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幕末京都逍遥 その44 「西郷隆盛寓居跡(鍵直旅館跡)」

前稿で紹介した薩摩藩錦小路邸跡の石碑から200mほど東のあたりに、かつて西郷隆盛定宿だった鍵直旅館がありました。

現在、その跡地には石碑などの類は何もなく、そこにそんな歴史があることはほとんど知られていません。


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安政5年7月16日(1858年8月24日)、京都に入った西郷隆盛は、吉井友実とともに定宿鍵屋直助方に滞在しました。

その同じ日、大坂では西郷の主君でありでもある島津斉彬急逝します。

鍵直には、江戸から帰った伊地知正治、有村俊斎(海江田信義)、有馬新七らも泊まり、西郷とともに斉彬の入京をまっていました。

そして7月27日、西郷は斉彬の死の報せを聞きます。

訃報に接したのは、この場所だったかもしれません。


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西郷は悲歎のあまり殉死しようとしますが、僧・月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意します。

幕末の英雄・西郷隆盛は、ここからはじまったといえるかもしれません。


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鍵直旅館跡のすぐ南には、東西400mの有名な錦市場があります。


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平安時代からつづくと言われるこの錦市場は、江戸時代には本格的な魚市場として栄えました。

薩摩屋敷もすぐ側にあり、きっと、西郷どんもこの市場を行き来したに違いありません。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-04-28 23:31 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

西郷どん 第15話「殿の死」 ~井伊直弼の大老就任と島津斉彬の死~

e0158128_20590455.jpg 安政5年4月23日(1858年6月4日)、彦根藩主の井伊直弼が幕府大老職に就任します。そのきかっけは、孝明天皇(第121代天皇)からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が4月21日に江戸に戻り、第14代将軍・徳川家定に報告した際、堀田は松平春嶽を大老に就けてこの先対処したいと家定に述べたところ、家定は「家柄からも人物からも大老は井伊直弼しかいない」と言ったため、急遽、話が決まったといいます。


大老に就任した井伊は、6月19日に孝明天皇の勅許を得られぬまま日米修好通商条約調印します。この条約締結は周囲の反対を押し切っての井伊の専横のように思われがちですが、実は、井伊自身は熱心な尊王家で、ギリギリまで天皇の承認を得て条約を締結すべきだと訴えていました。しかし、情勢がそれを許さず、やむなく調印を認めるに至ります。尊王家としての思想を大老職としての立場が遮ったわけです。


 また、家定の将軍継嗣問題では、6月25日に紀州和歌山藩主の徳川慶福(のちの徳川家茂)を後継とする最終決定を下します。この問題ついては、井伊は予てから血筋が現将軍の家定に近い慶福を推す立場を取ってきましたが、これも、井伊の専横で決まったわけではなく、何より家定の意志に基づく決定でした。ドラマ中では、病床の家定の言葉をうまく利用して側近たちにガセ情報を流したように描かれていましたが、あれはドラマの創作ですね。井伊はそんな姑息な陰謀家ではなかったでしょう。ただ、井伊の基本的な考え方は、臣下が将軍継嗣などの問題には本来口を挟むべきではなく、あくまで将軍の意思に基づかねばならない、というものでした。その将軍・家定が慶福を強く推しているのだから、井伊にすれば、これは当然至極の決定だったわけです。


e0158128_18082794.jpg しかし、将軍・家定の岳父であり一橋派の急先鋒だった島津斉彬にとっては、この井伊の決定は許しがたいものでした。そこで斉彬は、形成逆転のプランを画策します。そのプランとは、斉彬自身が兵を率いて京都に乗り込み、勅命を奉じて幕政を改革し、公武合体を実現するというものでした。ドラマ中では、西郷吉之助(隆盛)の進言によって斉彬が上洛を決意していましたが、もちろんドラマの創作です。ここでいう「公武」とは、一般的な解釈の「朝廷」「幕府」だけを指すものではなく、この場合の「武」は、幕府と諸藩を意味しています。つまり、朝廷、幕府、諸藩三者が一体となった体制、すなわち挙国一致体制の国家構想でした。そして、その下準備のために、西郷は一足先に上洛していました。しかし、そこで西郷は、思いもしなかった報せを受けることになります。斉彬の死です。


 7月8日、斉彬は居城の鶴丸城下にあった調練場で軍事演習を敢行します。ところが、炎天下で操練を見守っていたせいか、極度の疲労状態となり、10日、11日になると高熱下痢に襲われ、16日に没します。享年50。あまりにも突然の死でした。


 その死因については、当初はコレラと診断されたそうですが、当時はまだ薩摩でコレラは流行っていなかったとして、のちに「細菌性赤痢」によるものと改められました。一方で、かつてのお由羅騒動の記憶が抜けない斉彬派の薩摩藩士たちのあいだでは、久光派による毒殺に違いないといったが当時から囁かれており、斉彬と親交のあったオランダ医・ポンペもその噂を耳にしたといいますが、当然ながら毒殺の証拠は見つかっていません。現在では学説的には否定されている毒殺説ですが、作家・海音寺潮五郎氏は毒殺説を支持しています。以下、海音寺氏の推理を抜粋します。


