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西郷どん 第41話「新しき国へ」その2 ~西郷留守内閣~

 昨日の続きです。

 岩倉使節団の帰国まで極力新しい改正には手を付けないとの約定を交わして発足した留守政府でしたが、実際問題、廃藩置県施行後の大変革期に、何もせずに待つというわけにはいきませんでした。使節団の洋行が予定より大幅に長引いたということもありましたが、結局、使節団が留守にしていた2年弱のあいだに、近代化に向けての改革が相次いで施行されることになります。


e0158128_15131310.jpg 留守内閣が手を付けた主な改革だけを見ても、司法省所属の府県裁判所の設置(明治4年12月)、田畑永代売買の解禁(明治5年2月)、地租改正の布告(明治5年7月)、学制の頒布(明治5年8月)、新橋~横浜間の鉄道の開業(明治5年9月)、国立銀行条例の公布(明治5年11月)、太陽暦の採用(明治5年12月)、徴兵令の発布(明治6年1月)、キリスト教の解禁(明治6年2月)等々。どれもこれも、現代にも通じる大改革ですね。これらの政策に、留守政府の首相である西郷隆盛がどれほど深く関わったかについては諸説ありますが(西郷の果たした役割を高く評価する説と、西郷の関わりを軽視する説が拮抗している)、この西郷内閣が日本の近代化に大きな役割を果たしたというのは、これらの実績を見ても間違いないところでしょう。


 また、西郷は、岩倉具視大久保利通が進めていた宮中改革の路線を引き継ぎ、天皇質実剛健な君主に育てるべく、その教育に力を入れるとともに、そのための宮中の改革に熱心に取り組みました。まず、少年天皇を取り囲んでいた女官たちから天皇を引き離すために、宮内大丞に同郷の吉井友実村田新八侍従高島鞆之助山岡鉄舟という、旧武士のなかでも剛毅かつ清廉な人物を据えました。そして乗馬の練習を本格的に始めるようになり、また、後宮で1日のほとんどを過ごす生活を改め、定期的の諸省への視察も行い、一ヶ月に三度、門前に各省の長官らを呼び、御政治の得失を討論するまでになります。若き天皇は西郷を慕い、西郷との面会を楽しみにしていたといいます。


 e0158128_17024408.jpgそんななか、西郷は天皇の西国巡幸を発案します。これは、若き天皇に広く日本を見聞していただくという目的とともに、全国の不平士族の廃藩への不満を解消するためという思惑もありました。その中でも、特に不満を顕にしていたのが、西郷の故郷である鹿児島士族と、かつての国父・島津久光でした。ドラマでも描かれていましたが、廃藩置県の報を受けた久光が、屋敷の庭で花火をあげさせて、西郷や大久保に対する怒りを爆発させたというエピソードはあまりにも有名ですね。そんな久光の怒りを鎮めるために、政府は再三に渡って久光を中央政府に引き入れるべく上京を求めていましたが、久光は病気を理由に頑なにこれを拒み続けていました。このときの天皇の西国巡幸は、そんな久光の元に天皇が直々に足を運び、怒りを鎮めて上京を促すという狙いが含まれていました。


e0158128_11283315.jpg 明治5年5月23日(1872年6月28日)に東京を出発した天皇行幸の一行は、伊勢神宮京都、下関、長崎などを経て、6月22日に鹿児島に到着します。この行幸には、西郷も同行しました。久光は天皇の行幸が決まるとすぐに、突貫工事で道路を広げるなど天皇をお迎えするための準備を整えますが、どういうわけか、天皇が鹿児島入りしてもすぐには天皇に拝謁しようとはせず、天皇が鹿児島を発つ予定の25日になっても会おうとはせず、久光が天皇の行在所を訪れたのは、台風の影響で出発が伸びた6月26日のことでした。ここで久光は、新政府に対する疑問をまとめた14ヵ条の建白書を提出するとともに、西郷、大久保の2人に対する悪態をさんざんついたといいます。ドラマで、天皇に拝謁した久光が天皇の服装に困惑していましたが、実際に、久光が提出した14ヵ条の建白書のなかに、天皇の服装に対する批判も含まれていたそうです。天皇は久光に対し、「早く病を治して上京せよ」と言いますが、久光は、西郷や大久保を政府から追放しない限り自分は上京しないとまで言って、天皇を困らせたといいます。ドラマでの久光は、自分は協力しないまでも、西郷の新政府における苦悩を理解していたかのようなシーンがありましたが、実際には、まだまだこの時点での二人の関係は悪かったようです。


 天皇の行幸に随行していた西郷でしたが、その間に明るみとなったある政治事件によって、急遽一行から離れて東京に帰ります。ドラマでは少しだけ出てきた山城屋事件です。

 今回は要素が多すぎて、2回に分けてもまだ書ききれませんでした。続きは明日の稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-06 22:31 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第39話「父、西郷隆盛」その2 ~版籍奉還~

 昨日の続きです。

 薩摩藩と長州藩が中心で発足した明治新政府は、旧幕府や戊辰戦争で敵対した諸藩の領地を接収し、これを直轄地としましたが、全国にはまだまだ諸藩が独立したかたちで存在しており、それぞれの藩には藩主がいて、その家臣たちがいます。すなわち、各藩には幕藩体制から続いた兵力がそのままとなっていたわけです。一方の明治新政府には、これを守る軍隊はありません。新政府からすると危なくてしょうがない状態だったわけで、まず新政府のやるべきことは、藩をつぶし、中央政権としての軍隊を持つことでした。しかし、それは容易なことではありません。


