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西郷どん 第37話「江戸無血開城」その2 ~彰義隊と上野戦争~

e0158128_19210653.jpg 昨日の続きです。

 勝海舟との会談で慶応4年3月15日(1868年4月8日)に予定していた江戸総攻撃はひとまず中止した西郷吉之助(隆盛)でしたが、徳川慶喜の処遇に関しては、西郷ひとりの判断では決めかねるとして、いったん保留にして朝議にかけるべく京都に持ち帰ります。そして3月20日、二条城において緊急会議が開かれました。メンバーは、三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、広沢真臣、後藤象二郎、そして西郷の7人。この席で、これまで最も慶喜の死罪を望んでいたはずの西郷が、慶喜に対して寛大な処分を主張します。これには皆、驚きを見せましたが、ドラマでは、慶喜の助命に反対意見を訴えていた木戸でしたが、実際には、木戸が西郷の意見に賛成の態度を示し、西郷の意見が採用されることになりました。


 西郷と勝の歴史的会談から約1ヶ月後の4月10日、西郷と勝は本門寺で再び会談し、そこで、幕府側の要望通りに慶喜の水戸表での謹慎を許すことが伝えられ、江戸城明け渡しの具体的な最終条件が話し合われ、翌11日、江戸城無血開城とあいなります。そして同日早朝、上野の寛永寺で謹慎していた慶喜は江戸を去り、水戸に向けて出立しました。言うまでもなく、ドラマのように西郷が慶喜や天璋院と会ったという記録は残されていません。


 かくして江戸城は戦うことなく新政府軍の手に渡ったのですが、しかし、これにて一件落着というわけには当然ながらいかず、この結末に不満を持つ旧幕臣たちが、上野の寛永寺に集結します。いわゆる彰義隊の反乱ですね。


 もともと彰義隊は、鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に舞い戻った慶喜が寛永寺にて謹慎生活を始めた際、その慶喜の護衛江戸警備の名目で結成された集団でした。もっとも、それは表向きの名目で、実情は、慶喜の恭順姿勢に不満を抱く強硬派の集団でした。頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出され、幹事には本多敏三郎伴門五郎が就きました。隊士には旧幕臣のみならず、町人博徒侠客も参加し、たちまち1000人を越える規模になります。


 江戸城明渡しに不満を持った彰義隊は、徹底抗戦を主張し、上野寛永寺に立て籠もります。この不穏な空気を重く見た勝海舟は、再三、彰義隊の解散を促しますが、彼らは聞き入れることはなく、その後、彰義隊のなかでは慎重派だった渋沢成一郎が離脱して天野八郎ら強硬派がイニシアチブを取ると、ますます過激さを増していきます。


e0158128_01391458.jpg京都に本陣を布いていた新政府軍は、関東での事態を重く見、西郷や勝では抑えきれないと判断して、大村益次郎を送り込んで指揮を執らせます。江戸に入った大村は、たちまちにして陣形を整え、そしてとうとう5月15日(7月4日)、上野に結集した彰義隊3000人に対して、新政府軍2万人が総攻撃を開始。新政府軍はアームストロング砲ライフル砲など最先端の武器を駆使して上野の山を攻撃し、その圧倒的な戦力の差から、開戦から1日も経たずに彰義隊は壊滅しました。後世に上野戦争と呼ばれるこの戦いの記録上の戦死者は、彰義隊105名、新政府軍56名といわれています。


 西郷と勝の会談によって実現した江戸無血開城でしたが、やはり、260年続いた徳川政権の終焉が、そんなに簡単に決着するはずはなかったんですね。その意味で、上野戦争は当然の副作用だったといえるかもしれません。そして、その副作用はまだまだ続くことになります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-10-02 01:40 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第36話「慶喜の首」その1 ~鳥羽・伏見の戦い~

慶応4年1月2日(1868年1月26日)、薩摩藩との戦いを決意した徳川慶喜は、朝廷の判断を仰ぐために1万5千の大軍を大坂から京へ進めます。これに対して薩摩藩を中心とした新政府軍は、鳥羽の鴨川に架かる小枝橋から東にある城南宮に向けて東西に長い陣を布いて北上軍への備えとし、また、伏見の御香宮にも砲兵部隊を配置します。3日午前、旧幕府軍と新政府軍が小枝橋で接触します。旧幕府軍を率いていたのは大目付滝川具挙でした。滝川はこの1週間前の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に起きた江戸の薩摩藩邸焼討事件の報を慶喜にもたらし、江戸での薩摩藩士の横暴を説き、旧幕府軍を強硬論に導いた人物でした。


滝川は立ちふさがった新政府軍に対して「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」と要求します。ところが、ここを守備していた薩摩藩の椎原小弥太は、「朝廷に確認するまで待て」と、行く手を阻みます。そこから長時間にわたって「通せ」「通さない」押し問答が繰り返され、このままでは埒が明かないとしびれを切らした滝川は強行突破を試みますが、これに対して新政府軍が発砲し、これをきっかけに戦闘がはじまります。この砲声は3kmほど南の伏見にも届き、それを合図に同時スタートのように戦闘が始まりました。後年、西郷隆盛がこのときのことを回顧して、「鳥羽一発の砲声は百万の味方を得たるよりも情しかりし」と語って笑ったという有名なエピソードがありますが、まさに、西郷にとっては待ち望んだ開戦でした。こうして鳥羽・伏見の戦いの火蓋は切られます。


