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天下布武の象徴、安土城攻城記。 その4 <伝徳川家康邸跡~大手道~七曲り>

「その3」の続きです。

大手道にもどります。


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ようやく太陽が照ってきたので、もう一度大手道石段の写真です。


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前稿で紹介した「伝羽柴秀吉邸址」上の段の虎口から大手道を挟んで斜め向かい側(東側)に、現在の摠見寺仮本堂があるのですが、観光パンフレットの説明によると、ここは「伝徳川家康邸址」となっています。

いやいやいやいや、それはいくらなんでも、ないっしょ!

徳川家康織田信長の家臣だったように思っている人もいるかもしれませんが、あくまで同盟関係であって主従関係ではありません。

まあ、同盟関係といってもパワーバランスが歴然とした関係ではありましたが。

いわば現在の日本とアメリカのようなもので・・・。

どちらが日本でどちらがアメリカかは、あえて言いませんが。


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この日は摠見寺の公開日ではなかったので、境内の写真は門扉からのみ。

パンフレットによると、元の摠見寺はこの少し西にありましたが、嘉永7年(1864年)の火災焼失し、その後、昭和7年(1832年)にここ伝徳川家康邸址に建てられて現在に至るそうです。

でも、しつこいようですが、家康と信長は主従関係ではなく、本能寺の変の直前に初めて安土城に招かれ、その饗応役だった明智光秀の料理に怒った信長が光秀を足蹴にしたため、それが本能寺の変の引き金なった(かもしれない)という逸話は有名ですよね。

そんな家康の邸がここにあったはずがありません。

「その2」「その3」の前田利家羽柴秀吉の邸跡も眉唾ものですが、さすがに家康は無理がありすぎるんじゃないでしょうか。

どうせなら、いわゆる織田四天王と言われた柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の邸跡と言われたほうが、まだ想像できたかもしれません。


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さて、気を取り直して大手道を進みます。

約180mの直線の石段を登りきると、大手道は左カーブになっています。


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そのあとも、道はジグザグに屈曲しながら続いています。


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後ろを振り返ると、麓に田畑が広がっています。

往時は、あそこは琵琶湖の入江でした。


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「右、天守、本丸跡」と刻まれた石碑が。


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ジグザグの石段に、何かの説明板が埋まっています。


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どうやら石仏の転用石のようです。


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その説明板。


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わかりづらいですが、たしかに石仏のようです。

銘板の横には賽銭入れのサントリーウイスキーの灰皿が。

まったく同じ灰皿が、昔、我が家にもありました(笑)。

たしか、学生時代、どこかの喫茶店から拝借してきた思い出が・・・。

もう時効ですよね(苦笑)?


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石仏の転用石は、他にも各所で見られました。

墓石石仏地蔵などを石垣に転用している例は他の城郭でもよく見られることで、珍しいことではありません。

ただ、石垣ではなく石段に転用するというのは、あまり気持ちのいいものではなかったのではないでしょうか?

足で踏むわけですからね。


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ジグザグの石段はさらに続きます。

縄張り図によると、このあたりの石段を七曲りと呼んでいるようです。

本当に7回曲がったかは数えていません。


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このあたりは山腹部分で、傾斜が最も急なところです。


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まだまだ登城道は続きますが、今回はこのあたりで。

「その5」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-01-30 23:28 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

国宝・彦根城を歩く。 その7 <大手門~山崎曲輪>

「その6」のつづきです。

今回は内堀の西側を南から北に向かって歩きます。


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南側の内堀です。

彦根城の石垣の特徴的な見どころのひとつで、土手の上部に鉢巻石垣、土手の下部に腰巻石垣が築かれています。


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向こうに見えるのは大手門に渡る木橋

「その1」で紹介した南東の表御門に架かる橋から、南西の大手門までの間の内堀の内側に、この鉢巻石垣と腰巻石垣が築かれています。

なぜこのような石垣を築いたかは、はっきりした理由はわからないそうです。


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大手門橋です。


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この橋を渡ると大手門です。


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橋から見た北側の石垣。

高石垣の下に犬走りがあります。


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橋を渡ると枡形虎口になっています。


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櫓台跡と見られるでっかい石垣台があります。

たぶん、ここに枡形の一ノ門があったのでしょう。


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大手門といえば、通常は城の正面玄関にあたりますが、彦根城にはもうひとつ、「その1」で紹介した表御門があります。

どちらが正面玄関かというと、もともとは大坂城の方角にあたる南西に大手門が築かれたそうですが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣豊臣家が滅亡すると、江戸城の方角にあたる表御門が実質の正面玄関になったのだとか。

でも、裏を返していえば、それまでは豊臣家に敬意を払っていたということになります。

本当でしょうか?


