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太平記を歩く。 その198 「後村上天皇陵(観心寺)」 大阪府河内長野市

「その102」で紹介した楠木正成首塚がある観心寺に、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の陵があります。


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観心寺の山門をくぐってすぐ右手に池があり、その向こうに、「後村上天皇御奮跡」と刻まれた大きな石碑が立っています。

観心寺は、正平14年/延文4年(1359年)から約10年間、南朝の行在所となりました。


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後村上天皇陵は別名、檜尾陵といいます。

公式形式は円丘

この長い階段を上ったところにあります。


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後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の第7皇子として生まれた後村上天皇は、建武の親政が始まると、東国武士の帰属を目的に北畠親房等と共に東国へ出兵しました。

その後、足利尊氏が離反すると討伐のために京へ戻りますが、その後も戦が続き、幼い身で奥州、美濃等各地の戦場に身を置きます。

延元4年/暦応2年(1339年)3月、11歳で吉野朝の父帝の元に戻ると、間もなく皇太子となり、同年8月に父帝の譲位を受けて天皇に即位します。


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天皇となってからは積極的に畿内の寺社や武士に対し綸旨を発し、南朝方への帰属を促しました。

一時、北朝方に攻められて紀伊賀名生行宮を移しましたが、足利幕府内の内紛・「観応の擾乱」の隙をついて北朝の崇光天皇(北朝第3代天皇)を廃位させ、一時的に南北朝の統一に成功します。(正平一統)

そして、京都を奪還すべく河内国・摂津国経由で山城国の男山八幡に入り、七条大宮の戦にて足利方を破り京都を奪還しますが、勢力を盛替えした足利方の反撃に破れ、賀名生に戻ったあと河内金剛寺を行宮とし、のちにここ観心寺に移ります。


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この後も、楠木正儀らが再度京を奪還しますが、すぐに義詮軍の反撃に遭って撤退。

住吉行宮に戻った後村上天皇は、北朝方との和睦交渉を行いますが、あくまで強硬姿勢だったため交渉は決裂しました。

このころ天皇は病を得ており、和睦交渉の翌年、住吉行宮にて崩御されます。

在位30年、宝算41歳


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後村上天皇は嘉暦3年(1328年)に生まれ、正平23年/応安元年(1368年)3月11日に崩御されたといいますから、ほぼ『太平記』の物語の年月と重なります。

『太平記』は父・後醍醐天皇の挙兵によって幕を開けますが、『太平記』を生きた天皇は、後村上天皇だったといえるかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-10 01:42 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その195 「天野山金剛寺(南朝行在所)」 大阪府河内長野市

大阪府河内長野市にある天野山金剛寺を訪れました。

ここは、かつて南朝行宮所となった歴史をもつお寺です。


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天野山金剛寺は、奈良時代、天平年間(729~749年)に聖武天皇(第45代天皇)の命により、当時の高僧・行基によって開かれたといわれています。

また、平安時代には弘法大師(空海)が修行した聖地ともいわれています。


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正平7年/文和元年(1352年)に起きた「正平の役(八幡の戦い)」に敗れた後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)は、「その 」で紹介した賀名生の行宮に帰還したあと、正平9年/文和3年(1354年)10月に河内天野に移り、ここ金剛寺を行宮と定めます。

その後、正平14年/延文4年(1359年)12月に観心寺に移るまでの5年余りをこの地で過ごしました。


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わたしがここを訪れたのは平成29年(2017年)6月10日、このとき、金剛寺は各所が修復工事中でした。

上の写真は鎌倉時代築で国指定の重要文化財楼門ですが、工事中でネット養生されていました。

残念。


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境内側から見た楼門です。


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楼門を潜ってすぐ右手(北側)にある食堂です。

こちらも国指定の重要文化財。

後村上天皇はここで政務を執られたそうです。


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食堂は別名「天野殿」とも呼ばれるそうです。

石碑には「南朝六年間常御殿」と刻まれています。


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平安時代の治承2年(1178年)の創建と伝わる金堂

こちらも国指定の重要文化財。

慶長年間の大修理で改築されており、金堂内陣に安置されている本尊の木造大日如来坐像、脇士の木造降三世明王坐像木造不動明王坐像は、いずれも運慶の作と伝えられ、国指定の重要文化財。

