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丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その3 <東曲輪・三ノ丸・南帯曲輪>

「その2」のつづきです。

登山をはじめて約40分、ようやく黒井城本城の東曲輪に到着しました。

パンフレットによると、東曲輪の広さは20m×15mだそうです。


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見事な野面積み石垣の遺構に圧倒されます。


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縄張図によると、三ノ丸櫓台石垣のようです。


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その縄張図です。


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三ノ丸に上がって来ました。

広さは28m×23mあります。


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縄張図を見てもわかるように、本丸、二ノ丸は直線上にあるのに対して、三ノ丸と東曲輪は「くの字」型をしており、矢掛りがかかるように配置しています。


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三ノ丸からの270度パノラマビューです。


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この山が、黒井城攻城戦のときに明智光秀軍が陣城を築いたとされる茶臼山です。


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こちらも、明智軍が攻め城として改修した朝日城跡


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北丹波を一望といった感じですね。

「丹波の赤鬼」と呼ばれたた赤井(荻野)悪右衛門直正は、ここから丹波一円に睨みを効かせていたのでしょう。


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三ノ丸の北西端にある二ノ丸櫓台石垣です。


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三ノ丸櫓台より幅が広いですが、高さは低いようです。

あるいは、もとはもっと高く積まれていたのでしょうか?


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二ノ丸、本丸に上がる前に、その周りを取り巻く帯曲輪を歩いてみましょう。


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南側の帯曲輪です。

向こうに石垣、そしてその上にが見えます。

ここを訪れたのは元号が「令和」に変わる少し前の平成31年(2019年)4月13日。

平成最後の桜です。


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縄張図にある、帯曲輪と帯曲輪にせり出した曲輪の石垣です。

出隅は算木積みっぽい兆候が見られます。


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これらの石垣は、赤井氏の時代ではなく、明智光秀の丹波平定後に入城した重臣・斎藤利三時代のものと考えられています。

斎藤利三は、あの春日局の実父です。


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見上げると桜の木が。

本丸、二ノ丸と帯曲輪の高低差は5mほどです。


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反対側から見た石垣。


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そして最西端にある西曲輪にやってきました。


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西曲輪から見た本丸です。


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そして北側の帯曲輪です。


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こちらも南側の帯曲輪と同じく、本丸、二ノ丸との高低差は5mほどありますが、石垣は残っていません。


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一周して三ノ丸に戻ってきました。

二ノ丸、本丸は「その3」にて。

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by sakanoueno-kumo | 2020-03-28 08:58 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

丹波の赤鬼の居城、黒井城攻城記。 その1 <山麓>

兵庫県丹波市にあった黒井城は、戦国時代、豪勇をうたわれた赤井(荻野)悪右衛門直正の居城として知られています。

天下統一を目指していた織田信長丹波攻めの際、二度に渡って明智光秀の攻撃を支え、苦しめた城です。

平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城に選定されました。


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上の写真は南側の麓から見た黒井城跡です。

中央の猪ノ口山本城で、そこから尾根伝いに写真左端に見える小さな頂が丈寺砦です。


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本城は標高356mだそうですが、山頂部分が150mほど削平されていて、麓から見ても、いかにも人工的に作られた遺構ってことがわかりますね。


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その山頂をズームします。

ここを訪れたのは元号が「令和」に変わる少し前の平成31年(2019年)4月13日。

山頂に石垣、そしてが見えます。

いまから、あそこに登ります。


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大きな誘導看板があります。


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登山前に、黒井城のパンフレットをもらうべく、丹波市春日庁舎を訪れました。

ここの敷地内にある春日民族歴史資料館でパンフレットがもらえます。


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このパンフレットがめっちゃいい出来で、城の全体図もわかりやすく、黒井城跡に登るには必ずゲットすべきでしょうね。


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庁舎には、大河ドラマ『麒麟がくる』に向けてのPR懸垂幕が。


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こちらの幟も「明智光秀ゆかりの地」とあります。

ここを訪れたのは大河ドラマが始まる8ヶ月ほど前だったので、まだそれほど巷では話題になっていなかったのですが、観光誘致は始まっていました。


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庁舎の前から見た黒井城跡。

桜が綺麗です。


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猪ノ口山山頂にズーム。


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登山の前に、麓を流れる黒井川で桜見物。

平成最後の桜です。


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さて、麓だけで長くなっちゃいました。

「その2」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-25 23:32 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

