処刑された当初の
吉田松陰の遺骸は、
小塚原刑場へ埋葬されていました。通常、幕法により刑死人の遺骸は
捨ておかれることになっていましたが、長州藩の藩医で
飯田正伯という人物が獄吏に
賄賂を渡して
遺骸の引き渡しを懇願し、特別に許しを得たといいます。遺骸の引き取り、埋葬に奔走したのは、
伊藤俊輔、桂小五郎らでした。
それから3年半が経った文久2年(1862年)8月、かつての
安政の大獄によって刑を受けた者たちの
名誉を回復する勅書が発せられたことに伴い、松蔭の埋葬場所に
墓碑が建設されましたが、刑死者の埋葬場所にそのまま置いておくのは適切ではないという声が上がり、その翌年の1月には、遺骨は武蔵若林村の
大夫山へと
改葬されます。この改葬を発案、実行したのは、
高杉晋作、伊藤俊輔らでした(ドラマでは伊藤は萩に残っていましたね。このあたり、どちらが正しいのかわかりません)。
この改葬を指揮した高杉晋作は、
陣羽織に
騎馬姿という
戦装束でした。そして松蔭の遺骨を入れた柩を中心に列をなし、
悠然と歩を進めます。それを見たひとびとは、皆どよめいて道をあけたといいます。
道中、一行は徳川家将軍代々の廟所がある
寛永寺にさしかかります。寛永寺には
「三枚橋」と呼ばれる三つの橋が並んでかけられていましたが、その
中央の橋は、将軍が寛永寺に参拝するときのみに使用されていた橋で、将軍以外の者がその橋をわたることは許されていません。そこを、晋作率いる一行は、押し通っちゃうんですね。もちろん、
わざとです。当然、それを見た橋の番人は通行を阻止しようとしますが、晋作はそれを払いのけ、
「勤王の志士吉田松蔭の殉国の霊がまかり通るのだ」と言い放って強行します。さらに、追いすがって
名を名乗れと叫ぶ番人に対して、晋作は馬上ふりかえり、
「長州浪人高杉晋作」と言い放ったとか。この
暴挙の知らせは、すぐさま幕閣へ届きますが、普通なら、
即刻打首に処せられる行為ですが、幕府は長州藩との摩擦を嫌って
不問に付したといいます。
いかにも高杉晋作らしい
痛快なエピソードですが、この逸話が実話かどうかは定かではありません。しかし、この時期になると、これほどまでに
幕府の権威は落ちていたということがわかるエピソードです。
幕府の権威の失墜にまつわるエピソードでいえば、もう一つ。同じ年の3月、第14第将軍
徳川家茂が、将軍としては
229年ぶりに上洛します。京に入った家茂は、早速、
上賀茂神社と
下鴨神社へ
攘夷祈願に行幸する
孝明天皇(第121代天皇)の
お供をさせられます。天皇のお供をするということは、
将軍が天皇の下であるということを世に知らしめる行為であり、これを画策したのが、
久坂玄瑞を中心とする
長州藩攘夷派でした。この時期、京では長州藩が朝廷をほぼ牛耳って動かしていました。
この行列の見物人のなかにいた高杉晋作は、人々が
土下座して平伏すなか、ひとり顔を上げて
「いよう!征夷大将軍!」と、まるで舞台の歌舞伎役者に声をかけるような
冷やかしの声を浴びせたといいます。これも本来であれば、その場で
斬り捨てにされるべき
無礼極まりない行為でしたが、この行列は
天皇の権威の行列であり、将軍はあくまで
“お供”にすぎません。晋作の声は将軍の供回りにいる旗本たちの耳にも入っていたでしょうが、勝手に飛び出して天皇の行列を乱すわけにはいかず、黙って耐えるしかなかったんですね。
このエピソードも、実話かどうかは定かではありません。後年の
山縣有朋などの話で、このとき晋作が
何かを大声で叫んだことは間違いないようですが、それがどんな言葉だったかは、いろんな説があるようです。ただ、いずれにせよ、将軍が天皇のお供として付き従ったのは事実で、このとき
ヤジが飛んだとしても、どうすることも出来なかったのも間違いなかったことでしょう。それだけ、幕府は
軽んじられはじめていたわけですね。
さらに晋作は、
将軍暗殺計画まで口にし始めました。しかし、そんな晋作の
過激な行動を恐れた久坂玄瑞や
周布政之助らは、晋作を激しく詰問します。すると程なく、晋作は髪を剃り、法名を
東行と名乗って
出家するといいだしました。10年間、
賜暇をもらいたい・・・と。周囲の者たちはきっと呆然としたでしょうね。とにかく、やることなすこと
奇想天外、凡人の頭では理解しがたい晋作の行動。この
非凡な生き方が、後世に
人気の高い所以なんでしょうが、同時代に生きていた関係者たちは、
振り回されっぱなしでたまったもんじゃなかったでしょうね。
さて、本話のタイトル
「決行の日」についてですが、
「決行」とは即ち
攘夷決行のことで、上洛していた将軍家茂は、朝廷から攘夷の実行を執拗に迫られ、これを応対していた将軍後見職の
一橋慶喜は、なんとか誤魔化そうといろいろ手立てを講じますが、結局は天皇に押し切られるかたちで、
「攘夷の期日を5月10日とする」と約束させられます。そして、4月22日に諸大名に
公示されるのですが、そもそも幕府にしてみれば、攘夷実行の意思などさらさらなく、その場の
逃げ口上にすぎなかった約束でした。諸大名たちのほとんども、空気を読みながら様子を伺っていました。ところが、長州藩だけが、約束どおり5月10日に
砲門を開きます。彼らは、
馬関海峡を通ったアメリカ商船
ペンブローク号に発泡。相手は軍監ではなく商船ですから、逃げるしかありません。更に23日にはフランス軍監
キャンシャン号にも、また26日にはオランダ軍監
メデューサ号にも砲撃しました。このとき中心となっていたのが、ほかならぬ久坂玄瑞だったんですね。逃げていく外国船を見て長州藩士たちの意気は大いに上がったといいますが、ここから、幕末における
長州藩の墜落が始まったともいえます。
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