 戦のあらましは長くなるのでここでは省略しますが、徳川方の指揮不統一戦術の拙さが相まって、旧幕府兵、会津兵、桑名兵ともに各所で後退を余儀なくされ、初日の戦いは薩長軍の優勢で終わりました。この初日の戦況が、結果的に決め手となります。

 開戦の報が届いた京都では、すぐさま御所で会議が開かれ、大久保利通の意向を受けた岩倉具視は、仁和寺宮嘉彰親王を軍事総裁職兼任・征討大将軍に任命し、錦旗・節刀をさずけることと、諸藩に慶喜討伐を布告することを求めますが、慶喜を朝敵とすることに異論が続出し、なかなか結論が出ませんでした。しかし、前線から薩長軍優勢の報告が入ると、会議の空気が一変し、慶喜討伐が決定します。薩摩・長州が官軍、旧幕府軍をはじめ会津、桑名が賊軍に転落した瞬間でした。翌日、仁和寺宮が錦旗を掲げて東寺まで進み、ここに慶喜討伐の大本営を置きます。錦旗とは、新政府軍が天皇の軍隊であることを示すもので、この時点で、すなわち新政府軍は官軍、旧幕府軍は天皇に逆らう賊軍ということになったわけで。これまで形勢を展望していた諸藩も、これを見た途端になだれを打って旗幟を鮮明にしていきます。ここに、鳥羽伏見の戦いの大勢は決したといえます。まさに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉どおりの展開だったわけですね。


e0158128_11234954.jpgこの「錦の御旗」ですが、実は朝廷からもらったものではなく、岩倉具視が勝手に作った代物だと言われていますね。いずれ始まるであろう旧幕府との開戦に備えて、岩倉が秘書官の玉松操に調べさせた資料を参考に、大久保利通や長州の品川弥二郎らと相談して作ったものだと言われています。実物は誰も見たことがないわけですから、それらしければいいということで、大久保利通の愛妾のおゆうが祇園で買ってきた錦紗銀紗の布を長州に運んで、2ヶ月がかりで完成させたもので、いわば捏造品だったわけです。偽物であれ何であれ、かつて南北朝時代でも足利尊氏が戦局を有利にするために御旗を利用したように、このときの錦の御旗も絶大な効力を発揮します。そもそも、本来この戦いに朝廷は関係なく、薩長と旧幕府の私闘だったのですが、この錦の御旗を掲げたことにより、戦いを「義戦」にしたわけです。自分たちから喧嘩を吹っかけておいて、相手が挑発に乗ってきたら、「正義」を主張する。ずるいですね。それにしても、御旗の納品がよく間に合いましたね。もうちょっと製作が遅れていたら、戦いは違った結末を見ていたかもしれません。


e0158128_17320084.jpg ちなみに、この戦闘中に西郷の実弟、西郷従道が負傷したというのは実話です。従道はこの戦いに薩摩藩小銃五番隊の監軍として従軍していました。従道が受けた銃弾は頭部だったようで、ドラマでは描かれていませんでしたが、このとき駆けつけた中村半次郎(桐野利秋)が、もう助からないと早合点し、「武士の情け」とばかりに介錯しようとしたところを、従道は重傷の身に鞭打って桐野の刃をかわし、かろうじて逃れたという逸話が残っています。その後、従道はイギリス人医師のウィルスによる麻酔手術で奇跡的に助かり、同年のうちに戦線への復帰も果たしました。もし、このとき桐野に介錯されていたら、のちの海軍大将、元帥、参議、元老としての従道の活躍は存在しなかったといえます。よくぞ逃れたものです。


薩長軍が錦旗を掲げたことにより賊軍となった旧幕府軍は、その後も各地で奮戦はするものの、敗色は覆い隠せませんでした。そして極めつけとなったのは、幕府の命令で山崎を守っていた津藩兵が、6日朝、旧幕府軍に向けて砲撃を開始したこと。味方であるはずの津藩の裏切りで、旧幕府軍の士気は一気に下がり、全軍総崩れとなります。

 開戦以来ひきつづき敗報ばかりを受け、さらに錦旗が掲げられて朝敵にされたことで戦意を失っていた徳川慶喜は、6日の津藩の寝返りによる幕軍総崩れを知ると、江戸へ帰って再起をはかる決意をかため、6日夜、ひそかに大坂城を脱出し、海路江戸へ向かいます。このとき、老中はじめ京都守護職の松平容保や京都所司代の松平定敬も、慶喜の厳命により、家臣たちを置き去りにして江戸へ向かうことを余儀なくされました。翌朝、主君に欺かれたことを知った大坂城中の将兵たちが、呆然自失となったことは言うまでもありません。

e0158128_19210653.jpg このときの行動が、後世に徳川慶喜という人物の評価を下げた最大の要因であるといっていいでしょう。戦の総指揮官という立場にありながら敵前逃亡したわけですから、やむを得ない評価かもしれません。このあたりが、「百の才智があって、ただ一つの胆力もない。」といわれるところでしょうか。ただ、その一幕だけを切り取ってみればそうかもしれませんが、結果的に彼が敵前逃亡したことによって、その後の内乱は最低限の局地戦ですみ、その結果、多くの人命を失うことなく、新政府樹立へのプロセスをスムーズにし、日本の植民地化を目論む欧米列強につけ入る隙を与えませんでした。それが慶喜の意とするところだったかどうかは別として、結果的に我が国を危機から救ったことは間違いありません。幕末維新の最大の功労者は徳川慶喜だった・・・とは、少し過大評価かもしれませんが、もう少し高く評価してあげてもいいんじゃないでしょうか。


