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西郷どん 第47話「敬天愛人」その2 ~鹿児島への帰還~

 昨日の続きです。

 政府軍の虚を衝いて可愛岳の突破に成功した西郷隆盛率いる西郷軍は、九州の中央を貫く山脈の尾根伝いに百里余りの険しい道を突き進み、明治10年(1877年)9月1日に鹿児島に入りました。2月の決起以来、実に199日ぶりの帰還でした。2月の決起時には1万数千人いた西郷軍兵士の数も、このときには400人を切るまでに減っていました。


 当時、城山私学校には政府軍の新撰旅団の一部がいましたが、辺見十郎太らが私学校を襲撃してこれを占領すると、同日中に西郷軍は鹿児島市街地をほぼ制圧し、当時、新たに鹿児島県令に就任していた岩村通俊は脱出を余儀なくされました。そして翌日に西郷が城山の岩崎谷(洞窟)に入ると、ここを西郷軍の本営として、徹底抗戦の構えを見せるとともに、鹿児島県下の士族らに決起を求めます。しかし、呼びかけに応えて駆けつけようとした者たちのほとんどは各地で政府軍や警察に捕縛されたため、西郷軍の兵力が増すことはありませんでした。


 e0158128_15131310.jpgやがて、約5万人もの政府軍が鹿児島に入り、西郷軍の籠もる城山や私学校を包囲します。5万対4百。その兵力の差は歴然としていました。もはや全滅は必至となったこの段階で、「西郷先生の一命だけは助けたい」という声が、西郷軍内部で巻き起こりました。特に、辺見十郎太、河野主一郎らが中心となり、政府軍に西郷の助命を嘆願すべきとの意見を主張します。しかし、当の西郷は、これを一蹴します。当然だったでしょう。開戦以来、多くの将兵を戦死させてしまった総大将として、自分ひとりが生き残るなど、あり得ない選択だったに違いありません。しかし、西郷を失うのは国家の損失と考えた河野らは、新政府軍の参軍・川村純義と会い、挙兵の正当性を主張したいと西郷に申し出、その許しを得ます。川村は西郷の親戚にあたり、河野はその川村のに訴えて、西郷の助命を実現させようと考えたんですね。


 9月23日、河野主一郎と山野田一輔の両名が下山し、川村と面会しました。ふたりは挙兵の正当性を主張し、西郷の助命を訴えました。これを受けた川村は、挙兵の正当性は認めなかったものの、西郷の助命については否定も肯定もせず、まずは降伏することと通告し、その旨を伝えるために山野田ひとりを城山に帰します。川村も、できることなら西郷の命を助けたいという思いはあったのかもしれませんが、しかし、同時に川村は、降伏しなければ翌日に総攻撃することも通告しており、同日夕方までにその回答を求めました。しかし、帰陣した山野田から報告を受けた歳号は、「回答の必要なし」として降伏勧告を一蹴します。ここに、24日の最終決戦が決定しました。ドラマでは、東京にいる大久保利通から西郷軍に対して降伏勧告の手紙が届けられていましたが、あれは、たぶん、この川村の降伏勧告をアレンジしたものでしょう。


 このとき、政府軍総裁の山縣有朋が山野田に持たせた西郷宛の手紙が有名です。長文なので全文を紹介することはできませんが、その中で山縣は、自身の西郷に対する畏敬の念を綴ったのち、こう記しています。


 e0158128_22143981.jpg思ふに、君が多年育成せし壮士輩は、初めより時勢の真相を知り、人理の大道を履践する才識を備へたる者なるべけれど、かの不良の徒の教唆により或はその一身の不遇によりてその不平の念を高め、遂に一転して悲憤の念を懐き、再転して叛乱の心を生ずるに至りしならん。而してその名を問へば則ち曰く、西郷の為にするなりと。情勢既にここに至る。君が平生故舊に篤き情は、空しくこれを看過してひとり餘生を完うするに忍びざりしにならん。されば、君の志はじめより生命を以て壮士輩に與へんと期せしに外ならざりしならん。君が人生の毀誉を度外に置き、天下後世の議論を顧みざるもの故なきにあらず。嗚呼君の心事まことに悲しからずや。有朋ここに君を知る深きが故に、君が為に悲む心また切なり。然れども事既にここに至る、これをいふことも何の益かあらん。


