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おんな城主 直虎 第39話「虎松の野望」 ~井伊直政出世物語のはじまり~

 天正2年(1574年)12月14日、井伊谷龍潭寺において井伊直親十三回忌の法要が行われました。『井伊家伝記』によると、このとき15歳になった虎松(のちの井伊直政)も呼び戻され、祐椿尼、次郎法師(井伊直虎)、南渓瑞聞和尚らが集まって相談し、井伊家再興のため、虎松を徳川家康に出仕させる方針が決まったとあります。ドラマでは、直虎は井伊家を再興するつもりはないと言っていましたが、実際には、直親の忘れ形見である虎松によって井伊家を復活させることが、一族の悲願だったようです。まあ、当然だったでしょう。


 虎松と家康の面会は、その後、間もなく実現します。『井伊家伝記』によると、天正3年(1575年)2月と記され、『寛政重修諸家譜』には、同年2月15日と具体的な日付まで記されています。どちらの記述も、面会したのは鷹狩りの途中の道端だったと伝えます。また、江戸時代に新井白石がまとめた『藩翰譜』でも、道端で尋常じゃない面魂の少年を見つけ、素性を調べさせたところ、井伊直親の子だというので、不憫に思って仕えさせたとあり、徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』でも、鷹狩の道すがらただものとは思えない小童が家康の目に入り、その子がかつて陰謀によって死んだ直親の遺児で、いまは松下源太郎清景の養子になっていることを知り、すぐに召し抱えたと記されています。すべて二次史料ではあるものの、「鷹狩の途中」という話は一致しており、おそらく本当の話なんでしょうね。


ただ、「偶然の出会い」というのはどうだったでしょうね。『井伊家伝記』によると、「御小袖二つ、祐椿・次郎法師より御仕立遣わされ候なり。天正三年二月、初めて鷹野にて御目見遊ばされ候。」とあります。直虎と祐椿尼から虎松のもとに小袖が届けられ、その小袖を着て家康に拝謁したというのです。つまり、家康に会うために、わざわざ正装を新調したということです。これ、ドラマでも描かれていましたね。この話が事実なら、家康との面会はあらかじめ設定されていたことになります。ドラマでは、この説が採られていましたね。おそらく、そうだったんじゃないかとわたしも思います。江戸時代に記された史料がすべて「偶然の出会い」と伝えているのは、神格化した家康の人の能力を見抜く慧眼を讃えるために造られた話なんじゃないでしょうか。実際には、ドラマのように、誰かによって面会の場があらかじめセッティングされ、その場所が、鷹狩の途中だったんじゃないかと。


 さらに『井伊家伝記』の伝えるところでは、かつて直親が家康と内通した疑いによって今川方に殺されたことを家康は知っており、家康は直親が命を失ったのは自分のためだったも同然として、虎松を召し抱えたとあります。家康はその際、虎松に松下姓から井伊姓に戻るように命じ、自分の幼名・竹千代から「千代」ををとり、「万千代」という名を与えました。そして上下とともに三百石を与えたと伝えます。


 ドラマでは、虎松が築山殿根回しして、家康から井伊姓を名乗るように命じてもらうよう仕向けてもらうといった設定で、その小賢しさのせいで、三百石はおろか、小姓に取り立てられる約束だった話も反故になり、草履取りを申し付けられるという展開でした。まさに策士策に溺れるってやつですね。まあ、そんなに早く虎松に出世されたんじゃ、50話まで話が続かないでしょうからね。ここからは、井伊直政の出世物語となるのでしょう。


 ちなみに、ネタバレになりますが、井伊姓と松下姓のどちらを与えるか迷っていた家康に、逆に虎松に選ばせてはどうかとアドバイスしていた鷹匠ノブという人物は、おそらく、のちの本多正信でしょうね。家康の後半生はこの正信をいつもそばに置き、すべて正信との謀議で事が進められたといいます。早くも、その策士ぶりを発揮していましたね。虎松の才気も、正信にかかっては赤子同然だったようです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-03 14:39 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

映画『関ヶ原』鑑賞記

映画『関ヶ原』を今日、ようやく観てきました。

歴史ファンとしては観ておかないといけない作品で、およばずながら、素人なりの寸評を述べさせてください。

ここからはネタバレになりますので、これから観る予定でまだ観てない方は、読むか読まないかは自己責任でお願いします。


映画『関ヶ原』鑑賞記_e0158128_05005620.jpg

観る前からある程度予想はしていましたが、やっぱりな・・・というのが率直な感想です。
ていうか、想像以上(以下?)だったかも。

やっぱ、無理があるんですよ、司馬遼太郎さんの長編作品映画化するのは。

原作小説の魅力をそのまま描こうとすれば、とても2時間3時間では収まらない。

大河ドラマ作品になってもよさそうなくらいの濃い内容の話ですからね。

それを2時間40分ほどに無理やり詰め込んだわけですから、ほとんどダイジェスト版のようなものでした。

「関ヶ原の戦い」という超有名な史実が題材ですから、ある程度観る側に予備知識があることを前提にして作られたものだとしても、あまりにも説明不足で、観る側の歴史知識のスキルを信用しすぎ、作りが雑すぎてわけがわからない。

