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太平記を歩く。 その163 「四条畷神社」 大阪府四條畷市

大阪府四條畷市にある「四條畷神社」にやってきました。

ここは、楠木正成の嫡男・楠木正行を主祭神とする神社です。


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正平2年/貞和3年(1347年)9月から11月にかけて、南朝方・楠木正行軍に摂津国天王寺・住吉浜にて大敗を喫した北朝方は、翌年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、本格的な南朝攻撃を開始します。

そして1月5日、両軍が激突したのが、河内国北條(大阪府四條畷市・大東市)でした。

後世にいう「四条畷の戦い」です。


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結果は、圧倒的な兵力の足利軍が圧勝します。

『太平記』では、楠木軍が少数の兵で突撃し、あと一歩で師直の首を取るところまで迫ったと伝えていますが、実際には兵力の差は歴然で、楠木軍の惨敗だったようです。

正行は弟の正時刺し違えて自決しました。


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ここを訪れたのは12月3日でしたが、かろうじて紅葉が残っていました。


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神社の歴史は比較的新しく、社殿が完成して御鎮座祭が執り行われたのは、明治23年(1890年)だそうです。

明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成「大楠公」として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も、「小楠公」と呼ばれ崇められるようになりました。

そして、討死したと伝わるここ四條畷の地に、正行を祀る神社ができたわけです。


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全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、元別格官幣社でもあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に父の正成を祀る神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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社殿の横に目をやると、見憶えのある2体の石像が。


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そう、「その87」で紹介した櫻井驛跡や、「その144」で紹介した吉野山如意輪寺にあった、楠木正成・正行父子の桜井の別れ像です。


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題して、「紅葉と楠木父子」(笑)。


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拝殿の横には、正成の妻であり正行公の母である久子を祀った御妣(みおや)神社があります。


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その側には、久子・正行母子の石像が。


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『太平記』巻16「正成首送故郷事」によると、「湊川の戦い」で自刃した父・正成の首が送られてきたとき、それを見た11歳の正行はショックを受けて自害しようとしますが、久子がこれを叱責し、父の遺志を継いで忠臣となるよう諭したといいます。


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叱られているのに笑ってます(笑)。


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父の正成は江戸時代から英雄視されていましたが、父子ともに神格化されたのは明治に入ってから。

多分に政治的意図が含まれた神といえます。

人神とは、そういうものなんでしょうけど。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-08 00:50 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その159 「景徳山安国寺」 京都府綾部市

足利尊氏生誕地と伝わる京都府綾部市を訪れました。

足利氏といえば、栃木県の足利荘を思い浮かべるのですが、実は、尊氏が生まれたのは母・清子の実家、上杉氏の本貫地である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘だったそうです。

700年前にも、里帰り出産があったんですね。


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その生誕地にある安国寺に、尊氏と母の清子、そして妻の登子供養塔があると知り、車で約2時間かけて遠路はるばる訪れました。


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寺に入口には、「足利尊氏公誕生の地」と刻まれた石碑があります。


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紅葉の名所だと聞いていたので、その季節を狙って11月20日に訪れたのですが、あいにくので、残念ながら暗い写真ばかり。


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全国各地に「安国寺」という名称の寺がありますが、その多くは、尊氏の時代に建立および改修・改名されたものです。

延元3年/暦応元年(1338年)、征夷大将軍となって室町幕府を開いた尊氏は、禅僧・夢窓疎石の勧めで前稿で紹介した天龍寺の建立を始めるとともに、元弘の乱以降の戦死者を弔うため、国ごとに1寺1塔を建てる計画を立てます。

このときの寺を「安国寺」、塔を「利生塔」と称しました。

山城国の安国寺には、あの一休宗純(一休さん)がいたことで有名ですね。


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山門の扉には、足利氏の二つ引の紋章が。


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安国寺と利生塔は新しく造営されたものもありましたが、既存の寺院を修理してこれにあてた国もありました。

