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築城400周年の明石城を歩く。 その7 <二ノ丸・東ノ丸>

「その6」の続きです。

「その5」で紹介した本丸東側虎口の「番ノ門」を出て、二ノ丸に向かいます。


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明石城は本丸と二ノ丸が土橋を挟んで同じ高さで並んでいます。

この構造を、学術的には「連郭式」と呼びますが、明石城の場合、三ノ丸1段下にありますから、「連郭梯郭混合式」という分類になります。

まあ、後世の学者さんが便宜上つくった分類で、往時の大名たちは知ったこっちゃない言葉ですが。


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明石城は西国諸藩に対する備えとして、元和4年(1618年)、江戸幕府2代将軍徳川秀忠小笠原忠真に命じて築かせた城です。

忠真の祖父は松平信康、つまり忠真は徳川家康の曾孫にあたる人物です。

秀忠は、忠真の舅にあたる本多忠政の指導を仰ぐことを命じ、また、普請費用として銀1000貫を与え、幕府から普請奉行を派遣するなど、築城を全面的に支えました。

それだけ、この明石城の築城を幕府が重要視していたことが窺えます。


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築城工事は急ピッチで進められ、元和5年(1619年)にほぼ完成しました。

この工事の速さは、一国一城令によって廃城となった近くの船上城、三木城、高砂城などの建築部材を解体再利用したためと言われます。

つまり、リサイクルの成果というわけですね。


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二の丸の広さは東西74m、南北60mあります。

その東側には、東西88m、南北69m東ノ丸が連なります。


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二ノ丸と東ノ丸をつなぐ「方ノ門」です。

喰違虎口となっています。


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東ノ丸側から見た方ノ門です。


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二ノ丸と東ノ丸の間は、低い石垣で仕切られています。

築城時は二ノ丸と東ノ丸をあわせて二ノ丸だったそうですが、のちに整備され、分割されたと考えられているそうです。


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東ノ丸の南側では、多くの人がベンチで景色を楽しみながら寛いでいました。


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東ノ丸からの南側眺望です。

下に見えるのが、「その2」で紹介した三ノ丸庭園

その向こうには、JR明石駅が見えます。


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西側を見ると、「その5」で登ってきた石段と、本丸南東の巽櫓が見えます。


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巽櫓をズーム。


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東ノ丸南東隅には、日の丸が掲げられていました。


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石垣で少し高くなっています。

どうやら、あそこも櫓台跡のようです。

登ってみましょう。


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長方形の石が敷かれていますが、その中に、礎石跡と思われる自然石があります。

縄張図を見ると、ここはかつて角櫓があったようです。


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南東を見ると、向こうに明石海峡大橋が見えます。


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東ノ丸東側に門跡が見えます。


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縄張図によると、ここは「真ノ門」とあります。


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真ノ門を出ると、喰違虎口となって「天ノ門」があります。

ここを出ると、城外に出てしまうのですが、まだ城の北側を歩いてないので、「その8」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-03 23:58 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その6 <本丸~天守台・人丸塚~>

「その5」に続いて本丸を歩きます。

本丸南西隅の坤櫓の北側に、天守台があります。


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天守台は小笠原忠真の築城時から存在していましたが、明石城には一度も天守が築かれることはありませんでした。


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この時代に築かれた城で天守台だけ築いたという例は他にもあり、その理由については、幕府に遠慮して建てなかったというものや、当時、大砲が主力兵力となりつつあり、その標的になりやすい天守は、時代にそぐわない無用の長物と考えられ始めていたから、とか、あるいは、経済的理由で、いつかは天守を建てるべく天守台だけ築いた、とか、様々な見方がありますが、定説はありません。


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明石城の場合、本来南西隅に築かれるべき天守台が、あえて奥まった場所に築き、南西隅には坤櫓を設けていることから見て、当初から天守を築く予定はなかったのではないか、とも考えられているそうです。


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でも、だったら、そもそも天守台を築く必要もなかったんじゃないかと思っちゃうんですけどね。


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天守台上に登ってみましょう。


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天守台は上面の大きさが東西25m、南北20m、約152坪あり、5重の天守が乗る規模です。

これは熊本城の天守台と同じ規模なんだそうです。


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天守を建てるつもりがないのに、こんな立派な天守台を設けるでしょうか?


