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幕末京都逍遥 その37 「三条大橋擬宝珠の刀傷」

池田屋跡から西へ200mほどいったところにある三条大橋擬宝珠に、池田屋事件の際についた刀傷が残っていると知り、やってきました。


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鴨川に架かる橋は五条大橋や四条大橋などたくさんありますが、その中でも特に人通りが多い橋が三条大橋で、この日も多くの観光客や買い物客で賑わっていました。


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刀傷があるとされる擬宝珠は、西から2つめにあります。


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これがその刀傷

斜めに2本の傷があります。

まあ、刀傷として見ればそう見えますし、ただの傷といえばそうも見えます。

こういうものは、そう信じて見るしかないですね。


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事件の歳、池田屋に踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で、他の新選組の隊士は外を固めていました。

この刀傷が誰の刀によってつけられたものかはわかりませんが、池田屋を脱出にて屋外で斬られた志士もいたので、おそらく、そのときの斬り合いでついた傷でしょうね。

まあ、本当に池田屋事件の傷ならば、ですが。

ちなみに、屋内に踏み込んだ沖田は戦闘中にに倒れて戦線から離脱し、藤堂は油断して鉢金を取ったところでを斬られ、血液が目に入って戦闘不能となり、戦線離脱していますので、おそらく2人の刀ではないでしょう。

たぶん、あまり有名どころの刀傷じゃなさそうですね。


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三条大橋は東海道五十三次の西の起点として、歴史にも多く登場する橋です。

また、三条大橋の下の三条河原は、かつては処刑場や処刑後の晒し首の場として知られたところですね。

有名なところでは、石川五右衛門釜茹でになったのもここで、豊臣秀次の一族の首や、石田三成の首もここ三条河原に晒されました。

そして幕末、慶応4年4月25日(1868年5月17日)には、関東の板橋で斬首となったあと、塩漬けにして京都まで運ばれた近藤勇の首もここに。

池田屋事件で名を馳せた近藤の首は、わずか4年足らずで200mほど先の三条河原に晒させることになったわけです。

薩長軍にしてみれば、わざわざ関東から運んでまでも、近藤の首を京都に晒すことに大きな政治的意味があったのでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-19 23:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その36 「池田屋跡」

木屋町通りと河原町通りの間の三条通り沿いに、「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。

説明するまでもないと思いますが、「池田屋騒動」とは、元治元年6月5日(1864年7月8日)夜、在洛の長州、土州など諸藩の尊王攘夷派志士たちが謀議中に新撰組に急襲され、乱闘のすえ多くの志士が落命した事件です。

「池田屋事件」「池田屋の変」ともいいますね。

その舞台となった旅館・池田屋があったこの地には、現在、「池田屋」の名称を掲げた居酒屋が営業しています。


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尊攘派の志士たちが池田屋で密会しているという情報を得た新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。

このとき、池田屋の2階に集結していた浪士たちは、宮部鼎蔵吉田稔麿、望月亀弥太ら約30名。

これに対し、新選組は、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名のみで斬り込みました。


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不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦し、旅館の内外は大混乱となります。

近藤勇は、その夜の様子を次のように記しています。

「かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候、藤堂は鉢金を打ち落され候より深手を受け申し候」(徒党の多勢相手に火花を散らし、一時あまりの間、戦闘におよんだところ、永倉の刀は折れ、沖田の刀は帽子折れ、藤堂の刀は刃切れ、ささらのようで、倅の周平は鑓を切り折られ、下拙(自分)の刀は名刀虎徹であるからだろうか、無事であった。藤堂は鉢鉄を撃ち落とされたので、深手を受けた)
と、戦闘の激しさを仔細に伝えたうえで、
「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候」(じつにこれまで、たびたびの戦いをしてきたが、二合わせ戦った者はまれに覚えているほどであるが、今度の敵は多勢であるとはいえ、いずれも万夫の勇者で、まことに危ういところを助かった)
と、戦った尊攘派志士たちに対しての感想を綴っています。


