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タグ:徳川家康 ( 84 ) タグの人気記事

 

越前松平家の福井城跡を歩く。 その2 ~結城秀康~

「その1」の続きです。

福井城本丸跡に建つ県庁庁舎ビルの前には、初代福井藩主の結城秀康の像があります。

結城秀康は徳川家康の次男で、「関ケ原の戦い」の翌年にあたる慶長6年(1601年)に越前68万石を与えられ入国し、慶長11年(1606年)にここ福井城を築城しました。

この騎馬石像は、平成14年(2002年)4月に秀康の入国400年を記念して、3,800万円かけて建立されたものだそうで、ひとつの石で仕上げられています。

ただ、その製作費ほどの価値を感じないというか・・・。

以前の拙稿で紹介した三木城※参照)や法界寺別所家霊廟※参照)にある別所長治像と同じ匂いがします。

三国志の騎馬武者って感じが・・・。


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甲冑に身を固めた勇ましい騎馬像ですが、実は、秀康はその生涯で一度もこのような姿で勇猛果敢に戦ったことがありません。

その理由は、秀康に武者としての能力がなかったわけではなく、その生い立ちにありました。


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秀康の生母・於万の方(長勝院)は、家康の正室・築山殿侍女だった女性で、家康は於万の懐妊を知ると、築山殿の嫉妬を恐れて他家に避難させて出産させます。

そこで生まれた秀康を家康はなぜか疎んじ、3歳になるまで対面しなかったといいます。

その後、織田信長の命によって築山殿は暗殺され、長男の信康切腹に追いやられると、普通なら次男の秀康が後継ぎになるはずが、家康は三男の秀忠を嫡子とします。

家康が秀康を疎んじた理由は諸説ありますが、正確なことはわかっていません。


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その後、豊臣秀吉の時代になると、家康は秀康を豊臣家に人質として送ります。

実子のいなかった秀吉は、秀康をわが子のように可愛がったといいます。

「秀康」という名は、秀吉の「秀」と家康の「康」から名付けられたものですね。

その名の通り、秀康は徳川家と豊臣家の架け橋になろうとしていました。

なるはずでした。

ところが、秀吉に実子・鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松をわずか生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名し、そのため、秀康は他の秀吉の養子同様に、他家へ養子に出されることとなります。

それが、下総国の名家・結城氏でした。

ここに、結城秀康の名が誕生します。


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結城家当主として関東に下った秀康を、家康は丁重に扱いました。

しかし、秀吉の死後も家康は秀康を戦地に送ろうとはせず、関ヶ原の戦いの際にも留守居を命じました。

その理由は、嫡子・秀忠以上の働きをされては困るからだったと考えられます。

そして戦後、秀康は越前北ノ庄67万石に加増、移封されました。

一見、一族としての優遇にも見えますが、しかし、仮に秀康がその気になったとしても、徳川幕府を倒せるほどの身上でもない。

しかも、当時の越前国は雪深く、ひとたび冬になれば身動きがとれません。

家康は、加増という名目で秀康を雪国に閉じ込めたんですね。


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秀康は、ここ福井城が落成した翌年の慶長12年(1607年)に死去します。

死因は梅毒だったともいわれますが、詳しくはわかっていません。

秀康の武将としての器量は一流だったといわれ、剛毅で体躯も良く、天下人たる資質を十分に備えていたと伝わりますが、ついにその短い人生において何ら偉業を達成することなくその不遇の生涯を終えました。

秀康は父の家康より秀吉を慕っていたといいます。

一説には、秀康はその死の直前、嫡子・忠直に対して、「もし、徳川が秀頼様を害するようなことあらば、必ず秀頼様のお味方をしろ」遺言した、なんて逸話もあるくらいです。

しかし、忠直は父の遺言を守らず、徳川方に属して大阪城を攻めました。

そのおかげで、福井藩松平家は明治維新までの約270年間17代にわたって、徳川家の親藩として継続することになります。

でも、もし秀康が大坂の陣まで生きていたら・・・あるいは、この騎馬像のような勇姿を、豊臣方武将として見られたかもしれません。

なんて、想像たくなっちゃうのは、わたしだけでしょうか?


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今回は秀康像だけで終わっちゃいました。

福井城シリーズは、「その3」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-28 00:11 | 福井の史跡・観光 | Comments(0)  

越前松平家の福井城跡を歩く。 その1 ~内堀、石垣~

過日、福井県を訪れた際に福井城跡に立ち寄りました。

福井城は、徳川家康の二男で初代福井藩主となった結城秀康が慶長11年(1606年)に築城し、約270年間17代にわたって越前松平家の居城となった城ですが、現在は石垣の一部だけが残っているだけで、その跡地には福井県庁の庁舎、県会議事堂県警察本部などがあります。