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ここが二ノ門跡です。


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横を見上げると、彦根城の特徴のひとつ、登り石垣があります。


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このまま山上には登らず、内堀に沿って北に向かいます。


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このあたりに米蔵があったそうです。


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内堀に出る水門です。


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内堀北西部まで来ました。


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ここにも登り石垣があります。

この登り石垣を上ると、「その5」で紹介した西の丸三重櫓の下の堀切に続いています。


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北側の土塁に上って内堀を見下ろします。

遠く向こうに見える高石垣は、最北端の山崎曲輪です。


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行ってみましょう。


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山崎曲輪に入る手前に山崎御門跡があります。


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北側の内堀に面した門ですが、現在は橋も架かっておらず、冠木門も塞がれて使用されていません。


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そして山崎曲輪です。


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山崎曲輪は彦根城最北端に構えられた郭で、往時は琵琶湖の内湖に突き出していたそうです。


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ここに家老の木俣土佐守守勝の屋敷があったといわれます。

木俣守勝は、井伊直政佐和山城に入る前に居城としていた高崎城城代家老を勤めていた人物でした。

元々は徳川家康の直臣で、一時は出奔して明智光秀に支えたときもありました。

本能寺の変のあとで織田信長の領地だった甲斐を占領した家康は、信長によって滅ぼされた武田家の家臣団を集めて井伊家に託します。

この時、守勝を武田家臣団の大将とするように命じた家康が、守勝を直政に与力として預けました。

つまり、家老といえども、元は直政とおなじ家康の家臣で、元同僚だったわけです。


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直政の死後、家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、彦根城の築城を取り仕切ったのは守勝でした。

その意味では、彦根城の実質の築城主と言えるかもしれません。


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曲輪内には建物のあった名残と見られる石垣の遺構がたくさん残っています。


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西隅には三重櫓が築かれていましたが、明治のはじめに解体されたそうです。

彦根城には三階建ての建物が3棟あり、そのひとつは天守、もうひとつは西の丸三重櫓、そしてあとひとつがここ山崎曲輪にあった櫓だそうです。

その場所に木俣守勝の屋敷があったわけですから、やはり、よほどの特別待遇だったことがわかりますね。


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三重櫓台の上に上って、北側の内堀を見下ろします。


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こちらは、西側の内堀。


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向こうに見えるのは、山崎御門の外側にある長橋口跡

東の佐和口、南の京橋口、西の舟町口とともに彦根城の4つの門のひとつですが、現在は使われていません。

石垣が一部崩れているようです。


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内堀の外側から見た山崎曲輪の高石垣です。


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出隅は算木積みになっています。


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向こうに天守が見えます。


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さて、本稿もだいぶ長くなっちゃいました。

「その8」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-01-17 01:27 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その3 ~大書院~

「その2」の続きです。

篠山城二ノ丸にあった建物のなかで、ひとつだけ平成12年(2000年)に復元された大書院です。


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写真は南側から見た大書院。


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篠山城大書院は木造住宅建築としては非常に規模が大きく、現存する同様の建物の中では、世界遺産に指定されている京都二条城二の丸御殿遠侍に匹敵する建物だそうです。

たしかに、見た感じも似てますよね(参照:大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その2 ~二ノ丸御殿・二ノ丸庭園)。


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二条城の御殿は徳川将軍が上洛したときの宿所となった第一級の建物ということから考えれば、ここ篠山城の大書院は、一大名の書院としては破格の規模の建物といえるかもしれません。


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大書院入口は北側にあります。

唐破風をつけた車寄となっています。


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大書院は慶長14年(1609年)の築城当時に建てられたと考えられ、その後、約260年間に渡って藩の公式行事などに使用されました。


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篠山城の初代城主は徳川家康に築城を命じられた松平康重

康重は駿河国三枚橋城主・松平康親の長男と言われますが、一説には、家康の落胤とも言われています。

康重は篠山藩政の基礎を固めましたが、その後、和泉国岸和田藩に移封となります。

その後、藤井松平家2代、形原松平家5代、青山家6代が歴代城主を務め、明治を迎えました。


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明治維新を経て廃藩置県後に建物の多くは取り壊されましたが、ただひとつ大書院だけが残され、小学校や女学校の校舎として、その後は公会堂などに利用されていたそうですが、昭和19年(1944年)1月6日の夜、火災によって焼失しました。


