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幕末京都逍遥 その159 「戊辰役東軍戦死者埋骨地(光明寺跡)」

淀城の前に、かつて光明寺というお寺がありました。

「その157」で紹介したとおり、慶応4年1月5日(1868年1月29日)に千両松の戦いで、旧幕府軍に多くの死者が出ました。

その戦死者たちを葬った寺のひとつが、ここ光明寺でした。


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その後、光明寺は明治の廃仏毀釈によって廃寺となり、ここに葬られていた旧幕府軍の墓は、近くの長円寺に移葬されました。

現在、その跡地には、石碑のみが建てられています。


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地蔵堂を挟んで右側にある新しい石碑には、「幕府軍新選組縁 鳥羽伏見の戦い戦死者供養之寺 淀城前 光明寺」と刻まれています。

「新選組縁」とありますが、新選組の隊士が葬られていたのかどうかはわかりません。

ただ、千両松の戦いの激戦地はこのすぐ近くで、この戦いで新選組のメンバー14名が戦死したと伝わります。

あるいは、そのメンバーの誰かがここに葬られていたかもしれませんね。


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そのときの戦死者の中に新選組結成当時からのメンバーで六番隊組長だった井上源三郎がいましたが、このとき、源三郎の首は甥の泰助が持って逃げたのですが、まだ少年だったので首の重さに耐えきれなくなり、通りかかった寺の門前に泣く泣く埋めたというエピソードがあります。

その寺は今もって定かになっておらず、一説には、伏見の欣浄寺という寺だったのではないかと言われているのですが、地図で確認するかぎり、千両松の戦いの現場から6kmほど北東にあり、しかも、退路とは反対方向にあるため、わたしとしてはあまり信じる気になれません(現在、首塚もあるそうですが、発掘調査は行われていません)。

その点、ここ光明寺は戦地より数百メートルの場所にあり、しかも、退却の経路の道中にあります。

源三郎の首が埋められたのは、ここだったんじゃないでしょうか?


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地蔵堂を挟んで反対側の古い石碑には、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれています。

この碑は、ここまで何度も紹介したものと同じく、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-03 22:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その157 「戊辰役東軍戦死者埋骨地・八番楳木(千両松)戦場跡」

「その156」で紹介した愛宕茶屋埋骨地から600mほど南東にも、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた墓碑があります。

ここは現在、京都競馬場の北側の道路沿いです。


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この墓碑も、「その155」「その156」前々稿で紹介したものと同じく、明治40年(1907年)に京都十七日会によって挙行された東軍戦死者四十年祭典の際に建てられたものだそうです。


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かつてこの地には川が流れていて、狭い堤防上の道で「淀堤」と呼ばれていました。

そこに「千両松」と呼ばれた松並木がありました。

「千両松」とは、豊臣秀吉が植えたと伝わる松で、そのあまりの見事さにその名が付いたとされます。

その千両松付近で、鳥羽・伏見の戦いが始まって3日目の慶応4年1月5日(1868年1月29日)、激しい戦闘が繰り広げられます。


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ここで戦った旧幕府軍は、土方歳三率いる新選組と、佐川官兵衛率いる会津藩の部隊が中心でした。

剣客揃いだった彼らは、この狭い淀堤の上を通る新政府軍をこの地で待ち伏せして一斉に斬り込み、一時は新政府軍に多数の死傷者を出すなど戦いを優勢に進めますが、その後、千両松並木の奥に退却した新政府軍が、体制を立て直して一斉射撃を開始すると、形勢は逆転して旧幕府軍は壊滅します。

この戦いで新選組のメンバー14名が戦死したと伝わります。

その中には、新選組結成当時からのメンバーで六番隊組長だった井上源三郎がいました。

源三郎とともに戦っていた甥の泰助は源三郎の首を持って逃げましたが、まだ少年だったので首の重さに耐えきれなくなり、通りかかった寺の門前に泣く泣く埋めたといいます。

この惨敗によって、土方歳三は剣の時代が終わったことを悟ったといいます。


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墓碑の横にある石碑には、次のように記されています。


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幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない。

