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おんな城主 直虎 第35話「蘇えりし者たち」 ~戦国大名・今川氏の滅亡~

 徳川家康堀川城で起きた気賀の農民たちの一揆大虐殺でもって鎮圧したちょうど同じ頃、駿府を逃れた今川氏真が籠る掛川城を徳川方の本多忠勝らが攻撃していました。しかし、こちらも今川方が執拗な粘りを見せ、戦いは五分五分といったところで双方に多数の犠牲者を出します。また、今川方の大沢基胤も浜名湖の東岸のある堀江城に籠って徳川軍の攻撃に抵抗しつづけ、家康を悩ませていました(ドラマでは、堀川城の大虐殺が見せしめとなって大沢基胤が降伏したかのように描かれていましたが、実際には、基胤はその後、約1か月間持ちこたえています)。


 徳川軍の掛川城包囲戦が長期化の様相となるなかで、駿府に侵攻していた武田信玄が、家康との約定を反故にして遠江への圧迫を強めます。信玄は信玄で、駿府へ侵攻したまではよかったものの、今川氏から援軍要請を受けた北条氏によって逆に包囲され、窮地に立たされていました。これにより徳川と武田は手切れとなり、家康は氏真との和睦を模索しはじめます。


 家康は今川配下の小倉勝久和睦交渉の話を持ち掛けます。その条件は、武田軍を一掃し、氏真を再び駿河に戻すというものでした(この約束が果たされなかったことは歴史の示すとおりです)。一方で家康は、今川配下の諸将への調略も同時進行で進めており、そのなかには堀江城に籠る大沢基胤もいました。基胤は家康からの懐柔策に対して、苦慮のすえ、氏真に降伏を許可して貰うための書状を送っています。これに対して氏康は、今川家の逼迫した情勢を考えて基胤の申し出を受け入れ、徳川の軍門に下ることを許可したうえで、これまでの働きをねぎらったといいます。離反者があとを絶たなかった今川家において、基胤は最後まで今川家のために力を尽くした忠義の武将でした。その功あってか、大沢氏はその後徳川家の高家旗本として、幕末まで続きます。


 話を和睦交渉に戻すと、その後、家康と氏康の和睦交渉はスムーズに進み、永禄12年(1569年)5月17日、氏真は掛川城を開城します。「蹴鞠で雌雄を決したい」とはおそらく言っていません。一国の主らしく、家臣の助命と引き換えに堂々と城をあとにします。このとき、家康は警護の兵を派遣しています。家康としても、かつての主君に対する精一杯の礼儀だったのでしょうね。戦国大名としての今川氏は、このときをもって滅亡しました。


 その後、氏真自身は江戸時代まで生き長らえます。その後半生は、得意な蹴鞠和歌に明け暮れた日々となります。ある意味、ようやく身の丈に合った人生を手に入れたといえるかもしれません。そう考えると、勝負に負けることが必ずしも人生の負けとはいえないかもしれませんね。そして、その氏真の後半生に、妻の早川殿はずっと寄り添い続けました。甲相駿三国同盟で生まれた3組の夫婦のなかで、最後まで添い遂げたのはこの夫婦だけです。ある意味、幸せな人生だったかもしれません。


 井伊谷三人衆のひとり、鈴木重時が大沢基胤の籠る堀江城攻めで戦死したのは史実ですが、近藤康用は出陣しておらず、厳密には康用の子・近藤秀用が父の代わりに従軍していました。康用はこのとき既に長年の戦働きによる負傷で歩行困難になっていたとのことですが、ドラマでは、それをこの戦いでの負傷にしたようです。まあ、康用はこのドラマでは主要人物ですからね。このぐらいの設定変更はいいんじゃないでしょうか。


 少しだけドラマの話をすると、ようやく政次ロスから立ち直りはじめた直虎の姿が描かれた今話でしたね。隠し里で暮らす井伊家の人々も、日常を取り戻しつつあるようです。もし、あのとき南渓和尚のプラン通り、政次と直虎を気賀に逃していたら・・・結局は堀川城の一揆に巻き込まれて政次と直虎も命を落としていたかもしれませんし、そうなると、井伊家はもっと窮地に立たされていたでしょう。「俺ひとりの首で済ますのが最も血が流れぬ」と言った政次のプランが、やはり正解だったんですね。さすが、死して尚、存在感を示す但馬守です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-04 16:47 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第34話「隠し港の龍雲丸」 ~堀川城の戦い~

 前回、あまりにも衝撃的な結末に、歴史の話をまったくしなかった(する気にならなかった)ので、今回は史実解説を中心にいきます。


 永禄11年(1568年)12月、井伊谷城を攻略した徳川家康は、駿河国今川領を侵攻する武田信玄に加勢すべく遠江国の今川領へ侵攻し、年内に引間城を攻略。その後も家康は今川氏真の籠る掛川城を包囲すべく、侵攻を続けます。しかし、今川方も粘りを見せ、久野城久野宗能高天神城小笠原氏助らは徳川方に帰順しましたが、堀江城大沢基胤と同一族の中安種豊は、反徳川を鮮明にしていました。家康は思った以上に苦戦を強いられることとなります。


 そんな状況下、永禄12年(1569年)3月、気賀の地侍や農民が一揆を起こし、湖岸にある堀川城に女も含めた2,000人が立て籠もるという事態が起きます。この一揆は、竹田高正、山村修理、尾藤主膳らをはじめとする武装蜂起した民たちが中心で、徳川氏の遠江国支配を嫌う親今川氏の最大級の反乱でした。3月27日、家康は3,000の兵をもって堀川城攻めを開始。ドラマでもありましたが、堀川城は干潮時陸続きですが、満潮時には城に行くのに船が必要だったといいます。徳川軍は最初の攻撃は満潮時だったため上手く攻められずに兵を引きますが、2回目の攻撃は干潮時だったため、凄まじい攻撃でたちまち城を落としました。


