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西郷どん 第18話「流人 菊池源吾」 ~奄美大島流島~

 安政5年11月16日(1858年12月20日)未明、護送中の船から錦江湾に身を投げた西郷吉之助(隆盛)月照でしたが、その後、海中から引き揚げられたふたりのうち、月照だけが命を落とし、西郷は奇跡的に蘇生する結果となりました。息を吹き返した西郷は、その後、数日間にわたって何度も海水を吐き出し、回復に1か月近くかかったといいます。このとき意識のない西郷の枕頭で看病にあたったのが、同志の税所喜三左衛門(篤)でした。


 意識を取り戻した西郷は、自分だけが生き残ってしまったことに酷く心を痛めます。また、自殺を図るにあたって、確実に死ねる刀を使わずに入水という女子のしそうな手段を選んだことも、大いに後悔しました。西郷が刀を使わなかった理由は、僧侶の身体に刃を向けるのが憚られたからと、後年語っています。いずれにせよ、この出来事が、西郷の心中に大きな傷跡として残ったことは言うまでもありません。このときの西郷の心中は、この約1か月後に熊本藩の長岡監物に宛てた書簡に窺えます。


 「私事、土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候次第、早御聞き届け下され候わん。天地に恥ケ敷儀の御座候え共、今更に罷り成り候ては、皇国のために暫く生を貪り居り候事に御座候」

(私は一旦死んだ人間であり、土の中の死骨に等しく、その恥を忍んでいる身であるが、しばらくは皇国のために命を長らえている)


e0158128_15131310.jpg 一時は月照の後を追おうとした西郷でしたが、結局、いましばらく生き延びることを決意しました。なぜ、そう決意したのかはわかりませんが、ただ、いえるのは、このときの西郷にとって、生きる道を選択するということは死ぬことよりよほど勇気がいる決断だったであろうということです。この時代の一流の武士にとって、自殺を図って死にきれなかったということほど恥ずかしいことはありません。ましてや西郷の場合、共に身を投げた月照が死に、自分だけが生き残っています。これは、武士としてあまりにも恥ずかしいことだったといえ、月照の後を追って死んだ方がよほど楽だったに違いありません。ところが、西郷は生き恥を晒す道を選んだ。その背景には何があったのか、あるいは、主君・島津斉彬の死に際して殉死しようとしていた西郷を説得した月照のような人物がいたのか・・・。あるいは、ドラマのように大久保正助(利通)だったかもしれませんね。


 もっとも、このときの心の傷は生涯を通して癒えることはありませんでした。これより先、西郷は、どこか死を急ぐような、死を願望し続けたようなところがありますが、それは、このときに始まったとも思われます。ドラマ中、西郷が自身のことを「亡霊のようなもの」と言っていましたが、西郷にとって、このあとの人生は、ずっと「土中の死骨」だったのかもしれません。


 西郷の蘇生の報せを受けた薩摩藩家老の新納久仰は、西郷の措置を以下のように決定します。まず、捕吏の目を誤魔化すために、西郷は死亡したことにする。もし幕府サイドが死体の検分を望んできたら、近々に死んだ別の罪人の死体を差し出す。そして、西郷本人は、事態が落ち着くまで名前を変えて奄美大島に潜ませる。島での生活費は、藩の費用で賄う、というものでした。守旧派で月照の庇護を拒んだ新納久仰でしたが、この西郷に対する措置は、あきらかに西郷を守ろうとしている意図が窺えます。つまり、この流島処分罪人扱いではなかったということですね。西郷は菊池源吾と名を変え、安政6年正月10日(1859年2月12日)に鹿児島の山川港を出発し、翌々日に奄美大島の龍郷村阿丹崎へ到着します。以後、足掛け3年に及ぶ西郷の奄美での生活が始まります。


