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幕末京都逍遥 その113 「戒光寺(御陵衛士菩提寺)」

東山にある泉涌寺の塔頭・戒光寺に、慶応3年11月18日(1867年12月13日)に起きた油小路通事件で落命した伊東甲子太郎御陵衛士4人の墓があります。


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ここに葬られているのは、新選組・近藤勇らの謀略によって殺された伊東甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の4人。

彼らの遺体は、事件後3日間現場に放置されていたといいます。

これは、生き残った御陵衛士の他のメンバーを誘き寄せるための新選組の策でしたが、結局、残党は現れず、その後、4人の遺体は新選組の手によって「その104」で紹介した光縁寺に葬られたそうです。

その後、明治に入って、御陵衛士の残党が光縁寺から戒光寺に改葬したそうです。


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戒光寺の本寺である泉涌寺は歴代天皇家の菩提所で、慶応2年12月25日(1867年1月30日)に崩御した孝明天皇(第121代天皇)の御陵(後月輪東山陵)もありました。

彼らの結成した「御陵衛士」の名称は、孝明天皇の御陵の護衛者という意味です。

熱烈な勤王志士だった伊東は、戒光寺の長老である堪然の仲介によって、孝明天皇の御陵守護の任を拝命していました。


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現在、4人の墓は一般公開されていません。

以前は普通に墓参できていたみたいですが、現在は墓参するには事前申し込みが必要で、それも、わたしのような観光客には許可いただけないみたいです。

その理由は、過去の聖霊に畏敬の念を持たない不心得者から墓を守るため、だそうです。

残念ですが、何か、そうせざるを得ない出来事があったのでしょうね。

たしかに、墓は観光名所ではないので、やむを得ません。


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御陵衛士を結成してからわずか8ヶ月で落命した伊東甲子太郎ら4人。

さぞかし無念だったに違いありませんが、ここ戒光寺に葬られたことで、死してなお、御陵をお守りし続けているといえます。

ある意味、武士の本懐かもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-14 23:20 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その112 「御陵衛士屯所跡(月真院)」

東山にある高台寺の塔頭、月真院を訪れました。

ここは、新選組から分裂した伊東甲子太郎率いる御陵衛士が屯所とした場所です。


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伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました。

そんな伊東を近藤勇参謀兼文学師範に任じて重用しますが、しかし、もともとは水戸学を学んだ勤王志士だった伊東は、近藤らとは「攘夷」の点では結ばれていても、佐幕色を強めていく新選組の方針に矛盾を感じはじめ、やがて新選組を離脱

同志14名と共に御陵衛士を結成します。


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「御陵衛士」とは、孝明天皇(第121代天皇)の御陵(墓)護衛者という意味。

熱烈な勤王志士だった伊東は、孝明天皇陵(後月輪東山陵)のある泉涌寺塔頭・戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命していたため、この名称を掲げたのでしょう。


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慶応3年3月10日(1867年4月14日)に新選組を離脱した御陵衛士は、はじめは五条橋東詰の長円寺(善立寺説もあり)に屯所を構えていましたが、同年6月、ここ月真院に屯所を移しました。

新選組とは表面的には話し合いでの分裂でしたが、その思想は佐幕勤王倒幕という真逆の立場であったため、新選組の襲来を恐れていつも刀を抱いて寝たといいます。


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高台寺の塔頭を拠点としたため、御陵衛士はのちに「高台寺党」とも呼ばれるようになります。


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それから5ヶ月後の慶応3年11月18日(1867年12月13日)、「その110」で紹介した油小路において、新選組近藤勇らの謀略によって伊東甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の4人が死亡。

残った同士は薩摩藩邸に逃げ、御陵衛士は解散を余儀なくされます。

ここに、わずか8ヵ月の御陵衛士の短い歴史が終わります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-11 01:44 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その110 「伊東甲子太郎外数名殉難之跡(本光寺)」

前稿で紹介した不動堂明王院から北へ150mほど上ったところにある本光寺の山門の横に、「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」と刻まれた石碑があります。

ここは新選組元隊士の伊東甲子太郎御陵衛士の面々が粛清された油小路事件があったとされる場所です。


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伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました。

そんな伊東を近藤勇参謀兼文学師範に任じて重用しますが、しかし、もともとは水戸学を学んだ勤王志士だった伊東は、近藤らとは「攘夷」の点では結ばれていても、佐幕色を強めていく新選組の方針に矛盾を感じはじめ、やがて新選組を離脱

