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いだてん~東京オリムピック噺~ 第14話「新世界」 ~明治の終焉~

 第5回ストックホルムオリンピックのマラソンが行われた日から半月後の明治45年(1912年)7月30日、明治天皇崩御し、元号が「大正」に改められ、同日は大正元年7月30日となりました。先ごろ、平成の次の元号「令和」が発表されましたが、「令和」の出典は万葉集からだそうで、日本の国書からの出典は歴史上初のこととして話題になっていましたが、「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)からだそうで、過去4回、候補に上がりながら採用されず、5回目での採用だったそうです。当時はネットSNSもありませんから、巷でむやみに予想されることもなく、学者さんたちも決めやすかったでしょうね。


 「激動の昭和」などとよく言われますが、明治期もまた、昭和に勝るとも劣らない激動の時代だったといえるでしょう。戊辰戦争の真っ只中に改元され、薩長閥を中心とした新政府が発足したものの、明治10年(1677年)の西南戦争までは各地で内乱が続き、その後は「富国強兵」をスローガンに掲げ、殖産興業政策とともに産業が発展し、明治22年(1889年)には憲法議会が設置され、曲がりなりにも近代国家の仲間入りを果たしました。


また、軍事面においても、明治27年(1894年)から翌年にかけての日清戦争、明治37年(1904年)から翌年にかけての日露戦争に勝利したことで、明治の終わりには世界の強国に名を連ねるようになりました。当時、八大強国と言われたのは、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア=ハンガリー、ロシア、そして日本でした。幕末、ペリー艦隊黒船来航で大騒ぎになった日本は、わずか半世紀余りで世界有数の軍事大国となったわけです。昭和の敗戦からわずか40年ほどで世界一の経済大国となった昭和の時代と似てますよね。本気を出したときの日本の力はすごいんです。


 もっとも、日露戦争に勝利したあとの日本は、自国の国力を過大評価し、盲信し、やがて昭和の敗戦を迎えるまで軍国主義が国を支配し、国を滅ぼすに至ります。一方で無類の経済発展を遂げた戦後の日本も、昭和の終わりにバブル経済に浮かれ、やがて崩壊し、失われた20年の平成期に至ります。やはり、急激な発展というのは、地に足がついておらず、なにか歪なものを生み出すのかもしれません。


 明治天皇は、日露戦争の前ぐらいから糖尿病を患っておられたようでした。当時、糖尿病は原因がわかっておらず、正しい治療法が確立されていませんでした。明治天皇はたいへんな酒豪だったそうですが、おそらく、糖尿病を患われてからもお飲みになっていたのでしょう。明治45年になると病状はどんどん悪化し、7月19日に倒れられ、そのまま昏睡状態となり、7月30日、最後は心臓麻痺で崩御しました。宝算61歳(満59歳)。


e0158128_22463989.jpg 9月13日に大喪の礼が執り行われましたが、その夜、陸軍大将乃木希典が奥さんの静子さんとともに自害した話はあまりにも有名ですね。いわゆる「殉死」というやつですが、このとき、当然のことながら、乃木大将夫妻の行いを讃える人批判する人の両方があらわれ、大いに議論されたようです。その死は文学作品の中でも扱われ、日露戦争後に乃木は学習院の校長を務めていましたが、その乃木の教育方針に批判的だった白樺派志賀直哉芥川龍之介などの一部の新世代の若者たちは、乃木の死を「前近代的行為」として冷笑的批判的な態度をとりました。これに対し、夏目漱石は小説『こゝろ』森鴎外は小説『興津弥五右衛門の遺書』をそれぞれ書き、白樺派などによってぶつけられるであろう乃木に対する非難や嘲笑を抑えようとしました。当時は当時で、幕末生まれと明治生まれのジェネレーションギャップがあったようですね。


 ちなみに、アイドルグループ「乃木坂46」の乃木坂は、乃木大将の殉死を悼んでつけられたネーミングなんですが、そんなこと、彼女たちのファンは知らないだろうなぁ。


 と、気づけばドラマのストーリーにほとんど触れずにきちゃいました。とにかく、オリンピックを終えた金栗四三たちが帰国したときの日本は、そんな状態だったわけです。彼らにしてみれば、明治に旅立って帰ってきたら大正になっていたのですから、さぞ驚いたことでしょう。もっとも、オリンピックで結果を残せなかった彼らにしてみれば、そんなドサクサに紛れて帰ってこられて良かったのかもしれませんが。