 奄美に着いた当初の西郷は、奄美の気候島人とのやりとりなどで非常に苦労していたようです。奄美到着後に初めて出した大久保宛の書簡によると、


 「一日晴天と申すなるは御座無く雨勝ちに御座候。一体雨はげしき所の由に候得共、誠にひどいものに御座候」


と、1日として晴れが続かない奄美の冬期特有の気候に悩まされていたようです。また、初めて接する島人との関係も最初は芳しくなかったようで、


 「誠にけとう人にはこまり入り申し候。矢張りはぶ性にて食い取ろうと申すおもいばかり、然しながら、至極御丁寧成る儀にて、とうがらしの下なる塩梅にて痛み入る次第に御座候」


と、愚痴をこぼしています。「けとう(毛唐)人」とは島人への蔑称であり、「はぶ性」とは、島人が西郷を恐れ、物陰から常に覗っている様子を、奄美の毒蛇ハブに見立てた皮肉たっぷりの表現でした。この文面からも、西郷が島人に対して好意的な感情を抱いていなかったことが窺えます。このときの西郷は、斉彬や月照の死による悲しみや、流島処分となった自身の現状に憤りを感じ、自暴自棄になっていたのかもしれません。そんな西郷の荒んだ心を癒したのが、島の女性・とぅまでした。のちの愛加那ですね。彼女については、次週に譲ることにします。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-14 00:37 | 西郷どん | Comments(4)  

西郷どん 第17話「西郷入水」 ~斉彬死後の藩論の転換~

 幕府大老・井伊直弼による安政の大獄がはじまった安政5年(1858年)9月、西郷吉之助(隆盛)は清水寺塔頭・成就院の住職・月照を匿うべく鹿児島の地に戻ります。しかし、そこで待ち受けていたのは、藩論の転換に伴う冷たい仕打ちでした。


e0158128_11283315.jpg 前藩主・島津斉彬の死後、次期藩主には弟の島津久光の長男・忠義が就くことになりました。ドラマでは、斉彬が忠義を指名していましたが、記録によると、斉彬は当初、久光を次期藩主に指名したものの、久光が辞退したため、息子の忠義になったとされています。当時、斉彬にも男児がひとりいましたが、当時わずか3歳の幼少で、この難局に藩主となるには無理があるという判断だったのでしょう。また、あるいは、ドラマで斉彬が言っていたように、藩内の派閥抗争を生まないためという思惑もあったかもしれません。いずれにせよ、斉彬は死の淵で後事を久光に託します。


斉彬と久光の兄弟関係は、藩内抗争とは裏腹に良好だったと言われます。久光は開明的な兄・斉彬を尊敬し、斉彬は弟・久光の学識を高く評価していました。もっとも、開明的で洋学を進んで取り入れた兄に対して、弟は国学に秀でた頑固な保守家で、その久光の保守的な考え方が、のちに西郷や大久保の大きな障害となるのですが、この時点では、兄・斉彬のご遺志を継承するというのが、久光の行動の原則となります。それは、すなわち、京都の天皇および朝廷危急事態が発生すれば、薩摩藩はただちに出兵するというものでした。


 ところが、忠義が藩主の座に就くと、江戸で隠居していたはずの島津斉興(斉彬・久光の父)が鹿児島の地に戻り、藩主が若年だという理由で再び藩政の実権を握ります。そして斉彬時代の施策を大きく見直し、斉彬派の家老を罷免し、藩論を幕府に迎合する方向に大きく転換させます。西郷たちが帰藩したのは、そんな時期でした。


e0158128_13034480.jpg ドラマでは西郷とともに鹿児島入りした月照でしたが、実際には、月照をいったん福岡に潜ませ、西郷が月照を迎え入れるために先に帰国し、その後、月照は福岡藩士の平野國臣とともに安政5年11月8日(1858年12月12日)に鹿児島に入ります。しかし、月照や西郷に好意的ではない守旧派新納久仰が家老として藩権力を掌握しており、藩は月照の保護を拒否し、「日向国送り(東目送り)」を命じました。「日向国送り」とは、表向きは藩外追放処分ですが、実際には、薩摩国と日向国の国境で殺害することを意味していたといいます(異説あり)。藩当局にとっては、幕吏に追われる月照は厄介者でしかなかったんですね。


