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有子山城跡と出石城跡登城記。 その2 ~有子山城二ノ丸・三ノ丸~

「その1」の続きです。

有子山城を登り始めて約40分、ようやく石垣の遺構までたどり着きました。


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写真は主郭から数えて6段目の第6郭の石垣です。


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こちらが縄張り図です。

有子山城は標高321mの山頂に主郭を置き、東西740m、南北約780mの大城郭です。


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手前の石垣が第6郭のもので、奥の上段に見える石垣が、第5郭の石垣です。

450年近く前の石垣ですが、綺麗に残っていますね。


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第6郭の上です。


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第6郭からの北側眺望。


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第6郭上から見た第5郭の石垣。

崩れないようにネットで保護されています。


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こちらは第4郭上です。

第4郭には石垣がありません。


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第4郭横の細い道を通って上の段に上がります。


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眼前に現れたのは、第3郭の見事な石垣。

思わず、「おお~!」と声が出ました。


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石垣の出隅が鈍角になっています。

この技法を「シノギ積み」と呼びます。

ネットが掛けられているのが、少し残念ですね。


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有子山城は天正2年(1574年)に但馬国守護の山名祐豊が築城した城です。

山名氏といえば、応仁の乱の西軍の総大将だった山名宗全が有名ですね。

祐豊は宗全から5代あとの当主でした。


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元来の山名氏の本拠は、ここから3kmほど北の此隅山城を居城としていましたが、永禄12年(1569年)の羽柴秀吉の但馬攻めで落城し、その後、秀吉軍と和睦した山名祐豊は、天正2年(1574年)に標高321mの有子山山頂に有子山城を築いて本拠とします。

しかし、祐豊の息子の山名堯熙のときに毛利氏方についたため、天正8年(1580年)の秀吉による第二次但馬征伐で再び攻撃を受け、落城しました。

その後、有子山城には秀吉の実弟・羽柴秀長が入り、そのとき、石垣の城に改修されます。

現在残る石垣の遺構は、秀長時代のものということになりますね。


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第3郭下が本丸千畳敷の分かれ道になっています。

ここは、まず本丸を目指します。


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第3郭石垣の上です。


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こちらは第2郭石垣です。

少し崩れかけているように見えますが、虎口が枡形に折れ曲がっているようにも見えます。


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第2郭からの眺望。


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雲が低い。


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本丸、二ノ丸、三ノ丸といった用語は、豊臣秀吉の時代から使われ始める言葉ですが、それでいえば、この第2郭から第6郭が二ノ丸から三ノ丸に相当すると思われます。

さて、いよいよ主郭(本丸)と言いたいところですが、長くなっちゃったので次稿に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-10 22:36 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

有子山城跡と出石城跡登城記。 その1 ~有子山城登山道~

平成29年(2016年)4月6日に日本城郭協会から「続日本100名城」が発表されましたが、そのなかに、2つの城を1セットとして選ばれた城があります。

その城とは、兵庫県豊岡市出石にある出石城跡有子山城跡です。


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有子山城は標高321mの山上に築かれた山城で、出石城は、後の時代にその山の麓に築かれた平山城です。

有子山城は天正2年(1574年)に但馬国守護の山名祐豊が築城した城で、出石城は関ヶ原の戦い後の慶長9年(1604年)に小出吉英が築いた城です。

上の写真に写る石垣と櫓は出石城のもので、その背後にそびえる山頂に有子山城があります。


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出石城は以前にも訪れたことがあり、当ブログでも過去に紹介したことがあったので(参照:雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」)、この日は、まずは出石城をスルーして有子山城を目指しました。


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出石城東側にある有子山稲荷神社の朱塗りの鳥居をくぐって登ります。

鳥居は37、石段は157段あります。


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石段を登りきったところに、「史跡 有子山城跡」と刻まれた石碑が建てられています。

ここから有子山城跡への登山道です。


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案内板に書かれた登山ルートです。


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本丸まで980mとあります。


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写真では伝わりづらいですが、かなりの急勾配です。


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登山者用にロープが張られています。

この急勾配は、登りよりむしろ下山のほうが怖いかも。


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本丸まで850m

けっこう登ったつもりだったのですが、あまり進んでいません。


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本丸まで720m

こういう標識は、目安になるのでありがたいですね。


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残り500m


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このあたりから、郭跡とみられる削平地が見られはじめます。


