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八重の桜 49話「再び戦を学ばず」 ~山本覚馬と松平容保の最期~

 新島襄の死後、山本覚馬が同志社臨時総長を務めますが、その覚馬も、明治25年(1892年)12月28日にこの世を去ります。享年64歳。思い起こせば文久2年(1862年)、京都守護職に就任した会津藩主・松平容保に従って京に上ってから30年、波乱に満ちた・・・とか、苛烈極まりない・・・などというありきたりな形容では言い表せない、まさに、筆舌に尽くしがたい人生だったといえるでしょう。

 賊軍として捕らえられ、盲目足が不自由という二重の障害を抱えながらも、明治新政府にその才を買われ、京都府顧問、京都府議会議員、同初代議長、京都商工会議所会頭と要職を歴任。人材が少ない時代だったとはいえ、覚馬がいかに有能な人物だったかがわかりますね。とくに、慶応4年(1868年)の幽閉中に獄中から覚馬が新政府に宛てて出した新国家構想ともいうべき『管見』は、「三権分立」の政体にはじまり「二院制」「女子の教育機会」などなど、実に先見性に富んだもので、西郷隆盛岩倉具視など新政府の要人たちをうならせたといいます。同時代のものとしては、坂本龍馬の『船中八策』『新政府綱領八策』が有名ですが、この山本覚馬の『管見』も、もっと注目されてもいいように思います。

「諸君たちは学業を終えそれぞれの仕事に就かれる。どうか弱い者を守る盾となって下さい。かつて私は会津藩士として戦い、京の町を焼き、故郷の会津を失いました。その償いの道は半ばです。今世界が力を競い合い、日本は戦に向けて動き出した。どうか聖書の一節を心に深く刻んで下さい。」
『その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし、国は国に向かいて剣を上げず、二度と再び戦うことを学ばない』
「諸君は一国の、いや、世界の良心であって下さい。いかなる力にもその知恵であらがい、道を切り拓いて下さい。それが身をもって戦を知る私の願いです」


 ドラマで描かれていた同志社卒業式での覚馬の訓示ですが、実際に記録が残されている覚馬の言葉は、
「弱を助け強を挫き、貧を救ひ富を抑ゆるものは誰れぞ、諸子乞う吾が言を常に心に服膺して忘るゝ勿れ」
 となります。大意は同じようなものですが、聖書の一節を引用したのはドラマの創作でしょうね。でも、舞台は同志社の卒業式、決して的外れではなく、良い演出だったんじゃないでしょうか。

 『二度と再び戦うことを学ばない』

 敗軍となった会津藩を中心に描いたこの物語で、この言葉がもっとも伝えたいテーマだったのでしょうね。会津戦争までの前半の物語と、明治以降の同志社の物語は、まるでまったく違うドラマのような演出でしたが、いまここで二つの物語が結びつきました。

 覚馬が永眠した約1年後の明治26年(1893年)12月5日、松平容保もこの世を去ります。享年59歳。容保は会津藩改め斗南藩が廃藩置県で消滅したあと東京に移住し、その後、徳川家康を祀る日光東照宮宮司などを歴任しますが、決して表に出ることはありませんでした。既に謹慎処分は解かれていたものの、一度は朝敵とされたことを重く受け止め、自主的に謹慎状態を続けていたそうです。自身の言動が、政治的にどう利用されるかわからないことを知っていたのでしょうね。ただ、やはり朝敵の汚名を着せられたことは無念の極みだったのでしょう。八月十八日の政変後に孝明天皇から下賜された『宸翰』を、小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放さなかったといいます。のちにこの『宸翰』は、山川浩山川健次郎兄弟が編纂した『京都守護職始末』で公表されますが、それは容保の死から18年が過ぎた明治44年(1911年)のことでした。戦犯者扱いとなった者の汚名返上は容易ではないのは、いつの時代も同じようです。

 ひとつの時代が終わり、次回、最終回。



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by sakanoueno-kumo | 2013-12-10 11:11 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)  

八重の桜 第43話「鹿鳴館の華」 ~大山巌と捨松の結婚~

 今話は山川浩の妹・捨松大山巌の結婚話でしたね。そこで今回は、大山捨松という女性についてふれておきます。

 捨松は山川家の末娘として生まれ、幼いころの名を咲子といいました。彼女が生まれたとき山川家には既に父は亡く、15歳上の長兄・浩が父親代わりだったそうです。会津藩家老の家に生まれ、世が世ならなに不自由なくお嬢様として育ったであろう彼女でしたが、彼女が数えで8歳のとき、運命は一変します。会津戦争ですね。ドラマでもあったように、幼いながら彼女も八重たちと一緒にあの過酷な籠城戦を戦った婦女子のひとりです。このとき鶴ヶ城に大砲を打ち込んでいた官軍の砲兵隊長が、のちに夫となる大山巌だとは夢にも思わなかったでしょうね。

