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西郷どん 第46話「西南戦争」その4 ~西郷軍解散と木戸孝允の死~

 昨日の続きです 

田原坂の陣を奪われた西郷軍は、以後、退却を重ねていくことになります。3月20日に田原坂をあとにした西郷軍の本営は、4月以降、神瀬、木山を経て、もともと薩摩国に接し、薩摩の影響の強い人吉へと移されました。ここで西郷隆盛は、負傷した別府晋介鹿児島に帰らせ、先に熊本から帰郷していた桂久武とともに、新たな兵員の募集に当たらせました。この期に及んで、まだ西郷は戦いを諦めてはいなかったようです。しかし、この時点ではすでに武器弾薬や食料は底をつき、その敗北は誰の目にも明らかな状態になっていました。


 そんな状況のなか、逮捕された大山綱良に変わって新たに鹿児島県令に任に就いていた岩村通俊から、5月7日、すでに決着がついたとしたうえで、これ以上の犠牲者を出さないために、西郷に対して投降を呼びかける告諭書が出されます。しかし、西郷はこれを受け入れることはありませんでした。ここで投降するなど、死んでいった兵たちに申し訳が立たないといった心境だったのかもしれません。また、同時期に、鹿児島城下にいた西郷軍が奪還を目指して兵を挙げ、城下の大部分が焼け野原となる攻撃を仕掛けていたことも関係していました。事ここに至っては、もう後戻りはできなかったんでしょうね。


e0158128_15131310.jpg やがて人吉の西郷軍の本営も政府軍に攻撃を受け、6月1日に陥落します。やむなく西郷軍は宮崎方面へ逃れ、都城、宮崎、高鍋と本営を転々としたのち、延岡の北方にあった長井村へ逃れ、8月15日、ここで西南戦争最後の激戦が展開されることになります。2月の挙兵以来、これまで西郷は戦闘の指揮を桐野利秋らに任せて口出しすることはありませんでしたが、このとき、初めて自ら指揮を執りました。西郷は、丘陵の中央に位置した和田越えの頂上に立ち、約3千人の兵を集めて彼らを激励し、士気を鼓舞したといいます。それは、弾丸が雨のように降り注ぐ中での指揮でした。このとき、村田新八らが危険だから高台を降りるようにといくら勧めても、西郷はその場を動こうとはせず、やむなく、兵数人で西郷の巨体を抱え、無理やり後方へ運んだといいます。このとき西郷はどんな心中だったのか。あるいは、敗色が濃厚となるなか、弾に当たって戦死しようとしていたのかもしれません。


 西郷の指揮もむなしく、西郷軍の士気は低下し、投降者が相次ぎました。やがて西郷は、これ以上の戦争継続は困難と判断し、8月16日、軍の解散を布告し、全将兵に行動の自由を許しました。このとき、西郷自身も、自らの身体にけじめを付けるべく、陸軍大将の軍服を焼却するなどの身辺整理を行ったといいます。西郷は解散令を出したあと、自ら人を呼び、野戦病院の始末などの事務処理細かく指示したといいます。これも、鹿児島出立以来、はじめてのことでした。このときの西郷について、作家・司馬遼太郎氏はその著書『翔ぶが如く』のなかで、次のように述べています。


 「西郷は戦いのあいだ狩猟などをして何もせず、和田越をのぞいては前線にさえ立たなかったが、最後にのぞみ、解散についてのさまざまな始末を、幕僚にはかることなくみずからやったという点、この人物の何事かが見えるようである」


 部下を信頼して仕事を任せる。失敗すれば、その責任をとって後始末をする。そう考えれば、理想的な上司像といえるかもしれませんが、これが、戦争の指揮官として理想的といえるかどうかは、難しいところですね。