 『人を、しかも一藩の主を毒殺するということは、ありそうもないことと、現代人には思われる。しかし、江戸時代には往々行われている。現代になって、何かの必要があって江戸時代の諸藩主の墓を発掘した場合、遺体を調査してみると、毛髪や骨から多量の砒素が検出されることが、よくあるのである。「君は一代、お家は万代」とか、「君を以て尊しとなさず、社機をもって尊しとす」とかいうようなことばは、江戸時代の武士の常識であった。お家万代のためにならないと見れば、殿様を無理隠居させたり、巧みに毒殺したりということは、よくあったことなのである。斉形もその手にかかったと、ぼくは推理しているのである。・・・(中略)

 ぼくはこの時、斉彬に盛られた毒は亜砒酸系のものであったろうと推察している。下痢を伴う腹痛があり、心臓が衰弱するというのが、この毒薬の中毒症状である。斉彬は手製の鮨を蓋物に入れて居間の違い棚にのせているのが常であったから、これに毒薬を投ずるのはきわめて容易だったはずである。』


 毒殺かどうかはともかく、斉彬の死によって薩摩藩の舵取りは大きく変化し、西郷の運命にも大きな影響を与えることになります。歴史の「もしも」はナンセンスですが、もしも斉彬があと10年生きていれば、西郷は一介の薩摩藩士として終わったかもしれません。「お前はわしになれ!」と言ったかどうかはわかりませんが、斉彬の遺志を継いだことが、後世の大西郷の原点であったことは、間違いないでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-04-23 21:04 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第11話「斉彬暗殺」 ~虎寿丸の死去と斉彬毒殺説~

 嘉永7年閏7月24日(1854年9月16日)、島津斉彬の五男・虎寿丸死去します。わずか数えの6歳でした。斉彬には計6男5女の子供がいましたが、10代まで成長したのは三女・四女・五女のみで、長男から四男までの男児はすべて3歳までに早逝しており、ただひとり、虎寿丸だけが6歳まで成長していました。それだけに、虎寿丸の死は斉彬にとって大きなショックだったに違いありません。


e0158128_20010110.jpg 虎寿丸の死については、当時の記録によると、死去する前日までは普通に手習いなどをして過ごしていたのに、突然発熱して下痢が治まらず、翌日の夜に死去したとあります。後世の目で客観的に症状を見れば、死因は当時流行していた疫痢のためだったと考えられますが、当時の斉彬周辺の者たちはそうは思わず、これは斉彬の世子誕生を望まない勢力の呪詛だと思い込みます。かつてのお由羅騒動における藩内の勢力争いは、斉彬が藩主となった今なお続いていました。当時は幼子が亡くなるということは珍しくありませんでしたが、それでも、長男から五男まですべてが相次いで亡くなるという不幸が続くと、さすがにそう思わずにはいられなかったでしょう。斉彬自身もそう思っていたかもしれません。


 そんななか、虎寿丸の死から約1週間後、今度は斉彬が病に倒れます。症状は胃痛だったとも胸痛だったともいいます。おそらく、虎寿丸の死の心労がたたったのでしょうね。たったひとりの息子が亡くなってしまったわけですから、無理もありません。このとき庭方役を務めていた西郷吉之助(隆盛)も、よほど心配だったようで、嘉永7年8月2日(1854年9月23日)付けで鹿児島にいた友人の島矢三太に送った書簡のなかで、虎寿丸の死を報告するとともに、次のように記しています。


「先々月晦日より、太守様俄に御病気、一通りならざる御煩い、大小用さえ御床の内にて御寝も成らせられず、先年の御煩いの様に相成る模様にて、至極御世話遊ばされ候儀に御座候」


e0158128_15131310.jpg 斉彬の身を案じた西郷は、「西郷どん紀行」で紹介されていたように、目黒不動尊(瀧泉寺)に参詣して斉彬の回復を祈願しました。そして、その怒りの矛先をお由羅たちに向け、同志の有村次左衛門大山格之助(綱良)とともに、お由羅一派の打倒を誓いあったといいます。このときの心境も、同書簡に記されています。


「つらつら思慮仕り候ところ、いづれなり奸女をたおし候ほか、望みなき時と伺い居り申し候。御存のとおり、身命なき下拙に御座候えば、死することは塵埃の如く、明日を頼まぬ儀に御座候間、いづれなり死の妙所を得て、天に飛揚いたし御国家の災難を除き申したき儀と、堪えかね候ところより、あい考えおり候儀に御座候。心中御察し下さるべく候。