『麒麟がくる』京都大河ドラマ館

丹波亀山城跡を訪れた際、近くにNHK大河ドラマ『麒麟がくる』のテーマ館、京都大河ドラマ館がオープンしていると知り、訪れました。

毎週、大河ドラマのレビューをブログにて起稿しておきながら、恥ずかしながら、京都大河ドラマ館のことを知りませんでした。

岐阜県に大河ドラマ館がオープンしたって情報は得ていたんですが。


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場所はJR亀岡駅のすぐ北側に新しく出来た京都府立京都スタジアム内の特設会場。


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別名、サンガスタジアム by KYOCERA

京都に本拠地を構えるJリーグチームの京都サンガF.C.の新たなホームグラウンドとなるそうで、令和2年(2020年)1月11日に竣工式を終えたばかりのスタジアムです。

わたしがここを訪れたのは2月2日。

竣工ホヤホヤです。


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です。

これと同じ幟が亀山城跡にもあって、それで、ここの存在を知りました。


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光秀大河物産館

お土産屋さんですね。


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右のキャラクターは、戦国系のゲームのキャラかなんかだと思っていたのですが、あとから調べてみたら、「戦国VTuber明智光秀」という亀岡PR特別大使なんだそうです。

バーチャルユーチューバーが公式観光大使って、おじさんはもう着いていけません。


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こちらは長谷川博己さんの明智光秀

これは着いていけます。


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外壁のガラス面も全面グラフィックを貼っていて、結構お金かけていましたね。


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入口です。

キャッチコピーは「光秀は、何者か。」

光秀の実像というのは、多くの学者さんをもってしても、いまだ解明されていません。

有名なわりには、その前半生はほとんど謎の人物といっていいでしょう。

光秀は、何者か。

無粋なことを言うようですが、テーマ館の展示レベルで、その謎が解き明かされることはありません(笑)。


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入ってすぐのVPです。

ここからはチケットを購入しなければ入れません。


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館内には撮影に使われたものと同じ衣装甲冑小道具の展示や、ドラマオープニングのメイキング映像の上映、ストーリーやキャストの紹介パネルなどが展示されていました。

たぶん、ここでも、帰蝶の紹介パネルは急遽差し替えられたのでしょうね。

わたしも、似たような仕事をしているので、関係者の皆さんのご苦労はお察しします。

帰蝶の等身大パネルは、間に合わなかったのか、ありませんでした。


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館内はほとんどが撮影禁止だったのですが、一部、撮影オッケーの場所があったので、紹介します。

写真は、「光秀は、何者か。」をテーマにしたパネル展示ですが、やはり、光秀が何者かはわかりませんでした(笑)。


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天正3年(1575年)から天正7年(1679年)にかけての明智光秀の丹波攻略マップですね。

実際には、明智光秀が攻め落とした丹波の城の数は30城以上あると言われています。

その全部とはいきませんが、ほとんどを、去年から今年にかけて、わたし、攻めてます(笑)。

また、随時アップしていきますね。


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で、こちらは、先日の稿で紹介した亀山城跡の外堀沿いにある南郷公園に建てられた光秀像のレプリカ

カーボン製だそうです。


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肖像画に似ているといえば似ているし、似ていないといえば似ていない(笑)。


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写真は江戸時代後期に刊行された豊臣秀吉の伝記『絵本太閤記』のなかの「光秀連歌の図」

天正10年(1582年年)5月24日(あるいは28日)に行われたとされる愛宕百韻のときの絵ですね。

有名な「ときは今 あめが下しる 五月かな」の発句で始まった連歌の会です。


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そして、こちらは明治元年(1868年)に一魁斎月岡(月岡芳年)によって描かれた「本能寺合戦」浮世絵

中央に安田宅兵衛(安田国継)と戦う森蘭丸が描かれています。


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展示を一通り見終わって、外に出ました。

北側の景色です。

正面の山の奥の山に愛宕百韻が詠まれた愛宕神社があります。

天正10年(1582年年)5月27日、愛宕神社に参拝した光秀は、何度も何度もおみくじを引いたと伝えられます。


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最後に、光秀大河物産館に立ち寄ってTシャツマグカップを買いました。

「てきは本能寺にあり」

今年の夏、これ来て京都を歩こうかな(笑)。


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展示内容はドラマが進むごとに、バージョンアップする予定だそう。

物語後半に、もう一回来てもいいかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-21 08:30 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

丹波亀山城を歩く。 その2 <南郷公園>

「その1」のつづきです。

前稿で紹介した丹波亀山城跡大本・天恩郷を訪れたのは平成30年(2018年)6月2日だったのですが、その翌年の令和元年(2019年)5月3日、北側の南郷公園明智光秀の像が建立されたというニュースを見ました。