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by sakanoueno-kumo | 2019-04-15 22:49 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その162 「淀城跡」

京都競馬場から500mほど西に、淀城跡が残されています。

淀城は、鳥羽・伏見の戦いの勝敗を決定づけた城です。


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淀城は、廃城となった伏見城に代わって、元和9年(1623年)のに江戸幕府2代将軍徳川秀忠松平定綱に築城を命じ、寛永2年(1625年)に完成した平城です。


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淀は「与渡津」(淀の港の意)と呼ばれ、桂川、宇治川、木津川という3つの川の合流点として古くから水運の要衝で、また、河内国、摂津国方面や大和国方面から山城国、京洛に入る交通の要衝でもあったため、この地に城が築かれたのでしょう。


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淀城が築かれた場所は、その桂川、宇治川、木津川に挟まれた川中島でした。

説明板に描かれた縄張り図から想像すれば、水に浮かぶ要塞といった様相の城だったんじゃないでしょうか。


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以後、淀城の城主は初代・松平家のあと、永井家、石川家、戸田家、松平家、稲葉家と移り変わりますが、いずれも譜代大名ばかりで、京都を守護する役目とともに、西国諸藩に睨みを利かせる役目も担っていました。


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天守台跡です。


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石垣は「打込み接ぎ」ですね。

寛永2年(1625年)完成ということですが、まだ、ここでは「切込み接ぎ」の工法は用いられなかったようです。


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文献によると、築城当時、この上には二条城の旧天守が移築されたそうですが、天守台に比べて旧天守が小ぶりだったため、天守台の四隅に小さな櫓を建ててそれらを多聞櫓で繋ぎ、その中央に天守を乗せるという独特の構造になっていたといいます。


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天守台の中央には入れないように柵が設けられ、石垣の上にも上れないようになっていました。

遺構を守るため、やむを得ないのでしょう。


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南面石垣塀の上から内堀を眺めます。

天守台の石垣のカーブが見事ですね。


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天守台前から見下ろした城跡公園です。


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慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで劣勢に立った旧幕府軍は、1月5日、納所・淀方面まで後退して新政府軍を迎え討ちます。

しかし、ここでも旧幕府軍は苦戦を強いられ、「その155」で紹介した千両松の戦いで敗れたあと、ここ淀城に逃げ込んで体勢を立て直そうと考えます。

ところが、淀藩は固く城門を閉ざし、入城を拒否します。

上述したとおり淀城は幕府譜代大名の城であり、当時の藩主だった稲葉正邦は幕府の要職である老中を務めていました。

当然、淀藩は旧幕府軍の味方だと思っていたでしょうから、この入城拒否は思いも寄らない衝撃だったでしょう。


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実は、このとき、藩主の稲葉正邦は江戸にいて不在で、入城拒否を決めたのは、城代家老の田辺権太夫でした。

権太夫はかねてより、時代の趨勢を見据えて幕府の末期を悟っており、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐の際にも出兵の反対を強く主張した家老でした。

このときも権太夫は戦況諸藩の動向を冷静に観察し、また、前日に新政府軍が錦の御旗を掲げたこともあり、新政府軍に恭順方針を決めました。

つまり、譜代大名である藩主の許可なしで一藩あげて徳川家に反旗を翻したわけです。

もはや幕府のみならず、封建制自体が末期症状だったことがわかりますね。


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城跡公園内には、「田邊治之助君記念碑」と刻まれた石碑があります。

田辺治之助は入城拒否を決めた田辺権太夫の弟で、物頭役だった治之助は大手門の守衛を指揮していましたが、その警衛の隙を突かれて旧幕府兵の侵入を許してしまい、その責任を取って自決しました。

この碑は、戊辰戦争勃発70年にあたる昭和13年(1938年)に建てられたもので、揮毫は、最後の藩主である稲葉正邦から2代下った稲葉正凱です(正凱の父が養子だったため孫ではありません)。


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また、冒頭でも紹介した、この「淀城址」と刻まれた石碑の揮毫も稲葉正凱です。


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城跡公園内の北西の隅櫓跡の石垣です。


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その上には、「明治天皇御駐蹕之址」と刻まれた石碑があります。