 『改正三河後風土記』によると、堀川城に籠っていた兵108人が首を討たれたが、烏合の一揆衆寛仁の沙汰によって赦された、とあります。しかし、徳川家家臣の大久保彦左衛門忠教が記した『三河物語』では、約1,000人なで斬りにされたと伝えています。徳川びいきの記述が目立つ『三河物語』が伝えることですから、ほぼ事実と見ていいのでしょう。同じく『三河物語』によると、700人の村人が捕虜となり、9月9日に首をはねられたとあります。そしてその首を小川に沿った道に晒したといわれ、その場所は「獄門畷」と呼ばれるようになり、現在に至るそうです。


ドラマでは、家康は直接関わっておらず、すべて重臣の酒井忠次が計画したことになっていましたが、皆殺しにするか情けをかけて恩を売るか、といった重要な政治的判断を家臣に任せるなどは考えづらく、たぶん、家康の命令で行われたと考えられます。家康はよほど虫の居所が悪かったのか、それとも、見せしめを必要とするほど何かを恐れていたのか、いずれにせよ、当時の気賀の住民の半数以上が犠牲となったといいますから、まさに「大虐殺」といっていいでしょう。家康の黒歴史です。


 さて、少しだけドラマに戻って、巷では「政次ロス」という言葉が飛び交っていますが、もっとも「政次ロス」に罹っていたのは、どうやら井伊直虎本人だったようです。あの状態を記憶喪失というのか現実逃避というべきか、いずれにせよ、政次の死をなかったことにしたいという強烈な思いが、直虎の心を支配している状態なんでしょう。最も大切な人を自分の手で殺した経験がないので、どうにもわかりかねますが・・・。印象的なのは、前話の政次処刑の前も後も、直虎は一度も涙を流してないんですよね。それが、辞世の句を読んで、はじめて涙がこぼれた。やはり、直虎は何かに取り憑かれていたというか、自分の心とは真逆の行動を自らに強いたとき、人は心を失ってしまうのかもしれません。それが、辞世を読んで心を取り戻し、自然、涙が出た。細かい心理描写ですね。あの壮絶な処刑シーンで涙を流さない柴咲コウさんの迫真の演技感服です。


 あれっ? また前回の話になっちゃいました。やっぱ、わたしも「政次ロス」のようです。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-28 19:42 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第33話「嫌われ政次の一生」 ~小野但馬守政次の最期~

 すごいものを見てしまった・・・というのが今の率直な感想です。今話に限っては、ここでわたしごときが何を語っても安っぽくなるだけで、正直、あまり起稿意欲がわきません。まさに、筆舌に尽くしがたいとはこのことですね。長年大河ドラマを観てきましたが、昔は壮絶な最期惨い処刑シーンは結構あったものの、これほどの衝撃を受けたのははじめてかもしれません。


 『井伊家伝記』にみる小野但馬守政次は、謀略によって井伊直親を死に追いやり、井伊直虎の発布した徳政令に乗じて井伊領を乗っ取った奸臣として伝わります。その最期は、徳川家康の派遣した井伊谷三人衆によって捕らえられ、家康の命によって処刑されます。その罪状は、直親を讒言によって死に追いやったこと、井伊家を乗っ取り、虎松(のちの井伊直政)を亡き者にしようとしたことでした。この通説でいえば、当然、直虎も政次の処刑を望んでいたはずです。


 ところが、今年の大河の基軸は、おとわ、亀之丞、鶴丸の幼馴染3人の友情、愛情物語。政次は直虎を生涯思い続け、直虎も政次を頼り続けます。だから、政次の最期をどう描くのか、政次の処刑を直虎にどう受け止めさせるのか、ここが最も注目の場面でした。ここの描き方次第で、本作は名作にも駄作にもなり得る、と。



 いろいろ考えました。泣き叫びすがる直虎に見送られて死ぬのは、政次の望むところではないだろう・・・これは、大方の視聴者の方々もわかっていたんじゃないでしょうか。ならば、捨て石となるため最期にまた直虎を謀り、あえて憎まれて死んでいくのではないか・・・わたしが想像できたのは、所詮ここまででした。まさか、その意を汲んだ直虎に手を下させようとは・・・。度肝をぬかれました。
 

 「忌み嫌われ井伊の仇となる。恐らく私はこのために生まれてきたのだ。」


 奸臣の汚名を着てでも直虎を守ることが小野の本懐ならば、その本懐を直虎自らの手で遂げさせてやる。壮絶な愛情表現ですね。左胸を突いたのは、苦しむ時間を少しでも短くしてやろうという直虎の情けだったのでしょうか? 通説では、政次には妻子があり、このとき、二人の息子も共に処刑されたと伝えられます。しかし、ドラマの政次は生涯独身でした。それは、直虎を思い続ける政次に妻子は不要、ということもあったのでしょうが、この政次処刑のシーンのためでもあったのかもしれません。だって、直虎に二人の息子まで処刑させるわけにはいかなかったでしょうから。


 「地獄へは俺が行く」


 第31話で政次が言った台詞ですが、直虎は政次をひとりで地獄へ行かせなかったんですね。あとから行くから地獄で待ってろ、と。誰かが言っていましたが、まさに究極のラブシーンです。


