人気ブログランキング |

タグ:昭和天皇 ( 6 ) タグの人気記事

 

いだてん~東京オリムピック噺~ 第34話「226」 ~二・二六事件~

 昭和11年(1936年)2月26日早朝、陸軍青年将校たちが約1500名の下士官兵を率いて日本中を震撼させる大規模なクーデターを断行しました。世にいう「二・二六事件」です。彼らは、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃し、首相官邸をはじめ、陸軍省、参謀本部、警視庁などを占拠します。マーちゃんこと田畑政治の務める朝日新聞社も襲撃されました。このとき殺されたのは、岡田首相と間違われた義弟で海軍大佐の松尾伝蔵、高橋是清、斎藤實、渡辺錠太郎の重臣4名と、警察官5名。鈴木貫太郎は瀕死の重傷を負います。牧野伸顕はからくも逃げおおせ、難を逃れました。決起した将校たちは4日間に渡って国の中枢を占拠し、東京の首都機能は完全に麻痺してしまいました。


 当時、ニューヨークで起こった世界恐慌の影響で、日本は深刻な不景気(昭和恐慌)に陥っていました。企業は次々に倒産し、まちは失業者であふれていました。また、デフレからの農作物の価格の下落により、農村も大きなダメージを受け、農家の娘の「身売り」が社会問題となっていました(農村恐慌)。まさに、日本経済はどん底の状態にあったんですね


 そんな中、当時の政党内閣は何の策も講じず、相変わらず財界と癒着して汚職事件を繰り返している・・・と、国民は政治に不満を抱いていました。こうした国民の政治不信を背景に、軍部の一部の青年将校たちは右翼と協力して国家の革新を目指すようになり、過激な行動を起こすようになります。それが、昭和6年(1930年)の浜口首相狙撃事件、昭和7年(1931年)の三月事件、昭和7年(1932年)の血盟団事件、そして同年の五・一五事件などを生みます。


e0158128_22095188.jpg 当時の陸軍内は「皇道派」「統制派」と2つの派閥に分かれていました。統制派は、陸軍の中枢の高官が中心になった派閥で、彼らは政府や経済に介入し、軍部よりに政府を変えていこうと考えていました。これに対して皇道派は、天皇を中心とする天皇親政を目指し、そのためには武力行使も辞さないという過激派です。二・二六事件は、この皇道派が起こした事件です。彼らは「昭和維新」「尊皇討奸」をスローガンに掲げて天皇を中心とした政治体制を確立すべく、そのためには天皇を取り巻く「君側の奸」を排除すべしとテロを起こします。


 ところが、これに激怒したのが、彼らが最も崇敬していた昭和天皇でした。昭和天皇は彼らを「賊徒」と見なし、事態に厳しく対応するよう軍の上層部に求めます。当初、陸軍内部では首都での同士討ちを避けたいという思いから、武力での鎮圧に消極的でしたが、一説には、天皇は自ら軍を率いて鎮圧するとまで明言されたといい、そうなると、陸軍も動かざるを得なくなり、東京市に戒厳令が敷かれ、海軍とともに武力鎮圧に乗り出しました。崇敬してやまない天皇陛下から「賊徒」とみなされた彼らは、もはやその行動の意義を失い、29日に部隊は解散され、クーデターは未遂に終わりました。事件の首謀者である青年将校ら19名は、裁判の結果、銃殺刑とされ、彼らの理論的指導者だった北一輝も、事件に直接関与しませんでしたが、死刑となりました。


 これとよく似た事件が、幕末にもありました。文久3年(1863年)8月に孝明天皇大和行幸に乗じて大和国で挙兵した天誅組の変です。彼らは「尊皇攘夷」をスローガンに孝明天皇の攘夷親征の魁となるべく討幕の兵を挙げますが、これを最も拒絶したのは当の孝明天皇で、彼らの挙兵の翌日に京都で八月十八日の政変が起き、天皇から「暴徒」とみなされた天誅組は、朝廷からも幕府からも追われる身となり、やがてほとんどが討死します。二・二六事件の将校たちとそっくりです。


 二・二六事件の将校たちも天誅組の志士たちも、彼らは彼らなりの正義があったのでしょうが、客観的に見れば、彼らがやったことは、どう考えても義挙とは言えず、単なるテロリズムでした。ピュアなだけで大局観がなく、猪突猛進型青二才たちが起こした愚かしい事件と言わざるを得ませんね。