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側の記載によると、慶応4年(1868年)3月の明治天皇大坂行幸の際、ここ淀城にて一泊されたそうで、昭和3年(1928年)の昭和天皇御即位の大礼に際して、史実の記録と後世への伝達のため建立したと記されています。


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せっかくなので、内堀の外も歩いてみました。


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内堀外側南東から見た天守台です。


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城入城を断念した旧幕府軍は、淀小橋淀大橋を焼き落とし、また、城下町の民家にも火を放って新政府軍の進路を絶ち、大坂城に逃げ帰りました。

将軍・徳川慶喜が江戸城にドロンしたのは、その翌日の夜のことです。

ここ淀城の入城拒否が、鳥羽・伏見の戦いの勝敗を決定づけたといっても過言ではないでしょう。




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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-11-15 04:45 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

西郷どん 第41話「新しき国へ」その2 ~西郷留守内閣~

 昨日の続きです。

 岩倉使節団の帰国まで極力新しい改正には手を付けないとの約定を交わして発足した留守政府でしたが、実際問題、廃藩置県施行後の大変革期に、何もせずに待つというわけにはいきませんでした。使節団の洋行が予定より大幅に長引いたということもありましたが、結局、使節団が留守にしていた2年弱のあいだに、近代化に向けての改革が相次いで施行されることになります。


e0158128_15131310.jpg 留守内閣が手を付けた主な改革だけを見ても、司法省所属の府県裁判所の設置(明治4年12月)、田畑永代売買の解禁(明治5年2月)、地租改正の布告(明治5年7月)、学制の頒布(明治5年8月)、新橋~横浜間の鉄道の開業(明治5年9月)、国立銀行条例の公布(明治5年11月)、太陽暦の採用(明治5年12月)、徴兵令の発布(明治6年1月)、キリスト教の解禁(明治6年2月)等々。どれもこれも、現代にも通じる大改革ですね。これらの政策に、留守政府の首相である西郷隆盛がどれほど深く関わったかについては諸説ありますが(西郷の果たした役割を高く評価する説と、西郷の関わりを軽視する説が拮抗している)、この西郷内閣が日本の近代化に大きな役割を果たしたというのは、これらの実績を見ても間違いないところでしょう。


 また、西郷は、岩倉具視大久保利通が進めていた宮中改革の路線を引き継ぎ、天皇質実剛健な君主に育てるべく、その教育に力を入れるとともに、そのための宮中の改革に熱心に取り組みました。まず、少年天皇を取り囲んでいた女官たちから天皇を引き離すために、宮内大丞に同郷の吉井友実村田新八侍従高島鞆之助山岡鉄舟という、旧武士のなかでも剛毅かつ清廉な人物を据えました。そして乗馬の練習を本格的に始めるようになり、また、後宮で1日のほとんどを過ごす生活を改め、定期的の諸省への視察も行い、一ヶ月に三度、門前に各省の長官らを呼び、御政治の得失を討論するまでになります。若き天皇は西郷を慕い、西郷との面会を楽しみにしていたといいます。


 e0158128_17024408.jpgそんななか、西郷は天皇の西国巡幸を発案します。これは、若き天皇に広く日本を見聞していただくという目的とともに、全国の不平士族の廃藩への不満を解消するためという思惑もありました。その中でも、特に不満を顕にしていたのが、西郷の故郷である鹿児島士族と、かつての国父・島津久光でした。ドラマでも描かれていましたが、廃藩置県の報を受けた久光が、屋敷の庭で花火をあげさせて、西郷や大久保に対する怒りを爆発させたというエピソードはあまりにも有名ですね。そんな久光の怒りを鎮めるために、政府は再三に渡って久光を中央政府に引き入れるべく上京を求めていましたが、久光は病気を理由に頑なにこれを拒み続けていました。このときの天皇の西国巡幸は、そんな久光の元に天皇が直々に足を運び、怒りを鎮めて上京を促すという狙いが含まれていました。