同志14名と共に御陵衛士を結成します。


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やがて近藤勇は、御陵衛士にスパイとして送り込んでいた斎藤一から、伊東が近藤の暗殺を計画しているとの報告を受け、伊東の殺害を決意します。


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慶応3年11月18日(12月13日)、近藤は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を開き、その帰路、新選組隊士の大石鍬次郎らが待ち伏せて、酔っている伊東を襲撃しました。

槍で襲われた伊東は、深手を負いながらも一太刀敵に浴びせ、「奸賊ばら」と叫んで倒れたといいます。

その絶命した場所が、ここ本光寺前だったと伝えられます。


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この扉の前だったのでしょうか?


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山門をくぐると、古い石塔があり、その横に「伊東甲子太郎絶命の跡」と刻まれた新しい石碑があります。

伝承によると、かつてこの石塔は本光寺門前にあったそうで、伊東はこの石塔に寄りかかるように絶命したといいます。


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その後、伊東の遺骸は七条油小路の辻に放置されました。

これは、遺骸を引き取りに来た御陵衛士の仲間を誘き寄せるための罠で、その計画通り、藤堂平助ら同志8名が現場に現れ、待ち伏せていた永倉新八 、原田左之助ら約40名の新選組がこれを迎えちました。

近藤は、幹部のなかでは最年少だった藤堂は生かしておくよう命じていたといいますが、その命令が新選組隊士全員に行き届いておらず、激闘のすえ絶命します。

その他、御陵衛士の服部武雄、毛内有之助も死亡しました。

この事件が起きたのは坂本龍馬が暗殺された3日後のことで、伊東と藤堂は龍馬暗殺の当日、龍馬が暗殺された近江屋を訪問し、命を狙われているから土佐藩邸に移るよう忠告したといいますが、その日の夜に龍馬が暗殺されて、自分たちの忠告が届かなかったことを嘆いたといいます。

その3日後に自分たちが殺されることになろうとは、露ほども思わなかったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-09 00:22 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その109 「新選組不動堂村屯所跡~不動堂明王院」

西本願寺の屯所を出た(追い出された?)新選組は、西本願寺から500mほど南の不動堂村に移転します。

現在、リーガロイヤルホテル京都の敷地内には、その跡地を示す石碑と説明板があります。


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石碑には、新選組のシンボルである「誠」の文字と、「事あらばわれも都の村人となりてやすめん皇御心」という近藤勇の歌が刻まれています。


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慶応3年6月10日(1867年7月11日)、新選組はこれまでの働きが認められて、会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり、局長の近藤は御目見得以上の格(三百俵旗本)となります。

文字通り、近藤は幕府代表者の一員となったわけですが、このときから4ヶ月後に大政奉還が宣言されて幕府がなくなるわけですから、後世から見れば、貧乏くじを引いたようなものでした。

しかし、当時の近藤は、そんなことは露ほども思わなかったことでしょう。

近藤勇の甥で新選組隊士だった宮川信吉の書簡によれば、その5日後の6月15日、新選組は新しい不動堂村屯所に入所しています。

移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎が西本願寺と交渉の末、建築費・諸経費を西本願寺が負担することとなったそうです。

まあ、西本願寺にすれば、金払うから出ていってくれってことだったのでしょうが。

ちなみに吉村貫一郎というと、浅田次郎の小説『壬生義士伝』の主人公ですね。


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説明板によると、屯所の広さは約1万㎡あったそうで、表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋、大風呂は30人が一度に入れるほどあったといわれ、大名屋敷と比べても遜色ない構えだったとあります。


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リーガロイヤルホテル京都から東へ200mほどのところにあるホテル「ハトヤ瑞鳳閣」の前にも、不動堂村屯所跡の石碑があります。


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石碑には「此付近 新撰組最後の洛中屋敷跡」と刻まれています。


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こちらの説明板によると、屯所の位置については、上述した宮川信吉の書簡に「七条通下ル」と記されていること、また、永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあることから、この付近であることは確実であるものの、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明だとしています。

また、価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません・・・とも。

まるで、詳細に建物構造や規模を記したリーガロイヤルホテル前の説明板を批判しているかのような記述ですね。


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リーガロイヤルホテルとハトヤ瑞鳳閣のちょうど中間あたりに、不動堂明王院という小さなお寺があり、その正面には、「誠」の文字と「新選組まぼろしの屯所」と書かれた提灯がかけられていました。


