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一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その5 「朝倉義景・朝倉孝景墓所」

「その3」で紹介した朝倉氏館跡の東南隅旧松雲院墓地内に、第11代当主の朝倉義景墓所があります。


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木標には「五代」とありますが、朝倉氏の拠点を一乗谷に移した朝倉孝景を初代とした場合、義景は5代目になりますが、越前国に入国した朝倉広景を初代とすると、義景は11代目となります。

当ブログでは、11代とさせてもらいます。


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こちらが、その義景の墓です。


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朝倉義景は、天正元年(1573年)8月20日、刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)織田信長に敗れ、従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていましたが、そこで景鏡の裏切りに遭い、自刃します。

この墓は天正4年(1576年)に村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663年)に福井藩主の松平光通によって現在の墓塔が立てられたそうです。


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義景の死によって朝倉氏は滅亡し、義景は最後の当主となります。

義景の首は信長家臣の長谷川宗仁によって京都で獄門に曝され、その後、浅井久政・長政父子とともに髑髏に箔濃を施された話は、あまりにも有名ですね。

その髑髏をにして酒を飲ませたという逸話は、後世の作り話といわれています。


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一乗谷遺跡内には、もう1ヵ所、朝倉氏の墓所があります。

「その4」で紹介した中の御殿跡の東にある山道を登ります。


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これが、その墓所。

7代目当主・朝倉孝景の墓所です。


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木札には「初代」とありますが、上記と同じ理由で当ブログでは7代目とします。

7代目当主・朝倉孝景は、朝倉氏の拠点をここ一乗谷に移した人物です。


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朝倉氏は代々、越前守護代甲斐氏、尾張守護代織田氏とともに、三管領筆頭で越前・尾張・遠江守護の斯波氏の宿老を務めていました。

応仁元年(1467年)に応仁の乱が始まると、孝景は当初は西軍に属して京都で戦いましたが、文明3年(1471年)に越前に帰国し、越前守護代甲斐氏に代わって守護代職になることを条件に、東軍(幕府側)に寝返りました。

このため、甲斐氏と越前支配をかけた激しい戦いを展開し、文明7年(1475年)、越前をほぼ平定します。

ところが、守護斯波氏は孝景の越前支配を「越前押領」とみなし、文明11年(1479年)には、東軍(幕府側)に帰順した甲斐氏や二宮氏など被官人を引きつれ、「朝倉退治」と称して越前に下国、一進一退の戦いが続きます。

この戦いの最中、文明13年(1481)7月、孝景は病死しました。


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孝景の墓は、その法名から英林塚とも呼ばれます。

高さ約2mの宝篋印塔で、昔から、越前に危機が迫ると鳴動するとの伝説があるそうです。


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さて、朝倉氏5代103年の歴史をもつ一乗谷朝倉氏遺跡をめぐってきましたが、本稿をもって終わりにします。

本当は、遺跡の東にある一乗谷城跡にも登りたかったのですが、その時間がとれませんでした。

また今度の機会ということで。

最後に、日本100名城のスタンプを載せておきます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-03-27 00:34 | 福井の史跡・観光 | Comments(0)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その4 「庭園~中の御殿跡~諏訪館跡」

「その3」のつづきです。

朝倉氏館跡の東の高台を上ると、湯殿跡庭園があります。


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一乗谷朝倉氏遺跡には、多くの庭園が遺存していますが、そのなかでも、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園、義景館跡庭園の4庭園が、「一乗谷朝倉氏庭園」として平成3年(1991年)に国の特別名勝に指定されました。


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湯殿跡庭園は4庭園のなかでも最も古く、10代目当主の朝倉孝景の時代に造られたと推定されています。

説明板には「4代孝景」とありますが、一乗谷を拠点としてから4代目ということで、越前国に入国した朝倉広景を初代とすると、孝景は10代目となります。

ちなみに、一乗谷に拠点を移した7代目当主も「孝景」というので、ややこしいんですが・・・。


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湯殿跡庭園は南北に細長い約100㎡の池を中心に、その周囲に巨石が豪放に配置されています。

