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真田丸 第36話「勝負」 ~第二次上田合戦~

e0158128_23052141.jpg 犬伏で真田信幸と決別した真田昌幸・信繁父子が自領の上田城に戻る途中、信幸の居城である沼田城に立ち寄りますが、留守を預かる信幸の正妻・小松姫が、夫の敵となった義父・義弟の入城を拒んだという話は有名ですね。軍記物などの記述によれば、「孫の顔を見たい」という昌幸の言葉を、城を乗っ取るための昌幸の計略とみた小松姫は、鉄砲隊を狭間に配置させ、自らも薙刀を持って門扉に立ち、開門を拒んだといいます。これを見た昌幸は、「さすがは日本一の本多忠勝の娘である。武士の妻はこうあるべきた!」と、褒め称えたとか。小松姫を語るに、外せない逸話です。

 しかし、近年の研究によれば、実際には、このとき小松姫は大阪で石田三成方に人質として取られていたと考えられているそうで、このエピソードは、後世の創作とみられています。ただ、あまりにも有名な話なので、ドラマでこれを描かないわけにはいかなかったでしょう。そこで、今回の物語では、石田方が人質を取り始めたことを受けて、急遽、上方を脱出してきたという設定でしたね。実際、黒田家山内家など、上手く捜査網を掻い潜って脱出した奥方たちはたくさんいますから、ない話ではありません。史実と逸話を上手くつなげた設定でしたね。

e0158128_02592871.jpg 上田城に帰った昌幸は、すぐさま反徳川の姿勢をとらず、しばらく自らの去就を明らかにしませんでした。その狙いは、石田方に自らを高く売るためだったと見られます。昌幸を味方に引き入れたい三成は、慶長5年(1600年)8月5日付けの書状で信濃一国を与えると明言し、さらに6日付の書状では、甲斐国も与えると約束しています。この条件を得た昌幸は、ようやく西軍に与することを言明します。さすがは抜け目ない昌幸といえますが、この書状から、たかだか5万石程度の領主である昌幸を、三成はそれほど価値があるとみていたことがわかりますね。

 小山評定で旧豊臣恩顧の大名の多くを味方に引き入れることに成功した徳川家康は、大坂の石田三成を討つべく軍を西上させます。その際、家康率いる約3万3000の軍勢は東海道を、息子の徳川秀忠率いる約3万8000の軍勢は中山道を進軍しました。中山道のルートには、昌幸、信繁が籠る上田城があります。この秀忠軍を、上田城に籠るわずか2500ほどの兵力の真田軍が大いに翻弄し、その結果、秀忠軍は足止めをくって関ケ原の戦いに遅参してしまうんですね。これが有名な第二次上田合戦です。

 合戦の内容をここで詳細に解説するのは、長くなりすぎるのでやめます。超簡単に説明すると、籠城している真田軍が徳川方の兵を可能な限り引きつけた上で、機をみて攻撃するという奇襲戦法を繰り返し、そうとは知らない徳川軍は真田の術中に嵌り、かなりの打撃を受けました。第一次上田合戦のときもそうですが、昌幸は、大軍相手に寡兵で戦う術を心得ていたんですね。逆に言えば、二度も同じ手を食って惨敗した徳川軍の軍法はどうよ!・・・と言いたくなりますが、大軍というのは、寡兵相手では得てして油断が生じるものなのかもしれません。このとき総大将の秀忠は初陣でしたしね。

e0158128_22593837.jpg ただ、一説には、上田城など捨て置いて西上すればいいものを、まだ若い秀忠が軍功にはやって上田城攻めを強行し、その結果、関ケ原の戦い大遅参したといわれますが、これらの話はすべて江戸時代の創作だそうで、近年明らかになった説では、そもそも秀忠軍が中山道を進軍したのは上田城攻めが目的で、その途中で家康が作戦を変更し、上田城攻めを中断して関ケ原に呼び寄せたことがわかっています。このたびのドラマは、その新説に則って描かれていましたね。どうりで、本多正信榊原康政大久保忠隣酒井家次など徳川家譜代のビッグネームがことごとく秀忠軍につけられているはずです。家康にしてみれば、それほどまでに昌幸の存在が目障りだったのでしょう。小山評定で豊臣恩顧の武将がことごとく徳川方に与するなか、ひとり反旗を翻した昌幸・信繁父子を、捨て置くわけにはいかなかったのでしょうね。でも、結局、手玉に取られたのは徳川軍のほうでしたが。

 秀忠軍の大遅参のおかげで、関ヶ原の戦いでは徳川家譜代の家臣の活躍がほとんど見られず、戦後の論功行賞で、家康は外様大名に多くの恩賞を与えるはめになったと言われます。しかし、そのおかげで、家康は後継者である秀忠や譜代の家臣を失わずにすんだのも事実で、穿った見方をすれば、あえて兵を関ヶ原に遅参させることで、徳川軍の兵力を温存させるという家康の策略だったのではないかという説もあります。まあ、すべては結果論にすぎず、後付説の感は拭えません。家康とて、関ヶ原の戦い前から勝利を確信していたなんてことはなかったでしょうからね。すべては偶然の結果かと。