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天守台からみた坤櫓です。


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その西側を見下ろすと、三ノ丸居屋敷郭跡明石球場(現・明石トーカロ球場)が見えます。


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天守台から「その4」で紹介した稲荷郭を見下ろします。


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その向こうには、明石陸上競技場(現・きしろスタジアム)が見えます。

かつてあの場所には、山里郭がありました。

築城当時は樹林屋敷と呼ばれ、城主の遊興所があったと伝わります。


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さて、天守まで攻略しましたが、もう少し本丸を歩いてみましょう。


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本丸内には「人丸塚」と書かれた駒札と、鬱蒼と大樹が茂る小さな丘陵があります。

もともと本丸の位置には弘仁2年(811年)に弘法大師・空海が創建したと伝わる湖南山楊柳寺がありました。

人丸山の由来ともなった人丸塚の名は、仁和3年(887年)に僧・覚証柿本人麻呂の夢を見て、寺の背後の塚を「人麻呂塚(人丸塚)」と名付けたことにはじまります。

このときに寺号も月照寺と改めたそうです。


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時代は下って元和5年(1619年)、小笠原忠政による明石城築城の際、月照寺と柿本神社は移転させましたが、人丸塚は城の鎮守のためにそのまま残し、現在も本丸跡に残っています。


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その横には「横山蜃楼句碑」と記された駒札石碑も。


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横山蜃楼という人は明石の人だそうですが、すみません、よく知りません。

なので、駒札の説明書きをお読みください。


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ひととおり本丸を歩いたので、本丸北西の「見ノ門」から外に出てみます。


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ここにも、立派な櫓台石垣があります。

おそらく、往時はここに立派な櫓門があったのでしょうね。


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本丸外側から見た見ノ門。


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ここを下ると、「その4」で紹介した万ノ門に繋がります。

本丸を歩き終えたので、「その7」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-30 00:03 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その5 <本丸~巽櫓、坤櫓、艮櫓跡~>

「その4」の続きです。

いよいよ、明石城の主要部に向かいます。


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「その3」で紹介した南帯郭虎口に戻って、石段を登ります。


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石段を登りきったところが右にカーブしていて、食違い虎口になっています。

ここに、「大ノ門」という櫓門がありました。


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櫓門跡の石垣です。


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振り返ると、向こうに明石海峡大橋が見えます。


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大ノ門を過ぎると、東にまた櫓門跡の石垣がみえます。

ここは「番ノ門」という名称の門で、本丸の東側虎口です。


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番ノ門前から左(南)を見ると、巽櫓があります。


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番ノ門から本丸に入ります。


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番ノ門内側と巽櫓です。


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本丸です。

明石城の本丸は東西114.5m、南北116.4mのほぼ正方形で、面積は約1万ヘクタールあります。


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小笠原忠真の築城当時はここに本丸御殿があったようですが、寛永8年(1631年)、三ノ丸下屋敷台所より出火した火災により本丸にも火がまわり、消失してしまいました。

以後、本丸御殿は再建されず、藩主の居屋敷は三ノ丸に建てられ、本丸には四隅に櫓を建て直し、塀でつないだとされています。


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明治維新後は明石神社が創建され、その後も飲食店人形館などが設けられていましたが、現在は芝生の広場となっており、巽櫓坤櫓の2現存櫓として残されています。

では、その櫓を見ていきましょう。

まずは、本丸南東隅にある巽櫓です。


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巽櫓の大きさは、桁行五間(9.03m)、梁間四間(7.88m)、高さ七間一寸(12.53m)

