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西郷どん 第44話「士族たちの動乱」その1 ~喰違の変と愛国公党~

 明治6年の政変によって西郷隆盛を始めとする征韓派下野しますが、この政府分裂は世の不平士族たちをいっそう刺激することとなり、当時、盛んになり始めていた新聞雑誌などでも、激しく新政府を言論攻撃するようになります。その攻撃の矛先は、政変を指導した大久保利通岩倉具視に向けられました。


 明治7年(1874年)1月14日、宮中での晩餐会を終えて帰路についていた岩倉が、何者かによって襲撃されました。場所は赤坂喰違見附。この頃、皇居はこの前年の火災によって焼け落ちており、赤坂の迎賓館が仮皇居となっていました。そのため、江戸城二重橋前あたりに自宅が会った岩倉は、毎日この喰違見附を通るのが通勤コースとなっていたんですね。テロリストは、それを知って待ち伏せしていました。


e0158128_11234954.jpg 岩倉は馬車に乗っていましたが、襲撃団はいっせいに馬車に飛びかかり、なかの岩倉に刀を浴びせました。岩倉は眉の下を斬られ、横なぐりの刀が入りましたが、幸い帯に差していた短刀が、これを防ぎました。岩倉はとっさに馬車から転がり落ち、そのまま江戸城(当時は東京城)外堀に転がり落ちて、水の中に潜って顔だけを水面から出し、息を殺して身を隠したといいます。その間、何度か刺客がすぐ側を通ったといいますが、岩倉は動揺することなくひっそりと潜んでいました。さすがは幕末に何度も命を狙われた経験を持つ岩倉です。公家出身のなかでは、異端といえる度胸の持ち主でした。これが三条実美だったら、動揺して慌てふためいている間に、簡単に斬り殺されていたでしょう。岩倉がただ倒幕派志士たちに担がれただけのお飾りだったわけではないことがわかりますね。ドラマの岩倉は、ちょっとカッコ悪すぎじゃないでしょうか?


 e0158128_15131733.jpg報せを受けた大久保は、不平士族による政府高官の襲撃という事態を重く見、ただちに警視庁大警視川路利良に早急な犯人捜索を命じます。そして事件の3日後、犯人は逮捕されますが、捕まった犯人は士族の武市熊吉を始めとする9名で、いずれも土佐士族でした。土佐系の高官は、先の政変で板垣退助、後藤象二郎以下、ほとんどが官を辞してしまい、政府にとどまったのは佐々木高行谷干城などわずか数人で、その結果、土佐系士族のほとんどが新政府に不満を持つ野党となりました。これが、のちの自由民権運動につながっていくんですね。


 逮捕された9名は、同年7月9日、司法省臨時裁判所において裁かれ、全員が斬首刑の判決を受け、同日、伝馬町牢屋敷にて首を落とされました。


 e0158128_19013010.jpgまた、ドラマでは描かれていませんでしたが、同じ頃、西郷とともに下野した征韓派の板垣、後藤、江藤新平、副島種臣の4人の前参議が、由利公正などの同志とともに連署して、政府に対して民撰議院設立建白書を提出しました。主唱者は板垣で、その内容は、有司専制(一部の藩閥政治家数名で行われている政治)を批判し、民選の議会開設、つまり、選挙によって選ばれた議員による議会の設立を要望するものでした。そして、それと前後して、板垣たちは愛国公党を結成します。これが日本最初の政党と言われています(もっとも、2ヶ月後に解散していますが)。当初、板垣はこの結党に西郷も誘ったといいますが、西郷はその主旨には賛同しつつも、それが言論で実現するとは思わないとして、連署には加わらなかったといいます。西郷は大久保政府を批判する行動には加担したくなかったか、あるいは、板垣主導ではなく、自身の主導で事を起こしたかったのか、それとも、このときすでに、別の方法で政府を倒すことを視野に入れていたか・・・。今となっては確かめようがありません。


 こうして、各方面で新政府に対する不満が暴発し始めていました。やがて、それが士族の反乱へと発展してくことになります。その魁となったのが、佐賀の乱でした。

 続きは明日の稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2018-11-26 01:04 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第43話「さらば、東京」その3 ~明治6年の政変<政局の結末>~

 昨日の続きです。

 ドラマでは閣議1日で終わっていたかのようでしたが、実際には10月14日の閣議では結論に至らず、翌15日、改めて閣議が開かれました。しかし、通説では、この日、西郷隆盛は閣議を欠席したといいます。その理由は、自身の言い分は前日の閣議ですべて吐き尽くしたと判断し、採否は太政大臣をはじめとする他のメンバーに委ねたのではないかと言われています。この欠席が、西郷にとって功を奏することになるんですね。あるいは、自分がその場にいないほうが、自分の意見が重みを増すといった西郷の計算だったかもしれません。