で、更にその翌年の令和2年(2020年)2月2日、再び亀岡の地を訪れました。


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こちらが、その光秀像

左右に亀山城の鯱瓦像もあります。


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土台は亀山城の石垣をイメージしているのでしょうか。


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ここを訪れたのは夕方だったので、逆光で顔がわかりづらいのが残念。


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いろんな角度から。


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肖像画に似ているといえば似ているかも。


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少なくとも、坂本城跡に建てられていた安っぽい石像よりは、数段いい出来ですね。


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こちらは、光秀像建立にあたっての説明板。

令和元年(2019年)は明治2年(1869年)に「亀山」という地名を「亀岡」に改名して150年という節目の年にあたることと、令和2年(2020年)のNHK大河ドラマが光秀を主役にした『麒麟がくる』に決定したことが、光秀像建立につながったのだとか。

その資金には、ふるさと納税による寄付金が充てられたそうです。

さすがは大河ドラマ、地方行政をも動かします。


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鯱瓦像です。


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その説明書きの真鍮板。


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反対側の鯱瓦像の土台には、城づくりの名手といして名高い藤堂高虎が普請したという亀山城天守の図が刻まれた真鍮板があります。


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近くには、「明智光秀公築城亀山城趾」と刻まれた石碑が。


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光秀像の背後には、南郷池が横たわります。

「その1」でも紹介したとおり、この池はかつての亀山城の外堀の名残です。


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前稿での南郷池は夏のロケーション、今回は冬のロケーションです。


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南郷池の説明板。


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南郷公園はJR亀岡駅のすぐ南側にあります。

これから、この光秀像が亀岡市の顔になっていくのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-20 00:29 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

丹波亀山城を歩く。 その1 <大本・天恩郷>

かつて口丹波にある亀岡盆地の中心にあった亀山城は、織田信長の命を受けて丹波攻略中だった明智光秀が、その拠点とすべく築城した城です。

本能寺の変の際、光秀はこの亀山城から本能寺に向かいました。


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写真はかつての外堀跡

現在は南郷池と呼ばれ、池の畔は公園整備されています。


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池の東側に架かる橋には、「保津門跡」と書かれた駒札が立てられていました。


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そこから南に進むと、説明書きの駒札が立てられています。

「大本・天恩郷(丹波・亀山城)」と書かれています。

亀山城は、明治維新以降、廃城処分となり、所有者が転々としていましたが、大正8年(1919年)に新興宗教団体「大本」が購入し、荒廃していた石垣を積み直すなど整備し、以後、宗教施設として現在に至ります。

説明書きの末尾に、「受付申込みで城址の一部が見学できます」とあります。

行ってみましょう。


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施設外周の石垣は、城跡のものを積み直したものか、あるいは後世のものか・・・。

新しいものではなさそうですが・・・。


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ここが宗教施設の正門

なんとなく入りづらい。


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誰も歩いていないし・・・。


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施設内にある案内板です。

城跡の説明書きはありませんが、中央上部に石垣の絵があります。

あそこが城跡の遺構かもしれません。

行ってみましょう。


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施設中央にある万祥池

かつての内堀跡だそうです。


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この辺の石垣も、城跡を感じさせてくれます。


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戦前、ここを拠点として急激に拡大した大本に脅威に感じた大日本帝国政府は、徹底的な弾圧を加えはじめ、昭和11年(1936年)に施設内の神殿などを1500発のダイナマイトで徹底的に破壊したそうで、この一連の弾圧事件は、「大本事件」として昭和史に刻まれています。

このとき、亀山城の遺構の多くも破壊されてしまったそうで、現在残る石垣のほとんどは、戦後、信徒の方々の手によって積み直されたものだそうです。


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この橋を渡ったところにある万祥殿で、城跡見学の申込みができます。

城跡は聖域にあるということで、見学前に大麻(おおぬさ)お祓いをしていただき、その後、立ち入りが許可されます。


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万祥殿横の小さな門をくぐって聖域に入ります。


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いきなり石垣が目に入ります。

きれいに積み直されています。


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その道中に、高さ20mを超える大きなイチョウの木があります。


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説明板によると、かつてここに光秀の手植えと伝えられたイチョウの木があり、その木は江戸時代中期の台風で倒れ、若木を植え替えたものが現在の大イチョウだそうです。

光秀手植えというのは眉唾ものとしても、ここにそれだけの樹齢の大樹があったというのは本当の話でしょう。


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そして、眼前にみごとな高石垣が現れます。


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どうやら、天守台石垣のようです。


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しかし、残念ながら天守台の上は、宗教上の理由で立入禁止となっていました。