実に紙上に向かって、この若殿様の御儀申し述べがたく、筆より先に涙にくれ、細事におよび能わず候。眼前拝み奉り候ゆえ、尚更忍び難き、只今生きてあるうちの難儀さ、却って生を怨み候胸に相成り、憤怒にこがされ申し候。恐惶謹言。」


 お由羅のことを「奸女」と呼び、命に代えてもこれを倒すほかないと、過激な発言をしています。若い頃の西郷は、後年のイメージとは違ってかなりの激情家だったことが窺えますね。それほど、虎寿丸の死と斉彬の病は、西郷にとって大きな衝撃だったのでしょう。西郷は同志とともにお由羅一派の斬奸計画を具体的に進め始めますが、その後、病が回復した斉彬にそのことが知れ、逆鱗常ならざる怒りを受けて、やむなく計画は中止するに至ったと伝えられます。このあたり、ドラマでは少しアレンジして描かれていましたが、概ね伝承にそった展開でした。


 ちなみに、ドラマでは毒殺を疑っていた西郷でしたが、当時の記録では、その疑いは確認できません。あくまで「呪詛」の疑いでした。斉彬の毒殺説が囁かれはじめるのは、斉彬の死後になってからのことです。学問的には否定されている毒殺説ですが、作家・海音寺潮五郎氏は毒殺説を支持しています。ドラマでは、斉彬の膳の焼魚にヒ素が混入されていたと描かれていましたが、おそらく、これも海音寺氏の著書『西郷隆盛』を参考にしたものでしょう。以下、海音寺氏の推理を抜粋します。


 「人を、しかも一藩の主を毒殺するということは、ありそうもないことと、現代人には思われる。しかし、江戸時代には往々行われている。現代になって、何かの必要があって江戸時代の諸藩主の墓を発掘した場合、遺体を調査してみると、毛髪や骨から多量の砒素が検出されることが、よくあるのである。「君は一代、お家は万代」とか、「君を以て尊しとなさず、社機をもって尊しとす」とかいうようなことばは、江戸時代の武士の常識であった。お家万代のためにならないと見れば、殿様を無理隠居させたり、巧みに毒殺したりということは、よくあったことなのである。斉形もその手にかかったと、ぼくは推理しているのである。・・・(中略)

 ぼくはこの時、斉彬に盛られた毒は亜砒酸系のものであったろうと推察している。下痢を伴う腹痛があり、心臓が衰弱するというのが、この毒薬の中毒症状である。斉彬は手製の鮨を蓋物に入れて居間の違い棚にのせているのが常であったから、これに毒薬を投ずるのはきわめて容易だったはずである。」


 この推理があたっているかどうかはわかりませんが、十分にあり得る話かもしれません。もっとも、この推理は今回の病のときではなく、この4年後、斉彬が急逝したときのことです。今回のドラマではどのように描かれるのか、楽しみにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-03-19 21:31 | 西郷どん | Comments(2)  

西郷どん 第10話「篤姫はどこへ」 ~篤姫の輿入れと将軍継嗣問題~

 篤姫輿入れ先が明らかになりましたね。幕末ファン、大河ドラマファンの方々にとっては言うまでもないことだと思いますが、島津斉彬の養女となった篤姫の輿入れ先は、江戸幕府第13代将軍・徳川家定正室でした。外様大名の分家の娘が、一国のファーストレディーになるというのですから、当時としては、ちょっとしたシンデレラストーリーだったことでしょう。その篤姫の輿入れに西郷吉之助(隆盛)も深く関わることになるのですが、それは、もう少し先のことになります。


e0158128_20010581.jpg この縁談に関しては、昔から斉彬が一橋慶喜(のちの徳川慶喜)の将軍継嗣を実現するために仕組んだとの説があります。第13代将軍の家定は病弱で言動も定かではなかったといわれ(一説には、脳性麻痺だったとも)、政務を満足に行える人ではなかったといいます。折しも世情は黒船来航後の混乱の時代を迎えており、大事に対応できる有能な指導者を必要としていました。そこで斉彬たちが期待を寄せたのが、英明との誉れ高かった慶喜でした。ドラマのヒー様です。そのヒー様の次期将軍擁立を推していたのは、斉彬をはじめ、越前福井藩主の松平慶永(春嶽)や水戸の徳川斉昭などの開明派と呼ばれる有力諸侯でした。


これに対して、保守的な譜代大名たちは、家定に血筋が近い紀伊の徳川慶福(のちの徳川家茂)を擁立しようとします。ここに次期将軍の座を巡る派閥が生まれ、前者を一橋派、後者を南紀派と呼ぶようになります。その一橋派の筆頭が斉彬で、南紀派の筆頭が、のちに大老となる彦根藩主・井伊直弼でした。しかし、井伊家は代々幕府大老を排出してきた譜代大名であるのに対し、島津家は、77万石を誇る大大名とはいえ、末席に位置する外様大名という立場に過ぎません。そこで、斉彬は篤姫の輿入れを画策したというんですね。すなわち、篤姫を将軍家に輿入れさせることで、その義父という立場で自身の発言力を高め、慶喜の次期将軍を実現させようと考えたという説です。なるほど、説得力のある話です。今話のラストシーンの斉彬と西郷の会話から見ても、たぶん、今回もその説をベースに描かれるのでしょうね。