 ドラマでは、月照と西郷の両名を「日向国送り」としていましたが、実際には、藩当局が殺そうとしたのは月照だけで、西郷は、何らかのかたちで生かそうとしていたと思われます。というのも、西郷は鹿児島へ帰るとすぐに、捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助改名させられています。西郷を処刑して幕府に差し出すつもりなら、このような措置をする必要がありません。藩当局にしてみれば、斉彬派に人望の厚い西郷を殺すと後々藩内の調整が厄介になるので、ひとまず西郷は改名させてどこかへ逃し、月照だけ処分するといった考えだったんじゃないでしょうか。ところが、月照を敬愛する西郷は前途を悲観し、月照を護送する舟中から抱き合って錦江湾に身を投げます。安政5年11月16日(1858年12月20日)の未明でした。ネタバレになりますが、その後、西郷は奇跡的に助け出され、月照だけが命を落とすことになります。享年46。皮肉にも、藩当局が希望したかたちになったわけです。


 ドラマで月照が辞世を書いていましたが、これは史実で、引き上げられた遺体の懐から、鼻紙に書かれた辞世が見つかったとされます。


大君の ためにはなにか お(惜)しからむ 薩摩の迫門(瀬戸)に 身は沈むとも


 月照の死が、西郷の心の大きな傷跡となったであろうことは間違いないでしょう。



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by sakanoueno-kumo | 2018-05-07 20:02 | 西郷どん | Comments(0)  

西郷どん 第16話「斉彬の遺言」 ~戊午の密勅~

e0158128_13034480.jpg 西郷吉之助(隆盛)が主君・島津斉彬急死を知ったのは、安政5年7月27日(1858年9月4日)頃、場所はおそらく京都の西郷たちの定宿・鍵直旅館だったと思われます。その報せは、まさに青天の霹靂、西郷にとっては人生最大の衝撃だったであろうことは想像に難しくありません。作家・海音寺潮五郎の言葉を借りると、西郷にとって斉彬は主君であり、恩師であり、慈父であり、でした。報せを受けた西郷は、すぐさま殉死を決意したといいます。それを思い止まらせたのが、清水寺塔頭・成就院の住職・月照でした。


 月照は嘉永6年(1853年)の黒船来航以降、京や大阪で熱心に尊王攘夷の必要性を説いてまわっていたことから、尊王僧という異名を持っていたほどの尊王論者でした。また、先の将軍継嗣問題では、一橋派に与しており、西郷たちの政治活動にも、一方ならぬ協力をしてきた人物でもあります。当然、大老・井伊直弼の独断での日米修好通商条約調印に対しては、激しく反発します。


 一方、江戸では井伊の専横に対して一橋派の怒りは沸点に達します。そして、その急先鋒である水戸藩主の徳川斉昭、その息子の一橋慶喜、越前藩主の松平春嶽らは、安政5年(1858年)6月24日、カンカンに怒って江戸城に登城し、直弼に面会して激しくクレームをつけまくりました。これを受けた井伊は、ドラマでは「恐れ入りたてまつります。」ひょうひょうといなしていましたが、実際の井伊は、「呼びもしないのに無断で城内に上がってきて文句をいうなどけしからん!」と、斉昭は謹慎、慶喜は登城差し控え、春嶽と尾張藩主の徳川慶勝には隠居謹慎の処分を命じます。相手が親藩大藩の殿様であってもやりたい放題でした。