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登り始めて約30分、中間地点に到達しました。

でも、説明書きには、ここから先はなだらかな道とあります。

それはありがたい。


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ここも郭跡とみられる削平地です。


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「続日本100名城選定」の幟が。

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しばらく進むと、井戸曲輪(水の手)と書かれた立て札があります。


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井戸曲輪は写真のように、急斜面に石垣が段になって形成されています。

パンフレットの説明書きによると、井戸曲輪は7段の石垣からなり、城内の飲料水を確保していたとあります。

この造りは全国的にもたいへん珍しいそうですが、この7段の石垣で、どうやって水を確保していたのでしょう?


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井戸曲輪から見る出石の町並みです。


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本丸までのこり240m

そろそろ城跡の縄張りに入ります。


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石垣が見えてきました。

・・・が、長くなっちゃったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-04-09 23:35 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

2015夏休み但馬路紀行 その2 「生野銀山」

石ケ堂古代村キャンプ場で1泊した翌日、朝来市にある「生野銀山」を訪れました。
生野銀山は、古くは平安時代に開坑され、昭和48年まで採掘されていた日本有数の銀山です。
現在は観光用テーマパークとなっています。

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入口には、菊のご紋が入った石門があります。
つまり、ここは天皇家の鉱山だったってことですね。

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享保元年(1716年)、第八代将軍・徳川吉宗の時代に置かれた「生野代官所」跡です。

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生野銀山の開坑は大同2年(807年)と伝えられますが、本格的に採掘が始まったのは戦国時代で、室町年間の天文11年(1542年)に但馬守護職・山名祐豊が銀石を掘り出したことに始まったとされます。
そして永禄10年(1567年)には、自然銀を多く含む日本最大の鉱脈(慶寿ひ)が見つかったそうで、当時の銀山旧記には、「銀の出ること土砂のごとし」と記されているそうです。

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その後、織田信長豊臣秀吉徳川家康も、この地を直轄地としました。
土砂のように銀が出たんだから、時の権力者が黙っているはずがありませんね。
この近くには、日本のマチュピチュとして近年人気の竹田城がありますが、竹田城が時の権力者たちに何度も攻撃されたのも、当時、竹田城が生野銀山を管轄していたという背景があったからです。
その後、第八代将軍・吉宗の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出したといいます。

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金香瀬坑と呼ばれる坑道の入口です。
明治初期、鉱山の近代化のために招聘されたフランスのジャン・フランソワ・コアニエが築造した、フランス洋式の入口だそうです。

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坑道のなかは、当時のままの岩肌や、電機仕掛けの人形により再現された作業風景を見ることができます。

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中は1年中、約13度の気温に保たれていて、夏真っ盛りなのに寒いくらいでした。

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女性も働いていたんですね。

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役人だそうです。
どう見ても西洋人にしか見えません(笑)。

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五枚合掌支柱組です。
理屈はよくわかりませんが、たぶん、理にかなった構造なんでしょう。

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こちらは馬蹄形鋼枠二枚合掌
たぶんこちらは近代のものでしょうね。
組み方が馬の蹄のかたちに似ていることから、そう呼ばれていたそうです。

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「太閤水」だそうです。
天正5年(1577年)、羽柴秀吉がこの地に入ったときにこの水を飲み、その美味しさに激賞し、茶をたてたという伝承があるそうです。
それにしても、但馬や播磨地方には、「太閤◯◯」といった伝承の史跡が多いですね。

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先般、「明治の日本産業革命遺産」と銘打った日本各地23ヵ所の史跡が、一斉に世界遺産登録となりましたが、ある意味ここも、それらの世界遺産に匹敵する史跡だと思います。
1200年の歴史を持った鉱山なんて、そうないんじゃないでしょうか?
現在ここは、日本の「近代化産業遺産」に指定されています。

次稿は、この近くにある「生野城跡」を訪れます。

2015夏休み但馬路紀行 その1 「石ケ堂古代村」
2015夏休み但馬路紀行 その3 「生野城」


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by sakanoueno-kumo | 2015-09-03 19:31 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)