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積み直しとはいえ、みごとな復元です。

出隅はちゃんと算木積み、扇の勾配になっています。


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明智光秀がここ亀山城を築城したのは、天正5年(1577年)から同6年(1578年)頃と考えられています。

しかし、正確な史料に乏しく、光秀時代の城の全容はわかっていません。

天正8年(1580年)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2年後に本能寺の変が起こり、その後の山崎の戦いで落命します。


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その後は天下を統一した豊臣秀吉の支配下となり、羽柴秀俊(小早川秀秋)によって修築され、秀吉の死後は徳川家康の譜代大名である岡部長盛が入城。

天下普請によって城は大改修され、近世城郭として生まれ変わりました。

このときの築城にあたっては、城づくりの名手といして名高い藤堂高虎縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されました。

この天守台石垣も、そのときのものと思われます。


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天守台の反対側にやってきましたが、やはり立入禁止でした。

まあ、当然でしょうが。


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光秀の時代の遺構は残っていませんが、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、ここから明智光秀率いる軍勢が本能寺に向けて出陣したのは間違いありません。

「敵は本能寺にあり

は、あるいはこの城内で発せられたかもしれませんね。

歴史の大きなターニングポイントの舞台となった亀山城です。

「その2」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-18 23:05 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

近江宇佐山城跡攻城記。 その3 <三ノ郭~宇佐八幡宮>

「その2」のつづきです。

宇佐山城主郭の北側にある三ノ郭に向かいます。


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上の写真は主郭北側の階段。

前稿で紹介したとおり、主郭にはNHKの中継設備が建てられているため、このような階段が設置されています。


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階段を降りたところが、主郭と三ノ郭のあいだにある大堀切です。

おそらく往時はもっと深いだったのでしょう。


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三ノ郭虎口です。


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三ノ郭です。


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三ノ郭北東から、琵琶湖畔が一望できます。

晴れていたらきれいな眺望だったと思うのですが、この日はあいにくの曇り空。


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「近江富士」と呼ばれる三上山です。


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安土城のあった安土山も見えます。

その向こうには、観音寺城のあった繖山も。


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元亀元年(1570年)9月25日、摂津から駆けつけた織田信長がここ宇佐山城に入ると、浅井・朝倉連合軍は、比叡山に逃げ込みます。

そこから同年12月までの間、両軍睨み合いとなりますが、その間、信長は比叡山延暦寺に対して、それまでに取り上げた寺領を返還するから、せめて中立を保つよう要請しますが、延暦寺はこれを受け入れませんでした。

『信長公記』では、これが、翌年の「比叡山焼き討ち」の原因となったと説いています。

結局、同年12月に朝廷の仲介を受けて、織田軍と浅井・朝倉連合軍は和睦します。

和ぼくに際して、宇佐山城は一時的に破却されたようですが、元亀2年(1571年)の夏までには修復され、明智光秀が城代として入りました。

そして同年9月、あの「比叡山焼き討ち」が実行されます。

その際、ここ宇佐山城が信長の本陣になったとの説がありますが、確かな史料は残っていません。

でも、前年の「志賀の陣」からの流れを考えると、ここが比叡山焼き討ちの拠点となったと考えていいんじゃないでしょうか。


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湖畔に見えるのようなところが、のちに明智光秀が築いた坂本城跡公園です。

比叡山焼き討ちで武勲をあげた光秀が、信長から坂本の地を与えられ、翌年の元亀3年(1572年)に坂本城を築いて移ったため、ここ宇佐山城は廃城となり、歴史的役割を終えました。


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比叡山方面は、現在は樹木が遮ってよく見えません。


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さて、城跡はひと通り制覇したので、弁当食って下山します。


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登山口の宇佐八幡宮まで降りてきました。

せっかくなので、お参りして帰ります。


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石段を上がったところが境内です。


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舞殿です。


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本殿です。


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ここを訪れたのは令和元年(2019年)11月3日。

天皇陛下御即位を祝う幟と垂れ幕が掲げられていました。


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由緒書の石碑には、「織田信長が山頂に宇佐山城を築いた戦乱のなか、落城の戦火により社殿は悉く焼失し荘厳な往時の様子は今に語り継がれている。」とあります。

元亀元年(1570年)の「志賀の陣」のことでしょうね。


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本殿の後ろに、何かあります。


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何かの礎石跡のようです。


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説明書によると、この礎石は創建当時のものだそうで、礎石の表面が焼けただれているのは、宇佐山城の戦火に巻き込まれたときのものと考えられているそうです。


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宇佐山城が歴史の記録に登場するのは、元亀元年(1570年)からわずか2年間ほどしかありませんが、その歴史的役割は非常に大きなものだったといえるでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2020-03-14 14:11 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

