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幕末京都逍遥 その105 「島原大門」

江戸時代の京都の花街「島原」にやってきました。

島原は、寛永17年(1640年)もしくはは寛永18年(1641年)に六条三筋町から移転してきた日本初の幕府公認の遊女街です。

正式名称は「西新屋敷」といいましたが、その急な移転騒動が九州の島原の乱の直後だったため、それになぞらえて「島原」と呼ぶようになったそうです。


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現在は花街としての面影はほとんど残っておらず、写真の「大門」と、唯一営業を続けている「輪違屋」、現在は文化美術館となっている「角屋」の3ヵ所だけが、当時の名残を偲ばせています。


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京都の花街は、島原以外に上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町の6ヶ所があり、これらを総称して京都の六花街と呼ばれています。

西郷隆盛桂小五郎(木戸孝允)坂本龍馬ら幕末の志士たちも、それぞれ花街に馴染みの遊女がいましたが、ここ島原は、新選組屯所の壬生から近かったこともあって、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨ら新撰組の面々が頻繁に通っていました。


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女にモテモテだった土方歳三は、自身でどれだけもてるかを書き綴った手紙も残されているそうで、そこには、島原の花君太夫天神(太夫に次ぐ位の女性)の一元の名前が手紙に記されているそうです。

総長の山南敬助が切腹の直前に格子戸越しに別れを惜しんだという明里も、島原の天神でした。

大正時代まで長寿した永倉新八は、島原の亀屋の芸妓・小常をのちに身請けしてとします。

のちの新選組を離脱して御陵衛士を結成した伊藤甲子太郎は、現在も営業を続けている輪違屋の花香太夫が馴染みだったとか。

まさに、島原は新選組隊士たちのやすらぎの場だったんですね。


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大門の横の見返り柳は、遊廓の入口付近に生えた柳の名称で、島原だけでなく全国の遊郭の入口にあったそうです。

遊廓で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで名残を惜しんで後ろを振り返ったことから、この名が付いたのだとか。


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一般に、江戸の遊女街の吉原「遊郭」と呼びますが、京の島原は「花街」といいます。

いずれも色町には違いありませんが、京都の人は島原を「遊郭」と呼ぶことを嫌うそうです。

どっちも同じような気がしますが、このあたりが、京都人の気位の高さってやつですかね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-01 23:55 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その104 「光縁寺(新選組墓所)」

前々稿で紹介した壬生寺に、新選組隊士の墓がありましたが、そこから西へ400mほどのところにある光縁寺にも、新選組隊士の墓があります。


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山門の横には、「新選組之墓」と刻まれた石碑があります。


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山門の柱にも、「新選組之墓所」の文字が。


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光縁寺の門前近くには新選組の馬小屋があったそうで、毎日、門前を隊士たちが往来していました。

ある日、総長の山南敬助が山門の瓦の家紋に目をやると、山南家の家紋と同じ「丸に右離れ三つ葉立葵」であることに気づきます。

上の石碑の上にある家紋ですね。

これが縁となって、山南は光縁寺の住職良誉と親しくなり、山南の紹介で切腹した隊士たちがここで弔われ、埋葬されることになったといいます。

そして、その山南自身もここに眠っています。


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いちばん左が山南敬助の墓です。


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新選組の初期メンバーのひとりで、局長の近藤勇、副長の土方歳三に次ぐ総長という立場にありながら、首脳陣との確執が生じ、最後は切腹させられた山南敬助。

その確執の原因は諸説あって定かではありませんが、元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」置き手紙を残して行方をくらませました。

新選組の法度で脱走は切腹とされていました。

山南の脱走を知った近藤と土方は、すぐさま追手を差し向けます。

その追手は沖田総司ひとりでした。

沖田は山南から弟のように可愛がられていたといい、その沖田ならば、山南も無駄な抵抗はしないだろうという土方の思惑があったともいわれます。

また、別の説では、近藤と土方が山南を発見しても逃してやるよう沖田に言い含めていたが、山南自ら沖田に声をかけてきて捕縛されたという話もありますが、真相はわかりません。

沖田とともに京に戻った山南は、元治2年2月23日(1865年3月20日)、「その101」で紹介した前川邸の一室で切腹して果てます。

享年33。

介錯は山南の希望により、沖田が務めたといいます。


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山南の墓石の側面には、柴田彦三郎河合耆三郎の名が刻まれています。

合祀されているようですね。

2人とも切腹させられた隊士です。


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こちらは松原忠司をはじめ12名の隊士の墓です。

松原忠司は新選組四番隊組長で、「親切者は山南と松原」という言葉が伝わるほど、温厚な人柄で知られました。

新選組の記録では病死とされていますが、その死については諸説あります(何らかの理由で切腹したが未遂に終わり、平隊士に降格されたという点は多くの説に共通します。一説には銃殺とも)。

