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タグ:山中鹿介幸盛 ( 6 ) タグの人気記事

 

月山富田城跡登城記 その4 「堀尾吉晴の墓・山中鹿介幸盛供養塔」

「その3」のつづきです。

月山の北西の登山道を登りはじめてすぐに、巌倉寺という古い寺があるのですが、そこに、月山富田城の最期の城主・堀尾吉晴の墓があります。


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巌倉寺は聖武天皇(第45代天皇)の神亀3年(726年)に建立されたといわれる歴史ある寺院で、元々上流の山佐にあったものを、12世紀の後半に月山富田城の城主だった佐々木義清が、祈願寺とするために御子守神社とともに城内に移したといわれています。


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本堂です。

本尊は一木造りの聖観世音菩薩だそうで、藤原氏の時代の技法を伝えるこの本尊は、同寺所有の帝釈天立像とともに国の重要文化財に指定されているそうです。


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本堂脇から奥の墓地へ向かいます。


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この石段を登ったところに、堀尾吉晴の墓があるようです。

さすがは城主の墓というだけあって、特別な場所といった感じです。


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堀尾吉晴の墓です。


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高さ3m余りの立派な五輪塔です。


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堀尾吉晴は、尾張国出身の武将で、織田信長の家臣時代から羽柴秀吉の配下として働き、のちの豊臣政権時代には三中老のひとりに任命されるなど、秀吉の信任が厚い武将でした。

秀吉の死後は徳川家康に与し、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの功により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城します。


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しかし、月山富田城は急峻な山奥の中世以来の山城だったため、交通も不便で城下町を形成する土地もなく、時代にそぐわない城でした。

そこで吉晴は、宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画。

慶長12年(1607年)に着工し、5年間にわたる難工事のすえ、慶長16年(1611年)に完成しました。

それが、先ごろ国宝に指定された松江城です。


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もっとも、吉晴は落成間近の慶長16年(1611年)6月に急死しており、息子の堀尾忠氏もそれ以前に急死していたことから、松江城の初代城主は吉晴の孫・堀尾忠晴となりました。


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吉晴の遺骸は、その遺言によってこの地に埋葬されたそうです。

なぜ、吉晴にとってはそれほど思い入れがあったとは思えないこの地を埋葬場所に遺言したんでしょうね?

あるいは、月山富田城400年の歴史を自身の代で終わらせたことに対する鎮魂の思いだったのでしょうか?


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吉晴の墓の横には、山中鹿介幸盛供養塔と伝わる墓碑があります。

これは、慶長7年(1602年)に吉晴の内儀(妻)が、鹿介の遺徳を偲んで建てたものだと伝わります。


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でも、尼子氏の家臣に過ぎない鹿介の供養塔を堀尾家が建てるだろうか・・・という疑問は拭えないですね。

鹿介が悲運の英雄として語り継がれるようになるのは江戸時代中期からで、鹿介に関する逸話のほとんどが、江戸期に創られたものだと言われます。

堀尾氏が出雲国に入ったこの時代、鹿介がそれほど英雄扱いされていたとは考えづらいですし、もし、供養塔を建てるとするならば、尼子氏のものだったんじゃないかと。

無粋なことを言うようですが。


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あと、同じく巌倉寺には、吉晴の娘・小耶姫の墓もあります。

小耶姫は若くして重い病にかかり、20歳で池に身を投げて自ら命を絶った悲劇の姫君で、ここをお参りすると、婦人病が治癒すると言われています。

あと、もう一回だけシリーズ続けます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-08 22:13 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

月山富田城跡登城記 その3 「三ノ丸~二ノ丸~本丸」

「その2」のつづきです。

山中御殿跡を後にして、いよいよ山頂を目指します。


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この急斜面を蛇のように曲がりくねりながら登ります。

この道を「七曲り」と呼びますが、どう見てももっと曲がってます。


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「頂上まで20分」とありますが・・・。


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さすがに有名な城だけあって、道は観光客用に整備されていて、歩きにくいということはありません。

ただ、勾配はかなり急です。


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石垣が見えてきました。


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七曲りを登りはじめて20分、三ノ丸にたどり着きました。

ここを訪れたのはゴールデンウィーク2日目の4月30日。

気候のいちばんいい季節ですが、この日は風が強くて登山は想像以上にキツかった。


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三ノ丸です。

手前の幟と向こうの木をみれば、風の強さがわかってもらえるでしょうか?


