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西郷どん 第47話「敬天愛人」その4 ~紀尾井坂の変~

 シリーズ最後です。

 ドラマは西郷隆盛の物語でしたが、西郷の生涯を語るには、西郷の死の約8ヶ月後に起きた出来事まで語らなければ完結しません。すなわち、大久保利通の死です。大久保は明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井坂付近において不平士族たちによって殺されました。


e0158128_15131733.jpg事件当日の午前8時、大久保は明治天皇に謁見するために裏霞ヶ関の自邸を出発し、赤坂の仮皇居に向かいました。共は下僕で馭者の中村太郎と、同じく下僕で馬丁の芳松の二人だけでした。本来なら、大久保邸から赤坂仮皇居に向かうには、紀尾井坂を通るより赤坂見附を通ったほうが近道だったのですが、なぜか大久保はこのコースを選びました。その理由は、赤坂見附は人通りが多くて危険だから、あえて人通りの少ないこの道を選んだと言われていますが、暗殺団がこの道で待ち伏せしていたことから考えれば、大久保は日常的にこの紀尾井坂コースを使っていたのでしょう。襲撃団は、周到な準備のもと、事に及んでいます。


大久保を乗せた馬車が紀尾井町一丁目に差し掛かったとき、2人の書生が現れて通路を遮りました。馬丁の芳松が馬車を降りて、脇によって道をあけるよう注意しますが、そのとたん、男たちは刀を抜き、いきなり馬の前脚を薙ぎ払いました。この襲撃を合図に身を潜めていた4人の男が一斉に飛び出してきました。刺客は全部で6人。芳松は背中から斬りつけられるもそれをかわし、助けを呼びに馬車を離れました。馭者の中村は馬車から飛び降りたところを、刺客に一刀のもとに斬り下げられ、即死します。刺客たちは馬車によじ登り、中にいた大久保に斬りつけました。このとき大久保は書類に目を通していたといい、一説によると「待て!」といって書類を風呂敷に包んだといいます。


大久保の最後のことばは、「無礼者!」という一喝だったといいます。その後、大久保は馬車から引きずり出され、めった切りに斬りつけられました。そして最後のトドメは喉に短刀が突き刺され、その短刀は地面にまで達していたといいます。大久保は全身16ヶ所に刀を受けていましたが、その大半は頭部に集中していたといいます。事件直後に現場にかけつけた前島密の証言によると、大久保の遺体は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」状態だったといいます。さすがに、ドラマではそこまで描けません。


実行犯は、石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、および島根県士族の浅井寿篤の6名、いずれも太政官政治に不満を持つ不平士族でした。彼らにとってこの襲撃は暗殺ではなく、政治でした。なので、大久保を殺害するとすぐに自首しています。彼らは、大久保さえ斃せば、やがて天下は転覆して世直しされると信じていました。


この大久保襲撃については、まったく寝耳に水だったわけではなく、事前に予想できたことでした。彼らは闇討ちのような卑怯な行為ではないことを主張するため、事件の4、5日前に大久保に宛てて殺害の予告状を送っています。しかし、これを見た大久保は顔色ひとつ変えることなく、まったく意に介する様子もなかったといいます。


e0158128_21495406.jpgまた、島田らが石川県を発ったとき、石川県令がすぐさま警戒すべきことを内務省に通報しており、そのことは大久保の耳にも届いていました。さらに内務省は、警視庁に大久保内務卿の護衛を要請しますが、大警視の川路利良は、その必要はないとして、「加賀の腰抜けに何ができるか」と、相手にしなかったといいます。これは、薩摩人特有の他藩蔑視の通癖が露骨に出た言葉ともいえますが、この当時、政府の要人警察が護衛するという習慣がまだなかったことと、他の大官に護衛がついていないのに、大久保だけに護衛をつけるのは、世間体から見て大久保を臆病者にすることになり、大久保を侮辱することになるといった思いもあったようです。明治維新から10年以上が経ったこの時代でも、大官は役人である以前に、ひとりのサムライだったんですね。


有名な話ですが、大久保は事件当日の朝、自邸に挨拶に訪れた福島県令の山吉盛典に対して、まるで遺言とも取れる明治30年計画を語ったといいます。それによると、明治元年から10年を創業の時期として、戊辰戦争士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期と定義し、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものでした。しかし、結局は第2期の入り口で凶刃に倒れたわけです。