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戦闘のあと、守護職・所司代配下の者など約3000人が駆けつけましたが、その時には多くの志士たちの息はなく、池田屋の女将までもが命を落としました。

幸運に命が残った者は捉えられ、わずかに桂小五郎(のちの木戸孝允)、渕上郁太郎らがからくも脱出します。

小五郎は一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。


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この池田屋事件の功績によって、新選組は幕府、朝廷から感状褒賞金を下賜され、その武名は一躍、天下に轟きました。

一方、尊攘派は、宮部鼎蔵をはじめ多くの逸材を失い、大打撃を受けます。

この事件によって明治維新が1年遅れたという人もいれば、逆に、この事件が尊攘派を刺激して、維新を早めたという人もいます。

いずれにせよ、幕末の歴史を大きく動かした事件であることは間違いないでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-18 23:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その33 「長州藩邸跡」

京都市営地下鉄東西線「京都市役所前」駅をの地上にあるホテルオークラの南側に、「長州屋敷跡」と刻まれた石碑があります。

かつてこのホテルの敷地には、長州藩邸がありました。


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説明板によると、藩邸は、はじめ南北2か所に分かれ、北側屋敷は表口39間(約70m)、裏行31間(約56m)、南側屋敷は表口30間(約54m)、裏行8間(約14m)に及んだといいます。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で、会津、薩摩を中心とする朝廷、幕府側に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち、京都を逃れたそうです。

邸内の放火はたちまち市中に延焼し、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。

その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川鴨川の間、一条通七条通の間の3分の2が焼き尽くされました。

『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。

一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。

市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。

後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。

ホテルオークラ東面北側には、木戸孝允のほぼ等身大のがあります。


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なかなかイケメンですね。

まあ、残されている写真を見ても、なかなかな伊達男ですしね。


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禁門の変の発端となったのは、その約1ヵ月、このすぐ近くにあった池田屋において、長州系の浪士たちが、京都でテロ事件を起こそうと密儀を行っていたところを、新選組が襲撃して浪士たちの多くが命を落とし、テロは未然に防がれたという事件、世にいう池田屋事件でした。

これを知った長州藩は、兵を率いて京都に乱入し、禁門の変となります。

その池田屋での密儀に、実は木戸孝允(当時は桂小五郎)も出席する予定だったといわれ、偶然、池田屋に行くことができず、難を逃れたといいます。

もし、池田屋の密儀に出席していれば、ここに銅像が立つこともなかったかもしれません。


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明治維新後、この藩邸跡は官有となり、明治初年には府下産業の振興を図るため、勧業場が設立され、後に常盤ホテル(京都ホテルの前身)が建てられました。

そして、現在はホテルオークラの高層ビルが建ちます。

この建物を建築するにあたっては、激しい景観論争が繰り広げられたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-14 00:53 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その7 「東山霊山護国神社~池田屋事件殉難者の墓」

幕末京都といえば、真っ先に思い浮かぶのが新選組

新選組といえば、「池田屋事件」ですよね。

「池田屋の変」「池田屋事変」ともいいます。

ここ東山霊山には、池田屋事件で命を落とした志士たちが、揃って祀られています。


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いまさら説明するまでもないと思いますが、池田屋事件とは、旅館・池田屋にて尊王攘夷派志士たちが集って行われていた密談を新選組が事前に察知し、襲撃した事件ですね。

この事件によって、尊攘派は多くの有能な人材を失い、同時に、新選組の名が世間に轟きました。


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彼ら尊攘派の密談の内容は、祇園祭の前の風の強い日に、天皇が住む御所をつけ、中川宮朝彦親王幽閉し、京都守護職を務めていた会津藩主・松平容保暗殺、そして長州へ孝明天皇を連れ去るという計画だったといいます。

