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タグ:徳川秀忠 ( 17 ) タグの人気記事

 

築城400周年の明石城を歩く。 その7 <二ノ丸・東ノ丸>

「その6」の続きです。

「その5」で紹介した本丸東側虎口の「番ノ門」を出て、二ノ丸に向かいます。


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明石城は本丸と二ノ丸が土橋を挟んで同じ高さで並んでいます。

この構造を、学術的には「連郭式」と呼びますが、明石城の場合、三ノ丸1段下にありますから、「連郭梯郭混合式」という分類になります。

まあ、後世の学者さんが便宜上つくった分類で、往時の大名たちは知ったこっちゃない言葉ですが。


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明石城は西国諸藩に対する備えとして、元和4年(1618年)、江戸幕府2代将軍徳川秀忠小笠原忠真に命じて築かせた城です。

忠真の祖父は松平信康、つまり忠真は徳川家康の曾孫にあたる人物です。

秀忠は、忠真の舅にあたる本多忠政の指導を仰ぐことを命じ、また、普請費用として銀1000貫を与え、幕府から普請奉行を派遣するなど、築城を全面的に支えました。

それだけ、この明石城の築城を幕府が重要視していたことが窺えます。


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築城工事は急ピッチで進められ、元和5年(1619年)にほぼ完成しました。

この工事の速さは、一国一城令によって廃城となった近くの船上城、三木城、高砂城などの建築部材を解体再利用したためと言われます。

つまり、リサイクルの成果というわけですね。


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二の丸の広さは東西74m、南北60mあります。

その東側には、東西88m、南北69m東ノ丸が連なります。


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二ノ丸と東ノ丸をつなぐ「方ノ門」です。

喰違虎口となっています。


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東ノ丸側から見た方ノ門です。


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二ノ丸と東ノ丸の間は、低い石垣で仕切られています。

築城時は二ノ丸と東ノ丸をあわせて二ノ丸だったそうですが、のちに整備され、分割されたと考えられているそうです。


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東ノ丸の南側では、多くの人がベンチで景色を楽しみながら寛いでいました。


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東ノ丸からの南側眺望です。

下に見えるのが、「その2」で紹介した三ノ丸庭園

その向こうには、JR明石駅が見えます。


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西側を見ると、「その5」で登ってきた石段と、本丸南東の巽櫓が見えます。


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巽櫓をズーム。


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東ノ丸南東隅には、日の丸が掲げられていました。


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石垣で少し高くなっています。

どうやら、あそこも櫓台跡のようです。

登ってみましょう。


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長方形の石が敷かれていますが、その中に、礎石跡と思われる自然石があります。

縄張図を見ると、ここはかつて角櫓があったようです。


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南東を見ると、向こうに明石海峡大橋が見えます。


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東ノ丸東側に門跡が見えます。


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縄張図によると、ここは「真ノ門」とあります。


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真ノ門を出ると、喰違虎口となって「天ノ門」があります。

ここを出ると、城外に出てしまうのですが、まだ城の北側を歩いてないので、「その8」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-09-03 23:58 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

築城400周年の明石城を歩く。 その1 <中濠、東不明門、西不明門>

令和元年(平成31年)の今年、兵庫県明石市にある明石城築城400周年を迎えました。

そこで、過日、その400周年を記念して明石城をじっくり歩いてみました。


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現在、JR明石駅の北側にある明石公園内に、その一部が残っています。

上の写真はその明石公園の南東外周から見た

往時は三ノ丸の外を囲う中濠でした。

右側に見える石垣は三ノ丸の南東にある東不明門(ひがしあけずもん)の石垣です。


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石垣は打込み接ぎですね。


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では、その東不明門を見てみましょう。


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東不明門は、別名「明ノ門」とも呼ばれていました。


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枡形虎口

往時は2階建ての櫓門がありました。


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石垣の上に登ってみます。


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櫓台石垣の上から見下ろした枡形虎口。


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東不明門を抜けると、三ノ丸庭園に繋がります。

往時は、ここは家老屋敷への専用入口でした。

向こうに本丸の巽櫓が見えます。


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ひとまず城内には入らず、中濠に戻ります。


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中濠沿いに西へ歩きましょう。


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築城400周年を記念した看板が設置されています。


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中濠南中央の太鼓門が見えますが、大手門にあたるここはひとまずスルーして、さらに中濠を西へ向かいます。