 第二次上田合戦で改めてその存在感を見せつけた真田昌幸でしたが、大きな誤算だったのは、関ヶ原の戦いがわずか1日で終わってしまったことだったでしょうね。もし、関ヶ原の戦いが長期戦になっていれば、秀忠軍退却後、昌幸は甲斐国、信濃国を席巻していたに違いありません。しかし、歴史は彼らに味方しませんでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-17 23:05 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第19話「恋路」 ~信幸・小松姫の縁談と、淀殿の側室入り~

 大坂にて豊臣秀吉から徳川家康の与力となるよう命じられた真田昌幸は、その帰国の途次、家康の居城である駿府城に立ち寄ります。天正15年(1587年)3月18日のことでした。この日を境に昌幸は徳川氏に出仕することとなり、その対価として、真田氏の領土は安堵されます。ただ、真田氏と徳川氏の関係はあくまで与力であって家臣ではなく、真田氏の立場としては、豊臣家傘下の大名として認定されています。この辺の関係がややこしいですけどね。つまり、徳川会社も真田会社も、豊臣グループの系列会社であることには違いありませんが、業務上、徳川会社の傘下で働くことになったといったとこでしょうか。

ちなみに、このとき真田氏とともに、同じく信濃国衆の小笠原貞慶木曾義昌らも、徳川氏の与力となっています。ただ、のちに小笠原氏、木曾氏は徳川氏の家臣になってしまいますが、真田氏はそうはならなかったことを思えば、豊臣政権下における昌幸の存在感は、決して軽いものではなかったといえます。

e0158128_23052141.jpg 今話で昌幸の嫡男・真田信幸本多忠勝の娘・との縁談が持ち上がりましたね。のちに小松姫(小松殿)と呼ばれる稲と信幸の結婚については、諸説あって詳らかではありません。まずはその時期についてですが、天正11年(1583年)説(『甲陽軍鑑』)、天正14年説(1586)説(『沼田記』)、天正16年(1588年)説(『沼田日記』)などがあります。今回のドラマでは、最後の天正16年(1588年)説を採るようですね。ふつうに考えれば、昌幸が家康の与力となった天正15年(1587年)以降と見るのが自然だとわたしも思います。ただ、歴史家の平山優氏の著書では、信幸が家康の与力となった天正17年(1589年)以降で、最も可能性が高いのは、天正18年(1590年)と述べておられます。どうなんでしょうね。

 また、信幸に輿入れするにあたって、家康の養女になったというエピソードですが、これも、確かな史料は存在しないようです。一説には、家康が忠勝の娘と信幸との縁談を持ちかけたところ、昌幸が難色を示したため、家康の養女として嫁がせるとして承諾したとの逸話もあります。別の説では、忠勝が信幸の武勇に惚れて縁談を申し入れたというものや、秀吉が二人の縁談を指示したという説もあります。結局のところ、詳しいことは何もわかっていないのですが、いずれにせよ、徳川氏と真田氏の親密化のための縁談であったことは間違いないでしょう。

真田家にとって、この縁談がのちの運命を大きく変えることになります。先の話になりますが、関が原の戦いのあと、昌幸・信繁父子に切腹を命じようとする家康に対して、懸命に助命嘆願を訴えたのは、信幸と、他ならぬ義父の本多忠勝でした。もし、この縁談が成立していなければ、関が原の戦いで昌幸・信繁父子の生涯は終わっていたかもしれません。その意味では、この縁談は、徳川氏より真田氏において大きな意味があったといえます。

e0158128_23062489.jpg さて、大坂では茶々が秀吉の側室となることを承諾しました。実は、茶々が秀吉の側室になった時期も、正確にはわかっていません。天正15年(1587年)に妹・お初の結婚、同年9月、聚楽第竣工、10月に「北野大茶会」で、この翌々年の天正17年(1589年)には秀吉との最初の子・鶴松(お捨)を生んでいるので、おそらく天正15年から翌年の間だっただろうと考えられます。このとき茶々は18歳、秀吉は50歳でした。

 「あの方は私が死ぬときに、日の本一幸せなおなごにしてくれると約束してくれました。言ってみたいと私は思いました」

 切ないですね。最終回、彼女はどんな台詞を吐くのでしょう。

 「おかしな話をします。私と源次郎は不思議な糸で結ばれている気がするのです。離れ離れになっても、あなたがいつかまた戻ってくる。そして私たちは同じ日に死ぬの」

 無粋なことを言うようですが、茶々こと淀殿自害したのは、信繁が討死した翌朝でした。もっとも、夜が明ける前のことだったでしょうから、「同じ日」と言っていいかもしれませんね。淀殿といえば、気の強いヒステリックな女性として描かれることが多いですが、本ドラマでは、天真爛漫に振る舞いながらも心ここにあらずといったエキセントリックなキャラとして描かれています。大蔵卿局いわく、「悲しむことをやめた」のだとか。そんな心の闇が顕になったとき、どんな淀殿が出てくるのか・・・。今後が楽しみですが、胸が痛くもあります。



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by sakanoueno-kumo | 2016-05-16 23:09 | 真田丸 | Comments(4)