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三ノ丸から北を見下ろすと、山中御殿跡が見えます。


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北側の景色を堪能。


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こちらは北西の眺望。

麓を流れる川は飯梨川です。


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南にふり返ると、二ノ丸の石垣があります。

ここを登ると二ノ丸、そして本丸へと続きます。


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二ノ丸に登るとすぐに、鳥居があります。

これは、本丸に鎮座する勝日高守神社の鳥居だと思われます。


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二ノ丸は写真のように、長細い削平地になっています。

説明板によると、発掘調査により建物や柵、塀の柱穴跡が検出されたそうで、そのうちの1棟からは備前焼のカメが3個発見されたらしく、戦時に飲み水や食物を貯蔵する為の建物だったと考えられるそうです。


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二ノ丸には観光客用の休憩場所が建てられています。


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そして、いざ本丸へ。

ここ月山富田城は、二ノ丸の上に本丸があるといった構造ではなく、山頂にラクダの2つコブのような山塊があり、手前は二ノ丸、奥が本丸になっています。

このような構造を「複郭式」と呼びます。

したがって、二ノ丸から本丸へ行くには、いったん山塊を下ります。


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そして本丸を見上げます。


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本丸です。


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ふり返ると、谷を挟んで二ノ丸が見えます。


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本丸もまた、二ノ丸と同じく細長い削平地になっています。


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本丸には、月山富田城400年の歴史が刻まれた年表があります。


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月山富田城の歴史は古く、12世紀の後半、源頼朝が出雲国の守護として佐々木義清を任命したことに始まるとされています。

その後、塩冶氏、佐々木氏、山名氏、京極氏、尼子氏、毛利氏、堀尾氏と400年以上の長きにわたって中国、山陰地方の軍事拠点となりますが、なかでも特に繁栄したのが山陰山陽11ヶ国を領有した尼子氏の時期でした。

さらにそのなかでも最も栄華を極めたのが、尼子氏の中興の祖といえる尼子経久の時代です。

経久については、「その1」で述べましたよね。


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しかし、その尼子氏も毛利元就に攻められ、1年半の攻防戦のすえ尼子氏は滅亡

月山富田城は毛利氏の手に渡ります。

ところが、その毛利氏も元就の孫の毛利輝元のときに関ヶ原の戦いで西軍に属したため月山富田城を追われ、替わって堀尾吉晴が城に入ります。

しかし、時代は山城から平城へと移り変わっており、山奥にある富田は政務上不便と考えた吉晴は、慶長16年(1611年)、居城を現在の松江城に移し、427年に及ぶ月山富田城の歴史に幕を閉じます。


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本丸のいちばん高いところには、「山中幸盛塔」と刻まれた石碑が。


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碑は明治期に山中鹿介幸盛を偲んで建てられたものだそうです。

当時から鹿介の人気が高かったことがうかがえますが、鹿介は城主だったわけではないわけで・・・。

ここ、本丸跡でしょ?

石碑を建てるなら、普通、尼子氏関連なんじゃないかと・・・。


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本丸のいちばん奥には、勝日高守神社が鎮座します。


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勝日神社は古事記にその記載があり、当地で大國主命が思案していると、海中に光が現われ、国土経営を助けたと言われ、山頂に大國主命の幸魂神を山麓に大己貴命を祀ったとされているそうです。

月山富田城の歴代城主の信仰が厚く、特に尼子氏はたいへん熱心だったと伝わります。


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さて、本丸まで制覇しましたが、もう少し城跡周辺をめぐってみます。

つづきは「その4」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-07 22:30 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

月山富田城跡登城記 その2 「山中鹿介幸盛祈月像~花の壇~山中御殿」

「その1」のつづきです。

太鼓壇の南側には、山中鹿介幸盛があります。


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山中鹿介幸盛は尼子三傑のひとりとして、「山陰の麒麟児」の異名で知られます。