 前話の稿でも述べましたが、通説となっている小野政次奸臣説を伝えるのは、江戸時代中期に書かれた『井伊家伝記』のみです。いつの時代でもそうですが、歴史とは、勝者が勝者の都合によって作るもので、歴史に客観的な正史など存在しない。そんな当たり前のことを、あらためて教えてくれた本作だったような気がします。


白黒をつけむと君をひとり待つ 天つたふ日そ楽しからすや 政次


もちろん、小野但馬守政次の辞世は伝わっておらず、ドラマのオリジナルです。でも、見事な辞世ですね。この「嫌われ政次」という人物像を作り上げてくれたすべての関係者の方々に感謝します。


https://youtu.be/v9IdRtzkGQQ

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by sakanoueno-kumo | 2017-08-21 21:55 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第32話「復活の火」 ~井伊谷三人衆と小野但馬守政次~

 永禄11年(1568年)12月6日、甲斐国の武田信玄は甲府を出発して駿河への侵攻を開始します。対する今川氏真は、12月12日、武田軍を迎撃するため重臣の庵原忠胤に1万5千の軍勢を与えて、薩埵峠へ向かわせました。しかし、ここで今川は有力な国衆21人の裏切りにあい、12月13日、今川軍は潰走し、駿府は武田軍に占領されます。今川氏滅亡劇が始まりました。


 一方、三河国の徳川家康も、信玄に呼応するかたちで動き始めます。『三河物語』によると、信玄と家康は事前に示し合わせ、大井川をはさんで駿河国武田領遠江国徳川領にする密約を交わしていたといわれます。三河国から遠江国に侵攻するには、その国境に位置する井伊谷は重要な拠点となります。その徳川に取り入って井伊家の再興を図るというのが、ドラマでの井伊直虎小野但馬守政次の狙いでした。


 『改正三河後風土記』によると、遠江を攻略すべく岡崎城を発った家康は、まず、井伊谷城を攻めようと三河野田城主の菅沼定盈とその家臣・今泉延伝案内役を命じます。その定盈は家康に対し、「井伊谷城は要害の地にある城ゆえ攻めるに難しく、力攻めにすれば空しく月日を費やし、兵を多く失うことになります。そこで、わたしの一族である菅沼忠久や近藤康用、鈴木重時という井伊谷の三人の豪傑に恩を施して味方につけ、戦わずして城を手に入れましょう。」と進言したといい、これを受けた家康は「その申すところ、もっともである。」として、井伊谷近くまで馬を進め、三人に知行の宛行状を渡したと伝えます。このシーンはドラマにもありましたね。


 一方で、『井伊家伝記』によると、家康は菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時の三人に井伊谷城を攻めさせ、小野但馬守政次を敗走させたと伝えます。三人の軍勢はよほど強かったようで、政次は満足に戦うことなく逃亡したといいます。ただ、井伊谷城を攻撃したという記述は『井伊家伝記』のみに見られるもので、史実かどうかは定かではありません。何度か紹介してきたとおり、『井伊家伝記』は江戸時代中期に書かれた家伝で、その信憑性については疑問符が打たれる史料なので(・・・ただ、それを言ってしまうと、井伊直虎=次郎法師というのも、この『井伊家伝記』に基づく説なんですが)。


 『井伊家伝記』の記述を信用すれば、井伊家を横領して我が物にしようとした奸臣・小野但馬守政次が悪者で、その政次を捉えて処刑に追いやった近藤康用こそが、井伊家を救った恩人ということになります。ところが、ドラマではまったく逆の設定。政次こそが井伊家のために命を張った忠臣で、近藤はこれまでの遺恨(材木泥棒の話)などから井伊家を快く思っておらず、この機に乗じて井伊谷を乗っ取ろうとする悪役に描かれていました。その真偽はどうなのか・・・。先述したとおり、『井伊家伝記』は徳川を批判することが許されない江戸時代中期に書かれたもので、歴史家のあいだでは、小野を悪役に仕立てることで、徳川、井伊谷三人衆、井伊の大義名分を確保した可能性が指摘されている史料です。そう考えれば、ドラマのような解釈はまったく否定できませんよね。実際、『井伊家伝記』の記述にみる井伊谷城横領後の政次の行動は、あまりにもお粗末すぎて不自然です。案外、ドラマのような物語があったのかもしれません。


「にわかには信じられぬであろうが、井伊と小野はふたつでひとつであった。井伊を抑えるために小野があり、小野を犬にするため井伊がなくてはならなかった。ゆえに憎み合わねばならなかった。そして生き延びるほかなかったのだ。」


 それが、大国・今川氏の傘下で小国が生きていくための手段だった・・・と。かつて「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。」と語った政次の亡き父・小野和泉守政直の言葉は、こういうことだったんですね。しかし、それも今日で終わりだ・・・と。ここから、新しい井伊家が始まるんだ・・・と。


 しかし、その新しい井伊家に小野は参加できません。政次という人物の見方は、いくらでも角度を変えて解釈できるでしょうが、歴史上起こった出来事までは変えることはできません。次回、その悲痛な結末が描かれます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-08-14 16:13 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第29話「女たちの挽歌」 ~信玄・家康の密約と虎松の生母の再婚~

寿桂尼がこの世を去った永禄11年(1568年)、井伊家を取り巻く情勢はいよいよ緊迫の様相を呈していました。同年8月17日、実質破綻していた甲斐国武田信玄駿河国今川氏真手切れが決定的となります。危機感を抱いた氏真は、越後国上杉謙信同盟を結ぶべく懸命に交渉を進めていました。劇中、井伊直虎三河国徳川家康に上杉氏との同盟を持ちかけたのは、そんな背景からの着想だったわけです。上杉氏と徳川氏が結び、そこに今川氏と北条氏が加われば、武田氏の駿河侵攻は避けられる・・・と。しかし、信玄はすでに家康に接近し、大井川をはさんで駿河国は武田氏、遠江国を徳川氏といった密約を交わしていたといわれます。武田軍の駿河侵攻は時間の問題でした。