たしかに、これが実行されれば大変なことになったでしょうが、ただ、この計画に関しては、新選組が捏造した冤罪だったという説もあり、真相は定かではありません。


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古高俊太郎の墓碑です。

古高は池田屋事件で落命した人物ではありませんが、事の発端となった人物。

彼が、「枡屋喜右衛門」という偽名を使って炭薪商を営みながら、間者として密かに武器弾薬を揃えていたところに新選組が家宅捜索に入り、捕縛された上に拷問にかけられ、池田屋の密会が明るみになります。

事件後も古高はに繋がれていましたが、同じ年の禁門の変の際における火災で獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首されました。

享年36。


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こちらは、熊本藩主・宮部鼎蔵の墓です。

宮部は幕末の初期段階から尊攘派に名の知れた人物で、この頃はすでに尊攘派の巨魁となっていました。

先の安政の大獄で処刑された吉田松陰とも親交が厚く、もし、宮部が明治の世まで生きていれば、政府の要職として活躍していたであろうと言われる人物です。


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ここ池田屋事件コーナー(?)以外にも、霊山には吉田稔麿、望月亀弥太など池田屋事件の落命者の墓碑が数多く祀られています。





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by sakanoueno-kumo | 2018-03-02 00:37 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その1

NHK朝の連続ドラマ『あさが来た』が、いよいよクライマックスを迎えますね。

わたしにとって朝ドラは、観たり観なかったりしながら後半だけハマるといったパターンがほとんどでしたが、今回はいつになく最初からハマってしまい、観れない回は録画してまで観ています。

自称歴史オタクのわたしですが、恥ずかしながら主人公・あさのモデルである広岡浅子という女性のことを、ドラマを観るまでまったく知りませんでした。

で、せっかくなので、大同生命のHPなどを参考にしながら、この大阪が生んだ女傑について書き残しておこうと思います。

e0158128_15245922.jpg嘉永2年(1849年)といえば黒船来航の4年前、京都の豪商・三井家の三女として浅子は生まれました。

ドラマにもあったように、浅子は2歳にして既に将来の結婚相手が決まっていたそうです。

その相手が、当時鴻池と並ぶ豪商だった大阪の両替商・加島屋の次男・広岡信五郎でした。

浅子は17歳で加島屋に嫁ぎます。

加島屋は、幕末266あった諸藩のうち、およそ100藩に「大名貸」をしていたというほどの豪商で、その融資額の総額は約900万両(現在の貨幣価値で約4500億円)もあったとか。

現代でいうところのメガバンクですね。

浅子が嫁いだのは慶応元年(1865年)、前年には京都で「禁門の変」があり、世情はいよいよ緊迫した血なまぐさい時代に突入したころでした。

ドラマで、新選組副長・土方歳三と絡むシーンがありましたが、実際に、借用人・土方歳三、保証人・近藤勇と署名捺印された金400両(現在の貨幣価値で約2000万円)の借用書が現存しているそうです。

ふつう借用書は、返却されれば破棄、もしくは裏書して借用人に渡すものだったそうですから、この証文が残っているということは、おそらく返却されなかったものとされているそうです。

加島屋にとっては大きな損害だったでしょうね。

また、加島屋が長州藩のメインバンクであったことから、「禁門の変」のあと、長州藩との関わりについて新撰組から厳しい取調べを受けたという話も残っているそうです。

その後、慶応4年(1868年)に「鳥羽伏見の戦い」で敗れた幕府軍が京・大坂からこぞって退去し、新政府が立ち上がりました。

すると今度は、新政府から大阪の豪商たちに呼び出しがかかり、「ご一新のため」として総額300万両もの献金を求められます。

それ以降も、「戦費のため」「明治天皇の行幸のため」と、ことあるごとに新政府から献金の要請がありました。

政治は徳川幕府から明治新政府に変わりましたが、加島屋など商人たちにしてみれば、新選組も新政府も同じだったでしょうね。

次回につづきます。

朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その1
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その2
朝ドラ『あさが来た』で異彩を放つ五代友厚 その3
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朝ドラ『あさが来た』で知ったびっくりポンな女傑、広岡浅子。 その4