ここも修復工事中でした。


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平安時代の創建と伝わる多宝塔

こちらも国指定の重要文化財です。

慶長10年(1605年)に豊臣秀頼の命により、大規模な修理が行われています。


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こちらは五佛堂


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五佛堂と回廊でつながる観月亭


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観月亭は後村上天皇の行在所時代に付け加えるように建てられたそうで、ここで天皇がお月見をしたため、観月亭と呼ばれるようになったそうです。


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その隣の御影堂

五佛堂、観月亭、御影堂、いずれも重要文化財です。


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そして、その北側にある魔尼院が後村上天皇の行在所となったところなんですが、この日は魔尼院も修復工事中で、まったく近寄ることすら出来ませんでした。

非常に残念。

魔尼院は後村上天皇が5年余りに渡って行在所としたのち、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)の3代20余年にわたり、行在所となりました。

下の写真は「後村上天皇御手植桜」だそうですが、たぶん、当時のものではなく、何代目かなんでしょうね。


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さて、天野山金剛寺は南朝行在所という歴史を持つとともに、北朝ゆかりの地でもあります。

というわけで次稿も金剛寺を続けます




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-06 23:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その190 「四条隆資の墓(正平塚古墳)」 京都府八幡市

前稿で紹介した「正平の役(八幡の戦い)」古戦場跡にある「正平七年役神器奉安所 岡の稲荷社」の石碑のすぐ西側の丘の上に墓地があるのですが、その一画に、正平の役で討死した南朝方の公卿・四条隆資の墓があります。


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南北朝の争乱における四条隆資の活動は古く、元亨4年(1324年) 正中の変の頃から後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)方として参加していました。

元弘2年(1332年)の元弘の乱では、笠置山が落ちて後醍醐天皇が捕らえられると、幕府軍の追跡を逃れて紀伊国に落ち延び出家したと伝わります。

しかし、鎌倉幕府が滅亡して後醍醐天皇の建武の新政が始まると、隆資も還俗して朝廷に復帰します。


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その後、新政に反旗を翻して楠木正成を倒した足利尊氏が京を占領すると、隆資は男山八幡に籠もって高師直軍を破る抵抗を見せますが、やがて後醍醐天皇が吉野に入ると隆資も追従します。

後醍醐天皇崩御後は後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)を補佐して南朝の政務を主導し、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」にも参戦。

公卿でありながら自ら弓を取って戦い、足利軍の圧倒的な兵力の前に惨敗したものの、後村上天皇は隆資を慰労して従一位・大納言に任じました。


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そして正平6年/観応3年(1352年)の正平の役(八幡の戦い)においては、約2ヵ月の包囲戦の末、足利軍の兵糧攻めに耐えかねた後村上天皇が男山八幡を脱出する際、隆資は殿を務め、奮戦の末、討死したと伝えられます。


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墓石の五輪塔は、昭和19年(1944年)に建てられたもののようです。

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でも、上の「正平冢古墳」と刻まれた石碑には「昭和二年」と刻まれていますから、たぶん、それ以前にも古い墓石があって、昭和19年(1944年)に建て替えられたのでしょうね。


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でも、こちらも傷んできていて、崩れそうです。


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墓石の横にある石碑3基です。

左の石碑には「四隆資卿古碑」、右の石碑には「三條雅賢卿古碑」と刻まれ、真ん中の石碑には、「圓明●大納言卿古碑」と刻まれています(3文字目が読解不明です)。

調べてみたのですが、「圓明●大納言」という人物がよくわかりません。

歴史家・安藤英男氏の著書「南北朝の動乱」によると、このとき、四条隆資(大納言)、一条内嗣(大納言)、三条雅賢(中納言)ら南朝の公卿が討ち取られたとあります。

この一条内嗣が「圓明●大納言」のことでしょうか?


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隆資の墓石の前には、「将卒三百人墓」と刻まれた五輪塔があります。

おそらく、正平の役(八幡の戦い)で討死した兵の供養塔でしょうね。


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その横には、「忠臣冢」と刻まれた石碑が。


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四条隆資は、公卿でありながら武士に対しても見下したりせず公平に扱ったということで、武士たちからの信頼も厚く慕われていたといいます。

『太平記』巻1から巻31まで長く登場する歴戦の公卿は、ここ八幡中ノ山に眠ります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-28 00:20 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その189 「正平の役(八幡の戦い)古戦場跡」 京都府八幡市

