新島襄の死から3ヵ月後の明治23年(1890年)4月、
八重は
日本赤十字社に入社し、
看護婦の資格を得ます。このとき八重は
45歳。この時代、夫に先立たれた45歳といえば、そろそろ
老後の準備にとりかかろうといった年齢だと思うのですが、八重にとってはまだまだ余生ではなかったのですね。なぜ八重が看護婦の道を選んだのかはわかりませんが(ドラマでは兄の
山本覚馬に勧められてでしたが)、あるいは襄の生前から胸に秘めていたのかもしれません。
赤十字とは、いうまでもなく戦時における傷病者や捕虜の保護を目的とする
国際協力組織のことですが、この赤十字の思想を日本に伝えたのは、佐賀藩出身の
佐野常民という人物でした。佐野は明治10年(1877年)の
西南戦争の際、赤十字をモデルにした
博愛社という組織を立ち上げます。そして10年後の明治20年(1887年)5月に、博愛社は
日本赤十字社と名を改め、総裁には
有栖川宮熾仁親王、社長には佐野が就任します。八重が入社するのはその3年後のことですね。このヨーロッパで始まった赤十字の活動を、新島襄が知らなかったとは考えづらく、むしろ、
同志社に医学部を設置するべく病院や看護学校を立ち上げていた襄としては、赤十字の活動は大いに興味があったに違いありません。あるいは、八重に赤十字の考え方や戦地での看護婦の働きを教えたのは、襄だったかもしれませんね。襄の死後たった3ヵ月で
従軍看護婦の道を目指したのは、生前の襄が後押しした背景があったのかもしれません。
八重を従軍看護婦の道に突き動かした理由をもうひとつあげれば、やはり
会津戦争における
鶴ヶ城籠城戦の体験でしょう。八重の籠城戦といえば、
スペンサー銃を肩に男性に混ざって戦ったところばかりがクローズアップされますが、
野戦病院と化した鶴ヶ城内で看護の任にあたったのは藩士の婦女子たちで、当然ながら八重もそのひとりでした。凄まじい
戦場の実態を知っている八重としては、戦場における
看護の重要性を充分理解していたことでしょう。そんな実体験も、八重の背中を押した大きな理由のひとつだったに違いありません。
そうして従軍看護婦の資格を得た八重は、
日清戦争時には広島陸軍予備病院で、
日露戦争時には大阪予備病院で、傷病者の看護にあたると同時に、看護婦を監督する立場でもありました。その功績に対して、明治29年(1896年)に
勲七等宝冠章、明治39年(1906年)には
勲六等宝冠章が授与されます。ドラマでも言っていましたが、皇族の女性を除く
民間の女性としては、
初めての受賞だったそうです。これは八重自身にとっても、そして当時の女性たちにとっても、さらには逆賊の汚名を着せられた旧会津藩士たちにとっても、
大きな栄誉だったことでしょう。
しかし、八重は日清、日露戦争そのものは肯定していましたが、その
悲惨さを伝えることも忘れませんでした。戦場で手足を失った兵士や、精神に異常をきした兵士の姿を見るにつけ、
国家のためとは言いながら気の毒でならない・・・。
名誉の負傷と慰めるものの、病室を出れば涙が止まらなかった・・・と、後年語っていたそうです。きっと、鶴ヶ城内で見た凄惨な光景と重ねあわせていたに違いありません。
少し余談になりますが、ここ数話のドラマ中、八重が
戦争に否定的な発言をするようになりましたが、それについて、
後世の反戦史観だ!・・・といった批判の書き込みをいくつか目にしました。そうでしょうか? たしかに、この時代の世論は日清、日露戦争に肯定的で、
日本中が戦争に熱狂していた時代であることは事実です。しかし、国民すべてでは決してありません。各地で
反戦運動が行われていたのもひとつの側面としてありますし、それらに対する
政府の弾圧も、昭和の戦争時に比べれば甘いものでした。作家の
与謝野晶子は、日露戦争を批判した
「君死に給うことなかれ」という歌を、堂々と発表していますしね(その与謝野晶子も、太平洋戦争時には戦争を賛美する歌を作っています)。決して
挙国一致だったわけではありません。
ただ、
大きな歴史の捉え方として国全体が戦争を支持していた時代だったのは事実で、新聞がそれを煽っていたのも事実です。そのあたりは、
徳富蘇峰の言動でちゃんと描かれていたのではないでしょうか? でも、実体験として戦争の凄惨さを目の当たりにした人たちは、必ずしも全面的に賛成だったわけではなかったんじゃないかと思うんですね。それが普通ではないでしょうか。その思いに、
現代価値観もクソもありません。ましてや、維新後
キリスト教徒となった八重が、
反戦論者に転じていたとしても何ら不自然ではないですよね。近年の大河ドラマにあった安っぽい
反戦思想の刷り込みとは違って、無理のない描き方だと思いました。あれを観て反戦だの現代価値観だのと批判する人のほうが、むしろ寒いものを感じます。
戦争に肯定的な意見を持つ人たちは、実体験として
戦争の恐ろしさを知らない者たち、つまり、ドラマでいうところの徳富蘇峰たちであり、現代に生きる
戦後生まれの私たちです。そんな人たちばかりになったとき、国は進む方向を間違えるんですね。
ドラマにもどって、八重の
最後の一発について、どのように解釈すればいいのか私なりに考えてみましたが、明快な答えを得られていません。おそらく、
目の前の敵ではなく、
もっと大きな敵を意味しているのでしょうね。それは、争いが消えない
世の中かもしれませんし、争いを作り出す
人間の心かもしれません。解釈は観る人によって様々だと思いますが、ひとつだけいえるのは、目の前の敵を撃って人をひとり殺しても、
世の中は何も変わらないということでしょう。
「花は、散らす風を恨まねえ」 老いた
西郷頼母の言った台詞ですが、この台詞に尽きるのではないでしょうか。幕末、
歴史の綾で逆賊となってしまった会津藩でしたが、
歴史の大局の中では、
産みの苦しみの代償でしかありません。薩長が悪かったわけでも、幕府に罪があったわけでもなく、ひとつの時代が終わり、新しい国が生まれるための
陣痛の役割を、会津藩が負うはめになった・・・。ひとつボタンを掛け違えれば、その役目は薩長だったかもしれません。たまたま、会津は
花になってしまい、それを散らす
風になったのが、薩長だったんですね。
「花は散っても、時が来っと、また花を咲かせる」 昭和に入って
松平容保の孫娘と
昭和天皇の弟である
秩父宮雍仁親王との婚儀が成立し、会津藩はもはや朝敵ではないことを世に知らしめ、
名誉を回復しました。まさしく、花は散っても、時が来るとまた花を咲かせます。
東日本大震災を受け、被災地の
復興を支援するとして制作されたこのドラマでしたが、新島八重という女性の人生を通して伝えたかったのは、この言葉だったのでしょうね。きっとまた、花を咲かせる・・・と。
1年間、拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。今年は最後までレビューを続ける自信はなかったのですが、なんとか完走出来ました。年内には総括を起稿したいと思っています。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