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中濠の西の端まで歩いてきました。


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東を振り返ります。

中濠は東西550mほどあります。


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向こうに見えるのは、明石天文科学館の塔。

東経135度日本標準時子午線の直上に立つ塔です。

つまり、東は北海道から西は沖縄まで、日本の時刻はすべてここ明石の時刻に統一されているわけです。

ある意味、日本の中心地といっていい町です。


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中濠南西には、西不明門(にしあけずもん)があります。

現在は明石公園の駐車場入口となっています。


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1時間200円

良心的な値段です(笑)。


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枡形虎口の駐車場入口です(笑)。


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日本広しといえども、枡形の石垣を進む駐車場は、なかなかないんじゃないでしょうか。


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江戸時代の縄張図によると、往時はこの西不明門を入るとすぐに内濠があり、その中に居屋敷郭があったとされていますが、現在は明石トーカロ球場があります。

かつてはプロ野球の試合もときどき行われていた立派な球場です。


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さて、城外に戻って中濠沿い西側です。


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ここ明石城は、元和3年(1617年)に信州松本城主より初代明石藩主となった小笠原忠真が、元和5年(1619年)、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命により、岳父にあたる姫路城主・本多忠政の協力を得て築城したものです。


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中濠西側は石垣がなく、土塁が南北に伸びています。


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西不明門から200mほど北上したあたりで中濠は終わっており、公園への入口があります。

でも、縄張図を見ると、中濠はもっと北まで続いており、こんな入口もありません。

おそらく、この入口は明治に入って公園整備された際に作られたものでしょうね。


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上の写真は江戸時代の縄張図です。

本稿はこのあたりで、「その2」では城内にお入ります。




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by sakanoueno-kumo | 2019-08-21 11:31 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

真田丸 第36話「勝負」 ~第二次上田合戦~

e0158128_23052141.jpg 犬伏で真田信幸と決別した真田昌幸・信繁父子が自領の上田城に戻る途中、信幸の居城である沼田城に立ち寄りますが、留守を預かる信幸の正妻・小松姫が、夫の敵となった義父・義弟の入城を拒んだという話は有名ですね。軍記物などの記述によれば、「孫の顔を見たい」という昌幸の言葉を、城を乗っ取るための昌幸の計略とみた小松姫は、鉄砲隊を狭間に配置させ、自らも薙刀を持って門扉に立ち、開門を拒んだといいます。これを見た昌幸は、「さすがは日本一の本多忠勝の娘である。武士の妻はこうあるべきた!」と、褒め称えたとか。小松姫を語るに、外せない逸話です。

 しかし、近年の研究によれば、実際には、このとき小松姫は大阪で石田三成方に人質として取られていたと考えられているそうで、このエピソードは、後世の創作とみられています。ただ、あまりにも有名な話なので、ドラマでこれを描かないわけにはいかなかったでしょう。そこで、今回の物語では、石田方が人質を取り始めたことを受けて、急遽、上方を脱出してきたという設定でしたね。実際、黒田家山内家など、上手く捜査網を掻い潜って脱出した奥方たちはたくさんいますから、ない話ではありません。史実と逸話を上手くつなげた設定でしたね。

e0158128_02592871.jpg 上田城に帰った昌幸は、すぐさま反徳川の姿勢をとらず、しばらく自らの去就を明らかにしませんでした。その狙いは、石田方に自らを高く売るためだったと見られます。昌幸を味方に引き入れたい三成は、慶長5年(1600年)8月5日付けの書状で信濃一国を与えると明言し、さらに6日付の書状では、甲斐国も与えると約束しています。この条件を得た昌幸は、ようやく西軍に与することを言明します。さすがは抜け目ない昌幸といえますが、この書状から、たかだか5万石程度の領主である昌幸を、三成はそれほど価値があるとみていたことがわかりますね。

 小山評定で旧豊臣恩顧の大名の多くを味方に引き入れることに成功した徳川家康は、大坂の石田三成を討つべく軍を西上させます。その際、家康率いる約3万3000の軍勢は東海道を、息子の徳川秀忠率いる約3万8000の軍勢は中山道を進軍しました。中山道のルートには、昌幸、信繁が籠る上田城があります。この秀忠軍を、上田城に籠るわずか2500ほどの兵力の真田軍が大いに翻弄し、その結果、秀忠軍は足止めをくって関ケ原の戦いに遅参してしまうんですね。これが有名な第二次上田合戦です。

