は、近い将来戦が起こることを予感していたということでしょうか。


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樹齢700年近くなる大樹は、根周り18m、樹高30m、樹冠40mで、京都府指定天然記念物となっています。


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続いて石清水八幡宮が舞台となるのは、足利幕府が成立した翌年の延元2年/建武4年(1337年)12月、南朝方の北畠顕家新田義貞の子の新田義興とともに再起をかけて、ここ石清水八幡宮に籠城します。

これに対して尊氏が差し向けた高師直率いる包囲軍は約10万、一方の籠城軍は2000ほどだったといわれます。


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しかし、北畠、新田ら籠城軍はよく戦い、籠城は4ヶ月に及びますが、結局は衆寡敵せず

籠城軍は総崩れとなり、石清水八幡宮軍は高師直軍の手によって、火にかけられます。

このとき、籠城軍の多くが焼死したと伝わります。


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そして最後に石清水八幡宮が舞台となるのは正平6年/観応3年(1352年)に起きた「正平の役(八幡の戦い)」のとき。

足利幕府の内紛に乗じて一時、南朝方が京を奪回すると、ここ男山八幡の麓に後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の仮皇居が置かれますが、その後、勢力を盛り返した足利義詮軍が攻め寄せ、男山八幡を背にしたこのあたり一帯が戦場となります。


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幾多の戦乱に巻き込まれた石清水八幡宮。

現在、国宝に指定されている石清水八幡宮の社殿は、寛永11年(1634年)に徳川家光が寄進したものです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-31 09:06 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(0)  

太平記を歩く。 その186 「御所八幡宮」 京都市中京区

「その157」で紹介した「足利尊氏邸・等持寺跡」から高倉通を50mほど下ったところに、「御所八幡宮」という小さな神社があるのですが、ここも、足利尊氏ゆかりの場所です。


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応神天皇(第15代天皇)、その生母の神功皇后、そして比売神の三神を祭神とするここ御所八幡宮は、もとは御池通堺町西南角御所八幡町にあったそうですが、太平洋戦争中に御池通りの強制疎開によってこの地に移転されたそうです。


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神社の由緒書によると、鎌倉時代の弘安元年(1278)に二條内裏焼失したことにより、一時、公卿・中院通成三條坊門万里小路邸を内裏とした後宇多天皇(第91代天皇)が、邸内に石清水八幡宮を勧請したことに始まります。


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その後、時代が下って足利尊氏による室町幕府が樹立すると、副将軍の職にあった弟の足利直義がこの地に邸を構えていましたが、正平7年/文和元年(1352年)に直義が没すると、兄の尊氏は御所八幡宮を再興して足利氏の鎮守としました。


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この八幡社が「御所」八幡宮と呼ばれるのは、将軍である尊氏が鎮守としたことから由来し、尊氏の法名によって「等持寺八幡」とも、また、このあたりの地名をとって「高倉八幡」とも呼ばれてきました。


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ちなみに、直義の死は尊氏による毒殺という見方が一般的ですが、これは『太平記』のみが伝える説で、証拠となる史料は存在しません。

ただ、直義の死は尊氏による幽閉中だったこと、その死があまりにも突然だったこと、直義が没した日が奇しくも自身の宿敵であった高師直・師泰兄弟の一周忌に当たる日だったことなどから、あくまで推論の域を出ないにしても、毒殺説はかなりあり得る話だとわたしは思います。


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直義の死によって「観応の擾乱」は一応の決着を見ますが、直義派の武士による抵抗は、その後、尊氏の落胤で直義の養子となった足利直冬を盟主として、尊氏の死後まで続きます。


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現在、ここ御所八幡宮は安産・幼児の守り神として知られ、子供の夜泣き疳の虫退治に御利益があるという三宅八幡宮とともに「むし八幡」と呼ばれ、地元の人に親しまれています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-23 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その185 「赤松円心公墓所(常厳寺)」 兵庫県三木市

三木市にある常厳寺に赤松則村(円心)の墓があると知り、訪れました。


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でも、一般に知られている円心の墓所は京都の建仁寺にあり、供養塔はが兵庫県赤穂郡上郡町の金華山法雲寺にあります。

それが、なぜ三木市にあるのか・・・まあ、墓所が複数あるという話はよくあることなので、とりあえず訪れてみることに。


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門前の「温故知新」の石碑の背面には、たしかに「開基・赤松円心公墓所」と刻まれています。


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しかし、探せど探せど、境内にそれらしき墓石が見当たりません。

そこでスマホでググってみると、どうやら境内内ではなく、近くの墓苑にあるようです。

早速周辺を逍遥。


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墓苑は常厳寺境内を出て少し北に行ったところにありました。

そこに、白塀で囲われた特別な場所といった空間が見えます。


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円心の墓、見つかりました。

でもちょっと、綺麗すぎるんじゃない?