 戦後、兄たちと一緒に斗南に移った咲子でしたが、斗南での生活は想像以上に厳しく、彼女だけ函館に里子に出されます。明治4年(1871年)、彼女のもう一人の兄・山川健次郎が、政府主導の官費留学生として岩倉使節団に随行することが決まります。これに便乗するかたちで、彼女も留学することになりました。このとき一緒に留学した女子は5人。そのなかに、のちに津田塾大学の創立者となる津田梅子もいました。彼女たちは、日本人初の女子留学生だったわけです。留学期間は10年。このとき咲子は満11歳ですから、ほとんど子どもから大人になる期間といえるでしょう。このとき、彼女の母は「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いを込め、「捨松」と改名させます。

 捨松が再び日本の地に降り立ったのは、日本を発って11年が過ぎた明治15年(1882年)のことでした。おそらく日本人初の女子の帰国子女だったといえるでしょうか。しかし、そんな彼女を日本は決して歓迎しませんでした。近代国家に向けて進歩していたとはいえ、まだまだ日本では男尊女卑の社会は根強く、彼女の力を発揮する場は与えられません。欧米で身につけた知識を持って故国に錦を飾ろうと帰国した彼女にとっては、失意以外のなにものでもなかったでしょうね。そんななか持ち上がったのが、大山巌との縁談話でした。

 このとき大山は、妻に先立たれて独り身となり、後妻を探していました。当時、参議・陸軍卿だった大山は、自身も西欧で4年間暮らした経験があり、フランス語やドイツ語を流暢に使って外国人と直に談判できる貴重な存在でした。そんな大山の後妻として白羽の矢が立ったのが、アメリカの名門大学を優秀な成績で卒業し、同じくフランス語やドイツ語に堪能だった捨松だったわけです。政府高官の夫人として外交の場で活躍できる女性など、当時は日本中探しても彼女しかいなかったでしょうね。しかし、この結婚には大きな障害が立ちはだかったことは言うまでもありません。

 薩摩は会津の宿敵。旧薩摩藩出身の軍人で、しかも会津戦争時に砲兵隊長として鶴ヶ城への砲撃を指揮していた大山との結婚を、山川家が許すはずがありません。兄の浩は猛烈に反対します。当然ですよね。浩にしてみれば、亡き妻の仇でもあったわけですから。しかし、大山もまた諦めずに粘ります。大山にしてみても、捨松ほど自身の求める妻にふさわしい女性はおらず、これもまた当然の粘りだったかもしれません。このあたり、ドラマにもあったとおりですね。さらに大山は、従兄弟で農商務卿西郷従道にも助太刀を頼んで山川家への説得にあたり、そのうち、大山の誠意が伝わり、最終的に浩は「本人次第」という回答をするに至ります。八重の腕相撲ではなかったようですね(笑)。

 捨松自身は、最初からこの縁談に消極的ではなかったようです。希望に胸を膨らませて帰国したものの、当時の日本ではまだまだ女性の社会進出の壁は厚く、結婚するしか生きる道はないのではないか・・・そんな気持ちになっていたのかもしれません。その意味では、政府高官の夫人という椅子は、ある意味活躍の場ととらえたのかもしれませんね。彼女は大山とのデートを何度か重ねたのち、大山の人柄に惹かれて結婚を決意します。この頃、彼女がアメリカの友人アリスに送った手紙に、「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記されているそうです。障害が多いほど恋は燃える・・・というやつでしょうか(笑)。

 結婚後、社交界に華々しくデビューした捨松は、アメリカ仕込みの立ち振舞い、流暢な外国語、日本人ばなれしたプロポーションなどで、たちまち人々の注目を集め、「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになります。鹿鳴館とは外国人の接待所として作られた洋館で、毎晩のように晩餐会舞踏会が開かれていました。彼女にとっては願ってもない活躍の場で、まさに水を得た魚の気分だったのでしょうね。

 その後、彼女は一緒に帰国した津田梅子の進める日本の女子教育の支援や、日本初の看護婦学校の設立などに貢献していきます。明治初期に国家が女子の人材を作るべく留学させた官費は、決して無駄ではなかったわけですね。国をつくるには、まず教育から。平成の政治家さんたちも、学んでほしいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-29 15:36 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第27話「包囲網を突破せよ」 ~女たちの武勇伝~