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写真は南東の堀と巽櫓跡の石垣です。

現在残っている堀は内堀で、県庁などのある石垣の内側は本丸跡

二ノ丸、三ノ丸は都市化されており、その遺構を見ることはできません。


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こちらは北東艮櫓跡の石垣。

内堀の幅の広さに、かつての福井城がいかに巨大な城であったかがうかがえます。


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こちらは北西天守台跡の石垣。


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福井城の石垣は横のラインが通った「布積み」と呼ばれる「切込接ぎ」の工法で、これは当時、第1級の城だった二条城江戸城などと同じ積み方です。


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さらに福井城の石垣の特徴としては、すべて足羽山の笏谷石という同じ石が使われていることで、石が小さく、運びやすく加工しやすい「切り石」ばかりが使用されているそうです。


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内堀西側山里口御門には、屋根付きの橋・御廊下橋が復元工事中でした。


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現地説明板によると、福井城本丸内には政庁と藩主の居住部分を合わせた床面積1千坪を超える御殿がありましたが、歴代藩主のうち、昌親(吉品)、重冨、治好、慶永(春獄)、茂昭の5人は、西三の丸御座所に居住していたとされ、藩主が政庁であった本丸と西三の丸御座所とを往復するための専用の橋が、この御廊下橋だったそうです。


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現在行われている復元工事は、明治初期に撮影された写真を元に忠実に再現されているそうです。


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その御廊下橋から内堀にそって南下した隅の坤櫓跡の石垣。


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坤櫓跡から東を見ると、本丸南面の内堀に架かる御本城橋が見えます。


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こちらがその御本城橋。

福井城大手門にあたります。


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内堀外周を1周したところで、御本城橋を渡って本丸跡に入ります。


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御本城橋を渡ったところの左には御門跡、右には瓦御門跡の石垣があります。

当時は枡形門の構造になっていましたが、現在は石垣が取り壊されています。


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門を入ると、本丸跡中央に県庁の庁舎が聳えます。

県庁がかつての城跡にある県は他にもたくさんあります。

戦国時代と違って江戸時代のお城は、言ってみれば各藩の政庁だったわけで、明治になって「藩」「県」になっても、行政の機能をそのまま引き継いで県庁になったわけですね。


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さっき通った瓦御門跡の石垣の上は、散策路となっていました。

せっかくなので登ってみることに。


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登り口にある説明板です。


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石垣の上は桜並木になっています。

ここを訪れたのは平成29年(2017年)5月21日だったのですが、桜の季節だったら綺麗だったでしょうね。


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で、こちらが瓦御門の石垣の上。

かつてはここに櫓があったわけです。


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石垣上から内堀を見下ろします。


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瓦御門裏手には、雁木が残っています。

雁木とは石垣や土塁に昇降するために付設された石階段のことで、近代城郭ではよく見られる遺構ですね。


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さて、長くなっちゃったので、「その2」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-26 23:59 | 福井の史跡・観光 | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その5 「三ノ丸~二の丸」

「その4」の続きです。

皇居外苑から北上し、大手門に向かいます。


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慶長8年(1603年)に徳川家康が幕府を開くと、天下普請と称して全国の諸大名に散財させ、大坂城に負けない豪壮な城の拡張に着手し、やがてその事業は2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光に引き継がれ、寛永13年(1636年)に内外郭合わせてほぼ全容を完成させました。

現在、江戸城の中心部にあたる本丸、二の丸、三の丸の一部は、皇居東御苑として一般公開されています。


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大手門から東御苑に入ります。

入城は無料ですが、入口で警官に持ち物検査をされます。

皇居ですからね、仕方がないでしょう。


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大手門は枡形になっており、一ノ門である高麗門をくぐると、左手に雁木、右手に二ノ門渡櫓門があります。

往時の門は空襲で焼失し、現在の門は昭和42年(1967年)の復元です。


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しばらく歩くと大手三の門があります。

かつては門の前に堀があって三の丸と二の丸を分けていたそうです。

現在は石垣だけが残っていますが、往時はこの上にがありました。

江戸時代は、御三家以外の大名はここで駕籠を降りなければならなかったため、「下乗」の高札が立てられていたそうで、家臣たちはここで待っている間、他家の家臣と情報交換をしていたため、「下馬評」という言葉が生まれたといわれているそうです。

へぇ~!・・・ですね。


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大手三の門を通って二ノ丸に入ると、同人番所があります。

番所とは警備のための詰所で、ここは主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視に当たっていました。

いまは二ノ丸側に移設されていますが、かつては大手三の門の外側、すなわち三の丸側にあったそうです。


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同人番所を通過すると、下乗門(三の御門)があります。

現在はその渡櫓門の台座石垣が残されています。


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下乗門を進むと広い空間があり、江戸城最大の番所、百人番所があります。

間口50mもある長大な建物で、ここに詰めていたのは、与力20騎同心100人で、鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で勤務していたそうです。