 少しだけオリンピック招致の話もしましょう。二・二六事件から1ヶ月も経っていない3月19日、IOC会長のラトゥールが来日しました。日本滞在中、彼は明治神宮外苑競技場などの競技施設を視察したほか、中山競馬場講道館を訪問し、さらに関西にも足を伸ばし、甲子園球場を視察したのち京都や奈良を観光したそうです。3月27日には昭和天皇にも謁見したとか。陛下も二・二六事件が集結したばかりのたいへんなときだというのに、よく時間を割いていただけましたね。まさに、この日本の「お・も・て・な・し」攻勢は、オリンピック招致に大いに功を奏することになります。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-09-09 22:12 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

海に浮かぶ要塞、讃岐高松城を歩く。 その2 <桜御門、三ノ丸(披雲閣)>

「その1」の続きです。

高松城三ノ丸にある桜御門跡です。

ここを抜けると、藩主の居住である披雲閣があります。


e0158128_19462230.jpg


櫓門台の石垣が残ります。

門は昭和まで現存していたそうですが、昭和20年(1945年)7月4日の高松空襲焼失してしまったそうです。

石垣には、焼けた跡が見られます。

7月4日といえば、終戦のわずか1ヶ月余り前ですよね。

この終戦ギリギリの段階で、日本各地に残っていた多くの城が焼失しました。

戦争は多くの人の命を奪いましたが、同時に、わが国の歴史的遺産も奪いました。

終戦の決断がもう少し早ければ、救われた命も、そして失わずにすんだ文化遺産もたくさんあったでしょうね。


e0158128_19470381.jpg


門を抜けると、目の前に見附石垣があります。


e0158128_19521854.jpg


その北側には、披雲閣が。


e0158128_19522206.jpg


披雲閣は寛文11年(1671年)頃に藩主の住居として建てられたといわれます。

讃岐高松藩初代藩主の松平頼重の時代です。

そのときの建物は明治になって老朽化により解体され、その後、松平家第12代当主で貴族院議員も務めた松平賴壽によって大正6年(1917年)に再建されました。

当時のお金で15万円という巨費を投じての建築だったそうで、3年の歳月をかけたそうです。


e0158128_19522657.jpg


もっとも、江戸時代の披雲閣は、今の披雲閣の約2倍あったそうですが。


e0158128_19522922.jpg


現在の建物内には142畳敷大書院をはじめ、槙の間、松の間、蘇鉄の間など雅致を生かした各部屋があり、波の間には、昭和天皇・皇后両陛下が2度宿泊されたそうです。


e0158128_19523372.jpg


それにしても、桜御門が空襲で焼失したのに、ここはよく焼けなかったものですね。


e0158128_19560963.jpg


披雲閣の西側から北側にかけて、広大な庭園が広がります。


e0158128_19561198.jpg


この庭園も、大正3年から6年(1914~7年)にかけて披雲閣が建築された際に作庭されたものだそうです。


e0158128_19593347.jpg


庭園内には、昭和天皇・皇后のお手植えの松があります。

いずれも大正時代、皇太子、皇太子妃時代に植えられたものです。


e0158128_19593623.jpg


こちらが昭和天皇のお手植え。


e0158128_19594028.jpg


そしてこちらが香淳皇后のお手植え。


e0158128_19594362.jpg


石碑も建てられています。


e0158128_19594616.jpg


さて、披雲閣を過ぎたところで、「その3」に続きます。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-08-02 00:46 | 香川の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

いだてん~東京オリムピック噺~ 第28話「走れ大地を」 その1 ~満州事変~

 「激動の昭和」とよく言われますが、その入口となったのは、昭和6年(1931年)9月18日に起きた柳条湖事件に端を発する満州事変といっていいでしょう。この事件後、日本の関東軍が主導となり、事実上の日本の傀儡国家・満州国を建国。これをきっかけに日本は国際連盟を脱退し、世界で孤立するとともに、国内は軍部独裁の方向に向かっていきます。いわば、昭和の日本がダメになったスタート地点です。