 曰く、あなたはこの暴発は本意ではなかったであろうが、あなたを慕う壮士たちの暴挙をあなたの名望をもってしても抑えきれず、自身だけが穏やかな余生を送るということができない情の厚いあなたは、一身を彼らに与えたのであろうとわたし(山縣)は思っている。あなたの心をわたしは深く理解でき、まことに悲しい。しかし、事ここに至ってしまった、と。そして、さらにこう続けます。


 君何ぞ早く自謀らざるや。


 西郷さん、なぜあなたは早く自殺しないのか!・・・と。


 願くは君早く自ら謀りて、一は其の挙の君が素志にあらざるを明にし、一は両軍の死傷を明日に救ふ計を成せよ。君にして其の謀る所を得ば、兵も亦尋で止而己。


 願わくば、早くあなた自身が自らの命を絶ち、一つにはこの挙があなたの本意ではなかったことを証明し、そして、もう一つには、これ以上、両軍の犠牲者を出さないためにも、まず、あなたが自決すべきである。そうすれば、外の兵たちも皆、戦いをやめるだろう、と。そして、最後に、


 涙を揮て之を草す。不得尽意。頓首再拝。


 と、結んでいます。山縣の西郷に対する畏敬の念がひしひしと伝わってくる手紙です。この手紙は、西郷の死後、政府軍の兵が西郷の洞窟に入った際に発見されたといいます。敵将敵将に対して総攻撃の前日にこのような手紙を送ったということ自体、例のないことでした。西郷はこの手紙を読んで、どんな思いを抱いたのでしょうね。

 「その3」に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-18 02:02 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第46話「西南戦争」その3 ~田原坂の戦い~

 昨日の続きです

 高瀬の戦いのあと、西郷軍は福岡方面から南下してくる新政府軍を迎え討つために北上し、やがて田原坂で激突します。この戦いは、西郷軍、政府軍双方に多くの死傷者を出す西南戦争一の激戦となりました。3月4日、この田原坂にほど近い吉次峠の激戦で、西郷隆盛の片腕だった一番大隊長の篠原国幹戦死しています。


 西郷軍は、当初、徴兵制によって徴収された農民を中心とする政府軍の兵士を馬鹿にしていましたが、政府軍には最新式のスナイドル銃が配備され、上官の指示にもよく従う統制のとれた政府軍兵士の攻撃に、思わぬ苦戦を強いられることとなります。一方の西郷軍は、旧式のエンフィードル銃が主力でした。スナイドル銃は元込め式1分間に6発発射できたのに対し、エンフィードル銃は1分間に2発しか発射できませんでした。加えて、この戦いの間は雨天の日が多く、先込め式のエンフィードル銃は雨に弱く、武器の差は圧倒的に政府軍が有利でした。


 ただ、そうしたなか、政府軍の兵士に大きな恐怖心を与えて大混乱に陥れたのは、西郷軍兵士による抜刀しての斬り込みでした。西郷軍の兵士のほとんどは元薩摩藩士であり、幼い頃から示現流剣術で鍛えた強者揃いでした。一方、政府軍の兵士は士族以外の者が多く、剣術の心得のない者が圧倒的でした。彼らにしてみれば、銃弾の雨のなかを怯むことなく抜刀して突撃してくる薩摩兵は、恐怖以外の何物でもなかったでしょう。周章狼狽した政府軍兵士たちはたちまち戦意を失い、命を落とす者が続出します。