e0158128_19334109.jpg そんなとき、姫路藩主の酒井忠邦が、「藩の名称を改め、すべて府県と同じにし、中興の盛業を遂げられたい」との提案を持ち込みます。この案に木戸孝允が飛びつきます。諸藩から無理やり権力を奪い取るのではなく、皇国日本をつくるためという名目で、藩主自ら領地と人民を朝廷にお返しする。その代わり、藩主は旧領地の知藩事(現在の知事)になり、行政を担います。つまり、小国の国王から、大国の役人になるということですね。いわゆる版籍奉還です。木戸は、戊辰戦争前から封建制打破を考えており、これを実現するにはこの方法しかないと立ち上がり、それには、まずは新政府の中心的藩である長州藩と薩摩藩が率先してやらねばならないと考え、藩主・毛利敬親を説得します。幕末以来、長州藩は藩主が木戸ら藩の参政のやることに口を出す習慣がほとんどなく、このときも、木戸の申し出がすんなり通ります。


e0158128_15131733.jpg そして木戸は、中央における薩摩藩の代表・大久保利通を説得しますが、大久保は、版籍奉還の必要性は理解しますが、木戸ほど積極的ではありませんでした。それは、二人の出身藩の違いにあったといえるでしょう。藩主は多分にお飾りで、幕末からすでに封建的気分から脱却しつつあった長州藩と、島津久光という封建制の打破など絶対認めるはずのない保守派の国父が君臨する薩摩藩では、抱えている事情が違ったんですね。


 しかし、最終的には大久保も木戸案に同意し、明治2年6月17日(1869年7月29日)に版籍奉還は勅許されます。その内容は、知事家禄の総額を、藩の実収の一割に抑えるべきこと、および、藩士の禄制改革を指示し、藩士は一律に「士族」と称することとし、知藩事(旧藩主)と藩士との主従関係も、制度的にないものとしました。すなわち、士族は皆、藩の縛りがなくなって天皇に仕える身となったわけで、中央政府が諸藩の有能な人材を徴用するにあたっても、藩主の許可を必要としなくなったわけです。


e0158128_11283315.jpg ドラマでは描かれていませんでしたが、翌年の1月、大久保は一度、鹿児島に帰郷しています。その目的は、久光と西郷隆盛を政府に呼ぶための交渉でした。久光は政府の基本的な方針、特に、封建制廃止の方向に反対し、また、版籍奉還による旧藩主の処遇にも、強い不満を抱いていました。久光は、旧来の幕府独裁政治は拒否したものの、封建体制そのものの存続を望んでいました。そんな久光を中央に呼び寄せようというのは、ひとつには、久光と薩摩藩士たちを切り離す意味もあったでしょう。この頃、長州でも藩の兵制改革に反対する奇兵隊らの一部の隊士による暴発事件が起きていました。中央政府に否定的な久光が鹿児島にいたら、強引な改革に不平を持つ士族たちが久光を担ぎ、何をしでかすかわからない。猛獣を東京というに入れてしまおうとしたんですね。しかし、久光は病気を理由にこれを断固として断り、また、西郷の引出しにも失敗します。


 版籍奉還は、制度的には藩主の土地所有権がなくなり、藩士たちとの主従関係もなくなりましたが、形としては、藩主は知藩事と名を変えてそのまま残り、その下には相変わらず武士団がいます。一方の中央政府には、未だ直轄の軍隊といえるものがありません。これでは、完全な意味での封建制打壊とはいえず、新国家を作るには、もっと荒療治が必要だったんですね。すなわち、廃藩置県です。この大改革を実現するために、政府はどうしても維新最大の功労者である西郷の声望を必要としました。こうして西郷が東京へ駆り出されます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-10-23 21:06 | 西郷どん | Comments(4)  

西郷どん 第39話「父、西郷隆盛」その1 ~西郷の帰郷~

 明治元年10月13日(1868年11月26日)に奥羽から東京へ凱旋した西郷隆盛は、新政府の面々の引き止めを振り切って鹿児島帰郷しました。翌年5月には函館五稜郭の鎮圧のために出征しますが、その後も、新政府入りを頑なに拒み、鹿児島に帰ります。このとき、西郷は維新風雲の志士のなかで、藩主、公卿以外の一藩士としては最も高い永世2000石の賞典禄を賜り、正三位に叙せられました。名実ともに維新最大の功労者となったわけです。


e0158128_15131310.jpg では、なぜそんな維新の象徴的存在だった西郷が中央政府入りしなかったかといえば、これには、様々な理由が考えられます。まず挙げられるのが、健康上の問題。明治元年(1868年)11月初旬に帰郷した西郷は、40~50日ほど日当山温泉湯治生活を送っています。これは、戊辰戦争での疲れを癒やす目的もあったかもしれませんが、この期間の長さから見ても、この時期、西郷は体調を損ねていたようです。この頃から西郷は肥満が著しくなり、それが起因する病気怪我に悩まされていました。


 その健康上の理由に加えて、西郷が窮屈な役人生活を嫌っていたことも大きな理由のひとつだったでしょう。西郷が自らの心情を詠んだ漢詩などには、宮仕えや都会暮らしを厭う性分が多分に観てとれます。もともと西郷には出世欲というものがあまりなく、元来が革命家、そして軍人であり、革命が成ったあとの細かい実務には余り関心がなかったようで、また、性格的にも向いてもいなかったようです。


 また、諸藩の薩摩藩に対する嫌疑を避けようとする考えもあったでしょう。ドラマで、中央政府への憤懣を訴える若い薩摩藩士たちに対して、「東京には一蔵どんがいるから大丈夫だ」といった台詞を吐いていましたが、まさしく、中央政府の中心となって動かしていたのは大久保利通であり、もし、自身が中央政府入りすれば大久保と西郷の両名が二人揃って中央政府の中枢に座る形になり、そうなると、長州藩をはじめ諸藩からの反感を買うことは免れ得ない。中央政府内の調和のため、そして薩摩藩への批判回避のためにも、西郷は身を引いたんですね。