現在、池には水はなく、わたしの目にはただの岩石群にしか見えませんでした。


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湯殿跡庭園の南にある大きな空堀跡です。


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石垣も少し残存しています。


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空堀跡に架けられた橋を渡ると、広い敷地があります。


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ここは中の御殿跡で、足利義昭から従二位に叙せられた朝倉義景の母・光徳院が居住したと伝えられています。


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その案内板です。


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建物跡の礎石が並びます。

その向こうに見える草が生えてない部分は、池跡だそうです。


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中の御殿跡南門の石垣です。


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中の御殿跡東側の高台に上り、中の御殿跡を見下ろします。

遠くに見えるのは、「その2」で紹介した復原町並です。


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中の御殿跡から更に南下すると、諏訪館跡があります。

諏訪館は朝倉義景が4人目の側室だった小少将のために造ったと伝えられる館です。


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その敷地内南東には、諏訪館跡庭園があります。


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諏訪館跡庭園は一乗谷の庭園のなかでも最も大きな規模のもので、上下二段構成の回遊式庭園です。


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上段は滝石組湧泉石組、下段は大きなヤマモミジの下に高さ4.13m、幅2.5m日本最大の滝副石を使った豪壮な滝石組があります。


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滝副石の表面には、弘化4年(1847年)に心月寺十八世月泉和尚の筆により、朝倉教景、朝倉貞景、朝倉孝景の法号が刻まれています。


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湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園の3庭園は、発掘調査以前より庭石が地上に露出していたため、昭和5年(1930年)に国の名勝に指定されていたそうですが、その後の管理が不十分であったため、荒廃していたそうです。

その後、昭和42年(1967年)から文化庁指導のもとに整備が行われ、昭和62年(1987年)には湯殿跡、諏訪館跡で湧水用の石組溝や暗渠が発掘され、現在の姿になったそうです。


もう1回、シリーズを続けます。

「その5」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-21 11:29 | 福井の史跡・観光 | Comments(0)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その3 「朝倉氏館跡」

「その2」の続きです。

一乗谷朝倉氏遺跡の復原町並の東側に流れる一乗谷川を渡ると、堀に囲われた朝倉氏館跡があります。

その入口には唐門があります。


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これは復元ではないそうですが、朝倉氏の時代にはなかった門で、朝倉氏滅亡後に豊臣秀吉朝倉義景の菩提を弔うために建てた松雲院の寺門だそうで、その後、江戸時代中期に再建されたものだそうです。


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唐門の幅は2.3mあります。


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唐門を潜ると、広大な敷地が広がります。

その背後に見える標高473mの山の山頂に一乗谷城があったのですが、この日は山城には登っていません。


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説明板です。


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西、南、北の三方を高さ1.2mから3mほどの土塁で囲われています。


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かつてはその土塁の上に、があったとされています。


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「垜(あずち)」と書かれています。

垜とは、弓場で的をかけるために土を山形に高く盛ったもののことだそうです。


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敷地内平坦部の面積は約6,400㎡あり、17棟の建築物があったそうです。


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敷地内にはその建物の礎石跡が整然と並びます。


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こちらは倉庫跡のようです。


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こちらは台所跡


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こちらは館内最大の常御殿跡です。

東西約21.4m、南北約14.2mあるそうです。


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その常御殿跡の南には、庭園跡があります。

一乗谷朝倉氏遺跡には、多くの庭園が遺存していますが、そのなかでも、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園、そしてここ義景館跡庭園の4庭園が、「一乗谷朝倉氏庭園」として平成3年(1991年)に国の特別名勝に指定されました。