一緒に観に行った妻なんて、途中から寝てましたからね。


わずか6時間でその後の日本の歴史が変わった関ヶ原の戦いですが、小説『関ヶ原』の面白さは、その「わずか6時間」に至るまでの経緯にあります。

つまり、戦術、戦略ではなく、それ以前の政略で雌雄を決したのが、関ヶ原の戦いと言っていいでしょう。

だから、そこを丁寧に描かないと、この物語の魅力は引き出せない。

合戦シーンは、その結論に過ぎないですからね。

合戦に至るまでに、徳川家康がどれだけ老獪豊臣恩顧の大名たちを抱き込んでいったか。

「へいくゎい者」と言われた不器用石田三成が、その柔軟性のない性格でどれだけ無用の反感を買ってきたか。

これがさっぱり伝わってこない。

三成らしさが出ていたのは、「上様」という言葉尻をつかまえて本多正信を叱責したシーンぐらいだったでしょうか?

家康の老獪さに至っては、その最も重要なシーンであるはずの小山評定がまるまる割愛されていました。

びっくりです。

小山評定のない『関ヶ原』なんて、『関ヶ原』じゃない!


登場人物の人物像がちゃんと作り込まれていたのも、三成と家康、そして島左近ぐらいだったでしょうか?

あとの人物たちは、その上っ面だけで作られた小者感たっぷりのキャラで、可愛そうなほどでした。

福島正則加藤清正なんて、あれじゃただのバカ殿ですよ。

短い時間でキャラ設定しようとすれば、ああいうわかりやすい人物像になっちゃうんですね。

あと、直江兼続も、何のために出したのかよくわからない。

兼続を出すんだったら、直江状上杉討伐も描かないと意味がないし、そもそも、三成と兼続の密約こそ、本当にあったかどうかわからない説なわけで、こここそ、別に割愛してもよかったシーンだったんじゃないでしょうか?

明らかに松山ケンイチさんの友情出演ありきのシーンで、唐突感ありありでした。


合戦に入ってからも、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊らの存在がまったく無視されていましたし、三成と懇意だったはずの島津隊がなぜ動かなかったかも、もうちょっと丁寧に描いてほしかった。

あれじゃあ、ほんとに原作をちゃんと読んでる人じゃないと理解できないですよね。

そこをちゃんと描かないと、西軍がなぜ負けたのかが伝わらないし、なにより小早川秀秋なぜ裏切ったのかがぜんぜんわからない。

秀秋自身は三成につきたかったけど、家臣に押し切られた?

原作小説とは違う解釈ですが、それはいいとしても、じゃあなんでそうなったの?

さっぱりわかりませんでした。


それから、初芽

原作では藤堂高虎から三成の元に送り込まれた間者でしたが、映画では、伊賀の忍びという設定でした。

まあ、それはいいでしょう。

もともと架空の人物ですから、原作小説とキャラ設定を変えるのもありだとは思います。

ただ、解せないのは、初芽だけじゃなく、原作には登場しない忍者たちがやたらと暗躍していたこと。

なんで?

これって忍者映画なの?

外国での忍者ブームにのっかって海外進出を狙ってる?

司馬さんの原作には、忍びは出てきません。

まあ、いくさは情報収集戦でもあったでしょうから、水面下での諜報部隊の働きはあったかもしれませんが、小山評定とかの重要なシーンを削ってでもクローズアップする必要があったでしょうか?

あの忍者たちのシーンが、作品を歴史映画じゃなくファンタジー映画にしてしまっていたように思えてなりません。


で、最後に、最も重要なところ。

敗走して落ち延びた三成が、なぜ自害しなかったかについてですが、原作小説では、最後まで望みを捨てずに生きる道を選び、再起を図るため・・・というものだったのに対し、映画では、死ぬ前に見届けたい大切な人に会うため・・・でした。

つまり、初芽に会うために自害しなかった・・・と。

いやいや、そこは変えちゃダメでしょう。

これって恋愛映画だったの?

三成はその処刑の直前、警護の者から干柿を差出されたところ、干柿は痰の毒だから食べないと言って断り、間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしいと笑われますが、三成は、大義を思うものは首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うからである、と言い放ったというエピソードがあります。

この逸話が実話かどうかは別にしても、ここが三成最大の見せ場であり、関ヶ原の戦いの着地点ともいえます。

それを、好きな女に会うためなんて、そんな安っぽい理由にしちゃったら、三成が浮かばれません。

ここは、絶対変えたらダメなところでしょう!