 全軍解散となった西郷軍でしたが、それでも、西郷を慕う私学校以来の約300人行動を共にすることを希望します。そして、このあと長井村から脱出を図る有名な作戦が決行されます。それは次回、最終回にて。


 e0158128_19334109.jpg最後に、木戸孝允についても触れておきましょう。西郷たちが人吉を本営としていた明治10年(1877年)5月26日、木戸は京都の邸で病にて息を引き取りました。木戸はその死の直前、西南の地で挙兵した西郷と明治政府を案じ、昏睡状態のなか見舞いに訪れた大久保利通の手を握りしめ、「西郷、いいがげんにせんか」と言ったといいます。盟友といえたかどうかはわかりませんが、木戸にとって西郷、大久保は共に明治新国家を作り上げた同志であったことは間違いなく、その同志のふたりが敵対している現状は、木戸にとって最大の心残りだったに違いありません。結局、西郷は木戸の死から4ヶ月後、大久保も約1年後に落命します。「維新三傑」と呼ばれたこの3人が、偶然にもわずか1年の間にこの世を去ることになるという事実も、歴史というのは実にドラマチックにできていると思わずにいられません。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-13 23:59 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第40話「波乱の新政府」 ~廃藩置県~

 明治4年(1871年)7月14日、明治政府によって廃藩置県の詔が発令され、すべての藩が廃止されます。同時に、知藩事に任命されていた旧藩主たちすべても解任されて東京に集められ、代わって政府が選んだ適任者が、県令(現在の県知事)として配置されました。


 ここで、版籍奉還から廃藩置県の流れについてふれておきます。明治政府は、幕藩体制下の封建制から近代的な中央集権国家をつくるため、支配していた土地(版)人(籍)を天皇に返還させたのが版籍奉還でしたが、しかし、代わりに旧藩主を旧領地の知藩事に任命し、その下には、縮小されたとはいえ相変わらず武士団が存在し、年貢の取り立ても、知藩事が行っていました。結局のところ、便宜上、版籍を奉還したものの、かたちとしてはあまり変わっておらず、明治政府の力は依然として弱いものでした。このままでは、いつクーデターを起こされるかわからない。政府は、もっと地方の力が弱まる政策を必要としていました。

 この頃、旧天領や旗本支配地などは、政府の直轄地として「府」「県」が置かれ、政府から知事が派遣されていました。東京府、大阪府、京都府の3府と、現在まで名称が残っている県としては、兵庫県、長崎県などがそれにあたります(現在の区画とは大きく異なります)。この制度を全国に統一させようというのが「廃藩置県」でした。イメージ的に、廃藩置県によって初めて府や県ができたように思いがちですが、実は、「府」「県」「藩」が同時にあった時期があるんですね。これを「府藩県三治制」といいます。中央集権と地方自治が入り混じった複雑な時期だったんですね。


 e0158128_19334109.jpg政府としては、一刻もはやく廃藩置県を発令したかったのですが、それには、まず、直轄の軍隊をつくる必要がありました。廃藩置県の荒療治を断行するには、それ相応の反作用が予想されるわけで、それを抑えつけるだけの軍事力が不可欠。それには、徴兵制が必要だと唱えたのが、長州藩出身の大村益次郎でした。この案に政府参議の木戸孝允は賛同しますが、同じく参議の大久保利通らは、いきなりそんな強引なことをすれば、たちまち戦になるとして、反対の立場をとります。その後、両派は連日激論を交わしますが、結局、大久保らの主張する慎重論に収まり、薩摩・長州、土佐三藩による御親兵の設置が決まりました。このときの心境を木戸は日記にこう綴っています。


 「わが見とは異なるといえども、皇国の前途のこと、漸ならずんば行うべからざることあり」

 自分の意見とは違うが、すこしずつ前進させていかなければならない、ということですね。我慢強い木戸らしい述懐です。

e0158128_15131733.jpg その後、大久保による政府内の構造改革を経て、洋行帰りの山縣有朋を兵部少輔にすえて御親兵を設置。廃藩置県を断行するお膳立ては整いましたが、さらにこの政策を強固なものにするために、大久保は鹿児島に引っ込んでいた西郷隆盛に中央政府への出仕を求めます。人望のある西郷を押し立てて、その威光を借りて改革を断行しようと考えたんですね。このあたりが、大久保の政治家としてのスゴイところです。この頃の大久保の言葉が残っています。