司馬遼太郎の短編『壬生狂言の夜』では、誤って殺めてしまった浪人の妻と恋仲になり、そのことを知った土方歳三に陥れられて心中に追い込まれるという設定でした。

もちろん、司馬氏の創作ですが。


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山南敬助の墓の横には、「沖田氏縁者」と刻まれた墓石があります。

過去帳に記載があるのみで真実はわからないそうですが、沖田総司の京都時代の恋人ではないかという声があとをたたず、昭和51年(1976年)にこの寺の住職が供養のために建てたそうです。

ただ、わたしがここを訪れたときの住職さんは、この墓は山南敬助と恋仲だった遊女の明里の墓ではないかと推理されていました。

山南は切腹の間際、駆けつけた明里と格子戸越しに最期の別れを交わしたという逸話が伝えられます。

住職いわく、山南の切腹の際、介錯の沖田に明里のことをよろしくと頼み、その約束を守った沖田が、明里を自分の縁者ということにしてここに葬ったんじゃないかと。

なんともドラマチックな推理ですが、沖田もこの3年後に病でこの世を去ります。

ってことは、明里はその前に死んじゃったってことになりますね。

山南の後を追った?

なんか、物語ができそうです。


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本堂には、山南や他の隊士たちの位牌がありました。

本当にここに眠っているんですね。

ちなみに、住職さんの話によると、大河ドラマで山南敬助を演じられた堺雅人さんも、ここを参られたそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-31 23:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その101 「旧前川邸跡(新撰組壬生屯所跡)」

前稿で紹介した八木邸跡から坊城通りを挟んですぐ東側に、旧前川邸跡があります。

ここも八木邸と同じく、初期の新選組の屯所となった屋敷です。


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文久3年(1863年)春、第14代将軍・徳川家茂の警護のために清河八郎率いる浪士組が上洛しますが、隣の八木邸と同じく、ここ前川荘司の屋敷もその宿舎のひとつとして使われました。

その後、八木邸に分宿していた十数名だけが京に残って新選組の前身である壬生浪士組となりますが、やがて人数が増えると八木邸だけでは手狭となり、ここ前川邸や南部邸(現存していない)なども屯所とするようになります。

そのなかでも前川邸の屋敷は最も広く部屋数も多かったようで、多くの隊員が生活していました。

やがて、浪士組が会津藩御預となると、前川邸は本格的に屯所として使われ始め、前川荘司一家は油小路六角にあった前川本家の両替店への避難生活を余儀なくされたといいます。

ほとんど乗っ取りですね(笑)。

前川邸を手に入れた新選組は、討幕派からの守りを固めるため、屋敷に手を加え、城塞化していきました。

屋敷を取り囲む塀は、ほとんどが板塀から土塀に改築し、長屋門には、監視のための出格子を取り付け、母屋の納戸からは、坊城通りへ脱出するための抜け道も作られたそうで、いまも抜け穴は残っているそうです。


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文久3年9月16日か18日(1863年10月28日か30日)、八木邸で芹沢鴨近藤勇一派によって粛清されますが、土方歳三ら刺客メンバーは、芹沢が島原遊郭からの帰還し、部屋の明かりが消えるのをここで見届けてから八木邸に討ち入ったといいます。

そして、翌日の芹沢の葬儀も前川邸で行われたと伝わっているそうです。

それから間もない文久3年9月26日(1863年11月7日)、長州の間者だった御倉伊勢武荒木田左馬之介が、前川邸の縁側で月代を剃っていたところを斎藤一林信太郎斬殺され、楠小十郎は門前で原田左之助殺害されました。

また、その年の暮れ、芹沢派の生き残りだった野口健司が、前川邸の綾小路通に面した一室で切腹したといいます。


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翌年の元治元年6月5日(1864年7月8日)、小道具の「桝屋」の主に扮していた攘夷派志士の古高俊太郎が逮捕され、過酷な拷問を受けて白状したことから、池田屋事件に発展しますが、その拷問が行われたのも、ここ前川邸の土蔵だったといいます。

古高に対する拷問は、2階から逆さ吊りにされて足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられて火をつけられるなどの過酷さだったとか。


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そして、さらに翌年の元治2年2月23日(1865年3月20日)、新選組総長の山南敬助切腹したのも、ここ前川邸だったといいます。

山南が切腹したのは坊城通に面した出窓の奥の一室だったと伝わり、山南の切腹を知って駆けつけた島原の遊女・明里が、その格子戸越しに最期の別れを交わしたという逸話が伝えられます(もっとも、現在ではこの逸話は子母沢寛による創作の可能性が高いといわれています)。


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旧前川邸は、現在も居住されており、一般公開はされていません。

ただ、週末だけ、新選組ファンのために一部公開してグッズ販売などをされています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-25 23:13 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)