e0158128_19211734.jpg 清朝滅亡後、中華民国と呼ばれていた当時の中国は、誰が国を統治するかが定まらない不安定な状態にありました。のちに中華人民共和国を建国する毛沢東率いる共産党と、共産主義に反対する蔣介石率いる国民党が対立し、また、日本が駐留していた満州を支配していたのは、張作霖でした。日本はこの張作霖を支援して満州における権利を拡大しようとしていたのですが、やがて張作霖が日本の言うことをきかなくなり、蔣介石との戦いに敗れると、張作霖を無用の存在として、関東軍の謀略で列車ごと爆殺してしまいます。これが満州事変の3年前の昭和3年(1928年)6月4日に起きた「張作霖爆殺事件」。当初、この事件は中国人同士の政争と見せかけられていましたが、実際には日本の関東軍の陰謀だったことがわかります。しかし、首謀者の関東軍参謀の河本大作大佐は停職処分という軽い処分で済まされました。この事件とその後の政府の対応に激怒した昭和天皇は、当時の首相・田中義一を叱責し、田中内閣は総辞職します。しかし、このとき関係者を厳しく処罰しなかったことで、のちに軍部が政府のいうことを聞かなくなっていくんですね。


 この事件後、張作霖の息子・張学良が日本軍に強い恨みを持ち、父の敵だった蒋介石とタッグを組み、反日運動を激化させていきます。満州を支配するために張作霖を殺したはずが、逆にますます満州の権益は事件前より悪くなってしまいました。当然の報いといえます。


e0158128_19212164.jpg 張作霖爆殺事件の後、石原莞爾板垣征四郎という二人のエリート軍人が関東軍の参謀となります。この二人によって満州事変が計画されました。石原はこの時点で、いずれ東洋の代表である日本西洋の代表であるアメリカ戦争になることを予見し、その戦いに勝ったほうが世界の覇権国となり、そうなることで、以後、世の中から戦争はなくなるという持論を掲げていました。そしてその戦争に日本が勝つためには、どうしても満州を日本の領土にしなければならないと考えていたんですね。それまであったロシアからの国防論とは、少し違った観点での満州支配論でした。


 昭和6年(1931年)9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路の一部が爆破されました。いわゆる柳条湖事件ですね。当初、関東軍はこれを中国軍の犯行と発表します。日本国民のほとんどは第二次世界大戦終結までこれを信じていました。しかし、実際には、関東軍が自作自演したでっちあげの謀略だったというのは、現在では周知のところだと思います。関東軍はこの事件をきっかけに軍事行動に訴え、満州各地を次々と占領し、翌昭和7年(1932年)2月、関東軍は満州全土を制圧。3月1日に満州国の建国を宣言しました。


こうした日本軍の行動に対し、中国政府は、日本の満州での行動は不法であると国際連盟に訴えました。これを受けて国際連盟はリットン調査団を満州に派遣します。調査団は日本の満州における権益を認めながらも、軍事行動は自衛と認められないと結論づけます。この報告書を受けた国際連盟は、満州国建国は認められないとし、日本は占領地から引き上げるよう勧告します。これを受けた日本代表の松岡洋右は会議から退場、国際連盟を脱退しました。ここから、日本は戦争への道を突き進んでいきます。


 満州事変だけで長くなっちゃったので、明日、「その2」に続きます。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-07-29 19:22 | いだてん~東京オリムピック噺~ | Trackback | Comments(0)  

