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西郷どん 第5話「相撲じゃ! 相撲じゃ!」 ~斉彬藩主就任~

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 嘉永4年(1850年)2月、43歳にして島津斉彬がようやく藩主の座に就くと、斉彬の藩主就任を待ち望んでいた勢力は、お由羅騒動で前藩主・島津斉興より不当な処分を受けた者たちの赦免を期待しました。しかし、斉彬は斉興時代の重臣たちを罷免することなく、また、処分を受けた斉彬派の赦免も行いませんでした。あくまで藩内融和を第一としたわけですね。これは賢明な斉彬なら当然の策で、ここで前政権の重臣たちを一掃してしまえば、また新たな遺恨を生み、さらなるお家騒動に繋がりかねません。斉彬はそこを見越したのでしょう。

 また、斉彬自身も、藩主就任に至るまでの経緯では相当裏工作を行っています。密貿易の情報をリークして調所笑左衛門広郷を死に追いやったり、幕府主席老中の阿部正弘に手を回して斉興に圧力をかけたり、決して品行方正ではありませんでした。当然、斉興派もある程度それを見抜いていたでしょうから、それらの口を封じるためにも、懐柔策が必要だったんですね。人事は重要な政治です。


 もっとも、赦免を期待していた斉彬派にしてみれば、納得できないのは当然だったでしょう。彼らにしてみれば、斉彬を藩主にするために力を尽くし、その結果、不遇の身となったわけで、斉彬が手を差し伸べてくれなければ浮かばれません。天性正義を好み、姦悪を憎むことの強い西郷吉之助(隆盛)も、憤激して建白書を提出したといいます。もっとも、相撲大会で優勝はしていません。ってか、なぜ斉彬に直訴するのに相撲大会で優勝しなければならないのかがわかりません(笑)。


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 思いのほか早く篤姫が出てきましたね。もっとも、「篤姫」と称するようになるのは斉彬の養女となってからで、ドラマのことときより2年後のことです。彼女は島津氏の一門の今和泉家に生まれ、幼名は「於一」といいました。平成20年(2008年)の大河ドラマ『篤姫』では、於一を「おかつ」と読ませていましたが、今回は「おいち」と呼んでいましたね。どちらが正しいのかはわかりませんが、最近では「おいち」の方が有力のようです。於一はこの2年後に斉彬の養女となって篤子(あつこ)となり、その後、徳川将軍家に嫁ぐために右大臣・近衛忠煕の養女となって敬子(すみこ)と名乗り、将軍・徳川家定の死後は落飾して天璋院と名乗ります。

 ちなみに、嘉永4年(1850年)のこの時期、於一は数えで15歳。いまでいえば中学2年生です。相撲観戦の際にお菓子を賭けていた隣の姫はまぎれもなく10代半ばに見えましたが、於一は・・・。まあ、綺麗だったので許しましょう(笑)。



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by sakanoueno-kumo | 2018-02-05 20:06 | 西郷どん | Trackback(1) | Comments(0)  

西郷どん 第4話「新しき藩主」 ~お由羅騒動~

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 嘉永元年(1848年)12月、幕府から密貿易の件で咎められた薩摩藩家老の調所広郷急死(おそらく自害)すると、藩内外で賢明な島津斉彬の藩主就任を望む声が高まりますが、一方で、前話の稿で説明したとおり、洋学好きの斉彬を嫌うアンチ斉彬派の声も一層高まり、藩内の両派の対立が激化します。何より、アンチ斉彬派の筆頭が現藩主であり斉彬の実父である島津斉興でした。斉興は密貿易の情報を幕府主席老中の阿部正弘リークしたのは斉彬だと疑い(事実そうだった可能性が高い)、以前にも増して斉彬に対する怒りを露わにします。斉興にしてみれば、斉彬は自身が藩主になるために藩の秘密を売った不届き者という思いだったのでしょう。