また、どういうわけか、大久保はこの日、西郷隆盛からもらった古い手紙を2通、懐に忍ばせていたといいます。それは、いずれも二人が蜜月の間柄だった頃の手紙で、この手紙を持参していた話は、事件後ほどない5月27日付の東京日日新聞に報ぜられています。大久保がどういう意図で手紙を持参していたかはですが、大久保は西郷を死に至らしめたことでよほど悩み苦しんでいたようで、自分と西郷とは、かつて深い絆で結ばれていたということを、しきりに人々に話したがっていたといいます。あるいは、近々自分が殺されるかもしれないことを想定し、その死後、自分と西郷との友情関係世に知らしめるために手紙を持ち歩いていたのでしょうか。その真偽はいまとなっては確認しようがありません。


 作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、大久保の死についてつぎのように述べています。


 「結局は大久保とその太政官が勝ち、西郷がほろびることによって世間の士族一般の怨恨や反乱への気勢は消滅したかにみえた。大久保とその権力はほとんど絶対化するかの勢いになった。日本における政治風土として、権力が個人に集中してそれが絶対化することは好まれず、それに対する反対勢力が相対的に公認されている状態が好まれる。権力が個人に集中して絶対化した例は日本の歴史でまれであったが、遠くは織田信長の末期、近くは井伊直弼の大老就任後がそうであったであろう。結局は爆走する絶対権力をとどめる方法がないままに暗殺者がそれを停止させることが、ほとんど力学現象のようにして生起する。」


大久保の死も、あるいは歴史の必然だったのかもしれませんね。


 また、作家の半藤一利氏はその著書『幕末史』のなかで、


 「戊辰戦争のつづきといえるこの明治の権力をめぐってガタガタした十年間は、古代日本人的な道義主義者の西郷と、近代を代表する超合理主義の建設と秩序の政治家大久保との、やむにやまざる「私闘」であったといえそうです。」


 と述べておられています。しかし、わたしは、西郷は道義主義者だったと思いますが、大久保が超合理主義者だったとは思いません。むしろ、西郷以上に情に厚い熱血漢だったと思っています。ただ、その情は、西郷のように人に対してではなく、「国家」に向けられた。彼は、彼らが作った新国家という作品を、どんなことをしても守りたかった。その国家建設に抗おうとする勢力は、たとえそれが竹馬の友であっても、容赦なく叩き潰した。これは、大久保の政治家としての信念だったのでしょう。日本近代史において、大久保利通ほどの信念の政治家は、それ以前もそれ以後もいないとわたしは思っています。


 西郷隆盛自身が語ったとされる言葉に、こんな言葉があります。


「もし一個の家屋に譬うれば、われは築造することにおいて、はるかに甲東(大久保利通)に優っていることを信ずる。しかし、すでに建築し終わりて、造作を施し室内の装飾を為し、一家の観を備うるまでに整備することにおいては、実に甲東に天稟あって、われらの如き者は雪隠の隅を修理するもなお足らないのである。しかし、また一度、これを破壊することに至っては、甲東は乃公(おれ)に及ばない」


 自分は既存のものを破壊して新しいものを造ることにおいては、大久保には負けない。しかし、新しくできたものを整備して完成させる能力においては、大久保の足元にも及ばない、と。幕府を倒して新政権を樹立させた一番の立役者は、まぎれもなく西郷隆盛でしたが、その新政権を盤石なものに仕上げるのは、大久保しかいない。この言葉がいつ発せられたものかはわかりませんが、西郷自身もそう思っていたんですね。その意味では、大久保の死は、西郷の本当の意味での死だったといえるかもしれません。


さて、最終稿はすいぶん長文になってしまいましたが、本稿をもって大河ドラマ『西郷どん』のレビューは終わりとさせていただきます。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-20 00:22 | 西郷どん | Comments(6)  

西郷どん 第46話「西南戦争」その3 ~田原坂の戦い~

 昨日の続きです

 高瀬の戦いのあと、西郷軍は福岡方面から南下してくる新政府軍を迎え討つために北上し、やがて田原坂で激突します。この戦いは、西郷軍、政府軍双方に多くの死傷者を出す西南戦争一の激戦となりました。3月4日、この田原坂にほど近い吉次峠の激戦で、西郷隆盛の片腕だった一番大隊長の篠原国幹戦死しています。