同じ明石にあった船上城から移築されたと伝わっており、一説には、船上城の天守だったとも言われています。


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「その2」で紹介した南面には窓がありましたが、西面、北面にはが1か所も設けられておらず、破風も南面には千鳥破風唐破風がありましたが、本丸側から見ると、西面の一重目と北面の二重目に千鳥破風があるのみです。

あくまで三ノ丸側から見上げる南面が巽櫓の顔ということでしょう。


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私が訪れたこの日は、築城400年記念とあって巽櫓の中が一般公開されていました。

中を見てみましょう。


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巽櫓の中です。


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階は一間半、2階は一間の武者走り(入側廊)が周囲をめぐります。

3階は1室のみで武者走りはないそうです。

ただ、この日公開されていたのは1階のみ。


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2階に上がる階段

というか、ほとんど梯子といっていい角度です。


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櫓は松材などの柱や梁によって支えられており、などは使用されていません。

平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災時に多くの石垣が崩落したにもかかわらず、櫓自体が倒壊しなかったのは、明治34年(1901年)の宮内庁による修理で、入側柱筋に加えられた筋違の効果によるものだったようです。


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外に出て、西側にある土塀内側の展望台から見た巽櫓です。


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そこから目を少し右(南)に向けると、遠くに明石海峡大橋が見えます。


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展望台から南側の三ノ丸を見下ろします。

その向こうに見えるのがJR明石駅


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そのまま西側に目を向けると、土塀の端に坤櫓が見えます。

その向こうに見えるのが、「その4」で紹介した明石球場(現・明石トーカロ球場)です。


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巽櫓と坤櫓を結ぶ土塀は、阪神・淡路大震災によって崩落した石垣を修復した平成12年(2000年)に、100年ぶりに復元されたものです。

向こうに見えるのは巽櫓。


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土塀には様々な形をした鉄砲狭間が。


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鉄砲狭間から三ノ丸を見下ろします。


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そして、土塀の最西端には、坤櫓があります。


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坤櫓は本丸南西隅に位置し、明石城内で最大規模の3重櫓です。

天守が築かれなかった明石城の天守代用として使われました。

櫓の大きさは、桁行六間(19.94m)、梁間五間(9.15m)、高さ七間二尺九寸(13.28m)あります。

伏見城から移築されたといわれています。

本瓦葺、妻部を南北に置く入母屋造りで、巽櫓が南を向いているのに対し、坤櫓は西を向いています。

その理由は、明石城には西国大名を監視する役割があったからだと考えられています。


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巽櫓と違って正面から見えない北面と東面にも窓があり、北面一重目には千鳥破風を配し、東面二重目には軒唐破風の上に千鳥破風を飾っています。

これを見ても、坤櫓が明石城の要の櫓だったことがわかります。


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残念ながら、坤櫓の中はこの日は一般公開されていませんでした。


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現存する櫓は巽櫓と坤櫓のふたつだけですが、かつて本丸にはあと2つ、艮櫓乾櫓がありました。


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現在、本丸北東の艮櫓跡には、その場所を示す駒札説明板が置かれています。


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説明書きによると、艮櫓は広さが五間(9.1㎡)あり、高さは六間一尺九寸(11.4m)であったといいます。

廃城後の明治14年(1881年)神戸相生小学校(現在の湊川小学校)の建築用材として取り壊されてしまったそうです。

また、本丸北西にあった乾櫓も、明治34年(1901年)に解体され、状態のよい木材や瓦の一部が巽櫓と坤櫓の補修材として転用されたそうです。


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さて、櫓だけでめっちゃ長くなっちゃいました。

次稿、もう1回本丸を歩きます。

「その6」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-29 00:03 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その2 <太鼓門、三ノ丸>

「その1」の続きです。

明石城中濠南側中央の太鼓門から城内に入ります。


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太鼓門は現在、JR明石駅のすぐ北側にあり、明石公園の正門となっています。


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向こうに見えるのは本丸の坤櫓巽櫓です。

いずれも現存櫓で、国の重要文化財に指定されています。


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数年前に来たときは、太鼓門正面の石垣の上に木が茂っていたので、ここから坤櫓と巽櫓は見えなかったのですが、今はその木がなくなっていて、見えるようになっていました。

これも、築城400年事業の整備の一貫でしょうか?