ここ綾部市の安国寺は、もとは清子の実家・上杉氏の菩提寺・光福寺としてあったものを、尊氏が丹波国の安国寺と定め、諸国安国寺の筆頭におきます。

自身の生誕地ということもあったでしょうが、母を敬う尊氏の思いが込められていたのでしょうね。


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雨じゃなければ、きれいな写真だったでしょうけどね。


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茅葺の仏殿は寛保3年(1743年)に再建されたものだそうです、。


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ここにも二つ引が。


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そして、こちらが境内奥にある、尊氏・清子・登子の供養塔と伝わる宝篋印塔です。

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向かって左から、清子、尊氏、登子の供養塔と伝わります。


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説明板です。

『安国寺文書』によると、二代将軍・足利義詮によって尊氏と登子の遺骨が安国寺に奉納されたと記されているそうで、南北朝時代のものとさせるこの宝篋印塔が、その墓碑だと考えられているそうです。

でも、だったら、清子の墓っていう伝承は、なんの根拠なんでしょうね?


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あいにくの雨でしたが、せっかく綾部市まで来たので、次稿、もう一回綾部市をやります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-01 00:11 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

鞆の浦の龍馬の足跡を訪ねて。 その5 「福禅寺・對潮楼(いろは丸事件第2・3回談判場)」

前稿で紹介した旧魚屋萬蔵宅の東側の高台にある福禅寺・對潮楼が、慶応3年(1867年)4月25日と26日に行われた「いろは丸事件」2回目、3回目の談判場となりました。


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細い路地の坂道を上ると、「国史跡 對潮楼」と書かれた誘導板が出てきます。


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海岸山千手院福禅寺は、平安時代の天暦年間(950年頃)の創建と伝えられる真言宗の寺院です。


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石碑には、「日東第一形勝」と刻まれています。

この言葉は、正徳元年(1711年)にここを訪れた朝鮮通信使が、あまりにも美しい景観に感動して言った言葉だそうです。

つまり、朝鮮より東で一番美しい景色ってことですね。

楽しみです。


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本堂です。

元禄年間(1690年代)に建立されたそうです。


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隣接する客殿・對潮楼も、同じ時代に建てられたものだそうです。

「對潮楼」という名称は、延享5年(1748年)に訪れた朝鮮正使の洪啓禧が名付けたそうです。

さっそく對潮楼に行ってみましょう。


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おおっ!


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おおおおっ!


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たしかにこれは素晴らしい!


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窓枠が額縁の絵画のようです。


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話をいろは丸事件の談判のことに戻します。

慶応3年(1867年)4月25日、2回目の交渉の席についた坂本龍馬は、要領を得ない紀州藩汽船・明光丸船長の高柳楠之助に対し、急場の難を救うために1万両を要求します。

これを受けた高柳は、「お申し出のとおり1万両は出すが、返済期限を立てられたい」と返答します。

ところが、これに対して龍馬は、「弁償金の一部として受け取るので、返済期限を立つべき性質のものではない」と、強気に跳ね返したといいます。

万国公法に明るい龍馬は、よほど自信があったのでしょうか?


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坂本龍馬率いる海援隊の船・いろは丸と紀州藩汽船・明光丸が瀬戸内海で衝突したこの事故ですが、実は、海援隊側に重大なミスがあったという説があります。

西から東へ向かういろは丸と、東から西へと向かう明光丸。

この2隻が衝突しそうになった場合、お互いに面舵、つまり右折して回避するのがルールなんだそうです。

ところが、記録では、いろは丸は左折し、右折の明光丸と衝突しています。

あわてた明光丸は一旦、五十間(約90メートル)ほど後退したあと、また前進して今度はいろは丸の船腹を完全に衝いてしまったため、いろは丸は大破、沈没しました。

つまり、致命傷となった2回目の衝突は明光丸側に過失があるとしても、最初の操縦ミスはいろは丸側にあったというんですね。

もし、これが本当の話なら、いろは丸側の方が不利な立場だったんじゃないでしょうか?