e0158128_11283315.jpg それと、もうひとつ、薩摩藩国父の島津久光との関係を無視できません。久光は王政復古クーデターから戊辰戦争当初は西郷たちに協力的でしたが、その後、凱旋兵士が帰国して改革を強硬に要求しだすと、様相が変わってきます。元来、久光は頑強な保守家であり、彼が最も嫌うのは、身分秩序を乱す行為でした。そんな久光との関係を見たとき、もし、西郷が中央入りするとなると、いわば「朝臣」の身分となり、西郷をあくまで「藩臣」身分として自己の管轄下に押しとどめておきたい久光の、さらなる怒りを買うことは避けられないでしょう。西郷は久光に対し、鹿児島に引っ込むことで、自分にはなんら他意がないことを示そうとしたのではないかと考えられます。事実、あれほど東京での役人勤めを嫌った西郷でしたが、明治2年(1869年)2月に藩主・島津忠義が自ら日当山温泉まで来て藩政への復帰を求めると、あっさりとこれを引き受け、藩の参政となります。藩のお役目を担うことで、久光の怒りを鎮めようとしたのでしょう。また、久光より高くなってしまった正三位位階も、朝廷に返上を上申しています。かつては久光に対して「地ゴロ」と暴言を吐くほど攻撃的だった西郷でしたが、この頃は、東京の大久保のほうが、不屈の精神力だったようですね。


 そんなこんなで、理由はひとつではないでしょうが、西郷はひとまず鹿児島に引っ込みます。しかし、その生活は2年ほどで終わり、また東京に呼び戻されることになります。


e0158128_19271405.jpg 菊次郎が出てきましたね。鹿児島に帰ってきた西郷は、体調不良と久光からの圧力で辛い生活を送っていましたが、そのなかで、唯一嬉しい出来事は、奄美大島から息子の菊次郎を呼び寄せ、同居するようになったことだったでしょう。菊次郎は万延2年(1861年)生まれでしたから、このとき数えで9歳でした。最後に会ったのが2歳のとき、それも、徳之島での数日間だけでしたから、おそらく菊次郎に父の記憶はなかったでしょうね。後年に菊次郎が母・愛加那宛に描いた手紙によると、このとき西郷は、息子の目から見れば「甚だ御悦び遊ばされ」とあります。同じ時期、西郷は鹿児島郊外の武村に大金をはたいて家屋敷を購入しています。家を買い、離れて暮らしていた息子を引き取り、この時期の西郷は、このまま鹿児島で生涯を送る気だったことがわかりますね。しかし、歴史はそれを許しませんでした。


 西郷のことばかり述べてきましたが、この間の情勢の動きにも目を向けねばなりません。続きは明日の稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2018-10-22 19:28 | 西郷どん | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その137 「寺田屋 その1」

伏見にやってきました。

「幕末」「伏見」といえば、まず訪れなければならないのは、船宿の寺田屋でしょう。

寺田屋は大阪と京都をを結ぶ通船の京側の発着点にあり、西国雄藩の志士たちの足溜りとして幕末当時はたいへんな賑わいだったと伝えられます。


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幕末、ここ寺田屋ではふたつの大きな事件が起きています。

ひとつは、文久2年4月23日(1862年5月21日)に起きた薩摩藩士の同士討ち事件

もうひとつは、慶応2年1月23日(1866年3月9日)に起きた坂本龍馬襲撃事件です。

どちらも「寺田屋事件」「寺田屋騒動」と呼ばれ、幕末史を語る上で必須とされます。

まず本稿では、文久2年の寺田屋事件を追っていきましょう。


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玄関の前に建つ石碑には、「伏見寺田屋殉難九烈士之碑」と刻まれています。


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こちらの石碑は、正面に「史蹟 寺田屋」、向かって左側面に「坂本龍馬先生遭難の趾」、右側面に「薩摩藩九烈士殉難の趾」と刻まれています。


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事件の1週間前の4月16日、薩摩藩の国父・島津久光1000人の家臣を率いて上洛します。

その目的は、朝廷、幕府、雄藩の政治的提携を企図する幕政改革、いわゆる公武合体の実現のためで、これは、亡き兄・島津斉彬の遺志でもありました。

しかし、斉彬の生前の頃とは違って、桜田門外の変以後、世論は「倒幕」「佐幕」かの時代に突入しており、久光の上洛は、倒幕派の志士たちを大いに刺激することとなります。

久光の上洛は日本中の尊攘派志士たちの希望の光でした。


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薩摩藩内の尊王攘夷派グループ精忠組のメンバーで、過激派として知られていた有馬新七もそのひとりでした。

有馬は、藩主の「諭告書」が出されたのを受けて脱藩突出策を中止した大久保一蔵(利通)らに対し、かねてから不満を募らせていました。

つまり、突出策を捨てきれないでいたんですね。

有馬は久光に従って京に入りましたが、水面下で諸藩の過激派志士と結び、久光の上洛を背景に京都にて武力蜂起し、一気に倒幕勢力を形成しようと目論んでいました。


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ところが、倒幕の意思などまったくない久光は、朝廷との面会で浪士鎮圧の命を受けます。

もともと秩序を重んじる保守的な久光は、かねてから過激派の行動を苦々しく思っていました。

久光は有馬たち過激派志士の行動を「暴発」として抑え込もうとします。

この展開に驚愕した有馬たち過激派は、憂国の念から憤激し、幕府と協調路線をとる関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を襲撃し、そのを久光に奉じることで、否が応でも久光を倒幕へ向かわせようと画策します。

4月22日、久留米藩の真木和泉と密談した有馬は、23日に計画を実行することで合意。

そして当日、薩摩藩の定宿だったここ寺田屋に集まることで決まります。


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この情報をキャッチした久光は、精忠組のメンバーである奈良原喜八郎(繁)、大山格之助(綱良)ら剣に覚えがある鎮撫使9名を選び、「場合によっては切り捨てても構わぬ」と言い含めて寺田屋に派遣しました。

寺田屋に着いた奈良原たちは、当初はで有馬たちと面会して説得にあたりましたが、やがて、双方激高して激しい斬り合いに発展します。

有馬は剣の達人だったといいますが、狭い室内での斬り合いだったため刀が折れてしまい、鎮撫使の道島五郎兵衛に掴みかかって壁に押さえつけ、近くにいた仲間の橋口吉之丞「我がごと刺せ」と命じ、背中から刀で貫かれて相手共々絶命しました。