 e0158128_21495406.jpgこれに対して政府軍は、薩摩兵ひとりに対してスナイドル銃を持った兵士5、6人で応戦し、間断なく銃弾を浴びせるという作戦に出ますが、これも計算どおりにはいきませんでした。そこで、警視庁大警視でありながら西南戦争勃発後は陸軍少将を兼任し、このとき警視隊で組織された別働第三旅司令長官の任にあたっていた川路利良は、警視隊のなかから特に剣術に長けていた110人を選んで「抜刀隊」を編制し、西郷軍の抜刀攻撃に対抗させました。目には目を、刀には刀を、ということですね。その中には、旧会津藩士も含まれていました。彼らは今でも戊辰戦争時に賊軍の汚名を着せられた恨みを持ち続けており、このとき西郷軍相手に「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫びながら斬り込んでいったといわれています。抜刀隊のあげた戦果は絶大でした。


e0158128_22143981.jpgしかし、この川路が立案した抜刀隊の編制には、当時、政府軍の事実上総指揮官だった山縣有朋は反対だったといいます。陸軍卿兼参議だった山縣は、徴兵制度を最も推進してきたひとりでした。その徴兵制度に反発したのが私学校党であり、全国にいる不平士族たちです。いま、ここで元士族だけを集めた抜刀隊を編制するということは、これまで推し進めてきた国民皆兵の政策を、自ら否定することになる。山縣の頭の中では、戦術も政治だったんですね。ただ勝てばいいというわけではない。徴兵制度による兵でサムライ集団を破ってこそ、真の近代軍制が確立されるという思いだったのでしょう。しかし、理想を追って戦に負けたら本末転倒な話で、川路の説得に山縣はこれを渋々許したといいます。


 この抜刀隊の働きもあって、戦局は目に見えて政府軍に有利となっていきました。それでも頑強な抵抗を見せる西郷軍に対して、政府軍はさらに第三旅団、第四旅団を投入し、兵力と兵器の差で西郷軍を圧倒しました。このとき政府軍は1日あたり平均32万発の弾丸を敵陣に撃ち込んだといい、多い日には60万発を超えたといいます。これは、日露戦争における旅順攻撃時の倍の数字でした。この当時の政府の弾丸製造能力1日12万発だったといいますから、足らずは外国からの輸入でまかなっていたようです。これに対して西郷軍は、弾薬不足に悩まされ、着弾した弾丸を拾って鋳造したり、鍋や釜を溶かして作った手作りの弾丸を使用したといいます。これほどの兵力の差がありながら、田原坂の戦いは約3週間近く続いたのですから、薩摩兵恐るべしといえるでしょうか。

 明日の稿に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-12 23:59 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その164 「東福寺」

東山九条にある東福寺を訪れました。

ここは、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで長州軍の本陣が布かれた場所です。


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嘉禎2年(1236年)、摂政の九条道家が九條家の氏寺として建立したと伝わる東福寺は、京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭を有する大寺院です。


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東福寺は紅葉の名所としても知られています。

わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)11月26日で、観光客でたいへん賑わっており、庭園はほとんど牛歩状態でした。


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東福寺は東山の東南端、伏見と接する位置にあります。

大坂城から鳥羽街道を北上して鳥羽と伏見の2方に分かれた幕府軍に対して、長州軍は主に伏見方面の戦闘を担当しました。


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山門の横には、「維新戦役忠魂之碑」が建てられています。


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篆額は山縣有朋の書だそうです。

大正6年(1917年)11月に行われた長州藩殉難の士五十回忌に建てられたそうで、表には戊辰戦争の概略と長州軍の活躍をたたえた文面、裏には鳥羽・伏見の戦いで戦死した48名の名前が刻まれています。


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その横には「防長忠魂碑」と刻まれた石碑も。


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せっかくなので、紅葉の写真をアップしておきます。


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鳥羽・伏見の戦いは1月だったので、紅葉は散ったあとですね。

長州藩にとっては、文久3年(1863年)の八月十八日の政変で追放されて以来、約4年半ぶりの入京がここ東福寺だったわけです。

断腸の思いで見た景色だったんじゃないでしょうか。




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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-11-17 01:21 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第41話「新しき国へ」その3 ~山城屋事件~