 「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず」

 何もせずに失敗するよりも、大勝負を打って失敗したほうが、よっぽどいいじゃないか!・・・ってことですね。さすが、決断力と行動力の人です。


ドラマでは、なぜか廃藩置県の強硬に推し進めていたのは大久保ひとりで、木戸をはじめ他の政府首脳たちは慎重論を唱えていたように描かれていましたが、実際には逆で、最も廃藩置県に積極的だったのは木戸を始めとする長州藩閥で、大久保は、廃藩置県の必要性は理解していたものの、自身の出身藩である薩摩藩のお家事情などを考慮して、当初は慎重な姿勢を示していました。しかし、ひとたびやると決めたら、そこからは心を鬼にして徹底的に断行するのが大久保流です。事実、ドラマでも描かれていたように、明治3年12月18日(1871年2月7日)に勅使・岩倉具視とともに鹿児島入りした大久保は、国父・島津久光大激論を交わしたといいます。そして、これが大久保の最後の帰郷となりました。かつての主君と事実上決別した大久保は、このとき、二度と鹿児島の地を踏まない覚悟をしていたのかもしれません。


e0158128_15131310.jpg 廃藩置県推進派にとって、もうひとつの壁は西郷でした。実質、西郷は薩摩藩士族のリーダーであり、西郷の賛同なくしてこの改革を推し進めることは容易ではありません。しかし、その肝心の西郷が、この件を同意しないのではないかという見方が推進派に強くあったようです。というのも、薩摩藩は他藩に比べて武士の数が断然多く、したがって、廃藩を実行すれば失職する者が他藩より多く出ることは目に見えていました。士族の救済問題に人一倍熱心であった西郷が、士族の特権を全面的に否定するような策に賛同するはずがない。だれもがそう思っていたのですが、この件を山縣有朋が西郷に同意を求めに行ったところ、「木戸さんが賛成なら、よろしいでしょう。」と、意外にもあっさり同意したため、逆に山縣がうろたえたというエピソードがあります。また、後日、廃藩置県後の処置をめぐって政府内で議論が乱れ始めたときも、遅れて来た西郷が、「もし各藩において異議が起こるようであれば、兵をもって撃ち潰すほかありません」との一言を発したことで、議論がたちまち収まったというエピソードもあります。ドラマで、遅れてきた西郷が大久保に賛同したことで議論が収束したシーンがありましたが、おそらく、この逸話をアレンジしたものでしょう。西郷の発言力、影響力の大きさが窺える話ですね。


 では、なぜ西郷はこの荒療治にあっさり賛同したのでしょう。このときの心境を語った書簡などが残されていないため、西郷の心のうちはわかりません。士族の失業は西郷の望むところではなかったでしょうが、明治維新という革命の創作者として、最後の仕上げともいえる廃藩置県の必要性は、西郷とて理解し得ないことではなかったということでしょうね。


 こうして水面下で準備が整えられ、明治4年(1871年)7月14日、ほとんどクーデターの如く廃藩令が下され、藩が消滅しました。意外にも、懸念された暴動のようなものは、ほとんど起こりませんでした。何の前触れもなく電撃的に行われたため、呆気にとられた感じだったのかもしれません。それと、諸藩側の事情としても、戊辰戦争以来の財政難に行き詰まっていた藩が多く、廃藩は渡りに船といった感もあったようです。政府は、藩をなくす代わりに、諸藩の抱える負債を引き継ぐかたちとなりました。いろんな意味で、絶妙のタイミングでの革命だったのかもしれません。

 この革命を知った英国の駐日公使ハリー・パークスの感想が、アーネスト・サトウの日記に残っているそうです。

 「欧州でこんな大改革をしようとすれば、数年間戦争をしなければなるまい。日本で、ただ一つ勅諭を発しただけで、二百七十余藩の実権を収めて国家を統一したのは、世界でも類をみない大事業であった。これは人力ではない。天佑というほかはない」