e0158128_11283315.jpg 明治5年5月23日(1872年6月28日)に東京を出発した天皇行幸の一行は、伊勢神宮京都、下関、長崎などを経て、6月22日に鹿児島に到着します。この行幸には、西郷も同行しました。久光は天皇の行幸が決まるとすぐに、突貫工事で道路を広げるなど天皇をお迎えするための準備を整えますが、どういうわけか、天皇が鹿児島入りしてもすぐには天皇に拝謁しようとはせず、天皇が鹿児島を発つ予定の25日になっても会おうとはせず、久光が天皇の行在所を訪れたのは、台風の影響で出発が伸びた6月26日のことでした。ここで久光は、新政府に対する疑問をまとめた14ヵ条の建白書を提出するとともに、西郷、大久保の2人に対する悪態をさんざんついたといいます。ドラマで、天皇に拝謁した久光が天皇の服装に困惑していましたが、実際に、久光が提出した14ヵ条の建白書のなかに、天皇の服装に対する批判も含まれていたそうです。天皇は久光に対し、「早く病を治して上京せよ」と言いますが、久光は、西郷や大久保を政府から追放しない限り自分は上京しないとまで言って、天皇を困らせたといいます。ドラマでの久光は、自分は協力しないまでも、西郷の新政府における苦悩を理解していたかのようなシーンがありましたが、実際には、まだまだこの時点での二人の関係は悪かったようです。


 天皇の行幸に随行していた西郷でしたが、その間に明るみとなったある政治事件によって、急遽一行から離れて東京に帰ります。ドラマでは少しだけ出てきた山城屋事件です。

 今回は要素が多すぎて、2回に分けてもまだ書ききれませんでした。続きは明日の稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-06 22:31 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第38話「傷だらけの維新」その2 ~東京遷都~

 昨日の続きです。本稿では、ドラマで描かれなかった京都での動きについてです。

江戸無血開城から上野戦争、北越戦争、会津戦争と東日本で軍事が繰り広げられていた同じ頃、京都に残っていた大久保利通新政府の基礎づくりに精力を注いでいました。そのひとつが、「遷都」でした。


e0158128_17375658.jpg 慶応4年1月19日(1868年2月12日)、大久保は総裁の有栖川熾仁親王と議定の三条実美に対して、天皇が大坂へ行幸して、そのまま滞在すべきであるという内容の建白書を提出します。そのなかで大久保は、遷都を機に、政治の一新を実現すべきだと強調していましたが、もうひとつの狙いは、数百年の古いしきたり慣例に凝り固まっている朝廷を改革することで、また、そのような朝廷から若き天皇を引き離し、ヨーロッパの皇帝のような、新しい天皇像を育てることを考えていました。その具体策としては、天皇が表の御座所に親臨して、万機を親裁すること、ただし、表には女官の出入りを厳禁とすること、毎日、総裁以下政府首脳にお目見えすること、侍読を置き、内外の形勢について勉強すること、馬術の訓練をすること等々。当時の天皇は女官に囲まれて後宮で1日のほとんどを過ごす生活で、大久保はそういった旧体制から天皇を遮断し、天皇の日常そのものを改革して、新国家建設のシンボルとなるような天皇親政の体制を築き上げようとしていました。これが、大久保の遷都案の骨子だったわけです。


 しかし、この時点では遷都に否定的な意見が多く、この建白書は1月23日の太政官会議否決されます。千年の都を移すわけですから、そう簡単には事は運びません。


 3月14日、天皇は五箇条の御誓文を誓い、諸臣は誓約に署名してこれに答えました。これは、新政府の成立宣言であり、その儀式でした。そして、このあと、大久保の希望であった天皇の大坂行幸が3月21日から閏4月8日までの間で実現します。


 4月9日、本願寺別院の行在所で、大久保ははじめて天皇に拝謁します。無位無官の者が公的な場で天皇に面会したのは、近世以降の歴史ではこれが最初のことだったでしょう。大久保はこの日の日記に、「身に余る仕合わせ」と記しています。


 4月11日に江戸城開城され、5月15日の上野戦争で江戸の街が新政府軍によって制圧されると、大久保、三条、木戸孝允、大村益次郎らの間で、天皇の関東行幸が計画されます。江戸の街を手に入れたとはいえ、まだまだ旧幕府の色が残る関東を、天皇の威光によって掌握しようという狙いでした。そして7月17日、「自今、江戸を称して東京とせん」という詔書が発令されます。すなわち、江戸を東の京=東京として、西京=京都と同等扱いにするという声明でした。


e0158128_17024408.jpg 8月4日、西の都の京都から東の都の東京へ天皇が行幸することが発表され、元号が「明治」改元された9月20日に京都を発ちます。3000人余り供奉を従えて東海道を進む天皇の行列は、新政府誕生のデモンストレーションとしては十分過ぎるほどの効果があったでしょう。沿道の民衆たちは、はじめて見る天皇という存在に、新しい時代の到来を感じたに違いありません。そして10月13日に天皇の行列は東京に着き、半年前まで徳川家の居城だった江戸城に入り、これを「東京城」と改めました。そして同じ日、新政府軍が東北から凱旋してきました。巧みな演出といえます。