龍馬はこれを知らなかったのか・・・。

神戸海軍操練所航海術を学び、さらに国際ルールにも明るい龍馬ですから、知らなかったとはとても思えない。

だとしたら、なかなかしたたかですね。


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交渉は翌26日も平行線をたどり、27日午後に交渉は決裂

談判の場は長崎に移されることになります。

このあと龍馬は、身の危険を感じたのか、万一の場合、自分の死後は妻・お龍を故郷の土佐に送り届けるよう、寺田屋事件で生死を共にした三吉慎蔵に手紙を送っています。

それほど殺気立った交渉だったのでしょうね。

龍馬も見たであろうこの景色。

とても景色を楽しむような気分ではなかったでしょう。


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観光客用の渡し船「平成いろは丸」です。

実際のいろは丸に比べるとぜんぜん小ぶりですが、まあ、町おこしの一環でしょうね。


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長崎での談判では、互いに航海日誌を交換し、双方の言い分を検証した結果、ついに紀州側が根負けし、衝突時に明光丸には見張り役がいなかったこと、一度ならず二度に渡っていろは丸に衝突したことを認めます。

しかし、それでも紀州側は完全に負けを認めず、幕府御三家の立場をかさに、長崎奉行所を味方につけて海援隊側を威圧する策に出ました。

ところが龍馬も負けておらず、世論を味方につけます。


 「♪ 船を沈めてその償いに 金を取らずに国を取る 国を取ったらミカン食う♪」


こんな狂歌をつくり、長崎丸山の妓楼で歌わせたそうです。

この歌はたちまち巷間に流行し、長崎市民の同情はいずれも海援隊に集まりました。

さらに龍馬は、追い打ちをかけるように交渉の席に土佐藩家老の後藤象二郎を引っ張り出し、一海運業者vs紀州藩の事件を、土佐藩vs紀州藩という、同等の立場での、いわば政治的な談判としました。

藩同志の談判となれば、紀州側もこれまでのような脅しまがいの交渉は出来ません。

もはや勝算なしと見た紀州藩は、薩摩藩士・五代才助(のちの五代友厚)に調停を頼み、その裁定で紀州藩は賠償金8万3千両を海援隊に支払うという条件で、ようやく事件に決着がつきます。

龍馬の巧みな世論操作、そして後藤を使って政治問題にすり替えた強かさ、さらには、大藩相手に怯まない腹の据わったリーダーシップ

どれをとっても、一級品の外交手腕ですね。

現代の政治家さんにも見習ってほしいものです。


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くつろいでいるのは、わたしの高1の娘です(笑)。


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サザエさんも鞆の浦に来たようです(笑)。


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最後に、下の道路に降りて、さっきまでいた對潮楼を見上げます。

この日、鞆の浦での滞在は約3時間

まだまだ観光スポットはたくさんあったのですが、時間に限りがあったため、龍馬関連に絞って観光しました。

また機会があれば。









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by sakanoueno-kumo | 2017-11-26 00:27 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その155 「石峯寺・石峯寺城跡」 神戸市北区

神戸の北のはずれに、石峯寺(しゃくぶじ)という寺院があります。

ここは重要文化財三重の塔薬師堂で有名ですが、かつてこの石峯寺の裏山にがあったということは、あまり知られていません。


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参道を上って重要文化財の仁王門を潜ります。

両脇に金剛力士像の造像年代はわかりませんが、かなり古いもののようです。

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こちらは向かって右側の阿形仁王

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そし、こちらが左側の吽形仁王です。

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「建武の新政」が始まって間もないころの石峯寺は、47の坊があり、さらに付近の百姓を加えると200人あまりの僧兵を擁していたといい、南朝方に味方していました。

ところが、はじめは石峯寺の衆徒たちと一緒に南朝方について兵を挙げた赤松則村(円心)は、建武の新政ののち足利尊氏に味方して北朝方についたため、寺の衆徒たちとは激しい対立関係となります。


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延元4年/暦応2年(1339年)8月29日、円心は三男の赤松則祐に命じ、東播州一帯の南朝軍を攻めさせました。

このとき、ここ石峯寺城も包囲されますが、同時に近くの淡河城も攻め落とされ、もはや援軍は見込めないと考えた僧兵たちは、何よりも本堂三重の塔などを兵火から守るため、200人挙って城外に駆け出し、赤松軍の包囲を突破し、寺から遠くはなれた場所まで移動して戦ったといいます。