 こうして261藩は解体され、1使3府302県となり、同じ年の11月には1使3府72県に改編されます。パークスが大絶賛した無血革命でしたが、武士すべてが失業という荒療治の反動は、この後ジワジワと押し寄せてくることになります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-10-29 21:49 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第39話「父、西郷隆盛」その2 ~版籍奉還~

 昨日の続きです。

 薩摩藩と長州藩が中心で発足した明治新政府は、旧幕府や戊辰戦争で敵対した諸藩の領地を接収し、これを直轄地としましたが、全国にはまだまだ諸藩が独立したかたちで存在しており、それぞれの藩には藩主がいて、その家臣たちがいます。すなわち、各藩には幕藩体制から続いた兵力がそのままとなっていたわけです。一方の明治新政府には、これを守る軍隊はありません。新政府からすると危なくてしょうがない状態だったわけで、まず新政府のやるべきことは、藩をつぶし、中央政権としての軍隊を持つことでした。しかし、それは容易なことではありません。


e0158128_19334109.jpg そんなとき、姫路藩主の酒井忠邦が、「藩の名称を改め、すべて府県と同じにし、中興の盛業を遂げられたい」との提案を持ち込みます。この案に木戸孝允が飛びつきます。諸藩から無理やり権力を奪い取るのではなく、皇国日本をつくるためという名目で、藩主自ら領地と人民を朝廷にお返しする。その代わり、藩主は旧領地の知藩事(現在の知事)になり、行政を担います。つまり、小国の国王から、大国の役人になるということですね。いわゆる版籍奉還です。木戸は、戊辰戦争前から封建制打破を考えており、これを実現するにはこの方法しかないと立ち上がり、それには、まずは新政府の中心的藩である長州藩と薩摩藩が率先してやらねばならないと考え、藩主・毛利敬親を説得します。幕末以来、長州藩は藩主が木戸ら藩の参政のやることに口を出す習慣がほとんどなく、このときも、木戸の申し出がすんなり通ります。


e0158128_15131733.jpg そして木戸は、中央における薩摩藩の代表・大久保利通を説得しますが、大久保は、版籍奉還の必要性は理解しますが、木戸ほど積極的ではありませんでした。それは、二人の出身藩の違いにあったといえるでしょう。藩主は多分にお飾りで、幕末からすでに封建的気分から脱却しつつあった長州藩と、島津久光という封建制の打破など絶対認めるはずのない保守派の国父が君臨する薩摩藩では、抱えている事情が違ったんですね。


 しかし、最終的には大久保も木戸案に同意し、明治2年6月17日(1869年7月29日)に版籍奉還は勅許されます。その内容は、知事家禄の総額を、藩の実収の一割に抑えるべきこと、および、藩士の禄制改革を指示し、藩士は一律に「士族」と称することとし、知藩事(旧藩主)と藩士との主従関係も、制度的にないものとしました。すなわち、士族は皆、藩の縛りがなくなって天皇に仕える身となったわけで、中央政府が諸藩の有能な人材を徴用するにあたっても、藩主の許可を必要としなくなったわけです。


e0158128_11283315.jpg ドラマでは描かれていませんでしたが、翌年の1月、大久保は一度、鹿児島に帰郷しています。その目的は、久光と西郷隆盛を政府に呼ぶための交渉でした。久光は政府の基本的な方針、特に、封建制廃止の方向に反対し、また、版籍奉還による旧藩主の処遇にも、強い不満を抱いていました。久光は、旧来の幕府独裁政治は拒否したものの、封建体制そのものの存続を望んでいました。そんな久光を中央に呼び寄せようというのは、ひとつには、久光と薩摩藩士たちを切り離す意味もあったでしょう。この頃、長州でも藩の兵制改革に反対する奇兵隊らの一部の隊士による暴発事件が起きていました。中央政府に否定的な久光が鹿児島にいたら、強引な改革に不平を持つ士族たちが久光を担ぎ、何をしでかすかわからない。猛獣を東京というに入れてしまおうとしたんですね。しかし、久光は病気を理由にこれを断固として断り、また、西郷の引出しにも失敗します。