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たしかに、100人は余裕で入れそうです。


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そして百人番所を過ぎると、中之門があります。

ここは、二の丸から本丸に向かう玄関口です。

現在は渡櫓門の台座石垣のみが残されています。


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そして中之門を入ると、大番所があります。

本丸へ向かう道中の最後の番所なので、同人番所や百人番所よりも位の高い与力が詰めていました。


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ここからは本丸に向かう坂道です。


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そして、ここが本丸への最後の門である中雀門です。

中雀門は別名、御書院門とも呼ばれ、この門を出ると本丸御殿玄関に出ます。

かつては、多門櫓二重櫓に取り囲まれた厳重な門だったそうですが、文久3年(1863年)の火災で類焼してしまいました。


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石垣の表面が傷んでいるのは、そのときの火災によるものだそうです。


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本丸に入る前に、本丸に向かう別ルートを歩きます。


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大手三の門の北側にある二の丸庭園と本丸を結ぶ汐見坂です。

江戸築城初期のころは城のすぐ目の前までが迫っていたそうで、この坂から海を見渡せたため、汐見坂と呼ばれたそうです。


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汐見坂の南側に伸びる白鳥濠です。

ここの石垣は、打込接ですね。


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さて、二の丸はだいたい歩いて回ったので、「その6」では本丸を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-12-08 14:28 | 東京の史跡・観光 | Comments(0)  

江戸城を歩く。 その1 「和田倉門~巽櫓~桔梗門」

東京のド中心部にある天皇陛下のお住まい、皇居

江戸時代は徳川幕府の政庁・江戸城だったことは誰もが知るところだと思います。

ただ、そのすべてが皇居となっているわけではなく、皇居として使用されているのはかつての西の丸のみで、江戸城の中心部にあたる本丸、二の丸、三の丸の一部は、皇居東御苑として一般公開されています。

過日、東京を訪れた際、丸1日フリーの日が出来たので、じっくり時間をかけて江戸城を歩いてみました。


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皇居1周は約5kmで、都民のランニングコースとして親しまれていますが、実は、現在の皇居を囲う濠はかつての内濠で、徳川時代の江戸城の外郭は、西は四谷から東は浅草まで、北は水道橋から南は虎ノ門までありました。

面積にして約230万㎡、とてつもなく広い面積を誇る日本最大の城だったんですね。

幕府の政庁ですから、日本最大でなければならなかったのでしょう。


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江戸城の歴史は、長禄元年(1457年)に太田道灌が築城した居城に始まるといわれています。

その頃の江戸城はごく小さな城でした。

その後、豊臣秀吉より小田原北条氏の旧領を与えられた徳川家康が江戸に入り、荒廃していた道灌の城を改築して居城としますが、当時の徳川家は豊臣政権下の一大名に過ぎず、規模もそれほど大きくなく、家康の性格もあって質実剛健なつくりだったといいます。

慶長8年(1603年)に家康が幕府を開くと、天下普請と称して全国の諸大名に散財させ、大坂城に負けない豪壮な城の拡張に着手し、やがてその事業は2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光に引き継がれ、寛永13年(1636年)に内外郭合わせてほぼ全容を完成させました。

それが、皇居として現在に伝わる江戸城です。


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写真はJR東京駅から大手筋をまっすぐ西へ歩いたところにある和田倉門和田倉橋です。


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和田倉橋を渡ります。

この橋より内側は、大手門桔梗門(内桜田門)から入場する大名や武士が通行する橋で、一般人は通ることができませんでした。


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橋を渡ると、枡形虎口になっています。


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ここ訪れたのは平成30年(2018年)4月7日、ソメイヨシノはだいぶん散っていましたが、この桜は満開でした。

八重桜かな?


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桜の横に櫓台跡、向こうに聳えるのはパレスサイドホテル


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桜の向こうに櫓が見えます。


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こちらがその櫓。

「巽櫓」です。

別名「辰巳櫓」「桜田櫓」「桜田巽二重櫓」とも言います。

江戸城に現存する唯一の隅櫓です。


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かつて江戸城には多くの櫓がありましたが、現在残っているのは、西の丸の伏見櫓、本丸の富士見櫓、そして、ここ三の丸の巽櫓の3つだけです。

狭間石落としが備わっている実戦的な櫓です。

関東大震災で損壊したのち、解体して復元されたそうです。


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前の濠は、桔梗濠

濠の奥に見えるのが桔梗門で、その向こうに見える櫓は、本丸南の富士見櫓です。


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こちらが桔梗門です。

桔梗門は慶長19年(1614年)に造られたそうで、門名の由来は、最初に江戸城を築いた太田道灌の時代に、この近くに泊船亭があったと伝えられ、道灌の家紋の桔梗紋から付けられたといわれているそうです。

別名、「内桜田門橋」とも呼ばれています。


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こちらが本丸南の富士見櫓

富士見櫓は明暦の大火(1657年)で天守とともに焼失しましたが、その後、再建。

天守が再建されなかったため、富士見櫓が天守の代用として使用されたと言われています。

江戸時代、将軍がここから富士山や品川の海を眺めたと伝えられます。


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さすがに江戸城はデカイ!