鳥羽・伏見の戦いだけでずいぶん長くなっちゃいました。どうも、前半のスローな展開のツケがたまって、ここに来て1話に多くの歴史を詰め込みすぎですね。当ブログでも、1回ではとてもまとめられない。ということで、明日に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-09-24 17:42 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第35話「戦の鬼」その2 ~江戸薩摩藩邸焼き討ち事件~

 e0158128_19210653.jpg昨日の続きです。

 王政復古のクーデターの報告を受けた徳川慶喜は善後策に苦慮します。辞官はともかく、納地の命令は、徳川家15代当主として簡単に受け入れられるものではありません。それならば薩摩と一戦交えるか・・・・。幕兵、会津兵、桑名兵を合算すれば、薩長の在京兵力を打ち破れないことはない。しかし、いったん朝敵となってしまえば、尾張、越前、土佐が推し進める調停が水の泡になる。さりとて、激高した部下たちを鎮めるにも限界がある。そんな具合に、慶喜は迷っていたことでしょう。そんなとき、松平春嶽らより、ひとまず京都を去って大阪に下り、事態の沈静を待ってほしいと勧められます。慶喜はこの勧めをうけ、迷ったすえ下阪を決意。松平容保松平定敬板倉勝静らを従え、二条城の裏門から抜け出し、翌日大坂城に入ります。まさしく、「都落ち」といっていいでしょう。

 以後、薩摩と幕府の睨み合いは1ヶ月ほど続きます。その間、慶喜は形成の巻き返しを図るため、朝廷への工作を働きかけますが、一方で、大坂城に籠っていた旧幕府兵や会津、桑名兵らのフラストレーションは積もるばかりで、暴発は時間の問題になりつつありました。そしてついに、慶応4年1月2日(1868年1月26日)、京に向けて旧幕府軍の進撃が開始され、翌3日、京都南郊の鳥羽・伏見で両軍は激突します。世に言う「鳥羽・伏見の戦い」です。

 旧幕府軍の進撃の導火線となったのが、前年に江戸で勃発した徳川家と薩摩藩の軍事衝突でした。王政復古前の11月頃より、江戸市中では薩摩藩の三田屋敷を拠点として、強盗騒ぎが頻発していました。江戸城の留守を預かる旧幕府首脳部と江戸市中の警備を任されていた庄内藩は、これらの騒ぎを薩摩の挑発とみすえ、じっと我慢し続けていましたが、12月に入って、大風の吹く日に市中数十箇所に火を放ち、その混乱に乗じて江戸城を襲い、静寛院宮(和宮)天璋院(篤姫)を連れ去る計画が進められているという風評が流れ、その風評が流れるさなか、天璋院の住む江戸城二の丸が全焼する騒ぎが起きます。さらに浪士たちは徳川家を挑発して、この夜、庄内藩屯所に向けて発砲。これには庄内藩も怒り浸透となり、ついに旧幕府首脳部もしびれを切らして、庄内藩兵とともに薩摩藩邸を包囲。三田屋敷はたちまち火に包まれました。


 e0158128_15131310.jpgこれらの一連の騒動は、長年、西郷吉之助(隆盛)策謀によるものと考えられてきました。その理由は、慶喜の大政奉還によって武力討幕の口実を失った薩摩藩が、江戸に浪士・無頼者を集めて治安を乱し、後方撹乱を狙ったものだったと。今回のドラマも、その説を採っていましたね。この説による西郷の思惑は、騒乱状態を作ることによって、旧幕府兵力を関東に釘付けにし、京阪への集結を妨げるとともに、幕府の権威がもはや衰弱しきっていることを諸藩および江戸市中の民衆に強く印象づけ、さらには、幕府をして薩摩藩討伐の兵を起こさざるをえないように仕向けようというものでした。


 ところが、近年の研究では、この説は修正されつつあるようです。というのも、たしかに西郷は、薩摩藩士の益満休之助伊牟田尚平を江戸に派遣し、浪士たちを指揮して撹乱工作にあたるよう指示していたようですが、それは大政奉還前9月の段階のことで、大政奉還後は、撹乱工作を見合わせるよう益満と伊牟田に指示していたようです。実際、この時点では、幕府と戦って薩摩が勝てる保証などなかったでしょうからね。大政奉還前は、何としてでも武力で潰すしかないと思っていたでしょうが、大政奉還が成ったあとは、無理に戦いを仕掛けなくとも、戦わずして政権を奪えるなら、それも良しと考えたかもしれません。だから、ひとまず撹乱工作は見合わせた。しかし、西郷の意に反して騒動は起こってしまいます。それはおそらく、西郷らの制止を無視した益満と伊牟田らの暴走だったのでしょう。こういった攻撃的な作戦というのは、いったん命令を出してしまうと、のちに取り止めるのは難しいものなんでしょうね。前線の兵というのは、政治を理解できない単純思考の過激派が多かったでしょうから。