 この日の閣議では、まず参議一同に対する意見陳述が求められ、その結果、『大久保日記』によれば、大久保利通を除く参議一同が西郷を支持する意見を表明したといいます。なかでも副島種臣板垣退助がとくに西郷の朝鮮派遣を強く求める態度を示しました。これに対し大久保は、猛烈に前日に主張した反対論を主張し、副島や板垣と激論を交わします。その結果、この日も閣議が紛糾したため結論を見ず、最終決定を三条実美岩倉具視の両人に任せることになりました。そして二人は別室で話し合いますが、ここで、優柔不断な態度を示していた三条が、にわかに西郷を支持する側にまわります。前稿で紹介した閣議前の西郷の脅しの手紙がきいていたのかもしれません。西郷を敵に回すということは、西郷を慕う薩摩系近衛兵たちを敵に回すことでもあり、争いごとを好まない三条には、大久保のような命をかけた覚悟などできなかったのでしょう。いずれにせよ、ここに西郷の朝鮮への派遣が本決まりとなり、あとは、手続き上、天皇に上奏して裁可を待つだけとなりました。


 e0158128_15131733.jpgこれに怒ったのは、大久保でした。大久保は参議に就任して西郷と対決するにあたって、事前に三条と岩倉に対して、くれぐれも意見を翻さないよう証文を取っていたといいます。幕末以来、大久保は公家の優柔不断さをよく知っており、もし、今回も土壇場で梯子を外されるようなことになったら、自身の政治生命も断たれることになる。大久保は二人を信用していなかったんですね。ところが、その心配どおり、やはり、土壇場で裏切られました。怒った大久保は、閣議が開催されるはずだった17日の早朝に三条邸を訪れ、参議の辞表を提出します。これには三条はよほどショックを受けたようで、『大久保日記』によれば、「よほど御周章の御様子に候」皮肉たっぷりに記しています。また、この大久保の辞表に追随するかたちで、木戸孝允と岩倉も辞表を提出しました。この事態を受けた三条は、今度は西郷を呼んで決定した閣議の内容を再検討するよう懇願しますが、当然、西郷はこれを拒絶します。こうなると、三条はもうどうしていいかわからなくなり、やがて重圧に耐えかねて錯乱状態になり、人事不省に陥ってしまいました。


 e0158128_11234954.jpgここから、また大久保、岩倉ら征韓論反対派の巻き返しが始まります。大久保は直ちに一策を講じ、同郷の黒田清隆を動かして宮中工作を図り、天皇から岩倉に太政大臣代行を命じるよう働きかけました。そして、その工作は見事に成功します。


 岩倉の太政大臣代行の就任を知った西郷は、10月22日に板垣退助、副島種臣、江藤新平三参議とともに岩倉邸を訪れ、15日の閣議決定通りに天皇に上奏するよう要請します。しかし、岩倉は、閣議での決定事項とともに自分の考えも同時に天皇に上奏すると応えました。彼らは、代行者が自分の意見を述べるのはおかしいとして岩倉を執拗に恫喝しますが、岩倉は一歩も引かず、そして岩倉の生涯で最も凄みのある台詞を吐きます。


「わしの目の黒いうちは、おぬしたちの勝手にはさせぬぞ!」


 有名なシーンですね。これ、描いてほしかったなあ。


 この岩倉の決死の覚悟を見た西郷は、もはや勝ち目はないと判断して席を立ちます。一同が岩倉邸を出るや西郷が振り返り、一笑してこう言ったとされます。


 「右大臣、よく踏ん張りもしたな」


 これまた有名なシーンですね。このときの西郷の姿を、板垣は生涯忘れられなかったと語っています。これも描いてほしかったなあ。


 かくして西郷ら征韓派の敗北が決定しました。西郷は10月24日、参議の辞表を提出。その翌日には、板垣退助、江藤新平、副島種臣、後藤象二郎の4参議も辞表を提出します。その後、大久保、木戸の辞表が却下され、ここに、いわゆる明治6年の政変は幕を閉じることとなります。


 明治6年の政変だけで3稿もかかっちゃいました。これでも、ずいぶん割愛したつもりです。これだけの人間模様が展開された物語の核と言ってもいい出来事なのに、ドラマではあまりにも簡素化して単純化した描き方になっていました。残念ですね。

 まだ書き足りないので、明日、もう一稿だけ、西郷と大久保の決別をやります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-21 01:28 | 西郷どん | Comments(2)  