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by sakanoueno-kumo | 2016-03-11 17:30 | その他ドラマ | Trackback | Comments(0)  

花燃ゆ 第25話「風になる友」 ~池田屋事件~

 八月十八日の政変によって長州藩が追い出されたことで、一時は静けさを取り戻したかに見えた京のまちでしたが、実はそれは表面的なもので、尊攘派の志士たちは京、大坂に潜伏して、勢力の挽回を謀っていました。そんななか、政変後に行われていた参預会議がもの別れに終わります。参預会議とは、一橋慶喜、島津久光、松平春嶽らが中心となって政局をはかった、いわば共和政治のような政治形態のことです。しかし、突然始まった連合政治でしたから、結局うまくは運営できずに短期間で瓦解してしまいます。これを政権奪還のチャンスと見た尊攘派の志士たちは、密かに京に集まってきました。

 そこで歴史の表舞台に一気に登場するのが新選組です。彼らはこの少し前から京都守護職・松平容保の預かりというかたちで京のまちの治安に当たるようになっていましたが、この新選組が日本史のなかに大きく名を刻むきっかけとなったのが、元治元年(1864年)6月に起きた「池田屋事件(池田屋の変)」でした。

 きっかけは、商人に化けて潜伏していた尊攘派志士の古高俊太郎が捕らえられたことに始まります。捕縛された古高は新選組の手によって厳しい拷問にかけられ、結果、力尽きて自白してしまいます。その内容は、数十人が徒党して、風向きを考えた上で御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮朝彦親王を幽閉して京都守護職の松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうという超過激な計画で、しかも、近々市中で同志の集会があることも判明します。

 古高捕縛の報を受けた尊攘派志士たちは、肥後藩の宮部鼎蔵をはじめ、長州藩の桂小五郎ら約20名が、旅館・池田屋に集合して善後策を協議します。この会合を知った新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦しますが、戦闘なれした新選組にはほとんど刃が立たず、結果、多くの志士たちが闘死、もしくは捕らえられて斬られます。すさまじい弾圧だした。

 松下村塾四天王のひとりだった吉田稔麿は、この池田屋事件で命を落とします。これまでだいたいの物語での稔麿の最期は、池田屋襲撃の事態を長州藩邸に知らせるべく現場から離脱するも、藩邸の門は開られることなく、門前で自刃するという描かれ方がほとんどだったと思いますが、今回のドラマでは、藩邸に向かう道中で気が変わって引き返したところ、その帰路で囲まれて斬られるという設定でしたね。どちらが事実なのか調べてみたところ、どうやら諸説あって定説はないようです。前者の自刃説は、同じくこのとき死んだ土佐藩の望月亀弥太の話と酷似していますから、それと混同した話のようにも思えます。その意味では、ドラマの設定のほうが真実味があるかもしれませんね。享年24歳。無念だったに違いありません。

 このときの桂小五郎にも諸説あります。よく知られる話では、小五郎は池田屋に早く着きすぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話しており、そのため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。どちらが事実かはわかりませんが、のちに「逃げの小五郎」と言われた彼ですから、後者のほうが面白い気はしますけどね。いずれにせよ、このときもし小五郎が命を落としていたら、のちの維新三傑に名を連ねることもなかったでしょうし、明治維新における長州藩の立ち位置も違ったものになっていたかもしれません。

 この段階では、攘夷派のなかでは桂小五郎より宮部鼎蔵の方が、はるかにビッグネームでした。しかし、歴史は無惨にも宮部の命をここで終わらせてしまいます。歴史の犠牲となった宮部鼎蔵と、歴史に生かされた桂小五郎。この紙一重の運命の違いも、歴史の面白いところですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-22 17:38 | 花燃ゆ | Trackback(2) | Comments(7)  