 薩摩藩邸焼き討ちの情報が知らされた直後の西郷の蓑田伝兵衛宛の書簡には、「大いに驚駭いたし候」とした上で、「残念千万の次第に御座候」との心境を記しています。これが事実なら、やはり撹乱工作は西郷の計算外だったということになりますし、もし、騒動が西郷の思惑通りだったとすれば、この手紙は蓑田を相手にとぼけていることになり、撹乱工作が味方をも欺くトップシークレットだったということになりますね。果たして、どっちだったのでしょうか。


 江戸での騒動の報が大坂城にいた幕府方に伝わると、城内は一気に沸き立ち、ただちに薩摩を討って一挙に幕府勢力を回復せよといきり立ちます。ことここにいたっては、もはや慶喜にはその勢いを抑える力はありませんでした。こうして戊辰戦争に発展していきます。結果を知っている後世の私たちは、幕府が薩摩の仕掛けた挑発にまんまと乗せられたという見方をしてしまいがちですが、当時の西郷たちにとっては、果たして本当に狙い通りだったのでしょうかね? 案外、いっぱいいっぱいだったかもしれませんよ。


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by sakanoueno-kumo | 2018-09-18 23:33 | 西郷どん | Comments(2)  

西郷どん 第34話「将軍慶喜」 ~慶喜の将軍就任と大政奉還~

 第二次長州征伐、第14代将軍・徳川家茂の急死、孝明天皇の崩御、一橋慶喜の将軍就任から、一気に翌年秋の大政奉還まで話が進みました。約1年間が一瞬で過ぎてしまいましたね。薩摩視点の物語ですから、その全てを描く必要はなかったかもしれませんが、この1年間というのは幕府にとっても雄藩にといっても激動の1年間で、普通なら3~4話ほどかけて描くべきところです。慶喜にしても、これまでヒー様として本来は面識などなかったであろう西郷吉之助(隆盛)とさんざん接点を持たせておきながら、将軍慶喜の期間はなったく描かないというのは、意味がわからない。何のためのヒー様だったのでしょう? 慶喜がやった仕事は大政奉還だけではありません。


e0158128_15131310.jpgまた、西郷だけにスポットを当てたとしても、この間、慶応3年(1967年)5月には慶喜に対抗した四侯会議を画策し、土佐宇和島などに足を運んで周旋し、これを実現させています。このとき、土佐藩主の山内容堂や宇和島藩主の伊達宗城との会見時にも、面白いエピソードがあったのですが、残念ながら描かれませんでしたね。結果的にこの会議はうまく運ばず、この失敗を契機に薩摩藩は討幕路線に舵を切っていくことになります。そして、同月には中岡慎太郎の仲介によって土佐藩の乾退助、谷干城好戦派との間で武力討幕を念頭においた薩土密約を結ぶのですが、しかし、その翌月には、こんどは武力討幕によらない大政奉還のための薩土盟約を、坂本龍馬の仲介のもと土佐藩の後藤象二郎、福岡孝弟らと結びます。つまり、薩摩藩と土佐藩は同時期にこの2つの相反する同盟を結ぶのですが、このどちらの会談にも薩摩藩の代表として臨んだのが西郷でした。政治家・西郷にとってこの二重契約はどんな意図を含んでいたのか。今回のドラマではどのような解釈で描かれるのか楽しみにしていたのですが、まったくスルーとはびっくりです。


今年のドラマでは、そういった西郷の政治活動というのがほとんど描かれないため、西郷がいかに心優しい素晴らしい男だったかということは伝わっても、西郷がなぜ維新の巨魁となったのかが、ぜんぜん伝わらないんですよね。この前まで戦わずして勝つと言っていた西郷が、ここに来て急に好戦的になってきた理由もよくわからない。わたしは、最終回を観るまであまり批判はしたくないのですが、はっきり言って、今話は内容がスッカスカでした。


e0158128_19210653.jpg 今回のサブタイトルは「将軍慶喜」なので、慶喜の将軍就任について少し触れておきましょう。長州再征の最中に将軍家茂が急死したわけですが、その後継者は、慶喜以外、適当な人物はほとんどいませんでした。家茂は死に際して田安亀之助(家茂の従兄弟)を後継者とする遺言を残したといわれますが、このとき亀之助はわずか4歳、国事多難な情勢のなか、幼君では舵取りが困難との理由で多くの大名らが反対。老中・板倉勝静、稲葉正邦、前福井藩主・松平春嶽、京都守護職・松平容保、所司代・松平定敬らが、こぞって慶喜を推します。


 ところが当の慶喜は、徳川宗家の相続は承知したものの、将軍就任は容易に受けようとはしませんでした。この態度は、困難な政局を前にして、多くの人々の推薦を得てから将軍職に就き、恩を売ったかたちで将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったのでは・・・との見方がありますが、その真意は定かではありません。いわば、幕府=沈みかけの船の船頭となるのを拒んでいただけかもしれません。支持率を落とした政権与党の党首になるようなものですからね。慶喜は後年の回想録で、このときの気持ちを次のように語っています。