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太鼓門は大手筋にあたりますが、大手門はここより300mほど南の外濠に面してありました。


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往時はここに長さ十一間(約20m)、幅三間(約5.5m)の木橋が架かっていたそうで、「太鼓門橋」と呼ばれていたそうです。

橋を渡った先には、正面に「定ノ門」と呼ばれる高麗門(一の門)がありました。


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その城門をくぐると、五間に八間の枡形虎口になっていました。

これは、今も遺構を残しています。


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太鼓門の石垣裏の雁木です。


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枡形虎口を過ぎると、かつての三ノ丸に繋がります。

往時は、ここに更に内濠があり、そのなかに居屋敷(下屋敷)があったとされています。


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目の前に坤櫓と巽櫓がそびえます。


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現在、三ノ丸の一部は芝生広場になっています。

この芝生広場から西側の明石球場にかけてが、往時の居屋敷郭でした。


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明石城のいちばんの見どころは、なんといってもこの坤櫓と巽櫓というふたつの現存櫓でしょう。

このふたつの櫓の下の高石垣は、高さ20m、東西幅380mあります。


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このふたつの櫓は、元和5年(1619年)の築城当時のものではなく、寛永8年(1631年)の火災後に再建されたものだそうです。


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明治に入ってからも、このふたつの櫓以外にもうひとつ乾櫓が残っていましたが、明治34年(1901年)の修理に際して乾櫓は解体撤去され、状態のよい木材や瓦の一部が巽櫓と坤櫓の補修材として転用されたそうです。


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平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災により、両櫓とも傾いて石垣も広範囲にわたって崩落しましたが、その後、いったん両櫓を曳家(建物を解体しないで、そのまま移動する建築工法)して石垣を積み直し、櫓も修復され、平成12年(2000年)にその雄姿が蘇りました。

このとき、両櫓をつなぐ土塀も、約100年ぶりに復元されました。


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坤櫓は明石城内で最大規模の3重櫓で、天守が築かれなかった明石城の天守代用として使われました。

櫓の大きさは、桁行六間(19.94m)、梁間五間(9.15m)、高さ七間二尺九寸(13.28m)あります。

伏見城から移築されたといわれています。


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もう少し近づいて、坤櫓を見上げます。

数年前までは、もっと木が覆い茂っていて、このように石垣は露出していませんでした。


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こちらは巽櫓です。


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巽櫓は本丸の南東端に築かれた3重櫓で、その大きさは、桁行五間(9.03m)、梁間四間(7.88m)、高さ七間一寸(12.53m)あり、坤櫓より少し小ぶりです。

同じ明石にあった船上城から移築されたと伝わっており、一説には、船上城の天守だったとも言われています。


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三ノ丸東側には、三ノ丸庭園が復元されています。


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説明板には、「武蔵の庭園」とあります。

武蔵とは、あの剣豪・宮本武蔵のことです。


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築城当時、小笠原忠真の客分として姫路にいた宮本武蔵が、明石城築城に伴う明石城下町の町割り(都市計画)を指導したと言われています。


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享保年間(1716〜36年)の地誌『明石記』には、「宮本武蔵ト云士町割有之ト云」とあり、小笠原家に伝わる『清流話』には、城内の庭園や藩主の御屋敷の建設を武蔵に命じたとされており、武蔵が何らかのかたちで築城事業に関わったことは事実だと考えていいのかもしれません。


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三ノ丸だけでめっちゃ長くなっちゃいました。

「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-22 23:23 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その1 <中濠、東不明門、西不明門>