 ドラマでは描かれていませんでしたが、信玄がこのタイミングで動き出した背景には、この年の9月、織田信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛したことが影響していたと思われます。このとき、武田氏と織田氏は同盟関係にありましたが、織田氏の勢力拡大は武田氏にとって決して喜ばしいことではなく、牽制する必要があったんですね。そのためには、東の憂いを排除しておく必要があったわけです。


 直虎が家康に上杉氏との同盟を勧めたという話はドラマのオリジナルの設定なので、当然ながら同盟は不成立に終わります。そして、逆にその行為がとなって、井伊家の立ち位置を危ぶまれ、井伊虎松の母・しの人質に要求されてしまいます。もちろんこれも、ドラマのオリジナル設定です。


 しかし、虎松の生母再婚したという話は本当で、その相手が徳川方の間者・松下常慶の兄・松下源太郎清景というのも史実です。この件に関して『井伊家伝記』にはこう記されています。


 「直盛公内室並びに次郎法師御相談にて、直政公御実母御年若故、松下源太郎方へ御縁付き成され候」


 直虎は母の祐椿尼と相談し、若くして未亡人となった虎松の母に再婚を勧め、松下源太郎清景に嫁がせたというんですね。どうやら人質ではなかったようです。ただ、この結婚がいつだったかはわかっておらず、ちょうどこの駿河攻め直前にもってきて人質としたのは、上手い設定だったんじゃないでしょうか?


 この松下氏とは、頭陀寺城の城主・松下加兵衛之綱の一族です。之綱といえば、まだ織田信長に仕える前の少年・藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の非凡さを見抜いて拾い上げ、武士として育てたことで知られる人物です。その一族である清景は、虎松の実母と結婚したことで虎松の継父となり、後年、井伊直政となった虎松が徳川家家臣として頭角を現すと、井伊家の重臣として代々仕えることになります。


 物語は前回あたりがらグッと大河ドラマらしくなってきましたね。緊迫した甲駿関係、そんななか、直虎のとる策は・・・。これから数話、ドラマは大きなクライマックスを迎えます。



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by sakanoueno-kumo | 2017-07-24 21:53 | おんな城主 直虎 | Comments(0)  

おんな城主 直虎 第21話「ぬしの名は」 ~気賀宿と中村屋~

 浜名湖に面する商業の町・気賀が今話の舞台でしたね。気賀は現在の浜松市北区にあった地名で、かつては東海道の脇往還である本坂通の宿駅として栄え、江戸時代には気賀関所が設けられたまちでした。エンディングの『直虎紀行』でも紹介されていたとおり、かつて浜名湖は淡水湖だったそうですが、ドラマのこの時代より遡ること70年近く前の明応7年(1489年)に起きた「明応の大地震」によって南側が決壊し、海へと通じるようになったそうです。これにより浜名湖南側を走る大動脈、東海道分断されてしまい、北側を迂回する本坂通の往来が盛んになり、その街道沿いのまちだった気賀は、宿場として栄えました。気賀の東に流れる井伊谷川都田川には橋が架かっておらず、街道を往来する人々は渡し船で通行したそうで、まちには船着場がいくつもあったといいます。


ちなみに、ドラマでは気賀を「きが」と言っていましたが、「きが」と読まれるようになったのは昭和12年(1937年)からだそうで、それ以前は「けが」と読んでいたそうです。


 ドラマに出てくる盗賊の頭・龍雲丸は架空の人物ですが、気賀の商人を取り仕切っていた中村与太夫は実在の人物です。代々、浜名湖の航路を支配していた中村氏は、この時代、屋号『中村屋』をかかげて、今川家の代官として戦船も管理していたといいます。この頃の中村氏の当主は第18代・中村正吉で、ドラマに出てきた中村与太夫は正吉の次男です。これより少しあとの永禄11年(1568年)、松平(徳川)家康が遠江国に入ると、正吉は船を出してこれを迎えたといい、その後、主君を今川氏から松平氏に乗り換えました。さすがは商家、機を見るに敏ですね。もっとも、この頃の今川氏は支配下の相次ぐ離反に歯止めが効かない状態にありましたから、中村氏の判断は当然のことだったといえるでしょうが。中村氏が付いたことで、松平氏は浜名湖の航路を手中に治めたわけです。これは大きかったでしょうね。

 以後、中村氏は徳川家に仕え、今切軍船兵糧奉行代官を勤めました。次男の与太夫はその分家にあたる気賀中村家の始祖となり、その当主は代々「与太夫」を名乗り、気賀宿の本陣として繁栄を築きました。余談ですが、後年、家康が正室・築山殿(瀬名姫)侍女に手を付けて妊娠させてしまった子を、宇布見の本家中村家の屋敷で産ませたといわれています。のちに家康はたくさんの女性に子どもを産ませますが、正室以外の女性に産ませた子としては、たぶん、これが最初のお手付きだったと思われ、しかも、それが築山殿の侍女だったということもあり、多少は後ろめたい思いがあったのかもしれません。一説によると、侍女の懐妊を知った築山殿は超激怒し、侍女の身の危険すら感じられたため、その目を逃れるために城外で出産させたとも。その出産の場に中村家の屋敷が選ばれたわけですから、中村氏が家康からよほど信頼されていたことがわかりますね。