奥大和の宇陀松山商家町逍遥。 

「奥大和の宇陀松山城跡登城記。<後編>」宇陀松山城跡は制覇しましたが、下山して城下町を少し逍遥しました。

宇陀松山のまちは南北に伸びる松山通りメインストリートです。

その通りには、重要伝統的建造物群保存地区に選定された古いまちなみが今も残っています。


e0158128_17315932.jpg


松山通りです。


e0158128_17394253.jpg


上の写真は、現在、まちづくりセンター「千軒舎」として利用されている建物です。

明治初期の建築で、かつては「内藤修精堂」の屋号で薬屋を営み、昭和初期からは歯科医院を開業していたそうです。


e0158128_17394553.jpg


中はこんな感じ。

ここで、宇陀松山城の続日本100名城スタンプが押せます。

車もここに停めさせてもらえます。


e0158128_18155115.jpg


通りの反対側から見てみました。

ここから城跡に登るコースもあります。


e0158128_18181032.jpg
e0158128_18181465.jpg


こちらは森岡家「紀州や」

大正末期の建物で、昭和初期に料理旅館を営んでいたそうで、旅館は昭和30年代にのれんをおろし、昭和40年代には診療所になっていたそうです。


e0158128_18224317.jpg


こちらは、森野旧薬園の建物。

現在は森野吉野葛本舗という社名で知られています。


e0158128_18224857.jpg


森野旧薬園は、現存するわが国最古の私設薬園だそうで、享保14年(1729年)、初代・森野藤助が幕府御薬草御用・植村佐平次薬草見習いとして出仕した功績により、幕府から下付された貴重な種苗をここで栽培したのが始まりだそうです。


e0158128_18225173.jpg


大正15年(1926年)に国の史跡に指定されています。


e0158128_18225389.jpg


建物の横には、昭和天皇がお越しになったことを示す石碑があります。


e0158128_18254227.jpg


こちらは黒川本家の建物。

なんと、築280年だそうです。

黒川本家は吉野葛の老舗で、創業は江戸初期の元和元年(1615年)、京都に住んでいた初代の黒川道安が、吉野から葛根を取り寄せて葛粉を作って朝廷に献上し、その後、この地に移り、葛作りをスタートさせました。

そして、大和松山藩主・織田伊豆守長頼より「当代随一」の誇り高い称号を与えられたそうです。


e0158128_18254501.jpg


明治に入ると宮内省御用達となり、昭和天皇もこちら黒川本家の葛湯ご愛飲されていたといいます。

昭和天皇が最後に口にされたのも、黒川本家の吉野本葛でつくった葛湯だったとか。

また、文豪・谷崎潤一郎が小説『吉野葛』の執筆にあたり、こちらに逗留していたというエピソードも。

まさに歴史の名店です。


e0158128_18265809.jpg


こちらは、山邊家住宅

天明5年(1785年)頃の建物だそうで、ってことは築230年

山邊家は萬治年間(1658~1661年)頃からこの地に居を構えていたと伝わり、かつては宇陀紙問屋の総元締めを務める「山邊屋」だったそうです。


e0158128_18281650.jpg


こちらは、森田屋「諸木野屋」

江戸時代後期の文化5年(1808年)頃の建物で、明治初年頃まで薬や雑貨を商っていました。


e0158128_18304050.jpg


そして、その斜め向かいにある立派な屋敷は、藤沢薬品工業株式会社(現アステラス製薬)の創設者・藤沢友吉の生家で、現在、宇陀歴史博物館「薬の館」として一般公開されています。


e0158128_18311868.jpg
e0158128_18312153.jpg


見てください、この立派な看板。

銅板葺唐破風附看板です。


e0158128_18345047.jpg


建物は江戸時代末期のもので、薬問屋の細川家の屋敷でした。

細川家は文化3年(1806年)から薬商となり、天保7年(1835年)に人参五臓圓・天寿丸という腹薬を販売し、たいそう繁盛したそうです。

表の銅板葺唐破風附看板に書かれていた文字ですね。


e0158128_18345412.jpg


その細川家二代目の治助の次女・満津の長男・友吉が、明治15年(1882年)に藤沢家の養子となり、藤沢薬品工業株式会社(現アステラス製薬)を創設しました。


e0158128_18364669.jpg


館内には細川家の資料や藤沢薬品に関する資料が展示されています。


e0158128_18403903.jpg
e0158128_18404342.jpg
e0158128_18404505.jpg


とにかく目を引くのは、古い看板類

まあ、見てください。


e0158128_18501894.jpg
e0158128_18502171.jpg
e0158128_18502527.jpg
e0158128_18502946.jpg
e0158128_18503211.jpg
e0158128_18503582.jpg
e0158128_18503919.jpg
e0158128_18504229.jpg
e0158128_18504502.jpg
e0158128_18504995.jpg


先述した内藤修精堂や森野旧薬園、森田屋「諸木野屋」、そしてこの細川家などを見るに、ここ宇陀松山のまちは薬商とともに繁栄したまちだったようですね。




ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


更新を通知する


by sakanoueno-kumo | 2019-06-05 01:33 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