岡田准一さん、役所広司さん、平岳大さん、有村架純さんと、豪華キャストで描かれた大作でしたが、残念ながら名作とはいい難い作品でした。

まあ、予想してましたけどね。

やはり、司馬さんの長編作品の映画化は無理があったということでしょう。

実に残念でした。



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by sakanoueno-kumo | 2017-10-01 05:06 | 映画・小説・漫画 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第38話「井伊を共に去りぬ」 ~武田信玄死去~

 三方ヶ原の戦い徳川家康をこてんぱんにやっつけた武田信玄は、まさに破竹の勢いといえる快進撃で西上を進めますが、その途中、信玄は血を吐いて倒れ、そのまま病死したと伝わります。歴史は武田信玄を時代の覇者に選びませんでした。


 ドラマでは突然死のように描かれていましたが、通説では、信玄は若い頃からたびたび体調を崩すことがあったといわれ、このときも、三方ヶ原の戦いから約1ヶ月半後の野田城の戦いあたりからたびたび喀血するなど持病が悪化し(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検のときに喀血が再発したとも)、武田軍の突如として進撃を停止して長篠城療養するために軍を返します。そこで近習や一門衆によって話し合われ、甲斐への撤退が決まりますが、その帰路、甲斐に戻ることなく没したと伝わります。享年53。


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 信玄の死因については様々な説がありますが、大きく2つにわけて、胃がん説肺結核説があります。胃がん説は『武田三代記』『甲陽軍鑑』に見られる説で、現在最も有力視されています。胃がんは末期には吐血下血などの症状が激しくなるといいますから、血を吐いて倒れたという伝聞にも一致します。しかし、信玄はかねてから血を吐く持病があったともいわれ、この説を信用すると、当時の医学で胃がんを患った人が何年も生きているなんてことは考えづらく、そうなると、同じく血を吐く症状のある肺結核説のほうが真実味があるかもしれません。もっとも、肺結核は感染しますから、もし信玄が何年も前から肺結核を患っていたとすれば、家臣たちに感染らないよう隔離されていて、とても上洛できるような身体ではなかったんじゃないかと・・・。たしか、中井貴一さんが演じた大河ドラマ『武田信玄』では、結核説を採っていましたね。

 ちなみに胃がんだと「吐血」、肺結核だと「喀血」というそうです。「吐血」は食道などの消化管からの出血で、黒っぽい血を吐くことが多いそうですが、「喀血」は、からの出血のため、真っ赤な鮮血を吐くそうです。ドラマの信玄が吐いた血は真っ赤でしたね。ということは、結核でしょうか? でも、だったらあんなに寸前まで元気なはずがないですし、少なくとも遊び女を抱くような体力はないような・・・。やっぱ、寿桂尼の呪いだったのでしょうか。あの局面で寿桂尼が床に入ってきたら、誰でも卒倒して血を吐くかもしれません(笑)。おお、コワっ!


 信玄はその死に際して、自らの死を3年間秘匿するよう遺言したと言われています。ところが、ドラマではすぐに情報が飛び交っていましたね。実際、当時も信玄の死はすぐに知れ渡っていたようで、徳川家康上杉謙信織田信長も、かなり早い段階で信玄の死を確信していたようです。テレビも新聞もインターネットもない時代ですが、当時の有力武将たちは、ドラマで言う高瀬のような間者を何人も持ち、諜報活動にはぬかりありませんでした。逆にわざとガセネタを流して混乱させる場合もあるのですが、信玄の死の情報の場合、あからさまに兵を撤退するという不可解な行動をみれば、諜報活動などなくともバレバレだったんじゃないでしょうか。


 信玄が病没する前後の井伊谷については、詳しいことはわかっていません。家康は信玄の死の翌月には早くも駿河侵攻久能、駿府などを侵していますから、おそらく井伊谷も徳川領となったことでしょう。この間の井伊直虎の動向も定かではありません。井伊家が歴史の表舞台に復活するには、いま少し時間を要します。その最初の記録が、天正2年(1574年)に行われた井伊直親十三回忌でした。その話は次回の稿で。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-25 17:31 | おんな城主 直虎 | Trackback(1) | Comments(13)  

おんな城主 直虎 第37話「武田が来たりて火を放つ」 ~三方ヶ原の戦い~

若き日の徳川家康が無謀にも武田信玄に戦いを挑み、大敗北を喫したことで知られる「三方ヶ原の戦い」の回です。


元亀2年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭織田信長討伐令を出し、これに応えるかたちで武田信玄は、徳川の領国である遠江国、三河国に侵攻する西上作戦を行います。信玄の西上を可能にしたのは、相模国北条氏康が死んだことで再び北条氏と和睦して甲相同盟を結び、後顧の憂いが絶たれたことにありました。信玄は破竹の勢いで侵攻し、徳川領の支城を次々と落としていきます。


 武田軍は南進して家康の居城・浜松城を攻める進路を取ります。これに対して家康は、織田から送られた援軍と共に籠城戦で迎え討つべく準備を進めます。ところが、武田軍は途中で急に進路を西に変えて三方ヶ原台地に上がり、そのまま浜松城を無視して三河国に向かう姿勢を示します。これを知った家康は、急遽、作戦を変更。一部家臣の反対を押し切り、武田軍を背後から襲う積極攻撃策に打って出ました。


 信玄がなぜ進路を変えたかについては、あえて浜松城を無視することで家康を挑発し、得意の野戦に持ち込むためだったと言われますが、確かなことはわかりません。当時、信玄は百戦錬磨の51歳。一方の家康は31歳の血気にはやる武将で、自分の庭を土足で通る武田軍を許しがたく、まんまと信玄の挑発に乗った、というのが一般的な見方です。また、ここで武田軍が通り過ぎるのを指をくわえて見ているようでは、家臣や国人衆たちから見限られる恐れがあったからかもしれません。いずれにせよ、家康は敗北を恐れずに打って出る覚悟を決めます。