八重の桜 第35話「襄のプロポーズ」 ~斎藤一と高木時尾~

 八重の幼なじみの高木時尾と元新選組斎藤一が、いつの間にか結婚していましたね。二人が結婚したのは明治7年(1874年)頃だったようで、斎藤30歳、時尾28歳のときでした。ここで、少し二人の人となりについて簡単にふれてみたいと思います。

 会津藩大目付の高木小十郎の長女として生まれた時尾は、八重よりひとつ年下で、山本家とは隣家であったらしく、おそらく、ドラマの設定どおり幼なじみだったのでしょうね。第27話で会津藩士がいよいよ籠城戦に入るとき、八重が時尾に髪を切り落としてもらうシーンがありましたが、あの話は実話だそうですから、二人がいかに信頼し合った関係だったかが伺えます。ただ、八重とは正反対で、たいへんお淑やかな女性だったようですけどね。照姫祐筆を務めていたということからも、教養高い才女だったのかもしれません。まさしく、ドラマのとおりのキャラだったのかもしれませんね。

 剣客集団の新選組のなかでも最強の剣豪といわれた斎藤一ですが、その出自は、播磨国・明石藩出身とも会津藩出身ともいわれており、明確な史料は残ってないそうです。まあ、出自が曖昧なところから見ても、おそらく低い身分の出だったと見て間違いんじゃないでしょうか。新選組ではその前身である壬生浪士組からのメンバーで、年若でありながらで副長助勤、三番隊組長、撃剣師範などを務めた重役だったわけですが、新選組に入隊した経緯などはまったくわかっていません。そんな、なんとなく謎めいた部分が、後世の新選組ファンに人気の高いポイントでしょうね。

 新選組が自然消滅してからも会津藩と運命を共にした斎藤は、謹慎生活を経て、斗南藩士として下北半島に移住します。斗南では倉沢平治右衛門という人物のもとに寄宿していた斎藤でしたが、この倉沢は時尾の義父にもなっていたようで、その縁で二人は知り合ったのでしょう。もっとも、斎藤は時尾と結ばれる前に、同じく倉沢家に同居していた篠田やそという女性と結婚しています。つまり、時尾とは再婚だったんですね。最初の妻である篠田家は会津藩士としては大身に属する名家だったそうで、時代は明治になっていたとはいえ、斎藤から見れば分不相応なお相手でした。それが理由だったかどうかはわかりませんが、しばらくして二人は離縁したようです。その後、時尾と再婚するんですね。もっとも、時尾も家柄でいえば、決して低くはありません。どうも斎藤は、お嬢様キラーだったのでしょうか(笑)。

 かくして夫婦となった斎藤と時尾ですが、二人の結婚に際しては、元会津藩主の松平容保が上仲人を、そして佐川官兵衛山川浩(大蔵)が下仲人を務めています。これも、世が世なら考えられないことですね。いくら旧とはいえ、一国のお殿様だった人が、一介の元浪人剣客の仲人を務めるなど、異例中の異例だったのではないでしょうか。たいへん興味深いエピソードです。

 その後、斎藤は警視庁に採用され、二人は東京に移住しました。ドラマでも言っていましたが、おそらく、西郷隆盛の下野によって元薩摩藩士の警官が挙って東京を離れたため、警官が不足していたからでしょうね。その後、斎藤は明治24年(1891年)まで警視庁に努めます。時代が時代とはいえ、過去に何人もの人を斬った経験のある警官ですから、きっと凄みがあったことでしょうね。時尾との間には3人の男子をもうけ、夫婦仲も良かったそうです。そして、斎藤は大正4年(1915年)71歳で、時尾は大正14年(1925年)75歳まで天寿をまっとうします。新選組、会津戦争と、波乱に満ちた前半生の二人でしたが、夫婦となった後半生の二人は、穏やかな日々だったようですね。いい出会いだったといえるでしょうか。