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 アンチ斉彬派が望みを託したのは、斉興の側室・お由羅の方が産んだ島津久光でした。斉興は正室の周子(斉彬の生母)が死んだ後は正室を迎えなかったため、お由羅が事実上正室も同然の立場でした。お由羅は当時の史料中に「美にして艶也」とか「怜悧な上に天性の麗質」と記されているほど賢くて美人だったようで、斉興の寵愛ぶりは相当なものだったようです。また、その子・久光も、ドラマでは今のところマザコンバカ息子キャラですが、実際には、儒学、漢詩、国学に通じる一級の教養の持ち主で、十分に藩主が務まる人物でした。何より、斉彬と違って洋学に興味がなく、また、江戸生まれで江戸育ちの斉彬に対して薩摩生まれの薩摩育ちであったことも、藩内保守派にとっては好意の対象となったに違いありません。必然的に、藩内保守派は久光推し、革新派は斉彬推しという図式が生まれました。


 ちょうどこの頃、斉彬の子女が幼くして相次いで病没するという不幸に見舞われます。斉彬派の者たちは、これをお由羅や久光による呪詛が原因と疑います。この当時は呪詛の力が信じられていた時代だったんですね。その効力があったかどうかは別として、実際、お由羅方の呪詛が行われていたもといわれます。そんななか、嘉永2年(1849年)に斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると、彬・久光両派の対立は一触即発の状態となり、斉彬派の重鎮で町奉行兼物頭・近藤隆左衛門、同役・山田清安、船奉行・高崎五郎右衛門、そして、西郷吉兵衛、吉之助(隆盛)父子と縁の深かった赤山靭負らは、久光派の島津将曹、島津久宝らの暗殺を企てます。しかし、計画は事前に漏れ、怒った斉興は、斉彬派を一斉に検挙し、処分します。具体的には、嘉永2年(1849年)12月から翌年の夏にかけて、高崎五郎右衛門、赤山靭負ら6人が切腹となり、他にも、蟄居、遠島など総勢50人余りが処分されます。そのなかには、大久保次右衛門正助(利通)父子も含まれていました。世にいう「お由羅騒動」「近藤崩れ」「高崎崩れ」「嘉永朋党事件」です。


 赤山靭負の切腹の際には、赤山氏の御用人だった西郷吉兵衛が介錯人を務めたといいます(異説あり)。ドラマでは、西郷吉之助も切腹に立ち会っていましたが、伝承では、靭負は切腹の直前に自身の着物を吉之助に渡してくれるよう吉兵衛に頼んだといい、父が持ち帰った血染めの着物を見た吉之助は大きな衝撃を受け、靭負の志を継ぐことを決意したと伝わります。この話が事実かどうかはわかりませんが、縁の深かった靭負の死が、西郷のその後に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。


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 その後も藩内では斉彬派と久光派に分かれて対立が絶えませんでしたが、斉彬と個人的に親しい幕府主席老中の阿部正弘が、斉興に圧力を加え、暗に隠居を迫ります。ドラマでもありましたが、嘉永4年(1850年)正月、斉興が新年の祝辞言上のために江戸城に登城して将軍に謁した際、将軍より茶壺が下賜されます。これは大名を隠居させたいときに幕府のとる常套手段で、「茶でも飲んで余生を楽しみなさい」という意味でした。それでも斉興は無視し続けましたが、阿部は幕府のメンツにかけて薩摩に圧力をかけ、同年2月、斉興は渋々隠居願いを提出し、ようやく斉彬の襲封となります。斉興60歳、斉彬43歳でした。

 お家騒動の原因はどこでもたいてい同じで、父の愛情や家臣の心が、正当な継承権のあるよりの方に注がれるところから起こります。この「お由羅騒動」も同じですね。騒動の元凶は長幼の序を無視しようとした斉興にあるのですが、さすがに藩主を批判するのははばかられるため、斉彬派の怒りの矛先はお由羅に向かいます。西郷は生涯、お由羅を「妖婦め!」と憎み続けます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-29 01:20 | 西郷どん | Trackback | Comments(4)