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この不動堂明王院が屯所にあてられたのではないか、という説もあるんだそうですが、でも、なんで「まぼろし」なんでしょうね。

この辺りに屯所があったことは史実ですから、べつに幻ではないんじゃないかと・・・。


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新選組が不動堂村に屯所を構えたのはわずか6ヶ月でしたが、その間に、大政奉還があり、その後、王政復古の大号令が発せられ、新選組は5年間過ごした洛中をあとにし、鳥羽・伏見の戦いに向かいます。

現在もこの辺り一帯の住所は「南不動堂町」といい、往時を偲ばせてくれます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-07 23:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その108 「西本願寺(新選組屯所跡)」

世界遺産西本願寺にやってきました。

ここは幕末、新選組の第2の屯所となった場所です。


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文久3年(1863年)春に上洛して以来、洛西壬生村の八木邸(参照:その96)や前川邸(参照:その97)を屯所としてきた新選組でしたが、池田屋事件で一躍脚光を浴びると幕府の支援も厚くなり、やがて隊は200人を越える大所帯となり、大人数を収容できる新たな拠点が必要となりました。

そこで、元治2年3月10日(1865年4月5日)に、ここ西本願寺に屯所を移転します。


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新選組が屯所として使用したのは、西本願寺の北東にあった北集会所太鼓楼でした。

北集会所は明治6年(1873年)に姫路市の本徳寺に移設されたため、現在残る新選組ゆかりの場所は、写真の太鼓楼だけです。


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新選組が西本願寺を屯所とした理由は、西本願寺は勤王色が濃いうえに長州藩毛利家とも縁が深く、長州藩士たちが何かにつけ西本願寺を頼りにしていたため、近藤勇はあえてその場所に拠点を移すことで、将来禍根となりうる芽を摘んでしまおうと考えたとたといわれます。

このことが原因で、勤王の志が強かった総長の山南敬助との間に確執が生まれ、やがて山南の脱走、切腹に至ったともいわれます。


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西本願寺に屯所を構えた新選組は、境内で大砲を轟かせ実弾射撃を行うなど、僧侶や信徒にとっては迷惑千万な存在でした。

また、境内で食料としての豚の飼育を行っていたといいます。

当時、僧侶たちにとっては、境内で生き物を殺生するなど、許しがたき野蛮な行為でした。


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新選組が西本願寺を屯所としたのは約2年で、慶応3年(1867年)6月には近くの不動堂村に移転します。

その理由は、西本願寺のたっての願いだったようで、その移転費用も西本願寺が全額負担したそうです。

よほど嫌だったことがわかります。

幕末の京都の治安を守った新選組ですが、西本願寺の僧侶たちにとっては、厄介者でしかなかったようですね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-05 00:26 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その107 「輪違屋(島原)」

島原で現在も唯一、茶屋を営業されているのが、輪違屋です。

輪違屋の創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まりました。

当時は「養花楼」といったそうです。


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前稿でも紹介しましたが、島原には大きくふたつに分けて「置屋」「揚屋」がありました。

「置屋」は、太夫芸妓に芸を教える教育の場で、お客さんは出入りしません。

「揚屋」は、現代でいう料亭にあたり、置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、遊宴を催す会場です。

輪違屋は「置屋」ですから、ここに、多くの太夫芸妓が所属していたわけです。


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現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)には、ほぼ現在の姿だったそうです。

明治に入ってから置屋だけでなく、茶屋を兼業するようになったそうです。


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輪違屋と聞けば、浅田次郎の小説『輪違屋糸里』が思い出されます。

糸里は輪違屋の天神(芸妓)で、新選組の副長助勤の平間重助の馴染みでした。

平間重助は筆頭局長の芹沢鴨の一派で、芹沢が殺された当日、ともに居合わせた人です。

芹沢らが襲われた夜、糸里は八木邸で芹沢らとともに酒宴を過ごし、その後、芹沢らとは別の部屋で平間とともにに就きました。

皆が寝入った深夜、近藤勇一派の数名が踏み込んできて芹沢らを殺害しますが、別の部屋で寝ていた平間と糸里は難を逃れます。

平間はその後、芹沢派の唯一の生き残りとして明治23年(1890年)まで生きたと伝わります。


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糸里という女性の話は、昭和の初めに作家の子母澤寛八木為三郎(新選組が屯所にしていた八木家の子息)から聞き書きした『新選組遺聞』にでてきます。