次稿に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-11-30 00:11 | 東京の史跡・観光 | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その86 「二条城二の丸御殿」

二条城にやってきました。

現在に伝わる二条城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛時の宿所として慶長7年(1602年)から翌年にかけて造営されたものですが、幕末、ここ二条城の二の丸御殿において、大政奉還の宣言が行われました。


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ここを訪れたのは昨年の9月で、ちょうど「大政奉還150年周年記念プロジェクト」が行われており、東大手門前には金屏風風の看板が設置されていました。


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そして、こちらが大政奉還の表明の舞台となった二の丸御殿

国宝です。


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二ノ丸御殿は、将軍上洛の際の居館として、徳川家康によって慶長8年(1603年)に造営され、その後、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇行幸に備えて、第3代将軍・徳川家光の代に改造が行われ、現在の姿となりました。

御殿は全6棟の建物から成り、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として、日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日においては、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952年)に国宝に指定されました。


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正面右側のいちばん手前の建物が、「車寄」と言われる正面玄関です。

その後方の大きな屋根の棟が、「遠侍」と呼ばれる二ノ丸御殿最大の建物です。

そこから左奥へ、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院と連なります。


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残念ながら、建物内は撮影禁止です。

なので、庭園側から外観を撮影。


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こちらが「大広間」の建物。

「大広間」は将軍が諸大名と対面した部屋で、二の丸御殿の中でもっとも格式の高い部屋です。

慶応3年10月13日(1867年11月8日)、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は、ここ大広間に在京している10万石以上の大名家の重臣を召集し、政権を朝廷に返上する意志を表明しました。

集まったのは、尾張、紀州、彦根、讃岐高松、姫路、庄内、加賀、阿波、筑前福岡、仙台、鳥取、肥後熊本、米沢、越前福井、備前岡山、薩摩、土佐、芸州広島、宇和島、会津、新発田など、40藩50余名でした。


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そして、その翌日の10月14日(1867年11月9日)、慶喜は政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。

これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として164年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げます。


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写真はありませんが、大広間内には上段の間に座する将軍の前で、裃姿の重臣たちが平伏するイメージが人形によって再現されていました。


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二条城二の丸御殿は、もうひとつの有名な歴史的出来事として、慶長16年(1611年)に徳川家康豊臣秀頼と会見した場所でもあります。

時を超えていくつもの歴史を刻んだその舞台は、いまでは世界文化遺産として世界中の観光客で賑わっています。


二条城につては、昨年の拙稿で詳しくレポートしています。

よければ一読ください。

  ↓↓↓

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その1 ~外堀・城門~

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その2 ~二ノ丸御殿・二ノ丸庭園~

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その3 ~内堀~

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その4 ~本丸・天守台~


「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-03 23:51 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第49話「本能寺が変」 ~本能寺の変~神君伊賀越え~

 「敵は本能寺にあり!」

 過去、大河ドラマにおいて数々の役者さんが発してきたこの台詞ですが、おそらく、明智光秀を演じられた役者さんは、みなさん、配役が決まったときからこの台詞をどのように吐くかを悩まれるんでしょうね。演出家さんや脚本家さんの意向とかもあるのでしょうが、光秀のいちばんの見せ場ですからね。この台詞を吐くために他の場面があると言っても過言ではないかもしれません。今回のそれは、躊躇している自身に言い聞かせるよう呟く、といった演出でしたね。このパターンは、はじめてなんじゃないでしょうか。


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 「敵は本能寺にあり!」という台詞がはじめて使われたのは、江戸時代中期の元禄初頭から15年(1688年~1702年)頃に書かれたといわれる明智光秀を主人公とした軍記物『明智軍記』からだそうです。作者は不明で、光秀の死後100年以上経ってから書かれたものということで、史料的価値は低いとされている作品ですが、この台詞に関しては、その後、「本能寺の変」を題材とした作品ではずっと使われてきた台詞で、もはや光秀の代名詞のような言葉となっています。実際には、どのような言葉を発したのかはわかりませんが、備中の羽柴秀吉の援軍として出陣した軍勢を、途中で進路を返して本能寺に向かわせたのは史実ですから、そこで、何らかの意思表示をしたのは確かでしょう。「これより本能寺に向かい、信長を討つ!」では普通だし、「敵は信長なり!」でも、イマイチ、パッとしません。やっぱ、「敵は本能寺にあり!」ですよね。その後300年以上、ずっと使われる台詞を書いた『明智軍記』の作者は、よほどのセンスの持ち主といえます。いまだったら、間違いなく流行語大賞ですね。

 徳川家康饗応役を解かれた光秀に代わって、織田信長自ら膳を運んでいましたが、これは、『信長公記』にも記されているエピソードで、史実とされています。でも、実際に信長に配膳されたら、ドラマのように家康たちは凍りついていたでしょうね。どれほど豪華な料理でも、味がわからなかったでしょう。

 今回の「本能寺の変」は、信長が家康とその重臣たちを安土城に招き、接待すると見せかけて殺してしまおうという計画を、事前に明智光秀が家康と今川氏真に情報を漏らし、逆にその機に乗じて信長を討とうという光秀の謀略で、しかし、光秀が想定外の備中援軍を申し付けられてしまったため、徳川一行が堺見物をしている最中、備中に向かう兵を返して本能寺で事に及んだという設定でした。まあ、「本能寺の変」に至る経緯は諸説ありますから、どのような描き方があってもいいと思いますが、今回の設定は、結局、よくわからないまま終わったという感じです。そもそも、信長は光秀がいうように、家康を殺すつもりだったのでしょうか?