ネットで見たときは、ほとんど崩れかけの古い墓だったような・・・。


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よく見ると、「維持平成廿八年二月建立」とあります。

なんだ、去年建て直されたんじゃないか!


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背後に並べられた古い石碑と、周囲を囲む白塀の下の石垣は、当時のものなんでしょうね。

崩れかけていたから建て直したのでしょうが、もうちょっと、元の墓石を修理するだけとか、なんか方法はなかったのでしょうか?

これじゃあ、歴史的価値は皆無で、もはや史跡ではありません。

わたしの親父の墓のほうが歴史があるという・・・(苦笑)。


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円心は、「観応の擾乱」においては足利尊氏に従い、軍を編成している最中の正平5年/観応元年(1351年)1月11日、京都七条にある邸宅で急死しました。

享年74歳。


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なぜこの地に円心の墓があるかというと、円心が入道となって上郡に法雲寺を建立したとき、東播磨の三木にも守護仏を祀る寺を建てて聖観音を安置したそうで、それが君峯山常厳寺の縁起だそうで、その縁でこの地に埋葬されたのだとか。

京都で死んだ円心の亡骸が三木に埋葬されたとは考えづらいのですが、あるいは、分骨されて一部が埋葬されたのかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-20 22:33 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その181 「鷲林寺」 西宮市

西宮市にある鷲林寺を訪れました。

ここは、正平6年/観応2年(1351年)2月17日に起きた「観応の擾乱」における「打出浜の戦い」において、足利直義が陣を布いたとされる場所です。


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「光明寺合戦」で勝負を決することができなかった足利尊氏軍は、軍勢を兵庫に移し、摂津の赤松範資と合流して大軍を形成します。


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同年2月17日、ここ鷲林寺や越水に陣を布く直義に対し、これを攻めるべく尊氏は2万の軍勢を現在の神戸市東灘区の御影の浜に進めますが、あまりにも兵の数が多すぎて逆に統制がとれず、敗北を喫します。


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総崩れとなった尊氏は松岡城へ逃げ込み、そこで高師直を出家させるという条件で直義と和睦するのですが、師直らが京都に護送される途中、ここ鷲林寺前で養父を師直に殺された上杉能賢に襲われ、師直以下一族の多くが殺害されました。


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多宝塔です。


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ここを訪れたのは3月で、写真は裸木が目立ちますが、春は、秋には紅葉が綺麗なところです。


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敷地内にある石塔群です。

説明看板によると、これらの塔が作られたのは13世紀後半から14世紀初めと考えられているそうです。

あるいは、「打出浜の戦い」に関係してるかも・・・。


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七重塔に「信玄公墓」と書かれた木札が置かれていますが、そんな伝承があるそうです。

ただ、時代的に合わないようで、あくまで伝承の域をでません。


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この時代、大寺と城はセットだった場合が多く、かつてここにも鷲林寺(十林寺)城があったという説もあります。

そこで、寺の裏山を登ってみました。


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城跡らしき遺構は確認できませんが、登山道は大きな岩がゴロゴロと転がっていて、城の名残といえなくもない気がしましした。


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かなり急勾配な登山道で、しかも大きな岩が多いため、結構キツイ登山でした。


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15分ほど登ったところにある岩場からの眺望です。

北は宝塚方面から川西池田まで、東は広大な大阪平野、南は西宮から大阪湾を望む大パノラマです。


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正面に見下ろすのは、標高309.2mの甲山です。


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このロケーションですから、として利用しないはずがありません。


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かつて鷲林寺は寺領70町歩・塔頭76坊を誇る大寺院だったそうですが、見てのとおり、陣を布くのに絶好の場所にあったため、その後も幾度となく戦火に巻き込まれ、最後は、天正7年(1579年)の荒木村重討伐の織田軍により、鷲林寺は兵火にかかり、衰退していったそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-14 08:32 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その179 「光明寺城(滝野城)跡」 加東市