西郷どん 第43話「さらば、東京」その1 ~明治6年の政変<征韓論反対派の裏工作>~

 ドラマはいきなり征韓論閣議から始まりましたが、ここに至るまでにも様々なドラマがありました。本稿では、その経緯をできるだけ手短に解説します。


e0158128_15131733.jpg 征韓論が閣議の議題にはじめてのぼったのは明治6年(1873年)6月12日で、その2ヶ月後の8月17日の閣議で西郷隆盛朝鮮国派遣内定しましたが、前話で描かれていたように、征韓論が唱えられる以前の5月26日に、すでに大久保利通は帰国していました。木戸孝允も、大久保に遅れること2ヶ月後の7月23日に帰国しています。しかし、ふたりともこの重大な問題に直接かかわろうとしませんでした。大久保は帰国するやいなや病気を申し立てて自邸に引きこもり、大蔵卿としての職務も引き続き大隈重信に代務させ、7月になると、静養のためとして夏期休暇をとり、近畿の名所旧跡をめぐる観光旅行に発ちました。木戸もまた、体調不良を理由に参議としての職務を休みます。大久保も木戸も、留守政府に対して強い不満を抱いており、ましてや、欧米の進んだ文明を目の当たりにしてきた彼らにしてみれば、いまの日本の国力で外征など愚の骨頂、まずは内治に力を注ぎ、富国強兵に努めるべきだと考えていました。しかし、自分たちだけで現行政府の暴走を抑えることはできない。ここは何としても岩倉具視の帰国まで時間を稼がねばならない。彼らにとってこの職務放棄は、重要な政治行動だったと言えるかもしれません。


e0158128_11234954.jpg 9月13日、岩倉が帰国しました。大久保はさっそく、太政大臣・三条実美と右大臣・岩倉具視に対して長文の意見書を提出しました。そのなかで大久保は、財政上の問題、政府内の機構の問題、欧米列強の野心と日本の国際間における位置の低さの問題など、あらゆる角度から我が国の現状を分析し、いま朝鮮を刺激することがいかに無意味で愚かなことであるかを説きました。大久保と同じく欧米列強の実情を見てきた岩倉は、大久保の説くところの正しさを十分に理解していました。岩倉は帰国するや否や、すぐさま50日間の休暇を願い出ます。理由は、岩倉の実父の服喪でした。岩倉はパリにいたときに実父の訃報に接しましたが、外遊中だったために喪に服することができませんでした。公卿の慣習では、父の忌は50日でした。岩倉はこれを理由に廟議の開催を50日伸ばし、にわかに沸騰した征韓論の政情に冷却を与えようとしたんですね。策謀家・岩倉具視にとっては、父の死も政略の道具でした。


 しかし、これに最も困ったのは、岩倉の帰国を待ち望んでいた三条実美でした。彼は彼自身の力ではとても西郷を始めとする留守政府の面々を抑えることはできず、ひたすら岩倉の政治力を期待し続けて待ちあぐねていました。三条は岩倉に服喪の短縮を懇願し、岩倉はやむなく7日間に縮めます。そしてこの7日間、水面下で政局打開の裏工作が繰り広げられるんですね。


 e0158128_21582847.jpgこのときもっとも活躍したのは、当時、工部大輔だった伊藤博文でした。伊藤は年も若くてフットワークも軽く、同じ長州藩出身の木戸とは縁が深く、また、外遊中に大久保にも気に入られ、同じ征韓論反対派でありながら反りが合わない大久保と木戸の間を周旋する存在としては、うってつけの役者でした。伊藤はまず、参議の職を捨てようとしていた木戸に対して説得を重ね、大久保が参議になるなら、自分も辞職を思いとどまると言わせるまでに事を運びます。大久保の参議就任は、岩倉も三条も望むところでした。そこで伊藤は、大久保邸に足繁く通い、説得を重ねます。


 しかし、大久保は容易に首を縦には振りません。その理由はいくつか考えられますが、まず挙げられるのは、国元の旧藩主である島津久光の存在があったからでしょう。久光は相変わらず、西郷と大久保が政府の大官になっていることを嫌いつづけていました。西郷が参議兼陸軍大将という重責を担っている以上、自身は大蔵卿という職にとどまっているほうが賢明と考えていたのかもしれません。また、もうひとつの理由としては、自身が参議になることによって、西郷と直接対決することになる。これをどうしても避けたかったのでしょう。これは、竹馬の友である二人の友情関係というような美談ではなく、大久保が恐れたのは、西郷の取り巻きだったと考えられます。西郷と対決するということは、西郷を慕う薩摩系近衛兵たちが暴挙に走り、自分は殺されるかもしれない。そう危惧していたのではないでしょうか。しかし、伊藤の熱心な説得に根負けした大久保は、10月8日、とうとう参議就任を受諾します。このとき大久保は、当時、アメリカに留学中だった長男と次男に宛てた遺書を残しています。まさに大久保は、一命を賭して西郷と闘う覚悟を決めていたんですね。


明日に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2018-11-19 01:19 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第41話「新しき国へ」その1 ~岩倉使節団~

廃藩置県の改革が大きな反動を見ることなく施行されると、それから3ヵ月足らずの明治4年10月8日(1871年11月20日)、明治新政府は右大臣兼外務卿岩倉具視特命全権大使とする使節団を欧米に派遣するという策を決定します。いわゆる「岩倉使節団」ですね。そのメンバーは、副使に任命された木戸孝允(参議)、同じく副使となった新政府の事実上の首相である大久保利通(大蔵卿)、同伊藤博文(工部大輔)、同山口尚芳(外務少輔)らをはじめ、大物や重要な人物が多数含まれた48人という一大使節団でした。さらに、この使節団に便乗して私費を投じて欧米を視察しようという旧大名家の相続者や公家なども多数いて、それらを加えると100人を超えていました。


e0158128_21545247.jpg 彼ら使節団の表面上の最重要目的は、不平等条約の改正問題でした。幕末期に旧幕府と欧米諸国とのあいだで結ばれた条約とその後の改訂によって、その後の日本は、貿易の慢性的な赤字に悩まされていました。これは、関税自主権の喪失治外法権の是認などにあったのですが、安政期に結んだこの条約の改正を求める発議ができるとされた期限が間近に迫っていたため、とりあえず、条約改正交渉の延期を申し入れるというのが、この使節団に課された責務でした。