令和元年(平成31年)の今年、兵庫県明石市にある明石城築城400周年を迎えました。

そこで、過日、その400周年を記念して明石城をじっくり歩いてみました。


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現在、JR明石駅の北側にある明石公園内に、その一部が残っています。

上の写真はその明石公園の南東外周から見た

往時は三ノ丸の外を囲う中濠でした。

右側に見える石垣は三ノ丸の南東にある東不明門(ひがしあけずもん)の石垣です。


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石垣は打込み接ぎですね。


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では、その東不明門を見てみましょう。


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東不明門は、別名「明ノ門」とも呼ばれていました。


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枡形虎口

往時は2階建ての櫓門がありました。


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石垣の上に登ってみます。


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櫓台石垣の上から見下ろした枡形虎口。


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東不明門を抜けると、三ノ丸庭園に繋がります。

往時は、ここは家老屋敷への専用入口でした。

向こうに本丸の巽櫓が見えます。


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ひとまず城内には入らず、中濠に戻ります。


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中濠沿いに西へ歩きましょう。


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築城400周年を記念した看板が設置されています。


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中濠南中央の太鼓門が見えますが、大手門にあたるここはひとまずスルーして、さらに中濠を西へ向かいます。


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中濠の西の端まで歩いてきました。


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東を振り返ります。

中濠は東西550mほどあります。


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向こうに見えるのは、明石天文科学館の塔。

東経135度日本標準時子午線の直上に立つ塔です。

つまり、東は北海道から西は沖縄まで、日本の時刻はすべてここ明石の時刻に統一されているわけです。

ある意味、日本の中心地といっていい町です。


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中濠南西には、西不明門(にしあけずもん)があります。

現在は明石公園の駐車場入口となっています。


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1時間200円

良心的な値段です(笑)。


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枡形虎口の駐車場入口です(笑)。


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日本広しといえども、枡形の石垣を進む駐車場は、なかなかないんじゃないでしょうか。


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江戸時代の縄張図によると、往時はこの西不明門を入るとすぐに内濠があり、その中に居屋敷郭があったとされていますが、現在は明石トーカロ球場があります。

かつてはプロ野球の試合もときどき行われていた立派な球場です。


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さて、城外に戻って中濠沿い西側です。


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ここ明石城は、元和3年(1617年)に信州松本城主より初代明石藩主となった小笠原忠真が、元和5年(1619年)、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命により、岳父にあたる姫路城主・本多忠政の協力を得て築城したものです。


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中濠西側は石垣がなく、土塁が南北に伸びています。


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西不明門から200mほど北上したあたりで中濠は終わっており、公園への入口があります。

でも、縄張図を見ると、中濠はもっと北まで続いており、こんな入口もありません。

おそらく、この入口は明治に入って公園整備された際に作られたものでしょうね。


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上の写真は江戸時代の縄張図です。

本稿はこのあたりで、「その2」では城内にお入ります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-21 11:31 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

宮本武蔵も築城事業に関わったといわれる「明石城」を散策。

本日はJR明石駅北側の明石公園内にある、明石城跡を紹介します。

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別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、または錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる明石城は、元和3年(1617年)に信州松本城主より明石藩主となった小笠原忠真が、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命により、岳父にあたる姫路城主・本多忠政の協力を得て築城したものです。

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明石城に天守閣はありません。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣を最後に戦乱の時代が終わり天下太平となったという、いわいる「元和偃武」の時代に築かれた城には天守閣のないものが多いそうです。
ただ、いつでも天守閣を建てられるように大きな天守台は設けられていました。

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「坤櫓」(ひつじさるやぐら:左) と 「巽櫓」(たつみやぐら:右)です。
国の重要文化財に指定されています 。

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空の色が青かったら、もっといい写真になったんですけどね・・・残念でした。

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「坤櫓」の石垣です。
天守閣が造られなかった明石城では最大の規模の櫓で、たいへん立派な石垣です。