 さて、次週は八重が幸せになる番のようです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-09-04 22:50 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第10話「池田屋事件」 ~池田屋の変~

 新選組が日本史のなかに大きく名を刻むきっかけとなったのが、元治元年(1864年)6月の「池田屋事件(池田屋の変)」といっていいでしょう。前年の「八月十八日の政変」以後も、尊攘派志士は京都・大坂に潜伏して、勢力の挽回をはかっていました。新選組や所司代・町奉行の配下の者は、きびしくその行動を取り締まっていましたが、ことに諸藩邸や旅館、料亭などの出入者に対して目を光らせていました。そして、かねてからマークしていた三条木屋町の武具商・桝屋喜右衛門を検挙し、家宅捜索を行いました。

 喜右衛門の本名は古高俊太郎、近江国栗太郡出身の尊攘志士でした。捕縛された俊太郎は新選組の手によって厳しい拷問にかけられ、結果、力尽きて自白してしまいます。その内容は、数十人が徒党して、風向きを考えた上で御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮朝彦親王を幽閉して京都守護職の松平容保ら佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうという恐るべきもので、しかも、すでに計画実行の志士が多数上洛、潜伏しており、近々市中で同志の集会があることも判明します。

 古高俊太郎捕縛の報を受けた尊攘志士たちは、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)をはじめ、肥後藩の宮部鼎蔵ら約20名が、旅館・池田屋に集合して善後策を協議します。この会合を知った新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦し、旅館の内外は大混乱。新選組局長・近藤勇は、その夜の様子を次のように記しています。

 「かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候、藤堂は鉢金を打ち落され候より深手を受け申し候」
(徒党の多勢相手に火花を散らし、一時あまりの間、戦闘におよんだところ、永倉の刀は折れ、沖田の刀は帽子折れ、藤堂の刀は刃切れ、ささらのようで、倅の周平は鑓を切り折られ、下拙(自分)の刀は名刀虎徹であるからだろうか、無事であった。藤堂は鉢鉄を撃ち落とされたので、深手を受けた)

と、戦闘の激しさを仔細に伝えたうえで、

 「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候」
 (じつにこれまで、たびたびの戦いをしてきたが、二合わせ戦った者はまれに覚えているほどであるが、今度の敵は多勢であるとはいえ、いずれも万夫の勇者で、まことに危ういところを助かった)

と、戦った尊攘派志士たちに対しての感想を綴っています。

 戦闘のあと、守護職・所司代配下の者など約3000人もが駆けつけましたが、その時には多くの志士たちの息はなく、池田屋の女将までもが死にました。幸運に命が残った者は捉えられ、わずかに桂小五郎、渕上郁太郎らがからくも脱出します。小五郎は一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。芸者の幾松が、夜の暗闇にまぎれて二条大橋の下に握り飯を運んで、小五郎を助けたという有名な逸話も、このときの話とされています。いずれにせよ、このときもし小五郎が新選組とまともに戦っていたら、のちの維新三傑に名を連ねることもなかったでしょうし、明治維新における長州藩の立ち位置も違ったものになっていたかもしれません。

 一方、この事件で宮部鼎蔵をはじめ、尊攘派の多くの有能な人材が命を落としました。もし、彼らが明治の世まで生きていたら、新政府高官として大いに尽力したことでしょう。しかし、彼らの死がまったくの犬死だったかといえば、そんなことはなく、この事件をきっかけに尊攘派の反幕思想はより激しくなり、討幕の気運を一気に高めたことは想像に難しくありません。歴史の犠牲となった宮部鼎蔵と、歴史に生かされた桂小五郎。この紙一重の運命の違いも、歴史の面白いところですね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-12 15:40 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)  