 「遂に板倉・永井を召し、徳川家を相続するのみにて、将軍職を受けずとも済むことならば足下等の請に従わんといいしに、それにてもよしとの事なりしかば、遂に宗家を相続することとなれり。されども一旦相続するや、老中等はまた将軍職をも受けらるべしと強請せるのみならず、外国との関係などもありて、結局これをも諾せざるを得ざるに至れり。かかる次第にて、予が政権奉還の志を有せしは実にこの頃よりの事にて、東照公(家康公)は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、予は日本国のために幕府を葬るの任に当るべしと覚悟を定めたるなり。」と。


 慶喜がすでにこの頃から大政奉還の志を持っていたという述懐は眉唾ものですが、英明な慶喜のことですから、この局面での将軍職就任が、いかに「貧乏くじ」であることは、直感的に感じていたのかもしれませんね。


 結局、孝明天皇の強い希望で慶喜に将軍宣下がなされ、家茂の死から4ヶ月後の慶応2年12月5日(1867年1月10日)に第15代将軍の座に就きますが、そのわずか10ヶ月後の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜は政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。いわゆる大政奉還ですね。これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として264年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げます。


 ドラマ中、西郷が慶喜の大政奉還に対して、武力討幕派の勢いをかわしただけの詭弁だと言っていましたが、これについては、わたしもおそらくそうだったのではないかと思っています。政権を返されたとて、700年もの間政治から遠ざかっていた朝廷に政権運営能力はなく、実質的にはこれまでどおり徳川家が運営していくこととなるだろう。慶喜はこの大政奉還に便乗して、あるいはこれを利用して、これまで以上に幕権を強化していこうとさえ考えていたといわれています。天皇を隠れ蓑にして実権を握る・・・つまり、名を捨てて実を取るというわけですね。たしかに、内乱回避して、なお且つ徳川本家を守るという道は、この時点ではもはや大政奉還しか道はなかったでしょう。その意味では、慶喜の選んだ道は最良の方策だったといえます。しかし、大政奉還後の構想は、慶喜が考えるほどあまいものではありませんでした。慶喜が考えるほど、討幕側は馬鹿じゃなかったんですね。「家康の再来」と讃えられるほど英明として知られた慶喜でしたが、このあたりの甘さは、やはり苦労知らずの貴公子、所詮はおぼっちゃんだったのかもしれません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-09-10 18:56 | 西郷どん | Comments(2)  

西郷どん 第32話「薩長同盟」その1  ~非義の勅命は勅命にあらず~

e0158128_17375658.jpg「非義の勅命は勅命にあらず」


 2度目の長州征伐勅命が下った際の大久保利通の有名な言葉ですが、ドラマでは省かれていましたが、この言葉に至るまでに、大久保は長州再征中止を訴える朝廷工作に奔走していました。


慶応元年(1865年)9月、上京していた大久保は、長州再征の決議は諸侯の衆議で決めるべきだと、内大臣・近衛忠房山階宮晃親王に説いてまわりますが、しかし、20日から21日明け方にかけての朝議で、一橋慶喜の強硬な主張によって長州再征が内決します。これを知った大久保は、尹宮朝彦親王(中川宮)のもとに駆けつけ、長州再征には諸侯のほとんどが反対しているため、再征を勅許しても大半の諸侯は出兵しないだろうといい、そうなれば、諸侯の大半が長州藩と同じく朝敵となってしまうが、それでもいいのか、と迫りました。しかし、朝彦親王に大久保の訴えを聞き入れる力はなく、それでも執拗に食い下がる大久保に辟易とした朝彦親王は、その圧力に押され、関白・二条斉敬宛の直書を書かされます。


e0158128_20093839.jpg 朝彦親王の直書を持った大久保は、すぐさま二条関白邸を訪れ、参内前の関白を引き止めて朝議を改めるよう3時間あまりに渡って議論して食い下がったといいます。関白は大久保の訴えに理解は示したものの、すでに内決しているためどうにもならないと答え、逆に、どうしたら良かろうと大久保に尋ねる始末だったといいます。大久保はここまで関白を追い込んでいました。この押しの強さは、西郷吉之助(隆盛)にはない大久保の真骨頂といえるでしょう。その後、大久保に捕まっていたため遅刻して参内した二条関白は、長州再征をもう一度考え直すよう提案したようですが、一橋慶喜の強硬な反対によって朝議が停止され、その後、孝明天皇叡断によって長州再征の勅許が下りました。天皇直々の決定とあらば、大久保としてもこれ以上は手の打ちようがありませんでした。翌22日の朝、大久保は朝彦親王の邸を訪れ、こう言い放ったといいます。


 「朝廷是限り」


 かつては同志だった朝彦親王に対する決別の捨て台詞ですね。この朝のことは『朝彦親王日記』に記されているので、実話と見ていいでしょう。後年、大久保は岩倉具視三条実美といった公家出身の人物と深く関わりながらも、心から信用することはなかったといいますが、この頃の経験からきたものだったかもしれません。


 翌23日、大久保は西郷に宛てて事の顛末を伝える長文の手紙を送っています。


「もし朝廷これを許し給ひ候はば、非義の勅命にて、朝廷の大事を思ひ、列藩一人も奉じ候はず、至当の筋を得、天下万民御尤もと存じ奉り候てこそ、勅命と申すべく候へば、非義の勅命は勅命に非ず候ゆゑ、奉ずべからざる所以に御座候」


