京都を発って1ヶ月半ほど経った11月末、募金活動のため訪れていた群馬県前橋にて、襄はとつぜん腹痛を訴えます。医師の診断は胃腸カタル。襄はいったん東京にもどって療養しますが、病状はいっこういに回復の兆しが見えず、事態を重く観た徳富蘇峰が温暖の地への転地療養を勧め、12月末、神奈川県大磯の百足屋(むかでや)旅館のはなれに移ります。ここが、襄の終焉の地となります。
年が明けた明治23年(1890年)1月11日、再び激しい腹痛が襄を襲います。それでも襄は、モルヒネ注射を打ちながら各方面に手紙を書き続けていたそうですが、17日付の手紙が絶筆となります。18日朝に容態が急変。医師の診断は急性腹膜炎でした。翌19日には、八重のもとに病状急変の電報が届きます。知らせを受けた八重はすぐさま大磯へ向かい、20日夜遅く百足屋旅館に到着します。八重に電報が打たれたことを知っていた襄は、三ヶ月ぶりに再会した八重の顔を見てこう言ったといいます。
「今日ほど1日が長かったことはない」と。
この言葉を、八重は終生忘れませんでした。
八重が到着して間もなく、自らの死を悟った襄は、八重と小崎弘道(襄の死後、同志社の二代目総長となる人物)の立会のもと、遺言を告げ始めます。筆記したのは徳富蘇峰でした。その内容は、同志社における教育の目的が主で、実に30枚にも及ぶものだったそうです。この他にも、伊藤博文や勝海舟、大隈重信など個人にあてた遺書が残されているそうですから、襄の筆まめぶりは死ぬ間際まで続いていたようですね。
そうして伝えるべきことをすべて伝えたあと、1月23日午後2時20分、襄は46年と11ヶ月の生涯を終えます。八重への最後の言葉としては、本話のタイトルとなっている「グッバイ、また会わん」という言葉が伝えられています。また、「わたしの死後、記念碑は建てないでほしい。1本の木の柱に“新島襄の墓”と書けば充分だ」とも告げたとか。46歳11ヶ月といえば、いまの私とまったく同じ歳。決して長いとは言えない生涯ですね。最後の瞬間を八重の左手を枕に迎えられたことが、せめてもの慰みだったでしょうか。
臨終の場に立ち会った蘇峰は、八重の手をとって、こう告げたそうです。
「私は同志社以来、貴女に対しては寔(まこと)に済まなかった。併(しか)し新島先生が既に逝かれたからには、今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て、私に交(つきあ)つて下さい。」
かつて八重のことを“鵺”と揶揄し、師の妻としての八重の言動を好ましく思っていなかった蘇峰でしたが、今後は八重を先生同様に思うから、何事も自分を頼ってくれとの言葉。蘇峰はその言葉を終生守り続けます。その後八重は、襄の墓碑に揮毫してくれるよう勝海舟に依頼しますが、その仲立ちとなったのは蘇峰であり、また後年、八重自身の墓碑銘は、蘇峰の筆によるものでした。襄が八重のために残したいちばんの財産は、八重の後半生の最も良き理解者となった蘇峰だったかもしれませんね。
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▲ by sakanoueno-kumo | 2013-12-02 15:57 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)