八重の桜 第8話「ままならぬ思い」 〜新選組登場〜

 勤王佐幕の渦巻く幕末史のなかで、佐幕派の象徴ともいえる新選組が登場しましたね。会津藩を中心とするこの物語では、なおさら新選組を無視することはできません。ところで、この新選組についてですが、「新選組」と書くか、「新撰組」と書くかについて一定していません。どうも、幕末においても両方の文字が使われていて、どちらが正しいとはいえないようです。そこで、当ブログではNHKの公式HPにしたがって「選」を使用することにします。

 いまさら新選組について説明するまでもないかもしれませんが、今週は特筆することが他にないので新選組結成の経緯について簡単にふれます。新選組の前進は、江戸で結成された浪士組。文久2年(1862年)頃、京都で尊攘浪士が気勢をあげたように、江戸でもまた尊攘浪士と称する者たちが集まり、あるいは尊攘に名を借りて悪事を行う輩もあったりで、幕府はこの統制に苦しんでいました。そんな折、出羽国庄内出身の尊攘志士・清河八郎が、浪士を集めて俸禄を与え、幕府のために働かせる案をもって幕臣を説きます。浪士統制に苦しんでいた幕閣はこの案を採用し、第14代将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を集めます。

 幕府は、この浪士組によって京都の尊攘派を牽制させようと考えます。文久3年(1863年)3月、集まった約200人の浪士組は京都に入り、洛西壬生村に宿営しました。ところが京都に入るやいなや、隊の発起人である清河八郎が同地の尊攘派と提携し、幕府の意図とは逆に、反幕的行動をとろうとします。もともと清川は、一時は幕府の捕吏に追われるほどのガチガチの尊攘派であり、この行動は清川の計画どおりでした。幕府の名を借りて反幕組織を作ろうとした清川でしたが、そんな浪士組の動静に不安を抱いた幕府は、清川ら浪士組を江戸へ呼び戻します。その後も清川は浪士組を動かそうとしますが、彼のスタンドプレイは各方面に敵を作ることとなり、文久3年(1863年)4月13日、幕府の刺客によって暗殺されます。

 まさしく「策士策におぼれる」を絵に描いたような清川でしたが、彼の奇策によって、彼の意とは反した奇妙な団体を生むことになりました。浪士組上洛の折、清川と意見を異にした24人の浪士たちが京都に残留し、「壬生浪士組」(誠忠浪士組ともいう)と称する組織を結成します。これが、のちに新選組となっていくんですね。やがて彼らは会津藩主で京都守護職松平容保の配下となり、主に不逞浪士の取り締まりと市中警護を任されます。そして、おそらくドラマでは次週描かれるであろう「八月十八日の政変」以降、新選組は歴史の表舞台に登場することになります。

 通常、新選組といえば近藤勇土方歳三沖田総司らがクローズアップされますが、おそらくこの物語でスポットが当たるのは斎藤一でしょう。斎藤一は「新選組屈指の剣客」といわれる人物ですが、明治維新後、会津藩と深く関わりを持つことになる人物です。ネタバレになりますが、ドラマでは八重の幼馴染という設定の高木時尾と結ばれることになるんですね(もっとも、斎藤にとって時尾との結婚は再婚でしたが)。そのとき上仲人を務めたのが松平容保だったと言います。一国のお殿様一介の浪人上りの剣客の仲人を引き受けるなど、明治の世に変わっていたとはいえ、考えられないことだったでしょうね。「一生嫁に行かない」と言っていた時尾でしたが、そんな幸せな未来が待っています。

 ところで、斎藤一役の降谷建志さんは、ドラゴンアッシュのボーカルで古谷一行さんの息子さんだそうですね。今日聞くまでまったく知らなかった私はオジサンでしょうか? ちなみに古谷一行さんといえば、私が子供の頃見たドラマで(大河ドラマではなかったと思いますが)、土方歳三役を演じておられたのを覚えています。同じ斎藤役だったら面白かったのにね~・・・って、ドラマとはあまり関連性のない今話のレビューでした。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-25 22:44 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(4)  