 しかし、歴史家さんたちの間では、現在ではその説はほぼ否定されています。というのも、そもそも篤姫の輿入れの案が出たのは、将軍継嗣問題が生じる前のことでした。それも、この縁談を持ちかけたのは島津家からではなく、幕府側からだったといいます。その理由はいくつかありますが、まず、将軍家と島津家がすでに姻戚関係にあったということ。薩摩藩第5代藩主・島津継豊に幕府第8代将軍・徳川吉宗の養女・竹姫が輿入れし、その竹姫の孫にあたる薩摩藩第8代藩主・島津重豪の三女・茂姫(のちの広大院)が、幕府第11代将軍・徳川家斉の正室として輿入れしたという実績がありました。つまり、篤姫の縁組以前から、将軍家と島津家は深い結び付きがあったわけです。これは、外様大名としては例のないことでした。


e0158128_00524727.jpg また、その茂姫が、健康長寿だったことも大きな理由だったと考えられます。茂姫は50年近くも大奥・御台所の地位にあり、しかも、子沢山に恵まれました。彼女の血を引く大名や大名夫人が全国に15人もいて、しかもそれらの面々が皆、元気長寿だったといいます。幕府は、これにあやかろうとしたというんですね。あまり知られていませんが、家定は篤姫を正室として迎える前に、公家出身の女性を二度、娶っていましたが、ふたりとも若くして亡くなっていました。そこで幕府は、3人目の正室は、公家出身ではなく武家出身の女性を求めたとも言われます。そこで白羽の矢が立ったのが、健康で子沢山だった茂姫の実家、島津家だったわけです。つまり、この縁談を欲したのは、徳川家のほうだったんですね。


 もっとも、島津家にとっても、この縁談は大いにメリットがありました。茂姫の死後、家格が低下していた島津家の地位を復活させる意味でも、この縁談は願ったり叶ったりだったでしょう。また、斉彬と懇意だったといわれる幕府老中首座・阿部正弘の意向もあったでしょうね。阿部正弘は斉彬を始めとする有能な諸侯の意見を積極的の取り入れたいという方針の持ち主でした。その対策として、島津家との縁組を画策したとも考えられます。いずれにせよ、将軍継嗣問題は別にしても、篤姫の輿入れは、島津家にとって政治だったことは間違いないでしょう。


 ちなみに余談ですが、ヒー様こと慶喜役松田翔太さんは、10年前の大河ドラマ『篤姫』では、政敵の南紀派が擁立する家茂役でしたね。慶喜、家茂の両方を演じた俳優さんは、松田翔太さんが初めてなんじゃないでしょうか。だからどうということはないのですが。


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by sakanoueno-kumo | 2018-03-12 00:54 | 西郷どん | Comments(6)  

西郷どん 第9話「江戸のヒー様」 ~西郷はじめての江戸行きと、御庭方役拝命~

 嘉永7年正月21日(1854年2月18日)、西郷吉之助(隆盛)は主君・島津斉彬に付き従って江戸に向かうべく鹿児島を発ちます。西郷はこの少し前に藩から中御小姓、定御供、江戸詰を命じられていました。父が勘定方小頭だったことを思えば、この人事は大抜擢だったといえます。その大抜擢を命じたのが、他ならぬ斉彬だったといいます。


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 今回のドラマでは描かれていませんでしたが、西郷の伝記では欠かさず出て来る逸話で、水上坂のエピソードがあります。鹿児島城下を出てからしばらくすると山道に入り、その坂を登り詰めたところに御茶屋があり、そこが、一行の最初の休憩スポットでした。この坂を「水上坂」といいます。ここで藩主が入国、出国の際、服装を改める慣わしとなっていました。国入りの際には旅装を脱いで騎馬となり、旅立ちの際にはここで旅装に着替え、馬を降りて駕籠に乗ります。また、薩摩人にとって精神的支柱である桜島が挑めるのもここが最後で、しばらく帰らない旅に出るにあたって、ここで、故郷の景色をしっかりと目に焼き付けて薩摩に別れを告げます。初めて江戸に向かうこととなった28歳の西郷も、ここで桜島を見ながら、きっと大きな希望を胸に秘めていたに違いありません。

 その伝承によると、このとき斉彬は近臣に対して、「今回の供の者のなかに西郷吉之助という者がいるはずだが、その者はどいつだ?」と尋ねたそうで、近臣が「あそこにいる大きな体の者が西郷でございます」と答え、斉彬はこのとき初めて西郷を見たといいます。斉彬は西郷が提出した建白書を読んでその名を知り、西郷という人物に興味を持っていました。建白書に書かれていた内容そのものは、斉彬からすれば特に目を瞠るものではありませんでしたが、それを藩主に対して堂々と主張する勇気と誠意に対して、見どころがありそうな若者と見込んでいたといいます。