その後、2階にいた志士たちも降りてきて加勢しようとしますが、これを見た奈良原は刀を投げ捨てて両手を広げてこれに立ち塞がり、「待ってくれ、君命だ、同志討ちしたところで仕方がない」と懸命に訴え、ようやく騒動は沈静化します。

このとき説得に応じて投降したメンバーの中には、西郷信吾(従道)、大山弥助(巌)、篠原冬一郎(国幹)らがいました。

いずれも帰藩のうえ謹慎を命じられています。


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この戦闘で寺田屋にいた6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷を負い(のちにこの2名も切腹)、鎮撫士側は、有馬と共に橋口に突き刺された道島五郎兵衛のみが死亡しました。

この悲劇によって、久光は朝廷より大きな信頼を得ることになったわけですから、なんとも皮肉な話ですね。


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寺田屋の庭に建つ寺田屋騒動記念碑です。

それにしても、寺田屋内の展示品は圧倒的に坂本龍馬関連のものが多く、薩摩藩同士討ち事件に関連するものが少ない。

たしかに、観光客のほとんどが龍馬ファンなのでやむを得ないのかもしれませんが、歴史的には、薩摩の寺田屋事件の方がはるかに重大な事件です。

もうちょっとスポットを当ててほしいですね。


次回、その龍馬の寺田屋事件を追います。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-09-23 01:14 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

西郷どん 第29話「三度目の結婚」 ~西郷の一時帰国と結婚~

e0158128_11283315.jpg 西郷吉之助(隆盛)の奮闘によって、第一次長州征伐は戦に発展せずに終結しましたが、これを最も喜んだのは、鹿児島の国元にいた島津久光・忠義父子でした。その理由は、戦を回避したことで兵や戦費を損なわずに済んだことも大きいですが、薩英戦争の経験により欧米列強の力を存分に知らしめられた久光は、いまここで内乱を起こすことで欧米諸国の国政への介入に発展しかねないという懸念を抱いていたからでした。一説には、西郷の長州藩に対する寛大な処置は、久光の指示だったのではないかとも言われます。ドラマでは、諸手を挙げて賛美していた忠義に対して、仏頂面で気に食わなそうだった久光でしたが、実際には、久光もこのたびの西郷の働きは大いに評価しており、これまでの西郷に対する不平不満がいくぶんか和らいだといいます。


e0158128_15131310.jpg 元治2年1月15日(1865年2月10日)、鹿児島に帰国した西郷に対して、久光・忠義父子から感状が授けられました。これにより、藩内での西郷の名声はさらに増すことになります。しかし、一方で、藩外では必ずしも評価は高くありませんでした。長州藩への寛大な処置が事実上西郷の建言を受け入れたものだったということが世間に知られるにつれ、西郷が長州藩に恩を売り、長州藩と手を組んで討幕を考えているのではないかという疑惑の声が、幕府からも雄藩からも囁かれ始めます。実際に薩長同盟が結ばれるのはこれより1年後のことですが、薩長同盟といえば坂本龍馬中岡慎太郎が着想した電撃的な同盟だったかのように描かれることが多いですが、実際には、この頃からすでに世間から注目されていたんですね。


 ドラマで、幕府からの参勤交代の復活命令に久光が激高していましたが、少し説明しておくと、文久2年(1862年)に久光が兵を率いて江戸に赴き、幕政に介入した文久の改革において、これまで隔年だった参勤交代の頻度を3年に1回の3ヶ月とし、同時に、これまで人質として江戸に住んでいた大名の妻子についても帰国を許すという規制緩和を実現していました。久光初の政治行動において最大の功績だったわけですが、ここに来て幕府は、禁門の変で朝廷を掌握したことで頭に乗ったのか、制度を元に戻そうとします。しかし、この命令に従わない藩が多く存在したため、結果的に幕府の威信の低下を露見することとなります。


 ちなみに余談ですが、ドラマ中、「幕府」とか「藩」といった呼称が頻繁に出てきますが、実際には、この時代はまだこの言葉はほとんど一般に馴染みはなく、幕府をさす公用語「大公儀」、藩は「お国」とか「ご領国」と呼んでいました。したがって「討幕」という言葉も存在しません。「幕府」「藩」という言葉が公用語となったのは、明治に入ってからのことです。


e0158128_22241961.jpg さて、今話のメインは西郷の嫁取りでした。西郷が3度目の結婚をしたのは、元治2年1月28日(1865年2月23日)、帰国してから約2周間後のことでしたから、あるいは、帰国前から縁談が進んでいたのかもしれませんね。お相手は家老座書役岩山八郎太の次女・糸(糸子)。ドラマでは幼馴染の設定ですが、実際には15歳ほど年の差がありますから、ちょっと無理があるでしょうね。西郷家と岩山家では、家格でいえば岩山家のほうが上でしたが、禁門の変の功によって西郷家の家格が引き上げられたため、それを機にこの縁談が成立したと考えられます。一般に、糸は再婚だったと言われ、今回のドラマでもそう描かれていますが、この説は、確たる史料が存在しないようで、事実かどうかはわからないようです。ドラマでは、子供が出来ずに離縁されたと言っていましたが、こののち、糸と西郷との間には3人の子宝に恵まれることになります。


 こうして祝言を挙げた西郷と糸でしたが、落ち着く間もなく西郷は福岡に出張を命じられ、2月6日に鹿児島を発ちます。2人の新婚生活は、わずか1週間で終わります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-08-06 22:25 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第26話「西郷、京へ」 ~西郷の赦免と参預会議~