そのおかげで、建物は兵火に遭うことなく、重要文化財となった現在に至ると。


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山門には「孝徳天皇勅願所」と刻まれた石碑があります。

寺伝によれば白雉2年(651年)、孝徳天皇(第36代天皇)の勅願により、法道が開山したとされます。


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本堂です。


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こちらは中堂の薬師堂

聖武天皇(第45代天皇)の開山で天平19年(747年)に行基が建立したと伝わり、国の重要文化財に指定されています。


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本堂東にある三重塔です。

弘仁14年(823年)に嵯峨天皇(第52代天皇)の勅願により建立したと伝わりますが、ちょうど『太平記』の時代あたりに、建てられたとの説もあります。

この三重塔も、国の重要文化財に指定されています。

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敷地内には、暦王4年(1341年)4月に造られたことが確認できる石造五輪塔があります。

時期的にみて、あるいは赤松氏との戦いに関係があるかもしれません。


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城があったとされる裏山に入ってみました。


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岩肌を削った穴のなかには、観音石像が祀られています。

裏山の空間は人工的に作られた遺構のようにも見えますが、自然にできたようにも思えて素人の私には判断がつきません。


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でも、明らかに何らかの建造物があったと見られる削平地もあります。

まあ、城といっても、この時代の多くの大寺院がそうであったように、寺院と砦が一体化して要塞化したものだったのでしょうね。


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寺院内の一角には、どういう理由か、歴代の徳川将軍尊霊碑が祀られていました。


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写真右から、徳川吉宗、家光、家重、家定、綱吉、家綱

あと、写真には映ってませんが、家慶、家斉、家治、家宣の碑もあります。

なぜか、家康、秀忠、家継、家茂、慶喜の5人はありません。

あと、明石城主・小笠原忠眞碑と、淡河城主有馬公(たぶん有馬則頼)碑もあります。

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次回は、この近くの淡河城を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-11-04 01:47 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その149 「阿部野神社」 大阪市阿倍野区

大阪市阿倍野区にある「阿部野神社」を訪れました。

ここは、前稿で紹介した北畠親房と、その子の北畠顕家二柱を祭神として祀る神社です。

全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、元別格官幣社でもあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年 (1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始り、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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神社への参拝入口は複数あるのですが、この日は南側から入ります。


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境内に入ると、すぐに顕家の像が目に入ります。


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親房のことは前稿で紹介したので、本稿では顕家のみ紹介します。


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元弘3年/正慶2年(1333年)8月、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が開始した建武の新政下、わずか16歳陸奥守兼鎮守府将軍に任じらた顕家は、同年10月、父と共に義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州は陸奥国へ下向し、多賀城を国府として東国経営に努めます。

延元元年/建武3年(1336年)、足利尊氏謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功。

この功績により、顕家は鎮守府大将軍に任じられます。

しかし、その後、湊川の戦い楠木正成新田義貞軍が敗北すると形勢は逆転。

やがて後醍醐天皇が吉野に落ちると、延元3年/建武5年(1338年)、京都回復のために兵を挙げて各地で転戦。

一時は北朝方を圧倒する戦いを見せますが、同年3月16日、摂津での戦いに敗れると、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠ります。

その後も顕家軍は和泉で奮戦しますが、やがて5月16日、足利方の高師直軍が堺の浦に出撃を開始し、5月22日、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げます。

享年21。


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「花将軍 北畠顕家」という歌の歌詞だそうです。

聴いたことないですが(笑)。

顕家は紅顔の美少年だったと言われ、その貴公子ぶりからも「花将軍」と称されました。

平成3年(1991年)のNHK大河ドラマ『太平記』では、当時、「国民的美少女」と持てはやされた後藤久美子さんが演じて話題になりましたね。


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拝殿です。


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いたるところに北畠家の家紋菊の紋章が。

北畠家が天皇家直属の公卿だったことを意味しているのでしょうか。


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拝殿の周りには、「建武の中興六百五十年祭を迎へて」と題した木製のなが~い看板が設置されています。