 ちなみに、そのお手付きとなった女性は於万の方(長勝院)で、中村屋敷で生まれた子が、のちの結城秀康です。

 少しだけドラマのストーリーの話しをすると、龍雲丸から武家は百姓が作ったものを召し上げる大泥棒と言われ、ガビーンとなった井伊直虎。まあ、税金なんてものは払わずにすむなら払いたくないと思うのが世の常で、取られる側からしてみれば「盗られてる」感覚になるのは今も同じですね。ましてや、この時代の百姓に課された年貢の税率は、現代の税金とは比較にならないほど重いものでしたから。


もっとも、農民と武家の関係は直虎が言ってた土地の貸借関係というより、荘園の警護と百姓の保護のために有力農民の中から自然発生的に生まれたのが武家ですから(異説あり)、百姓は米を作り、武家は命を張る、といった相互関係が成り立っていたんじゃないかと思います。むしろ、政務活動費と称して多額の公金を横領し、記者会見で無様な号泣を晒したどっかの県議や、政治資金を公私混同してピザの本やら家族旅行やら中国服やらに使って辞職に追い込まれたどっかの都知事など、わたしたちの血税を私物化する「税金泥棒」は、現代の政治家や役人のほうが多いかもしれませんよ。



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by sakanoueno-kumo | 2017-05-29 17:35 | おんな城主 直虎 | Comments(5)  

おんな城主 直虎 第8話「赤ちゃんはまだか」 ~しのと瀬名姫~

 今話は、そのタイトルどおり、井伊直親・しの夫婦になかなか子ができない苦悩のお話。「嫁して三年、子なきは去る」と言われた時代ですから、武家の正妻に子ができないというのは大問題だったことはわかりますが、大河ドラマの1話を使ってやるほどの話か?・・・と思わなくもないです。正直、どうでもいい話かな・・・と。井伊直虎という、ほぼ無名の人物を主人公に物語を描くには、こんな回も必要なんでしょうが・・・。ただ、1ヵ所だけ頷ける台詞が・・・。


 「私がおとわ様じゃったらと誰もが思うておる。口には出さねど、殿も、お方様も、皆も、直親様も・・・。」


 思いつめたしのが次郎法師に向けて吐いた台詞ですが、次郎法師と直親が結婚できなかった本当の理由は定かではありませんが、当主・井伊直盛にとっては、実の娘である次郎法師と直親を娶せて後継者としたかった思いは強かったでしょう。でも、何らかの理由でそれが出来ず、一族の奥山因幡守朝利の娘と結婚します。たしかに、「次郎法師だったら・・・」という目で見られていたでしょうね。


 直親の正妻となった女性については、その事績をうかがう史料は皆無に等しく、奥山因幡守朝利の娘(奥山親朝の娘という説もある)ということ以外はわかっていません。ドラマでは「しの」と名乗っているその名前も、定かではないようです。つまり、ほとんど謎の人物といっていいでしょう。ただ、結婚から約6年後の永禄4年(1561年)、直親との間に待望の男児を生んだことは間違いなく、その男児が、のちの徳川四天王の一角となる井伊直政です。後年、井伊家は徳川幕府体制のなかで5人の大老を輩出するに至るわけですが、その井伊家が滅亡寸前のこの時代、その血をかろうじて繋いだ女性が、この人だったわけですね。ある意味、歴史に大きな役割を担った女性といえるでしょうか。


 舞台を駿府に移して、前話で夫婦縁組が整った松平元康(のちの徳川家康)と瀬名姫(のちの築山殿)でしたが、今話では、もはや嫡男の竹千代(のちの松平信康)が生まれていました。史実では、瀬名姫と元康が結婚したのは弘治3年(1557年)、竹千代が生まれたのは永禄2年(1559年)とされています。瀬名姫の生年は詳らかではなく、結婚したとき共に16歳だったともいわれますが、瀬名姫が8歳年上の姉さん女房だったとの説もあります。ドラマでは、後者の設定のようですね。


寿桂尼「よい縁であろ。2人はよく話もしておるようじゃし。」

元康「身に余るお話にございます。」

瀬名「私も身が余っておりまする。」


 このくだりは笑えましたね。今回のドラマでは、今のところ面白ろキャラの瀬名姫ですが、でも、瀬名姫の人生が笑えない結末となることは周知のところだと思います。これからどんな風に描かれるのか注目しましょう。ちなみに、桶狭間の戦いは永禄3年(1600年)5月19日ですから、「ご武運を!」と言った竹千代は、このとき満1歳になったばかり。なかなかな神童ぶりですね。さすがは、家康が晩年までその死を悔やんだといわれる息子です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-02-27 21:33 | おんな城主 直虎 | Comments(2)  

真田丸 第50話「最終回」 ~日本一の兵(ひのもといちのつわもの)~

 慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣における最後の決戦が行われました。真田信繁(幸村)が布陣したのは、大坂冬の陣のときに徳川家康の本陣が敷かれていた天王寺口茶臼山でした。豊臣方は前日の激戦で後藤又兵衛基次隊や木村重成隊が壊滅し、残った兵たちも疲労困憊の状態でしたが、信繁は兵たちの士気を高めるべく自ら陣頭に立ち、起死回生の戦いに挑みます。


