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幕末京都逍遥 その97 「古高俊太郎遺髪墓(福勝寺)」

前稿前々稿で紹介した教善寺・浄圓寺から北東に300mほどのところにある福勝寺に、古高俊太郎遺髪墓があります。

古高は攘夷派の志士で、池田屋事件の発端となった人物です。


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古高俊太郎は近江国大津出身で、京都に移住したのち梅田雲浜に師事し、尊皇攘夷思想を学びます。

その後、同士のひとりだった湯浅五郎兵衛の依頼で、湯浅喜右衛門の養子となり、小道具の「桝屋」を継いで枡屋喜右衛門と名乗ります。

その「桝屋」のあった場所は「その42」で紹介しています。


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小道具の「桝屋」の主となった古高でしたが、それは表向きの仮の姿で、密かに武器を集めて尊攘派を援助するなど、諜報活動の大元締めとして活動していました。

しかし、元治元年6月5日(1864年7月8日)、新選組に踏み込まれて捕縛され、武器弾薬を押収された上に、諸藩浪士との書簡血判書が発見されてしまいます。

新選組屯所に連行された古高は、近藤勇土方歳三から直々に厳しい取り調べを受け、当初は口を閉ざしていたものの、2階から逆さ吊りにされて足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられて火をつけられるなどの過酷な拷問を受け、ついに力尽きて自白します。

その内容は、数十人が徒党して、風向きを考えた上で御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮朝彦親王を幽閉して京都守護職の松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうという超過激な計画で、しかも、近々市中で同志の集会があることも判明します。

その会場が、池田屋だったわけです。

そして、あの池田屋事件につながるんですね。


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池田屋事件後も古高は「その90」で紹介した六角獄舎に繋がれていましたが、同じ年の禁門の変の際における火災で獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首されました。

享年36。


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処刑された古高の遺骸は遺族の元へは帰らず、明治元年(1868)、妹の智恵が兄の遺品である衣類遺髪を埋めて墓碑を建てました。

それが、この墓だそうです。

その10年後に遺骨はほかの処刑者たちとともに発見され、「その88」で紹介した竹林寺に埋葬されました。

また「その7」で紹介した東山霊山墓地にも、慰霊碑があります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-19 23:21 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その96 「池田屋惣兵衛の墓(浄圓寺)」

前稿で紹介した教善寺のすぐ隣にある浄圓寺に、幕末期の商人・入江屋惣兵衛の墓があります。

別名、池田屋惣兵衛ともいいます。

そう、あの池田屋事件の舞台となった京都三条小橋西の池田屋の主人です。

江戸時代、商人は屋号を姓として称していたため、一般には池田屋惣兵衛の名で知られていました。

「池田屋事件」とは、元治元年6月5日(1864年7月8日)夜、在洛の長州、土州など諸藩の尊王攘夷派志士たちが謀議中に新撰組に急襲され、乱闘のすえ多くの志士が落命した事件です。

事件のあらましは「その36」でしていますので、そちらを一読ください。


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池田屋事件当夜、突然踏み込んできた新選組御用改めに驚いた惣兵衛は、階段を駆け上がって2階に集まる攘夷派志士たちに御用改めが入ったことを告げました。

あの「銀ちゃん、かっこいい~!」の階段ですね(笑)。

このとき、惣兵衛は踏み込んできた近藤勇殴打されたといいます。

新選組と攘夷派志士たちとの乱闘のなか、惣兵衛は妻子を連れて脱出し、妻子を親類宅に預けて自身も身を隠していましたが、翌日の6月6日に捕らえられて詰問を受け、翌日の7日に「その90」で紹介した六角獄舎に投獄されました。

さらにその翌日には妻子も捕まり、入牢の身となります。


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上の写真が惣兵衛の墓です。

笹屋重助の名で葬られていますが、墓石の横には「池田屋惣兵衛之墓」と刻まれた小さな石碑が建てられています。


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惣兵衛は入獄中に熱病を発病し、7月13日に獄死しました。