それが日本人同族の争いでもあり、いづれもが正しいと信じたるま々に、それぞれの道へと己等の誠を尽くした。

然るに流れ行く一瞬の時差により、或る者は官軍となり、或るは幕軍となって、士道に殉じたので有ります。

ここに百年の歳月を関し、其の縁り有る、此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し慰霊碑の建つるを見る。

在夫の魂以て冥すへし。


また、裏面にはこ記されています。


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慶応四年戊辰正月、伏見鳥羽の戦いに敗れ、ここ淀堤千両松に布陣し、薩摩長州の西軍と激戦を交し、非命に斃れた会津・桑名の藩士、及び新選組、並びに京都所司代見廻組の隊士に捧ぐ。


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この千両松の戦いは、鳥羽・伏見の戦いの中でも最も激しい戦いだったと伝えられます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-01 23:37 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その149 「魚三楼(弾痕)」

「その147」で紹介した伏見奉行所の近くにある料亭・魚三楼には、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおける銃撃戦でできたとされる弾痕があります。


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城下町である伏見は、L字路、T字路といった敵から見通せないように工夫された街路がいくつも組み合わさった「遠見遮断」と言われる構造になっています。

そのため、鳥羽伏見の戦いの際には、見通しの悪い街路を挟んで激しい市街戦が繰り広げられ、沿道の家屋の多くも戦災に遭いました。


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この魚三楼があった京町通も激戦の舞台となりました。

そのときの弾痕と伝えられるのが、表格子に残るこれです。


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生々しいですね。


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現在も残されている「両軍伏見市街戦概要図」では、この京町通りの南側に新選組が布陣していたといわれているそうで、あるいは、新選組の残した弾痕かもしれません。

このとき最も勇敢に戦ったといわれるのが、土方歳三率いる新選組と、林権助率いる会津砲兵隊だったと言われています。


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魚三楼は明和元年(1764年)創業という歴史をもつそうです。

鳥羽伏見の戦いでは、薩摩軍のまかないも担当していたといいます。

この戦いで伏見一帯は焼け野原になりますが、幸い、この建物は焼失を免れ、この弾痕を後世に伝えてくれました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-13 00:20 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その148 「伏見口の戦い激戦地跡」

「その137」 「その138」で紹介した寺田屋のすぐ西側にある京橋の傍に、「伏見口の戦い激戦地跡」と刻まれた石碑があります。


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京橋は宇治川に注ぐ川に架かる橋です。

江戸時代、京橋周辺は船着場として栄えました。

寺田屋がその船着場の旅館として幕末ににぎわっていたという話は、以前の稿でお話ししたかと思います。


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鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られる前日の慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船でここに上陸しました。

その際、会津軍の進軍を阻止すべく立ちはだかった薩摩軍小競り合いになり、やがて銃撃戦となります。

鳥羽伏見の戦いの前哨戦ですね。

その中には、「その147」で紹介した伏見奉行所から駆け付けた新選組の面々もいました。


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翌日も小競り合いは続き、そうこうしているうちに鳥羽方面から砲声が聞こえ、鳥羽・伏見の戦いが始まります。


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石碑の建つ京橋から川を見下ろします。

現在、雁木などが復元され、当時を思わせる景観が楽しめます。


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観光客を乗せた十石舟が走っています。


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戦いは薩長軍の勝利に終わり、退却する会津軍、新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-12 00:48 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その147 「伏見奉行所跡」

「その146」で紹介した御香宮神社から200mほど南下したところに、かつて伏見奉行所がありました。

現在、その跡地には石碑が建てられ、往時を思わせるが演出されています。


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慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が下されると、4日後の12月13日に会津藩の命を受けた新選組は、伏見方面の治安維持の名目で伏見奉行所へ駐屯することとなります。

そして16日には、近藤勇を隊長に総勢150名が伏見奉行所に入りました。


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ところが、その2日後に近藤勇は、伏見奉行所へ帰る途中に伏見街道の墨染で狙撃され、肩を撃たれて重傷を負ってしまいます。

その後、新選組の指揮は副長の土方歳三が執ることとなります。


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年が明けた慶応4年1月3日(1868年1月27日)に鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切られると、伏見奉行所の兵は大手筋を挟んで目と鼻の先にある御香宮神社に陣を布く薩摩軍と激戦を交わします。