 大久保たちの狙いは東京に政府を移すことにありましたが、この時点ではまだ遷都とはいわず、あくまで行幸でした。朝廷内には遷都反対派が多数おり、それらの目を配慮してのことでした。そして、これがあくまで行幸であることを示すかのように、天皇はこの年の暮れに一旦京都に還幸します。この還幸は、遷都反対派を安心させるための大久保の政治だったのでしょうね。そして年が明けた明治2年3月28日(1869年5月9日)、天皇は再び東京に行幸し、この日、政府は東京城を「皇城」とすると布告し、その後、天皇が京都に還幸することはありませんでした。以後、東京が日本の首都となり、現在に至ります。ただ、結局、新政府は一度も遷都を宣言することなく政府機能を東京に移しており、そのことから、現在でも、天皇は東京に行幸しているだけで、日本の都は京都だと主張する京都人の方がときどきおられますね。まあ、屁理屈といえばそうですが、間違っていないといえばそうともいえます。いつか突然、還幸されるかもしれませんよ。ただ、京都御所は観光地になっちゃってますが。



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by sakanoueno-kumo | 2018-10-16 23:53 | 西郷どん | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その60 「中山邸跡(明治天皇生誕の地)(京都御苑)」

京都御所の北東にある、「中山邸跡」にやってきました。

ここは、幕末期の公卿、権大納言・中山忠能の邸があった場所です。


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中山忠能は、はじめは攘夷派の公卿として、「その58」で紹介した「廷臣八十八卿列参事件」にも中心人物として加わっていました。

しかし、その後、議奏となってからは公武合体派に身を転じ、孝明天皇(第121代天皇)の妹・和宮降嫁にも尽力しました。

その経緯から、和宮の江戸下向に随行しますが、これが一部の過激な尊皇攘夷派志士からの憤激を生み、議奏を辞職します。


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同じ頃、息子の中山忠光は尊皇攘夷派志士と交わって公武合体派の排除を画策し、天誅組の主将として大和にて挙兵しますが、幕府軍の攻撃によって敗れると、長州へ逃れた後、暗殺されました。


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父・忠能は、その翌年に起きた禁門の変(蛤御門の変)の際には長州藩を支持し、孝明天皇の怒りを買って処罰されます。

しかし、孝明天皇崩御後に復帰し、慶応3年(1867年)には討幕の密勅明治天皇(第122代天皇)から出させることにも尽力し、その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させます。

将軍・徳川慶喜および徳川家の処置を定めた「小御所会議」では、司会も務めました。

中山忠能・忠光父子は、幕末の公卿のなかでは、珍しく気骨ある人物でした。

「安政の大獄」で処刑された福井藩士・橋本左内は、忠能のことを、「卓然たる人物で、学なけれども頗る才略あり」と評しています。


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ちなみに、忠能の娘の慶子孝明天皇(第121代天皇)の典侍となり、孝明天皇の第二皇子・祐宮を産みます。

その子が、のちに明治天皇(第122代天皇)となります。

嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、明治天皇はここ中山邸の敷地内にあった産屋で生まれました。

産屋は、慶子の出産にあたり御産所として新築したものだそうで、現在も残されているそうですが、中山邸跡の敷地内には入れないため、外から眺めるだけです。


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敷地内には、「明治天皇生誕の地」と刻まれた柱が建てられています。




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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-05-24 23:47 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その54 「京都御所」

京都御所にやって来ました。

言うまでもなく、明治維新までの天皇のお住い(内裏)ですね。

延暦13年(794年)に桓武天皇(第50代天皇)が平安京に遷都して以来、1000年以上の長きに渡って天皇のお住いは京都でしたが、当初の内裏は現在の京都御所よりも1.7km西の千本通り沿いにあったといわれ、現在の京都御所の場所は、「土御門東洞院殿」と言われた里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)のひとつで、元弘元年/元徳3年(1331年)、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇(北朝初代天皇)がここで即位されて以降、明治2年(1869年)に明治天皇(第122代天皇)が東京に移られるまでの538年間、皇居として使用されてきました。


