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「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その8 <平野國臣・横田友次郎捕縛の地>

「その7」で紹介した黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑から北西に5kmほど、「その3」で紹介した山口護国神社から直線距離で35kmほど北上した養父市上網場に、「平野國臣捕縛地」と刻まれた石碑があります。


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文久3年10月13日(1863年11月23日)夜の生野破陣後、平野國臣は鳥取藩士の横田友次郎とともに城崎に向かいますが、その途中、上網場村の旅籠京屋豊岡藩兵捕縛されました。

ふたりは一旦、豊岡藩の獄に繋がれますが、年が明けた1月5日に身柄を姫路に護送され、11日に京都の六角獄舎に送られます。


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それから約半年後の元治元年7月19日(1864年8月20日)の起きた禁門の変(蛤御門の変)で、京のまちは火の海となりました。

「どんどん焼け」と呼ばれたその火の手は獄舎周辺まで迫り、火災に乗じて囚人が逃亡することを恐れた西町奉行所の役人・滝川具挙は、判決が出ていない状態のまま独断で囚人の処刑を断行します。

このとき斬首された囚人は37名

そのなかにいた生野の変のメンバーは、平野國臣、横田友次郎、本多素行、大村辰之助の4人でした。

<参照:六角獄舎跡(勤王志士平野國臣外十数名終焉之地)

彼らの遺骸は、13年後の明治10年(1877年)、京都の竹林寺に埋葬されました。

<参照:平野國臣以下三十七士之墓(竹林寺)


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平野國臣の勤王志士としとの経歴は長く、安政の大獄で追及を受けた僧・月照西郷隆盛とともに鹿児島へ逃れさせ、そのとき入水自殺を図った西郷を平野が助けたという話は有名です。

また、文久2年(1862年)には薩摩藩尊攘派の浪士たちと挙兵して攘夷断行を企てますが、一団は伏見寺田屋で捕えられ、平野は福岡藩で投獄されます。

いわゆる寺田屋事件ですね。

翌年に許されて上京し、学習院出仕に任ぜられますが、八月十八日の政変で京都を去り、その後、大和の天誅組に呼応して生野挙兵を画策します。


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これだけ輝かしい志士としての経歴を持ちながら、平野は後世にあまり知られてはいません。

生野挙兵メンバーのなかでは最も名前が売れているとは思いますが、いわゆる西郷隆盛大久保利通、木戸孝允の維新三傑をはじめ、維新を迎えることなく散っていった坂本龍馬高杉晋作、久坂玄瑞などと比べても、圧倒的に知名度が低い

その理由は、彼の出身が幕末にあまり目立たなかった福岡藩だったこともありますが、彼の志士としての運動を見るに、どれも中途半端で何事も成し得ていないところにあるように思います。

関西弁でいう「いっちょかみ」なんですよね。

この生野の変にしても、実質首謀者だったはずなのに、大和の天誅組の破陣を知るや途中から自重派となり、挙兵中止をうったえるも強硬派を抑えきれず、最後は逃亡してお縄につくという、無様な結末といえます。

もし、彼が西郷らと名を連ねるほどの一流の志士なら、はじめからこのような無謀な挙兵はしなかったでしょうから。

大和の天誅組の面々と同じく、所詮は二流の志士だったと。

手厳しいようですが。


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石碑には、平野の辞世の句が刻まれています。


見よや人 嵐の庭のもみじ葉は いずれ一葉も 散らずやはある


「その9」につづきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-12-06 11:27 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その7 <黒田與一郎・中島太郎兵衛顕彰碑>

「その6」で紹介した三国神社自刃した中島太郎兵衛と、その弟の黒田與一郎顕彰碑が、兵庫県朝来市和田山町高田あります。

このあたりに、かつて彼ら兄弟の生家がありました。


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国道9号線を北上していると、顕彰碑の誘導看板があります。