しかし、輪違屋に糸里という名の芸妓がいたという記録はないそうで、糸里の素性やその後は一切不明なんだとか。


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輪違屋の入口には、「観覧謝絶」の札が掲げられています。

いわゆる「一見さんおことわり」の店ということですが、もともとは置屋だったわけですから、一見さんであれ常連さんであれ、お客さんが出入りする場所ではなかったはずなんですが。

店内には、いまも近藤勇書の屏風や桂小五郎(木戸孝允)書の掛軸があるそうです。


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現在は揚屋と置屋を兼ね備えたお茶屋として、日本で唯一、現役の「如月太夫」を抱えて営業されています。

死ぬまでに一度、客として行ってみたいものです。

誰か連れてってください。



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by sakanoueno-kumo | 2018-08-04 00:31 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その106 「角屋(島原)」

江戸時代の京都の花街「島原」には、寛永17年(1640年)もしくはは寛永18年(1641年)の創業当時の建物をそのまま今に伝える「角屋」があります。

江戸期の饗宴もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952年)に国の重要文化財に指定されました。


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島原には大きくふたつに分けて「置屋」「揚屋」がありました。

「置屋」は、太夫芸妓に芸を教える教育の場で、お客さんは出入りしません。

「揚屋」は、現代でいう料亭にあたり、置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、遊宴を催す会場です。

現代でいえば、「揚屋」が料亭やホテルの宴会場で、「置屋」がコンパニオンの派遣会社といったところでしょうか。

揚屋のなかでも角屋は伝統があり、幕末には、久坂玄瑞、西郷隆盛などの勤王の志士密議を交わしたり、豪商からの資金調達のために接待に使用されていました。


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建物の北東の角には、「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」と刻まれた石碑があります。

でも、なんで久坂玄瑞なんでしょう?

ここで密議を交わしたのは久坂だけじゃないだろうに・・・。


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歴史を感じさせてくれる建物の外観です。


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説明板には、ことさら江戸の吉原とは違う、ということが強調されています。

島原のこだわり、京都人の気位の高さでしょうか。


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角屋が営業していたのは昭和60年(1985年)までで、その後は「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されています。


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入口です。


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入口の隅には、「新撰組刀傷の角屋」と刻まれた石碑があります。


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島原は、新選組屯所の壬生から近かったこともあって新選組との縁が深く、ここ角屋は芹沢鴨が馴染みでした。

文久3年(1863年)6月、芹沢は宴会の席で店の対応に腹を立て、店中を破壊するほど暴れまくったといいます。

そのときの刀傷が今も残っているそうで・・・。


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門をくぐると、早速その刀傷が迎えてくれます。


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たしかに、ざっくりいってますね。

酒乱真剣を振り回されたら、たまったもんじゃなかったでしょうね。

でも、これほどの傷が入るほど柱に刀を打ち込んだわけですから、芹沢自身も手首を傷めたんじゃないでしょうか。


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刀傷の横には、角屋の暖簾が。


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建物の中に入ります。


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国の重要文化財に指定されているという建物ですが、建築物は門外漢なので解説はできません。

しばし、写真を御覧ください。


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店内には新選組や久坂玄瑞などの古文書が多数展示されていましたが、撮影禁止だったので、紹介はできません。


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刀箪笥があります。


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こちらは、西郷隆盛が行水したなんだとか。

ほんとかなあ。


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その説明板です。

なんと、角屋の解体の危機を救った盥なんだそうで・・・。


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廊下を奥に進むと、角屋で最も大きなお座敷、松の間があります。


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ここで、諸藩の大宴会が行われていました。


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文久3年9月16日か18日(1863年10月28日か30日)、新選組はここ松の間で芸妓総揚げの宴会を開きました。

その後、芹沢鴨八木邸に帰って平山五郎、平間重助、それから馴染みの芸姑らと再度飲み直し、泥酔状態で就寝したところを、派閥争いで敵対していた近藤勇一派に襲われて絶命しました。

つまり、ここ松の間は芹沢の今生最後の宴会の場だったわけです。


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松の間から見た庭です。

芹沢が最後に見た景色といっていいでしょう。


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庭に面する縁側の上には、3mに張り出した軒があります。

これほど長い軒でありながら、支えの柱がどこにもないのは、庭の鑑賞の妨げにならないように配慮されたものなんだとか。

でも、そのためには、3mの軒を柱なしで支える構造設計が必要なわけで・・・。

たぶん、計算しつくされてつくられているんでしょうね。


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部屋も庭も、そして軒までもが「お・も・て・な・し」の精神で作られた揚屋・角屋。