 籠城戦の足手まといにならぬよう自刃する婦女子が大勢いたなか、鶴ヶ城に入城して籠城戦を男たちと共に戦う道を選んだ婦女子もたくさんいました。八重をはじめ山本家の女性たちも、籠城の道を選びます。城内での女性たちの主な役目は、兵たちの食事の世話や負傷者の看護でしたが、八重の場合は、鳥羽・伏見の戦いで戦死した弟・三郎の形見である着物と袴を身につけて男装し、腰には大小の刀を帯び、元込め七連発のスペンサー銃を肩に担いで入城します。彼女は、自らも男たちに混じって前線で戦う決意でした。

 入城後、八重は戦いやすくするため髪を切ります。最初は自分で切り落とそうとしたそうですが、どうにも上手くいかず、幼馴染の高木時尾に切ってもらったそうです。このあたりの細かいエピソードも、ちゃんと描かれていましたね。当時の女性にとって髪を切るというのは、現代の女性のそれとは違って、腕を一本切り落とすような覚悟が必要でした。「髪は女の命」なんて言いますが、まさしく八重も、髪を切った瞬間から、城を枕に殉死する覚悟だったのでしょう。

 八重の銃撃の正確さは周囲を驚かせ、たちまち砲撃の指揮をとるに至ります。そればかりではなく、敵陣への夜襲にも参加したとか。また、政府軍が撃ち込んだ新型四斤砲の不発弾を、藩主・松平容保の前で分解し、弾の仕組みを説明したというエピソードも残っています。薩長に比べて軍政改革が立ち遅れていた会津藩のなかで、八重の他に最新式の大砲の知識を持った人物がいなかったことがわかります。さすがに砲術指南役の娘といった活躍ですね。

 八重という女性が歴史上の史料に登場するのは、この籠城戦が初めてです。よほどの家柄でないかぎり、婦女子の幼少期の記録など残っているものではありません。ドラマは折り返しを過ぎましたが、これまで物語にでてきた八重の言動や人物像は、すべて後年の彼女が語ったものや、あとは想像でしかないんですね。ただ、想像といっても、決してドラマのために作られた虚像というわけではないでしょう。銃撃戦の指揮を任されたエピソードや、藩主の前で新型大砲の指南をした逸話からも、彼女がただのお転婆娘ではなく、砲術家としてかなりのレベルの技術と知識を持っていたことがわかります。その彼女を作ってきたプロセスを想像すれば、おそらく物語のような少女期を過ごしてきたのでしょうね。

 女だてらに政府軍と戦ったのは、八重だけではありませんでした。なかでも、中野竹子らによって組織された婦女隊が後世に有名です。娘子軍とか娘子隊とも言いますね。もっとも、白虎隊などとは違って藩が正式に組織した隊ではなく、照姫を警護するための有志たちによって自然発生した組織だったので、部隊の名称はすべて後世に名付けられたものです。隊には、竹子の母・こう子と妹の優子もいました。母姉妹3人ともたいへん美人だったといいます。とくに妹の優子が美しかったようで、その美貌を心配した母と姉が、敵の手にかかって辱めをうけるくらいなら、いっそこの手で殺してしまおうと相談していたところを、同じく隊士の依田菊子が懸命にやめさせたというエピソードがあるほどです。女性にとって敵の手に掛かるということは、死以上の恐怖を意味しました。

 彼女たちは薙刀を手に奮戦します。しかし、その戦いのなか、中野竹子は顔面に銃弾を受けて絶命します(ドラマでは胸に銃弾を受けていました)。敵とわたりあいながら妹の優子が介錯し(母が介錯したという説もあります)、首級は白羽二重に包んで運ばれました。優子はこのとき16歳。いまで言えば中学3年生ですね。そんな少女が実姉の首を斬って運ぶなんて、想像を絶する光景です。あと、神保修理の妻・雪子も、この戦いで死亡したとも、敵に捕まった際に自刃したともいわれますが(ドラマでは後者の設定でしたね)、経過は不明だそうです。ほかにも、銃や薙刀を手にとって政府軍と勇ましく戦い、散っていった婦女子はたくさんいました。さすがは、武勇で名高い会津藩の女性たちです。

 山川大蔵が会津の伝統芸能・彼岸獅子を舞わせて入城するという離れ業を演じたエピソードは、後世までの語り草となっています。彼は緊迫した包囲網のなかを笛と太鼓の音色を先頭に進ませ、敵があっけに取られている間に、一兵の血も流すことなく入城しました。なんとも大胆不敵にして痛快。山川大蔵という人物は、実に肝の座った、しかもやわらか頭の人物だったのでしょうね。

 山川たちの入城によって城内の人数は約5000人にも膨れ上がり、一気に活気づいたといいます。そして、八重たちの籠城戦は、こののち約1ヶ月も続くことになります。



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by sakanoueno-kumo | 2013-07-08 21:27 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)