政敵を一掃した直弼の権力はいっそう高まり、ほとんど独裁状態となりますが、そうなると、当然、それを叩き潰そうという動きがはじまります。このとき最も働いたのが、梅田雲浜頼三樹三郎梁川星巌ら尊王派の学者たち、そして西郷でした。そんな彼らの働きによって、井伊大老を降ろせという幕府改革の勅諚が、孝明天皇(第121代天皇)より水戸藩へ下ります(異説あり)。これを、後世に「戊午(ぼご)の密勅」といいます。「密勅」とは、読んで字のごとく秘密の勅諚ですね。勅諚とは、天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。


e0158128_20590455.jpg この情報を知った直弼は「これは反乱である!」大激怒し、水戸藩にその「勅書を返せ!」と迫り、そして朝廷に対して「なぜそんなものを出したのか!」と、猛烈に抗議します。朝廷に幕府の弾圧がかかるとなると、これまた前代未聞のこと。そこで朝廷を守るため、薩摩藩や越前藩が兵を挙げて京都に向かっている、といったが広まります。こうなると直弼は、その噂が本当なのかデマなのかを確認することなく、力には力で対抗する構えを見せ、徹底的な大弾圧を開始しました。その対象は、将軍継嗣問題で一橋派に与した者たち、梅田雲浜密勅問題で動いた者たちすべてひっ捕まえて裁判にかける。こうして、安政の大獄がはじまります。


 幕府方の追求は、西郷や月照にも及びます。西郷は同じく一橋派の公卿・近衛忠煕から月照の身柄の保護を依頼され、国元の薩摩藩に月照を亡命させる計画を立てます。ところが、その矢先に斉彬の訃報に接するんですね。そして、冒頭で紹介した月照が殉死しようとしていた西郷を諭したという逸話に繋がります。月照の助言によって殉死を思いとどまった西郷は、ともかくも月照を逃がすべく薩摩に向かいます。しかし、斉彬亡きあとの薩摩藩は、月照の身柄を受け入れられるほどの包容力はありませんでした。斉彬の死で大きな後ろ盾を失った西郷は、ここでまた、人生最大のピンチに立たされることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2018-05-01 01:09 | 西郷どん | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その20 「大西郷月照王政復古謀議舊趾碑(清閑寺)」

清水寺から山路を南へ10分ほど歩いたところに、閑静なたたずまいの清閑寺というお寺があるのですが、ここも、西郷隆盛と清水寺塔頭・成就院の住職・月照ゆかりの地と伝わる場所です。


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清水寺奥の院から山路を5分ほど歩くと、「歌の中山清閑寺」と刻まれた石碑があります。

ここからが清閑寺の参道です。

「歌の中山」というのは清閑寺の山号で、清水寺から清閑寺間の山路に由来しています。

古来この路は、花鳥風月に恵まれ、多くの文人歌人が歌を詠んだ路だそうです。


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参道の途中に高倉天皇後清閑寺陵六条天皇清閑寺陵があり、そこを過ぎると、石段の上に清閑寺の山門が見えます。


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山門です。


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清閑寺は、延暦21年(802年)に紹継が天台宗寺院として創建したのが始まりとされ、一条天皇(第66代天皇)の時代(986~1011年)に勅願寺となると、全盛期には清水寺と変わらぬほどの広大な寺域を誇ったそうですが、応仁の乱によって全て焼失、荒廃し、慶長年間に性盛が再興するも、いまは本堂だけが残る小さなお寺となっています。


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その本堂です。


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本堂の北側にある鐘楼前には、「大西郷月照王政復古謀議舊趾」と刻まれた石碑が建てられています。


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かつてこの鐘楼の裏山には「郭公亭」という茶室があり、ここで、西郷隆盛と月照がしばしば密議を交わしたと伝えられています。


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説明板によると、安政の大獄によって追われる身となった月照を都落ちさせるための計画も、ここ郭公亭で行われたと言われているそうです。


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郭公亭は平成3年(1991年)まで残っていたそうですが、荒廃著しく解体され、現在は門だけが残され、その前に「茶室 郭公亭跡」と刻まれた小さな石碑が建てられています。


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在りし日の郭公亭の写真です。


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それにしても、「大西郷月照王政復古謀議舊趾」とは、ちょっと大袈裟ですよね。

月照が生きていた頃は、まだ「王政復古」などといったスローガンは掲げられていませんでした。

尊皇攘夷運動ははじまっていましたが、「討幕」などといった発想にはまだ及んでおらず、ここで西郷と月照が密議を交わしていた内容は、将軍継嗣問題が主だったと思われます。

ふたりは一橋派に与し、親藩や外様雄藩も幕政に参画する挙国一致の新体制を目指してはいましたが、まだ、幕府の権威は盤石と思われていた時代で、「王政復古」などといった言葉が使われだすのは、まだまだ先のことでした。


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石碑の側面には、「陸軍大将男爵土屋光春書」とあります。


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反対側の側面には、「奇術元祖中村天一建之」と刻まれています。

「奇術元祖」って?