尼子十勇士の筆頭にして、尼子氏滅亡後も最後まで尼子家再興のために力を尽くした武将として後世に名高い人物ですね。


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尼子家再興のため、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」三日月に祈った逸話は有名で、戦前の国語の教科書にも採用されていたそうです。

この像は、その祈りの姿を表した「祈月像」だそうです。


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永禄5年(1562)から始まる毛利元就の富田城攻めの際、鹿介は敵方の猛将・品川大膳との一騎打ちで名を馳せ、尼子氏滅亡後は尼子勝久を奉じての尼子再興戦で中心的な役割を担い、永禄12年(1569年)には、ここ月山富田城を包囲するまでに勢力を回復させますが、しかし、布部、山佐の戦いにおいて毛利軍に敗北すると、徐々に劣勢となって毛利軍の捕虜となり、その後、逃亡します。


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天正5年(1577年)に織田信長の配下である羽柴秀吉中国遠征が始まると、鹿介らはその軍勢に加わり、播磨上月城の守備を任されますが、毛利軍の猛攻によって落城し、主君・勝久は自害

鹿介も捕らえられ、護送途中に殺害されます。

ここに尼子家再興の道は絶たれ、尼子氏繁栄180年の幕が閉じられました。


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山中鹿介幸盛祈月像を跡に南へ尾根伝い進むと、前方に月山が望める見通しのいい高台にたどりつきます。


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ここは「花の壇」といって、多くの建物跡が発掘された家臣の居住空間だったようです。


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「花の壇」には、発掘された柱穴を元に復元された建物があります。


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なかには顔出しパネルが。

これ、大河ドラマ『毛利元就』のときの緒形拳さん演じる尼子経久ですよね?

じゃあ、女性の方は高畑淳子さん演じる萩の方でしょうか?


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説明板です。


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花の壇からさらに南へ進むと、かなり広い面積の空間に出ます。


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ここは山中御殿といわれた建物のあったところで、平地と石垣の上下2段に分かれた構造をしており、約3,000㎡あるそうです。


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山中御殿は「さんちゅうごてん」と読むそうで、山中鹿介の「山中」ではないみたいです。

ややこしいですね。


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月山の中腹に位置する山中御殿は、菅谷口、塩谷口、大手口と3つの主要通路の最終地点ともなっており、最後の砦となる三ノ丸、二ノ丸、そして本丸へ通じる要の曲輪として造られたと考えられ、まさに月山富田城心臓部といえます。


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周囲の石垣はいずれも復元です。

かつての石垣はもっと高く、5mほどあったと見られています。


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井戸跡。


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さすがに有名な城だけあって、説明板などが数多く設置されています。


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さて、次回はいよいよ本丸に向かう七曲りを登ります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-06 20:26 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

月山富田城跡登城記 その1 「登山口~太鼓壇」

かつて出雲国にあった山城・月山富田城跡を訪れました。

現在の住所でいえば島根県安来市広瀬町富田で、県庁所在地の松江市から車で30分ほど走った山間部に位置します。


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城山の西側に流れる飯梨川(富田川)の畔に、「尼子・毛利の古戦場」と書かれた看板が設置されていました。

そう、ここ月山富田城跡は、約170年間、戦国大名・尼子氏の本拠となった場所です。


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看板の向こうに見える山の上が城跡です。


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ズームします。

標高197m月山の地形を利用した複郭式の山城で、昭和9年(1934年)に国の史跡に指定され、日本100名城にも選ばれています。


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麓にある道の駅に車を停めて登山です。


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さすがに有名な城だけあって、麓には説明板石碑などが各所に設置されていました。


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模型が設置されています。


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その説明書きによると、月山富田城は東西に約1,200m、南北に約1,200mの範囲に縄張りされた総面積140万㎡日本最大級の規模の山城だそうで、この模型は自然の幾重にも重なる山や谷を利用した城の構えの様子を分かりやすく表したものだそうです。


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登山道は観光客用に登りやすく整備されています。


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しばらく登ると、「太鼓壇」と呼ばれる丘の上の削平地に出ます。

ここは、その名のとおり太鼓を吊るした建物があった場所で、尼子経久の時代に作られたものといわれています。


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尼子経久は尼子氏の中興の祖といえる武将で、経久の代にして安芸、備後、備中、備前、美作、播磨、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐と、山陰山陽11カ国を支配するまでに成り上がった「下克上」の先駆者とも言える人物です。