 劇中の家康は、織田を見限って武田に下る決断をするも、そこへ織田からの援軍が訪れ、やむなく武田軍と戦うことに。援軍を得てガッカリする武将というもの珍しい(笑)。今回のドラマの家康は、いつも受け身の行動ですね。ここまではその受け身が功を奏してきましたが、今回はそうはいきません。


おんな城主 直虎 第37話「武田が来たりて火を放つ」 ~三方ヶ原の戦い~_e0158128_21470434.jpg 三方ヶ原を通過する武田軍を背後から突こうと出撃した徳川軍でしたが、武田軍はその心を読み、三方ヶ原を通過せずに待ち構えていました。およそ2万5千と伝わる武田軍に対して、徳川軍は半分以下の約1万(諸説あり)。しかも、野戦を得意中の得意とする信玄ですから、若い家康が太刀打ち出来るはずがありません。徳川軍はわずか2時間あまりで大敗北を喫します。敗走する徳川軍を武田軍は執拗に追撃し、夏目吉信、鈴木久三郎ら三河譜代の家臣たちが、家康の身代わりになって討死しました。家康は恐怖のあまり鞍の上に脱糞したといわれ、それを部下に指摘されると、「これは味噌だ!」と反論したなんて逸話もあります。これ、劇中にもありましたね。家康はこのときの大失策を今後の戒めにするため、「しかみ像」と呼ばれる肖像画を書かせたとも言われます(異説あり)。劇中の家康は、帰陣するなりしがみポーズをとってましたね。


 武田軍の徳川領侵攻の影響は、井伊直虎たちの住む井伊谷にも及びました。井伊谷には信玄率いる本隊とは別の山県昌景が侵攻し、ことごとく焼き払われたと伝えられます。ところが、ドラマでは武田に帰順することを良しとしない近藤康用が、せめてもの抵抗で城に火を放って逃げるという設定でしたね。まあ、武田軍が井伊谷を焼き払ったという説は確かな史料は存在せず、伝承レベルの逸話なので、ドラマのような設定でも何ら問題はないかと思いますが、でも、だったら、今話のタイトルは「武田が来たりて近藤が火を放つ」なんじゃないかと(笑)。字余りですが。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-18 21:52 | おんな城主 直虎 | Trackback(1) | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第35話「蘇えりし者たち」 ~戦国大名・今川氏の滅亡~

 徳川家康堀川城で起きた気賀の農民たちの一揆大虐殺でもって鎮圧したちょうど同じ頃、駿府を逃れた今川氏真が籠る掛川城を徳川方の本多忠勝らが攻撃していました。しかし、こちらも今川方が執拗な粘りを見せ、戦いは五分五分といったところで双方に多数の犠牲者を出します。また、今川方の大沢基胤も浜名湖の東岸のある堀江城に籠って徳川軍の攻撃に抵抗しつづけ、家康を悩ませていました(ドラマでは、堀川城の大虐殺が見せしめとなって大沢基胤が降伏したかのように描かれていましたが、実際には、基胤はその後、約1か月間持ちこたえています)。


 徳川軍の掛川城包囲戦が長期化の様相となるなかで、駿府に侵攻していた武田信玄が、家康との約定を反故にして遠江への圧迫を強めます。信玄は信玄で、駿府へ侵攻したまではよかったものの、今川氏から援軍要請を受けた北条氏によって逆に包囲され、窮地に立たされていました。これにより徳川と武田は手切れとなり、家康は氏真との和睦を模索しはじめます。


 家康は今川配下の小倉勝久和睦交渉の話を持ち掛けます。その条件は、武田軍を一掃し、氏真を再び駿河に戻すというものでした(この約束が果たされなかったことは歴史の示すとおりです)。一方で家康は、今川配下の諸将への調略も同時進行で進めており、そのなかには堀江城に籠る大沢基胤もいました。基胤は家康からの懐柔策に対して、苦慮のすえ、氏真に降伏を許可して貰うための書状を送っています。これに対して氏康は、今川家の逼迫した情勢を考えて基胤の申し出を受け入れ、徳川の軍門に下ることを許可したうえで、これまでの働きをねぎらったといいます。離反者があとを絶たなかった今川家において、基胤は最後まで今川家のために力を尽くした忠義の武将でした。その功あってか、大沢氏はその後徳川家の高家旗本として、幕末まで続きます。


 話を和睦交渉に戻すと、その後、家康と氏康の和睦交渉はスムーズに進み、永禄12年(1569年)5月17日、氏真は掛川城を開城します。「蹴鞠で雌雄を決したい」とはおそらく言っていません。一国の主らしく、家臣の助命と引き換えに堂々と城をあとにします。このとき、家康は警護の兵を派遣しています。家康としても、かつての主君に対する精一杯の礼儀だったのでしょうね。戦国大名としての今川氏は、このときをもって滅亡しました。


 その後、氏真自身は江戸時代まで生き長らえます。その後半生は、得意な蹴鞠和歌に明け暮れた日々となります。ある意味、ようやく身の丈に合った人生を手に入れたといえるかもしれません。そう考えると、勝負に負けることが必ずしも人生の負けとはいえないかもしれませんね。そして、その氏真の後半生に、妻の早川殿はずっと寄り添い続けました。甲相駿三国同盟で生まれた3組の夫婦のなかで、最後まで添い遂げたのはこの夫婦だけです。ある意味、幸せな人生だったかもしれません。