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写真は、京都御苑南から望む京都御所です。

はるか遠くに見えるのが、御所南面の入口「建礼門」です。


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こちらがその「建礼門」です。

御所の正門にあたる入口で、天皇が臨幸の際に開かれます。

文久3年(1863年)の八月十八日の政変の際、かけつけた壬生浪士組がこの門を警護し、その功から、3日後の8月21日に「新選組」の名を賜ったとされるゆかりの門です。


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建礼門のある御所南側の塀です。

東西約250mあります。


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上の写真は、東南にある「建春門」です。

唐破風の屋根で、勅使の出入りに用いられたそうです。


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こちらは北面にある「朔平門」


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他にも皇后門、清所門、宜秋門があるのですが、ごめんなさい、写真撮ってませんでした。

現在、御所の一般公開の出入り口は清所門となっています。

御所内のすべてが公開されているわけではありませんが、順路に従って見ていきましょう。


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写真は「御車寄」です。

公卿をはじめとする高位の貴族などが、天皇との対面のために使用した玄関だそうです。


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こちらは「諸大夫の間」

参内した公家や将軍家の使者の控室で、身分に応じて部屋が決まっていて、写真の右側にいくほど身分が高く、「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と、ふすまの絵にちなんで呼ばれています。


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こちらは「新車寄」。

大正4年(1915年)、大正天皇(第123代天皇)の即位礼が行われた際、馬車による行幸に対応する玄関として新設されたものだそうです。


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こちらは、御所南面の建礼門を潜ってすぐの場所にある「承明門」

紫宸殿正門にあたります。


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承明門の向こうに紫宸殿が見えます。


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そして、こちらがその「紫宸殿」

京都御所において最も格式の高い正殿であり、即位礼などの重要な儀式がここで行われたそうです。

建物は安政2年(1855年)の造営だそうですが、伝統的な儀式が行われるように平安時代の建築様式で建てられています。

慶応4年(1868年)には、明治天皇がここで「五箇条の御誓文」を示されたそうです。


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こちらは紫宸殿の北西にある「清涼殿」

かつては天皇の住居だったそうですが、天正18年(1590年)に御常御殿に住居が移ってからは、主に儀式の際に使用されました。


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こちらは「小御所」

江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用された場所で、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた「王政復古の大号令」の際、将軍・徳川慶喜および徳川家の処置を定めた「小御所会議」が行われた場所です。

明治天皇を「幼い」と発言した土佐の山内容堂に対し、岩倉具視「無礼者!」と一括したエピソードは有名ですね。

また、その岩倉具視に対して西郷隆盛が、短刀一本あれば片が付く」と言って反対派と差し違える覚悟を迫ったという逸話も、ここでのことです。


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こちらは小御所の北にある「御学問所」

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、ここで明治天皇が「王政復古の大号令」を発せられました。

ちなみに、建物前のスペースは「蹴鞠の庭」だそうです。


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そして最後に、こちらが「御常御殿」

天正18年(1590年)以降の天皇のお住いでした。

「幕末」と言われる時代、ここにお住いだったのは孝明天皇(第121代天皇)でした。

この孝明天皇が大の外国人嫌いだったため、尊王攘夷派象徴的存在となり、やがてその思想が討幕の勢力となっていくのですが、当の孝明天皇自身は討幕の意志など毛頭なく、大の佐幕家だったんですね。

ここに、幕末の動乱のややこしさがあります。


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御常御殿前の庭園です。

この庭を眺めながら、孝明天皇は何を思っていたのでしょうね。

まさか、平安京が自身の代で終わることになるとは、夢にも思っていなかったことでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-15 22:56 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その34 「木戸孝允旧跡」

前稿で紹介した長州藩邸から300mほど北上したあたりに、明治維新後に木戸孝允が邸を構えた場所があります。

明治2年(1869年)、木戸は近衛邸を買い取って、自身の京都別邸としました。

現在、「石長松菊園」という旅館の玄関前にその石碑が建っています。


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「木戸孝允旧跡」と刻まれています。

このあたり一帯に、かつて木戸孝允の邸があり、明治10年(1877年)5月26日、この地で木戸は死去しました。


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この石碑がいつ建てられたものかは調べがつきませんでしたが、もともとここに大正5年(1916年)に建てられた石碑があったそうで、のちに作り直されたものだそうです。