正平7年/文和元年(1352年)閏2月19日、後村上天皇(第97代天皇、南朝第2代天皇)が都を臨む男山八幡に入ると、翌日には南朝方武将の楠木正儀北畠顕能らが足利尊氏不在の隙を突いて入京し、尊氏の嫡男・足利義詮に攻撃を仕掛け、近江に追いやります。

京で捕らえられた光厳上皇(北朝初代天皇)、光明上皇(北朝第2代天皇)、崇光上皇(北朝第3代天皇)、直仁親王は当時南朝方の拠点だった賀名生に移され、ここに、17年ぶりに南朝方が京の都に返り咲きました。

しかし、その喜びもつかの間の3月15日、近江で勢力を盛り返した義詮軍が再び都を奪還し、3月21日には男山八幡の後村上天皇行宮を包囲。

ここから約2ヵ月、包囲戦が行われます。

世にいう「正平の役」です。

「八幡の戦い」ともいいますね。

前稿で紹介した「八幡行宮阯」から南へ約2kmの間には、その古戦場跡を示す石碑が数か所に建てられています。


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まず、八幡行宮阯から歩いて5分ほど南下したあたりにある本妙寺の入口には、「正平役城之内古跡」と刻まれた石碑が立っています。

写真後ろの石碑です。

「城之内」ということは、このあたりも後村上天皇行宮の中だったってことでしょうか?


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石碑裏面です。

「昭和二年十月」と刻まれています。


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続いて、本妙寺から南に5分ほど歩いた場所にある八幡市民図書館の前には、「正平役園殿口古戦場」と刻まれた石碑もあります。


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『太平記』巻31「八幡合戦事付官軍夜討事」の中に、「顕能卿ノ兵、伊賀、伊勢ノ勢三千余騎ニテ、園殿口ニ支テ戦フ」という記述があり、おそらくその「園殿口」というのが、このあたりなんでしょうね。


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こちらの石碑の裏にも「昭和二年十月」と刻まれています。


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八幡市民図書館から1.5kmほど南下した八幡大芝にある八角堂の近くには、「正平役血洗池古蹟」と刻まれた石碑があります。

「血洗池」とは物騒な名称ですが、池に茅原が茂っていたため、茅原(チハラ)が訛って、古戦場ということも相まってこう呼ばれるようになったのではないかと考えられているそうです。


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この石碑がなかなか見つけられずに苦労しました。

近くを何回も通り過ぎていたのに気付かずで・・・。


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こちらは、「昭和二年七月」と刻まれています。


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最後に、「正平役血洗池古蹟」から南へ200mほど下ったところにある松花堂庭園前の交差点に、「正平七年役神器奉安所 岡の稲荷社」と刻まれた石碑があります。


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岡の稲荷社は、戦いに敗れた後村上天皇が賀多生へ落ちのびる際、この地に三種の神器隠し置いたと伝えられ、それを狐が守護していたため、のちに稲荷社が建てられたと伝えられるそうです。


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こちらも裏面には「昭和二年七月」と刻まれています。


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3月21日に始まった攻防戦は、洞ケ峠、財園院、森の薬園寺、園の法圏寺口、足立寺の佐羅科、如法経塚など、男山八幡を囲む各所で戦闘がくりひろげられましたが、南朝方は次第に兵糧が少なくなり、5月11日、後村上天皇は八幡を出て再び賀名生に落ち延びます。


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ちなみに余談ですが、上記で紹介した石碑は、すべて、幕末から明治・大正にかけて京都で帯織物業で財を成した三宅安兵衛という人の遺言によって、その長男・三宅清治郎氏が私財を投げ打って建てたものだそうで、石碑は京都市内から八幡市、宇治市、京田辺市、精華町、井手町、山城町、加茂町に広がり、その数は400を越えるといわれています(参照:三宅安兵衛の碑)。

上記裏面の写真をよく見てみると、すべて「三宅安兵衛依遺志建立」と刻まれていますね。

清治郎さん自身の名を刻まず、亡き父の名を刻んだあたりも、三宅清治郎という人の人となりをうかがい知ることができる気がします。

一度、「三宅安兵衛の碑めぐり」というのをやってみるのも、面白いかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-26 23:05 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その188 「八幡行宮阯」 京都府八幡市

京都府八幡市にある八幡行宮跡を訪れました。

ここは、正平7年/文和元年(1352年)2月に前稿で紹介した住吉行宮に移った後村上天皇(第97代天皇、南朝第2代天皇)が、その後、さらに京の都を目指して北上した行宮跡と伝わります。