おそらく、厳しい拷問で体を壊したのでしょうね。

惣兵衛と共に捕らえられていた池田屋手代・彦兵衛の証言では、惣兵衛は拷問にも耐えて、一切口をわらなかったといいます。

商人でありながら、彼もまた、ひとりの志士だったんですね。

享年42。

56歳という記録もあります。

遺骸は翌日に家族に引き渡されましたが、未だ罪人の扱いで妻子も入牢の身であったことから表立って葬儀を上げることも出来ず、家族の嘆願でここ浄圓寺に密葬されたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-18 23:58 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その61 「凝華洞跡(京都御苑)」

京都御所建礼門の南側にあったとされる凝華洞跡を訪れました。

ここは、かつて会津藩主の松平容保が、仮宿舎とした場所と伝えられます。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)の際、京都御所を守っていたのは会津藩と薩摩藩でした。

その会津藩主の松平容保は、当時、京都守護職を務めていたので、事実上、薩会軍の大将だったわけです。


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ところが、容保は禁門の変の半年ほど前からを患っており、変当日も、両肩を家臣に抱えられながらの戦だったといいます。

そのため、朝廷の配慮によって凝華洞を仮宿舎としたそうです。

凝華洞は、江戸時代中期の後西天皇(第111代天皇)が、退位後の仙洞御所とした場所だそうで、そのような場所を仮宿舎として容保に与えたことからみても、孝明天皇(第121代天皇)が、いかに容保を頼りにしていたかがうかがえます。


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現在、凝華洞跡は小高い丘になっており、松の大樹が聳えます。

樹齢はわかりませんが、あるいは、往時を知っているかもしれません。


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凝華洞跡のすぐ北側に、御所南側の正門「建礼門」が見えます。

文久3年(1863年)の八月十八日の政変の際、かけつけた壬生浪士組がこの門を警護し、その功から、3日後の8月21日に「新選組」の名を賜ったとされるゆかりの門です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-25 01:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その47 「西川耕蔵邸跡」

三条富小路にあるヘアーサロンの店頭の片隅に、「西川耕蔵邸址」と刻まれた石碑があります。

西川耕蔵は、元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた「池田屋事件」で、会合に参加していながら難を逃れた数少ない人物です。


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西川耕蔵は京都の書店「文石堂」に生まれ、本屋の息子いうこともあってか学問を好み、のちに梅田雲浜に師事して勤王思想を学びます。

「安政の大獄」によって雲浜が捕らえられたあとは、雲浜の妻子を助けました。

同じく雲浜の門下で、池田屋事件の発端となった古高俊太郎とも交流が深かったようです。

池田屋での議に参加していた西川でしたが、危うく難を逃れ、聖護院の寓居にひそんでいたところ、新選組志士狩りの捜査網にかかって捕縛され、事件の10日後の6月15日、新選組屯所に連行されます。

その後、厳しい取り調べののち牢につながれ、そして慶応元年2月11日(1865年3月8日)朝、斬罪に処せられました。

享年43歳。


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西川耕蔵という名はあまり知られておらず、この石碑も、写真のとおり植木に隠れていて、人通りの多い場所にもかかわらず誰も目に止めていませんでした。

わたしが写真を撮っている姿を見て、ようやくこちらに目をやる人が数人いた程度です。

これが新選組の石碑だったら、きっと多くの人が足を止めるでしょうけどね。

皮肉なものです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-04 00:21 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その42 「古高俊太郎邸跡」

池田屋跡から500mほど南下した河原町通木屋町通の間の細い路地の一角に、「古高俊太郎邸跡」と刻まれた石碑が建っています。

古高俊太郎は攘夷派の志士で、池田屋事件の発端となった人物です。


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古高俊太郎は近江国大津出身で、京都に移住したのち梅田雲浜に師事し、尊皇攘夷思想を学びます。

その後、同士のひとりだった湯浅五郎兵衛の依頼で、湯浅喜右衛門の養子となり、小道具の「桝屋」を継いで枡屋喜右衛門と名乗ります。

その「桝屋」のあった場所が、このあたりだったそうです。


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現在は「しる幸」という名の料理屋があります。


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小道具の「桝屋」の主となった古高でしたが、それは表向きの仮の姿で、密かに武器を集めて尊攘派を援助するなど、諜報活動の大元締めとして活動していました。