明智左馬之介の湖水渡り伝説

明智光秀の重臣で娘婿の明智左馬助秀満にまつわる伝説で、「明智左馬助の湖水渡り」という有名な話があります。

光秀の死後、左馬助は騎馬で琵琶湖の湖上を駆け、大津から坂本城に入ったというイリュージョンのような伝説で、現在、その入水地と伝わる場所には、「明智左之馬助湖水渡」と刻まれた石碑が建てられています。


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本能寺の変のときには光秀とともに織田信長を襲撃した左馬助でしたが、山崎の戦いのときは安土城の留守を任されていました。

光秀の死を安土城で知った左馬助は、安土城を捨てて坂本城へ向かいます。

その途中、瀬田唐橋を守る織田方の武将・山岡氏に進路を阻まれますが、それを振り切って、大津へ向かいました。

ところが大津まで辿り着いたとき、羽柴軍の先鋒、堀秀政と出くわしてしまいます。


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左馬助は果敢に立ち向かいますが、圧倒的な兵力の差は如何ともし難く、多くの手勢を失ってしまいす。

窮地に立たされた左馬助は、なんと、ここ打出浜から馬に騎乗したまま琵琶湖に乗り入れました。

そして湖水を騎馬で渡って対岸の柳が崎(あるいは唐崎)に上陸し、無地、坂本城に入ったといいます。

これが、世にいう明智左馬助の湖水渡り伝説で、武者絵の題材にもなり、「武智左馬介湖水渉」などという絵も人気を呼び、広く人々に語り継がれてきました。


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『川角太閤記』には、次のようにあります。


弥平次、東より入り口の町はづれへ、馬の頭を引き向け、海へさつと馬を乗りこみ、うきぬ沈みにおよがせける。久太郎殿方には、いまや沈むゝと、面白げに見物してありけるところに、弥平次、馬の鞍坪をはなれ、さんず乗りさがり、鞍の後輪に手縄を取り付け、志賀の唐崎の一ツ松をめてへなし、弓手へ近く馬の頭を引きむけ、はや陸も近く見えしかば、久太郎殿下知には、はやゝ見物どころにてはなきそや。海道筋へまわし、急ぎ乗り着けよ。余すな、もらすなと、下知して、追ひ掛けさせ給ふところに、弥平次なんなく、はまへ乗り上げ、前へとんでおり、かい道を見渡せば、馬上の者、四、五十騎にて、我れ先にと駒をはやむるを見及びければ、敵の間八町計りと見及び候事。


「弥平次」とは左馬助のこと、「久太郎」とは堀秀政のことです。

最初は湖水に乗り入れた左馬助を面白げに見物していた秀政でしたが、渡りきりそうな左馬助を見て、あせって兵を向かわせますが、なんなく逃げ切られてしまったという様子が描かれています。


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こちらはその説明板。

ここでは「左馬之助光春」と書かれていますが、「光春」という名は史料としては評価の低い『明智軍記』だけに見られる名乗りだそうで、根拠に乏しいようです。

他にも、光遠、秀俊、光俊、光昌など、いろんな名前の説があります。


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石碑は琵琶湖文化館の側に建てられています。

お城のような建物ですが、城ではありません。


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その近くから対岸の柳が崎が見えます。

この日はあいにくの天気で残念でしたが、ここから、向こう岸に渡ったと。


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北には唐崎、そして坂本城跡も見えます。


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ここが、左馬助が上陸したと伝わる柳が崎です。

行ってみましょう。


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現在、柳が崎は柳が崎湖畔公園となっているのですが、その近くの駐車場内に、左馬助が湖水渡りをした馬を繋いだと伝わる松があります。


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これが、その駒止の松

どう見ても、それほどの樹齢だとは思えないので、何代目かなんでしょう。

正確には、駒止の松があった場所でしょうね。


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昭和29年(1954年)に建てられたこちらの石碑には「明智左馬之介光俊駒止松」と刻まれています。

ここでは「光俊」の諱が使われていますね。

ややこしいなあ。


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こちらの石碑は昭和8年(1933年)に建てられたものだそうです。


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こちらは、その説明板です。

絵は、明治の浮世絵師・小林清親のものだそうです。


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今度は柳が崎湖畔公園から大津側を望みます。


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ざっと2kmほどはありそうです。

この距離を馬に泳がせて渡ったというのは、ちょっと考えられないでしょうね。

おそらく、琵琶湖の浅瀬を走ったか、あるいは湖水の間の道を走り抜けたというのが真相ではないでしょうか。


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『川角太閤記』によると、坂本城に入った左馬助はしばらく防戦を続けますが、城が完全に包囲されたことを知ると、明智家に伝わる重宝が城とともに灰燼に帰してしまうのを惜しみ、城を包囲していた敵方の堀直政に託したといいます。