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 家康に贈る茶道具を選んでいる信長の姿や、「殺気が感じられない」と言った家康の台詞などから、どうも、家康を殺すという計画は最初からなかったと見ていいんでしょうね。であれば、光秀はなんでそんなをついたのでしょう? 家康や氏真に計画を明かして味方に引き入れる、というわけでもなさそうでしたし、であれば、計画を明かす必要がないというか、むしろ、家康や氏真が信長に計画を漏らす危険だってあったわけで、そんなリスクを背負ってまで、ふたりに謀略を打ち明ける理由が見当たりません。光秀にとって、何の得もないですからね。結局、ドラマでも、徳川一行は光秀の計画を知っていたせいで必要以上にオロオロしただけで、光秀の謀略には何ら役に立ってないですからね。いったい光秀は何がしたかったのでしょう? どうも、消化不良な「本能寺の変」でした。


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 また、信長横死の報せを受けたあとの「神君伊賀越え」についてですが、これがなぜ家康の人生における一世一代の大ピンチだったかというと、信長と同盟関係にあった家康は光秀から見ればであり、もし、明智軍に遭遇すれば衝突は避けられず、かといって、弔い合戦が出来るような兵力を引き連れておらず、四面楚歌の状態に陥っていたからでした。しかし、今回のドラマでは、徳川一行は光秀から事前に信長討伐を知らされていたわけで、家康の心中はどうあれ、光秀はこの時点では家康のことを味方だと思っていたはず。何も知らない穴山梅雪さえ始末してしまえば、あとは険しい伊賀越えなんてせずに、大手を振って東海道を帰ればよかったのでは? それとも、光秀の計画は、信長もろとも家康も殺すつもりだったとか? う~ん・・・。イマイチ設定がよくわかりません。繰り返しますが、消化不良な「本能寺の変」でした。まさしく、その副題どおり「本能寺が変」でしたね。

 さて、次回は最終回ですね。井伊直虎が死んだのは、本能寺の変から約2ヶ月半後のことだったと言われています。でも、ドラマの直虎はピンピンしていて、そんな兆候は微塵にも感じられません。この感じでは、病死とかではなさそうですね。どんな最期に描かれるのか、楽しみにしましょう。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-11 15:55 | おんな城主 直虎 | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第48話「信長、浜松来たいってよ」 ~信長の駿河訪問~

 甲州征伐で武田氏を滅ぼした織田信長は、その帰路、富士山見物に出かけます。これまで富士山が見られる地域は敵対してきた今川氏、武田氏の領地でしたから、おそらく富士山を間近で見たことはなかったのでしょう。富士山といえば、言わずと知れた日の本一の名山で、当時は信仰の対照でした。富士山を一度この目で見たいという願望は、魔王・信長といえども同じだったんですね。


 このとき、富士山を有する駿河の国は、甲州征伐の戦功で徳川領となっていました。そのため、信長の富士山見物ツアーの一報をうけた徳川家康は、莫大な私財を投じて街道を整備し、宿館を造営しました。「紀行」でも紹介されていましたが、富士信仰の聖地、富士山本宮浅間大社の境内には、金銀をちりばめた豪華な装飾を施した仮の宿所が建てられたと伝えられます。


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 また、信長は富士山見物のあと、家康の居城・浜松城に立ち寄りました。そのため、家康は街道を広げ、川に橋を架け、また、ドラマにもあったように、人を集めて川の水を堰き止めたといいます。至れり尽くせりの接待ですね。現代でも、アメリカ大統領クラス国賓を迎えるにあたっては、厳重な警備体制はもちろん、道路、宿泊先の整備まで入念に行われますが、まあ、あれと同じようなものといえるでしょうか。大統領の娘や孫にまで、これでもかと言わんばかりの気の使いようでしたもんね。同盟国といえども明らかに弱者である日本にとっては、大統領およびその家族をもてなすことは、大きな政治です。信長と家康の関係も同じことがいえるでしょう。信長は家康の接待をことのほか喜び、米八千俵あまりを贈ったといいます。そして、その返礼として、信長は家康とその重臣たちを、安土城に招きました。