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すべて楷書手書きです。

これ、凄いですね。


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そして、こちらは西側の参拝口。


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なぜ、この地に北畠父子を祀る神社が創建されたかというと、このあたりが顕家と足利軍が戦った古戦場跡と伝わり(異説あり)、この近くに顕家の墓があったからだそうです。

次回は、その顕家の墓を訪れます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-25 22:27 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その144 「如意輪寺」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した勝手神社から、中の千本の谷を隔てた山の中腹に、如意輪寺があります。

ここは、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が吉野に行宮を定めた際、勅願所となった寺院です。

本堂裏山には、後醍醐天皇陵があります。


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寺の歴史は古く、醍醐天皇(第60代天皇)の延喜年間(900~922年)に、日蔵上人により開かれたと伝わります。


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正平2年/貞和3年(1347年)12月27日、楠木正行、正時兄弟が、一族143人を引き連れ、まず吉野の皇居に参内して後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)に別れを告げたあと、ここ如意輪寺本堂の裏山に鎮まる後醍醐天皇陵に詣で、寺の門扉に辞世の句を矢じりで彫りました。


「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」


天皇の勅願所でありながら、本堂には、楠木家の家紋・菊水の幕が張られていました。


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正行たちはそれぞれの名を過去帳にとどめて、髪を切って仏前に投げ入れ、四條畷の戦いに出陣しました。

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「正行公埋髻墳」と刻まれた石碑です。

ここに、143人の髻が埋められているそうです。


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こちらは、「楠左衛門尉髻塚碑」

慶応元年(1865年)、津田正臣によって建てられたものだそうです。


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こちらは「至情塚」

後村上天皇より正行の奥方にとの話があった弁内侍が、正行討死のあと、その菩提を弔うために尼僧となり、その黒髪を埋めたところです。


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撮影禁止だったので写真はありませんが、宝物殿には、正行が記したと伝わる辞世の扉や、後醍醐天皇御物などの寺宝が数多く展示されていました。


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宝物殿の側の庭園には、向かい合うふたりの石像が。

おや?・・・これ、どこかで見覚えが・・・。


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そうです。

「その87」で紹介した櫻井驛跡(楠公父子訣別之所)にあった、楠木正成・正行父子別れの像ですね。


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あちらは近年作り変えられたものでしたが、こちらの像は古そうです。


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正行、なんかみたいですね(笑)。


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境内の最も高い場所にある多宝塔です。

いつの時代に建てられたものかは、わかりませんでした。


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そして最後に、後醍醐天皇御霊殿です。

この中に、後醍醐天皇自作の木像が安置されているそうですが、この日は公開されておらず、観ることができませんでした。


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細かい彫刻に目を奪われます。


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かつては色鮮やかだったことがうかがえますね。


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さて、次稿は本堂裏山にある、後醍醐天皇陵を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-18 23:59 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その143 「勝手神社跡」 奈良県吉野郡吉野町

南北に細長い吉野山のちょうど中央あたりにある、勝手神社跡を訪れました。

ここは吉野八社明神のひとつで、大山祇神、木花咲耶姫など六柱の神を祭神としています。


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吉野大峯の山々を鎮める信仰があり、吉野山口神社ともいいます。

また、仏法守護の神、軍神としても有名です。


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ただ、ここの社殿は、平成13年(2001年)9月27日、不審火により焼失してしまったそうで、いまは礎石を残すのみとなっていました。

ひどいことするやつがいたものです。


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正平3年/貞和4年(1348年)1月28日、足利方高師直の大軍は、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の吉野皇居を攻め、金峯山寺蔵王堂をはじめとする吉野山の主な堂塔伽藍を焼き払いました。


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後村上天皇はその難を避けて、さらに吉野の奥に落ち延びますが、その途中、この社前で馬を下り、