しかし、元治元年6月5日(1864年7月8日)、新選組に踏み込まれて捕縛され、武器弾薬を押収された上に、諸藩浪士との書簡血判書が発見されてしまいます。

新選組屯所に連行された古高は、近藤勇土方歳三から直々に厳しい取り調べを受け、当初は口を閉ざしていたものの、2階から逆さ吊りにされて足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられて火をつけられるなどの過酷な拷問を受け、ついに力尽きて自白します。

その内容は、数十人が徒党して、風向きを考えた上で御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮朝彦親王を幽閉して京都守護職の松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうという超過激な計画で、しかも、近々市中で同志の集会があることも判明します。

その会場が、池田屋だったわけです。


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池田屋事件後も古高はに繋がれていましたが、同じ年の禁門の変の際における火災で獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首されました。

享年36。

現在、東山霊山には墓石があり、福勝寺には遺髪墓があります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-26 23:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その37 「三条大橋擬宝珠の刀傷」

池田屋跡から西へ200mほどいったところにある三条大橋擬宝珠に、池田屋事件の際についた刀傷が残っていると知り、やってきました。


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鴨川に架かる橋は五条大橋や四条大橋などたくさんありますが、その中でも特に人通りが多い橋が三条大橋で、この日も多くの観光客や買い物客で賑わっていました。


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刀傷があるとされる擬宝珠は、西から2つめにあります。


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これがその刀傷

斜めに2本の傷があります。

まあ、刀傷として見ればそう見えますし、ただの傷といえばそうも見えます。

こういうものは、そう信じて見るしかないですね。


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事件の歳、池田屋に踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で、他の新選組の隊士は外を固めていました。

この刀傷が誰の刀によってつけられたものかはわかりませんが、池田屋を脱出にて屋外で斬られた志士もいたので、おそらく、そのときの斬り合いでついた傷でしょうね。

まあ、本当に池田屋事件の傷ならば、ですが。

ちなみに、屋内に踏み込んだ沖田は戦闘中にに倒れて戦線から離脱し、藤堂は油断して鉢金を取ったところでを斬られ、血液が目に入って戦闘不能となり、戦線離脱していますので、おそらく2人の刀ではないでしょう。

たぶん、あまり有名どころの刀傷じゃなさそうですね。


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三条大橋は東海道五十三次の西の起点として、歴史にも多く登場する橋です。

また、三条大橋の下の三条河原は、かつては処刑場や処刑後の晒し首の場として知られたところですね。

有名なところでは、石川五右衛門釜茹でになったのもここで、豊臣秀次の一族の首や、石田三成の首もここ三条河原に晒されました。

そして幕末、慶応4年4月25日(1868年5月17日)には、関東の板橋で斬首となったあと、塩漬けにして京都まで運ばれた近藤勇の首もここに。

池田屋事件で名を馳せた近藤の首は、わずか4年足らずで200mほど先の三条河原に晒させることになったわけです。

薩長軍にしてみれば、わざわざ関東から運んでまでも、近藤の首を京都に晒すことに大きな政治的意味があったのでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-19 23:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その36 「池田屋跡」

木屋町通りと河原町通りの間の三条通り沿いに、「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。

説明するまでもないと思いますが、「池田屋騒動」とは、元治元年6月5日(1864年7月8日)夜、在洛の長州、土州など諸藩の尊王攘夷派志士たちが謀議中に新撰組に急襲され、乱闘のすえ多くの志士が落命した事件です。

「池田屋事件」「池田屋の変」ともいいますね。

その舞台となった旅館・池田屋があったこの地には、現在、「池田屋」の名称を掲げた居酒屋が営業しています。


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尊攘派の志士たちが池田屋で密会しているという情報を得た新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。

このとき、池田屋の2階に集結していた浪士たちは、宮部鼎蔵吉田稔麿、望月亀弥太ら約30名。

これに対し、新選組は、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名のみで斬り込みました。


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不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦し、旅館の内外は大混乱となります。