 昨日の続きです。

 天皇の西国巡幸に同行していた西郷隆盛でしたが、その途中、前月に表面化した山城屋事件に関わった山縣有朋に対し、四国の多度津で近衛兵が不満を爆発させたという報を受け、急遽一行から離れて東京に帰ります。以後、西郷は弟の西郷従道とともに、この近衛兵をめぐる紛議の解決にあたることになります。


e0158128_22162487.jpg 山城屋事件とは、長州軍閥の悪癖が露呈した近代日本初の汚職事件です。事件の発端となった山城屋和助というのは、元は長州藩の漢方医の家に生まれ、実名を野村三千三といいました。幕末期に高杉晋作奇兵隊を創設すると、これに入隊して各地で戦いに参加し、戊辰戦争では北越の戦いに従軍しています。この奇兵隊時代に軍監だった山縣と知り合っています。明治に入ると、志を転じて横浜で商人となり、屋号を山城屋和助と称するようになります。そして、その資金を得るべく旧知の山縣に近づきます。山縣は、大村益次郎の死後、長州陸軍の代表格のような立場になり、その後、政府の人事にうまく乗っかり、この当時の陸軍の総帥のような位置にのぼっていました。その山縣をうまく利用して、公金を出させようと考えたんですね。


e0158128_22143981.jpg 山城屋は山縣に近づき、その縁故で兵部省御用商人にならせてもらえないかと頼みます。御用商人になれば、陸軍に軍需品いっさいを納める商人になることであり、簡単に巨額の利益を得ることができます。おそらく山縣に甘い汁を吸わせたのでしょう。山縣はたやすく山城屋の申し出を受け入れます。兵部省御用商人となった山城屋の財はみるみる膨れ上がり、わずか1、2年の短期間で横浜一の巨商になりました。自然、山縣の懐も、山城屋とともに膨れ上がりました。


 陸軍の長官である山縣のそんな姿を見ていた下僚の長州系軍人たちは、山縣にならって山城屋に金を借りに行きました。「借りる」といっても無証文であり、実質「もらう」ことでした。山城屋にしてみれば、平素陸軍によって巨利を得続けているため、これを断ることはできませんでした。このため、山城屋はいつしか長州系軍人の金づるとなっていきました。明治5年(1872年)、山城屋は山縣ら長州系の官僚に陸軍省公金15万ドルを借り、生糸市場に手を出します。このとき長州系軍人官吏らは、貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金を受けたとされています。しかし、ほどなく山城屋は生糸相場に失敗。いままで兵部省御用商人として儲けてきた金をことごとくつぎ込んでも回復不可能な悲境に立ってしまいました。


 山城屋は陸軍省から更に金を借り出し、フランスの商人と直接取引をしようとフランスに渡ります。ところが、パリに渡った山城屋は狂ったように豪遊し、湯水のごとく金を使い始めました。観劇競馬に興じ、一流女優との交際や富豪令嬢との婚約話など、商売そっちのけで散財しているという噂が現地で広まり、この評判がロンドンやパリの日本公館にまで届き、これを不審に思った駐仏公使の鮫島尚信が内偵してみると、長州軍閥に食いついて巨利を得ている商人であることを知ります。鮫島はこの背景に重大な政府部内の腐敗があることを予感し、日本の外務省に詳細な報告を送りました。


e0158128_22240827.jpg当時の外務卿は佐賀藩出身の副島種臣でした。副島はこの種のことが許せないたちの硬骨漢で、すぐに同郷で司法卿江藤新平に知らせました。同じく不正を忌み嫌う江藤はすぐさまこれを調査し、山縣の判で貸し付けた公金が総額約65万円にのぼることが発覚します。65万円とは、当時の陸軍予算の半分以上に当たる巨額で、この事件は、当時出来上がったばかりの新政府の土台を揺るがしかねない大事件となりました。やがて、これを機に陸軍長州閥の弱体化を図りたいと狙う他藩出身の官僚たちが、声高に山縣の罷免を訴え始めます。追い詰められた山縣は、山城屋を日本に呼び戻しますが、すでに山城屋に返済能力はなく、山城屋と親しかった長州閥官僚手のひらを返したように山城屋との関係を一切絶ち、窮地に立たされた山城屋は、明治5年11月29日(1872年12月29日)、陸軍省内部の一室で割腹自殺しました。山城屋の自殺により、山城屋事件の真相は究明されないまま終わります。