そして、天正10年6月14日(1582年7月4日)夜、光秀の妻子を刺し殺し、つづいて自分の妻も刺殺し、腹を十字にかっさばいて、火薬に火を付けて城もろとも自害したといいます。

ここに、明智一族は滅亡しました。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-06 01:23 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)  

明智光秀も枯死を惜しんだ「唐崎の松」。

坂本城跡公園から1.5kmほど南下したとこにある唐崎神社に、「唐崎の松」と呼ばれる老松があります。


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唐崎は古くから景勝の地として数々の古歌などに取り上げられ、また、日吉大社西本宮にかかわる信仰や祭礼の場としても知られてきました。

加えて「近江八景」のひとつ「唐崎の夜雨」の老松との景観は、天下の名勝としてしばしば安藤広重らの浮世絵などにも取り上げられてきました。


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この日はあいにくの曇り空で、その美しい景観を望むことはできませんでした。


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こちらが、その「唐崎の松」です。

この老松は三代目の松で、大正10年(1921年)に枯死した二代目の松に代わって、その実生木を近くの駒繋ぎ場から移植したもので、樹齢は150年から200年と推定されているそうです。


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ただ、このような貼り紙が・・・。


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三代目もそろそろ終焉を向かえつつあるようです。


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伝承によると、初代の松は舒明天皇7年(635年)といわれます。

そのころ、このあたりに住んでいた琴御館宇志丸宿禰「からさき」と名付けたとされ、ここ唐崎神社の祭神で琴御館宇志丸宿禰の妻、女別當命初代「唐崎の松」を植えたとされます。

これが事実かどうかはわかりませんが、万葉集には、

「ささなみの しがのからさき さきくあれど おおみやひとの ふねまちかねつ」

という柿本人麿の歌があり、また、古今集には、

「唐崎の 松は扇の要にて 漕ぎゆく船は 墨絵なりけり」

という紀貫之の歌があることを思えば、8世紀から9世紀には、すでに初代の松が存在したことは確かなようですね。


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その初代「唐崎の松」は、天正9年(1581年)に大風によって枯れてしまったといいます。

その頃、坂本城を居城としていた明智光秀は、老松の枯死を惜しんだ歌を詠んだとされます。


「われならで誰かは植ゑむ、一つ松、心して吹け、志賀のうら風」


司馬遼太郎の小説『国盗り物語』では、坂本城を築いたときすでに唐崎の松は枯死してしまっていて、それを惜しんだ光秀は、もう一度この地に松を植えてやろうと思い立ち、琵琶湖畔中で相応の松を探索し、敵陣の浅井領から一本の松の木を持ってきて植えたというエピソードが描かれています。

以下、引用。


(植えるべきだ)とこの復古趣味の豊かすぎる男は、この松を継植することに激しい情熱を感じた。が、植える、といっても往年のそれほどの松がどこにあるだろう。

光秀はこの点、奇人といってよかった。この松さがしのために、この多忙のなかで人数を割き、湖畔や山林のなかを踏みあるかせ、遠くは比良の山頂にのぼらせたり、まだ敵地である北近江の湖岸にまで遠出させた。

ついに彼等は北方の余呉の湖の近くで姿のいい松をみつけ、近在の農夫に化けて根を掘りはじめたまではよかったが、作業中、小谷城の浅井軍に発見され、襲撃を受けてしまった。

松掘り連中は鍬をすてて船に乗り、湖心に逃げたが、三人が銃弾のために負傷した。

が、光秀はあきらめず、付近の横山城の陣地司令官である木下藤吉郎に使いをやり、松掘り作業の援護を乞うた。現場へ兵を出してくれ、というのである。

「・・・なんだと?」

藤吉郎は事情をきいてあきれた。いま織田軍は西に東に蜂起した敵のために各地で悪戦苦闘をしているというのに、松堀りのために兵を出してくれとはどういう神経であろう。

 が、藤吉郎は本来、気軽な男だ。

 同僚の頼みにはいつも軽々と引き受けてきた男だし、それに洒落っ気もある。

 「百人ばかり、出してやろう」

 と約束し、日をうちあわせた。

(中略)

このことが、岐阜の信長に聞こえぬはずはない。前線におけるもっとも有能な二人の司令官が、松一本を敵地から盗む競技にあそび呆けているように思った。

「馬鹿めっ」

と叫び、その叱咤の声を伝えさせるために、それぞれの城へ使者を急派した。

が、その程度にしか信長は怒らなかったのは、この男の奇人好みのせいであろう。

(光秀とは妙な男だ)