気になって調べてみたら、「日本近代奇術の祖」として明治時代に一世を風靡した初代・松旭斎天一という人物と同一人物かも?・・・との曖昧な情報しか見つかりません。。

初代・松旭斎天一って、明治のMr.マリックのような人?・・・と思いながら調べていると、どうやらもっと大掛かりな奇術だったようで、あの初代・引田天功は、この人の孫弟子にあたるそうです。

「手妻」「放下」「手品」等の総称として「奇術」という用語を定着させたのも、この初代・松旭斎天一なんだとか。

へえ~!・・・ですね。

でも、なぜそんな奇術師がこの石碑を?・・・という疑問の答えには至りませんでした。


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あと、清閑寺は『平家物語』の悲恋話で知られる高倉天皇(第80代天皇)と小督局のゆかり寺でもあるのですが、幕末シリーズとは無関係なので、また別の機会に。


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清閑寺は、境内にある「要石」から見える扇状の京都の街の風景で有名なんですが、それを知らなかったので、こんな写真しかありません。

事前に知ってたら、要石を中心に撮影したのになぁ。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-24 02:15 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その19 「忠僕茶屋(清水寺)」

前稿で紹介した「舌切茶屋」から少し西へ歩いたところに、「忠僕茶屋」という名の茶屋があります。

ここも、安政の大獄によって非業の死を遂げた月照に関係しています。


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月照が住職を務めた清水寺塔頭・成就院下男に、大槻重助という若者がいました。

重助は月照の尊王攘夷運動の手足となって働き、月照が西郷隆盛の導きで薩摩に下った際には、重助も付き従って薩摩に落ちます。

しかし、月照は薩摩の錦江湾にて入水自殺してしまうんですね。


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月照の死後、その遺品を京都に持ち帰った重助は、幕府方に捕えられ、六角牢獄につながれます。

そこで、同じく獄中にあった月照の弟・信海と再会します。

のちに信海は江戸に送られ、伝馬町牢内で病死してしまうのですが、このとき重助は、信海から後事を託されたといいます。


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重助はやがて解放され、一旦は生まれ故郷に帰ったものの、再び清水寺に戻り、境内に茶屋を営むことを許され、生涯、妻とともに月照・信海の墓を守り続けたそうです。


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重要文化財の三重塔を見上げる、こんな場所にあります。


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紅葉が美しい。


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前々稿で紹介した月照、信海、西郷隆盛の歌碑の横には、「忠僕重助碑」と刻まれた石碑があります。

この篆書の彫文字は、西郷隆盛の弟・西郷従道による揮毫だそうです。

西郷の歌碑に刻まれた漢詩は、明治7年(1874年)の月照の十七回忌のときに詠まれたものですが、当時、鹿児島にいた西郷が、この漢詩を託したのが重助だったのだとか。

「忠義」というのは、武士だけの美徳ではなかったんですね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-23 05:05 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その18 「舌切茶屋(清水寺)」

清水寺の境内に、「舌切茶屋」という変わった名称の茶屋があります。

ここは、おとぎ話の「舌切り雀」に由来する茶屋・・・ではなく、幕末の安政の大獄に関係した茶屋です。


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前稿で紹介した清水寺塔頭・成就院の住職・月照は、幕府大老の井伊直弼が進めた安政の大獄によって追われる身となり、西郷隆盛とともに薩摩の錦江湾で入水自殺しますが(西郷はのち蘇生)、このとき、月照上人の友で成就院の寺侍であった近藤正慎は、西郷と月照を都落ちさせたことで幕府方に捕らえられ、京都・六角牢獄で月照の行方を問われて拷問をうけます。