兵庫県加東市にある光明寺にやってきました。

この裏山にかつて光明寺城(別名:滝野城)があり、「観応の擾乱」における「光明寺合戦」の舞台になりました。


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足利直義によって派遣された石塔頼房が、中国筋平定のため書写山にいた足利尊氏を討つべく、ここ光明寺に陣を布いて京にいた直義に援軍を求めました。

それを知った尊氏は援軍の来る前にうち破ろうと、1万の兵で光明寺を囲みます。

正平6年/観応2年(1350年)年2月4日のことでした。


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尊氏は引尾山高師直鳴尾山赤松則祐八幡山に陣を布いて光明寺の石塔軍と戦いますが、10日間に及ぶ戦闘にも決着がつかず、やがて援軍が迫ると、尊氏は光明寺の包囲を解いて摂津へと軍勢を移し、そして、「その66」で紹介した打出浜の戦いにつながります。


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標高230m、比高150mの場所に本堂がある光明寺ですが、かなり上まで車で登っていけますので、訪れるにそう難しくはありません。


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駐車場から見た東の眺望です。


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南は遥かに東播磨平野が広がります。


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入口には五峰山光明寺と刻まれた石碑があります。


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光明寺は推古帝2年(594年)法道仙人開基と伝えられ、文明年間(1469年~1487年)頃には25の塔頭寺院が山頂に建つ並ぶ壮大な寺院だったそうですが、現在ではわずかに4つの院坊が残るのみとなっています。


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ここを訪れたのはゴールデンウィーク中の5月4日でしたが、紅葉の季節に来れば、きっとメチャメチャ綺麗だと思います。


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仁王門です。


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ここもの木だらけです。


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本堂です。


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本堂脇を抜けて裏山に入ると、すぐに「光明寺合戦本陣跡」と刻まれた石碑があります。

ここが、石塔頼房が5000余りの兵で陣を布いた場所と推定されているそうです。


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本陣跡には、観光客用に足利氏の家紋である二つ引両を記した陣楯が置かれ、本陣っぽく演出されていたようですが、随分以前のものらしく、ほとんど朽ち果てています。


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あるいは、大河ドラマ『太平記』のときに作られたものかもしれませんね。

だとしたら、25年前のことです。

そろそろ作りなおしてはどうでしょう?


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本陣跡の説明板です。


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本陣跡の近くには、『太平記』に記された「山鳩の悪夢」「高家無文の白旗」といった逸話を紹介した案内板がありました。


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本堂から少し下ったところに、物見台があります。

そこからの眺望です。


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ズームすると、遥か南に神戸市西区の雌岡山(めっこうさん)と雄岡山(おっこうさん)が見えます。


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参道脇には、滝野城主・阿閇重氏の墓があります。


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阿閇重氏という人物のことはよく知らないのですが、墓石には、「大永六丙戌年歿」と刻まれていますので、西暦1526年、現在より490年前に没した人物のようです。

その後、光明寺は現在まで続きますが、光明寺城(滝野城)がいつまで存在していたのかは、定かではありません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-11 22:09 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その178 「石龕寺」 兵庫県丹波市

兵庫県丹波市にある石龕寺までやってきました。

難しい漢字ですが、石龕寺(せきがんじ)と読みます。

ここは、「観応の擾乱」にて敗れた足利尊氏とその嫡子・足利義詮が、一時この地に身を寄せたと伝わる寺です。


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「観応の擾乱」とは、南朝、北朝の争いが続くなかで起きた、足利氏内部での内紛のことをいいます。

征夷大将軍に任ぜられ幕府を開いた足利尊氏は執事・高師直とともに、地方武士を取り込み、新体制を樹立しようとしていました。

しかし、尊氏の弟・足利直義は、こうした体制に反対で、鎌倉幕府的体制の再建をめざします。

こうして、尊氏・高師直と直義は対立することになり、とうとう両者は武力衝突してしまうんですね。

これが正平5年/観応元年(1350年)からの「観応の擾乱」です。


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まず、尊氏の子で直義の養子となっていた足利直冬が九州で挙兵、これを討つため尊氏が九州へと向かったすきに、直義は京を固めてしまいます。

それを知った尊氏は、年が明けた正平6年/観応2年(1350年)年1月、京へ引き返して直義と戦うも負けてしまい、兵庫へ落ちのびます。

その際、一時身を潜めていたのが、ここ石龕寺だったと伝わります。


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『太平記』巻29「将軍親子御退失事付井原石窟事」によれば、尊氏は嫡子の義詮に仁木頼章、義長兄弟を添え、2000騎を当地に留めたといいます。