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 このときの真田隊の様子については、軍記物等で様々に語り継がれています。『大坂御陣山口休庵咄』では、信繁は「茶臼山に真っ赤な幟を立てて、赤一色の鎧兜に身を固めて布陣していた。その東には息子の真田大助が控えていた」とあり、また、『武徳編年集成』には、「茶磨山(茶臼山)には真田が赤備、躑躅の花咲たるが如く、堂々の陣を張る」と、そのきらびやかな武者ぶりを描写しています。信繁にとってこの日は、一世一代の晴れ舞台だったのかもしれません。


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 冬の陣の際の真田丸附近には毛利勝永隊、大野治長隊が布陣し、岡山口は大野治房隊が固めます。この日、信繁たちは、初めから家康の本陣を突くことのみに狙いを定めていました。大坂城は裸城となり、兵力差も歴然としていたなか、ダラダラと戦を長引かせたところで万にひとつの勝ちも見込めない。であれば、狙いは家康の首ただひとつ。家康を殺すことで徳川方の戦意をくじき、一気に戦いを収束させて談判に持ち込もうという作戦ですね。たしかに、この時点で豊臣方にわずかでも勝算があるとすれば、その一手しかなかったでしょう。まさに、乾坤一擲の戦いでした。


 この戦いで真田隊は、捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて強行突破を図り、3度に渡って猛攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻め込んだといいます。『幸村君伝記』には、「左衛門佐殿は、味方悉く敗走し、或は討たるるに、少しも気を屈さず、真丸に成りて駆破り駆けなびけ、縦横に当たりて、火花を散らして操み立てられける。此時、家康公の御先手敗軍して、御旗本へこぼれ懸かりける程に、御本陣もひしぎなびきて、既に危ふき事両度まで有りしと成」とあります。家康本陣を守っていた旗本たちは、まさかそこまで敵の兵が攻めてくるとは思っておらず、恐怖のあまり本陣を捨てて我先にと逃げ惑う有様だった・・・と。


 薩摩藩島津家の家臣の記録『後編薩藩旧記雑録』には、「五月七日に御所様の御陣へ、真田左衛門佐かかり候て、御陣衆三里ほどづつにげ候衆は、皆々いきのこられ候。三度目にさなだもうつ死にて候」と記されています。また、『本多家記録』には、「幸村は十文字の槍を持って家康様を目掛けて戦わんと心掛けていた。家康様はとても敵わないと思い、植松の方に退いていった」とあります。さらに、『三河物語』には、「家康の馬印が倒されたのは、武田信玄と戦った三方ヶ原の合戦以来のことだった」と伝えています。実際に信繁自身がどこまで肉薄したかはわかりませんが、宣教師らの証言によると、家康は切腹を口にしたといいますから、真田隊の猛攻によって、家康本陣は大混乱に陥ったことは間違いなさそうです。


 劇中でも、半泣きになって逃げ惑っていた家康でしたが、肉薄する信繁と向き合い観念すると、目が変わり、「手を出すなー!」と叫んで護衛を下がらせます。


家康「殺したいなら、殺せばよい。されどわしを殺したところで何も変わらぬ。徳川の世はすでに盤石。豊臣の天下には戻らん! 戦で雌雄を決する世は終わった。おぬしのような戦でしか己の生きた証を示せるような手合は、生きていくところなどどこにもないわ!」

幸村「そのようなこと百も承知! されど、わたしはお前を討ち果たさねばならぬのだ! わが父のため、わが友のため、先に死んでいった愛する者のために」


 このときの家康は、まるで、この男になら殺されてやってもいい、といった目をしていましたね。家康はこの日の戦いに臨むにあたって、激戦が予想される天王寺口の総大将を自ら望んで務めました。息子の徳川秀忠は軍議の席で、老齢の家康をそんな危険な戦場に送り出すことはできないとして、天王寺口を自分に任せてくれと懇願しますが、家康は頑なに譲らなかったといいます。そうすることで、秀忠の命を守ったともとれますが、戦経験の浅い秀忠には任せられなかったともとれます。実際、徳川軍の旗本のほとんどが戦経験のない若者たちで、その腰抜けぶりを家康は嘆いていたといいます。数回前の劇中にも、そんなシーンがありましたよね。元亀・天正からの生き残りである家康は、たとえ自分を殺しに来た敵将であれ、信繁のような武辺者は、決して嫌いではなかったはず。そんな思いが、あの目だったんじゃないかなあ・・・と。


 『後編薩藩旧記雑録』では、信繁の戦いぶりについて、「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、いにしへよりの物語にもこれなき由、惣別れのみ申す事に候」と絶賛しています。これを、ドラマでは信繁の理解者であった上杉景勝に言わせていましたね。また、『細川家記』にも、「古今これなき大手柄」と称賛しています。

「武士と生まれたからには、あのように生き、あのように死にたいものだ」

劇中の景勝の台詞ですが、信繁の戦いぶりを見た当時の武士たちは、敵味方に限らず、きっと、遠からずの感情を抱いていたんじゃないでしょうか。だから、徳川家の敵将でありながら、後世に語り継がれていったんじゃないかと・・・。


 豊臣秀頼馬印が後退したことで豊臣軍の士気が下がり、形勢は一気に徳川軍に向き始めたという話は史実です。これは、完全に大野治長のミスですね。末端の兵卒は、馬印・旗印が前進していれば優勢、後退していれば劣勢と判断します。戦場において御旗がいかに大事であるか、治長もまた、戦経験不足だったと言わざるをえません。