 合戦の内容をここで詳細に解説するのは、長くなりすぎるのでやめます。超簡単に説明すると、籠城している真田軍が徳川方の兵を可能な限り引きつけた上で、機をみて攻撃するという奇襲戦法を繰り返し、そうとは知らない徳川軍は真田の術中に嵌り、かなりの打撃を受けました。第一次上田合戦のときもそうですが、昌幸は、大軍相手に寡兵で戦う術を心得ていたんですね。逆に言えば、二度も同じ手を食って惨敗した徳川軍の軍法はどうよ!・・・と言いたくなりますが、大軍というのは、寡兵相手では得てして油断が生じるものなのかもしれません。このとき総大将の秀忠は初陣でしたしね。

e0158128_22593837.jpg ただ、一説には、上田城など捨て置いて西上すればいいものを、まだ若い秀忠が軍功にはやって上田城攻めを強行し、その結果、関ケ原の戦い大遅参したといわれますが、これらの話はすべて江戸時代の創作だそうで、近年明らかになった説では、そもそも秀忠軍が中山道を進軍したのは上田城攻めが目的で、その途中で家康が作戦を変更し、上田城攻めを中断して関ケ原に呼び寄せたことがわかっています。このたびのドラマは、その新説に則って描かれていましたね。どうりで、本多正信榊原康政大久保忠隣酒井家次など徳川家譜代のビッグネームがことごとく秀忠軍につけられているはずです。家康にしてみれば、それほどまでに昌幸の存在が目障りだったのでしょう。小山評定で豊臣恩顧の武将がことごとく徳川方に与するなか、ひとり反旗を翻した昌幸・信繁父子を、捨て置くわけにはいかなかったのでしょうね。でも、結局、手玉に取られたのは徳川軍のほうでしたが。

 秀忠軍の大遅参のおかげで、関ヶ原の戦いでは徳川家譜代の家臣の活躍がほとんど見られず、戦後の論功行賞で、家康は外様大名に多くの恩賞を与えるはめになったと言われます。しかし、そのおかげで、家康は後継者である秀忠や譜代の家臣を失わずにすんだのも事実で、穿った見方をすれば、あえて兵を関ヶ原に遅参させることで、徳川軍の兵力を温存させるという家康の策略だったのではないかという説もあります。まあ、すべては結果論にすぎず、後付説の感は拭えません。家康とて、関ヶ原の戦い前から勝利を確信していたなんてことはなかったでしょうからね。すべては偶然の結果かと。

 第二次上田合戦で改めてその存在感を見せつけた真田昌幸でしたが、大きな誤算だったのは、関ヶ原の戦いがわずか1日で終わってしまったことだったでしょうね。もし、関ヶ原の戦いが長期戦になっていれば、秀忠軍退却後、昌幸は甲斐国、信濃国を席巻していたに違いありません。しかし、歴史は彼らに味方しませんでした。



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by sakanoueno-kumo | 2016-09-17 23:05 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~

樋ノ尻口地蔵の向かい側に、徳川方の武将・安藤次右衛門尉正次の墓があります。

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安藤正次は禄高二千石の旗本で、大坂夏の陣には旗本奉行として徳川秀忠に直属し、慶長20年(1615年)5月7日の大坂城落城直前、秀忠の使者として前田利常、本田康紀に、敵地へ肉薄するようとの命令を伝えた人物です。
そのとき、数騎の敵兵に出会うも単身馬を進めて戦い、豊臣方の首級をあげましたが、自らも深手を負い、家来に助けられて戻った本陣で、秀忠から高名したと賞され、宿舎である平野の願正寺に送られ治療をしていました。
しかし、ほどなく自身の再起不能を悟り、自刃します。
享年51歳

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五輪の墓塔は、世子・安藤正珍が平野郷を囲む環濠の土居上にて建て、願正寺を菩提寺としました。

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その願正寺は下の写真。
墓所から徒歩2~3分のところにあります。

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ここには、正次愛用の関ノ兼房の短刀が所蔵されているそうです。

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安藤正次という人物はあまり有名ではありませんが、こうして墓所が壊されずに残されているおかげで、後世にその名を伝えてくれます。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-04 17:19 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~