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「石長松菊園」命名由来の「松菊」は、木戸の雅号だそうです。


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石長松菊園の北側にある「お宿いしちょう」の玄関前にも、同じ石碑が建てられています。


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「石長松菊園」とは姉妹店だそうです。


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そして、そこから東へ入ったところにある「京都市職員会館かもがわ」の入口前には、「明治天皇行幸所木戸邸」と刻まれた石碑があります。


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木戸が死去する1週間ほど前、明治天皇が自らこの地に御見舞に訪れたそうです。

当時、天皇が皇族など身内以外を自ら見舞うことなど、前例のないことでした。

そもそも木戸は長州の一介の武士に過ぎず、これが10年前であれば、天皇に拝謁するなどあり得ないことでした。

明治天皇が見舞いに訪れたという事実は、当時の人々をさぞかし驚嘆させたことでしょう。

時代は変わったのだということを、改めて世間に知らしめた出来事だったかもしれません。


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かもがわ敷地内には、孝允が没した木造二階建て家屋が残されています。


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建物前にも昭和11年(1936年)に建てられた石碑があります。


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建物は江戸後期の築ですが、大正12年(1923年)に改築工事が行われ、その際に多くの建物は移築さたそうで、現在は小さな2階建てのこの建物だけが残されています。


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なかには入れませんでしたが、1階は10畳1間、2階は6畳の出床と3畳の次の間の2部屋だそうです。


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こじんまりとした正方形の建物で、おそらく茶室離れのようなあつかいだったんじゃないでしょうか。


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明治天皇が御見舞に来られた1週間後の明治10年(1877年)5月26日、木戸はこの邸で息を引き取ります。

木戸はその死の直前、西南の地で挙兵した西郷隆盛と明治政府を案じ、昏睡状態のなか見舞いに訪れた大久保利通の手を握りしめ、「西郷、いいがげんにせんか」と言ったといいます。

盟友といえたかどうかはわかりませんが、木戸にとって西郷、大久保は共に明治新国家を作り上げた同志であったことは間違いなく、その同志のふたりが敵対している現状は、木戸にとって最大の心残りだったに違いありません。

結局、西郷は木戸の死から4ヶ月後、大久保も約1年後に落命します。

「維新三傑」と呼ばれたこの3人が、偶然にもわずか1年の間にこの世を去ることになるという事実も、歴史というのは実にドラマチックにできていると思わずにいられません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-15 00:03 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)  

太平記を歩く。 その187 「住吉行宮正印殿趾」 大阪市住吉区

大阪市住吉区にある住吉行宮跡を訪れました。

ここは、後村上天皇(第97代天皇、南朝第2代天皇)時代に2度、長慶天皇(第98代天皇、南朝第3代天皇)時代に1度、南朝方の行宮とされた場所です。


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正平6年/観応2年(1351年)、北朝の天皇を擁立した足利尊氏が、一時的に南朝に降伏して北朝の天皇は廃され、年号も統一されるのですが、しかし、具体的な和睦の条件が折り合わず、翌年には再び分裂します。

世にいう「正平の一統」です。


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この機に乗じて南朝方は京都奪還を目指し、後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条、そしてここ摂津国住吉に移し、さらに山城国男山八幡へ移します。

このとき後村上天皇がここを御座所としたのは、正平7年/観応3年(1352年)2月28日から同年閏2月15日までの、わずか1か月足らずの間でした。


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鉄製の門扉も、菊の紋章をモチーフにデザインされています。


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敷地内には「後村上天皇住吉行宮正印殿址」と刻まれた石碑があります。


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後村上天皇はその後、幕府側の内紛と楠木正儀の戦略で南朝方が一時的に優勢を得た正平15年/延文5年(1360年)9月から正平23年/応安元年(1368年)3月11日に崩御するまでの間、ここを行宮としました。

その後、長慶天皇がこの地で即位したのち、同年12月24日に吉野へ遷っています。

合算すると、後村上天皇が8年、長慶天皇が1年計約9年間、南朝の行宮だったわけですね。


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また、明治元年(1868年)の明治天皇(第122代天皇)の住吉大社行幸のおり、この地で小休止したとのことで、「明治天皇聖躅」と刻まれた石碑があります。