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その後、篠山城跡は未整備のままでしたが、保存を望む声が持ち上がり、昭和31年(1956年)に国の史跡に指定されると、それを機に石垣の修理や発掘調査が実施され、平成12年(2000年)3月にこの大書院が復元されるに至ります。


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大書院を復元するにあたっては、古絵図、古写真、発掘などの総合的な学術調査が実施され、その成果に基づいて設計と建築が行われ、総工費約12億円かけたそうです。

復元された建物は平屋建てで北(妻側)を建物正面とします。床面積は739.33㎡、棟高は12.88mあり、屋根は入母屋造 、柿葺きとなっています。


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また、建物内部には襖絵などに囲まれた8つの部屋があり、その周囲に広縁が、さらにその外側には落縁が一段低く設けられています。


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上の写真は上段の間です。

パンフレットの説明書きによると、上段の間は、最も格式の高い部屋であり、幅3.5間(6.9m)の大床、その左手に付書院、右手に違い棚、帳台構が設けられています。

こういった座敷を飾るしつらえが整うのは大書院が創建された慶長頃のことと考えられているそうです。

この上段の間には、往事の雰囲気を再現させるため、江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵を障壁画として転用しています。


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甲冑具足のレプリカが展示されています。


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構造模型です。


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さて、次稿では大書院を出て本丸を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-25 00:07 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波国篠山城跡を歩く。 その1 ~内堀~

兵庫県篠山市にある篠山城跡を訪れました。

篠山城は江戸幕府開府後に徳川家康が築いた城で、当時、篠山盆地は大阪や京都から山陰、山陽への街道が通る交通の要衝地でした。


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江戸幕府を開いた徳川家康は、慶長13年(1608年)に松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに、西国諸大名に対する抑えの拠点として新城の築城を命じました。

そして築かれたのが、ここ篠山城です。


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築城工事は西国15カ国20大名によって行われ、縄張り奉行を築城の名人で知られる藤堂高虎が、そして普請総奉行を同じく城づくりの名手として知られる池田輝政が務め、延べ8万人を動員して約半年という突貫工事で完成させたといいます。


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篠山城跡の見どころは何といっても高石垣

まずは内堀に沿って1周してみましょう。


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石垣は基本的に野面積みです。

関ヶ原の戦い後のこの時代は既に打込み接ぎの工法が主流となりつつあったと思うのですが、なぜか篠山城は古い工法の野面積みなんですね。

半年間の短期突貫工事だったからでしょうか?


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北西の出隅です。

算木積みの工法が用いられていますね。

「算木積み」とは石垣の出隅部分に用いられる技法で、長方体の石を交互に重ね合わせて積み上げられるため、強度が増します。


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内堀は、昭和の戦後に一度埋め立てられたそうで、その後、復元されたものだそうです。


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南西の出隅です。


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南側の石垣。


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上部に見える門は、二の丸へ通じる埋門

現在は通行禁止です。


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南東に見えるのは、天守台の高石垣。

高さは約17mあるそうです。

石垣下には、犬走りが見られます。

「犬走り」とは、石垣と堀の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分のことで、犬が通れるくらいの幅しかない道という意味合いから、そう呼ばれます。


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こちらは南東から見た天守台石垣。


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出隅は算木積みになっていますね。


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こちらは、北東の石垣です。

ここにも犬走りがあります。

こちらは草が刈られてきれいに整備されています。


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とにかく石垣が見事です。


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表門横の櫓台石垣です。


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櫓台の説明板。


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北側の北廊下門にやってきました。

ここが三ノ丸から二ノ丸に続く大手筋になります。


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土橋前には昭和31年(1956年)に建てられた石碑があります。


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その横には案内板が。


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さて、土橋を渡って二ノ丸へ・・・と言いたいところですが、長くなっちゃったので、続きは「その2」にて。




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by sakanoueno-kumo | 2019-12-22 00:36 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

越前松平家の福井城跡を歩く。 その2 ~結城秀康~

「その1」の続きです。

福井城本丸跡に建つ県庁庁舎ビルの前には、初代福井藩主の結城秀康の像があります。

結城秀康は徳川家康の次男で、「関ケ原の戦い」の翌年にあたる慶長6年(1601年)に越前68万石を与えられ入国し、慶長11年(1606年)にここ福井城を築城しました。