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昭和15年(1940年)に建てられたこの石碑は、現在、車道沿いのカーブミラーに隠れてあまり目立ちません。


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「観応の擾乱」で幕府内が混乱する最中、足利尊氏は対立する足利直義・足利直冬追討の綸旨を得るため、正平6年/観応2年(1351年)10月、南朝の後村上天皇に一時降伏し、政権返上を申し出ます。

これを受けた後村上天皇は、北朝崇光天皇(北朝第3代天皇)の廃帝を宣言し、年号を南朝の正平6年に統一します。

世にいう「正平の一統」です。

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翌年の2月26日、足利直義は鎌倉で急死

通説では病死とされていますが、『太平記』では、これを尊氏の毒殺としています。


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八幡行宮跡碑から路地を東に50~60mほど入ったところには、「後村上天皇行宮趾」と刻まれた石碑があります。

こちらの方が立派な石碑です。


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北朝方の混乱を見た南朝の北畠親房は、正平一統を破棄

尊氏の征夷大将軍を解任し、宗良親王(後村上天皇の異母兄)を征夷大将軍として東西で呼応し、京都と鎌倉の同時奪還を企てます。


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後村上天皇は都の奪還を目指して当時南朝の本拠地が置かれていた大和国賀名生を出立。

同2月28日に前稿で紹介した摂津国住吉を行宮とし、閏2月19日、後村上天皇は都を目と鼻の先としたここ男山八幡に到着し、石清水八幡宮別当・田中定清の邸を仮皇居とします。

それが、ここ「八幡行宮阯」です。


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しかし、後村上天皇がこの地を行宮としたのは3か月足らず

北朝方の巻き返しに遭い、激戦の末、結局、京の都の地を踏むことなく、賀名生に戻ることになります。

世にいう「正平の役」です。

「八幡の戦い」ともいいますね。

次稿では、その古戦場跡をめぐります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-25 23:55 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その187 「住吉行宮正印殿趾」 大阪市住吉区

大阪市住吉区にある住吉行宮跡を訪れました。

ここは、後村上天皇(第97代天皇、南朝第2代天皇)時代に2度、長慶天皇(第98代天皇、南朝第3代天皇)時代に1度、南朝方の行宮とされた場所です。


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正平6年/観応2年(1351年)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏して北朝の天皇は廃され、年号も統一されるのですが、しかし、具体的な和睦の条件が折り合わず、翌年には再び分裂します。

世にいう「正平の一統」です。


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この機に乗じて南朝方は京都奪還を目指し、後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条、そしてここ摂津国住吉に移し、さらに山城国男山八幡へ移します。

このとき後村上天皇がここを御座所としたのは、正平7年/観応3年(1352年)2月28日から同年閏2月15日までの、わずか1か月足らずの間でした。


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鉄製の門扉も、菊の紋章をモチーフにデザインされています。


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敷地内には「後村上天皇住吉行宮正印殿址」と刻まれた石碑があります。


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後村上天皇はその後、幕府側の内紛と楠木正儀の戦略で南朝方が一時的に優勢を得た正平15年/延文5年(1360年)9月から正平23年/応安元年(1368年)3月11日に崩御するまでの間、ここを行宮としました。

その後、長慶天皇がこの地で即位したのち、同年12月24日に吉野へ遷っています。

合算すると、後村上天皇が8年、長慶天皇が1年計約9年間、南朝の行宮だったわけですね。


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また、明治元年(1868年)の明治天皇(第122代天皇)の住吉大社行幸のおり、この地で小休止したとのことで、「明治天皇聖躅」と刻まれた石碑があります。


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この行宮跡は国の史跡に指定されています。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-24 23:29 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その168 「楠木正行首塚(正行寺)」 京都府宇治市

「その166」で紹介した楠木正行の墓所以外にも、正行の首塚と伝わる場所があります。

まずは、京都府宇治市六地蔵にある正行寺を訪れました。


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何と言っても「正行寺」という名称ですからね。

いかにも正行と関係ありそうです。


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そして、これが正行の首塚とされる墓石です。

境内の隅にひっそりとあります。


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墓石の後ろにある正行寺由来によると、正成は正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」に敗れて自刃する直前、同行していた随臣の安間了意を呼び、「わが首を敵に取らしむる勿れ」と遺命し、了意は首級を携え吉野に逃れようとしたものの、足利の軍勢に遮られたため、ここ六地蔵に埋葬したとあります。