他の3庭園と違って、この義景館跡庭園は完全に埋没していたものを、昭和43年(1968年)の発掘調査で発見されたものだそうです。

この庭園を囲むように接客用の館が建てられていたと考えられています。


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館跡東側の高台に上り、館跡を見下ろします。

中央のいちばん広い区画が常御殿跡。


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その手前に見える池のところが、義景館跡庭園です。

義景は、のちに室町幕府の第15代将軍となる足利義昭が上洛への助力を要請するために訪れてきたとき、この館に迎えて盛大に饗したと伝わります。

義昭は2年間一乗谷に滞在しますが、義景には上洛する気はなく、その後、朝倉氏に仕えていた明智光秀の仲介により、織田信長を頼ることになるんですね。


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遺跡は広大です。

シリーズは「その4」に続きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-20 01:42 | 福井の史跡・観光 | Comments(4)  

一乗谷朝倉氏遺跡を歩く。 その2 「復原町並み」

「その1」の続きです。

広大な一乗谷朝倉氏遺跡の一角に、城下町を復原したゾーンがあります。

今回はその復原町並を歩きます。


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復原町並は土塀で囲われています。


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塀に囲われた重臣の屋敷が山側に並び、計画的に造られた道路を挟んで武家屋敷や庶民の町屋が形成されていた様子がリアルに再現されています。

発掘された石垣建物礎石をそのまま使い、建具なども出土した遺物に基いて忠実に再現されています。


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町屋の入口には色とりどりの暖簾がかけられています。


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こちらの暖簾には「刃」という文字があります。


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どうやら鍛冶屋のようですね。


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こちらは染物屋


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なかには染料の瓶がならびます。


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こちらの建物には暖簾がかかっていませんが・・・。


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中に入ると、焼き物がずらりと並んでいました。

陶器屋のようです。


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裏庭に出てみました。

庭には隣家との垣根がありません。


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井戸跡ですね。


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こちらは、どうやら武家屋敷の門のようです。


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武家屋敷は町家と違って四方を土塀で囲われています。


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敷地内には6間×4間主殿があり、あと、納屋離れもあります。

庭の中央には井戸が。

これらはすべて、発掘された礎石に基いて復原されたものです。


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こちらは使用人が暮らしていたとされる納屋です。


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です。


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こちらが主殿です。


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入ってすぐの台所では、使用人たちが食事の準備中です。


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奥の座敷では、武士が将棋を指しています。

その横には「越前朝倉象棋」と書かれた看板が見えます。

調べてみると、普通の将棋とはちょっと違うみたいで、「酔象(すいぞう)」と呼ばれる駒を使うそうです。

酔象は駒を並べたとき王将のすぐ前に置くそうで、真後ろ以外の7方向へ1マスずつ移動でき、さらに、相手陣に入ると成って「太子」となり王将と同じ動きをするそうです。

また、自軍の王将がとられてしまっても、王将の代わりとして試合を続行できるんだそうで・・・。

いわば王の影武者ですね。

昔の将棋は、実践的です。


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その隣にはが展示されていたのですが、角度的に撮影が難しかったので、その説明板のみ撮影。

朝倉氏最後の当主・朝倉義景と友好関係にあった北近江の小谷城主・浅井長政の厚い信義にあやかって、平成9年(1997年)に作られた鎧だそうです。

義景と長政、織田信長によって薄濃の髑髏にされたふたりですね。

平成になって再び同盟を結んでいたとは知りませんでした。


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さて、復原町並をあとにして、「その3」では朝倉氏館跡を歩きます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-15 20:09 | 福井の史跡・観光 | Comments(0)  