慶長20年(1615年)5月6日、八尾・若江の戦い道明寺の戦いで豊臣方に大打撃を与えた徳川家康は、その夜、生駒山西麓の豊浦村に住む中村四郎右衛門正教の邸に宿陣しました。
中村宅には、前年の大坂冬の陣の際にも徳川秀忠が宿陣しており、その実績にならって家康もここに陣を布いたと思われます。

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現地の説明看板によれば、家康の宿陣は折から5月5日の菖蒲の節句だったため、正教はそれにちなんで「菖蒲木綿」「勝布(しょうぶ)」として献上し、家康を大いに喜ばせたと伝えられるそうです。

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中村氏は佐々木源氏(近江源氏)の流れをくみ、もとは近江国の鯰江城を居城として鯰江氏と称されていたそうですが、室町時代後半に唯正という人がこの地に移り、中村の姓を名乗るようになったといわれます。
江戸時代に入って豊浦村は幕府の直轄領となり、中村氏は「中村代官」と称され、庄屋として力をもったそうです。

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現在、中村邸の遺構は何も残っておらず、その跡地の一部だったと思われる枚岡中央公園内に、石碑が建てられています。

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また、公園から150mほど西には、「権現塚」と刻まれた石碑と、かつてこの地にあった中村邸が、家康の宿陣として使用されたことを伝える恩蹕遺址碑があります。

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この碑は、昭和7年(1932年)に枚岡村村長が中村邸跡にあった碑文の原文にもとづいて建てたものだそうです。

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ロケーションはこんな感じ。
道路沿いにひっそりと存在し、注意していないと見落としそうになる場所です。

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写真は中村邸跡から300mほど東にある枚岡神社から見た景色です。
左に見える高いビルは、昨年竣工した日本一の高さを誇るあべのハルカスです。
写真では確認できませんでしたが、右側のビル群の中に、大坂城があります。
たぶん、かつてはここから大坂城が展望できたのでしょう。
八尾・若江の戦いや道明寺の戦いで豊臣方に大打撃を与え、勝利を確信した家康は、ここから大坂城を眺めてほくそ笑んでいたかもしれませんね。

次稿に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-12-02 17:19 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~

大阪府四條畷市に忍陵神社というところがあるのですが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際、徳川秀忠がこの地に本陣を布いたと伝えられます。

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ここは忍陵古墳という4世紀中頃の古墳でもあり、大坂の陣当時には神社はなく、当時、飯盛山城を居城としていた三好長慶が、その支城としてこの丘陵地に岡山城を築いたと伝えられます。

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現地説明看板によると、大阪夏の陣で秀忠がこの地に本陣を布いて徳川方が勝利したため、縁起がいいところとして「御勝山」と称された、とあります。
ん?・・・どっかで聞いたことある話ですよね。

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そう、「その7」で紹介した岡山と、まったく同じ話です。
岡山、御勝山・・・出来すぎですね。
これって、どちらかの話が間違いなんじゃないですか?
秀忠がここに陣を布いたというのは事実なんでしょうけど、御勝山の伝承は、ふたつの話が混同しちゃってるような気がします。

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まあ、この手の話というのは、すべて後世になって語られたものでしょうから、あるいは、どちらも作り話かもしれません。

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でも、古墳であり城跡であり、そして本陣跡の伝承ありと、悠久の歴史を持つ場所であることは間違いありません。
伝承が実話かどうかなんて、無粋な詮索ですね。

次回に続きます。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-08 19:53 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その7 ~御勝山古墳(徳川秀忠の陣跡)~

大阪市生野区にある御勝山古墳を訪れました。
ここは5世紀前半の古墳だそうで、大坂冬の陣において徳川秀忠が陣を布いたと言われる場所です。

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元は「岡山」という名称だったそうですが、大坂の陣の戦勝を祝い、「御勝山」と改名されたんだとか。

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元は前方後円墳だったそうですが、大坂の陣の際に墳形が破壊されたそうで、いまは後円部が残っているだけです。

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古墳の説明は、看板を読んでください(笑)。

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墳丘の上に古い石碑があります。
柵で囲われていて中には入れないので、ズームして見てみると・・・。

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「大阪府立農學校址」とありました。
なんだ、大坂の陣とは関係ないのか・・・。
でも、なんで古墳が学校跡なんだろう?