近藤勇は、その夜の様子を次のように記しています。

「かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候、藤堂は鉢金を打ち落され候より深手を受け申し候」(徒党の多勢相手に火花を散らし、一時あまりの間、戦闘におよんだところ、永倉の刀は折れ、沖田の刀は帽子折れ、藤堂の刀は刃切れ、ささらのようで、倅の周平は鑓を切り折られ、下拙(自分)の刀は名刀虎徹であるからだろうか、無事であった。藤堂は鉢鉄を撃ち落とされたので、深手を受けた)
と、戦闘の激しさを仔細に伝えたうえで、
「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候」(じつにこれまで、たびたびの戦いをしてきたが、二合わせ戦った者はまれに覚えているほどであるが、今度の敵は多勢であるとはいえ、いずれも万夫の勇者で、まことに危ういところを助かった)
と、戦った尊攘派志士たちに対しての感想を綴っています。


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戦闘のあと、守護職・所司代配下の者など約3000人が駆けつけましたが、その時には多くの志士たちの息はなく、池田屋の女将までもが命を落としました。

幸運に命が残った者は捉えられ、わずかに桂小五郎(のちの木戸孝允)、渕上郁太郎らがからくも脱出します。

小五郎は一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。


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この池田屋事件の功績によって、新選組は幕府、朝廷から感状褒賞金を下賜され、その武名は一躍、天下に轟きました。

一方、尊攘派は、宮部鼎蔵をはじめ多くの逸材を失い、大打撃を受けます。

この事件によって明治維新が1年遅れたという人もいれば、逆に、この事件が尊攘派を刺激して、維新を早めたという人もいます。

いずれにせよ、幕末の歴史を大きく動かした事件であることは間違いないでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-18 23:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その33 「長州藩邸跡」

京都市営地下鉄東西線「京都市役所前」駅をの地上にあるホテルオークラの南側に、「長州屋敷跡」と刻まれた石碑があります。

かつてこのホテルの敷地には、長州藩邸がありました。


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説明板によると、藩邸は、はじめ南北2か所に分かれ、北側屋敷は表口39間(約70m)、裏行31間(約56m)、南側屋敷は表口30間(約54m)、裏行8間(約14m)に及んだといいます。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で、会津、薩摩を中心とする朝廷、幕府側に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち、京都を逃れたそうです。

邸内の放火はたちまち市中に延焼し、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。

その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川鴨川の間、一条通七条通の間の3分の2が焼き尽くされました。

『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。

一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。

市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。

後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。

ホテルオークラ東面北側には、木戸孝允のほぼ等身大のがあります。


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なかなかイケメンですね。

まあ、残されている写真を見ても、なかなかな伊達男ですしね。


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禁門の変の発端となったのは、その約1ヵ月、このすぐ近くにあった池田屋において、長州系の浪士たちが、京都でテロ事件を起こそうと密儀を行っていたところを、新選組が襲撃して浪士たちの多くが命を落とし、テロは未然に防がれたという事件、世にいう池田屋事件でした。

これを知った長州藩は、兵を率いて京都に乱入し、禁門の変となります。

その池田屋での密儀に、実は木戸孝允(当時は桂小五郎)も出席する予定だったといわれ、偶然、池田屋に行くことができず、難を逃れたといいます。

もし、池田屋の密儀に出席していれば、ここに銅像が立つこともなかったかもしれません。


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明治維新後、この藩邸跡は官有となり、明治初年には府下産業の振興を図るため、勧業場が設立され、後に常盤ホテル(京都ホテルの前身)が建てられました。

そして、現在はホテルオークラの高層ビルが建ちます。

この建物を建築するにあたっては、激しい景観論争が繰り広げられたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-14 00:53 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その7 「東山霊山護国神社~池田屋事件殉難者の墓」

幕末京都といえば、真っ先に思い浮かぶのが新選組

新選組といえば、「池田屋事件」ですよね。

「池田屋の変」「池田屋事変」ともいいます。

ここ東山霊山には、池田屋事件で命を落とした志士たちが、揃って祀られています。


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いまさら説明するまでもないと思いますが、池田屋事件とは、旅館・池田屋にて尊王攘夷派志士たちが集って行われていた密談を新選組が事前に察知し、襲撃した事件ですね。

この事件によって、尊攘派は多くの有能な人材を失い、同時に、新選組の名が世間に轟きました。


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彼ら尊攘派の密談の内容は、祇園祭の前の風の強い日に、天皇が住む御所をつけ、中川宮朝彦親王幽閉し、京都守護職を務めていた会津藩主・松平容保暗殺、そして長州へ孝明天皇を連れ去るという計画だったといいます。