江~姫たちの戦国~ 第2話「父の仇」

 有名な金の髑髏のエピソード。織田信長史として一級史料と評される『信長公記』によれば、越前・朝倉家、近江・浅井家を滅ぼした信長は、討ち取った朝倉義景浅井久政浅井長政の髑髏を薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にし、天正2年(1574年)、自らが主催した正月の宴席において、白木の台に三つ首を御肴として据え置き、皆で謡い遊び酒宴を楽しんだとある。信長の残虐性異常性をうかがわせる狂気の沙汰として、多くの物語で描かれてきた逸話である。一説では、さらにこの髑髏でを作り、これに注いだ酒を家臣に強要した・・・という話もあるが、これについては上記『信長公記』にも記されておらず、出典がわからない。おそらく、後の世の作り話と見るほうが正しいようだ。まあ、金の髑髏を肴に宴を催すというだけでも、同席した家臣たちは腰を抜かすほど恐れおののいたことだろうが・・・。

 ドラマでの信長は、この髑髏を薄濃にした理由を「亡くなりし者への礼節」だという。
 「戦った相手を讃え、その前で酒を酌む。勝者敗者が生ずるのは必定だが、ともあれ戦は終わった。共に着飾り、相打ち解けて、新しき年を迎えようではないか、とな・・・。」
 つまり、死者に敬意を表した行いだったというわけだ。このような説があるのかどうか、ドラマを見た後ネットで調べてみたら、それに近い説があった。供養だというのである。鎌倉時代から伝わり南北朝時代に広がったとされる密教の一派に、立川流密教というものがあり、この宗派はチベット仏教の流れを受け、髑髏を本尊としていたという。これによれば、供養として髑髏に金箔・銀箔を貼る儀式があったらしい。そうして7年間供養すれば、その髑髏は成仏して、討った相手を祟らないと信じられていたようで、特に下克上で主人を殺した武将などが、陰でこっそり行っていたという。表立って公言はしないものの、多くの戦国武将たちが、首実検のあと、立川流密教の技法で討ち取った首を供養していたというのである。

 実際に信長は、浅井長政を高く評価していたともいわれており、小谷城落城のおり、何度も降伏勧告を行い、降伏後は新しく大和へ領地を与えるという、裏切り者を嫌う信長としては破格の案も出されたとか。神仏を否定する信長が、密教の技法を使って敵を供養したというのは少々考えづらいが、「亡くなりし者への礼節」という設定は、あながち否定は出来ないかもしれない。
 「わしが何かをやると、いちいちそうした悪評が立つのよ。」
 髑髏で作った杯のことを尋ねたお江に対して信長がいった台詞だが、そうした悪評を作ったのは、実はこの時代に生きる者たちではなく、信長を狂人としたい後世の者だったのかもしれない。

 天正7年(1579年)、安土城竣工と共に信長のもとを訪れた、お市の方と三人の娘。小谷城落城で浅井長政が死んだのが天正元年(1573年)だから、前話から7年後のことである。つまり、前話で生まれたての赤子だったお江は、満6歳ということである。お茶々が満10歳、お初が満9歳というわけだ。ドラマ中、信長が、森蘭丸・坊丸・力丸の父・森三左衛門可成が死んだ「宇佐山城の戦い」を9年前といっていたから、時代設定も間違ってはいない。つまり今話のお江は、今でいえば小学校1年生というわけだ。これはさすがに無理があった(笑)。精一杯無邪気な女の子を演じておられたが、舞台劇ならともかく、テレビドラマで大人の女優さんが幼女を演じるのは、やはり無理がありすぎただろう。今話はまだ、子役に演じさせたほうが良かったのではないかとも思うが、とはいえ、この3年後の「本能寺の変」のときで江は満9歳、さらにその1年後の「賤ヶ岳の戦い」のときでも満10歳ということを考えれば、子役からの変わりどきがないといえば、確かにそうである。お江という女性の物語である以上、幼少期を長く描かねばならず、その間ずっと子役というのも難しく、苦肉の設定だったのだろう。なるほど、だから幼いイメージのある上野樹里さんがお江の配役だったんだと、妙に納得した今話だった。

 上野さん、頑張ってください(笑)。


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by sakanoueno-kumo | 2011-01-18 22:48 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(4)