この逸話は、明治28年(1895年)に刊行された勝田孫弥『西郷隆盛伝』、大正15年(1926年)に刊行された『大西郷全集』などに記された話で、また、海音寺潮五郎史伝『西郷隆盛』でも紹介されています。この話が事実かどうかはわかりませんが、このとき、水上坂で休憩をとったというのは当時の家臣らの日記にも見られることから、事実だったようです。西郷の建白書を読んで斉彬自身が西郷を抜擢したという話が本当ならば、水上坂でのエピソードも実話だったと見ていいんじゃないでしょうか。


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 江戸に着いて1ヶ月ほどが過ぎた嘉永7年4月、西郷は「徒目付兼御庭方役」を命じられます。このうち「御庭方役」は、幕府の「御庭番」に倣って斉彬が新設した役職だったといいます。その職務内容は、簡単にいえば斉彬の秘書のような務めでした。


 石高72万石の大藩だった薩摩では、数千人の家臣団がいて、その家格制度も厳格で、本来であれば、西郷のような下級の家臣は藩主と直接言葉を交わすことなどできませんでした。しかし、門閥にとらわれず広く有能な人材を登用したいと予てから考えていた斉彬は、西郷の人物を見込み、御庭方役に抜擢して「偶然、庭先で見つけた御庭方役の者に話しかける」という方法を思い立ち、西郷を側に置いたのでした。よほど西郷を見込んでいたのでしょうね。ここから、西郷は斉彬からマンツーマンで教育されることとなり、単なる下級の田舎侍が、一流の国士へと成長していくことになるんですね。この二人の出会いがなければ、幕末史はずいぶんと違ったものになっていたことでしょう。まさしく運命の出会いでした。


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by sakanoueno-kumo | 2018-03-05 01:12 | 西郷どん | Comments(6)  

西郷どん 第6話「謎の漂流者」 ~ジョン万次郎と薩摩藩~

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 土佐の貧しいの家に生まれながら、少年期に遭難してアメリカの捕鯨船に助けられたことで、アメリカに渡り、西洋文化に触れ、帰国後はその知識で幕府高官にも討幕の志士たちにも多大な影響を与えたことで知られるジョン万次郎こと中濱萬次郎。天保12年(1841年)、14歳のときに漁師仲間4人と共に遭難し、伊豆諸島の無人島鳥島に漂着して何とか命を繋いでいると、143日目にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助されます。その後、他の4人はハワイで下船して日本に帰国しますが、好奇心旺盛だった少年・万次郎はこのまま船に残りたいと希望し、その向学心を気に入った船長のホイットフィールドは、そのまま本国へ連れて帰りました。

 アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となります。そしてオックスフォード学校、バーレットアカデミーに通い、英語、数学、測量術、航海術、造船技術などを猛勉強し、なんと首席で卒業したといいます。英和辞典なんてない時代ですからね。ていうか、言葉のハンデだけじゃなく、万次郎の場合、土佐にいた頃は貧しさで寺子屋に通うことも出来ず、読み書きもほとんど出来なかったといいます。そんな状態から、わずか2年半の在学で首席になったわけですから、すごい吸収力ですよね。それと、そのポテンシャルの高さを見抜いて教育を受けさせたホイットフィールドもすごいですね。もし、あのまま土佐で漁師をしていたら、万次郎はその頭の良さを発揮できる機会を得ることなく生涯を終えたことでしょう。人生はわからないものです。


 学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、一等航海士として世界の海を股にかける生活をしていましたが、アメリカに渡って10年近くが過ぎた嘉永3年(1850年)、日本に帰国することを決意。万次郎は捕鯨船時代の収入に加えて、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで働いて資金をため、小型船の「アドベンチャー号」を購入し、上海に向かう商船に乗せて日本に向かいました。


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翌嘉永4年(1851年)2月、万次郎はアドベンチャー号で当時は薩摩藩領だった琉球に接岸し、番所で尋問を受けたのち、薩摩本土に送られました。言うまでもなく当時の日本は鎖国状態。日本船の海外渡航と在外日本人の帰国を全面的に禁止する海外渡航禁止令が布かれており、その禁を破った万次郎は、下手をすれば死罪になりかねません。ところが、万次郎にとって幸運だったのは、ときの薩摩藩主が開明的で知られる島津斉彬だったこと。「蘭癖」と呼ばれるほど西洋の学問技術を好んだ斉彬にとっては、万次郎はまさに歓迎すべき人物だったわけです。斉彬は万次郎一行を手厚く歓待し、斉彬自ら直々に質問するなどの厚遇ぶりだったといいます。このときはまだ、ペリー提督率いる黒船艦隊来航の2年前で、世の中はまだ、西洋文明に対してそれほど明るくない時代です。もし、万次郎の帰国があと数か月早ければ、前藩主・島津斉興によって死罪にされたかもしれません。人生はわからないものです。