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 信長から招きを受け、その真意を詮索する家康と重臣たち。たしかに、主だった家臣団を引き連れて安土城に入れば、駿河はがら空きになり、その隙を突かれたら、ひとたまりもありません。実際、武田氏を滅ぼしたことで、信長にとって家康との同盟関係のメリットが薄くなったのは事実。自民党単独3分の2議席を獲得したあとの公明党のようなものでした。徳川家にしてみれば、いつ切り捨てられてもおかしくはないといった心配はあったでしょう。ドラマ中、明智光秀は、信長の駿河訪問は軍事視察目的だったと言っていましたが、実際、そのような解釈を説く歴史家さんもおられます。もし、信長があと少し生きていたら、徳川氏は滅ぼされていたかもしれません。

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 結局、信長からの招きを断れるはずもなく、家康一行は安土城を訪れ、その約半月後に「本能寺の変」が起きることは周知のところだと思います。ただ、明智光秀がいつの段階で謀反を決意したのかは、様々な見方があってハッキリしません。ていうか、人の心の部分ですから、心中を吐露した書簡でも残されていない限り、どれだけ状況証拠を並べても推論の域を出ないんですけどね。ドラマでは描かれていませんでしたが、有名なエピソードのひとつで、最後の武田攻めの際、光秀が「ここまで来られて、われわれも骨を負った甲斐があった」と語ったところ、信長の逆鱗に触れ、光秀は欄干に頭を打ち付けられたという話があります。これが実話だとすれば、富士山見物をして浜松城を訪れたこのときは、ちょうどその直後で、すでに腹に一物を持っていたかもしれません。もちろん、その計画を今川氏真に持ちかけたという話はドラマの創作ですが、このとき既に殺意を持っていたかもしれないという推理は、否定できません。

 光秀の息子として描かれていた自然(じねん)という少年ですが、実在したかどうかは定かではありませんが、諸説あるなかの一説では、光秀の五男として生まれ、山崎の戦いで父の光秀が討死したあと、近江坂本城自刃したとされます。ただ、光秀の系図は複数あって、その子供についても俗説が多く、はっきりしません。もちろん、今川氏の人質となって井伊直虎の住む井伊谷で匿われたという話はドラマの創作ですが、そもそも実在したかどうかもわからない息子ですから、この創作はありなんじゃないでしょうか。こうでもしないと、直虎を話に絡められないですもんね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-12-04 15:32 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第47話「決戦は高天神」 ~高天神城の戦い~

 息子の松平(徳川)信康と正室の築山殿を失った徳川家康でしたが、落ち込んでいる間もなく、武田氏の高天神城攻めを本格化します。天正3年(1575年)以降、高天神城は武田氏、徳川氏の間で幾度となく攻防戦が行われてきました。しかし、戦いは両者とも一進一退を繰り返し、決定的な決着がつかずにいました。そんななか、信康の武田氏内通の嫌疑が浮かび上がり、信康は自刃に追い込まれます。前話の稿でも述べましたが、信康自刃の背景には、徳川家内での織田派、武田派の分裂の危機があったといわれます。となれば、家臣を結束させるためには、信康の自刃だけではなく、その根源である武田氏を攻め滅ぼす必要があったわけです。


 信康が自刃して約半年後の天正8年(1580年)3月以降、家康は高天神城の周囲に付城を築いて包囲網を形成、そして9月、5000人の軍勢で城を取り囲みます。このとき家康は力攻めではなく、兵糧攻めの作戦をとります。ドラマでは、「兵糧攻め」を敵味方ともに兵を失わずに戦う策と言っていましたが、たしかに「兵糧攻め」は味方の兵の損傷を少なくする作戦ではありますが、敵(籠城軍)にとっては、そんな心優しい作戦では決してありません。籠城兵にとって、食糧を断たれることほど苦しいことはなく、餓死者は続出し、飢餓の極致に達した者たちは、人肉をも食らったという記録も数多く残されています。同じ頃に羽柴秀吉が指揮した「三木の干殺し」「鳥取の飢殺し」などが有名ですね。「兵糧攻め」とは、決してドラマで言っていたような人命尊重の戦い方ではありません。


 城代の岡部元信はよく耐えましたが、武田勝頼からの援軍を得ることができず、やがて城兵の大半が餓死します。この戦いには織田の援軍も加わっており、織田信長からは、「高天神城が降伏してきても許すべからず」といった書状が家康に対して送られています。これはドラマでも描かれていましたね。信長は、勝頼が高天神城を見殺しにしたという形にすることで、武田氏の威信が失墜することを狙っていたようです。そして、ついに翌天正9年(1581年)3月、逃亡する城兵が続出し、残った城兵は城から討って出るも、徳川軍の包囲網によって岡部元信と兵688の首が討ち取られまず。