ここで、「非義の勅命は勅命にあらず」が出てくるんですね。たとえ勅命といえども、万人が承服できない非正義のものならば、それは勅命ではない・・・と。大久保の覚悟のほどが窺える言葉ですね。と同時に、この当時の天皇観は、後世のそれほど絶対的な存在ではなかったことがわかります。彼らは「尊皇」スローガンに立ち上がった志士たちでしたが、天皇は尊ぶべき存在ではあっても、必ずしも従うべき存在ではなかったんですね。のちにこの手紙は、坂本龍馬によって長州藩の面々にも届けられます。幕府とも朝廷とも決別した薩摩藩が長州藩と手を組むのは、当然の流れだったといえるかもしれません。


 やっぱり長くなっちゃいました。薩長同盟のくだりは明日の稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2018-08-27 20:11 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第27話「禁門の変」 ~蛤御門の変~

今話はあまりにも史実とかけ離れた内容でしたね。まずは史実の解説から。


「八月十八日の政変」によって、長州藩を中心とする尊王攘夷派は都を追放されていましたが、京・大坂に潜伏していた残党と提携しながら、しきりに失地回復をはかり、ふたたび都への進出と勢力の奪還を目指していました。といっても、長州藩内が必ずしも挙党一致だったわけではなく、京都に乗り込もうとの進発論の急先鋒は、来島又兵衛、真木和泉らでしたが、久坂玄瑞高杉晋作らは慎重論を唱えており、桂小五郎(木戸孝允)は反対論でした。そんな情勢のなかで、元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた「池田屋の変」の報がもたらされます。来島や真木ら進発論派がいきりたったことは言うまでもありません。6月中旬から翌月上旬にかけて、長州藩の益田右衛門介、福原越後、国司信濃の三家老は諸隊を率いて東上、真木和泉をはじめ久坂玄瑞、入江九一らも行をともにし、7月中旬、長州藩兵および諸藩尊攘志士らは伏見、嵯峨、山崎方面に集結しました。


e0158128_19212335.jpg元治元年7月19日(1864年8月20日)、伏見、山崎、天龍寺の陣を出た長州藩兵は、まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から京へ出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。蛤御門に殺到しました。


又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、乾門を守っていた薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転。その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬。死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。享年47。西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。


e0158128_15131310.jpg ドラマでは、西郷は来島のみを倒して幕引きさせようと目論んでいたところに会津兵が加勢してきて長州兵を壊滅させていましたが、史実ではまったくの真逆、西郷率いる薩摩兵が加勢したことによって形勢が逆転して長州兵が壊滅したのです。ましてや、この時点での西郷が、「長州と戦うつもりはない」などと言うはずがありません。たしかに、当初の西郷は、会津と長州の私戦として日和見をする考えだったようですが、その後の情勢を見て考えを変え、会津に加勢する策に方針転換したのは、ほかならぬ西郷でした。


ドラマ中、一橋慶喜が長州藩兵を京都から追い落とす命令を下すよう朝廷工作を行っていましたが、あれは史実です。慶喜は、これが受け入れられないと職を辞するとの脅しをかけていました。これに困った朝廷は、薩摩藩軍賦役の西郷を呼び出して意見を求めますが、このとき西郷は慶喜の意見を支持し、長州側が暴発し、命が下れば兵を出すと返答しています。この西郷の決断によって、禁門の変の薩摩兵の参戦の方針が決まったわけです。


 また、変後すぐに大久保一蔵(利通)に宛てた西郷の書簡には、「薩摩兵のみで長州兵を打ち破った」自慢げに記した上に、その後、「鷹司邸内に逃げ込んだ長州兵を火攻めにしたところ、敵兵は堪りかねて逃げ去った」と伝えています。これのどこに、戦を避けようという意思が見て取れるでしょうか? さらに、同じ時期に書かれた西郷の書簡には、長州藩兵を侮蔑した文章も見られます。西郷が長州藩に対して寛大な態度をとるようになるのは、この後の第一次長州征伐からのことで、それも、決して戦争反対といったヒューマニズムの観点からではなく、あくまで政治的判断によるものです。


 わたしは、史実史実揚げ足取りのような批判をするのは好きではありませんし、ドラマである以上、フィクションは不可欠だと思っています。ですが、やっていいことと悪いことがあり、今話は明らかに度が過ぎています。そもそも、慶喜との関係自体ありえない設定ですが、それはまあ目をつぶるとしても、この時点で桂小五郎(木戸孝允)と通じて、しかも、二人揃って慶喜に和平を願い出るなんて、やりすぎにもほどがあります。これは脚色ではありません。完全なる歴史の歪曲であり、先人に対する冒涜です。西郷は好戦家だったという通説に対して、それを否定する海音寺潮五郎氏のような見方もありますが、ここまでは酷くない。2010年の『龍馬伝』もそうでしたが、主人公を非戦論者聖人君子に描けばいいという浅知恵な妄想。ひどすぎます。この調子だと、先の戊辰戦争西南戦争の描かれ方も思いやられます。