このとき、石龕寺の僧が足利氏に丹波栗を献上したそうで、それを受けた義詮は、そのひとつに爪痕を付け、「都をば出て落ち栗の芽もあらば世に勝ち栗とならぬものかは」(もしこの栗が芽を出せば、都に出て天下を取ったものと思ってくれ)という歌を添え、栗を植え立ち去りました。

その後、首尾よくそのとおりとなったため、「爪あと栗」または「ててうち栗」として伝えられるそうです。


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仁王門の金剛力士像(仁王像)は仁治3年(1242年)に作られたもので、国の重要文化財に指定されています。

ということは、尊氏、義詮も同じものを目にしたんですね。


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携帯電話も圏外になるほど人里離れた山奥にある石龕寺は、その名称のどおり、城郭のごとく各所に石垣が積まれています。


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本堂です。

方三間、宝形造り、銅板葺、唐破風向拝付です。


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本堂前にある巨木「コウヨウザン」です。

推定樹齢300年だそうですから、さすがに、『太平記』の時代は知りません。


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とにかく石垣が見事です。


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本堂横には、奥の院に向かう参道入口があります。

ここから奥の院まで約30分の登山です。


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登山口を登るとすぐに、防獣柵があります。

ここを開けて進むと、道はいきなりハードになります。


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道中、明らかに石垣跡と思われる遺構が所々に点在していました。


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ここも、この時代の他の大寺院がそうであるように、寺と城が一体となって要塞化した武装寺院だったのでしょうか?


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急斜面を約30分登ると、建物が見えてきました。


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どうやら鐘楼のようです。


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奥の院鐘楼からの眺望です。


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石灯籠群の道を更に奥に進みます。


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奥の院拝殿です。


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さらに奥に進むと、休憩小屋が建てられた平坦地に、「足利将軍屋敷跡」と刻まれた石碑が建てられています。

どうやら、尊氏、義詮がしばらく逗留していたというのは、この場所のようです。


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でも、すいぶん狭小な敷地で、どう考えても、ここに2000の兵を留め置いたとは思えません。

たぶん、ここには将軍と側近の仁木兄弟と、身の回りの世話をする小姓が少数いたのみで、あとは、ここに登ってくる途中にあった石垣跡などにあったと思われる曲輪などにいたんでしょうね。


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ここ石龕寺は紅葉が美しいことで有名で、毎年11月第3日曜日には「もみじ祭り」が催されます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-10 23:04 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その176 「楠妣庵観音寺」 大阪府富田林市

楠木正成の妻で、楠木正行の母である久子が、夫と息子の戦死後に出家して菩提を弔った場所と伝わる「楠妣庵観音寺」を訪れました。


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参道入口では、「太平記の里」と書かれた大きな看板が迎えてくれます。


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「峰篠山楠妣庵観音寺」というのが正式名称で、その起源は、在世中の楠木正行が後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の崩御を悼み、峰篠山の一角に後醍醐天皇の念持仏であった千手観音を安置した「峰條山観音殿」と称する一殿を建立したのが始まりとされます。


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山門に上る階段の横には、久子と正行の母子像があります。


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「その163」で紹介した四条畷神社にも、同じ母子像がありましたよね。


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これは、『太平記』巻16「正成首送故郷事」に出てくるくだりで、「湊川の戦い」で自刃した父・正成の首が河内の一族のもとに送られてきたとき、それを見た11歳の正行はショックを受けて自害しようとしますが、これを見た久子は正行をこう叱責して諭します。


「栴檀は二葉より芳」といへり。汝をさなく共父が子ならば、是程の理に迷ふべしや。


「栴檀は双葉より芳し」とは、大成する者は幼いときから人並み外れてすぐれているということ。

つまり、楠木正成の息子ともあろう者が、この程度のことで何を血迷っているのか・・・と。

有名なくだりですね。

母は強し。


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山門への階段を上ります。


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山門横には、高さ30mケヤキの巨樹が聳えます。

樹齢どれくらいでしょうか?