その後、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)がその忠死を追悼され、一宇の小堂を墳墓の上に建立し賜い、その墓は600年の間隠匿していましたが、昭和の時代になって陽のあたる場所にと、ここに正行寺の境内に移されたそうです。


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四條畷から吉野に首級を運ぶ途中に足利軍に阻まれて埋葬したのが、なぜ吉野とは全く方向違いの宇治市六地蔵だったのかがわかりませんが、まあ、正行寺という名称ということで、実話ということにしておきましょう。

この種の伝承を細かく詮索するのは、無粋というものです。


次回も、正行の墓を巡ります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-12-14 23:58 | 太平記を歩く | Trackback(1) | Comments(0)  

太平記を歩く。 その147 「賀名生南朝皇居跡」 奈良県五條市

吉野山から西南西に15kmほどのところに、「賀名生の里」と呼ばれる場所があるのですが、ここにも、かつて南朝の行宮があったと伝えられます。


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延元元年/建武3年(1336年)12月28日、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)は京を逃れて吉野山潜行しますが、その途中、天皇は一時この地に滞在したと伝えられます。


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現在、ここは「賀名生の里歴史民俗資料館」と称して観光用に公園整備されています。


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後醍醐天皇がこの地に滞在の理由は、真言密教に大きく帰依していた天皇が、総本山である高野山金剛峯寺への行幸を強く願っていたといい、それがかなわない場合に吉野山金峯山寺へと向かう計画だったため、高野山と吉野山のほぼ中間地点に位置する賀名生で様子をうかがっていたと伝えられます。


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後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)は、正平3年/貞和4年(1348年)、南朝の本拠地の吉野山が焼き討ちにあうと、ここ賀名生に行宮を定めました。

それから間もない正平6年/観応2年(1351年)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏して北朝の天皇は廃され、年号も統一されるのですが、しかし、具体的な和睦の条件は折り合わず、翌年には再び分裂します。

世にいう「正平の一統」です。

ただ、わずか数か月のことでしたが、南朝が唯一の朝廷となり、ここ賀名生はわが国の都になったことになるんですね。

その後、南朝の行宮は河内や摂津などにも移りますが、賀名生は南北朝時代を通して、度々その拠点となりました。


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公園内には、「賀名生皇居跡」と伝わる藁葺屋根の古い屋敷があります。

ここは、西吉野の郷士・堀孫太郎信増の屋敷で、立ち寄った後醍醐天皇を手厚くもてなし、その後も後村上天皇、長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)、後亀山天皇(第99代天皇・南朝第4代天皇)はこの地に入られたときも、皇居となりました。


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冠木門に掲げられた「賀名生皇居」扁額は、幕末の志士団・天誅組吉村寅太の筆によるものだそうです。

墨の色がまったく色褪せてないやん!・・・と思ってしまいますが、実はこれはレプリカで、本物は隣の「賀名生の里歴史民俗資料館」に展示されています。


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冠木門横に設置されていた説明板です。


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屋敷はいまも「堀家」様の住居として使用されておられるそうで、見学には事前の申込みが必要だそうです。

この日は申込みをしていなかったので、外観の写真のみ。


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南北朝時代に記された記録などによると、この地はもともと「穴生」・「穴太」・「阿那宇」などと表記され、「あなう」と呼ばれていたようです。

正平の一統のとき、後村上天皇は「願いがかなってめでたい」との思いから、この地を「加名生(かなう)」と名付けたと伝えられるそうです。

のちに、この地の人々は「加名生」はおそれ多いとの理由で「賀名生」に改めたといわれ、明治のはじめに読み方を「あのう」に統一したそうです。


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700年近く前、わずか数ヶ月間わが国の首都となった賀名生の里。

いまは熊野路の隠れ郷といった雰囲気の静かな里です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-22 11:35 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その145 「後醍醐天皇陵」 奈良県吉野郡吉野町

前稿で紹介した如意輪寺本堂の裏山に、後醍醐天皇陵があります。

この長い階段の上です。


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吉野山に自ら主宰する朝廷を開くも、日夜、京都に戻る日を夢見ていた後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)でしたが、しかし、天下の形勢は天皇に利あらず、さらには、そば近くに仕えていた吉田定房坊門清忠などの重臣が次々とこの世を去り、延元4年(1339年)8月9日、ついにに伏します。