たしかに、これが実行されれば大変なことになったでしょうが、ただ、この計画に関しては、新選組が捏造した冤罪だったという説もあり、真相は定かではありません。


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古高俊太郎の墓碑です。

古高は池田屋事件で落命した人物ではありませんが、事の発端となった人物。

彼が、「枡屋喜右衛門」という偽名を使って炭薪商を営みながら、間者として密かに武器弾薬を揃えていたところに新選組が家宅捜索に入り、捕縛された上に拷問にかけられ、池田屋の密会が明るみになります。

事件後も古高はに繋がれていましたが、同じ年の禁門の変の際における火災で獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首されました。

享年36。


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こちらは、熊本藩主・宮部鼎蔵の墓です。

宮部は幕末の初期段階から尊攘派に名の知れた人物で、この頃はすでに尊攘派の巨魁となっていました。

先の安政の大獄で処刑された吉田松陰とも親交が厚く、もし、宮部が明治の世まで生きていれば、政府の要職として活躍していたであろうと言われる人物です。


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ここ池田屋事件コーナー(?)以外にも、霊山には吉田稔麿、望月亀弥太など池田屋事件の落命者の墓碑が数多く祀られています。





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by sakanoueno-kumo | 2018-03-02 00:37 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その1

NHK朝の連続ドラマ『あさが来た』が、いよいよクライマックスを迎えますね。

わたしにとって朝ドラは、観たり観なかったりしながら後半だけハマるといったパターンがほとんどでしたが、今回はいつになく最初からハマってしまい、観れない回は録画してまで観ています。

自称歴史オタクのわたしですが、恥ずかしながら主人公・あさのモデルである広岡浅子という女性のことを、ドラマを観るまでまったく知りませんでした。

で、せっかくなので、大同生命のHPなどを参考にしながら、この大阪が生んだ女傑について書き残しておこうと思います。

e0158128_15245922.jpg嘉永2年(1849年)といえば黒船来航の4年前、京都の豪商・三井家の三女として浅子は生まれました。

ドラマにもあったように、浅子は2歳にして既に将来の結婚相手が決まっていたそうです。

その相手が、当時鴻池と並ぶ豪商だった大阪の両替商・加島屋の次男・広岡信五郎でした。

浅子は17歳で加島屋に嫁ぎます。

加島屋は、幕末266あった諸藩のうち、およそ100藩に「大名貸」をしていたというほどの豪商で、その融資額の総額は約900万両(現在の貨幣価値で約4500億円)もあったとか。

現代でいうところのメガバンクですね。

浅子が嫁いだのは慶応元年(1865年)、前年には京都で「禁門の変」があり、世情はいよいよ緊迫した血なまぐさい時代に突入したころでした。

ドラマで、新選組副長・土方歳三と絡むシーンがありましたが、実際に、借用人・土方歳三、保証人・近藤勇と署名捺印された金400両(現在の貨幣価値で約2000万円)の借用書が現存しているそうです。

ふつう借用書は、返却されれば破棄、もしくは裏書して借用人に渡すものだったそうですから、この証文が残っているということは、おそらく返却されなかったものとされているそうです。

加島屋にとっては大きな損害だったでしょうね。

また、加島屋が長州藩のメインバンクであったことから、「禁門の変」のあと、長州藩との関わりについて新撰組から厳しい取調べを受けたという話も残っているそうです。

その後、慶応4年(1868年)に「鳥羽伏見の戦い」で敗れた幕府軍が京・大坂からこぞって退去し、新政府が立ち上がりました。

すると今度は、新政府から大阪の豪商たちに呼び出しがかかり、「ご一新のため」として総額300万両もの献金を求められます。

それ以降も、「戦費のため」「明治天皇の行幸のため」と、ことあるごとに新政府から献金の要請がありました。

政治は徳川幕府から明治新政府に変わりましたが、加島屋など商人たちにしてみれば、新選組も新政府も同じだったでしょうね。

次回につづきます。

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1
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by sakanoueno-kumo | 2016-03-11 17:30 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)