と、一面では変に感心したのである。


どこまでが伝承で、どこからが司馬氏の創作かはわかりませんが、光秀が坂本城内に唐崎の松に代わる老松を植えたという伝承はあるようです。

生真面目な印象の光秀ですが、こんなお茶目な一面もあったのかもしれません。

もっとも、唐崎神社の記録によると、初代の松が枯死したのは天正9年(1581年)とありますから、本能寺の変の1年前で、北近江の浅井氏ももう滅んでいます。

社伝が正しければ、司馬氏の話は時系列的に辻褄があいませんね。

いずれにせよ、もし坂本城内に松を植えた話が本当だとしても、坂本城の落城とともに戦火に消えたでしょうが。


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二代目の松は、この地が豊臣家の直轄地となり、代官としてやってきた新庄直忠が天正19年(1591年)に植えたといわれています。

そのとき直忠は、

「おのづから 千代も経ぬべし辛崎の まつにひかる るみそぎなりせば」

と、自分の手で植えた松の長寿を願う歌を詠んだそうです。


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こちらには、松尾芭蕉の歌碑があります。

「唐崎の 松は花より朧(おぼろ)にて」


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芭蕉の歌も、二代目の松を見てですね。


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「唐崎の松」の向かいには、「名勝 近江八景 唐崎の夜雨」と刻まれた石碑があります。

が、あいにく小雨がぱらつく曇天で、美しい景観とはいえませんでした。

残念。


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三代目「唐崎の松」も、その樹勢に翳りが見えはじめているようですが、1400年近くこの地に受け継がれてきた松ですから、やがて四代目、五代目に引き継がれながら、未来永劫この地にあり続けることでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2020-03-05 00:10 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

明智光秀と一族の菩提寺・西教寺。

先日より紹介してきた近江坂本城跡から北西約3kmの比叡山南東山麓に、西教寺という大きな寺院があります。

ここは、明智光秀とその一族の菩提寺です。


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西教寺縁起によると、創建は聖徳太子で天智天皇8年(669年)に西教寺の号を下賜されたと伝わります。

しかし、これは伝承に過ぎず、はっきりしているのは、室町時代、中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である僧・真盛が入寺してから栄えるようになったようです。


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現在でも全国に450以上の末寺を持つ天台真盛宗の総本山です。


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元亀2年9月12日(1571年9月30日)、織田信長比叡山を焼き討ちにしますが、その際、ここ西教寺も焼失しました。

その後、比叡山焼き討ちの中心実行部隊として活躍した明智光秀が、近江国滋賀郡5万石を与えられて坂本城を築城します。

その目的は、比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得だったといいますが、ここ西教寺は、特に坂本城と近く、寺の復興にも光秀の援助があったといいます。


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光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が、いまも寺に現存しているそうです。


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本堂です。

本堂は焼失の3年後に復興したそうで、焼失した旧本尊の代わりに、甲賀郡の浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えて本尊としたそうです。

この阿弥陀如来像は現存し重要文化財に指定されていますが、この像がもとあった浄福寺については詳細不明だそうです。


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現存する本堂はその後改築されたもので、江戸時代中期の元文4年(1739年)の上棟だそうです。


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そして、その斜め向かいに、明智光秀とその一族の墓と供養塔があります。


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その説明板です。


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供花台には、明智家の桔梗の紋が。


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隅にある小さな墓石は、明智光秀の正妻・煕子の墓だそうです。

ただ、「煕子」という名前は、三浦綾子の小説『細川ガラシャ夫人』で広く知られるようになったもので、それ以前に知られていた光秀の室の名前は「お牧の方」でした。

司馬遼太郎『国盗り物語』では「お槙」でしたね。

実際のところ、確かな史料でその名前を確認することはできないようです。


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また、その死についても、天正4年(1576年)に病没したという説もあれば、天正10年(1582年)の坂本城落城の際に落命したという説もあり、諸説あって定かではありません。

また、生年も定かではなく、子についても細川ガラシャを含む3男4女をもうけたとされますが、それぞれ母は別であるという異説もあり、判然としません。

つまり、ほとんど謎の女性といっていいでしょう。

もっとも、この時代の女性については、織田信長の正室と伝わる濃姫もそうですが、ほどんど史料になるような記録が残っておらず、みんな謎の女なんですよね。


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月さびよ 明智が妻の はなしせむ


松尾芭蕉が光秀の妻の詠んだ歌です。

光秀が越前にいたころ、朝倉義景に仕えるも生活は貧しく、そんな中で連歌会の催しを光秀が担当することになったもののお金がなく、酒宴の用意に苦労する光秀をみかねた妻は、自分の黒髪を売って費用を工面したという伝承があります。