しかし、火力に歴然とした差があり、やがて伏見奉行所は炎上、土方率いる旧幕府軍は、撤退を余儀なくされます。

このときの戦いで、土方はもはや剣の時代が終わったことを悟ったといいます。


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維新後、伏見奉行所の跡地は陸軍の土地となり、工兵隊の基地になりました。

伏見奉行所の石碑の向かい側には、「伏見工兵第十六大隊跡」と刻まれた石碑があります。

基地は第二次世界大戦後に米軍に接収され、その後、米軍から返還されると、市営住宅が建てられ、現在は桃楼団地という団地街になっています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-10-11 01:29 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その113 「戒光寺(御陵衛士菩提寺)」

東山にある泉涌寺の塔頭・戒光寺に、慶応3年11月18日(1867年12月13日)に起きた油小路通事件で落命した伊東甲子太郎御陵衛士4人の墓があります。


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ここに葬られているのは、新選組・近藤勇らの謀略によって殺された伊東甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の4人。

彼らの遺体は、事件後3日間現場に放置されていたといいます。

これは、生き残った御陵衛士の他のメンバーを誘き寄せるための新選組の策でしたが、結局、残党は現れず、その後、4人の遺体は新選組の手によって「その104」で紹介した光縁寺に葬られたそうです。

その後、明治に入って、御陵衛士の残党が光縁寺から戒光寺に改葬したそうです。


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戒光寺の本寺である泉涌寺は歴代天皇家の菩提所で、慶応2年12月25日(1867年1月30日)に崩御した孝明天皇(第121代天皇)の御陵(後月輪東山陵)もありました。

彼らの結成した「御陵衛士」の名称は、孝明天皇の御陵の護衛者という意味です。

熱烈な勤王志士だった伊東は、戒光寺の長老である堪然の仲介によって、孝明天皇の御陵守護の任を拝命していました。


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現在、4人の墓は一般公開されていません。

以前は普通に墓参できていたみたいですが、現在は墓参するには事前申し込みが必要で、それも、わたしのような観光客には許可いただけないみたいです。

その理由は、過去の聖霊に畏敬の念を持たない不心得者から墓を守るため、だそうです。

残念ですが、何か、そうせざるを得ない出来事があったのでしょうね。

たしかに、墓は観光名所ではないので、やむを得ません。


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御陵衛士を結成してからわずか8ヶ月で落命した伊東甲子太郎ら4人。

さぞかし無念だったに違いありませんが、ここ戒光寺に葬られたことで、死してなお、御陵をお守りし続けているといえます。

ある意味、武士の本懐かもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-14 23:20 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その112 「御陵衛士屯所跡(月真院)」

東山にある高台寺の塔頭、月真院を訪れました。

ここは、新選組から分裂した伊東甲子太郎率いる御陵衛士が屯所とした場所です。


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伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました。

そんな伊東を近藤勇参謀兼文学師範に任じて重用しますが、しかし、もともとは水戸学を学んだ勤王志士だった伊東は、近藤らとは「攘夷」の点では結ばれていても、佐幕色を強めていく新選組の方針に矛盾を感じはじめ、やがて新選組を離脱

同志14名と共に御陵衛士を結成します。


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「御陵衛士」とは、孝明天皇(第121代天皇)の御陵(墓)護衛者という意味。

熱烈な勤王志士だった伊東は、孝明天皇陵(後月輪東山陵)のある泉涌寺塔頭・戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命していたため、この名称を掲げたのでしょう。


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慶応3年3月10日(1867年4月14日)に新選組を離脱した御陵衛士は、はじめは五条橋東詰の長円寺(善立寺説もあり)に屯所を構えていましたが、同年6月、ここ月真院に屯所を移しました。

新選組とは表面的には話し合いでの分裂でしたが、その思想は佐幕勤王倒幕という真逆の立場であったため、新選組の襲来を恐れていつも刀を抱いて寝たといいます。


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高台寺の塔頭を拠点としたため、御陵衛士はのちに「高台寺党」とも呼ばれるようになります。