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看板の向こうに見える鳥居は、高田八幡神社のものです。


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その鳥居のすぐ横の階段を上ると顕彰碑があります。


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中島太郎兵衛と黒田與一郎兄弟の生家は、代々、和田山高田村の大庄屋でしたが、幕末当時、凋落傾向にあったといいます。

ふたりは早くから但馬における農兵組織化にむけて北垣国道らとともに奔走し、美玉三平、平野國臣らが但馬に入ると、彼らとともに農兵を討幕のために転換させるよう画策しました。


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文久3年(1863年)8月に朝廷と幕府から農兵組立が発令されると、9月5日に養父神社第1回農兵組立会議が行われ、9月19日の第2回農兵組立会議は中島太郎兵衛宅で行われました。

この会議には生野代官所役人らも出席していましたが、代官所役人らが退席したあと、別室で密談が行われ、10月の挙兵が決定されました。

いわば、生野の変の首謀者メンバーだったんですね。


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文久3年10月12日(1863年11月22日)に生野代官所占拠した彼らでしたが、本陣での役割は、兄・太郎兵衛が節制方、弟・興一郎が農兵徴集方だったようです。

長州藩士を中心として他藩の浪士が多かった生野挙兵メンバーのなかで、地元出身で土地勘のある彼らは、きっと大きな役割を期待されていたのでしょう。

ところが、生野挙兵はあっけなく破陣

ふたりは薩摩藩士の美玉三平とともに播磨国山崎の木之谷まで逃亡しますが、深手を負っていた兄・太郎兵衛は自刃し、兄を介錯した興一郎はそのあと自ら縛につき、京都六角獄舎に送られ、慶応2年2月9日(1866年3月25日)に獄中死します。

詳しくは「その6」で紹介しましたね。


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この顕彰碑は昭和15年(1940年)11月10日に建立されたそうです。

わたしに言わせれば、彼らは顕彰されるようなことは何もしていないんですけどね。

彼らがやったことは、暴挙を画策して失敗して死んだ、ただそれだけなんですけどね。

顕彰碑が建てられた昭和15年(1940年)は、皇紀2600年にあたります。

そんなプロパガンダの顕彰碑といえるでしょう。

「その8」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-04 23:18 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

「生野の変」ゆかりの地を訪ねて。 その1 <生野代官所跡>

先週まで、幕末に起きた「天誅組の変」ゆかりの地めぐりのシリーズを起稿してきましたが、同じ頃、但馬国でも同じような事件が起きました。

「生野の変」です。

「天誅組の変」は、尊王攘夷派の志士たちが大和国五条代官所を襲撃して占領し、倒幕の兵を挙げた事件でしたが、「生野の変」は、同じく尊攘派の志士たちが但馬国の生野代官所占拠した事件です。

現在、生野代官所の跡地には、事変を後世に伝える石碑が建てられています。


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文久3年8月17日(1863年9月29日)に大和国五条で天誅組が挙兵すると、その過激な行動を危惧した公卿の三条実美は、暴発を制止すべく福岡脱藩浪士の平野國臣を五条に送ります。

しかし、その直後に京で八月十八日の政変が起こり、情勢は一変。

三条実美ら攘夷派公卿7人は長州藩士たちとともに京を追われます。

世にいう「七卿落ち」ですね。

天誅組の説得のために五条入りした平野國臣でしたが、天誅組首脳と意気投合してしまい、その直後に京の政変のことを知ると、巻き返しを図るべく大和国を去ります。

まさに、ミイラ取りがミイラになるってやつですね。

平野は天誅組に呼応すべく但馬国の志士・北垣晋太郎と連携し、幕府直轄領であった生野での挙兵を画策します。


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天誅組の総帥は公家の中山忠光を頂いていましたが、生野の挙兵にもそれなりの人物総帥に頂く必要があると考えた平野は、長州に赴き、周防三田尻に滞在していた七卿の一人、澤宣嘉を説得します。