この騎馬石像は、平成14年(2002年)4月に秀康の入国400年を記念して、3,800万円かけて建立されたものだそうで、ひとつの石で仕上げられています。

ただ、その製作費ほどの価値を感じないというか・・・。

以前の拙稿で紹介した三木城※参照)や法界寺別所家霊廟※参照)にある別所長治像と同じ匂いがします。

三国志の騎馬武者って感じが・・・。


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甲冑に身を固めた勇ましい騎馬像ですが、実は、秀康はその生涯で一度もこのような姿で勇猛果敢に戦ったことがありません。

その理由は、秀康に武者としての能力がなかったわけではなく、その生い立ちにありました。


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秀康の生母・於万の方(長勝院)は、家康の正室・築山殿侍女だった女性で、家康は於万の懐妊を知ると、築山殿の嫉妬を恐れて他家に避難させて出産させます。

そこで生まれた秀康を家康はなぜか疎んじ、3歳になるまで対面しなかったといいます。

その後、織田信長の命によって築山殿は暗殺され、長男の信康切腹に追いやられると、普通なら次男の秀康が後継ぎになるはずが、家康は三男の秀忠を嫡子とします。

家康が秀康を疎んじた理由は諸説ありますが、正確なことはわかっていません。


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その後、豊臣秀吉の時代になると、家康は秀康を豊臣家に人質として送ります。

実子のいなかった秀吉は、秀康をわが子のように可愛がったといいます。

「秀康」という名は、秀吉の「秀」と家康の「康」から名付けられたものですね。

その名の通り、秀康は徳川家と豊臣家の架け橋になろうとしていました。

なるはずでした。

ところが、秀吉に実子・鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松をわずか生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名し、そのため、秀康は他の秀吉の養子同様に、他家へ養子に出されることとなります。

それが、下総国の名家・結城氏でした。

ここに、結城秀康の名が誕生します。


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結城家当主として関東に下った秀康を、家康は丁重に扱いました。

しかし、秀吉の死後も家康は秀康を戦地に送ろうとはせず、関ヶ原の戦いの際にも留守居を命じました。

その理由は、嫡子・秀忠以上の働きをされては困るからだったと考えられます。

そして戦後、秀康は越前北ノ庄67万石に加増、移封されました。

一見、一族としての優遇にも見えますが、しかし、仮に秀康がその気になったとしても、徳川幕府を倒せるほどの身上でもない。

しかも、当時の越前国は雪深く、ひとたび冬になれば身動きがとれません。

家康は、加増という名目で秀康を雪国に閉じ込めたんですね。


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秀康は、ここ福井城が落成した翌年の慶長12年(1607年)に死去します。

死因は梅毒だったともいわれますが、詳しくはわかっていません。

秀康の武将としての器量は一流だったといわれ、剛毅で体躯も良く、天下人たる資質を十分に備えていたと伝わりますが、ついにその短い人生において何ら偉業を達成することなくその不遇の生涯を終えました。

秀康は父の家康より秀吉を慕っていたといいます。

一説には、秀康はその死の直前、嫡子・忠直に対して、「もし、徳川が秀頼様を害するようなことあらば、必ず秀頼様のお味方をしろ」遺言した、なんて逸話もあるくらいです。

しかし、忠直は父の遺言を守らず、徳川方に属して大阪城を攻めました。

そのおかげで、福井藩松平家は明治維新までの約270年間17代にわたって、徳川家の親藩として継続することになります。

でも、もし秀康が大坂の陣まで生きていたら・・・あるいは、この騎馬像のような勇姿を、豊臣方武将として見られたかもしれません。

なんて、想像たくなっちゃうのは、わたしだけでしょうか?


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今回は秀康像だけで終わっちゃいました。

福井城シリーズは、「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-28 00:11 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

越前松平家の福井城跡を歩く。 その1 ~内堀、石垣~

過日、福井県を訪れた際に福井城跡に立ち寄りました。

福井城は、徳川家康の二男で初代福井藩主となった結城秀康が慶長11年(1606年)に築城し、約270年間17代にわたって越前松平家の居城となった城ですが、現在は石垣の一部だけが残っているだけで、その跡地には福井県庁の庁舎、県会議事堂県警察本部などがあります。