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大阪冬の陣では、秀忠はここに陣をかまえ、父の徳川家康はここから2kmほど西の茶臼山古墳に陣を布きました。
後世に大坂の陣といえば、豊臣方の大将が豊臣秀頼で徳川方の大将が家康だと思いがちですが、実質的にはそうだったでしょうが、形式上は、このときの征夷大将軍は秀忠であり、したがって総大将は秀忠だったわけです。
つまり、この地は総大将の本陣だったわけですね。
秀忠は大坂城落城後、この地で戦勝祝の宴を催したといいます。
それは、徳川幕府が盤石となった祝でもありました。

次回から、夏の陣関連に移ります。



大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~

大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その2 ~心眼寺(真田丸跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その3 ~鴫野古戦場跡・佐竹義宣本陣跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その4 ~白山神社(本多忠朝物見のいちょう)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その5 ~野田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その6 ~本町橋~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その8 ~大和郡山城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その9 ~忍陵古墳・岡山城跡(徳川秀忠の陣跡)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その10 ~徳川家康星田陣営跡・旗掛け松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その11 ~岸和田城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その12 ~樫井古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その13 ~塙団右衛門直之の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その14 ~淡輪六郎兵衛重政の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その15 ~法福寺(お菊寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その16 ~大野治胤(道犬斎)の墓
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その17 ~今井宗薫屋敷跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その18 ~若江古戦場・木村重成の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その19 ~木村重成菩提寺・蓮城寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その20 ~木村重成本陣跡・銅像~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その21 ~木村重成表忠碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その22 ~山口重信の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その23 ~飯島三郎右衛門の墓・若江城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その24 ~長宗我部盛親物見の松~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その25 ~常光寺・八尾城跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その26 ~小松山古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その27 ~玉手山公園(道明寺古戦場)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その28 ~誉田古戦場・薄田隼人碑~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その29 ~真田幸村休息所跡・志紀長吉神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その30 ~権現塚・中村四郎右衛門正教宅跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その31 ~樋ノ尻口地蔵・全興寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その32 ~安藤正次の墓・願正寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その33 ~桑津古戦場跡・柴田正俊の墓~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その34 ~茶臼山古墳古戦場跡~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その35 ~安居神社(真田幸村終焉の地)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その36 ~一心寺~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その37 ~玉造稲荷神社~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その38 ~方広寺大仏殿の梵鐘~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その39 ~淀殿の墓(太融寺)~
大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その40 ~伝・徳川家康の墓(南宗寺)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-10-02 18:32 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~

現在の大坂城天守閣は言うまでもなく復元ですが、昭和6年(1931年)に建設された日本最古の復元城で、平成9年(1997年)には文化財保護法に基づく国の「登録有形文化財」に指定されました。
復元といえども、文化財としての価値が認められたということですね。

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初代天守は豊臣秀吉が築城を開始して3年目の天正13年(1585年)に完成しましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で焼失。
太閤大坂城はわずか30年の命でした。
その後、2代将軍徳川秀忠によって寛永3年(1626年)に2代目天守が再建されますが、寛文5年(1665年)の落雷による火災によって、ふたたび焼失してしまいます。
これも、40年ほどの寿命だったんですね。
以来、幕末に至るまで大坂城は天守のない城郭として存在してきましたので、現在の復元天守は3代目ということになります。
現在の天守が建てられてから86年経ちますから、3台目がいちばん長いわけですね。
こうなると、もはや「復元城」の域を超えたといえそうです。

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復元天守は、「大坂夏の陣屏風」に描かれた豊臣時代の天守を参考に築かれたそうですが、たしか、当時の大坂城の外壁は白の漆喰ではなく、黒漆塗りの板貼りだったと思います(屏風絵の大坂城もそうなっています)。
参考にしたというのは、かたちだけのことでしょうか?

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小天守台にある金明水井戸屋形です。
ここにある井戸を「金明水」といい、それを覆う建物を金明水井戸屋形といいます。
伝説によると、秀吉が水の毒気を抜くために、この井戸に黄金を沈めたといわれますが、戦後の学術調査によると、この井戸は徳川時代に掘られたものと判明したそうです。
それにしても、大坂城にまつわる伝承というのは、ほとんどが秀吉がらみばかりで、徳川時代の伝承というのはあまりありませんね。
徳川時代に入っても、大坂城の象徴はやはり太閤さんだったんですね。

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天守の入口です。
この日も観光客でいっぱいでした。

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見上げると金の鯱が、そして最上階の壁面には金の伏虎が見えます。
城内には、その原寸大レプリカが展示されていました。