なるほど、吉原とは違うんですね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-08-02 23:33 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その105 「島原大門」

江戸時代の京都の花街「島原」にやってきました。

島原は、寛永17年(1640年)もしくはは寛永18年(1641年)に六条三筋町から移転してきた日本初の幕府公認の遊女街です。

正式名称は「西新屋敷」といいましたが、その急な移転騒動が九州の島原の乱の直後だったため、それになぞらえて「島原」と呼ぶようになったそうです。


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現在は花街としての面影はほとんど残っておらず、写真の「大門」と、唯一営業を続けている「輪違屋」、現在は文化美術館となっている「角屋」の3ヵ所だけが、当時の名残を偲ばせています。


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京都の花街は、島原以外に上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町の6ヶ所があり、これらを総称して京都の六花街と呼ばれています。

西郷隆盛桂小五郎(木戸孝允)坂本龍馬ら幕末の志士たちも、それぞれ花街に馴染みの遊女がいましたが、ここ島原は、新選組屯所の壬生から近かったこともあって、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨ら新撰組の面々が頻繁に通っていました。


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女にモテモテだった土方歳三は、自身でどれだけもてるかを書き綴った手紙も残されているそうで、そこには、島原の花君太夫天神(太夫に次ぐ位の女性)の一元の名前が手紙に記されているそうです。

総長の山南敬助が切腹の直前に格子戸越しに別れを惜しんだという明里も、島原の天神でした。

大正時代まで長寿した永倉新八は、島原の亀屋の芸妓・小常をのちに身請けしてとします。

のちの新選組を離脱して御陵衛士を結成した伊藤甲子太郎は、現在も営業を続けている輪違屋の花香太夫が馴染みだったとか。

まさに、島原は新選組隊士たちのやすらぎの場だったんですね。


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大門の横の見返り柳は、遊廓の入口付近に生えた柳の名称で、島原だけでなく全国の遊郭の入口にあったそうです。

遊廓で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで名残を惜しんで後ろを振り返ったことから、この名が付いたのだとか。


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一般に、江戸の遊女街の吉原「遊郭」と呼びますが、京の島原は「花街」といいます。

いずれも色町には違いありませんが、京都の人は島原を「遊郭」と呼ぶことを嫌うそうです。

どっちも同じような気がしますが、このあたりが、京都人の気位の高さってやつですかね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-01 23:55 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その104 「光縁寺(新選組墓所)」

前々稿で紹介した壬生寺に、新選組隊士の墓がありましたが、そこから西へ400mほどのところにある光縁寺にも、新選組隊士の墓があります。


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山門の横には、「新選組之墓」と刻まれた石碑があります。


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山門の柱にも、「新選組之墓所」の文字が。


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光縁寺の門前近くには新選組の馬小屋があったそうで、毎日、門前を隊士たちが往来していました。

ある日、総長の山南敬助が山門の瓦の家紋に目をやると、山南家の家紋と同じ「丸に右離れ三つ葉立葵」であることに気づきます。

上の石碑の上にある家紋ですね。

これが縁となって、山南は光縁寺の住職良誉と親しくなり、山南の紹介で切腹した隊士たちがここで弔われ、埋葬されることになったといいます。

そして、その山南自身もここに眠っています。


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いちばん左が山南敬助の墓です。


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新選組の初期メンバーのひとりで、局長の近藤勇、副長の土方歳三に次ぐ総長という立場にありながら、首脳陣との確執が生じ、最後は切腹させられた山南敬助。

その確執の原因は諸説あって定かではありませんが、元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」置き手紙を残して行方をくらませました。

新選組の法度で脱走は切腹とされていました。

山南の脱走を知った近藤と土方は、すぐさま追手を差し向けます。

その追手は沖田総司ひとりでした。

沖田は山南から弟のように可愛がられていたといい、その沖田ならば、山南も無駄な抵抗はしないだろうという土方の思惑があったともいわれます。

また、別の説では、近藤と土方が山南を発見しても逃してやるよう沖田に言い含めていたが、山南自ら沖田に声をかけてきて捕縛されたという話もありますが、真相はわかりません。