 このとき万次郎が薩摩に滞在したのは47日間。その間、薩摩藩は万次郎から洋式の造船術や航海術、さらには海外の情勢や文化なども貪欲に教えを請い、その後、斉彬はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造しました。万次郎はその後、長崎に送られ、投獄されて取り調べを受けたあと母藩である土佐藩に引き取られ、そこでもまた取り調べを受け、琉球に着いてから1年半後、ようやく故郷の中濱村に帰ることができました。その後、すぐに万次郎は士分に取り立てられ、黒船来航後は幕府に招聘されて直参の旗本になり、激動の幕末にその存在感を示すこととなります。もし、万次郎が帰国したのが幕末と言われる時代でなければ、彼は単なる罪人でしかなかったかもしれません。ほんと、人生ってわからないものですね。

 ちなみに、「ジョン万次郎」という呼び名は、昭和13年(1938年)に直木賞を受賞した井伏鱒二の著書『ジョン萬次郎漂流記』で用いられて広まったもので、当時は、遭難した万次郎を助けた船名にちなんでジョン・マン (John Mungという愛称をアメリカ人からつけられていました。この点、ドラマは忠実でしたね。

 西郷吉之助(隆盛)は、このときはまだ斉彬に引き上げられておらず、万次郎に会うことはなかったでしょう。後年に万次郎は薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招かれますが、その頃の西郷は倒幕に向けて日本中を縦横無尽に飛び回っていた時期であり、万次郎と会っていた可能性は低いと思われます。二人の会う機会があったとすれば明治維新後だったでしょうが、記録は残っていません。お互い名前くらいは知っていたでしょうけど。



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by sakanoueno-kumo | 2018-02-12 00:01 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第5話「相撲じゃ! 相撲じゃ!」 ~斉彬藩主就任~

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 嘉永4年(1850年)2月、43歳にして島津斉彬がようやく藩主の座に就くと、斉彬の藩主就任を待ち望んでいた勢力は、お由羅騒動で前藩主・島津斉興より不当な処分を受けた者たちの赦免を期待しました。しかし、斉彬は斉興時代の重臣たちを罷免することなく、また、処分を受けた斉彬派の赦免も行いませんでした。あくまで藩内融和を第一としたわけですね。これは賢明な斉彬なら当然の策で、ここで前政権の重臣たちを一掃してしまえば、また新たな遺恨を生み、さらなるお家騒動に繋がりかねません。斉彬はそこを見越したのでしょう。

 また、斉彬自身も、藩主就任に至るまでの経緯では相当裏工作を行っています。密貿易の情報をリークして調所笑左衛門広郷を死に追いやったり、幕府主席老中の阿部正弘に手を回して斉興に圧力をかけたり、決して品行方正ではありませんでした。当然、斉興派もある程度それを見抜いていたでしょうから、それらの口を封じるためにも、懐柔策が必要だったんですね。人事は重要な政治です。


 もっとも、赦免を期待していた斉彬派にしてみれば、納得できないのは当然だったでしょう。彼らにしてみれば、斉彬を藩主にするために力を尽くし、その結果、不遇の身となったわけで、斉彬が手を差し伸べてくれなければ浮かばれません。天性正義を好み、姦悪を憎むことの強い西郷吉之助(隆盛)も、憤激して建白書を提出したといいます。もっとも、相撲大会で優勝はしていません。ってか、なぜ斉彬に直訴するのに相撲大会で優勝しなければならないのかがわかりません(笑)。


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 思いのほか早く篤姫が出てきましたね。もっとも、「篤姫」と称するようになるのは斉彬の養女となってからで、ドラマのことときより2年後のことです。彼女は島津氏の一門の今和泉家に生まれ、幼名は「於一」といいました。平成20年(2008年)の大河ドラマ『篤姫』では、於一を「おかつ」と読ませていましたが、今回は「おいち」と呼んでいましたね。どちらが正しいのかはわかりませんが、最近では「おいち」の方が有力のようです。於一はこの2年後に斉彬の養女となって篤子(あつこ)となり、その後、徳川将軍家に嫁ぐために右大臣・近衛忠煕の養女となって敬子(すみこ)と名乗り、将軍・徳川家定の死後は落飾して天璋院と名乗ります。

 ちなみに、嘉永4年(1850年)のこの時期、於一は数えで15歳。いまでいえば中学2年生です。相撲観戦の際にお菓子を賭けていた隣の姫はまぎれもなく10代半ばに見えましたが、於一は・・・。まあ、綺麗だったので許しましょう(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2018-02-05 20:06 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第4話「新しき藩主」 ~お由羅騒動~