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この行宮跡は国の史跡に指定されています。



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by sakanoueno-kumo | 2018-01-24 23:29 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その126 「吉野神宮」 奈良県吉野郡吉野町

桜の名所で有名な奈良県の吉野山にやってきました。

といっても、訪れたのは真夏の7月のことで、桜はまったくありまぜん。

桜の季節は観光客でいっぱいですからね。


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『太平記』における吉野山は、後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)が足利尊氏の擁立する京の北朝に対して南朝を樹立したところとして重要な場所ですが、『太平記』の描く吉野山はそれだけではなく、巻7「吉野城軍の事」、巻18「先帝吉野潜幸の事」、巻26「正行吉野に参る事」、「吉野炎上の事」、巻34「吉野御廟神霊の事」と、多岐にわたって登場しますので、時系列でめぐっていくのはたいへん難しい。

そこで、ここからしばらくは、時系列から外れて吉野山特集でいこうと思います。


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最初に紹介するのは、吉野山の北西麓付近に鎮座する「吉野神宮」

ここは後醍醐天皇を祭神とする神社で、明治22年(1889年)に明治天皇(第122代天皇)の意向によって創建されました。


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もともとは、後村上天皇(第97代天皇・南朝第2代天皇)の勅命により後醍醐天皇の御尊像を吉水院に奉安し、以後、550年間、代々供養が続けられていきましたが、明治になり、吉水院は後醍醐天皇社と改称し、その後、吉水神社と改称されました。


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しかし、明治政府の打ち立てた神仏分離の目的で、別に社地を定めて後醍醐天皇を祭るように指示が出され、ここ吉野神宮の創建に至ったそうです。


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全国にある「建武中興十五社」の一社で、旧社格は「官幣大社」でした。


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拝殿です。


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本殿です。

拝殿の横に並ぶ摂社には、後醍醐天皇の「建武の新政」に功績のあった、日野資朝、日野俊基、児島高徳、桜山茲俊、土居通益、得能通綱などが祀られています。



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by sakanoueno-kumo | 2017-09-19 23:46 | 太平記を歩く | Comments(0)  

太平記を歩く。 その92 「湊川神社」 神戸市中央区

前稿で紹介した湊川公園から直線距離にして800mほど東にある湊川神社を訪れました。

ここは「湊川の戦い」討死した楠木正成を祀る神社で、境内には正成の墓所があります。


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湊川神社の創建は比較的新しく、明治元年(1868年)、明治天皇(第122代天皇)が正成の忠義を後世に伝えるために神社の創建を命じ、明治5年(1873年)に創建されました。


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全国にある「建武中興十五社」の一社でもあり、「別格官幣社」に定められた第一号神社でもあります。

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) にここ湊川神社が定められたのに始り、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。


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正門には、楠木氏家紋の菊水が。


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現在の社殿は、第二次世界大戦空襲によって焼失したものを、昭和27年(1952年)に復興新築されたもので、様式は権現造に似た八棟造りとされ、鉄筋コンクリート造で建てられており、戦後の新しい神社建築様式としての代表的な建物と言われています。


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本殿は三つの御扉が見え、三座に分かれ祀られているそうです。

中央の御扉の奥には主神の正成、向かって右には正成夫人、向かって左には嫡男の楠木正行と、正成と刺し違えて自刃した弟の弟の楠木正季以下、一族十六柱と、楠木兄弟と共に自刃した菊池武吉が祀られています。


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社殿内には、「非理法権天」旗印が見えます。

「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という意味の漢詩で、正成が旗印として用いたと言われています。


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境内の参道横には、「大楠公御一代記」と題した大きな紙芝居調の看板があります。


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お時間の許す方は、しばし、ご覧あれ(笑)。


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撮影禁止だったので写真はありませんが、境内にある宝物殿にも、正成ゆかりの品々が多数展示されていました。


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5年に一度行われている「楠公武者行列の巡行」のイベントが、来年(平成30年)5月に行われるそうです。


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かつては皇国史観バリバリ国粋主義に政治利用された神社でしたが、現在は、わたしたち神戸市民のあいだでは「楠公(なんこう)さん」と親しみを込めて呼ばれています。




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by sakanoueno-kumo | 2017-07-25 22:43 | 太平記を歩く | Comments(0)