 ところが、それだけの目的にしては、メンバーが豪華過ぎます。政府首脳の半分以上を動員するというこの使節団の最大の目的は、文明国の見学にありました。廃藩置県を断行したことで、とりあえず新国家のかたちは整った。しかしながら、政府首脳のほとんどが下級武士か公家出身で、行政については旧幕臣よりも赤子同然であり、ともかくも、西洋文明というのがどういうものであるかを知らなければ、今後の日本の舵取りができない。そのためには、実際に文明国に足を運んで、この目で確かめる必要があったんですね。たしかに、書物などの資料から得る知識だけでは限界があり、本質を学ぶにためには、百聞は一見にしかずです。


e0158128_15131733.jpg しかし、その時期とそのメンバーは、あまりにも無理がありました。廃藩置県発令後、諸藩のあいだに心配されたような反発は起こらなかったとはいえ、新しく設置された「県」がどのような動きを見せるかもまだわからず、その国家体制造りも、いまだ緒についたばかりでした。そのような不安定な時期に、政府首脳が挙って長期間日本を留守にするというのは、どう考えても無茶無責任といってよく、留守を預かることとなった太政大臣三条実美は、木戸に対して洋行を延期するよう懇願する手紙を送っています。当然の要求だったでしょうね。客観的に見て、少なくとも、大久保は残るべきだったでしょう。廃藩置県後の官制改革で、大蔵省民部省を併合して行政権の7割近くを占める巨大な官庁となっており、その責任者の大蔵卿である大久保は事実上の日本の首相であり、その首相が長期国を空けるというのは、どのような社会混乱を招くかわからない。しかし、大久保は強引に使節団に参加します。そして、その割りを食ったのが西郷隆盛でした。


e0158128_15131310.jpg 留守政府を預かることとなった西郷は、参議中の筆頭格として、事実上留守内閣の首相という立場を押し付けられました。しかし、その西郷内閣は、欧米に旅立つ岩倉や大久保らとの間に大きな約束事を交わしていました。その内容は、内地の事務は使節団の帰国後に大いに改正するので、使節団の留守中は廃藩の後始末を主な業務とし、なるべく新規の改正を行わないといった約束で、それらを記した12ヵ条の誓約書を取り交わしていました。また、人事面においても、勅任官、奏任官、判任官の別なく、官員の増員を行わないという約定もありました。すなわち、西郷内閣は人事も政策決定もできない休眠政府として、ただ使節団の帰国を寝て待て、と言われたようなものでした。しかし、実際問題、何もせずに寝て待つなんて、不可能なことでした。


 明治4年11月12日(1871年12月23日)、使節団一行はアメリカの蒸気船「アメリカ号」に乗船し、横浜港を出発しました。その見送りの帰路、西郷は側にいた板垣退助に向かって、「あん船が沈みもしたら日本もずいぶんおもしろうなりもそ」冗談を言ったという有名なエピソードがあります。この冗談は冗談とも本気ともとれぬ不気味さがあるとして、当時、またたく間に留守政府の官員たちのあいだに広まったといいます。元来、ブラックジョークというのは、多少なりとも本音が隠れているものです。このときの西郷のジョークにどの程度本心が隠されていたかはわかりませんが、実際、この船がもし沈んでいたら、のちの西郷の運命もこの国のかたちも、大きく変わっていたかもしれません。見てみたい気がしないでもないと言ったら不謹慎ですかね。

明日に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-05 22:01 | 西郷どん | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その156 「戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋埋骨地)」

下鳥羽から桂川沿い鳥羽街道4kmほど南下したにも、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた墓碑があります。


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かつてこの地には鳥羽街道の愛宕茶屋があったそうで、その傍に愛宕神社の分祀されたがあったそうです。

鳥羽・伏見の戦いの際、この場所でも激しい戦闘が繰り広げられたと伝わり、ここに墓碑が建てられました。

この墓碑も前稿で紹介した悲願寺墓地内のものと同じく、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。


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ここに眠っているのは、慶応4年1月5日(1868年1月29日)に戦死した東軍兵35名だそうです。

1月5日といえば、戦いが始まって3日目で、あの岩倉具視が作ったとされる偽の「錦の御旗」を新政府軍が掲げた日です。

あるいは、錦旗を見て戦意を喪失して敗走中の兵だっかたもしれませんね。


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石碑の前は、かつての鳥羽街道が今も通っており、その前には桂川の堤防があります。


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堤防の上から墓碑を見下ろします。


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墓碑の後ろには、枝打ちされてはいますが大きな銀杏の巨樹があります。

幹の太さから見て、結構な樹齢ではないでしょうか?