そして奇兵隊を中心とした27名の志士たちを伴い、10月2日に三田尻を出航し、9日に飾磨港に上陸しますが、そこで、天誅組の壊滅の事実を知ります。

報に接した彼らは、挙兵の中止と決行の両論に分かれましたが、主戦論に押され、11日に生野に到着。

翌12日未明、彼らは生野代官所を無血占拠します。


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生野代官所跡にあるバカでかい石碑です。

皇紀2600年を記念して昭和15年(1940年)に建てられたもので、高さ5m、幅2.5m、厚さ60cmの花崗岩だそうです。

石碑には「生野義挙趾」と刻まれています。


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天誅組史跡の稿でも再三発言してきましたが、わたしは、この「義挙」という言葉がどうも気に食わない。

生野の挙兵では天誅組のように代官を殺してはいませんが、彼らがやったことは所詮はテロリズム

義挙ではなく暴挙だったとわたしは思います。

後世の二・二六事件における陸軍青年将校たちや、昭和の全学連のようなものだったでしょう。

ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ません。

皇国史観の戦前に建てられた石碑は仕方がないにしても、説明板や朝来市のホームページなどでも、「義挙」「維新の魁」などと紹介しているのは、どうかと思いますね。

薩長が自分たちの起こした政争を正当化するために作った虚構に、今なお踊らされているように思えてなりません。


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石碑裏面には、事変を伝える碑文が刻まれています。


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石碑の説明板です。


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「生野義挙碑」と刻まれた新しい石碑もあります。


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観光用の案内板も。


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代官所の説明板です。

生野代官所は、この近くの生野銀山経営を管理するために置かれた代官所で、古くは織田信長、豊臣秀吉の時代から重要視され、江戸時代250年に渡って幕府直轄領でした。

生野銀山については、以前の拙稿<2015夏休み但馬路紀行 その2「生野銀山」>で紹介しておりますので、よければ一読ください。


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話を歴史に戻して、生野代官所を占拠した彼らは、澤宣嘉の名で諭告文を発表して農兵を募りました。

農兵は続々と集まり、その数は即日2000人を越えたといいます。

しかし、結果はわずか4日間で壊滅してしまうんですね。

「その2」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-11-20 17:25 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その92 「平野國臣以下三十七士之墓(竹林寺)」

京都西陣にある竹林寺に、「その90」で紹介した六角獄舎処刑された平野國臣をはじめとする37士の墓があると知り、足を運びました。


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幕末、六角獄舎には多くの政治犯投獄されていましたが、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)によって起きた大火災によって京都の町は火の海となり、火災に乗じて囚人が逃亡することを恐れた西町奉行所の役人・滝川具挙が、判決が出ていない状態のまま独断で囚人37名の処刑を断行しました。


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山門の横には、元治甲子勤王志士贈正四位平野國臣外三十餘士之墓アリ」と刻まれた古い石碑があります。


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その横の説明板です。


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さらにその横には、37士の名簿があります。

平野國臣はじめ生野の変の同志5名、天誅組水郡善之祐以下16名、池田屋事件古高俊太郎以下8名、その他8名の計37名です。


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獄舎で斬首された平野らの遺体は、西の京刑場(現在の西大路通丸太町付近)にまとめて埋められ、その後、幕末のドサクサのなか忘れ去られていました。

ところが、それから13年後の明治10年(1877年)、化芥所(ごみ処理施設)となっていた西の京刑場跡から姓名を朱書した瓦片と多数の白骨が発見され、調査の結果、これらは六角獄舎で斬首された平野ら勤王志士37名の遺骨であることがわかり、あらためてここに移葬されたそうです。


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こちらが、その墓碑です。

明治43年(1910年)に建立されたものです。


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いちばん右上に平野國臣、いちばん下の段の中央付近に古高俊太郎の名前がありますね。