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天守の中は博物館なので、特に紹介するものはありません。
内装はただの古いビルです。
必見なのは、「その1」の冒頭で紹介した「大坂夏の陣図屏風」の現物が展示されていること(撮影禁止)。
あと、夏の陣のフィギュアが面白かったですね(こちらは撮影OKでした)。

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来年の大河ドラマの主役、真田信繁(幸村)だそうです。

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せっかくなので、天守最上階から見た景色を載せておきましょう。
まずは南面の本丸御殿跡です。

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西面の西の丸庭園

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こちらは北面、右手に見える高層ビルは、大阪ビジネスパークです。

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そして東面、野球場と大阪城ホールが見えます。

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以上、天守を落としたところで大坂城を完全制覇・・・と言いたいところですが、もう少しだけお付き合いください。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

大坂の陣ゆかりの地めぐりシリーズも、よければ。
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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-08-19 19:36 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

大坂の陣400年記念大坂城攻め その2 ~大手口、搦手口~

大坂城外堀内への入口は4ヵ所、南西に大手口、南東に玉造口、北東に青屋口、北西に京橋口があります。
まずは南西の大手口から。

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城の正面を「大手」といいますから、正面入口のことを大手口、そこに建つ門を大手門といいます。
つまり大手門は正門、いわば正面玄関ですね。
ちなみに裏口は「搦手(からめて)」と呼ばれ、ここ大坂城の場合、大手門以外の三つの入口は搦手口となります。
大手門は寛永5年(1628年)の徳川幕府による再築第3期工事の際に創建されたそうです。

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天明3年(1783年)の落雷により多聞櫓が焼失した際にも、類焼を免れた貴重な建造物で、現在は大手門を取り囲む土塀二棟とともに重要文化財の指定を受けています。

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大手門をくぐると、枡形の石垣上に多聞櫓があります。
ここも大手門の創建とともに築かれましたが、天明3年(1783年)の落雷によって全焼し、その後、嘉永元年(1848年)に再建されたそうです。
かつては京橋口や玉造口にも多聞櫓があったそうですが、現在はここだけが残っていて、重要文化財に指定されています。

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続いて南西の玉造口です。
かつてはここにも多門櫓が建っていたそうですが、明治維新の大火で焼失し、その後焼け残った玉造門も撤去されたため、現在では門の両脇の石組だけが残っている状態です。

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玉造口を入ったところから見た天守です。

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ズームしてみました。
復元城とはいえ、やはり美しいですね。

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次は北東の青屋口です。
ここには門が現存しますが、この門は昭和44年(1969年)に再建されたものだそうです。
もとは元和6年(1620年)の再築第1期工事の際に創建されたと伝わり、明治維新の大火によって被災しますが、その後陸軍によって修復されるも、太平洋戦争時の空襲で大破したそうです。

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昭和44年の再建時に使われた木材は、空襲時に大破した残材だそうです。

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門をくぐると内堀の石垣があり、その向こうに天守が見えます。

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最後に北西の京橋口です。
北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」と呼ばれました。
戦前までは京橋門が残り、大手口と同様に多門櫓もあったそうですが、空襲で焼失してしまったそうです。

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あと、4つの入口以外に、元和6年(1620年)の再築第1期工事の際に二の丸の北外側に北外曲輪(三の丸)が築かれ、そこに筋鉄門が築かれました。
筋金門はその呼び名のとおり、筋状の鉄板で補強されていたそうです。
門は明治維新後も残り、ここに設置された軍事工場の正門とされたそうですが、現在は左右の石組だけが残ります。

いずれの入口も、徳川幕府の再建時、二代将軍徳川秀忠から三代将軍徳川家光の時代に築かれたもので、豊臣時代のものではありません。
豊臣時代の入口は、南北2ヵ所だけだったと言われます。
4ヵ所も入口を作れたのは、太平の世になったからでしょうね。

次回に続きます。

大坂の陣400年記念大坂城攻め その1 ~外堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その3 ~西の丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その4 ~二の丸・豊国神社~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その5 ~石山本願寺推定地の碑と蓮如上人袈裟がけの松~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その6 ~内堀~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その7 ~刻印石、巨石~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その8 ~本丸~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その9 ~天守閣~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その10 ~豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地~
大坂の陣400年記念大坂城攻め その11 ~城中焼亡埋骨墳~