 元治元年2月28日(1864年4月4日)、遠島の罪を解かれた西郷吉之助(隆盛)が約1年半ぶりに沖永良部島より本土・鹿児島の地に戻ってきました。帰藩した当初の西郷は、長い座敷牢生活がたたってか、足腰が弱って一人で歩くのも難しい状態だったといいます。ドラマでの西郷はハツラツとしていましたが、実際には、この1年半の遠島生活で西郷はずいぶん弱っていたようです。


e0158128_15131310.jpg 西郷が召還されるに至った経緯は、薩英戦争後、発言権を増すことになった旧誠忠組系の藩士による強い要望が実を結んだものでした。ドラマでは、小松帯刀がその交渉役として尽力していましたが、実際には、西郷召還運動の先頭に立っていたのは、ドラマには出てきていない高崎五六という人物でした。高崎は何度も国父・島津久光に西郷の赦免を求めますが、久光はなかなか首を縦にふらなかったため、高崎が要望を聞き入れてもらえなければ腹を切るとまで訴えると、久光は渋々、息子で藩主の島津忠義に裁決を委ね、忠義によって西郷の赦免が決定します。結局は西郷の人望に勝てなかった久光ですが、どうしても自身の判断では赦したくなかったのでしょうね。


 また、西郷が赦された背景には、当時の中央政局における薩摩藩の立場も影響していました。ドラマでは描かれていませんでしたが、薩英戦争の約1ヶ月後の文久3年8月18日(1863年9月30日)、薩摩藩は会津藩と手を組んで、当時朝廷を支配していた長州藩過激派の公卿を京のまちから追放するクーデターを敢行します。世にいう「八月十八日の政変」ですね。これにより、薩摩藩と会津藩が京における支配的地位を築くことになるのですが、一方で、長州藩を中心とする尊王攘夷派からの憎しみを買い、薩摩藩は京大阪での評判を著しく落とすことになります。


e0158128_19210653.jpg さらに、久光は、かねてからの持論である公武合体を実現するべく、有力諸藩が集って政を行う合議制会議、いわゆる参預会議の開催を実現するのですが、しかし、兵庫開港問題などで一橋慶喜と久光が対立し、酒の席で慶喜が罵倒するに至り、会議はまたたく間に立ち行かなくなってしまいます。もともと、久光も慶喜も開国論者だったはずで、ふたりの意見に相違点は少なかったはずでしたが、慶喜は久光にイニシアチブを取られることに抵抗したと言われています。そもそも、公武合体と言っても、久光らのいう公武合体は、天皇のもとに賢侯を集めての中央集権を目指すというものでしたが、幕府のいう公武合体は、あくまで幕府と朝廷による合議制であって、そこに諸侯は含まれていなかったわけです。ドラマでヒー様が、「俺は 将軍家名代としてつきあってやってるんだ。」と言っていましたが、おそらく、遠からずの思いだったのでしょう。


e0158128_11283315.jpg そんな背景のなか、薩摩藩は、尊攘派からも幕閣からも評判を落とすことになります。この苦境を打開するためには、声望が高く周旋能力に長けた人材が必要だったんですね。その適任が西郷であることは、誰の目にも明らかでした。久光も妥協せざるを得なかったわけです。


 ドラマで、西郷と面会した久光が、怒りに震えて銀の煙管を噛みしめるシーンがありましたが、実際には、これより少し前の西郷の赦免が決定したときのエピソードが元で、久光は西郷の赦免に渋々同意したものの、加えていた銀の煙管を歯型がつくほど噛んだと伝えられます。よほど西郷の赦免が不本意だったのでしょう。人間、誰しも、どうしても肌が合わない相手というのがいると思いますが、西郷と久光は、まさしくその典型だったのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-17 19:24 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第25話「生かされた命」 ~生麦事件と薩英戦争~

今回はドラマで詳しくやらなかった生麦事件薩英戦争について簡単に解説します。


e0158128_11283315.jpg西郷吉之助(隆盛)が沖永良部島に流される少し前の文久2年6月7日(1862年7月3日)、千人近い藩兵を従えた薩摩藩国父の島津久光は、勅使の大原重徳とともに江戸に下向し、幕政改革を促します。そこで久光らはヒー様こと一橋慶喜将軍後見職就任と、越前藩主・松平春嶽(慶永)政治総裁職就任を実現します。世にいう「文久の改革」ですね。これは、これまで国政を全面委任されていた幕府に対し、朝廷から改革の指示が下るという前例のない出来事で、また、そこに外様大名(正確には外様大名の父)が関わっていたという前代未聞の事態でしたが、弱体化した幕府は、これを受け入れざるを得ませんでした。薩摩を出る前、西郷から「地ゴロ」と暴言され、無位無官の久光が京や江戸に乗り込んで何ができるのか、と批判された久光でしたが、結果的に、久光の東上は大成功を収めることとなりました。


e0158128_20350474.jpg こうして大いなる成果をあげた久光の一行は、意気揚々と江戸を後にします。ところが、一行が武蔵国生麦村に差し掛かった文久2年8月21日(1862年9月14日)、行列の前を馬に乗ったイギリス人4人が横切ります。これに薩摩藩士がブチギレ無礼千万として斬り捨ててしまいます。大名行列ですから、道行く人は全て道路脇に避けて平伏し、行列が通り過ぎるまで待つのが慣わしですが、外国人がそんなことを知るはずがありませんし、知っていたとしても、自分たちはその対象外だと思っていたのでしょう。しかし、「地ゴロ」薩摩隼人たちには、そんな区別はありませんでした。殺されたのはチャールズ・レノックス・リチャードソンというイギリス商人。最初に斬りつけたのは奈良原喜左衛門で、さらに、逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休が抜き打ちに斬り、落馬して息も絶え絶えだったところにとどめを刺したのが、有村俊斎(のち海江田信義)だったと言われています。


e0158128_20400641.jpg この事件は、当然のごとく大きな国際問題に発展します。当時、日本が西洋諸国と結んでいた不平等条約には治外法権も含まれており、外国人が日本でどんな罪を犯しても、日本に裁く権利はありませんでした。ていうか、そもそも、彼らは行列を横切っただけであり、外国からしてみれば、何の罪も犯していないという認識だったでしょう。事件後、イギリス公使代理のジョン・ニールは幕府に対して激しく抗議し、10万ポンドという巨額の賠償金犯人の引き渡しを要求してきます。日本の金に換算して約27万両、現在の貨幣価値でいえば350億円くらいです。幕閣が頭を抱えたのは言うまでもありません。