元は出雲国守護代の身でしたが、領国横領等を主君の京極家から責められて追放されて浪人となり(異説あり)、その後、そこから逆襲して山陰山陽の覇権を手中に収めました。

まさに、尼子氏の全盛期を築いた武将です。


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太鼓壇には、推定樹齢400年以上という椎の巨樹があります。


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その説明書きです。

あるいは、往時を知っているかもしれませんね。


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看板の枠から板が外れちゃってます。


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同じく太鼓壇には、「尼子神社」と書かれた扁額のある小さな鳥居と祠があります。


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ここは、その名称のとおり、尼子経久、晴久、義久の三代城主ならびに、山中鹿介幸盛を始めとする尼子十勇士を祀っています。


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長くなっちゃったので、本稿はここまで。

次稿に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-01 21:24 | 島根の史跡・観光 | Comments(0)  

軍師官兵衛 第17話「見捨てられた城」 〜第二次・上月城の戦い〜

 毛利氏に寝返った別所長治の居城・三木城の攻撃にとりかかった羽柴秀吉は、京にいる織田信長援軍を要請します。東播磨最大の勢力を誇る別所氏の謀反という事態を重く見た信長は、自身の嫡子・織田信忠を総大将とする軍勢2万を播磨に送ります。その中には、滝川一益丹羽長秀明智光秀ら重臣が顔を並べていましたが、いずれも秀吉の援軍という役目を快く思っておらず、秀吉の指示に従おうとはしませんでした。指揮官が複数いたら、組織はうまく機能しなくなるものです。現代の永田町でも、よく見る光景ですよね。

 天正6年(1578年)4月、尼子勝久山中鹿介幸盛らが守る上月城に、吉川元春小早川隆景が率いる毛利の軍勢が押し寄せます。その数、約3万とも5万とも言われる大軍だったそうで、迎え討つ上月城の軍勢はわずか3000ほどだったとか(ドラマでは700でしたね)。寡は衆に敵せず。圧倒的兵力の差になす術のない籠城軍でしたが、城を包囲した毛利軍は、その力に任せて攻めこむ作戦はとらず、陣城を築き、深い空堀塹壕を掘り、を巡らせ防備を完璧なまでに固め、兵糧攻め持久戦に打って出ます。毛利軍にしてみれば、いずれ激突しなければならない織田氏との直接対決に向けて、無駄に兵を失いたくなかったのでしょう。

 かたや、三木城を攻撃中だった秀吉も、自らの手勢を率いて上月城籠城軍を支援すべく、荒木村重軍とともに高倉山に陣を置きます。しかし、その秀吉・村重連合軍をもってしても、兵の数では毛利軍にまったく及ばず、容易には動けませんでした。結局は上月城を挟んで毛利軍と秀吉軍が睨み合うかたちとなり、戦線は硬直状態となってしまいます。

 そうして、ずるずると時が過ぎた2ヶ月後、たまりかねた秀吉はひそかに京にのぼり、信長に更なる援軍を求めます。しかし、秀吉の要請に対する信長の答えは、「三木城攻めに専念せよ」というものでした。つまり、上月城は見捨てよ!・・・と。

 「700を救うために5万と戦い兵を失う。何の利がある?」
 「失うのは兵ではございません。播磨での織田の信用でございます!」

 ドラマでの信長と秀吉の会話ですが、ふたりの人となりをよく表した台詞ですね。あくまで合理的な信長と、人間的な秀吉の違いですが、どちらが正解かは難しいところです。軍人としては信長が正しいでしょうし、政治家としては秀吉が正しい・・・といったところでしょうか。

 結局、信長の命令に逆らうことはできず、秀吉軍は高倉山の陣を引き払います。これにより孤立無援となった尼子主従たちは、7月、城兵の助命を条件に開城・降伏し、尼子勝久は自刃。そして山中鹿介は、捕虜となります。なぜ主君に殉じて自刃しなかったのかはわかりませんが、あるいはドラマのように、死なばもろともと考えていたのかもしれませんね。しかし、結果的には護送途中に殺害されてしまいます。こうして、尼子家再興の道は完全に絶たれてしまいました。