e0158128_15131310.jpg 西郷はこの事件の報告を受けた際、声をかけられないほどの落胆の色を示したといいます。そして、この頃から、職務を投げ出して隠棲したいといった旨を口にするようになったといいます。貪官汚吏をこの上なく嫌う西郷にしてみれば、このような腐敗した新政府を作るためにこれまで力を尽くしてきたのではない、という虚しさがあったのでしょう。しかし、最終的には西郷は山縣に救いの手を差し伸べ、翌年の徴兵令施行に伴い陸軍卿に昇進させています。これは、西郷なりに明治政府内の薩長のバランスに配慮したとも、山縣有朋の軍政の才を高く評価していたともいわれますが、真相はわかりません。いずれにせよ、山縣はこの事件以降、西郷に対して深い恩義を感じるようになり、のちの西南戦争で敵対する立場となったときには、悩み苦しんだといいます。


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by sakanoueno-kumo | 2018-11-07 22:06 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その82 「吉田松陰拝闕詩碑」

「その80」で紹介した平安神宮の大鳥居の西側、京都府立図書館の敷地に、吉田松陰が詠んだとされる詩碑があります。

松蔭と京都の縁はあまり印象にないですが、この碑に刻まれた詩は、松蔭の著『長崎紀行』によれば、江戸から長崎へ向かう道中の嘉永6年10月2日(1853年11月2日)京都御所を拝したときに詠んだものだそうです。

嘉永6年といえば、ペリー提督率いる黒船艦隊がはじめて浦賀に来航した年。

松蔭はそれを目の当たりにして衝撃を受け、その後、師の佐久間象山の勧めもあって外国留学を決意し、長崎に寄港していたプチャーチンロシア軍艦に乗り込もうと考えて長崎に向かうも、船が予定より早く出航してしまったため、望みを果たせませんでした。