平成最後の謹賀新年! 新元号の大胆予想。

あけましておめでとうございます。

旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り、誠にありがとうございました。

本年も相変わらず、宜しくお願いします。


e0158128_14564990.jpg


平成最後のお正月ですね。

言うまでもありませんが、平成31年は4ヶ月だけで、5月からは新元号になります。

どんな新元号になるのかというのは、国民共通の話題ですね。

ネット内でも、いろんな予想が飛び交っているようです。

そこで、新年早々、僭越ながらわたしも予想してみることにします。


思い起こせば30年前、昭和64年はわずか1週間しかなく、天皇陛下(昭和天皇)崩御という報道とともに慌ただしく「平成」という元号が発表されましたが、最初にこの元号を目にしたとき、画数が少なくて、なんか間の抜けたような気がしたのを覚えています。

しかし、30年経った今にして思うのは、良い元号だったんだなぁと。

「昭和」という時代は、「和」という文字にはおよそ相応しくない戦乱の時代でした。

「平成」という元号は、そんな昭和を振り返って、来るべき新時代は「平和」な時代であってほしいという願いが強く込めらたものだったのでしょうね。

そして平成の30年間、曲がりなりにもその願いは成就したと言っていいでしょう(戦争がなかったという意味においてですが)。

まさに「平成」時代でした。


では、次の時代を迎えるにあたって、「平成」とはどんな時代だったかと振り返ったとき、やはり、思い至るのは、東日本大震災阪神・淡路大震災をはじめとする大きな自然災害に見舞われた時代だったといえます。

こればかりは人間の力ではどうすることも出来ないことですが、災害の少ない世の中を願うことはできる・・・ということで、来るべき新時代は、そんな思いを込めた元号を・・・。

となると、誰もが真っ先に思いつくのは、安心、安全の「安」ですね。

そこで、「安」を使った元号をいくつか考えてみたのですが、まず最初に思いついたのは「安永」だったのですが、調べてみると今から240年ほど前にあった既存の元号だったためアウト。

引っくり返して「永安」で調べてみたら、これも中国の元号にあったのでバツ。

次に「久安」を思いついたのですが、これも過去にあったのでダメで、引っくり返して「安久」で調べてみたら、これは過去になかったのですが、ネット上で一番人気の予想みたいですね。

思いつくところは、皆、一緒ということですね。


そんなありふれた予想は嫌なので、次に思いついたのが「享安」もしくは「安享」でした。

「享」という字は「うける」とか「かなう」という意味があり、過去の元号にも何度か使われています。

いかがでしょう?

ただ、「享」という字があまり見慣れない漢字なので、現行の元号選定の条件にある「書きやすく読みやすい」という条件に合うかというと微妙な気がして、ひとまず保留(笑)。

で、いろいろ考えた挙げ句に思い至ったのが「安恵」もしくは「恵安」だったのですが、なんか見たことある字の並びだなあと思って考えていると、安倍晋三首相の奥方・安倍昭恵夫人の略みたいじゃないか、ということに気づきました。

いくらなんでも、安倍政権時の改元で、首相夫人の氏名から二文字も使うなんて、忖度しすぎだよなぁと思い、結局これも却下。

となると、「安」という漢字自体、安倍政権時の改元では使われないんじゃないかと思えはじめ・・・。

そもそも、「安」という字は過去の元号で使われ過ぎているんですよね。


そこで、もう一度白紙に戻して、「平成」という時代を振り返ってみたのですが、自然災害の次に国民を悩ませたのは、長い長い「不況」だったのではないでしょうか。

平成3年のバブル崩壊以降、平成はずっと不況の時代だったといっていいと思います。

来るべき新時代は、そんな平成不況のような時代であってほしくない、そんな願いを込めた元号に相応しい漢字がないかと考えたときに、真っ先に思いついたのが「豊」でした。

これなら、経済だけでなく、広い意味で災害のない豊かな時代という意味合いも込められる。

で、調べてみたら、意外に過去の元号に使われた実績がないので、どんな字にも組み合わせられる。

ただ、頭文字が「H」になるので、頭には使えない。

そこで、「永豊」「久豊」「安豊」「恵豊」といった具合に先程から出てきた漢字と組み合わせてみたのですが、いちばんシックリ来たのが、「享豊」です。

豊かに享ける。

いかがでしょう?