 秀頼がなぜ出陣しなかったかについては、様々な見方があります。出陣の準備をしていたところ、家康からの講和の使者が来たため中止になったという説や、淀殿が出陣をとめたという説、そしてドラマにあったように、信繁の徳川方内通の流言が出回っていたため、という話もあります。ドラマでは、最後まで信繁に対する疑いをぬぐい切れない大蔵卿の局が腹立たしかったですが、実際、このときの大坂城内では、戦意かく乱のために流されたデマが飛び交っており、信繁を疑う空気も広がっていたといいます。信繁も、徳川方に「浅野が寝返った」というデマを流していますしね。いずれにせよ、このときの大坂城内は、何を信じていいかわからない状態だったことが想像できます。


 信繁の最期についてですが、ドラマでは切腹によって果てたように描かれていましたが、通説では、家康本陣を3度襲撃したあと、茶臼山の北方にある安居神社の境内で休息をとっていたところ、松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、討ち取られたと伝わります。その最期は、激闘のすえ討ち取られたともいわれますし、信繁自ら首を差し出したという逸話もあります。その真偽はわかりませんが、「大切なのは、どんな死に際だったかではなく、どう生きたか」というドラマのテーマからいえば、どんな最期だったかは、どうでもいいことだったのでしょうね。


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信繁「わたしは、わたしという男がこの世にいた証しを何か残せたのか・・・」

内記「人のまことの値打ちというものは、己が決めることではございません」

信繁「誰が決める?」

内記「時でござる。戦国の世に義を貫き通し、徳川家康と渡り合った真田左衛門佐幸村の名は、日の本一の兵として語り継がれるに相違ございません」

信繁「どんな終わりを迎えてもか?」

内記「大事なのはいかに生きたかでございますゆえ」


 真田信繁という人物は、人生の最期の最後にほんの一瞬だけ輝き、そしてむなしく散っていった武将に過ぎず、徳川家康豊臣秀吉織田信長のように、何か特別なものを世に残した偉人ではありません。しかし、後世はそんな信繁に魅せられ、古今比類なき英雄として語り継いできました。徳川幕府時代にあって敵将である信繁を英雄視するというのは、よほどのことだったに違いありません。まさしく、が信繁の値打ちを決めたんですね。

 日本一の兵・・・・と。


 最終回はすいぶん長文になってしまいましたが、本稿をもって大河ドラマ『真田丸』のレビューは終わりとなります。1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。近日中には総括を起稿したいと思っていますので、よければご一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-21 00:23 | 真田丸 | Comments(2)  

真田丸 第48話「引鉄」 ~つかの間の和睦~

 今話は、慶長19年(1614年)12月20日に大坂冬の陣の和睦が成立してから、翌年の慶長20年(1615年)春に徳川方によって再び大坂城攻めが開始されるまでが描かれていました。徳川、豊臣の間で交わされた和睦は、わずか4ヶ月破綻します。実際には、和睦が成立してから堀の埋め立てに2ヶ月近くを要していますから、徳川軍が撤退してからたった2ヶ月での再戦決定となります。このスピードから見ても、徳川家康が最初から和睦するつもりなどなかったことがわかりますね。家康にしてみれば、堀や砦を再建されないうちに、一気に勝負に出たかったのでしょう。


 おそらくはその堀が埋め立てられるまでの2ヶ月の間に、真田信繁は甥の真田信吉・信政兄弟に面会したと伝えられます。関ケ原の合戦以来の面会だったでしょうから、たぶん、当時は二人とも幼児で、その成長ぶりに、改めて年月の流れを実感したことでしょうね。このとき信繁は、兄弟に従っていた矢沢頼幸ら旧家臣たちとも対面しています。故あって敵味方に分かれたとはいえ、かつては共に徳川と戦った仲であり、きっと話が尽きなかったことでしょう。


e0158128_02593242.jpg この時期に信繁が一族に宛てて書いた書状が三通残されています。そのひとつは、慶長20年(1615年)1月24日付で実姉の村松(ドラマでは)に宛てたもので、その内容は、自身が豊臣方に与したことで、真田本家に迷惑がかかっていないかを心配したうえで、和睦が成立して自身も生き残ったが、「明日はどうなるかわかならい」と記しており、信繁がこの和睦を一時的なものだと見ていたことがわかります。一方で、このまま何事もなく「平穏無事に過ごしたい」とも書いており、決して信繁は徳川との決戦を望んでいたわけではなかったこともうかがえます。


 そして翌月の2月10日には、信繁の娘・すえの岳父である石合十蔵宛てに書状を送っており、そこでは、自身がすでに死を覚悟している旨を記したうえで、「娘のすえをくれぐれもよろしく」と頼み込んでいます。


 さらに、翌月の3月10日には、姉婿の小山田茂誠とその息子・之知に宛てて書状をしたためており、そこには、自身が豊臣秀頼からひとかたならぬ信頼を受けていて有難いものの、そのために、何かと気遣いが多くて大変だと率直な気持ちを述べています。たぶん、秀頼に懇意にされてことで、大坂城内で妬みやっかみなど、ややこしい摩擦があったのでしょうね。また、書状では、「定めなき浮世のことですから、一日先のことはわかりません。どうか、私のことは、浮世にいるものとは思わないでください」と記されています。つまり、「私は死んだものと思ってくれ」ということですね。


ドラマでは、兄の真田信之に宛てた手紙が出てきましたが、実際には信之に宛てた手紙は存在せず、上述した三通の書状を下敷きにしたドラマの創作だと思われます。1月、2月、そして3月と、それぞれの書状を見ても、大坂夏の陣に向けた当時の空気感が伝わってきますね。豊臣方の中核にいた信繁は、そのすべてを肌で感じていたのでしょう。この時期、信繁はどんなことを思いながら過ごしていたのでしょうね。


 e0158128_18432594.jpgこの間、大坂方には和睦成立以前より牢人が増え、血気盛んな牢人の一部は大坂城外に出て乱暴狼藉を繰り返します。また、ドラマにもあったように、大野治長の弟・治房が、手に大坂城の蔵から配下の牢人たちに扶持を与えるという暴挙に出てしまいます。さらには、大野治長が大坂城内にて襲撃される事件が起き、その首謀者が弟の治房だという風聞が流布します。やはり、所詮は寄せ集めの烏合の衆、大坂城内は完全に統制を欠いていました。