この逸話を越前丸岡に訪れた芭蕉が聞き、この歌を詠んだといわれています。


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こちらは、濃州妻木(明智)一族供養塔


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説明板によると、山崎の戦いから坂本城の攻防の戦乱のなかで、妻木城主・妻木廣忠の兄弟ら一族が討死し、一族郎党も多数討死しました。

天正10年6月14日(1582年7月4日)の坂本城落城後、明智一族に殉死した人々をここ西教寺に埋葬して供養したあと、6月18日、光秀の妻・煕子の墓前で廣忠は自刃したと伝わるそうです。

廣忠は煕子の実父だったといいます(諸説あり)。


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こちらは、光秀の辞世の碑です。


順逆無二門

大道徹心源

五十五年夢

覚来帰一元


読み下すと、

順逆二門に無し大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す

となります。

吉川英治の訳はこうです。


たとえ信長は討つとも、順逆に問われるいわれはない。

彼も我もひとしき武門。

武門の上に仰ぎかしこむはただ一方のほかあろうや。

その大道は我が心源にあること。知るものはやがて知ろう。

とはいえ五十五年の夢、醒むれば我も世俗の毀誉褒貶に洩れるものではなかった。

しかしその毀誉褒貶をなす者もまた一元に帰せざるを得まい。


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この漢詩は江戸時代の元禄6年(1693年)に書かれた『明智軍記』によるもので、山崎の戦いに敗れた光秀が、この詩を従士の溝尾庄兵衛に託して自刃したと伝えられているそうです。

光秀の死後100年以上のちの軍記物の出典ですから、光秀の辞世というのは眉唾ものですが。


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他にも、西教寺には戦国武将に関係した人の墓が多数ありました。

それはまた、別の機会に。


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西教寺墓園から東側を望みます。

琵琶湖の南湖が一望できます。


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南東に目をやると、坂本城跡が見えます。


明智光秀と一族の菩提寺・西教寺。_e0158128_19405272.jpg


光秀もこうしてここから自身の城を眺めたかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-28 22:23 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

近江坂本城跡を歩く。 その4 <明智塚>

「その3」のつづきです。

坂本城二ノ丸の一角に、「明智塚」と書かれた駒札を見つけました。


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明智光秀首塚は京都の粟田口に、胴塚は京都の小栗栖にそれぞれ伝わっていますが、この明智塚はどういう由来だろうと思って説明文を読んでみると・・・。


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なるほど、「光秀の脇差名刀の郷義弘並宝器物を埋めた」とあります。

それなら理解できますね。


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あとから調べてみると、この塚にはいろんな伝承が残っているようです。

駒札の説明文にあったように、坂本城落城の際、明智左馬助秀満が光秀の愛刀「郷義弘」の脇差をここに埋めた、とか、坂本城築城の際、光秀が本家の美濃国守護土岐氏から伝領した宝刀を城の主柱の下に埋めた跡である、とか、坂本城落城で壮絶な最期を遂げた明智左馬助秀満の首を埋めた、とか、諸説あるようです。


近江坂本城跡を歩く。 その4 <明智塚>_e0158128_18585170.jpg


左馬助は安土城で光秀の死を知ると、急いで坂本城に向けて出陣しますが、大津で堀秀政軍に行く手を阻まれると、左馬助は大胆にも、打出浜から馬に騎乗したまま琵琶湖に入り、唐崎(あるいは柳が崎)に上陸して坂本城に入ったといいます。

有名な「明智左馬介の湖水渡り」の逸話ですね。

その後、左馬助はしばらく防戦を続けますが、城が完全に包囲されたことを知ると、天正10年6月14日(1582年7月4日)夜、光秀の妻子を刺し殺し、つづいて自分の妻も刺殺し、腹を十字にかっさばいて、火薬に火を付けて城もろとも自害したといいます(『川角太閤記』)。


近江坂本城跡を歩く。 その4 <明智塚>_e0158128_18585574.jpg


この塚は、地元では「さわると祟られる」との言い伝えがあり、壊されず地元の人の手によって丁重に守られてきました。

ここに左馬助が眠っているかどうかはわかりませんが、坂本城落城時の明智方の誰かが眠っているというのは、十分に考えられることでしょう。

夏草や 兵どもが 夢の跡。

合掌。




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by sakanoueno-kumo | 2020-02-27 19:48 | 滋賀の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)