沖田とともに京に戻った山南は、元治2年2月23日(1865年3月20日)、「その101」で紹介した前川邸の一室で切腹して果てます。

享年33。

介錯は山南の希望により、沖田が務めたといいます。


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山南の墓石の側面には、柴田彦三郎河合耆三郎の名が刻まれています。

合祀されているようですね。

2人とも切腹させられた隊士です。


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こちらは松原忠司をはじめ12名の隊士の墓です。

松原忠司は新選組四番隊組長で、「親切者は山南と松原」という言葉が伝わるほど、温厚な人柄で知られました。

新選組の記録では病死とされていますが、その死については諸説あります(何らかの理由で切腹したが未遂に終わり、平隊士に降格されたという点は多くの説に共通します。一説には銃殺とも)。

司馬遼太郎の短編『壬生狂言の夜』では、誤って殺めてしまった浪人の妻と恋仲になり、そのことを知った土方歳三に陥れられて心中に追い込まれるという設定でした。

もちろん、司馬氏の創作ですが。


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山南敬助の墓の横には、「沖田氏縁者」と刻まれた墓石があります。

過去帳に記載があるのみで真実はわからないそうですが、沖田総司の京都時代の恋人ではないかという声があとをたたず、昭和51年(1976年)にこの寺の住職が供養のために建てたそうです。

ただ、わたしがここを訪れたときの住職さんは、この墓は山南敬助と恋仲だった遊女の明里の墓ではないかと推理されていました。

山南は切腹の間際、駆けつけた明里と格子戸越しに最期の別れを交わしたという逸話が伝えられます。

住職いわく、山南の切腹の際、介錯の沖田に明里のことをよろしくと頼み、その約束を守った沖田が、明里を自分の縁者ということにしてここに葬ったんじゃないかと。

なんともドラマチックな推理ですが、沖田もこの3年後に病でこの世を去ります。

ってことは、明里はその前に死んじゃったってことになりますね。

山南の後を追った?

なんか、物語ができそうです。


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本堂には、山南や他の隊士たちの位牌がありました。

本当にここに眠っているんですね。

ちなみに、住職さんの話によると、大河ドラマで山南敬助を演じられた堺雅人さんも、ここを参られたそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-31 23:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その103 「新徳寺(清河八郎演説の地)」

前稿で紹介した壬生寺の東側の坊城通りを挟んですぐ向かいに、新徳寺というお寺があります。

ここは、は新選組にまつわる最初の大舞台となった場所です。


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新選組誕生の発端は、文久2年(1862年)に庄内藩郷士・清河八郎の献策を幕府が受け入れ、第14代将軍・徳川家茂の上洛の警護の名目で浪士を募集したことに始まります。

集まった230名余りの浪士たちは、翌文久3年(1863年)春、「浪士組」として将軍上洛に先がけて西上します。

しかし、これは清川が画策した謀略でした。

藩の後ろ盾を持たない清川は、幕府を出し抜いて、幕府の名で浪士を集め、これを天皇配下の兵力にして討幕勢力を作ろうとしたのです。

すごいことを考えたものです。


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浪士組が京に入ると、清川は230名余りの浪士たちを集め、熱弁をふるいます。

いわく、「われわれの上洛の真の目的は将軍警護にあらず、尊王攘夷の先鋒にある!」と。

清河の熱弁にうたれた200名はこれに賛同、翌日、清河は朝廷に建白書を提出することに成功します。

おそらく、清川には集団を扇動するカリスマ性があったのでしょうね。

その大演説の舞台となったのが、ここ新徳寺でした。


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しかし、少数ながら清川の扇動に異を唱えた者たちがいました。

それが、近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・井上源三郎・永倉新八・原田左之助・藤堂平助ら武蔵国の試衛館組の8人と、芹沢鴨・新見錦・平間重助・平山五郎・野口健司ら水戸藩浪士の5人、計13名でした(17名説、24名説もあり)。

清川ら在京浪士組は在京20日余りで再び江戸に戻ることになりますが、近藤、芹沢ら13名は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。

これが、やがて新選組へと発展していくんですね。

その歴史のターニングポイントとなった場所が、ここ新徳寺でした。


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残念ながら新徳禅寺は一般公開されていませんが、境内はほぼ当時のままだと言われています。

このお堂が、清川の大演説のステージだったのでしょうか?

いろいろ想像が掻き立てられます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-28 08:49 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)