 井伊谷三人衆のひとり、鈴木重時が大沢基胤の籠る堀江城攻めで戦死したのは史実ですが、近藤康用は出陣しておらず、厳密には康用の子・近藤秀用が父の代わりに従軍していました。康用はこのとき既に長年の戦働きによる負傷で歩行困難になっていたとのことですが、ドラマでは、それをこの戦いでの負傷にしたようです。まあ、康用はこのドラマでは主要人物ですからね。このぐらいの設定変更はいいんじゃないでしょうか。


 少しだけドラマの話をすると、ようやく政次ロスから立ち直りはじめた直虎の姿が描かれた今話でしたね。隠し里で暮らす井伊家の人々も、日常を取り戻しつつあるようです。もし、あのとき南渓和尚のプラン通り、政次と直虎を気賀に逃していたら・・・結局は堀川城の一揆に巻き込まれて政次と直虎も命を落としていたかもしれませんし、そうなると、井伊家はもっと窮地に立たされていたでしょう。「俺ひとりの首で済ますのが最も血が流れぬ」と言った政次のプランが、やはり正解だったんですね。さすが、死して尚、存在感を示す但馬守です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-04 16:47 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第34話「隠し港の龍雲丸」 ~堀川城の戦い~

 前回、あまりにも衝撃的な結末に、歴史の話をまったくしなかった(する気にならなかった)ので、今回は史実解説を中心にいきます。


 永禄11年(1568年)12月、井伊谷城を攻略した徳川家康は、駿河国今川領を侵攻する武田信玄に加勢すべく遠江国の今川領へ侵攻し、年内に引間城を攻略。その後も家康は今川氏真の籠る掛川城を包囲すべく、侵攻を続けます。しかし、今川方も粘りを見せ、久野城久野宗能高天神城小笠原氏助らは徳川方に帰順しましたが、堀江城大沢基胤と同一族の中安種豊は、反徳川を鮮明にしていました。家康は思った以上に苦戦を強いられることとなります。


 そんな状況下、永禄12年(1569年)3月、気賀の地侍や農民が一揆を起こし、湖岸にある堀川城に女も含めた2,000人が立て籠もるという事態が起きます。この一揆は、竹田高正、山村修理、尾藤主膳らをはじめとする武装蜂起した民たちが中心で、徳川氏の遠江国支配を嫌う親今川氏の最大級の反乱でした。3月27日、家康は3,000の兵をもって堀川城攻めを開始。ドラマでもありましたが、堀川城は干潮時陸続きですが、満潮時には城に行くのに船が必要だったといいます。徳川軍は最初の攻撃は満潮時だったため上手く攻められずに兵を引きますが、2回目の攻撃は干潮時だったため、凄まじい攻撃でたちまち城を落としました。


 『改正三河後風土記』によると、堀川城に籠っていた兵108人が首を討たれたが、烏合の一揆衆寛仁の沙汰によって赦された、とあります。しかし、徳川家家臣の大久保彦左衛門忠教が記した『三河物語』では、約1,000人なで斬りにされたと伝えています。徳川びいきの記述が目立つ『三河物語』が伝えることですから、ほぼ事実と見ていいのでしょう。同じく『三河物語』によると、700人の村人が捕虜となり、9月9日に首をはねられたとあります。そしてその首を小川に沿った道に晒したといわれ、その場所は「獄門畷」と呼ばれるようになり、現在に至るそうです。


ドラマでは、家康は直接関わっておらず、すべて重臣の酒井忠次が計画したことになっていましたが、皆殺しにするか情けをかけて恩を売るか、といった重要な政治的判断を家臣に任せるなどは考えづらく、たぶん、家康の命令で行われたと考えられます。家康はよほど虫の居所が悪かったのか、それとも、見せしめを必要とするほど何かを恐れていたのか、いずれにせよ、当時の気賀の住民の半数以上が犠牲となったといいますから、まさに「大虐殺」といっていいでしょう。家康の黒歴史です。


 さて、少しだけドラマに戻って、巷では「政次ロス」という言葉が飛び交っていますが、もっとも「政次ロス」に罹っていたのは、どうやら井伊直虎本人だったようです。あの状態を記憶喪失というのか現実逃避というべきか、いずれにせよ、政次の死をなかったことにしたいという強烈な思いが、直虎の心を支配している状態なんでしょう。最も大切な人を自分の手で殺した経験がないので、どうにもわかりかねますが・・・。印象的なのは、前話の政次処刑の前も後も、直虎は一度も涙を流してないんですよね。それが、辞世の句を読んで、はじめて涙がこぼれた。やはり、直虎は何かに取り憑かれていたというか、自分の心とは真逆の行動を自らに強いたとき、人は心を失ってしまうのかもしれません。それが、辞世を読んで心を取り戻し、自然、涙が出た。細かい心理描写ですね。あの壮絶な処刑シーンで涙を流さない柴咲コウさんの迫真の演技感服です。