 西郷軍は、当初、徴兵制によって徴収された農民を中心とする政府軍の兵士を馬鹿にしていましたが、政府軍には最新式のスナイドル銃が配備され、上官の指示にもよく従う統制のとれた政府軍兵士の攻撃に、思わぬ苦戦を強いられることとなります。一方の西郷軍は、旧式のエンフィードル銃が主力でした。スナイドル銃は元込め式1分間に6発発射できたのに対し、エンフィードル銃は1分間に2発しか発射できませんでした。加えて、この戦いの間は雨天の日が多く、先込め式のエンフィードル銃は雨に弱く、武器の差は圧倒的に政府軍が有利でした。


 ただ、そうしたなか、政府軍の兵士に大きな恐怖心を与えて大混乱に陥れたのは、西郷軍兵士による抜刀しての斬り込みでした。西郷軍の兵士のほとんどは元薩摩藩士であり、幼い頃から示現流剣術で鍛えた強者揃いでした。一方、政府軍の兵士は士族以外の者が多く、剣術の心得のない者が圧倒的でした。彼らにしてみれば、銃弾の雨のなかを怯むことなく抜刀して突撃してくる薩摩兵は、恐怖以外の何物でもなかったでしょう。周章狼狽した政府軍兵士たちはたちまち戦意を失い、命を落とす者が続出します。


 e0158128_21495406.jpgこれに対して政府軍は、薩摩兵ひとりに対してスナイドル銃を持った兵士5、6人で応戦し、間断なく銃弾を浴びせるという作戦に出ますが、これも計算どおりにはいきませんでした。そこで、警視庁大警視でありながら西南戦争勃発後は陸軍少将を兼任し、このとき警視隊で組織された別働第三旅司令長官の任にあたっていた川路利良は、警視隊のなかから特に剣術に長けていた110人を選んで「抜刀隊」を編制し、西郷軍の抜刀攻撃に対抗させました。目には目を、刀には刀を、ということですね。その中には、旧会津藩士も含まれていました。彼らは今でも戊辰戦争時に賊軍の汚名を着せられた恨みを持ち続けており、このとき西郷軍相手に「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫びながら斬り込んでいったといわれています。抜刀隊のあげた戦果は絶大でした。


e0158128_22143981.jpgしかし、この川路が立案した抜刀隊の編制には、当時、政府軍の事実上総指揮官だった山縣有朋は反対だったといいます。陸軍卿兼参議だった山縣は、徴兵制度を最も推進してきたひとりでした。その徴兵制度に反発したのが私学校党であり、全国にいる不平士族たちです。いま、ここで元士族だけを集めた抜刀隊を編制するということは、これまで推し進めてきた国民皆兵の政策を、自ら否定することになる。山縣の頭の中では、戦術も政治だったんですね。ただ勝てばいいというわけではない。徴兵制度による兵でサムライ集団を破ってこそ、真の近代軍制が確立されるという思いだったのでしょう。しかし、理想を追って戦に負けたら本末転倒な話で、川路の説得に山縣はこれを渋々許したといいます。


 この抜刀隊の働きもあって、戦局は目に見えて政府軍に有利となっていきました。それでも頑強な抵抗を見せる西郷軍に対して、政府軍はさらに第三旅団、第四旅団を投入し、兵力と兵器の差で西郷軍を圧倒しました。このとき政府軍は1日あたり平均32万発の弾丸を敵陣に撃ち込んだといい、多い日には60万発を超えたといいます。これは、日露戦争における旅順攻撃時の倍の数字でした。この当時の政府の弾丸製造能力1日12万発だったといいますから、足らずは外国からの輸入でまかなっていたようです。これに対して西郷軍は、弾薬不足に悩まされ、着弾した弾丸を拾って鋳造したり、鍋や釜を溶かして作った手作りの弾丸を使用したといいます。これほどの兵力の差がありながら、田原坂の戦いは約3週間近く続いたのですから、薩摩兵恐るべしといえるでしょうか。

 明日の稿に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-12 23:59 | 西郷どん | Comments(2)  