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写真は南東の堀と巽櫓跡の石垣です。

現在残っている堀は内堀で、県庁などのある石垣の内側は本丸跡

二ノ丸、三ノ丸は都市化されており、その遺構を見ることはできません。


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こちらは北東艮櫓跡の石垣。

内堀の幅の広さに、かつての福井城がいかに巨大な城であったかがうかがえます。


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こちらは北西天守台跡の石垣。


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福井城の石垣は横のラインが通った「布積み」と呼ばれる「切込接ぎ」の工法で、これは当時、第1級の城だった二条城江戸城などと同じ積み方です。


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さらに福井城の石垣の特徴としては、すべて足羽山の笏谷石という同じ石が使われていることで、石が小さく、運びやすく加工しやすい「切り石」ばかりが使用されているそうです。


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内堀西側山里口御門には、屋根付きの橋・御廊下橋が復元工事中でした。


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現地説明板によると、福井城本丸内には政庁と藩主の居住部分を合わせた床面積1千坪を超える御殿がありましたが、歴代藩主のうち、昌親(吉品)、重冨、治好、慶永(春獄)、茂昭の5人は、西三の丸御座所に居住していたとされ、藩主が政庁であった本丸と西三の丸御座所とを往復するための専用の橋が、この御廊下橋だったそうです。


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現在行われている復元工事は、明治初期に撮影された写真を元に忠実に再現されているそうです。


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その御廊下橋から内堀にそって南下した隅の坤櫓跡の石垣。


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坤櫓跡から東を見ると、本丸南面の内堀に架かる御本城橋が見えます。


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こちらがその御本城橋。

福井城大手門にあたります。


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内堀外周を1周したところで、御本城橋を渡って本丸跡に入ります。


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御本城橋を渡ったところの左には御門跡、右には瓦御門跡の石垣があります。

当時は枡形門の構造になっていましたが、現在は石垣が取り壊されています。


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門を入ると、本丸跡中央に県庁の庁舎が聳えます。

県庁がかつての城跡にある県は他にもたくさんあります。

戦国時代と違って江戸時代のお城は、言ってみれば各藩の政庁だったわけで、明治になって「藩」「県」になっても、行政の機能をそのまま引き継いで県庁になったわけですね。


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さっき通った瓦御門跡の石垣の上は、散策路となっていました。

せっかくなので登ってみることに。


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登り口にある説明板です。


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石垣の上は桜並木になっています。

ここを訪れたのは平成29年(2017年)5月21日だったのですが、桜の季節だったら綺麗だったでしょうね。


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で、こちらが瓦御門の石垣の上。

かつてはここに櫓があったわけです。


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石垣上から内堀を見下ろします。


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瓦御門裏手には、雁木が残っています。

雁木とは石垣や土塁に昇降するために付設された石階段のことで、近代城郭ではよく見られる遺構ですね。


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さて、長くなっちゃったので、「その2」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-26 23:59 | 福井の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その5 「三ノ丸~二の丸」

「その4」の続きです。

皇居外苑から北上し、大手門に向かいます。


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慶長8年(1603年)に徳川家康が幕府を開くと、天下普請と称して全国の諸大名に散財させ、大坂城に負けない豪壮な城の拡張に着手し、やがてその事業は2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光に引き継がれ、寛永13年(1636年)に内外郭合わせてほぼ全容を完成させました。

現在、江戸城の中心部にあたる本丸、二の丸、三の丸の一部は、皇居東御苑として一般公開されています。


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大手門から東御苑に入ります。

入城は無料ですが、入口で警官に持ち物検査をされます。

皇居ですからね、仕方がないでしょう。


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大手門は枡形になっており、一ノ門である高麗門をくぐると、左手に雁木、右手に二ノ門渡櫓門があります。

往時の門は空襲で焼失し、現在の門は昭和42年(1967年)の復元です。


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しばらく歩くと大手三の門があります。

かつては門の前に堀があって三の丸と二の丸を分けていたそうです。

現在は石垣だけが残っていますが、往時はこの上にがありました。

江戸時代は、御三家以外の大名はここで駕籠を降りなければならなかったため、「下乗」の高札が立てられていたそうで、家臣たちはここで待っている間、他家の家臣と情報交換をしていたため、「下馬評」という言葉が生まれたといわれているそうです。

へぇ~!・・・ですね。


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大手三の門を通って二ノ丸に入ると、同人番所があります。

番所とは警備のための詰所で、ここは主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視に当たっていました。