しかし正慎は決して口を割らず、最後は自ら舌を噛み切り、牢獄の壁に頭を打ちつけて壮絶な最期を遂げました。

月照と正慎は幼いころからの友人だったといいます。

正慎がどれほど熱心な尊王攘夷家だったかはわかりませんが、拷問に耐えて友人を守り抜いたその生きざまは、まさしく「勤皇の志士」だったといえます。


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残された正慎の妻子を救済するために、清水寺は境内に茶屋を開くことを許しました。

この茶屋が、のちに「舌切茶屋」と名付けられたそうです。

現在もその子孫が経営されているのだとか。


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紅葉が綺麗です。


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前稿で紹介した月照、信海、西郷隆盛の歌碑の片隅には、近藤正慎の碑もあります。

ちなみに、正慎は俳優の近藤正臣さんの曽祖父にあたるそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-22 00:03 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その17 「西郷隆盛・月照・信海 歌碑(清水寺・成就院)」

東山といえば、やはり世界遺産清水寺が最も有名ですが、幕末期、その清水寺塔頭・成就院の住職は、尊皇攘夷の志を持つ月照でした。

月照といえば、西郷隆盛とともに薩摩の錦江湾にて入水自殺を図った僧として、よく知られています。


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成就院は通常非公開ですが、毎年、春と秋には特別公開されます。

その庭園「月の庭」は名勝として知られ、特別公開されていた紅葉のシーズンに訪れたのですが、残念ながら撮影禁止となっており、写真は外観のみです。


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成就院の正面の池も、紅葉でいっぱいでした。


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池の前の坂道を上ると、清水寺本堂に通じます。

坂を上ったところにある北総門の前には、西郷隆盛と月照、そして月照の弟の信海歌碑があります。


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左から、信海、月照、西郷隆盛の歌碑です。


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まずは月照の歌碑。

大君の ためにはなにか お(惜)しからむ 薩摩の迫門(瀬戸)に 身は沈むとも


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月照は尊王攘夷思想に傾倒し、将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされ、安政の大獄では追われる身となります。

月照と深く親交していた西郷隆盛は、月照を匿うべく薩摩に逃れますが、藩当局がその身柄受け入れを拒んだため、安政5年11月16日(1858年12月20日)、絶望した西郷と月照は抱き合ったまま錦江湾に入水します。

その後、西郷は奇跡的に助け出され、命を落としたのは月照だけでした。

享年46。

石碑の歌は、その内容からみて、辞世の句だと思われます。


こちらは月照の弟・信海の歌碑です。

西の海 あずま(東)のそら(空)とか (変)はれども こころ(心)はおなじ 君が代のため


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時を同じくして、兄の後を継いで成就院の住職をつとめていた信海も、攘夷祈祷をおこなったとして捕縛され、江戸で獄死しました。

享年41。


西郷隆盛の歌碑は漢詩です。

たしかに、西郷に和歌というイメージはないですね。


相約投淵無後先

豈圖波上再生緣

囘頭十有餘年夢

空隔幽明哭墓前


読み下しは、

相約して淵に投ず、後先無し。

豈図(あにはか)らんや波上再生の縁。

頭(こうべ)を回らせば十有余年の夢。

空しく幽明(ゆうめい)を隔てて墓前に哭(こく)す。


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月照の十七回忌のときに作られた詩だそうです。

ひとりだけ生き残ってしまった複雑な心境が詠われています。

自殺を図るにあたって、西郷が確実に死ねるを使わずに入水を選んだ理由は、僧侶の身体に刃を向けるのが憚られたからと言われています。

主君・島津斉彬が急死したとき、殉死しようとしていた西郷を思い留まらせたのも、月照だったといいます。

それなのに、自分は月照を助けられなかった。

西郷のその後の人生において、事あるごとに自身の命を投げ出そうとする西郷の死生観は、このときの無念にはじまったとも言われています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-03-21 00:54 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)