そのときの長崎行きの途中に寄った京都で詠んだ詩ということですね。


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<碑文>

山河襟帯自然城東来無不日憶神 京今朝盥嗽拝 鳳闕野人悲泣

不能行上林零落非復昔空有山河無変更聞説 今皇聖明徳

敬天憐民発至誠鶏鳴乃起親斎戒祈掃妖氛致太平従来 英皇不

世出悠々失機今公卿安得天詔勅六師坐使 皇威被八紘人

生若萍無定在何日重拝天日明

右癸丑十月朔日奉拝鳳闕粛然賦之時余将西走入海

丙辰季夏二十一回藤寅手録


<読み下し>

山河襟帯・自然の城、東来日として神京を憶はざるはなし、

今朝盥嗽(くわんそう)して鳳闕を拝し、野人悲泣して行くこと能はず、

上林零落・復た昔に非ず、空しく山河の変更なき有り、

聞説(きくなら)く今皇聖明の徳、天を敬ひ民を憐み至誠より発す、

鶏鳴乃ち起き親ら斎戒し、妖氛を掃ひて太平を致さんことを祈る、

従来英皇世(よゝ)出で(給は)ず、

悠々機を失す今の公卿、安んぞ天詔を六師に勅して、坐(ざ)ながら皇威をして八絋に被らしむるを得ん、

人生は萍の若(ごと)く定在なし、何れの日にか重ねて天日の明(あきらか)なるを拝せん。

右は癸丑十月朔旦(嘉永六年十月一日)鳳闕を拝し奉り、粛然として之を賦す、時に余将に西走して海に入らんとす

丙辰季夏(安政三年夏の末) 十一回(猛士)藤寅手録


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<大意>

京都は山河にかこまれ、おのづから他とは異なる地になっている

江戸へ来てからも、一日としてこの神聖な京都を思わぬ日はない

この朝身を清め御所を拝した

政治に無縁のわたしも悲しみのあまり動くことができない

というのは朝廷の権威と権力が地に落ちて昔に戻ることはなく

周囲の山河だけが変わりなく残っているのがいたましいからだ

もれうけたまわれば、今上天皇は最上の徳をお持ちで

天を敬い人民をいつくしみ誠を尽くしておられる

日出には起きて身を清め

日本にたれこめた妖気をはらい太平をもたらすことを祈られると

いままでこのような英明な天皇はいなかったというのに

役人どもはのんべんだらりと時間つぶしをやっているだけ

なんとかして天皇の詔勅をうけたまわり精鋭なる全軍を動かし

思うままに天皇の権威を世界におよぼしたいものだ

なんて思っていてもわたしはゆくえも知れない浮草の身

ふたたび御所を拝する日が来るだろうか


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この詩については、『長崎紀行』以外にも、一部の文字が異なるかたちでいくつか伝わるそうですが、この碑に刻まれた詩は、が安政3年(1856年)に山縣有朋の父・山縣有稔のために旧作を揮毫したものだそうで、後年、有朋が「この書は松陰先生の精神を体現したものであり、私蔵するべきではない」と考え、明治15年(1882年)に宮中に献納したそうです。

そして、松蔭の50回忌にあたる明治41年(1908年)10月、京都府教育会によって建碑されました。

石碑の裏の説明文は、松下村塾の門下生で、この当時子爵となっていた野村靖が書いたものです。


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「その78」で紹介しましたが、松陰は生前、京都に尊攘堂を建てて勤王の志士を祀り、人々の心を奮い立たせようという志を抱いていたといいます。

その志は叶いませんでしたが、没後50年にして、自身の勤王の志を詠んだ詩が京都のまちに建とうとは、夢にも思わなかったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-26 23:35 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その40 「角倉了以別邸跡・山縣有朋別邸跡・望月亀弥太終焉伝承地」

前稿で紹介した法雲寺から南西に100mほど下った木屋町通横を流れる高瀬川の畔に、「角倉氏邸跡」と刻まれた石碑があります。

角倉氏とは、江戸時代初期の豪商・角倉了以のことで、了以は二条より鴨川の水を引いて伏見に達する高瀬川を開削し、京都伏見間の水運を開通させた人物です。

以後、江戸時代を通してこの地に角倉氏の邸があったそうですが、元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件で、土佐藩脱藩浪士の望月亀弥太が、この邸の前で自刃したと伝えられます。


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望月亀弥太は土佐勤皇党のメンバーで、同郷の坂本龍馬のとりなしで勝海舟が総監を務める神戸海軍操練所で航海術を学んでいましたが、文久3年8月18日(1863年9月30日)の八月十八日の政変で政局が一変すると、藩が土佐勤皇党のメンバーに帰国命令を出したため、脱藩して長州藩邸に潜伏していました。

そして長州藩士らと共に池田屋の集会に出席し、事件に巻き込まれます。

からくも池田屋を脱出した望月でしたが、幕府方に取り囲まれて深手を負い、かろうじて長州藩邸に辿り着いたものの中へ入ることを許されず、いったんは逃れるも、ここ角倉邸前で力尽きて切腹したと伝えられます。

享年27。


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角倉邸跡の石碑から木屋町通を挟んで東側にある「がんこ寿司」の門横には、「角倉了以別邸跡」と刻まれた石碑があります。


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ここは「高瀬川源流庭苑」とも呼ばれ、角倉了以が建設した日本庭園があった場所だそうですが、明治に入ると、山縣有朋がこの地に「第二無鄰菴」と称される別邸を建設しました。

「第二」とつくのは「無鄰菴」と名付けられた山縣邸が3ヵ所あったからで、最初の無鄰菴は山縣の郷里である長州の下関につくられ、第二の無鄰菴がここ、そして、第三の無鄰菴は京都東山の南禅寺の参道前につくられました。


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なかをのぞくと、「山縣有朋第二無鄰菴」と刻まれた石碑が見えます。