 黒田官兵衛の義兄である志方城櫛橋左京進も、切腹に追いやられていましたね。わたしは、この櫛橋左京進という人物のことはよく知らなかったのですが、ネットでいろいろ調べてみても、史料が乏しく詳しいことはわかっていないようですね。ドラマのように、このとき自刃したとも言われますが、そもそも志方城の戦いなどなく、無血開城して左京進はその後、官兵衛に仕えたという説もあるようです。まあ、自刃説のほうがドラマにはなりますからね。詳しい方がいれば教えて下さい。


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by sakanoueno-kumo | 2014-04-28 23:09 | 軍師官兵衛 | Comments(2)  

軍師官兵衛 第16話「上月城の守り」 ~尼子氏と山中鹿介~

 三木城主の別所長治が毛利方に寝返ったことで、一気に形勢不利となってしまった羽柴秀吉は、すぐさま本陣を姫路から約1里ほど離れた書写山圓教寺に移します。その理由は、織田信長から送られてくる多勢の援軍を収容するためといわれており、ほかならぬ黒田官兵衛の進言だったといわれています。圓教寺は標高371メートルの山上にあり、比叡山の延暦寺、伯耆の大山寺とともに天台宗の三大道場と並び称される寺院です。あのトム・クルーズ主演のハリウッド映画『ラスト・サムライ』のロケ地にもなった場所としても有名ですね。このとき、進軍してきた秀吉軍を見た圓教寺の僧侶たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出したとか。彼らの脳裏には、信長の比叡山焼き討ちの恐怖があったのでしょう。さもありなんですね。

 労せずして本陣を移した秀吉軍は、三木城攻めの手始めとして、阿閇城(別府城)野口城を攻め、ここでも官兵衛が大いに活躍したと伝わりますが、ドラマでは省かれていましたね。このあたりのひとつひとつの合戦をすべて描いていたら、物語が一向に前に進まない・・・といったところでしょうか? まあ、やむを得ないでしょうね。

 で、戦いの舞台は、かつて官兵衛の義兄・上月景貞の居城だった西播磨の上月城に移ります。先の合戦で秀吉軍が奪った上月城には、山陰の名族・尼子勝久とその家臣・山中鹿介幸盛らの尼子氏残党が入っていました。今回は、その尼子氏と山中鹿介についてふれてみたいと思います。

 尼子氏は、かつては山陰、山陽の8ヵ国を支配する名家でしたが、このときより12年前の永禄9(1566)年、毛利元就によって攻め滅ぼされました。しかし、尼子家再興の志をもった山中鹿介ら遺臣たちが、京の東福寺で僧となっていた尼子一族の遺子を還俗させ、尼子勝久と名乗らせて擁立。尼子家再興を目指します。

 山中鹿介は、代々尼子家の家老の家に生まれ、若い頃から武勇に優れ、尼子十勇士の筆頭にして「山陰の麒麟児」と称された強者でした。伝説によれば、かつての毛利軍との戦いにおいて、敗戦による撤退の殿(しんがり)を務め、追撃する毛利軍の吉川元春小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、敵の首を7つ討ち取ったといいます。しかし、鹿介の奮闘むなしく尼子氏は降伏、滅亡。鹿介は幽閉されることとなった主君の尼子義久に追随することを望むも許されず、出雲大社で主君と別れます。鹿介22歳のときでした。このとき、彼は尼子家再興を誓ったのでしょう。

 勝久を担いで尼子家再興を目指した鹿介らは、その後、紆余曲折を繰り返しながら、信長の知遇を得ることとなり、秀吉、官兵衛らが進める中国攻めに加わることとなります。敵は宿敵・毛利。望むところだったに違いありません。上月城の守りを任されていた山中鹿介ら尼子氏残党にとっては、憎き毛利への雪辱戦であり、尼子家再興の最後の砦だったんですね。

 しかし、事実はドラマチックな結末を与えてくれませんでした。その続きは、来週に譲ることにします。


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by sakanoueno-kumo | 2014-04-21 23:14 | 軍師官兵衛 | Comments(2)