 あれっ? また前回の話になっちゃいました。やっぱ、わたしも「政次ロス」のようです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-28 19:42 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第33話「嫌われ政次の一生」 ~小野但馬守政次の最期~

 すごいものを見てしまった・・・というのが今の率直な感想です。今話に限っては、ここでわたしごときが何を語っても安っぽくなるだけで、正直、あまり起稿意欲がわきません。まさに、筆舌に尽くしがたいとはこのことですね。長年大河ドラマを観てきましたが、昔は壮絶な最期惨い処刑シーンは結構あったものの、これほどの衝撃を受けたのははじめてかもしれません。


 『井伊家伝記』にみる小野但馬守政次は、謀略によって井伊直親を死に追いやり、井伊直虎の発布した徳政令に乗じて井伊領を乗っ取った奸臣として伝わります。その最期は、徳川家康の派遣した井伊谷三人衆によって捕らえられ、家康の命によって処刑されます。その罪状は、直親を讒言によって死に追いやったこと、井伊家を乗っ取り、虎松(のちの井伊直政)を亡き者にしようとしたことでした。この通説でいえば、当然、直虎も政次の処刑を望んでいたはずです。


 ところが、今年の大河の基軸は、おとわ、亀之丞、鶴丸の幼馴染3人の友情、愛情物語。政次は直虎を生涯思い続け、直虎も政次を頼り続けます。だから、政次の最期をどう描くのか、政次の処刑を直虎にどう受け止めさせるのか、ここが最も注目の場面でした。ここの描き方次第で、本作は名作にも駄作にもなり得る、と。



 いろいろ考えました。泣き叫びすがる直虎に見送られて死ぬのは、政次の望むところではないだろう・・・これは、大方の視聴者の方々もわかっていたんじゃないでしょうか。ならば、捨て石となるため最期にまた直虎を謀り、あえて憎まれて死んでいくのではないか・・・わたしが想像できたのは、所詮ここまででした。まさか、その意を汲んだ直虎に手を下させようとは・・・。度肝をぬかれました。
 

 「忌み嫌われ井伊の仇となる。恐らく私はこのために生まれてきたのだ。」


 奸臣の汚名を着てでも直虎を守ることが小野の本懐ならば、その本懐を直虎自らの手で遂げさせてやる。壮絶な愛情表現ですね。左胸を突いたのは、苦しむ時間を少しでも短くしてやろうという直虎の情けだったのでしょうか? 通説では、政次には妻子があり、このとき、二人の息子も共に処刑されたと伝えられます。しかし、ドラマの政次は生涯独身でした。それは、直虎を思い続ける政次に妻子は不要、ということもあったのでしょうが、この政次処刑のシーンのためでもあったのかもしれません。だって、直虎に二人の息子まで処刑させるわけにはいかなかったでしょうから。


 「地獄へは俺が行く」


 第31話で政次が言った台詞ですが、直虎は政次をひとりで地獄へ行かせなかったんですね。あとから行くから地獄で待ってろ、と。誰かが言っていましたが、まさに究極のラブシーンです。


 前話の稿でも述べましたが、通説となっている小野政次奸臣説を伝えるのは、江戸時代中期に書かれた『井伊家伝記』のみです。いつの時代でもそうですが、歴史とは、勝者が勝者の都合によって作るもので、歴史に客観的な正史など存在しない。そんな当たり前のことを、あらためて教えてくれた本作だったような気がします。


白黒をつけむと君をひとり待つ 天つたふ日そ楽しからすや 政次


もちろん、小野但馬守政次の辞世は伝わっておらず、ドラマのオリジナルです。でも、見事な辞世ですね。この「嫌われ政次」という人物像を作り上げてくれたすべての関係者の方々に感謝します。


https://youtu.be/v9IdRtzkGQQ

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by sakanoueno-kumo | 2017-08-21 21:55 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第32話「復活の火」 ~井伊谷三人衆と小野但馬守政次~

 永禄11年(1568年)12月6日、甲斐国の武田信玄は甲府を出発して駿河への侵攻を開始します。対する今川氏真は、12月12日、武田軍を迎撃するため重臣の庵原忠胤に1万5千の軍勢を与えて、薩埵峠へ向かわせました。しかし、ここで今川は有力な国衆21人の裏切りにあい、12月13日、今川軍は潰走し、駿府は武田軍に占領されます。今川氏滅亡劇が始まりました。


 一方、三河国の徳川家康も、信玄に呼応するかたちで動き始めます。『三河物語』によると、信玄と家康は事前に示し合わせ、大井川をはさんで駿河国武田領遠江国徳川領にする密約を交わしていたといわれます。三河国から遠江国に侵攻するには、その国境に位置する井伊谷は重要な拠点となります。その徳川に取り入って井伊家の再興を図るというのが、ドラマでの井伊直虎小野但馬守政次の狙いでした。