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 嘉永元年(1848年)12月、幕府から密貿易の件で咎められた薩摩藩家老の調所広郷急死(おそらく自害)すると、藩内外で賢明な島津斉彬の藩主就任を望む声が高まりますが、一方で、前話の稿で説明したとおり、洋学好きの斉彬を嫌うアンチ斉彬派の声も一層高まり、藩内の両派の対立が激化します。何より、アンチ斉彬派の筆頭が現藩主であり斉彬の実父である島津斉興でした。斉興は密貿易の情報を幕府主席老中の阿部正弘リークしたのは斉彬だと疑い(事実そうだった可能性が高い)、以前にも増して斉彬に対する怒りを露わにします。斉興にしてみれば、斉彬は自身が藩主になるために藩の秘密を売った不届き者という思いだったのでしょう。

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 アンチ斉彬派が望みを託したのは、斉興の側室・お由羅の方が産んだ島津久光でした。斉興は正室の周子(斉彬の生母)が死んだ後は正室を迎えなかったため、お由羅が事実上正室も同然の立場でした。お由羅は当時の史料中に「美にして艶也」とか「怜悧な上に天性の麗質」と記されているほど賢くて美人だったようで、斉興の寵愛ぶりは相当なものだったようです。また、その子・久光も、ドラマでは今のところマザコンバカ息子キャラですが、実際には、儒学、漢詩、国学に通じる一級の教養の持ち主で、十分に藩主が務まる人物でした。何より、斉彬と違って洋学に興味がなく、また、江戸生まれで江戸育ちの斉彬に対して薩摩生まれの薩摩育ちであったことも、藩内保守派にとっては好意の対象となったに違いありません。必然的に、藩内保守派は久光推し、革新派は斉彬推しという図式が生まれました。


 ちょうどこの頃、斉彬の子女が幼くして相次いで病没するという不幸に見舞われます。斉彬派の者たちは、これをお由羅や久光による呪詛が原因と疑います。この当時は呪詛の力が信じられていた時代だったんですね。その効力があったかどうかは別として、実際、お由羅方の呪詛が行われていたもといわれます。そんななか、嘉永2年(1849年)に斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると、彬・久光両派の対立は一触即発の状態となり、斉彬派の重鎮で町奉行兼物頭・近藤隆左衛門、同役・山田清安、船奉行・高崎五郎右衛門、そして、西郷吉兵衛、吉之助(隆盛)父子と縁の深かった赤山靭負らは、久光派の島津将曹、島津久宝らの暗殺を企てます。しかし、計画は事前に漏れ、怒った斉興は、斉彬派を一斉に検挙し、処分します。具体的には、嘉永2年(1849年)12月から翌年の夏にかけて、高崎五郎右衛門、赤山靭負ら6人が切腹となり、他にも、蟄居、遠島など総勢50人余りが処分されます。そのなかには、大久保次右衛門正助(利通)父子も含まれていました。世にいう「お由羅騒動」「近藤崩れ」「高崎崩れ」「嘉永朋党事件」です。


 赤山靭負の切腹の際には、赤山氏の御用人だった西郷吉兵衛が介錯人を務めたといいます(異説あり)。ドラマでは、西郷吉之助も切腹に立ち会っていましたが、伝承では、靭負は切腹の直前に自身の着物を吉之助に渡してくれるよう吉兵衛に頼んだといい、父が持ち帰った血染めの着物を見た吉之助は大きな衝撃を受け、靭負の志を継ぐことを決意したと伝わります。この話が事実かどうかはわかりませんが、縁の深かった靭負の死が、西郷のその後に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。


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 その後も藩内では斉彬派と久光派に分かれて対立が絶えませんでしたが、斉彬と個人的に親しい幕府主席老中の阿部正弘が、斉興に圧力を加え、暗に隠居を迫ります。ドラマでもありましたが、嘉永4年(1850年)正月、斉興が新年の祝辞言上のために江戸城に登城して将軍に謁した際、将軍より茶壺が下賜されます。これは大名を隠居させたいときに幕府のとる常套手段で、「茶でも飲んで余生を楽しみなさい」という意味でした。それでも斉興は無視し続けましたが、阿部は幕府のメンツにかけて薩摩に圧力をかけ、同年2月、斉興は渋々隠居願いを提出し、ようやく斉彬の襲封となります。斉興60歳、斉彬43歳でした。

 お家騒動の原因はどこでもたいてい同じで、父の愛情や家臣の心が、正当な継承権のあるよりの方に注がれるところから起こります。この「お由羅騒動」も同じですね。騒動の元凶は長幼の序を無視しようとした斉興にあるのですが、さすがに藩主を批判するのははばかられるため、斉彬派の怒りの矛先はお由羅に向かいます。西郷は生涯、お由羅を「妖婦め!」と憎み続けます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-29 01:20 | 西郷どん | Comments(4)  