いまは二ノ丸側に移設されていますが、かつては大手三の門の外側、すなわち三の丸側にあったそうです。


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同人番所を通過すると、下乗門(三の御門)があります。

現在はその渡櫓門の台座石垣が残されています。


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下乗門を進むと広い空間があり、江戸城最大の番所、百人番所があります。

間口50mもある長大な建物で、ここに詰めていたのは、与力20騎同心100人で、鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で勤務していたそうです。


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たしかに、100人は余裕で入れそうです。


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そして百人番所を過ぎると、中之門があります。

ここは、二の丸から本丸に向かう玄関口です。

現在は渡櫓門の台座石垣のみが残されています。


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そして中之門を入ると、大番所があります。

本丸へ向かう道中の最後の番所なので、同人番所や百人番所よりも位の高い与力が詰めていました。


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ここからは本丸に向かう坂道です。


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そして、ここが本丸への最後の門である中雀門です。

中雀門は別名、御書院門とも呼ばれ、この門を出ると本丸御殿玄関に出ます。

かつては、多門櫓二重櫓に取り囲まれた厳重な門だったそうですが、文久3年(1863年)の火災で類焼してしまいました。


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石垣の表面が傷んでいるのは、そのときの火災によるものだそうです。


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本丸に入る前に、本丸に向かう別ルートを歩きます。


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大手三の門の北側にある二の丸庭園と本丸を結ぶ汐見坂です。

江戸築城初期のころは城のすぐ目の前までが迫っていたそうで、この坂から海を見渡せたため、汐見坂と呼ばれたそうです。


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汐見坂の南側に伸びる白鳥濠です。

ここの石垣は、打込接ですね。


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さて、二の丸はだいたい歩いて回ったので、「その6」では本丸を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-08 14:28 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その1 「和田倉門~巽櫓~桔梗門」

東京のド中心部にある天皇陛下のお住まい、皇居

江戸時代は徳川幕府の政庁・江戸城だったことは誰もが知るところだと思います。

ただ、そのすべてが皇居となっているわけではなく、皇居として使用されているのはかつての西の丸のみで、江戸城の中心部にあたる本丸、二の丸、三の丸の一部は、皇居東御苑として一般公開されています。

過日、東京を訪れた際、丸1日フリーの日が出来たので、じっくり時間をかけて江戸城を歩いてみました。


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皇居1周は約5kmで、都民のランニングコースとして親しまれていますが、実は、現在の皇居を囲う濠はかつての内濠で、徳川時代の江戸城の外郭は、西は四谷から東は浅草まで、北は水道橋から南は虎ノ門までありました。

面積にして約230万㎡、とてつもなく広い面積を誇る日本最大の城だったんですね。

幕府の政庁ですから、日本最大でなければならなかったのでしょう。


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江戸城の歴史は、長禄元年(1457年)に太田道灌が築城した居城に始まるといわれています。

その頃の江戸城はごく小さな城でした。

その後、豊臣秀吉より小田原北条氏の旧領を与えられた徳川家康が江戸に入り、荒廃していた道灌の城を改築して居城としますが、当時の徳川家は豊臣政権下の一大名に過ぎず、規模もそれほど大きくなく、家康の性格もあって質実剛健なつくりだったといいます。

慶長8年(1603年)に家康が幕府を開くと、天下普請と称して全国の諸大名に散財させ、大坂城に負けない豪壮な城の拡張に着手し、やがてその事業は2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光に引き継がれ、寛永13年(1636年)に内外郭合わせてほぼ全容を完成させました。

それが、皇居として現在に伝わる江戸城です。


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写真はJR東京駅から大手筋をまっすぐ西へ歩いたところにある和田倉門和田倉橋です。


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和田倉橋を渡ります。

この橋より内側は、大手門桔梗門(内桜田門)から入場する大名や武士が通行する橋で、一般人は通ることができませんでした。


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橋を渡ると、枡形虎口になっています。


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ここ訪れたのは平成30年(2018年)4月7日、ソメイヨシノはだいぶん散っていましたが、この桜は満開でした。

八重桜かな?