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大坂の陣400年記念ゆかりの地めぐり その1 ~三光神社(真田丸跡)~


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-16 15:46 | 大坂の陣ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第1話「ならぬことはならぬ」 ~什の掟~

 幕末から明治、大正、昭和を生き抜いた“ハンサム・ウーマン”山本八重ことのちの新島八重の物語が始まりました。第1話は八重の生まれ育った会津藩の藩風が描かれた回でしたね。のちの戊辰戦争の悲劇の象徴である会津藩ですが、なぜそのような末路になってしまったかは、会津藩とはどのような藩であったか、そして会津松平家の徳川将軍家に対する立ち位置から知るべきでしょう。

 会津松平家の初代藩主は徳川三代将軍家光の異母兄弟である保科正之。一昨年の大河ドラマの主人公・お江の夫・徳川二代将軍秀忠が女中に手を出して産ませた人物です。もっとも、秀忠存命中は正之を公式に実子と認めることはなく、その事実が公然となったのは秀忠の死後、家光の代になってからでした。一説には、恐妻家だった秀忠が妻・お江の嫉妬を恐れ、譜代大名の保科正光の養子としたともいわれますが、いかがなものでしょう。正之は謹厳実直で有能な人物だったといわれ、秀忠の死後、家光はこの異母弟をことのほか可愛がり、会津23万石に引き立てました。そして家光の死後はその遺命により、第4代将軍となった徳川家綱の補佐役となって幕政の安定に寄与していくこととなります。

 慶安4年(1651年)家光は死の淵に臨んで枕頭に正之を呼び出し、「宗家(徳川家)を頼みおく」と言い残したそうです。これにたいそう感銘した正之は、のちに『会津家訓十五箇条』を定めました。その第一条に、「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず、面々決して従うべからず。」と記されています。
 意味は「徳川家への御恩を忘れることなく、ひたすら忠勤にはげみ、決して他藩の動向に流されてはならない。もし、徳川将軍家に対して逆意を抱くような会津藩主があらわれたならば、そんな者は我が子孫ではないゆえ、家臣は決して従ってはならない。」といったところでしょうか。つまり平たく言えば、「どんなことがあっても会津藩士は徳川家をお守りせよ!」ということですね。以降200年、会津藩主・藩士はこれを忠実に守り、そしてドラマの舞台である幕末を向かえました。そしてこの家訓が、会津藩の運命を決めることになります。

 会津藩は教育熱心な藩風としても知られていました。会津藩士の子は皆10歳になると日新館に入学することが義務付けられていましたが、入学前の6歳から9歳までの子どもたちを10人前後のグループに分け、これを「什(じゅう)」と呼びました。子どもたちは毎日、什の仲間のいずれかの家に集まり、会津藩士としての心得を学びます。それが、有名な「什の掟」です。

 一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
 一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
 一、戸外で物を食べてはなりませぬ
 一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
 ならぬことはならぬものです


 何年か前のベストセラー『国家の品格』の中で紹介されて全国的に有名になりましたね。現代でも福島県の子どもたちは皆、暗誦できると聞きます。江戸時代、什の子どもたちは毎日これを暗誦し、そして今日一日これに背いた者がいなかったか皆で反省会を行いました。そして掟に背いた者がいれば、子どもたちの間で話し合い、「竹篦(しっぺい)」などの制裁を決めたそうです。子どもたちに心得を持たせ、子どもたちの問題は子どもたちの手で解決させる。6歳から9歳といえば、今で言えば幼稚園から小学校低学年ですよね。そんな幼いときから徹底的に心得を叩き込み、藩士としての自覚を持たせる。藩あげての人材育成だったわけですね。現代の教育現場も見習うべきところがあるような気がします。

 「什の掟」の7条のうち、最後の7条目を除いた6条は、現代でもまったくもって通用する心得ですし、昔に比べて現代人に欠落している心得ですね。もう一度教育の場で見直してみてもいいんじゃないでしょうか。なぜイケナイかという理屈ではなく、問答無用でダメなものはダメ。
「ならぬことはならぬ!」
躾の基本のような気がします。

 そんなお国柄の会津藩で、八重は生まれ育ちました。その後の八重の人生に、会津の心得は大きく影響したであろうことは想像に難しくありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-01-07 03:05 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(6)