西郷どん 第3話「子どもは国の宝」~島津斉彬の藩主就任が送れた理由~

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 その卓越した見識により、幕末きっての開明派大名として後世に名高い島津斉彬は、16歳のときに薩摩の世子(嫡子)として徳川第11代将軍・家斉への謁見もすませており、やがてその賢名は天下に聞こえ、まだ部屋済みに身でありながら主席老中の阿部伊勢守正弘を始め賢侯と呼ばれる他藩の藩主とも親交を持ち、それらの人たちから尊敬されていたほどの人物でしたが、40歳を過ぎてもまだ藩主には就いていませんでした。その理由は、父の島津斉興が藩主の座に固執してなかなか隠居しなかったからですが、なぜ斉興が藩主の座を譲ろうとしなかったかというと、一言でいえば、斉興はわが子ながら斉彬が嫌いだったからでした。もちろん理由があります。

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 斉興が藩主に就いたとき、薩摩藩の財政どん底でした。その原因はひとつではありませんが、最も大きな原因は、斉興の祖父で薩摩藩8代藩主の島津重豪にあったといいます。重豪はすこぶる面白い人物で、早くから洋学に関心を持ち、領内に西洋風の博物館や植物園・天文館・医学校などをつくらせ、自らも洋学者に学び、ときに蘭語(オランダ語)を話すような人だったといいます。そのため、藩費を湯水の如く浪費し、その結果、ただでさえ苦しかった藩の財政は底をつきます。当然、その影響は領民に直接降りかかりました。農民は年貢の取り立ての厳しさに耐えかねて他国へ逃散するものが相次ぎ、家臣らは藩に俸禄を借り上げられ、刀剣を売って生活の足しにする始末。この頃の薩摩藩の負債は500万両だったといいますから、現在の貨幣価値にすれば1兆円を越える額にあたります。

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 この財政立て直しのため、重豪は調所笑左衛門広郷を登用します。調所は元は茶坊主出身で、その才覚を見込まれて町奉行等要職を経て、重豪つきの側用人兼続料がかりの職に就いていました。側用人は現在の官房長官、続料がかりは財務官の職務です。役目を引き受けた調所は、かなり強引な手法によって財政再建を進めます。具体的には、節倹策や国産品の専売制および新田開発、税法の見直しなどを実施する一方、借金を500万両に固定して金利を放棄させ、それを250年かけて返済するというむちゃくちゃな手法で乗り切ります。つまり、毎年2万両ずつしか払わないというのですから、事実上、借金の踏み倒しですね。調所に財政立て直しを命じた重豪は、その途上でこの世を去りますが、その後も重豪は斉興の下で改革を継続し、立て直しにかかってから15、6年ほど経つと、財政再建はすっかり成ったばかりか、150万両の蓄えまで出来たほどだったといいます。

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 こうして財政難を乗り切った薩摩藩でしたが、重豪は生前、曾孫の斉彬をたいそう可愛がり、斉彬もまた、曽祖父の重豪を慕い、感化を受けて育ったため、金のかかる洋学好きの人物に育っていました。斉興にしてみれば、西洋好きの斉彬を藩主に就かせると、また、重豪の時代の二の舞いになりかねないという懸念があります。その不安は、調所やその他、重臣たちの多くも同じでした。もう二度とあんな苦しみを味わいたくない・・・。血の滲むような思いをして立て直した財政を、斉彬にめちゃめちゃにされたくない。そう思って当然だったでしょう。斉興は藩のためにも、わが子・斉彬を徹底的に嫌いぬきました。そして、いつしか側室のお由羅が産んだ子・久光に時期藩主に、という思いがめばえ始めます。そうなると、必然的に藩内が斉彬派と久光派に分裂し始めます。

 嘉永元年(1848年)12月、調所は江戸に出仕した際、幕府主席老中の阿部正弘から呼び出され、糾問されます。その内容は、薩摩藩あげての密貿易の疑いと、琉球に派遣していた警備兵の数が幕府に報告していた数より少なかったという件でした。調所は、すべては自身の独断で行ったことで、藩公認のものではないと主張してその場をしのぎますが、その後、江戸上屋敷芝藩邸にて急死します。公式には「病死」として届けられましたが、藩主・斉興の立場を守るため、事件をうやむやに葬ろうとしての自決(服毒自殺)だったといわれています。享年73。ドラマでは、斉彬が阿部に密貿易の件をリークしていましたが、証拠は残っていないものの、おそらく、斉彬が阿部と通じて自身の藩主就任の障害である調所を追い落としたとみて間違いないのではないでしょうか。斉彬も、40歳を超えて相当に焦っていたのかもしれません。

 調所の死をきっかけに、薩摩藩内の斉彬派斉興・久光派の対立が激化。やがて、西郷吉之助(隆盛)大久保正助(利通)らにも少なからず影響を及ぼす「お由羅騒動」へと発展していきます。その話は、また次週にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-22 18:20 | 西郷どん | Comments(0)