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桜の横に櫓台跡、向こうに聳えるのはパレスサイドホテル


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桜の向こうに櫓が見えます。


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こちらがその櫓。

「巽櫓」です。

別名「辰巳櫓」「桜田櫓」「桜田巽二重櫓」とも言います。

江戸城に現存する唯一の隅櫓です。


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かつて江戸城には多くの櫓がありましたが、現在残っているのは、西の丸の伏見櫓、本丸の富士見櫓、そして、ここ三の丸の巽櫓の3つだけです。

狭間石落としが備わっている実戦的な櫓です。

関東大震災で損壊したのち、解体して復元されたそうです。


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前の濠は、桔梗濠

濠の奥に見えるのが桔梗門で、その向こうに見える櫓は、本丸南の富士見櫓です。


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こちらが桔梗門です。

桔梗門は慶長19年(1614年)に造られたそうで、門名の由来は、最初に江戸城を築いた太田道灌の時代に、この近くに泊船亭があったと伝えられ、道灌の家紋の桔梗紋から付けられたといわれているそうです。

別名、「内桜田門橋」とも呼ばれています。


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こちらが本丸南の富士見櫓

富士見櫓は明暦の大火(1657年)で天守とともに焼失しましたが、その後、再建。

天守が再建されなかったため、富士見櫓が天守の代用として使用されたと言われています。

江戸時代、将軍がここから富士山や品川の海を眺めたと伝えられます。


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さすがに江戸城はデカイ!

次稿に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-30 00:11 | 東京の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その86 「二条城二の丸御殿」

二条城にやってきました。

現在に伝わる二条城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛時の宿所として慶長7年(1602年)から翌年にかけて造営されたものですが、幕末、ここ二条城の二の丸御殿において、大政奉還の宣言が行われました。


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ここを訪れたのは昨年の9月で、ちょうど「大政奉還150年周年記念プロジェクト」が行われており、東大手門前には金屏風風の看板が設置されていました。


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そして、こちらが大政奉還の表明の舞台となった二の丸御殿

国宝です。


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二ノ丸御殿は、将軍上洛の際の居館として、徳川家康によって慶長8年(1603年)に造営され、その後、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇行幸に備えて、第3代将軍・徳川家光の代に改造が行われ、現在の姿となりました。

御殿は全6棟の建物から成り、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として、日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日においては、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952年)に国宝に指定されました。


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正面右側のいちばん手前の建物が、「車寄」と言われる正面玄関です。

その後方の大きな屋根の棟が、「遠侍」と呼ばれる二ノ丸御殿最大の建物です。

そこから左奥へ、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院と連なります。


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残念ながら、建物内は撮影禁止です。

なので、庭園側から外観を撮影。


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こちらが「大広間」の建物。

「大広間」は将軍が諸大名と対面した部屋で、二の丸御殿の中でもっとも格式の高い部屋です。

慶応3年10月13日(1867年11月8日)、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は、ここ大広間に在京している10万石以上の大名家の重臣を召集し、政権を朝廷に返上する意志を表明しました。

集まったのは、尾張、紀州、彦根、讃岐高松、姫路、庄内、加賀、阿波、筑前福岡、仙台、鳥取、肥後熊本、米沢、越前福井、備前岡山、薩摩、土佐、芸州広島、宇和島、会津、新発田など、40藩50余名でした。


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そして、その翌日の10月14日(1867年11月9日)、慶喜は政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。

これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として164年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げます。


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写真はありませんが、大広間内には上段の間に座する将軍の前で、裃姿の重臣たちが平伏するイメージが人形によって再現されていました。


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二条城二の丸御殿は、もうひとつの有名な歴史的出来事として、慶長16年(1611年)に徳川家康豊臣秀頼と会見した場所でもあります。

時を超えていくつもの歴史を刻んだその舞台は、いまでは世界文化遺産として世界中の観光客で賑わっています。


二条城につては、昨年の拙稿で詳しくレポートしています。

よければ一読ください。

  ↓↓↓

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その1 ~外堀・城門~

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その2 ~二ノ丸御殿・二ノ丸庭園~

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その3 ~内堀~

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その4 ~本丸・天守台~


「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥




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   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-07-03 23:51 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第49話「本能寺が変」 ~本能寺の変~神君伊賀越え~

 「敵は本能寺にあり!」

 過去、大河ドラマにおいて数々の役者さんが発してきたこの台詞ですが、おそらく、明智光秀を演じられた役者さんは、みなさん、配役が決まったときからこの台詞をどのように吐くかを悩まれるんでしょうね。演出家さんや脚本家さんの意向とかもあるのでしょうが、光秀のいちばんの見せ場ですからね。この台詞を吐くために他の場面があると言っても過言ではないかもしれません。今回のそれは、躊躇している自身に言い聞かせるよう呟く、といった演出でしたね。このパターンは、はじめてなんじゃないでしょうか。