ということで、わたしの元号予想は「享豊」に決定しました。

あと、保留の「享安」も、一応、次点候補にさせてください(笑)。


e0158128_16475709.jpg


実際の元号は、中国の古典を出典とするものがほとんどで、こんな漢字の組み合わせのような単純な決め方ではないのですが、まあ、そこはお遊びということで。

でも、考えてみたら、元号は天皇陛下の退位後のお名前(諡号)になるわけですから、本来、このように軽々しく遊びで予想するようなものではないのでしょうが。

でもでも、そうやって元号予想を話題にしても、捕まることもなければ何のお咎めもないということこそが、「平成」とい元号に相応しい善き時代といえるかもしれませんね。

当たったら何かください(笑)。


てなわけで、今年もよろしくお願いします。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
  ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2019-01-01 04:28 | 日常 | Trackback | Comments(2)  

昭和最後の大横綱、千代の富士関の逝去を悼む。

元横綱千代の富士九重親方が亡くなられたそうですね。

私ら世代にとっては、「九重親方」というより「千代の富士関」といったほうが馴染み深いです。

の闘病中だというのは知っていましたが、最近は癌から復活して活躍されている方がたくさんおられるので、鍛え抜かれた強靭な肉体を持った千代の富士関のことですから、きっと大丈夫だろうと思っていました。

61歳・・・若すぎますよね。

残念でなりません。


e0158128_19154486.jpg大鵬関をリアルタイムで知らない世代の私にとっては、最も強かった力士はと聞かれると、迷わず千代の富士関と答えます。

優勝回数31回は歴代3位、通算1045勝幕内勝利数807勝は共に歴代2位の記録だそうですが、引退当時は歴代最高記録だったと記憶しています。

昭和63年(1988年)には、当時の戦後最高となる53連勝を記録し、また、翌年の平成元年(1989年)には、通算勝ち星の当時の新記録を作り、相撲界で初めて国民栄誉賞を受賞しました。

その53連勝中には、「年間3回の全勝優勝」「3場所連続15戦全勝優勝」という史上初の快挙も成し遂げています(のちに白鵬が同じことをやりますが)。

まあ、記録を並べればキリがないほど、とにかく強かった、というイメージです。


一方で、その強さは、ライバルがいなかったからという意見もあります。

たしかに、前時代の北の湖関には輪島関や貴ノ花関が、のちの貴乃花関には関や武蔵丸関がいましたが、千代の富士関の横綱時代には、特にこの人といえる対抗馬がいなかったのは事実です。

でも、これは私の個人的な考えですが、ライバルがいるからこそモチベーションが保てるわけで、勝って当たり前のなかで強さを保ち続けるというのは、よほどの精神力がなければ出来ないことなんじゃないでしょうか。

敵は自分自身の油断慢心、ということですからね。

現在の白鵬関も同じような状況に立っていると思いますが、結果を出して当然というなかで結果を出す人こそ、真の実力者だとわたしは思います。

その意味では、千代の富士関は真の横綱だった・・・と。


余談ですが、千代の富士関と同じ(同学年)昭和30年生まれの有名人って、ビッグネーム揃いなんですよね。

タレントさんでは、明石家さんまさん、島田紳助さん、所ジョージさん、音楽界では、桑田佳祐さん(31年の早行き生まれ)、郷ひろみさん、歌舞伎界では亡くなられた中村勘三郎さん、漫画家の鳥山明さん、さらにスポーツ界では、プロ野球の掛布雅之さん、江川卓さん、ボクシングの具志堅用高さん、自転車の世界選手権で10連覇を達成した中野浩一さんなど、こうして見ても、各界で一時代を築いたすごいメンバーが並びます。

千代の富士関の強さの背景には、そんな同級生たちの活躍も、多少の刺激になっていたかもしれません。


千代の富士関が横綱になったのは昭和56年(1981年)、引退したのが平成3年(1991年)、実に10年間もの長きにわたって横綱をはった千代の富士関。

たしか、昭和天皇も大のご贔屓でしたよね。

まさに、昭和最後の大横綱でした。

ご冥福をお祈りします。


合掌。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓

にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村 ニュースブログ 時事ニュースへ


by sakanoueno-kumo | 2016-08-02 19:18 | 他スポーツ | Trackback | Comments(2)