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「坤櫓」と「巽櫓」を結ぶ長大な塀(帯廓)は、明石市街地を見渡せる展望台となっています。
「巽櫓」の向こうに見えるのは、本州と淡路島を結ぶ明石海峡大橋です。

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「坤櫓」の向こうに見えるのは明石球場です。
この写真を撮影したのは7月のことで、実はこの日ここを訪れたのは、わが愚息の高校野球兵庫県予選の観戦が目的でして、その試合開始までの待ち時間で城跡を散策していました。

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球場内から見ると、こんなロケーションとなります。
プロ野球のオープン戦も行われるいい球場です。

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明石の地は播磨国に位置し、山陽道が通り、北には丹波国但馬国への道が分かれ、淡路島四国のルートがあり、古来より交通の要衝でした。
そのため徳川幕府は、西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についでこの明石城を重要視していたといいます。

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苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、15年ほどで豊前国小倉藩(小倉城)に転封となり、それ以後わずか50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わりましたが、天和2年(1682年)に越前家の松平直明が6万石で入城し、以後、明治維新まで10代189年間親藩として松平氏の居城となりました。
そして明治7年(1874年)の廃城令により廃城となり、その後、明治16年(1883年)に明石町の有志によって整備されて明石公園となり、大正7年(1918年)には兵庫県立明石公園となって現在に至ります。

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話は築城当時に戻って、ちょうどそのころ小笠原忠真の客分として姫路にいた剣豪・宮本武蔵が、明石城築城に伴う明石城下町の町割り(都市計画)を指導したと言われています。
享保年間(1716〜36年)の地誌『明石記』には、「宮本武蔵ト云士町割有之ト云」とあり、小笠原家に伝わる『清流話』には、城内の庭園や藩主の御屋敷の建設を武蔵に命じたとされており、武蔵が何らかのかたちで築城事業に関わったことは事実だと考えていいのかもしれません。

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公園内は緑に囲また自然豊かな環境で、私も子どもが小さかった頃はたびたび自転車を車に乗っけて弁当持参で訪れました。
春には桜の名所として、たくさんの花見客で賑わいます。
今度は桜の季節にでも、また取材して紹介してみたいと思います。

追記
2017年より日本100名城スタンプの収集をはじめました。

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by sakanoueno-kumo | 2012-09-06 17:28 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(4)  

第94回全国高校野球兵庫大会開会式なう!

062.gifケータイからの投稿です。
e0158128_1131261.jpgただいま兵庫県は明石球場に来ています。
今日は夏の甲子園予選の開会式、わが愚息の高校野球最後の夏が始まります。
昨夜の豪雨でグラウンド状態が心配されましたが、さすがは甲子園並みに水捌けの良い明石球場ですね。
まだ空は曇っていますが、無事開会式を開催することができてホッとしています。
兵庫県は参加校が163校という全国でも屈指の激戦区ですが、今日の開会式に参加しているのは71校
どういう選考方法なのかは知りませんが、すべてのチームが参加とはいかないのですね(わが愚息の高校も、開会式に出場するのは数年ぶりのことだそうです)。
上空を飛ぶ主催の朝日新聞社のヘリコプターから、始球式のボールが落下してきまさした。
地区予選の開会式とは思えない派手な演出です。

ここ明石球場(昨年より命名権取得に伴い「明石トーカロ球場」となっている)は、兵庫県立明石公園内にある野球場で、プロ野球のオープン戦も行われるほどの立派なグラウンドです。
その昔は読売ジャイアンツの春季キャンプ地で、あの長嶋茂雄選手が入団した当時はここでキャンプが行われていたという歴史ある球場です。
球場のある明石公園は、明石城跡を整備した歴史公園。
明石城は元和4年(1618年)に小笠原忠真によって築城され・・・いかんいかん、またいつもの悪い癖が出てしまいました(笑)。
歴史の話はまた次の機会に・・・とにかく最後の夏を悔いのないように精一杯プレーしてほしいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2012-07-07 11:31 | 高校野球 | Trackback | Comments(0)