上部中央に名を連ねる乾十郎は、司馬遼太郎氏の短編『五条陣屋』のなかで、一種の狂人として描かれている人物です。


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志士は溝壑に在るを忘れず(志士不忘在溝壑)

勇士は其の元を失ふを忘れず(勇士不忘喪其元)

「志士は山野の溝に自分の遺体を晒すことを恐れてはならない」

「勇士は斬首されることを恐れてはならない」


とは、幕末の志士たちの共通のスローガンで、禁門の変に際しては、多くの名もなき志士たちが、その屍を晒して打ち捨てられていたはずです。

その意味では、この37士は、こうして名を刻まれただけでも、武士の本懐だったといえるのではないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-10 23:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その90 「六角獄舎跡(勤王志士平野國臣外十数名終焉之地)」

二条城から500mほど南下したあたりに、江戸時代の京の牢獄「六角獄舎」がありました。

正式名称は「三条新地牢屋敷」といい、六角通りにあったことから、「六角獄舎」または「六角獄」、「六角牢」などと呼ばれていました。


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現在、六角獄舎跡の敷地はマンションが建っており、当時の痕跡を窺い知ることはできません。

マンションの入口には、「勤王志士 平野國臣外数十名終焉趾」と刻まれた石碑があります。

幕末、この地で平野國臣をはじめ、多くの志士たちが処刑されました。


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幕末の混乱時、大老・井伊直弼の断行した安政の大獄による政治犯や、過激な尊皇攘夷志士たちが多くここに収監され、処刑されました。

その反面、攘夷派の志士たちが囚人として多数集まったため、ここで知り合ったり情報交換したりする場所ともなり、彼らのあいだでは「会所」とも呼ばれていたそうです。


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マンションの敷地内には、「殉難勤王志士忠霊塔」と刻まれた慰霊碑と、その横には小さながあります。


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幕末動乱の初期から尊王攘夷論と唱えて活動していた平野國臣は、文久2年(1662年)3月、薩摩藩国父の島津久光の上洛に乗じて薩摩藩士らとともに挙兵をはかりますが、当の久光自身には討幕の意思などなく、急進派の薩摩藩士らは伏見寺田屋において久光に差し向けられた同じ薩摩藩士によって鎮圧されます。

世にいう寺田屋事件ですね。

この騒動に連座して國臣も捕らえられ、福岡藩に引き渡されて投獄されます。


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翌年に許されて上京、学習院出仕に任ぜられますが、八月十八日の政変で京都を去り、七卿落ちの一人・沢宣嘉を奉じて但馬地方で義兵をあげ、生野銀山代官所を襲いますが、豊岡藩兵に捕らえられ、ここ六角獄舎に投獄されました。

翌年の禁門の変の際における火災により、京都の町は火の海となりました。

「どんどん焼け」と呼ばれたその火の手は獄舎周辺まで迫り、火災に乗じて囚人が逃亡することを恐れた西町奉行所の役人・滝川具挙は、判決が出ていない状態のまま独断で囚人の処刑を断行します。

このとき、國臣と共に斬首されたのは37名

その中には、池田屋事件のきっかけとなった古高俊太郎もいました。

ひとりずつ時世の句を詠んでは首を落とし、また次のひとり・・・。

処刑は3時間に及んだといいます。


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話は変わって、入口の石碑の隣には、「日本近代医学発祥之地」と刻まれた石碑があり、敷地内の慰霊碑の横には、「日本近代医学のああけぼの山脇東洋観臓之地」と刻まれた立派な記念碑があります。

ここ六角獄舎は、宝暦4年(1754年)に医学者の山脇東洋が、京都所司代の許可を得て日本で初めて人体解剖を行った場所でもあります。

あの解体新書で知られる杉田玄白が江戸で人体解剖を行う17年も前のことでした。

いうまでもなく、解剖に用いられた遺骸は、ここ六角獄舎で処刑された囚人でした。


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敷地内には、かつて囚人の斬首に使った刀を洗ったとされる「首洗いの井戸」の跡も残っているというのですが、それがどこにあるのかがわかりませんでした。

慰霊碑の前の礎石でしょうか?