あるいは、ここで戦死した35名の最期を見届けていたかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-31 21:08 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その153 「鳥羽伏見の戦い 下鳥羽戦跡」

慶応4年1月3日(1868年1月27日)の夕方に始まった鳥羽・伏見の戦いは、日没を迎えてもなお戦闘は続きました。

兵力は旧幕府軍が約1万5000だったのに対し、新政府軍は約5000と明らかに劣勢でしたが、それを補える高性能の武器を揃えていたこと、また陣形、戦術ともに新政府軍が勝っていたことなどから、旧幕府軍は死傷者が続出し、やむなく下鳥羽方面に退却します。

現在、その下鳥羽の桂川に面した道路沿いに、「鳥羽伏見戦の跡」と刻まれた石碑が建てられています。


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開戦から1日経った1月4日も、ここ下鳥羽付近で激戦が繰り広げられ、一時は旧幕府軍が盛り返しますが、ここで新政府軍は「錦の御旗」を掲げるんですね。

錦の御旗は、新政府軍が天皇の軍隊であることを示すもので、この時点で、すなわち新政府軍は官軍、旧幕府軍は天皇に逆らう賊軍ということになりました。

これを見た旧幕府軍の兵たちの士気は大きく低下し、またたく間に総崩れとなりました。


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この「錦の御旗」ですが、実は朝廷からもらったものではなく、岩倉具視が勝手に作った代物だと言われていますね。

いずれ始まるであろう旧幕府との開戦に備えて、岩倉が秘書官の玉松操に調べさせた資料を参考に、薩摩の大久保利通や長州の品川弥二郎らと相談して作ったものだと言われています。

実物は誰も見たことがないわけですから、それらしければいいということで、大久保利通の愛妾のおゆうが祇園で買ってきた錦紗銀紗の布を長州に運んで、2ヶ月がかりで完成させたもので、いわば捏造品だったわけです。


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偽物であれ何であれ、かつて南北朝時代でも足利尊氏が戦局を有利にするために御旗を利用したように、このときの錦の御旗も絶大な効力を発揮します。

そもそも、本来この戦いに朝廷は関係なく、薩長と旧幕府の私闘だったのですが、この錦の御旗を掲げたことにより、戦いを「義戦」にしたわけです。

自分たちから喧嘩を吹っかけておいて、相手が挑発に乗ってきたら、「正義」を主張する。

ずるいですね。

それにしても、御旗の納品がよく間に合いましたね。

もうちょっと製作が遅れていたら、戦いは違った結末を見ていたかもしれません。

そう考えれば、歴史は薩長の策謀に味方したということかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-25 00:47 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

西郷どん 第36話「慶喜の首」その1 ~鳥羽・伏見の戦い~

慶応4年1月2日(1868年1月26日)、薩摩藩との戦いを決意した徳川慶喜は、朝廷の判断を仰ぐために1万5千の大軍を大坂から京へ進めます。これに対して薩摩藩を中心とした新政府軍は、鳥羽の鴨川に架かる小枝橋から東にある城南宮に向けて東西に長い陣を布いて北上軍への備えとし、また、伏見の御香宮にも砲兵部隊を配置します。3日午前、旧幕府軍と新政府軍が小枝橋で接触します。旧幕府軍を率いていたのは大目付滝川具挙でした。滝川はこの1週間前の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に起きた江戸の薩摩藩邸焼討事件の報を慶喜にもたらし、江戸での薩摩藩士の横暴を説き、旧幕府軍を強硬論に導いた人物でした。


滝川は立ちふさがった新政府軍に対して「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」と要求します。ところが、ここを守備していた薩摩藩の椎原小弥太は、「朝廷に確認するまで待て」と、行く手を阻みます。そこから長時間にわたって「通せ」「通さない」押し問答が繰り返され、このままでは埒が明かないとしびれを切らした滝川は強行突破を試みますが、これに対して新政府軍が発砲し、これをきっかけに戦闘がはじまります。この砲声は3kmほど南の伏見にも届き、それを合図に同時スタートのように戦闘が始まりました。後年、西郷隆盛がこのときのことを回顧して、「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、まさに、西郷にとっては待ち望んだ開戦でした。こうして鳥羽・伏見の戦いの火蓋は切られます。


 戦のあらましは長くなるのでここでは省略しますが、徳川方の指揮不統一戦術の拙さが相まって、旧幕府兵、会津兵、桑名兵ともに各所で後退を余儀なくされ、初日の戦いは薩長軍の優勢で終わりました。この初日の戦況が、結果的に決め手となります。