西郷どん 第45話「西郷立つ」その2 ~西郷暗殺計画~

 昨日の続きです。

 各地で不平士族の反乱が勃発していた同じ頃、鹿児島県では、県令・大山綱良以下の役人には一人も県外人を入れず、すべて私学校とその分校の幹部を就かせて、県政は中央政府の法令には一切従わず、私学校の指導で行われていました。県下の租税はいっさい中央にあげず、県下では秩禄処分もなく、太陽暦も採用せず旧暦を守り、士族は相変わらず刀を帯び、ひとたび西郷隆盛の命令が下ればただちに戦闘状態に入れるよう組織され、訓練されていました。つまりこれは、日本国内において事実上中央政府から独立した政権、鹿児島国だったといっていいでしょう。そしてそのなかで、西郷自身はなんの役職にも就かず、それらを超越した最高権威として君臨していました。


 彼らは、熊本・秋月・萩の乱にも、なお自重して動きませんでした。おそらく、西郷が軽挙を抑えていたのでしょう。しかし、中央の政権に一切従わない彼らを、政府は放っておくわけにはいきませんでした。政府・内務卿大久保利通は、内乱を避けるべく鹿児島県士族に限って特別の優遇をしてきましたが、それに対する木戸孝允らの反対は強く、鹿児島県のみを特殊あつかいすることに対して、大久保を避難する声が高まります。さすがの大久保もこの声を無視するわけにはいきませんでした。


e0158128_21495406.jpg各地で不平士族の反乱が続いた明治9年(1876年)の暮れ、警視庁大警視(現在の警視総監)の川路利良は、警視庁二等少警部の中原尚雄ら二十数名の警察官に対して、墓参りや母親の看病などの名目で鹿児島に帰省し、西郷らの動向を探るよう命令を下しました。中原らは年が明けた明治10年(1877年)1月に相次いで鹿児島に帰り、私学校の生徒たちに接近します。しかし、鹿児島ではこの前年より西郷を暗殺しようとする者が政府から送り込まれているとの風評があり、そのため、私学校党は西郷の身辺警護を強化していました。そんな最中での中原らの帰国だったので、私学校党は最初から中原らを疑っていたようで、中原らの密偵活動は、なかなか上手くことを運ぶことができませんでした。


 そこで中原は、谷口登太という旧知の友人を味方に引き込んでスパイにしようとしますが、この谷口が、実は私学校党から送り込まれた逆スパイでした。そうとは知らない中原は、谷口と酒を交わした際につい心を許し、自身の帰郷の目的は私学校の瓦解工作の任であること、また、西郷が挙兵の動きを見せれば踏みとどまるよう説得にあたり、もし聞き入れられなければ、「刺し違えるより外ない」との決意を打ち明けました。現存する中原の口供書には、こうあります。


「万一挙動ノ機ニ立至ラハ、西郷ニ対面刺違ヘルヨリ外仕様ハナイヨトノ申聞ニ随ヒ居候」


 川路から、万一の場合は西郷と差し違えよと命じられていたというんですね。また、谷口の報告書には、こうも記されています。


「第一西郷隆盛ヲ暗殺セハ、必ス学校ハ瓦解ニ可至、其他、桐野、篠原ノ両士迄斃候得ハ、其跡ハ至テ制シ安ク、尤モ西郷ニハ同人知己ノ事故、面会ヲ得テ可刺殺覚悟ニ候、勿論此人ト共ニ斃レ候得ハ、我身ニ於テハ不足ハ無之」

「まず西郷を暗殺する、そうすれば必ず私学校は瓦解する。つづいて桐野利秋、篠原国幹の両名を斃せば、あとは制しやすい。自分は西郷と面識があるから、面会して刺殺する覚悟である。もちろん、西郷とともに斃れれば、我が身において不足はない」


 これらの供述や報告書を鵜呑みにすれば、政府による西郷暗殺計画は実際にあったと判断できますが、しかし、これらは私学校党による激しい拷問を受けての供述であり、どこまで事実と見るかは判然としません。実際、中原は西南戦争の終結後、供述は拷問によって強要されたものだとして全否定しています。一説には、中原らが帰国の理由を「視察」のためと供述したものを、私学校党がわざと「刺殺」と読みかえて挙兵の名義としたとの見方もあります。つまり、決起するためにでっち上げた捏造だったということですね。これも、いまとなっては確認のしようがありませんが、ただ、一概に邪説だとして片付けられない側面もあります。それは、ポリスと私学校党の関係が背景にありました。