 『寛政重修諸家譜』によると、この戦いに出陣していた万千代(のちの井伊直政)は、水の手を断つなどの手柄をあげたと記されていますが、派手な活躍は伝えられていません。また、『井伊家伝記』によると、同じ頃に万千代は2万石加増されていますが、それが、この戦いでの戦功だったかどうかは定かではありません。ドラマで描かれていたように、この加増によって、中野直之、奥山六左衛門朝忠以下、山中に籠っていた旧井伊家譜代の家臣たちが万千代のもとに集まり、仕えたといいます。


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 この戦いのあと、武田氏の凋落は一気に加速し、戦国の世のならいとはいえ、武田家内での裏切り、寝返りは酷いものでした。これが、高天神城の城兵を見捨てたことに端を発したとすれば、信長のシナリオどおりになったといえます。そして、「高天神城の戦い」から約1年後の天正10年(1581年)3月11日、武田勝頼は自害します。享年37。このとき、勝頼に付き従っていた家臣団は、わずか43人になっていたとも。『甲陽軍鑑』『甲乱記』などの記述では、勝頼主従の最期は華々しく戦って討死したとありますが、『信長公記』では、「落人の哀れさ、なかなか目も当てられぬ次第なり」とあります。実際には、43人の手勢ではなすすべもなかったでしょう。ここに、450年の歴史を誇る名門武田氏は滅亡します。


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by sakanoueno-kumo | 2017-11-27 17:45 | おんな城主 直虎 | Comments(2)  

おんな城主 直虎 第46話「悪女について」 ~松平信康自刃事件(後編)~

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 徳川家康の命令によって長子・徳川(松平)信康自害に追い込まれ、家康の正室・築山殿(ドラマでは瀬名)も家臣によって殺害されたという徳川家の最大の悲劇ですが、実際には、史料に乏しく詳しい内容はわかっていません。一般に知られる話としては、信康の妻・徳姫が、父である織田信長に宛てて信康が武田氏と内通しているといった内容が含まれる手紙を送り、これを受けた信長が、家康に信康と築山殿の処分を迫り、力関係から考えて信長に従わざるをえなかった家康は、苦渋の決断に及んだ、というもので、多くのドラマや小説が、この説をベースに描かれています。しかし、この説は江戸時代に入ってから書かれた『三河物語』のみにある話で、同著は、徳川家に都合よく書かれた部分が多々見られるため、史料として十分とはいえません。

また、信長が自身の息子である織田信忠より信康の方が優れていると見て、息子の代になって徳川と織田の力関係が逆転することを恐れて事前に芽を摘んだという説もありますが、これも、何の根拠もない推論にすぎませんし、本当に信康が有能な人材だったのなら、能力主義の信長であれば、むしろ婿として重宝したのではないかとわたしは思います。信長の一代記『信長公記』には事件の記述はなく、この事件に関しては、信長は不介入だったと見るほうが妥当かもしれません。


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 築山殿の殺害についても史料に乏しく詳らかではありませんが、ひとつの説としては、築山殿は今川一族の出であり、彼女の父は家康が今川氏を裏切って織田氏と結んだことで今川氏真切腹させられ、そのことで、築山殿は家康を憎んでいたとの見方があります。そのせいか、のちに今川の人質生活から岡崎に移ったあとも、岡崎城には入らず(あるいは入ることが許されず)、城外にある惣持尼寺の西側に屋敷を与えられ、そこで暮らしていました。その屋敷の地が惣持尼寺の築山領であったことから、「築山殿」と称されるようになったと言われます(ドラマでは、この呼称は使われなかったですね)。そんな立場ですから、当然、信長の娘である徳姫との関係も悪く、かつて武田氏の家臣だった浅原昌時日向時昌の娘を信康の側室に迎えさせ、また、築山殿自身も、唐人医師の減敬とのゲス不倫があったとも、武田氏と内通していたともいわれます。


 しかし、これらもすべて確かな史料には見られず、後世に作られた話と思われます。築山殿が今川を裏切った家康を憎んでいたという話はあったかもしれませんが、そもそも彼女に武田氏と内通するほどの政治力があったとは考えづらく、これも、築山殿の殺害を正当化するために理由づけされたものと見るべきでしょう。別の説では、信康を殺せば築山殿は半狂乱になるだろうとし、信康に切腹を命じる前に彼女を殺したとの説もあります。しかし、それだけで正室を殺すというのも、理由としては薄い気がしますね。いずれにせよ、わかっているのは、信康の自刃の約半月前の天正7年(1579年)、遠江国の佐鳴湖の畔の小藪村にて、家康の家臣によって殺害されたということ。一説には、信康の助命嘆願のために浜松城に向かう途中だったとも。子を思う親心は、いまも昔も変わりません。


 信康の自刃に関しては、近年の研究では、家康との父子不仲説が主流となりつつあるようです。不仲説というと聞こえが悪いですが、この時期、織田氏と同盟関係にありながらも、徳川家内はまだまだ武田氏と結ぶべきとの意見も多く、その急先鋒が息子の信康だったとされ、そのせいで、家臣団も両派に分裂しつつあったとされます。家康は徳川家の分裂を避けるため、やむを得ず息子を殺す決断をした、と。一国を預かる武家の棟梁としては、肉親の命よりも、お家の結束が優先だったんですね。