そして3月15日、それら豊臣方の不穏な動きを伝える報が京都所司代の板倉勝重より家康の元に届くと、家康は牢人の追放か豊臣家の移封を大坂方に要求します。しかし、大坂方はそのどちらも飲むことはできず、家康も、それをわかっての無理難題だったといえるでしょう。かくして、豊臣家と徳川家は再び戦うことになります。というより、家康にそう仕向けられたといったほうが正しいでしょう。かつての天下無双の大坂城の姿はどこにもなく、防御力の一切を削がれた大坂城では、万に一つの勝ち目もないことは、火を見るよりも明らかでした。そんななか、信繁たちは何を思い、何を求めて戦いに挑んだのか。あと2話で、どう描かれるのか楽しみです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-12-05 19:26 | 真田丸 | Comments(0)  

真田丸 第47話「反撃」 ~大坂冬の陣講和~

 徳川方の砲撃に恐れおののいた淀殿は、一転して和議の申し出に応じる姿勢を見せます。ここに至るまでも、淀殿の叔父にあたる織田有楽斎長益が何度も和議を持ちかけていましたが、淀殿は一貫して強硬姿勢をとっていました。しかし、目の前で侍女が命を落とした出来事は、あまりにもショッキングだったのでしょう。とうとう有楽斎の進言をのみます。その有楽斎が初めから徳川方に通じていたことなど、もちろん知るはずもありませんでした。このとき、豊臣秀頼は頑強に和議に反対していたといいますが、結局、淀殿や有楽斎に押し切られてしまいます。

e0158128_22213540.jpg 徳川、豊臣両者による和議の話し合いが行われたのは、慶長19年(1614年)12月18日と19日の2日間。『大坂冬陣記』によると、徳川方の交渉役は徳川家康の信頼厚い側室・阿茶局と、この頃、父の本多正信に代わって家康付きになっていた本多正純で、豊臣方の使者に抜擢されたのは、淀殿の実妹・常高院(お初)でした。常高院は淀殿の妹であるとともに、徳川方の総大将・徳川秀忠(大坂の陣は実質、家康が指揮を採っていましたが、形式上は征夷大将軍である秀忠が総大将でした)の正室・お江の実姉でもあり、中立的な立場といえ(実際には、常高院の子である京極忠高は徳川方に与していたため、中立ではありませんでしたが)、交渉が行われたのも、京極家の陣所でした。戦後の交渉役に武士以外の僧侶や商人が抜擢されることは珍しくなく、女性が事に当たったという例もなくはなかったようですが、大坂冬の陣のような、動員兵力が桁外れに大きな合戦の和睦交渉で、双方ともに女性が使者に指名されたという例は、おそらく日本史上で初めてのことだったのではないでしょうか。

e0158128_22212613.jpg 同じく『大坂冬陣記』によると、豊臣方の示した和議の条件は、

一、本丸を残して二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めること。

 一、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。

とあり、これに対して徳川方の条件は、

 一、秀頼の身の安全と本領の安堵。

 一、大坂城中諸士についての不問。

というもので、これを約すことで和議は成立しました。一般に、家康が豊臣方を騙して堀を埋め立てたというイメージがありますが、実は、この堀の埋め立ては豊臣方から提示したものなんですね。この城の破却(城割)という条件は、古来より和睦条件において行われてきた方法でした。しかし、大抵の場合は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものだったといいます。つまり、これ以上戦う意志はありませんという意思表示のためのジェスチャーだったわけです。

ところが、家康はこれを機に徹底的な破壊を実行します。約定では、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていたにも関わらず、徳川方は20万の軍勢を使ってまたたく間にすべての堀を一斉に埋め立て、大坂城の防御力を一気に削いでしまいました。最初から家康の狙いはこれだったんですね。家康にしてみれば、20万の兵を持ってしても大坂城を落とすのは容易ではなく、豊臣家の財力を考えれば、2年や3年の籠城戦は可能だろう。その間、この度の真田丸の戦いのように、味方の兵力の被害も多く予想され、さらには、家康自身の寿命だって尽きるかもしれない。そう考えると、一刻も早く決着をつけたい。そのためには、大坂城の防御力を奪い、城の外に引き出して家康の得意な野戦に持ち込みたかったわけです。いうまでもなく、家康ははじめから和睦する気などさらさらなかったんですね。その家康の目論見にまんまと掛かった豊臣方。秀頼も淀殿も、暗愚だったとはいいませんが、家康の政治力の前では、赤子同然だったといえるでしょう。

 かくして裸城となった大坂城内には、真田信繁をはじめ牢人たちがなおも残っていました。彼らの目的は、新たな仕官を求めてきたものや、最期の一花を咲かせるためにきたもの、死に場所を求めてきたものなど様々でしたが、いずれの者にとっても、この突然の和議成立は納得できるものではありませんでした。しかし、そんな牢人たちの存在が、家康が再び戦いに持ち込むための格好の材料になっていくんですね。歴史は家康の描いた筋書きどおりに運んでいきます。この最晩年の家康は、三谷幸喜氏も及ばない天才シナリオライターでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-11-28 22:24 | 真田丸 | Comments(2)