 スミマセン。ちょっと興奮してしまいました。禁門の変の解説に戻ります。


戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。


後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さな局地戦にみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。21世紀のいまも変わらない事実です。だからこそ、戦史は美化せず、できるだけありのままに描かねばなりません。今回の禁門の変は、近年の大河ドラマ史上最低の禁門の変でした。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-23 19:32 | 西郷どん | Comments(2)  

西郷どん 第26話「西郷、京へ」 ~西郷の赦免と参預会議~

 元治元年2月28日(1864年4月4日)、遠島の罪を解かれた西郷吉之助(隆盛)が約1年半ぶりに沖永良部島より本土・鹿児島の地に戻ってきました。帰藩した当初の西郷は、長い座敷牢生活がたたってか、足腰が弱って一人で歩くのも難しい状態だったといいます。ドラマでの西郷はハツラツとしていましたが、実際には、この1年半の遠島生活で西郷はずいぶん弱っていたようです。


e0158128_15131310.jpg 西郷が召還されるに至った経緯は、薩英戦争後、発言権を増すことになった旧誠忠組系の藩士による強い要望が実を結んだものでした。ドラマでは、小松帯刀がその交渉役として尽力していましたが、実際には、西郷召還運動の先頭に立っていたのは、ドラマには出てきていない高崎五六という人物でした。高崎は何度も国父・島津久光に西郷の赦免を求めますが、久光はなかなか首を縦にふらなかったため、高崎が要望を聞き入れてもらえなければ腹を切るとまで訴えると、久光は渋々、息子で藩主の島津忠義に裁決を委ね、忠義によって西郷の赦免が決定します。結局は西郷の人望に勝てなかった久光ですが、どうしても自身の判断では赦したくなかったのでしょうね。


 また、西郷が赦された背景には、当時の中央政局における薩摩藩の立場も影響していました。ドラマでは描かれていませんでしたが、薩英戦争の約1ヶ月後の文久3年8月18日(1863年9月30日)、薩摩藩は会津藩と手を組んで、当時朝廷を支配していた長州藩過激派の公卿を京のまちから追放するクーデターを敢行します。世にいう「八月十八日の政変」ですね。これにより、薩摩藩と会津藩が京における支配的地位を築くことになるのですが、一方で、長州藩を中心とする尊王攘夷派からの憎しみを買い、薩摩藩は京大阪での評判を著しく落とすことになります。


e0158128_19210653.jpg さらに、久光は、かねてからの持論である公武合体を実現するべく、有力諸藩が集って政を行う合議制会議、いわゆる参預会議の開催を実現するのですが、しかし、兵庫開港問題などで一橋慶喜と久光が対立し、酒の席で慶喜が罵倒するに至り、会議はまたたく間に立ち行かなくなってしまいます。もともと、久光も慶喜も開国論者だったはずで、ふたりの意見に相違点は少なかったはずでしたが、慶喜は久光にイニシアチブを取られることに抵抗したと言われています。そもそも、公武合体と言っても、久光らのいう公武合体は、天皇のもとに賢侯を集めての中央集権を目指すというものでしたが、幕府のいう公武合体は、あくまで幕府と朝廷による合議制であって、そこに諸侯は含まれていなかったわけです。ドラマでヒー様が、「俺は 将軍家名代としてつきあってやってるんだ。」と言っていましたが、おそらく、遠からずの思いだったのでしょう。


e0158128_11283315.jpg そんな背景のなか、薩摩藩は、尊攘派からも幕閣からも評判を落とすことになります。この苦境を打開するためには、声望が高く周旋能力に長けた人材が必要だったんですね。その適任が西郷であることは、誰の目にも明らかでした。久光も妥協せざるを得なかったわけです。


 ドラマで、西郷と面会した久光が、怒りに震えて銀の煙管を噛みしめるシーンがありましたが、実際には、これより少し前の西郷の赦免が決定したときのエピソードが元で、久光は西郷の赦免に渋々同意したものの、加えていた銀の煙管を歯型がつくほど噛んだと伝えられます。よほど西郷の赦免が不本意だったのでしょう。人間、誰しも、どうしても肌が合わない相手というのがいると思いますが、西郷と久光は、まさしくその典型だったのでしょうね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-17 19:24 | 西郷どん | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その89 「若州小浜藩邸跡」

二条城南門から100mほど南下したあたりに、「若州小浜藩邸跡」と刻まれた石碑があります。

このあたりには、かつて若狭小浜藩の京屋敷がありました。


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小浜藩主の酒井家は、江戸時代、京都所司代を3代が務めた譜代大名家でした。

特に、幕末の最後の14代当主・酒井忠義は、天保14年(1843年)から嘉永3年(1850年)の8年間と、安政5年(1858年)から文久2年(1862年)の4年間の計12年間の長きに渡って京都所司代を務めました。

2回目の京都所司代に着任した忠義は、大老・井伊直弼の腹心として安政の大獄を指揮します。

かつて若狭小浜藩の家臣だった梅田雲浜を逮捕したのも、この忠義でした。

そのため忠義は尊王攘夷派に恨まれ、寺田屋事件では標的にされています。


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また、この屋敷は、将軍後見職だった一橋慶喜が、上洛後の文久3年(1863)12月から、最後の将軍・徳川慶喜として二条城に入る慶応3年(1867)9月までの3年10ヶ月を過ごした場所でもあります。