 ドラマでは、虚実織り交ぜてきれいにまとめていたんじゃないでしょうか。家康も信康も瀬名も、それぞれが互いの立場を尊重しながら、なんとかこの苦境を乗り切ろうと必死で模索しますが、上手く連携できず、結局は徳川家にとって最悪の着地点となりました。何もかもが終わったあと、万千代に碁石を投げつけて嘆くシーンが切なかったですね。ちなみに、落ち込む万千代に対して井伊直虎が、「そなたが信康様の代わり身となればよいではないか」と言っていましたが、このとき万千代は19歳。死んだ信康は21歳で、その勇猛さといい、利発さといい、共通点があったかもしれません。事実、これより間もなく井伊直政異例の出世街道がはじまります。あるいは、家康は直政のなかに信康の面影を見ていたのかもしれません。


 後年、家康は関ヶ原の戦いにおいて、大遅参した三男・徳川秀忠の器量のなさを嘆き、「信康が生きていてくれれば・・・」ため息をついたという有名な話がありますが、奇しくも、その日は9月15日、信康の21回目の命日でした。きっと、家康は戦い前から信康のことを思い出していて、だから、そんな言葉を吐いたのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-20 15:24 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第45話「魔王のいけにえ」 ~松平信康自刃事件(前編)~

 諸説あって謎が多い徳川(松平)信康自刃事件ですが、ドラマでは長年通説となっていた『三河物語』の記述をベースに構成されていました。前回の徳川家康暗殺未遂事件のあとの信康と石川数正のやりとりを見ていて、何か違う解釈で描くのかなぁと思っていたのですが、違いましたね。まあ、ほとんどの物語では、『三河物語』の通説を採用していますから、やはり、それがいちばんドラマチックだということでしょう。わたしはそれでいいと思います。


 信康の正室・徳姫織田信長の娘で、ふたりの結婚は徳川と織田の同盟の証でした。『三河物語』によると、天正7年(1579年)、徳姫は父・信長に宛てて夫と姑の愚痴12箇条に綴った手紙を書きます。その内容は、信康の日頃の乱暴な振る舞いを嘆き、また、自分が女児しか産んでいないことを姑の築山殿から罵られたということなど、現代の夫婦間でもありそうないざこざですが、そのなかに、信康と築山殿が武田家と内通している疑いがあるとの報告がありました。これが事実なら、織田家としては捨て置けません。


 信長は真偽を確かめるべく、徳川家家老の酒井忠次を呼んで詰問します。ドラマでは、岡崎城の信康と浜松城の家康の配置を入れ替える旨を信長に伝えるために家康が忠次を使者として送り込むという設定でしたが、このあたりは、『三河物語』を少しドラマのオリジナルにアレンジしたものでした。たしかに、こっちの方がより自然かもしれません。


 『三河物語』によると、信長から問いただされた忠次は、何の弁解もしなかったばかりか、あろうことか、信康をかばうことなくすべてを事実と認めてしまいます。忠次、何を血迷っていたのでしょうね。一方で、ドラマでの忠次は、信康の内通を家康の指示があってのことなのか、それとも信康独断の行いだったのかという二者択一誘導尋問に迫られ、家康に害が及ばぬため、やむなく信康を切り捨てたという描き方でした。このあたり、なかなか秀逸なアレンジだったんじゃないでしょうか。『三河物語』では、信康をかばわなかった忠次に対して家康は、「知らぬと言えばよかったものを」と嘆き、他の家臣たちからも憎まれたとされていますが、ドラマでの忠次も家康から叱責されていましたが、忠次は忠次なりに徳川家を守るための最善策をとった結果であり、一方的には責められません。通説を上手く料理した脚本でしたね。


 こうなった以上、信康の首を差し出すしかないと意見する忠次。憤る家康。そこに、家康の実母・於大の方が訪れ、信康を斬りなされと諭します。


「獣はお家のため我が子を殺めたりいたしませぬ。なれど武家とはそういうものです。お家を守るためには己自身、親兄弟も、いえ、子の命すら人柱として絶たねばならぬことがある。そのなかで生かされてきたのですから。そなただけが逃れたいというのは、それは通りません。それは通らぬのです。」


 母の言葉。みごとでしたね。最近の大河ドラマでは、こういった台詞がありませんでした。現代のヒューマニズムの観点からいえば、許されない考えだからでしょう。しかし、かつて我が国の武家の秩序では、肉親の命より大切なものがあったのです。それを正しく描くことが、非人道的なことだとはわたしは思いません。よくこの台詞を、しかも女性に吐かせてくれたと思います。今話のこのワンシーンだけで、わたしはこのドラマが巷で批判されているような酷い作品じゃなかったと言いたくなりました。最終回まであと数話。楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-11-13 01:11 | おんな城主 直虎 | Comments(0)