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多くの命が奪われたこの地は、密かな心霊スポットになっているそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-08 23:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その11 「東山霊山護国神社~福岡藩殉難者の墓」

続いて福岡藩ブロックです。

こちらは、最後の福岡藩主・黒田長溥によって創建された福岡藩招魂社です。


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幕末の福岡藩士と言われても、即座に思い浮かばないかと思いますが、最も名のしれた人物といえば、平野國臣ではないでしょうか?

こちらが、その平野の墓です。


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平野國臣は幕末動乱の初期から尊王攘夷論と唱えて活動していた人物で、安政5年(1585年)に脱藩上京し、そこで西郷隆盛と知り合い、安政の大獄で追及を受けた僧・月照を鹿児島へ逃れさせた話は有名ですね。

しかし、薩摩藩庁の理解を得ることができず、悲観した西郷は月照とともに入水自殺を図りますが、月照は水死してしまったものの、西郷は國臣らに助け上げられました。

國臣がいなければ、このとき西郷は死んでいたかもしれず、そうなると、のちの幕末維新の歴史はずいぶん変わっていたかもしれませんね。

そんな國臣を、幕府を恐れた薩摩藩は追放します。


「わが胸の もゆる思ひにくらぶれば 煙はうすしさくらじま山」


薩摩藩をあとにする國臣が詠んだ歌です。

「わたしの胸に秘めた燃えるような思いに比べれば、桜島の煙など薄いものだ」といったところでしょうか?

無念の胸中がうかがえます。


文久2年(1862年)には薩摩藩尊攘派の浪士たちと挙兵、攘夷断行を企てますが、一団は寺田屋騒動で捕えられ、國臣は福岡藩で投獄されます。

翌年に許されて上京、学習院出仕に任ぜられますが、八月十八日の政変で京都を去り、七卿落ちの一人・沢宣嘉を奉じて但馬地方で義兵をあげ、生野銀山代官所を襲いますが、豊岡藩兵に捕らえられて投獄され、翌年の禁門の変の際における火災で獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首されました。

享年37。


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招魂社の向かって右側には、野村望東尼の墓があります。

野村望東尼は幕末の女流歌人で、夫の死後はとなり、自身が住んでいた平尾山荘に勤皇家を匿ったり、密会の場所を提供したりして各地の志士たちと親交があった女性です。

慶応元年(1675年)には福岡藩内の尊攘派弾圧で玄海の姫島に流されますが、高杉晋作の計らいにより脱出。

その後、高杉晋作の最期を看取ります。

晋作の直前に晋作が詠んだ

「おもしろき事もなき世に おもしろく」

という上の句に対して、

「住みなすものは心なりけり」

と、野村望東尼が下の句を続けて詠んだ話は、あまりにも有名ですね。

彼女自身もその翌年の11月、大政奉還がなった翌月にこの世を去ります。

享年62。


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あと、案内板によると、お隣の久留米藩出身の真木和泉守保臣を合祀しているそうです。

福岡藩は攘夷派の多くを弾圧してしまっていて、維新に乗り遅れちゃった藩ですからね。

つまり、ここ東山霊山は、倒幕派のみが祀られている墓地であり、その意味では、国のために殉じた人々を祀る神社と言いながら、幕府軍会津軍、西南戦争で敗れた西郷隆盛らを合祀していない靖国神社と同じく、偏った霊山といえます。

「国のために殉じた人々」でいうところの「国」とは、「明治政府」ということなんですね。

明治維新から150年、そろそろ、薩長史観から脱却した真実の歴史と向き合う必要があるんじゃないでしょうか?

そうすっと、ここ東山霊山の見方も、大きく変わってくるかもしれません。




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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-03-08 23:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(4)