 私学校党の多くは元近衛兵で、西郷と同じく城下士の出身でした。一方のポリスたちの多くは、外城士(郷士)の出身でした。旧藩時代、薩摩藩では城下士が外城士を見下し、そのため、外城士は城下士を激しく憎んでいました。そんななか、西郷は外城士に対しても心配りをする人物だったといいますが、とはいえ、西郷とて当時の封建社会における例外ではなく、城下士に対する態度に比べれば、外城士への態度はいくらかは落ちました。そんな身分差別に対する不満、そして西郷との関わりの厚薄が、そのままこのときのポリスと私学校党の対立の根底にあったことは否定できません。


 西郷の暗殺計画が本当にあったのかどうか、仮に事実だったとして、それは川路利良の独断だったのか、あるいは、その背後に大久保利通の指示があったのか、いまとなっては明らかにはしえません。しかし、この報告を受けた西郷は、これを事実だと受け止めたようでした。そして、時を同じくして、もうひとつ、挙兵の実質的導火線となった事件が発生します。私学校党による弾薬庫襲撃事件ですね。続きは明日の稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-04 14:21 | 西郷どん | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その56 「清水谷家の椋(京都御苑)」

前稿で紹介した蛤御門を潜って100mほど東へ進んだ御所の南西の角のあたりに、「清水谷家の椋」と呼ばれるムクノキの巨樹があります。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)の際、長州藩の豪傑・来島又兵衛が、この木の下で自刃したと伝えられます。


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「清水谷家の椋」という名称は、この木のあたりに公家の清水谷家の屋敷があったことに由来します。

幹周は約4mあり、樹齢約300年と言われています。


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長州藩きっての武闘派として知られる来島又兵衛は、若年者が多かった幕末の長州藩士のなかでは、長老格でした。

何より猛々しさを重んじる又兵衛は、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物で、藩士からの人望も厚かったようです。

禁門の変に際して、ギリギリまで慎重論を主張する久坂玄瑞に対して、怒気を飛ばして論破したのがこの又兵衛で、その気質のとおり、彼が強硬派の急先鋒でした。

変当日の又兵衛は、風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて会津藩の守る蛤御門に猛然と攻めかけます。


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勇猛果敢な又兵衛の突撃によって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転

その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。

西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。

しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬

死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。

それが、このムクノキの下だったと伝えられます。

享年47。


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ムクノキの向こうに見える塀は、御所の外塀です。

当時も同じように塀があったのかどうかはわかりませんが、御所の目の前で朝敵の汚名を着せられたままの討死は、さぞ無念だったに違いありません。

西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-17 23:36 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その55 「蛤御門(京都御苑)」

京都御苑外郭九門のひとつである「蛤御門」にやってきました。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」の際、最も激戦地となった門として知られ、同変のことを「蛤御門の変」とも呼ばれることで周知の場所です。


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「蛤御門」の名称の由来は、御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて、「蛤御門」と呼ばれるようになったそうで、本来の正式名称は「新在家御門」なんだそうです。

その由来となった火災については、宝永の大火(1708年)後とする説と、天明の大火(1788年)後とする説が挙げられているそうです。


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現在の蛤御門は、明治10年(1877年)から明治16年(1883年)にかけて行われた大内保存および京都御苑整備事業によって移設されたもので、それ以前は現在よりも30mほど東の位置に、南を向いて建てられていたそうです。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)、伏見、山崎、天龍寺の陣を出た長州藩兵は、まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から京へ出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。

そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。

ここ、蛤御門に殺到しました。


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又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。

又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。

そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転

その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。

西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。

しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬

死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。

享年47。

西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。


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門には、複数の弾痕がいまも残っています。


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おびただしい数の弾痕が、その激戦のほどを雄弁に語ってくれます。

このなかには、あるいは川路利良の撃ったものもあるかもしれません。


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戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。

その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。

『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。

一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。

後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。

戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。

21世紀のいまも変わらない事実です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-16 23:10 | 幕末京都逍遥 | Comments(4)