 結局、紆余曲折の末、翌年の5月に幕府老中・小笠原長行の独断によって賠償金が支払われました。するとイギリスは、今度は薩摩藩との直接交渉を理由に、軍艦7錦江湾(鹿児島湾)に押し寄せます。イギリスの要求は犯人の引き渡しと遺族への慰謝料2万5千ポンドの支払いでしたが、ほどなく交渉は決裂文久3年7月2日(1863年8月15日)の未明にイギリス艦隊が薩摩の艦船3隻を拿捕したことがきっかけとなり、錦江湾岸に設置されていた薩摩藩の砲台が次々に火を吹きました。これにイギリス艦隊も応戦。激しい砲撃戦が展開されました。戦いは2日間に及び、イギリス艦隊の撤退で幕を閉じます。薩摩側がイギリス艦隊に与えた被害は、戦艦1隻が大破、他2隻にも大きなダメージを与え、死者十余人(のちに20人を超える)、50余人が負傷しました。一方の薩摩藩側の被害は、戦艦3隻が沈没、陸上砲台の過半が壊滅したほか、鹿児島城下の数割が焼失するという大損害を受けます。


結果だけを見れば薩摩側の被害のほうが大きかったのですが、それでも、無敵と言われた天下の大英帝国艦隊を、薩摩藩という一地方都市の攻撃で撤退させたという事実は、世界中に大きな衝撃を与え、当時のニューヨーク・タイムズ紙「日本を侮るべきではない」と論評しています。この戦いを経てイギリスは日本の植民地化を断念したとも言われます。また、薩摩藩とイギリスは友好関係を築き、やがてそれが、倒幕への原動力となっていくことになるんですね。


 薩英戦争の報せを沖永良部島で受けた西郷は、自身が戦いに参加できない現実を大いに嘆いたといいます。


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by sakanoueno-kumo | 2018-07-02 20:41 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第23話「寺田屋騒動」 その2 ~薩摩藩士同士討ち事件~

 昨日(その1)の続きです。


 捕縛された西郷吉之助(隆盛)村田新八が鹿児島に護送された約2周間後の文久2年4月23日(1862年5月21日)、京のまちを震撼させる大事件が起きます。後世に「寺田屋事件」あるいは「寺田屋騒動」と呼ばれる薩摩藩士の同士討ち事件。幕末史を語る上で必須とされる大事件です。


e0158128_11283315.jpg 事件の1週間前の4月16日、薩摩藩の国父・島津久光1000人の家臣を率いて上洛します。その目的は、朝廷、幕府、雄藩の政治的提携を企図する幕政改革、いわゆる公武合体の実現のためで、これは、亡き兄・島津斉彬の遺志でもありました。しかし、斉彬の生前の頃とは違って、桜田門外の変以後、世論は「倒幕」「佐幕」かの時代に突入しており、久光の上洛は、倒幕派の志士たちを大いに刺激することとなります。久光の上洛は日本中の尊攘派志士たちの希望の光でした。


薩摩藩内の尊王攘夷派グループ精忠組のメンバーで、過激派として知られていた有馬新七もそのひとりでした。有馬は、藩主の「諭告書」が出されたのを受けて脱藩突出策を中止した大久保一蔵(利通)らに対し、かねてから不満を募らせていました。つまり、突出策を捨てきれないでいたんですね。有馬は久光に従って京に入りましたが、水面下で諸藩の過激派志士と結び、久光の上洛を背景に京にて武力蜂起し、一気に倒幕勢力を形成しようと目論んでいました。


ところが、倒幕の意思などまったくない久光は、朝廷との面会で浪士鎮圧の命を受けます。もともと秩序を重んじる保守的な久光は、かねてから過激派の行動を苦々しく思っていました。久光は有馬たち過激派志士の行動を「暴発」として抑え込もうとします。この展開に驚愕した有馬たち過激派は、憂国の念から憤激し、幕府と協調路線をとる関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を襲撃し、そのを久光に奉じることで、否が応でも久光を倒幕へ向かわせようと画策します。4月22日、久留米藩の真木和泉と密談した有馬は、23日に計画を実行することで合意。そして当日、薩摩藩の定宿だったここ寺田屋に集まることで決まります。


e0158128_20170202.jpge0158128_20165813.jpgこの情報をキャッチした久光は、精忠組のメンバーである奈良原喜八郎(繁)、大山格之助(綱良)ら剣に覚えがある鎮撫使9名を選び、「場合によっては切り捨てても構わぬ」と言い含めて寺田屋に派遣しました。寺田屋に着いた奈良原たちは、当初はで有馬たちと面会して説得にあたりましたが、やがて、双方激高して激しい斬り合いに発展します。有馬は剣の達人だったといいますが、狭い室内での斬り合いだったため刀が折れてしまい、鎮撫使の道島五郎兵衛に掴みかかって壁に押さえつけ、近くにいた仲間の橋口吉之丞「我がごと刺せ」と命じ、背中から刀で貫かれて相手共々絶命しました。その後、2階にいた志士たちも降りてきて加勢しようとしますが、これを見た奈良原は刀を投げ捨てて両手を広げてこれに立ち塞がり、「待ってくれ、君命だ、同志討ちしたところで仕方がない」と懸命に訴え、ようやく騒動は沈静化します。このとき説得に応じて投降したメンバーの中には、西郷信吾(従道)、大山弥助(巌)、篠原冬一郎(国幹)らがいました。いずれも帰藩のうえ謹慎を命じられています。


この戦闘で寺田屋にいた6名(有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵)が死亡、2名(田中謙助・森山新五左衛門)が重傷を負い(のちにこの2名も切腹)、鎮撫士側は、有馬と共に橋口に突き刺された道島五郎兵衛のみが死亡しました。この悲劇によって、久光は朝廷より大きな信頼を得ることになったわけですから、なんとも皮肉な話ですね。