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 「敵は本能寺にあり!」という台詞がはじめて使われたのは、江戸時代中期の元禄初頭から15年(1688年~1702年)頃に書かれたといわれる明智光秀を主人公とした軍記物『明智軍記』からだそうです。作者は不明で、光秀の死後100年以上経ってから書かれたものということで、史料的価値は低いとされている作品ですが、この台詞に関しては、その後、「本能寺の変」を題材とした作品ではずっと使われてきた台詞で、もはや光秀の代名詞のような言葉となっています。実際には、どのような言葉を発したのかはわかりませんが、備中の羽柴秀吉の援軍として出陣した軍勢を、途中で進路を返して本能寺に向かわせたのは史実ですから、そこで、何らかの意思表示をしたのは確かでしょう。「これより本能寺に向かい、信長を討つ!」では普通だし、「敵は信長なり!」でも、イマイチ、パッとしません。やっぱ、「敵は本能寺にあり!」ですよね。その後300年以上、ずっと使われる台詞を書いた『明智軍記』の作者は、よほどのセンスの持ち主といえます。いまだったら、間違いなく流行語大賞ですね。

 徳川家康饗応役を解かれた光秀に代わって、織田信長自ら膳を運んでいましたが、これは、『信長公記』にも記されているエピソードで、史実とされています。でも、実際に信長に配膳されたら、ドラマのように家康たちは凍りついていたでしょうね。どれほど豪華な料理でも、味がわからなかったでしょう。

 今回の「本能寺の変」は、信長が家康とその重臣たちを安土城に招き、接待すると見せかけて殺してしまおうという計画を、事前に明智光秀が家康と今川氏真に情報を漏らし、逆にその機に乗じて信長を討とうという光秀の謀略で、しかし、光秀が想定外の備中援軍を申し付けられてしまったため、徳川一行が堺見物をしている最中、備中に向かう兵を返して本能寺で事に及んだという設定でした。まあ、「本能寺の変」に至る経緯は諸説ありますから、どのような描き方があってもいいと思いますが、今回の設定は、結局、よくわからないまま終わったという感じです。そもそも、信長は光秀がいうように、家康を殺すつもりだったのでしょうか?


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 家康に贈る茶道具を選んでいる信長の姿や、「殺気が感じられない」と言った家康の台詞などから、どうも、家康を殺すという計画は最初からなかったと見ていいんでしょうね。であれば、光秀はなんでそんなをついたのでしょう? 家康や氏真に計画を明かして味方に引き入れる、というわけでもなさそうでしたし、であれば、計画を明かす必要がないというか、むしろ、家康や氏真が信長に計画を漏らす危険だってあったわけで、そんなリスクを背負ってまで、ふたりに謀略を打ち明ける理由が見当たりません。光秀にとって、何の得もないですからね。結局、ドラマでも、徳川一行は光秀の計画を知っていたせいで必要以上にオロオロしただけで、光秀の謀略には何ら役に立ってないですからね。いったい光秀は何がしたかったのでしょう? どうも、消化不良な「本能寺の変」でした。


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 また、信長横死の報せを受けたあとの「神君伊賀越え」についてですが、これがなぜ家康の人生における一世一代の大ピンチだったかというと、信長と同盟関係にあった家康は光秀から見ればであり、もし、明智軍に遭遇すれば衝突は避けられず、かといって、弔い合戦が出来るような兵力を引き連れておらず、四面楚歌の状態に陥っていたからでした。しかし、今回のドラマでは、徳川一行は光秀から事前に信長討伐を知らされていたわけで、家康の心中はどうあれ、光秀はこの時点では家康のことを味方だと思っていたはず。何も知らない穴山梅雪さえ始末してしまえば、あとは険しい伊賀越えなんてせずに、大手を振って東海道を帰ればよかったのでは? それとも、光秀の計画は、信長もろとも家康も殺すつもりだったとか? う~ん・・・。イマイチ設定がよくわかりません。繰り返しますが、消化不良な「本能寺の変」でした。まさしく、その副題どおり「本能寺が変」でしたね。

 さて、次回は最終回ですね。井伊直虎が死んだのは、本能寺の変から約2ヶ月半後のことだったと言われています。でも、ドラマの直虎はピンピンしていて、そんな兆候は微塵にも感じられません。この感じでは、病死とかではなさそうですね。どんな最期に描かれるのか、楽しみにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-11 15:55 | おんな城主 直虎 | Trackback(1) | Comments(2)