 『改正三河後風土記』によると、遠江を攻略すべく岡崎城を発った家康は、まず、井伊谷城を攻めようと三河野田城主の菅沼定盈とその家臣・今泉延伝案内役を命じます。その定盈は家康に対し、「井伊谷城は要害の地にある城ゆえ攻めるに難しく、力攻めにすれば空しく月日を費やし、兵を多く失うことになります。そこで、わたしの一族である菅沼忠久や近藤康用、鈴木重時という井伊谷の三人の豪傑に恩を施して味方につけ、戦わずして城を手に入れましょう。」と進言したといい、これを受けた家康は「その申すところ、もっともである。」として、井伊谷近くまで馬を進め、三人に知行の宛行状を渡したと伝えます。このシーンはドラマにもありましたね。


 一方で、『井伊家伝記』によると、家康は菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の三人に井伊谷城を攻めさせ、小野但馬守政次を敗走させたと伝えます。三人の軍勢はよほど強かったようで、政次は満足に戦うことなく逃亡したといいます。ただ、井伊谷城を攻撃したという記述は『井伊家伝記』のみに見られるもので、史実かどうかは定かではありません。何度か紹介してきたとおり、『井伊家伝記』は江戸時代中期に書かれた家伝で、その信憑性については疑問符が打たれる史料なので(・・・ただ、それを言ってしまうと、井伊直虎=次郎法師というのも、この『井伊家伝記』に基づく説なんですが)。


 『井伊家伝記』の記述を信用すれば、井伊家を横領して我が物にしようとした奸臣・小野但馬守政次が悪者で、その政次を捉えて処刑に追いやった近藤康用こそが、井伊家を救った恩人ということになります。ところが、ドラマではまったく逆の設定。政次こそが井伊家のために命を張った忠臣で、近藤はこれまでの遺恨(材木泥棒の話)などから井伊家を快く思っておらず、この機に乗じて井伊谷を乗っ取ろうとする悪役に描かれていました。その真偽はどうなのか・・・。先述したとおり、『井伊家伝記』は徳川を批判することが許されない江戸時代中期に書かれたもので、歴史家のあいだでは、小野を悪役に仕立てることで、徳川、井伊谷三人衆、井伊の大義名分を確保した可能性が指摘されている史料です。そう考えれば、ドラマのような解釈はまったく否定できませんよね。実際、『井伊家伝記』の記述にみる井伊谷城横領後の政次の行動は、あまりにもお粗末すぎて不自然です。案外、ドラマのような物語があったのかもしれません。


「にわかには信じられぬであろうが、井伊と小野はふたつでひとつであった。井伊を抑えるために小野があり、小野を犬にするため井伊がなくてはならなかった。ゆえに憎み合わねばならなかった。そして生き延びるほかなかったのだ。」


 それが、大国・今川氏の傘下で小国が生きていくための手段だった・・・と。かつて「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」と語った政次の亡き父・小野和泉守政直の言葉は、こういうことだったんですね。しかし、それも今日で終わりだ・・・と。ここから、新しい井伊家が始まるんだ・・・と。


 しかし、その新しい井伊家に小野は参加できません。政次という人物の見方は、いくらでも角度を変えて解釈できるでしょうが、歴史上起こった出来事までは変えることはできません。次回、その悲痛な結末が描かれます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-14 16:13 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第29話「女たちの挽歌」 ~信玄・家康の密約と虎松の生母の再婚~

寿桂尼がこの世を去った永禄11年(1568年)、井伊家を取り巻く情勢はいよいよ緊迫の様相を呈していました。同年8月17日、実質破綻していた甲斐国武田信玄駿河国今川氏真手切れが決定的となります。危機感を抱いた氏真は、越後国上杉謙信同盟を結ぶべく懸命に交渉を進めていました。劇中、井伊直虎三河国徳川家康に上杉氏との同盟を持ちかけたのは、そんな背景からの着想だったわけです。上杉氏と徳川氏が結び、そこに今川氏と北条氏が加われば、武田氏の駿河侵攻は避けられる・・・と。しかし、信玄はすでに家康に接近し、大井川をはさんで駿河国は武田氏、遠江国を徳川氏といった密約を交わしていたといわれます。武田軍の駿河侵攻は時間の問題でした。


 ドラマでは描かれていませんでしたが、信玄がこのタイミングで動き出した背景には、この年の9月、織田信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛したことが影響していたと思われます。このとき、武田氏と織田氏は同盟関係にありましたが、織田氏の勢力拡大は武田氏にとって決して喜ばしいことではなく、牽制する必要があったんですね。そのためには、東の憂いを排除しておく必要があったわけです。


 直虎が家康に上杉氏との同盟を勧めたという話はドラマのオリジナルの設定なので、当然ながら同盟は不成立に終わります。そして、逆にその行為がとなって、井伊家の立ち位置を危ぶまれ、井伊虎松の母・しの人質に要求されてしまいます。もちろんこれも、ドラマのオリジナル設定です。


 しかし、虎松の生母再婚したという話は本当で、その相手が徳川方の間者・松下常慶の兄・松下源太郎清景というのも史実です。この件に関して『井伊家伝記』にはこう記されています。


 「直盛公内室並びに次郎法師御相談にて、直政公御実母御年若故、松下源太郎方へ御縁付き成され候」


 直虎は母の祐椿尼と相談し、若くして未亡人となった虎松の母に再婚を勧め、松下源太郎清景に嫁がせたというんですね。どうやら人質ではなかったようです。ただ、この結婚がいつだったかはわかっておらず、ちょうどこの駿河攻め直前にもってきて人質としたのは、上手い設定だったんじゃないでしょうか?