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by sakanoueno-kumo | 2018-06-19 00:10 | 西郷どん | Comments(2)  

西郷どん 第23話「寺田屋騒動」 その1 ~大久保の刺し違えんとするエピソード~

e0158128_15131310.jpg 島津久光の東上に先立って鹿児島を発った西郷吉之助(隆盛)村田新八でしたが、下関で福岡脱藩浪士の平野國臣らから上方で尊王攘夷派の挙兵計画があることを聞き、その中に薩摩藩士が含まれていることを知ると、西郷は彼らを鎮めるために矢も盾もたまらず下関を発って上方へ向かいます。しかし、西郷は鹿児島を発つ際、久光より下関で待機せよとの指示を受けていました。したがって、西郷のこの無断上坂は君命を無視した行為でした。これを知った久光は当然の如く激怒。鹿児島での会見の際の「地ゴロ」発言の遺恨も相まってか、久光は西郷に切腹の沙汰を口にしたといいます。


 この西郷の独断専行について、西郷自身が文久2年(1862年)7月に奄美大島在住の木場伝内に宛てた書簡のなかで、久光の上洛に期待して京阪に集まった攘夷派の浪士たちは、皆、自分(西郷)を当てにして死を覚悟した志士たちなので、「死地に入らず候わでは、死地の兵を救う事出来申す間敷」と判断しての行動だったと説明しています。つまり、自分が現地に入って直接説得しなければ事態を収拾できない、と。西郷らしい行動といえますが、しかし、この判断は、裏を返せば久光には事態の収拾はできないと言っているようなものであり、久光を軽んじた行為だと思われても仕方がなかったでしょう。事実、西郷は久光のことを軽んじていました。久光の激怒は当然だったといえます。


e0158128_11283315.jpg 怒る久光に許しを得て東上した大久保一蔵(利通)は、伏見で西郷と会います。ここで二人の間でどのような話があったかは史料がなくわかりませんが、大久保が報告のために久光の元に戻ると、先に堀次郎(伊地知貞馨)有村俊斎(海江田信義)が西郷についての情報を久光の耳に入れていました。その内容は、堀曰く、長州藩の長井雅楽という大奸物と腹を合わせていると西郷から激しく面詰されたといい、有村は、西郷が平野國臣とともに戦死しようと話し合っていると報告していました。この報告は、久光の怒りに拍車をかけます。


 もはやどんなに力を尽くしても久光の怒りを解くのは不可能だと判断した大久保は、ちょうど自分が泊まっていた明石の旅館に西郷が現れると、西郷を人気のない浜辺に連れ出し、「ここで刺し違えて死のう」と言ったといいます。しかし、これを西郷は拒否します。曰く、「自分はどのような処罰を受けようともかまわないが、ふたりとも死んでしまっては、先君(島津斉彬)の遺志を継承する者がいなくなる。だから、決して自殺などしない」というものでした。こう諭された大久保は、自分もこの逆境を耐え忍ぶことを決意したといいます。


e0158128_17375658.jpgドラマとは少しシチュエーションが違いますが、大久保が西郷に刺し違えようと迫った話は有名ですね。この話は、この翌々日に大久保自身が大坂で本田親雄に語った秘事で、後年、大久保の死後に本田が明らかにして有名になったエピソードです。もっとも、大久保が刺し違えて死のうと言ったのは、西郷に甘んじて罪を受けさせるために打った芝居だったのではないかと見る歴史家もいます。その理由は、大久保がその日の日記に「(西郷が)従容として許諾、拙子も既に決断を申し入れ候、何分右通りにて安心いて此上なし」と記していることを指摘し、本気で死のうとしていた人間が、その直後に「安心」などと書けるだろうか、芝居だったからこそ本音がでたのではないか、との解釈です。


 たしかに、後年の大久保の性質から見て、すぐに「死」を口にする西郷と違い、「絶望」という言葉を知らないかの如く、どんなに窮しても、一縷の望みを探して努力してやまない男が大久保です。簡単に「死のう」なんて言葉を口にする人物ではないんですね。そう考えれば、大久保の「刺し違えて死のう」は、あるいは芝居だったかもしれませんが、でも、大久保とて若き日は感情に任せて勢いで行動したこともあったでしょうし、冷静沈着なイメージの大久保ですが、決して情に薄い人物ではありません。西郷を大島から呼び戻したのは大久保だったわけで、その責任を感じて口から出た本音だったのではないでしょうか。


 結局、西郷は死一等を減じられて遠島処分となります。久光の本心で言えば死罪を申し付けたかったのでしょうが、あるいは、ドラマのように周囲の助命嘆願があったのかもしれませんね。もっとも、久光の胸の内では、この遠島は一生鹿児島に帰ることのない終身刑のつもりだったようです。そうなっていれば、歴史はまた違ったものになったでしょうね。


 ちなみに、ドラマでは久光に報告したことが誤解を招いて怒りを買ったことを詫にきた有村に対し、寛大に受け止めていた西郷でしたが、実際には、久光の激怒を招いたのは有村や堀の「讒口」、つまり、西郷を陥れるための虚言によるものだと受け止め、以後、西郷は彼らを恨み続けます。ドラマでの西郷、ちょっといい人すぎますね。


 寺田屋事件の話にいくまでに長くなっちゃいました。つづきは明晩、「その2」の稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-06-18 01:22 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第22話「偉大な兄 地ごろな弟」 ~地ゴロ発言~

e0158128_15131310.jpg 西郷吉之助(隆盛)が奄美大島より召喚された最大の理由は、かつて西郷がリーダー格だった誠忠組藩権力を掌握し、これから中央政局に乗り出していこうとするなかで、諸藩の志士や朝廷に名の売れた西郷に国事周旋を補佐させるためでした。ところが、帰藩した西郷は、誠忠組が推進してきた島津久光を担いで東上するという計画に真っ向から反対します。その理由は、久光は国父といえども藩主になった経験がなく、そのため、参勤交代などで江戸にも京にも行ったこともなく、有力諸侯や老中らとの交流もないため、東上して政治活動をするのは無理であり、そもそも、無位無官の身である久光には、中央政局で発言する資格がない、というものでした。上洛など時期尚早で、まずは、大藩の有力諸侯との連携構築が先である、と。たしかに西郷の指摘は的を射ており、問い詰められた中山中左衛門、小松帯刀、大久保利通ら久光の側近は、ぐうの音も出なかったといいます。