 開戦の報が届いた京都では、すぐさま御所で会議が開かれ、大久保利通の意向を受けた岩倉具視は、仁和寺宮嘉彰親王を軍事総裁職兼任・征討大将軍に任命し、錦旗・節刀をさずけることと、諸藩に慶喜討伐を布告することを求めますが、慶喜を朝敵とすることに異論が続出し、なかなか結論が出ませんでした。しかし、前線から薩長軍優勢の報告が入ると、会議の空気が一変し、慶喜討伐が決定します。薩摩・長州が官軍、旧幕府軍をはじめ会津、桑名が賊軍に転落した瞬間でした。翌日、仁和寺宮が錦旗を掲げて東寺まで進み、ここに慶喜討伐の大本営を置きます。錦旗とは、新政府軍が天皇の軍隊であることを示すもので、この時点で、すなわち新政府軍は官軍、旧幕府軍は天皇に逆らう賊軍ということになったわけで。これまで形勢を展望していた諸藩も、これを見た途端になだれを打って旗幟を鮮明にしていきます。ここに、鳥羽伏見の戦いの大勢は決したといえます。まさに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉どおりの展開だったわけですね。


e0158128_11234954.jpgこの「錦の御旗」ですが、実は朝廷からもらったものではなく、岩倉具視が勝手に作った代物だと言われていますね。いずれ始まるであろう旧幕府との開戦に備えて、岩倉が秘書官の玉松操に調べさせた資料を参考に、大久保利通や長州の品川弥二郎らと相談して作ったものだと言われています。実物は誰も見たことがないわけですから、それらしければいいということで、大久保利通の愛妾のおゆうが祇園で買ってきた錦紗銀紗の布を長州に運んで、2ヶ月がかりで完成させたもので、いわば捏造品だったわけです。偽物であれ何であれ、かつて南北朝時代でも足利尊氏が戦局を有利にするために御旗を利用したように、このときの錦の御旗も絶大な効力を発揮します。そもそも、本来この戦いに朝廷は関係なく、薩長と旧幕府の私闘だったのですが、この錦の御旗を掲げたことにより、戦いを「義戦」にしたわけです。自分たちから喧嘩を吹っかけておいて、相手が挑発に乗ってきたら、「正義」を主張する。ずるいですね。それにしても、御旗の納品がよく間に合いましたね。もうちょっと製作が遅れていたら、戦いは違った結末を見ていたかもしれません。


e0158128_17320084.jpg ちなみに、この戦闘中に西郷の実弟、西郷従道が負傷したというのは実話です。従道はこの戦いに薩摩藩小銃五番隊の監軍として従軍していました。従道が受けた銃弾は頭部だったようで、ドラマでは描かれていませんでしたが、このとき駆けつけた中村半次郎(桐野利秋)が、もう助からないと早合点し、「武士の情け」とばかりに介錯しようとしたところを、従道は重傷の身に鞭打って桐野の刃をかわし、かろうじて逃れたという逸話が残っています。その後、従道はイギリス人医師のウィルスによる麻酔手術で奇跡的に助かり、同年のうちに戦線への復帰も果たしました。もし、このとき桐野に介錯されていたら、のちの海軍大将、元帥、参議、元老としての従道の活躍は存在しなかったといえます。よくぞ逃れたものです。


薩長軍が錦旗を掲げたことにより賊軍となった旧幕府軍は、その後も各地で奮戦はするものの、敗色は覆い隠せませんでした。そして極めつけとなったのは、幕府の命令で山崎を守っていた津藩兵が、6日朝、旧幕府軍に向けて砲撃を開始したこと。味方であるはずの津藩の裏切りで、旧幕府軍の士気は一気に下がり、全軍総崩れとなります。

 開戦以来ひきつづき敗報ばかりを受け、さらに錦旗が掲げられて朝敵にされたことで戦意を失っていた徳川慶喜は、6日の津藩の寝返りによる幕軍総崩れを知ると、江戸へ帰って再起をはかる決意をかため、6日夜、ひそかに大坂城を脱出し、海路江戸へ向かいます。このとき、老中はじめ京都守護職の松平容保や京都所司代の松平定敬も、慶喜の厳命により、家臣たちを置き去りにして江戸へ向かうことを余儀なくされました。翌朝、主君に欺かれたことを知った大坂城中の将兵たちが、呆然自失となったことは言うまでもありません。

e0158128_19210653.jpg このときの行動が、後世に徳川慶喜という人物の評価を下げた最大の要因であるといっていいでしょう。戦の総指揮官という立場にありながら敵前逃亡したわけですから、やむを得ない評価かもしれません。このあたりが、「百の才智があって、ただ一つの胆力もない。」といわれるところでしょうか。ただ、その一幕だけを切り取ってみればそうかもしれませんが、結果的に彼が敵前逃亡したことによって、その後の内乱は最低限の局地戦ですみ、その結果、多くの人命を失うことなく、新政府樹立へのプロセスをスムーズにし、日本の植民地化を目論む欧米列強につけ入る隙を与えませんでした。それが慶喜の意とするところだったかどうかは別として、結果的に我が国を危機から救ったことは間違いありません。幕末維新の最大の功労者は徳川慶喜だった・・・とは、少し過大評価かもしれませんが、もう少し高く評価してあげてもいいんじゃないでしょうか。