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庭園は「がんこ寿司」さんに声をかけると見学できるそうですが、何も食べずに見学だけに入るのは何となくはばかられ、門前だけで失礼しました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-24 22:42 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第32話「大逆転!」 ~功山寺挙兵~

 たったひとりで決起した高杉晋作でしたが、ほどなく力士隊を率いていた伊藤俊輔が同調して立ち上がります。すると、少しずつ共鳴する者たちが増え、遊撃隊も加わります。この時点の人数は、物の本によれば84人だったといわれていますが、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』では80人半藤一利氏の著書『幕末史』では60余人と書かれています。いずれにせよ、長州藩正規軍の兵力は役3000人。どう考えても衆寡敵せずですが、晋作はこの人数で挙兵します。

 「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

 とは、晋作の師である吉田松陰の有名な言葉ですが、これは、松蔭の生前、晋作が「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」と質問したことに対しての答えだったといいます。今こそ命を賭けるべきとき・・・晋作は師の言葉を思い出し、そう覚悟したことでしょう。

 挙兵決行日は元治元年(1864年)12月15日。本当は、先日の14日に挙兵する予定だったようですが、準備に手間取り翌日にずれ込んでしまったと言われています。12月14日は、師の吉田松陰が最初に脱藩した日であり、また、赤穂浪士吉良邸討ち入りの日でもありました。自身の覚悟を、赤穂四十七士や松蔭の覚悟になぞらえていたのではないかと言われています。奇しくも、この日は吉良邸討ち入りのときと同じく、下関では珍しい大雪でした。

 立ち上がった反乱軍は、三条実美五卿がいた功山寺に集結。ここで晋作は三条らに、「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と言ったと伝えられます。この言葉は、この時期、ほうぼうに喧伝されました。周囲は大雪。死を覚悟し、わずか数十人で決起した反乱軍のリーダーの台詞としては、あまりにカッコよすぎですね。この辺りも、晋作が後世に人気の高い所以でしょう。そして、翌16日からは下関の会所、三田尻海軍局などを次々と襲撃して代官所を占領。さらに、軍監「癸亥丸」の奪取にも成功します。

 赤禰武人の不在中、奇兵隊をまとめていた山縣狂介は、当初は晋作の決起を時期尚早として反対の立場をとっていましたが、晋作ら反乱軍の勢いを見て、翌16日の奇兵隊の大部分を率いて合流します。山縣は若いときから、良くいえば慎重、悪くいえば老人のような性格で、長州藩若者特有の軽挙を好みませんでした。彼は晋作らに呼応するにあたって、自分は不本意ながら、やむなく決起するということを表すために、髪を剃って坊主になりました。往生際が悪いというか、その後、年が明けた絵堂・大田の戦いでは、山縣はそれなりに活躍を見せるのですが、司馬遼太郎などは『世に棲む日日』のなかで、「唯一、山県が軍人らしいところをみせた場面であった」と、皮肉たっぷりに書いています。決起して間もなく晋作に同調した伊藤俊輔と、勢いを見て乗っかってきた山縣狂介。のちにそれぞれ、初代、第三代の内閣総理大臣になるわけですが、後世の評価は、このときすでに見えていたような気がします。

 その後、瀬戸内海沿岸に布陣していた諸隊も次々に加わり、晋作は海の上から空砲威嚇砲撃を開始。俗論党の士気は下がり、反乱軍の勢いは一気に増していきます。この頃には、井上聞多率いる農民軍も加わり、その数は1000人を超えていました。こうなると、もう反乱軍ではなく、立派な革命軍です。革命が成るときというのは、人数ではなく勢いなんですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-10 21:40 | 花燃ゆ | Trackback | Comments(0)  

「奇兵隊内閣」というネーミングは失敗では?