「たのむかひ 無きにつけても誓ひてし 勝手の神の名こそ惜しけれ」


と、詠まれたそうです。

天皇の無念の様子がうかがえる逸話ですが、火の海と化した吉野の山中で、悠長に歌を詠まれる余裕などあったのかどうか・・・。

無粋なことをいうようですが。


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社殿の創建は不明で、慶長9年(1604年)に豊臣秀頼が改築をしましたが、正保元年(1644年)12月に焼失したため、翌年に再建、明和4年(1767年)に再び火災に遭い、9年後の安永5年(1776年)4月に再建されました。

しかし、先述したとおり、平成13年(2001年)に不審火によって焼失し、現在に至ります。

日本の木造建造物は、火災との戦いの歴史です。


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敷地内には、再建復興御寄付のお願いと書かれた看板が立てられていました。

一日も早く再建できるよう願います。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-17 23:53 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その142 「後醍醐天皇御幸の芝・慰霊歌碑」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した吉水院宗信法印の墓から南へ急坂を登ると、右側の桜が茂る小さは平地に、「後醍醐天皇御幸の芝」があります。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が吉野山皇居にいた延元4年/暦応2年(1339年)5月のある日、大勢のお供を連れてこのあたりまで御幸した際、空模様が怪しくなり、雨が降り始めたそうです。


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そこで、かたわらの観音堂に入ってしばらく休まれるうち、


ここはなほ 丹生の社にほど近し 祈らば晴れよ 五月雨の空


と詠まれると、急に空が晴れ渡り、うららかな日和になったそうです。


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この話は、『吉野拾遺』という説話集に記された逸話で、それ以来、その観音堂を「雨師観音」と呼ぶようになったのだそうです。

他にも、「夢違い観音」とも呼ばれていたそうですが、明治8年(1876年)、神仏分離によって廃されたそうです。


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現在、雨師観音があった場所には、小さな社があります。


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後醍醐天皇御幸の芝から北を見下ろすと、金峯山寺蔵王堂が見えます。


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雨師観音の伝承、信じるか信じないかは別にして、後醍醐天皇の波乱万丈の人生のなかの和みのひとときにふれた気がしますね。

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近くには、「後醍醐天皇御慰霊詩碑」と刻まれた大きな石碑があり、後醍醐天皇の御製が刻まれています。


「ここにても 雲居の桜 咲きにけり たくかりそめの 宿を思ふに」


同じく石碑には「松の下露」と題したが刻まれています。

この詩が誰のものかは調べがつきませんでしたが、「松の下露」とは、元弘の乱に敗れて笠置山から逃れる途中の後醍醐天皇が、大きな松の下で休息をとり、そのときにお供の藤原藤房と交わした歌に由来します。


「さしていく笠置の山をいでしより 天が下にはかくれがもなし」


吉野山に南朝を起こした後醍醐天皇でしたが、「こんなところに来たくはなかった」という思いが伝わってきますね。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-15 00:40 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その140 「吉水神社」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂から南東に300mほど下ったところに、吉水神社という由緒ある神社があるのですが、ここはかつて吉水院といわれ、吉野山を統率する修験宗の僧坊でした。


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延元元年/建武3年(1336年)12月21日、京都の花山院を秘かに逃れた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は、いったん吉野山に入ってから23日に賀名生(西吉野)に移り、28日に再び吉野山に入ると、吉水院の住僧であり金峯山寺の執行でもあった宗信法印らに迎えられ、ひとまず、ここ吉水院を仮の皇居としました。


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天皇は、楠木正行、真木定観、三輪西阿ら率いる兵に守られ、ここ吉水院に入ったと伝えられます。


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吉水神社の書院は、日本住宅建築史上最古の書院として、世界遺産に登録されています。


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が、残念ながら、わたしが訪れたこの時期は、書院改修工事中のためその外観を見ることができませんでした。


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由緒書きです。


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外観は見られませんでしたが、書院内は見学できました。


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書院内には、後醍醐天皇玉座が残されています。


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南朝4代57年の歴史は、ここから始まったんですね。


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この部屋は上段の間五畳下段十畳敷で構成されています。


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「花にねて よしや吉野の吉水の 枕のもとに 石走る音」

この有名な後醍醐天皇の御製は、この部屋で生まれたそうです。


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こちらも御製。


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時代は下って文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が吉野で盛大な花見の宴を催した際、ここ吉水院を本陣として数日間滞在したと伝えられますが、その際、この部屋も修繕されたと伝わります。