鳥羽・伏見の戦いだけでずいぶん長くなっちゃいました。どうも、前半のスローな展開のツケがたまって、ここに来て1話に多くの歴史を詰め込みすぎですね。当ブログでも、1回ではとてもまとめられない。ということで、明日に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-09-24 17:42 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第35話「戦の鬼」その1 ~小御所会議(王政復古の大号令)~

慶応3年11月15日(1867年12月9日)、京都河原町の近江屋において、坂本龍馬中岡慎太郎が何者かの手によって襲撃されました。龍馬はほぼ即死。中岡は蘇生して2日間生き延びますが、その後、容体が悪化して死去します。龍馬33歳、慎太郎30歳でした。この近江屋事件については、過去、拙ブログでは何度も取り上げてきていますので、今回はスルーします。ご興味があれば、襲撃当日の様子については、過去の拙稿「坂本龍馬没後150年。」で詳細に触れていますし、また、暗殺犯の諸説についても、「坂本龍馬没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。その1」 「その2」 「その3」 「その4」で起稿していますので、よければ一読ください。


 慶応3年10月15日(1867年11月10日)、徳川慶喜から受けた大政奉還の上表を承認した朝廷でしたが、やはり慶喜が考えていたとおり、ただちに政権を運営できる能力が朝廷にはなく、どうにも手のうちようがありませんでした。したがって、ことごとに慶喜の意見を聞き、指示を仰ぎ、結局は政務を慶喜に委託するしかありませんでした。慶喜の思惑どおりにことが運んでいたといえるでしょう。

 薩摩を始めとする討幕勢力は、なんとしても諸大名を京都に召集し、列藩の衆議によって今後の政治のあり方を決定したいと考えていました。そこで朝廷は諸大名に京都参集を命じますが、旧幕府の顔色をうかがって容易に足並みが揃いません。大政奉還という事態を前にして、諸藩主がどう対処すべきか迷うのも、当然といえば当然のことだったでしょう。これを薩長の陰謀と考える藩主、あくまで幕府に対して忠節をまっとうすべしという藩主、あるいは病気と称して上京の延期を願い出る藩主、あるいは藩主に代わって重臣の上京を出願する藩主など、さまざまでした。

e0158128_17375658.jpg これでは諸藩主会議による国是決定など、とてもできるものではない・・・そう考えた討幕側は、こうした状況を打開するために、次なる手立てを画策します。それは、武力を背景として会津藩、桑名藩をはじめとする旧幕府勢力を政権から排除するという宮廷クーデターでした。いわゆる王政復古の大号令ですね。この計画を中心的に進めたのは、薩摩藩士・大久保利通岩倉具視。まず、大久保は討幕の盟約を結んでいる長州藩と芸州藩に京へ派兵するよう依頼し、自身もすぐさま藩地に帰って藩兵を促します。さらに大久保らは、土佐藩にも協力を仰ぎます。土佐藩は大政奉還論の中心的存在であり、彼らにクーデター計画を漏らすのは危険なことでしたが、しかし、土佐藩が反対側に立ってはあとあと面倒なことになると考えたのでしょう。

 大久保は西郷吉之助(隆盛)や長州藩士・品川弥二郎などと協議して、このクーデターの決行日を12月8日に決定します。列席者は薩摩藩を中心に、土佐・尾張・越前・安芸(広島の浅野)の5藩でした。長州藩は、長州戦争が正式に終結していないので、京都に兵力を動員できず参加できませんでした。また、西郷と大久保も下級藩士のため朝廷の会議には参加できません。クーデター実行部隊で会議に参加できるのは公卿である岩倉のみ。岩倉を会議に出席させるには、まず出仕を停止させられている岩倉の罪を解かなければなりません。

e0158128_11234954.jpg そして決行日の12月8日。この日、朝廷内では会議が開かれていました。その議題は、朝敵となっている長州藩主父子の罪の赦免と復位、先の八月十八日の政変によって追放されている三条実美を始めとした公卿の赦免についてでした。昼夜を通して行われた話し合いの結論は、長州藩主父子の罪の赦免が決定、罪人となっている公卿の赦免も認められ、このとき、蟄居の身であった岩倉具視の罪も解かれます。実はこの徹夜の会議は、そのために行われた伏線だったんですね。

 翌朝、朝議を終え摂政ら親幕府メンバーが御所から退出するのを待って、薩摩藩を初め5藩の藩兵が御所を封鎖しました。そして、たったいま罪を解かれたばかりの岩倉が、かねてから用意していた王政復古の大号令なる文書を読み上げ、これを天皇に献上しました。その内容は、徳川幕府を廃止すること、摂政などの旧制度を廃止し、代わりに総裁・議定・参与の3職を置くことなど。そして、ただちにその3職による会議を開きます。これが小御所会議と呼ばれる会合です。メンバーは岩倉のほか、越前藩主・松平春嶽、土佐前藩主・山内容堂、尾張藩主・徳川慶勝ら。3職でない西郷と大久保は、別室で控えていました。