 8日の皇居での認証式を終えて、正式に第94代内閣総理大臣に就任した菅直人氏。思えば十数年前、「総理にしたい政治家」としての人気を小泉純一郎氏と2分した時代もあった菅氏。2001年に就任したの小泉首相以降、安倍氏、福田氏、麻生氏、鳩山氏と世襲サラブレット総理が5代も続き、考えてみれば今世紀初の叩き上げ総理の誕生だ。決してエリートコースを歩んできたわけではない自身の政治家人生を糧に、これまでにない「庶民派総理」をアピールするべく名付けたキャッチフレーズは「奇兵隊内閣」。なるほど閣僚の顔ぶれを見れば、サラリーマンや自営業出身の閣僚ばかりでうなづける比喩だが、でもちょっと待て!「奇兵隊」の本当の姿を知っているのか?

 「奇兵隊」を知らない人のためにここで説明すると、今話題の大河ドラマ「龍馬伝」の舞台である幕末、長州藩士・高杉晋作の発案によって結成された戦闘部隊で、農民や町民など身分にとらわれない形で組織された軍隊。士農工商すべてが世襲だったこの時代、革命的な組織だったわけだが、何故このような組織が生まれたかというと、この時期の長州藩は攘夷運動によって英、仏、蘭、米の列強四国相手に戦った下関戦争で多くの戦士を失い、加えて幕府による長州征伐の攻撃を受け、まさに満身創痍の状態で人材不足が甚だしい状態に陥っていたわけで、この「奇兵隊」は、いうなれば苦肉の策だったわけだ。奇兵隊の「奇兵」の意味は、武士のみの部隊である「正規兵」の反対語で、つまりは「奇兵」=非常勤といった意味合いの言葉。となれば、菅総理の名付けた「奇兵隊内閣」は、人材不足による苦肉の策で非常勤、ということになる。

 もうひとつ、奇兵隊出身の代表的な人物に山縣有朋(やまがたありとも)という人がいる。足軽という低い身分から身を起こしてこの奇兵隊に入隊し、明治政府では第3代・第9代の内閣総理大臣にまで昇りつめた人物だが、この山県は日本陸軍の基礎を築いた人物で、「国軍の父」とも称され、後の大東亜戦争における陸軍の暴走の道を作った人物だと言ってもいい。加えて、民主党が忌み嫌う官僚制度の確立にも尽力した人物でもあり、さらに、こちらも民主党が嫌う「政治と金」の部分でも、明治政府最初の汚職事件とも言われる「山城屋事件」においてもこの山縣有朋が深く関わっている。言ってみれば、民主党の目指す政治から見れば「悪の権化」ともいえる人物で、そんな人物が軍監という中核を担っていた組織が「奇兵隊」だ。

 菅新内閣の門出にケチをつけるつもりは毛頭ないが、本当の奇兵隊の姿を思えば、この「奇兵隊内閣」というネーミングは失敗だったのではないだろうか?


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下記、記事本文引用
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<菅首相>「奇兵隊内閣」…自ら命名
 記者会見に臨んだ菅首相は、自らを幕末の志士になぞらえ、新政権を「奇兵隊内閣」と名付けた。
 首相は、「菅政権を象徴するキーワードは」との問いに「私自身は草の根で生まれた政治家」と答えた。山口県が発祥のセントラル硝子(本社・東京都)に勤務していた父を持つ首相は、世襲政治家が続いた歴代首相との違いを強調するように「普通のサラリーマンの息子」とも述べた。
 さらに、長州藩士高杉晋作が結成した奇兵隊のエピソードを引用。武士だけでなく庶民も参加した点を挙げ「幅広い国民の中から出てきたわが党の国会議員が奇兵隊のような志で勇猛果敢に戦ってもらいたい」と話した。
 また、04年の代表辞任後に始めた四国八十八カ所巡礼に触れ「53番札所まで来たお遍路も続けたいが、しばらくは後にして、日本のため全力を挙げたい」と述べた。
 会見に出席した英インディペンデント紙のデイビッド・マックニール特派員は「『サラリーマンの息子』との発言が印象深かった。日本の首相は世襲が多く、どの外国人記者もこの発言は記事にするだろう」と語った

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100608-00000633-san-pol

by sakanoueno-kumo | 2010-06-09 01:04 | 政治 | Trackback(2) | Comments(4)