 そして後日、西郷が久光と会見した際、西郷の口から後世に有名な久光批判の発言が飛び出します。「地ロゴ」ですね。「地ロゴ」の語源は「地五郎」で、つまり「田舎者」という意味。すなわち、田舎者の久光が京や江戸に乗り込んで何ができるのか、といった批判で、これを聞いた久光が大いに気分を害したことはいうまでもありません。


e0158128_11283315.jpg 西郷のこの発言の裏には、おそらく西郷が常日頃から兄の故・島津斉彬と久光を比較し、今回のサブタイトルのように、都会的で偉大な兄に対して田舎者の弟といった久光を軽視する気持ちがあったのだろうと想像できますし、また、その背景には、かつてのお由羅騒動による久光派への敵対意識や、斉彬暗殺疑惑などの偏見も影響していたに違いありません。それらの過去の派閥抗争に久光は直接関係しておらず、また、斉彬と久光の関係は良好だったといわれていますが、斉彬を崇拝する西郷としては、簡単に割り切れない思いがあったのでしょう。久光公ごときが先君の遺志を継ごうなんて片腹痛い、と。


 また、久光とその側近に対する西郷の不満はそれだけではなく、奄美から帰藩したときの藩政にもありました。前話の稿でも述べたとおり、国父となった久光は島津斉興時代の家老・島津豊後(月照と西郷を追放した家老)を罷免し、前藩主の斉彬に重用された島津久徴主座家老としましたが、この久徴の就任を西郷はたいへん喜んでいました。というもの、久徴は日置島津家の出身で、かつてお由羅騒動に連座して切腹した赤山靱負実弟だったからです(参照:第4話)。西郷と赤山は浅からぬ関係で、その実弟である久徴の復職は、西郷にとってはこの上なく喜ばしい人事だったんですね。


 ところが、その久徴が、久光の上洛計画に異を唱えます。その理由は、いま久光が上洛しても成功は見込めないというもので、概ね西郷が大久保らを問い詰めた内容と同じでした。この反対を受けた久光は、久徴を罷免し、久徴を取り巻く日置派に属した藩士たちも閑職に追いやります。おそらくは、大久保たち誠忠組も、この人事に口を出していたに違いありません。西郷はこれも気に入らなかったのでしょうね。


e0158128_17375658.jpg 西郷の主張は決して間違ってはいませんでしたが、彼のやり方は、決して褒められたものではなかったでしょう。このとき西郷が奄美大島在住の木場伝内に宛てた書簡には、上述した中山、小松、大久保に対して、「愚行の形行残さず申し上げ候」とか、「甚だ以て疎地の御策」などといった厳しい言葉で痛烈に批判したと記されています。若き日の西郷は後年とは違い、相手を完膚なきまでに論破してしまう尖った男だったといいますが、これでは、相手の立場を配慮しない、顔をつぶすに等しいやり方です。いくら西郷の批判が的を射たものだったとしても、顔をつぶされた側は面白いはずがありません。西郷にしてみれば、かつて江戸や京で一流の志士高貴な方々と深い交流を持った自分と、国元にいる薩摩人では格が違うといった上から目線はあったかもしれません。また、3年という島暮らしの期間が、西郷を多少ひねくれさせていたかもしれませんね。大久保、小松がこのときどう思ったかは伝わっていませんが、中山は、大久保とともに久光の東上計画を作成した人物であっただけに、恥をかかされたという思いが人一倍強く残り、この後、薩摩藩内の反西郷勢力のリーダー格となり、西郷を大いに苦しめることになります。


 また、久光に対する有名な「地ゴロ」発言ですが、わたしはかねてから、いくら久光に批判的だったとはいえ、藩内最高権力者に対して、このような不躾な発言を直にするだろうかと疑問に思っていたのですが、今回のドラマでは、西郷に直接「地ゴロ」と言わせず、遠まわしに批判する西郷の意図を察した久光が、「おいを薩摩しか知らん地ゴロち抜かすか!」と問い詰めるという設定でしたね。たしかに、このほうが自然かもしれません。


ちなみに、この西郷の「地ゴロ」発言の出典は、はるか後年の明治19年(1886年)に久光が側近の市来四郎に対して述懐したものを市来が書き残したもので、信用に足る逸話とはいえません。あるいは、年老いた久光が多少話を盛っていたかもしれませんね。ただ、いずれにせよ、これに近い失礼な発言をしたのは事実と思われ、これが、西郷と久光の長い対立関係の開始を告げるゴングとなったことは間違いないでしょう。


 そんな西郷の反対意見も採用されることはなく、久光の東上は決行されることになります。そうなると西郷も、封建社会に生きる武士である以上、従わざるをえません。西郷は村田新八とともに久光らの出立に先立って出発し、形勢を視察したうえで下関で久光一行を待つことになります。ところが、その下関で、上方で尊王攘夷派の挙兵計画があることを聞き、その中に薩摩藩士が含まれていることを知ると、彼らを鎮めるために矢も盾もたまらず下関を発ってしまいます。これが、再び久光の逆鱗に触れることになるんですね。


 今話は「偉大な兄 地ごろな弟」というサブタイトルで、久光と斉彬の関係にかぶせて、西吉之助(隆盛)と西郷信吾(従道)兄弟を描いていましたが、たしかに信吾は次週の寺田屋事件に関わってはいますが、彼が歴史の表舞台に登場するのはまだまだ先のことです。ここで無理に弟を出して創作話を展開するより、上述した「地ゴロ」発言の経緯や側近たちの感情の機微などを、もう少し丁寧に描いてほしかったですね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-06-11 16:28 | 西郷どん | Comments(0)