 この会議のポイントは、徳川慶喜が出席していなかったことでした。春嶽、容堂、慶勝らは、幕府が廃止されても新政府の一員として慶喜が参加すると考えていました。彼らは事前にこの大号令のことは了承していましたが、まさか、慶喜抜きの展開になるとは考えていなかったんですね。3人は岩倉の示す新政府案に難色をしめします。特に容堂の反論は激しく、クーデター政権を批判します。さすがの岩倉も押されぎみになり、会議は一旦休憩に入ります。この休憩時間が、歴史を大きく変えることになるんですね。

e0158128_15131310.jpg 会議の経過の報告を受け、助言を求められた西郷が、「短刀一本で用は足りもす」と答えたという有名な話。要は「刺し違える覚悟で臨めばことは自然と開ける」といった意味の言葉だったのでしょうが、この言葉を聞いた岩倉は、「容堂と刺し違える覚悟で臨む」と周囲の者に言い放ち、それを聞いて驚いた土佐の後藤象二郎は、主君である容堂に伝えます。これには容堂もビビったようで、再開された会議の席では、容堂はすっかり沈黙のひととなってしまいます。これで全ては決着。新政府に慶喜を加えないこと、慶喜に幕府領を差し出させること、慶喜が就任していた内大臣の官職を辞退するよう要求することなどが決定します。ドラマでは、あえて容堂に聞こえるようにこの言葉を発していましたが、あるいは、実際にもそういった計算からの言葉だったかもしれません。ここに、討幕勢力のクーデターは成功します。


 このクーデターの最大の目的は、新政権から徳川家当主の慶喜を排除することにありました。しかし、これは、ごく普通の常識から考えて、筋が通ってないんですね。というのも、現状、新政権を誕生させる上での最大の功労者は、大政奉還を決断した徳川慶喜にほかならなかったわけです。しかし、ここで徳川家に新政権のイニシアティブを取られたのでは、何のためのクーデターだったのかわからない。新政権で薩摩藩が主導権を握るためには、まずはその最大のライバルであることが確実視される慶喜を排除する必要があったわけです。しかし、道理は容堂たちの主張のほうが正しい。となると、最後は「短刀一本あれば片が付く」という恫喝しかなかったのでしょう。


小御所会議だけで、めっちゃ長くなっちゃいました。

続きは明日、「その2」で起稿します。


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by sakanoueno-kumo | 2018-09-17 12:03 | 西郷どん | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その125 「岩倉具視公旧蹟九兵衛宅址碑」

「その123」で紹介した「岩倉具視幽棲旧宅」から直線距離で1kmほど南東に、「岩倉具視公旧蹟九兵衛宅址」と刻まれた石碑があります。

九兵衛とは、岩倉具視の乳父山本九兵衛のことだそうです。


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乳母ならよく知っていますが、乳父ってあまり聞いたことがないですよね。

そもそも、なんて読むのでしょう?

ちちちち?(笑)

父は乳出ないし!(笑)

武家社会では、傅役といった父親代わりになって躾ける家臣がいましたが、公家社会の場合、乳父といったのでしょうか?


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岩倉具視は岩倉村に蟄居してからも、たびたび命を狙われる危険に晒されました。

そんなとき、ここ花園村の九兵衛宅に身を寄せて難を逃れたといいます。


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石碑は現在、民家の門の横に建っています。

なので、あまり引きの写真を撮るに憚られ、石碑のみのアップ写真を掲載します。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-05 23:45 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その124 「実相院」

前稿で紹介した「岩倉具視幽棲旧宅」のすぐ北西に、鎌倉時代創建の寺院・実相院があります。

ここも、かつて岩倉村に隠棲していた岩倉具視ゆかりの寺院です。


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実相院は門跡寺院のひとつです。

門跡寺院とは、皇族公家が住職を務める特定の寺院で、かつては位階の高い寺院とされていました。


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実相院は紅葉の名所で知られています。

わたしがここを訪れたのは、晩秋の12月2日でした。


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文久2年(1862年)10月に岩倉村に落ちてきた岩倉具視は、元治元年(1864)に前稿で紹介した屋敷を購入して住居としますが、それまでの間の一時期、ここ実相院に住んでいたと伝わります。


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その縁もあって、寺院内には岩倉具視の日記密談の記録などが展示されていましたが、実相院の建物内はすべて撮影禁止のため、紹介することはできません。


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せっかくなので、紅葉の写真を載せます。


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岩倉具視もここで紅葉狩りを楽しんだのでしょうか。


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実相院は、床に紅葉が反射して見える「床紅葉」が有名ですが、これも、撮影禁止でした。

なので、こちらでググってみてください。

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実相院 床紅葉


実相院の裏山には、尊王攘夷派の志士たちに命を狙われた具視が身を潜めたと伝わる場所があり、現在、その地に石碑が建っていると聞いたのですが、裏山に入ってみたのですが、道標がなく石碑を見つけることができませんでした。

案内板、作ってほしいですね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-02 01:17 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)