龍馬伝 第32話「狙われた龍馬」

 慶応元年(1865年)閏5月、下関での西郷隆盛桂小五郎の会見計画に失敗した坂本龍馬中岡慎太郎は、その10日後、西郷を追いかけるように下関から京に向かってたった。無論、西郷をもう一度説得するためだった。西郷がなぜ、一旦は決めたはずの下関行きをドタキャンしたのかは歴史の謎である。ドラマでは幕府の隠密が船に忍び込んでいたという設定だったが、他の物語などでは、大久保利通から緊急の書簡を受け取ったためというものや、長州との和解はこの時期まだ西郷ひとりの意見で、薩摩藩内では反対意見が多く迷っていたとするものなど、理由は様々だ。私が思うには、前話の第31話「西郷はまだか」でも述べたように、この時期の薩摩側が期待していたのはあくまで「和解」であったのに対し、長州側や龍馬、慎太郎たちが求めていたのはその先の「提携」であり、ことが近づくにつれその「温度差」を感じた西郷は、土壇場になって消極的になった・・・といったところではないかと思っている。この「温度差」があったからこそ、この翌年に行われる両藩の最終会談の場に至ってもこじれ合うこととなり、結局は龍馬の出馬を必要とするに至るわけだが、それは後の話に譲ることにしよう。

 ドラマ中、寺田屋で新選組局長・近藤勇と遭遇した坂本龍馬。龍馬と近藤に面識があったという記録は残っていないが、これ以後も頻繁に京の地に足を踏み入れていた龍馬が、新選組とまったく関わりがなかったと考えるのも無理があるだろう。一度や二度は、剣を交わしたこともあったかもしれない。

 興味深い話がある。司馬遼太郎著の「竜馬がゆく」の中で、巡察中の新選組と龍馬が路上で出くわすという場面がある。殺気立つ新選組隊士を目の前にして、龍馬は突然路傍の子猫を抱き上げ、頬ずりしながら悠々と敵の隊列の中を通り抜けてしまったというエピソード。敵の気を抜くという大胆な戦法なのだが、この痛快なエピソードがなんと実話だったという。大正3年(1914年)に刊行された千頭清臣著「坂本龍馬」の中にその元となった記述がある。
 「慶応元年四月五日(略)、龍馬は同志高松太郎、千屋寅之助等を従へて嵐山に遊び、帰途偶々会藩主の武装して巡羅するに会ふ。龍馬、高松を顧みて曰く、君果して之を横断するの勇ありやと。高松瞠目して一語なし。龍馬突如として路傍の子犬を抱き、余念なげに之に頬擦しつつ歩を会士の中央に運ぶ。会士喫驚して覚えず途を開く。龍馬悠々として之を横ぎり、高松、千屋等辛じて龍馬に次げり。」
 同書は龍馬の伝記としては評価の高いものである。その序文には、龍馬の死後、明治まで生きた海援隊士の直話をもとにしたものと書かれていて、文中に登場する高松太郎千屋寅之助(菅野覚兵衛)はいずれも明治中期まで生きた人物である。子猫ではなく子犬、また新選組ではなく会津藩の巡察隊となっているが、会津藩支配下の新選組は広い意味では会津藩の巡察隊には違いなく、当時の記録には両者を混同してしまっているものも多いらしい。このエピソードからわかるのは、新選組と遭遇しても動じない龍馬の姿。そんな彼だったからこそ、四方八方敵だらけの京に何度も足を踏み入れ、身の危険を顧みず大仕事が成し得たのだろう。そんな龍馬像がうかがえる痛快なエピソードだ。

 本稿では、今話とはあまり関係ない話をさせてもらった。今話で龍馬と慎太郎が西郷を動かした件については、次週の第33話「亀山社中の大仕事」に譲りたいと思ったからだ。龍馬の本当の活躍はこれからである。


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by sakanoueno-kumo | 2010-08-09 01:41 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(0)