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階段横には楠木正成像が。


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この短足具合が、大河ドラマ『太平記』武田鉄矢さん扮する正成に似てます(笑)。


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説明板によると、この像は元弘3年/正慶2年(1333年)5月に隠岐の島を脱出した後醍醐天皇と、「その60」で紹介した摂津国の福厳寺で対面したときの正成の姿だそうです。


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山門です。

もとは山形県の恵林寺塔頭青松軒に建立されていた門だそうで、本坊が焼失して門だけが残存していたものを昭和39年(1964年)、大楠公夫人600年祭に移築されたそうです。


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山門をくぐると、すぐに本堂があります。

大正11年(1922年)に再興されたものだそうで、正成の旗頭の文字「非理法権天」が掲げられています。


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本堂前にある「菊水」家紋入りの水桶


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本堂前の石段を上ると、久子の墓があります。


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こちらがその墓。


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久子は甘南備の豪族・南江備前正忠の妹もしくは娘といわれ、ここ甘南備の矢佐利に生まれたと伝わります。

ちなみに久子という名は、観心寺過去帳によるとされます。

元亨3年(1323年)、20歳で正成と結婚。

ここ楠妣庵観音寺の説明書きには、正成との間に正行、正時、正儀、正秀、正平、朝成6人の子をなしたとありますが、実際には、実子とみられるのは正行、正時のふたりで、そのほかの子が久子の子であるかどうかは定かではありません。


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墓は600年余りささやかな五輪一基が寂しく祀られていましたが、現在は玉垣に囲われた立派な墓所になっています。


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墓所の側らには楠木一族の供養塔が。


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墓所の隣にある観音堂です。

久子の念持仏である「十一面観音」が祀られている小堂で、大正6年(1917年)5月に建立されたそうです。


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こちらは、久子が隠棲したとされる草庵「楠妣庵」復元です。

観音堂と同じく大正6年(1917年)5月に建立。


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皇太子時代の昭和天皇(第124代天皇)もここに行啓されたそうで、お手植えのクスノキがあります。


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正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」正行、正時兄弟が戦死すると、久子は生まれ故郷の甘南備に隠棲し、名を「敗鏡尼」と称し、夫正成をはじめ一族郎党の菩提を弔い、ひっそりと16年間の余生を過ごしたといわれます。

その隠棲地を「楠妣庵」といい、久子の没後、正行の弟・正儀が観音殿を改め「観音寺」として楠一族の菩提寺としたことから、「楠妣庵観音寺」と呼ばれるようになったそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-05 22:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その172 「楠木正行首洗の井戸(枚岡神社)」 大阪府東大阪市

東大阪市に枚岡神社という由緒ある神社があるのですが、その参道にあたる枚岡梅林の入口に、楠木正行ゆかりの井戸があります。


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その伝承によると、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」において、楠木正行・正時兄弟率いる南朝軍と、足利幕府方の高師直率いる北朝軍が激突し、南朝方は惨敗を喫しますが、そのとき、討ち取られた正行の首が、この井戸で洗われたといいます。


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四條畷の戦いの舞台は、「その163」から「その167」で紹介した現在の四条畷市通説となっていますが、「その170」「その171」で紹介した東大阪市の四条付近だったという説も根強く、もし、この井戸が伝承どおりの井戸だったとすれば、後者の説に沿ったものだと思われます。


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井戸を囲う石はそれほど古いものではなさそうで、とても由緒ある井戸には見えません。


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立札には、「楠木正行公縁の井戸」と記されていますが、以前は、「楠木正行公首洗いの井戸」と書かれていたそうです。

表現が惨たらしいので、変えちゃったのでしょうか?

縁の井戸と言われても、どんな縁かわからないですよね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-25 19:36 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その165 「楠公寺」 大阪府大東市

前稿で紹介した飯盛山山頂から少し南に下ったところに、「楠公寺」という名称の小さなお寺がありました。

「楠公」と名がつくからには、楠木正成・正行父子と何らかの関係があるのだろうと思い、立ち寄ってみることに。


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こちらが本堂

それほど古い寺ではなさそうです。


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説明看板です。


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その説明によると、楠木正行をはじめ「四條畷の戦い」戦死者を弔うために開山したとあります。

昭和25年(1950年)に飯盛山妙法寺改め楠公寺としたと。

その名付け親は、池田隼人大臣(故)とありますが、池田勇人元総理大臣の間違いではないでしょうか?


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ただ、正行を忠臣と評し、高師直賊将としているあたりは、あまりよろしくないですね。

第二次世界大戦後に開山した寺だというのに、戦前の皇国史観から脱却できないままです。


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境内横の傾斜面にある墓石群の中央には、「楠氏有縁無縁之諸々霊位報恩塔」と刻まれた石碑があります。


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最後に、寺周辺の紅葉写真です。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-10 01:31 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)