 この松下氏とは、頭陀寺城の城主・松下加兵衛之綱の一族です。之綱といえば、まだ織田信長に仕える前の少年・藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の非凡さを見抜いて拾い上げ、武士として育てたことで知られる人物です。その一族である清景は、虎松の実母と結婚したことで虎松の継父となり、後年、井伊直政となった虎松が徳川家家臣として頭角を現すと、井伊家の重臣として代々仕えることになります。


 物語は前回あたりがらグッと大河ドラマらしくなってきましたね。緊迫した甲駿関係、そんななか、直虎のとる策は・・・。これから数話、ドラマは大きなクライマックスを迎えます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-24 21:53 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第21話「ぬしの名は」 ~気賀宿と中村屋~

 浜名湖に面する商業の町・気賀が今話の舞台でしたね。気賀は現在の浜松市北区にあった地名で、かつては東海道の脇往還である本坂通の宿駅として栄え、江戸時代には気賀関所が設けられたまちでした。エンディングの『直虎紀行』でも紹介されていたとおり、かつて浜名湖は淡水湖だったそうですが、ドラマのこの時代より遡ること70年近く前の明応7年(1489年)に起きた「明応の大地震」によって南側が決壊し、海へと通じるようになったそうです。これにより浜名湖南側を走る大動脈、東海道分断されてしまい、北側を迂回する本坂通の往来が盛んになり、その街道沿いのまちだった気賀は、宿場として栄えました。気賀の東に流れる井伊谷川都田川には橋が架かっておらず、街道を往来する人々は渡し船で通行したそうで、まちには船着場がいくつもあったといいます。


ちなみに、ドラマでは気賀を「きが」と言っていましたが、「きが」と読まれるようになったのは昭和12年(1937年)からだそうで、それ以前は「けが」と読んでいたそうです。


 ドラマに出てくる盗賊の頭・龍雲丸は架空の人物ですが、気賀の商人を取り仕切っていた中村与太夫は実在の人物です。代々、浜名湖の航路を支配していた中村氏は、この時代、屋号『中村屋』をかかげて、今川家の代官として戦船も管理していたといいます。この頃の中村氏の当主は第18代・中村正吉で、ドラマに出てきた中村与太夫は正吉の次男です。これより少しあとの永禄11年(1568年)、松平(徳川)家康が遠江国に入ると、正吉は船を出してこれを迎えたといい、その後、主君を今川氏から松平氏に乗り換えました。さすがは商家、機を見るに敏ですね。もっとも、この頃の今川氏は支配下の相次ぐ離反に歯止めが効かない状態にありましたから、中村氏の判断は当然のことだったといえるでしょうが。中村氏が付いたことで、松平氏は浜名湖の航路を手中に治めたわけです。これは大きかったでしょうね。

 以後、中村氏は徳川家に仕え、今切軍船兵糧奉行代官を勤めました。次男の与太夫はその分家にあたる気賀中村家の始祖となり、その当主は代々「与太夫」を名乗り、気賀宿の本陣として繁栄を築きました。余談ですが、後年、家康が正室・築山殿(瀬名姫)侍女に手を付けて妊娠させてしまった子を、宇布見の本家中村家の屋敷で産ませたといわれています。のちに家康はたくさんの女性に子どもを産ませますが、正室以外の女性に産ませた子としては、たぶん、これが最初のお手付きだったと思われ、しかも、それが築山殿の侍女だったということもあり、多少は後ろめたい思いがあったのかもしれません。一説によると、侍女の懐妊を知った築山殿は超激怒し、侍女の身の危険すら感じられたため、その目を逃れるために城外で出産させたとも。その出産の場に中村家の屋敷が選ばれたわけですから、中村氏が家康からよほど信頼されていたことがわかりますね。

 ちなみに、そのお手付きとなった女性は於万の方(長勝院)で、中村屋敷で生まれた子が、のちの結城秀康です。

 少しだけドラマのストーリーの話しをすると、龍雲丸から武家は百姓が作ったものを召し上げる大泥棒と言われ、ガビーンとなった井伊直虎。まあ、税金なんてものは払わずにすむなら払いたくないと思うのが世の常で、取られる側からしてみれば「盗られてる」感覚になるのは今も同じですね。ましてや、この時代の百姓に課された年貢の税率は、現代の税金とは比較にならないほど重いものでしたから。


もっとも、農民と武家の関係は直虎が言ってた土地の貸借関係というより、荘園の警護と百姓の保護のために有力農民の中から自然発生的に生まれたのが武家ですから(異説あり)、百姓は米を作り、武家は命を張る、といった相互関係が成り立っていたんじゃないかと思います。むしろ、政務活動費と称して多額の公金を横領し、記者会見で無様な号泣を晒したどっかの県議や、政治資金を公私混同してピザの本やら家族旅行やら中国服やらに使って辞職に追い込まれたどっかの都知事など、わたしたちの血税を私物化する「税金泥棒」は、現代の政治家や役人のほうが多いかもしれませんよ。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-29 17:35 | おんな城主 直虎 | Trackback | Comments(5)