慶喜はここで、京都守護職や老中、所司代らと協議を重ね、大政奉還の構想を練ったと言われています。


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石碑の後ろに建てられていた説明板によると、その敷地は東西220m、神泉苑町通から智恵光院通まで南北260m、御池通から三条通まで、その他、家臣の屋敷が西側につづき、これらを含めると約2万坪の広大な藩邸だったそうです。


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石碑所は、「開陽堂」という刀剣・古美術を扱うお店の前に建てられています。

店頭には、幕末京洛の図や刀剣が掲げられています。

いかにも京都らしいお店です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-07 05:25 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その86 「二条城二の丸御殿」

二条城にやってきました。

現在に伝わる二条城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛時の宿所として慶長7年(1602年)から翌年にかけて造営されたものですが、幕末、ここ二条城の二の丸御殿において、大政奉還の宣言が行われました。


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ここを訪れたのは昨年の9月で、ちょうど「大政奉還150年周年記念プロジェクト」が行われており、東大手門前には金屏風風の看板が設置されていました。


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そして、こちらが大政奉還の表明の舞台となった二の丸御殿

国宝です。


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二ノ丸御殿は、将軍上洛の際の居館として、徳川家康によって慶長8年(1603年)に造営され、その後、寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇行幸に備えて、第3代将軍・徳川家光の代に改造が行われ、現在の姿となりました。

御殿は全6棟の建物から成り、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として、日本建築史上重要な遺構であり、江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日においては、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952年)に国宝に指定されました。


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正面右側のいちばん手前の建物が、「車寄」と言われる正面玄関です。

その後方の大きな屋根の棟が、「遠侍」と呼ばれる二ノ丸御殿最大の建物です。

そこから左奥へ、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院と連なります。


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残念ながら、建物内は撮影禁止です。

なので、庭園側から外観を撮影。


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こちらが「大広間」の建物。

「大広間」は将軍が諸大名と対面した部屋で、二の丸御殿の中でもっとも格式の高い部屋です。

慶応3年10月13日(1867年11月8日)、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は、ここ大広間に在京している10万石以上の大名家の重臣を召集し、政権を朝廷に返上する意志を表明しました。

集まったのは、尾張、紀州、彦根、讃岐高松、姫路、庄内、加賀、阿波、筑前福岡、仙台、鳥取、肥後熊本、米沢、越前福井、備前岡山、薩摩、土佐、芸州広島、宇和島、会津、新発田など、40藩50余名でした。


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そして、その翌日の10月14日(1867年11月9日)、慶喜は政権を朝廷に返上する上表を呈し、翌15日に天皇が奏上を勅許します。

これにより、初代・徳川家康以来、征夷大将軍として164年にわたって保持していた江戸幕府が、さらには、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれ以来、約700年続いた武士による政治は終わりを告げます。


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写真はありませんが、大広間内には上段の間に座する将軍の前で、裃姿の重臣たちが平伏するイメージが人形によって再現されていました。


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二条城二の丸御殿は、もうひとつの有名な歴史的出来事として、慶長16年(1611年)に徳川家康豊臣秀頼と会見した場所でもあります。

時を超えていくつもの歴史を刻んだその舞台は、いまでは世界文化遺産として世界中の観光客で賑わっています。


二条城につては、昨年の拙稿で詳しくレポートしています。

よければ一読ください。

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大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その1 ~外堀・城門~

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その2 ~二ノ丸御殿・二ノ丸庭園~

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その3 ~内堀~

大政奉還150年記念に訪れた二条城。 その4 ~本丸・天守台~


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by sakanoueno-kumo | 2018-07-03 23:51 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その81 「京都守護職屋敷門」

平安神宮の西側にある観光バスの駐車場に、古い門だけがポツリとあります。

この門は、幕末の京都を警備した京都守護職屋敷門が移築されたものだそうです。


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京都守護職の屋敷は、現在の京都府庁と京都府警察本部のあたりにありました。

明治に入って、その跡地には京都府庁の庁舎が建てられ、明治32年(1899年)にこの地に建てられた大日本武徳会の本部道場「武徳殿」の正門として、この門が移築使用されたそうです。

現在、武徳殿は都市武道センターとなっています。


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京都守護職とは、言うまでもなく会津藩主の松平容保です。

幕末、尊王攘夷派過激志士たちによる天誅押し込みなどの騒乱が京のまちに横行し、既存の奉行所所司代のみでは防ぎきれないと判断した幕府が、洛中の治安維持御所、二条城警備などを担う役割として、京都守護職という臨時の軍事職を設置します。

そこで白羽の矢が立てられたのが、会津藩と容保だったんですね。

容保に京都守護職就任を求めたのは、政事総裁職松平春嶽と、当時、将軍後見職を務めていた一橋慶喜(のちの徳川慶喜)でした。

要請を受けた容保が頑なに固辞しますが、春嶽が会津藩祖・保科正之「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾せざるを得なくなります。

文久2年(1862年)8月1日のことでした。

これを聞いた会津藩の家臣たちは、「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したといいます。


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京都守護職屋敷門ということは、容保はもちろん、近藤勇土方歳三新選組の面々も、この門をくぐったかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-23 23:57 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)