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自らの余命幾許もないことを悟った後醍醐天皇は、8月15日、宗信法印を呼んで吉野朝の重臣たちを枕頭に集めさせ、わずか12歳義良親王攘夷する旨を告げ、諸国に最後の綸旨を発します。


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『太平記』巻二十一の「先帝崩御事」では、後醍醐天皇の遺言を次のように伝えます。


「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、是如来の金言にして、平生朕が心に有し事なれば、秦穆公が三良を埋み、始皇帝の宝玉を随へし事、一も朕が心に取ず。只生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵を悉亡して、四海を令泰平と思計也。朕則早世の後は、第七の宮を天子の位に即奉て、賢士忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として天下を鎮べし。思之故に、玉骨は縦南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ。若命を背義を軽ぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非じ。」


現代文に読み下すと、

「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者(妻子や財宝、王位などは、死ぬときには全て置いていくものである)と言う言葉は釈迦如来の金言であり、常に私が心がけていることなので、秦国の穆公が三人の優秀な臣下を殉死させたことや、秦の始皇帝が死に望んで宝石などを来世に持って行こうとしたことなど、私には何ひとつ興味がない。ただ、この世に残す妄念は、朝敵を全て滅ぼし、天下を泰平の世にしたいう思いのみである。わが亡きあとは、すぐに第七の宮(義良親王)を天子の位に就かせ、忠臣賢臣らと相談の上、新田義貞や脇屋義助の忠義ある功績を賞し、その子孫に不義な行いがなければ、信頼できる朝臣として重用し、天下の鎮静をはからせるよう。私の骨はたとえ吉野山の苔に埋もれてしまっても、魂魄は常に北の空、都の空を望んでいる。もし私の命に背き大義を軽んずるようであれば、天皇であっても天皇ではなく、朝臣も忠義ある朝臣ではない」


凄まじい限りの執念ですね。

そして翌8月16日丑の刻(午前2時)、ついに波乱に富んだ生涯を閉じられます。

御齢52歳。

右手に剣を、左手に法華経5巻を持たれての崩御でした。

辞世の句

「身はたとえ 南山の苔に埋るとも 魂魄は常に 北闕の天を望まんと思う」


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後醍醐天皇の御遺骸はその形を改めず、ここ如意輪堂の裏山に葬られ、それも、わざわざ北向きに陵が築かれました。

これも、天皇の遺言にそったものだったと言われます。


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後醍醐天皇崩御から700年近い年月を経たいまも、ここ御陵の前に立つと、その無念の叫びが聞こえてくる気がします。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-19 22:52 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その143 「勝手神社跡」 奈良県吉野郡吉野町

南北に細長い吉野山のちょうど中央あたりにある、勝手神社跡を訪れました。

ここは吉野八社明神のひとつで、大山祇神、木花咲耶姫など六柱の神を祭神としています。


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吉野大峯の山々を鎮める信仰があり、吉野山口神社ともいいます。

また、仏法守護の神、軍神としても有名です。


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ただ、ここの社殿は、平成13年(2001年)9月27日、不審火により焼失してしまったそうで、いまは礎石を残すのみとなっていました。

ひどいことするやつがいたものです。


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正平3年/貞和4年(1348年)1月28日、足利方高師直の大軍は、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の吉野皇居を攻め、金峯山寺蔵王堂をはじめとする吉野山の主な堂塔伽藍を焼き払いました。


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後村上天皇はその難を避けて、さらに吉野の奥に落ち延びますが、その途中、この社前で馬を下り、


「たのむかひ 無きにつけても誓ひてし 勝手の神の名こそ惜しけれ」


と、詠まれたそうです。

天皇の無念の様子がうかがえる逸話ですが、火の海と化した吉野の山中で、悠長に歌を詠まれる余裕などあったのかどうか・・・。

無粋なことをいうようですが。


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社殿の創建は不明で、慶長9年(1604年)に豊臣秀頼が改築をしましたが、正保元年(1644年)12月に焼失したため、翌年に再建、明和4年(1767年)に再び火災に遭い、9年後の安永5年(1776年)4月に再建されました。

しかし、先述したとおり、平成13年(2001年)に不審火によって焼失し、現在に至ります。

日本の木造建造物は、火災との戦いの歴史です。


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敷地内には、再建復興御寄付のお願いと書かれた看板が立てられていました。

一日も早く再建できるよう願います。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-17 23:53 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)