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正面に張られた障壁画は狩野永徳の作品で、屏風は狩野山雪の作品だそうです。


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書院内には、後醍醐天皇に関する様々な宝物が展示されています。

撮影禁止じゃないのがありがたい。


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こちらの掛け軸は、若き後醍醐天皇御宸影


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こちらは、教科書などでよく知られている後醍醐天皇御潅頂宸影です。


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こちらは後醍醐天皇御宸翰

天皇自筆の書ということですね。


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他にも、石硯や茶入れなど、後醍醐天皇御物が数多く展示されています。


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『太平記』とは関係ありませんが、先述したように安土桃山時代、豊臣秀吉がここで盛大な花見を催しており、そのときの寄贈物も多く残されています。

上の写真は秀吉愛用の金屏風


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こちらは豊太閤吉野之花見図の複製。


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こちらは秀吉寄贈の壺と花瓶


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また、時代は遡って、文治元年(1185年)、兄・源頼朝の追手を逃れた源義経静御前は、弁慶と共に吉野に入り、ここ吉水院に潜伏していたとの伝承もあります。

そして、ここが義経と静御前の別れの地となったそうです。

上の写真は、義経らが数日間を過ごした潜居の間


「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」 静御前

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書院を出て庭の北側に行くと、後醍醐天皇がいつの日か京都に凱旋できる日を祈ったとい北闕門(ほっけつもん)があります。


「身はたとえ 南山の苔に埋るとも 魂魄は常に 北闕の天を望まんと思う」後醍醐天皇御製


上の御製は後醍醐天皇の辞世と言われていますが、この歌にある「北闕の天」とは、この門から見た京都の空のことでしょう。


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北闕門に掲げられた後醍醐天皇御製です。


「みよし野の 山の山守 こととはん 今いくかありて 花やさきなん」後醍醐天皇御製


ある日、この門の前で後醍醐天皇がこの歌を詠まれると、側にいた宗信法印が次の歌を返したといいます。


「花さかん 頃はいつとも 白雲の いるを知るべに みよし野の山」宗信法印


後醍醐天皇は京に戻る日をにたとえ、「花はいつ咲くのだろか?」と宗信法印に問うたところ、「花の咲く時期はわかりませんが、かならずすばらしい花が咲きますよ」と、宗信法印は返したんですね。

しかし、後醍醐天皇が生きているあいだにその花が咲くことはありませんでした。

後醍醐天皇崩御に際して、その忠臣たちがここで号泣したと伝えられます。

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様々な歴史の舞台となった吉水院は、明治8年(1875年)、吉水神社に改められました。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-13 00:24 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その138 「大日寺」 奈良県吉野郡吉野町

「その127」で紹介した金峯山寺蔵王堂より500mほど南下した場所に、大日寺という小さなお寺があります。

ここは、「その136」 「その137」で紹介した村上義光・義隆父子の菩提寺だそうです。


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勝手神社の前の小道をしばらく下ると、小さな山門が見えます。

ここが、大日寺です。

いまは真言宗のお寺だそうですが、かつては金峯山寺の一院だったそうです。


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元弘3年(1333年)閏2月1日、北条幕府方の二階堂貞藤(道蘊)率いる大軍に攻められ、村上義光・義隆父子は大塔宮護良親王の身代わりとなって果敢な最期を遂げました。

大日寺は、この村上父子の菩提寺として、今日まで追善供養を行ってきたそうです。


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寺伝によると、大海人皇子(のちの天武天皇)ゆかりと伝えられるそうで、吉野山で最古の寺院であったと伝わる日雄寺の跡と伝えられるそうです。

本堂には、金剛界大日如来を中尊とする五智如来が祀られているそうで、藤原氏時代の仏像様式を伝えるものとして、重要文化財に指定されています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-08 00:20 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)