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それから5ヶ月後の慶応3年11月18日(1867年12月13日)、「その110」で紹介した油小路において、新選組近藤勇らの謀略によって伊東甲子太郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の4人が死亡。

残った同士は薩摩藩邸に逃げ、御陵衛士は解散を余儀なくされます。

ここに、わずか8ヵ月の御陵衛士の短い歴史が終わります。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-11 01:44 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その110 「伊東甲子太郎外数名殉難之跡(本光寺)」

前稿で紹介した不動堂明王院から北へ150mほど上ったところにある本光寺の山門の横に、「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」と刻まれた石碑があります。

ここは新選組元隊士の伊東甲子太郎御陵衛士の面々が粛清された油小路事件があったとされる場所です。


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伊東甲子太郎は新選組中途加入組でしたが、その高い学識北辰一刀流で鍛えた剣術、さらには容姿端麗で巧みな弁舌から、たちまち隊内で存在感を表し、人望を集めました。

そんな伊東を近藤勇参謀兼文学師範に任じて重用しますが、しかし、もともとは水戸学を学んだ勤王志士だった伊東は、近藤らとは「攘夷」の点では結ばれていても、佐幕色を強めていく新選組の方針に矛盾を感じはじめ、やがて新選組を離脱

同志14名と共に御陵衛士を結成します。


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やがて近藤勇は、御陵衛士にスパイとして送り込んでいた斎藤一から、伊東が近藤の暗殺を計画しているとの報告を受け、伊東の殺害を決意します。


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慶応3年11月18日(12月13日)、近藤は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を開き、その帰路、新選組隊士の大石鍬次郎らが待ち伏せて、酔っている伊東を襲撃しました。

槍で襲われた伊東は、深手を負いながらも一太刀敵に浴びせ、「奸賊ばら」と叫んで倒れたといいます。

その絶命した場所が、ここ本光寺前だったと伝えられます。


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この扉の前だったのでしょうか?


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山門をくぐると、古い石塔があり、その横に「伊東甲子太郎絶命の跡」と刻まれた新しい石碑があります。

伝承によると、かつてこの石塔は本光寺門前にあったそうで、伊東はこの石塔に寄りかかるように絶命したといいます。


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その後、伊東の遺骸は七条油小路の辻に放置されました。

これは、遺骸を引き取りに来た御陵衛士の仲間を誘き寄せるための罠で、その計画通り、藤堂平助ら同志8名が現場に現れ、待ち伏せていた永倉新八 、原田左之助ら約40名の新選組がこれを迎えちました。

近藤は、幹部のなかでは最年少だった藤堂は生かしておくよう命じていたといいますが、その命令が新選組隊士全員に行き届いておらず、激闘のすえ絶命します。

その他、御陵衛士の服部武雄、毛内有之助も死亡しました。

この事件が起きたのは坂本龍馬が暗殺された3日後のことで、伊東と藤堂は龍馬暗殺の当日、龍馬が暗殺された近江屋を訪問し、命を狙われているから土佐藩邸に移るよう忠告したといいますが、その日の夜に龍馬が暗殺されて、自分たちの忠告が届かなかったことを嘆いたといいます。

その3日後に自分たちが殺されることになろうとは、露ほども思わなかったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-09 00:22 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その109 「新選組不動堂村屯所跡~不動堂明王院」

西本願寺の屯所を出た(追い出された?)新選組は、西本願寺から500mほど南の不動堂村に移転します。

現在、リーガロイヤルホテル京都の敷地内には、その跡地を示す石碑と説明板があります。


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石碑には、新選組のシンボルである「誠」の文字と、「事あらばわれも都の村人となりてやすめん皇御心」という近藤勇の歌が刻まれています。


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慶応3年6月10日(1867年7月11日)、新選組はこれまでの働きが認められて、会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり、局長の近藤は御目見得以上の格(三百俵旗本)となります。

文字通り、近藤は幕府代表者の一員となったわけですが、このときから4ヶ月後に大政奉還が宣言されて幕府がなくなるわけですから、後世から見れば、貧乏くじを引いたようなものでした。

しかし、当時の近藤は、そんなことは露ほども思わなかったことでしょう。

近藤勇の甥で新選組隊士だった宮川信吉の書簡によれば、その5日後の6月15日、新選組は新しい不動堂村屯所に入所しています。

移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎が西本願寺と交渉の末、建築費・諸経費を西本願寺が負担することとなったそうです。

まあ、西本願寺にすれば、金払うから出ていってくれってことだったのでしょうが。

ちなみに吉村貫一郎というと、浅田次郎の小説『壬生義士伝』の主人公ですね。


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説明板によると、屯所の広さは約1万㎡あったそうで、表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋、大風呂は30人が一度に入れるほどあったといわれ、大名屋敷と比べても遜色ない構えだったとあります。


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リーガロイヤルホテル京都から東へ200mほどのところにあるホテル「ハトヤ瑞鳳閣」の前にも、不動堂村屯所跡の石碑があります。


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石碑には「此付近 新撰組最後の洛中屋敷跡」と刻まれています。


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こちらの説明板によると、屯所の位置については、上述した宮川信吉の書簡に「七条通下ル」と記されていること、また、永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあることから、この付近であることは確実であるものの、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明だとしています。

また、価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません・・・とも。

まるで、詳細に建物構造や規模を記したリーガロイヤルホテル前の説明板を批判しているかのような記述ですね。


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リーガロイヤルホテルとハトヤ瑞鳳閣のちょうど中間あたりに、不動堂明王院という小さなお寺があり、その正面には、「誠」の文字と「新選組まぼろしの屯所」と書かれた提灯がかけられていました。


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この不動堂明王院が屯所にあてられたのではないか、という説もあるんだそうですが、でも、なんで「まぼろし」なんでしょうね。

この辺りに屯所があったことは史実ですから、べつに幻ではないんじゃないかと・・・。


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新選組が不動堂村に屯所を構えたのはわずか6ヶ月でしたが、その間に、大政奉還があり、その後、王政復古の大号令が発せられ、新選組は5年間過ごした洛中をあとにし、鳥羽・伏見の戦いに向かいます。

現在もこの辺り一帯の住所は「南不動堂町」といい、往時を偲ばせてくれます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-07 23:59 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その108 「西本願寺(新選組屯所跡)」

世界遺産西本願寺にやってきました。

ここは幕末、新選組の第2の屯所となった場所です。


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文久3年(1863年)春に上洛して以来、洛西壬生村の八木邸(参照:その96)や前川邸(参照:その97)を屯所としてきた新選組でしたが、池田屋事件で一躍脚光を浴びると幕府の支援も厚くなり、やがて隊は200人を越える大所帯となり、大人数を収容できる新たな拠点が必要となりました。

そこで、元治2年3月10日(1865年4月5日)に、ここ西本願寺に屯所を移転します。


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新選組が屯所として使用したのは、西本願寺の北東にあった北集会所太鼓楼でした。

北集会所は明治6年(1873年)に姫路市の本徳寺に移設されたため、現在残る新選組ゆかりの場所は、写真の太鼓楼だけです。


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新選組が西本願寺を屯所とした理由は、西本願寺は勤王色が濃いうえに長州藩毛利家とも縁が深く、長州藩士たちが何かにつけ西本願寺を頼りにしていたため、近藤勇はあえてその場所に拠点を移すことで、将来禍根となりうる芽を摘んでしまおうと考えたとたといわれます。

このことが原因で、勤王の志が強かった総長の山南敬助との間に確執が生まれ、やがて山南の脱走、切腹に至ったともいわれます。


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西本願寺に屯所を構えた新選組は、境内で大砲を轟かせ実弾射撃を行うなど、僧侶や信徒にとっては迷惑千万な存在でした。

また、境内で食料としての豚の飼育を行っていたといいます。

当時、僧侶たちにとっては、境内で生き物を殺生するなど、許しがたき野蛮な行為でした。


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新選組が西本願寺を屯所としたのは約2年で、慶応3年(1867年)6月には近くの不動堂村に移転します。

その理由は、西本願寺のたっての願いだったようで、その移転費用も西本願寺が全額負担したそうです。

よほど嫌だったことがわかります。

幕末の京都の治安を守った新選組ですが、西本願寺の僧侶たちにとっては、厄介者でしかなかったようですね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-05 00:26 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)