 版籍奉還は、制度的には藩主の土地所有権がなくなり、藩士たちとの主従関係もなくなりましたが、形としては、藩主は知藩事と名を変えてそのまま残り、その下には相変わらず武士団がいます。一方の中央政府には、未だ直轄の軍隊といえるものがありません。これでは、完全な意味での封建制打壊とはいえず、新国家を作るには、もっと荒療治が必要だったんですね。すなわち、廃藩置県です。この大改革を実現するために、政府はどうしても維新最大の功労者である西郷の声望を必要としました。こうして西郷が東京へ駆り出されます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-10-23 21:06 | 西郷どん | Trackback | Comments(4)  

西郷どん 第32話「薩長同盟」その2 ~薩長盟約~

 昨日の続きです。

 慶応2年1月21日(1866年3月7日)、小松帯刀寓居の「御花畑御屋敷」において、薩長同盟が成立しました。これまで何度も大河ドラマで描かれてきた薩長同盟のくだりですが、今回もいつもどおりの通説に沿った設定で描かれるのかと思いきや、坂本龍馬が最初から同席していたり、いるはずのない伊藤俊輔(博文)がいたり、大山格之助(綱良)有村俊斎(海江田信義)が怒鳴り込んできたりと、トンデモな展開でしたね。今までにない薩長同盟を描こうという趣旨だったのかもしれませんが、ちょっとやり過ぎだったんじゃないでしょうか。大事な回ですからね。なので、ここでは通説に沿って解説します。


e0158128_21461967.jpg 慶応2年(1866年)1月8日、京都で薩摩と長州の会談が始まります。薩摩側は小松帯刀、桂右衛門、島津伊勢の3家老と、西郷吉之助(隆盛)、大久保利通、吉井幸輔、奈良原繁らの出席がわかっていますが、長州側は桂小五郎(木戸孝允)ひとりでした。この席には、坂本龍馬中岡慎太郎土方楠左衛門(久元)もいませんでした。ここまで斡旋したのだから、あとは当事者同志に任せるといったところだったのでしょう(お見合いみたいですが)。ところが、会談が始まって10日が過ぎた1月20日、京に入った龍馬は愕然とします。協定はまとまらぬまま、桂は帰ろうと身支度をしていたのです。桂がいうには、西郷らは毎日接待に気を使い、ご馳走攻めにはするものの、一言も両藩の協定について口火を切ろうとしない・・・とのこと。「ならば、なぜ長州から口火を切らぬ。」と龍馬が尋ねると、「それは出来ぬ。」と桂はいいます。曰く、両藩の立場が違う・・・と。その理由を後年の桂の回顧録『木戸孝允自叙ノ要領』から抜粋すると、

「薩州ハ公然天子ニに朝シ、薩州ハ公然幕府ニ会シ、薩州ハ公然諸侯に交ル」と。
 つまり、合法的に天子とも幕府とも諸侯とも交われる立場の薩摩に対して、孤立無援の長州から協定の口を開くということは、助けてくれというのと同じだ・・・というんですね。これを聞いた龍馬は激怒します。いつまで「藩」の体面にこだわっているのか、と。
 「拙者らが両藩のために寝食を忘れて奔走するのは、決して両藩のためではない。一意国家を思えばこそだ。しかるに貴兄らは足を百里の外に労し、両藩の重役相会しながら今日まで為す事もなく日を送るのは、はなはだ心得ぬことではないか。」と。
 のちに龍馬は、亀山社中の中島作太郎に、「おもえば自分は生まれてこのかた怒ったことがなかった。しかしあのときばかりは、度を失うほどに腹が立った。」と語っています。

e0158128_14540330.jpg 桂は龍馬の怒りを理解できなくはなかったでしょうが、感情がそれを許さなかったのでしょう。感情は理屈ではありません。これまでの長州人の苦しみを考えれば、理屈ではどうにもならない意地がありました。その意地を貫くためなら、長州は滅んでもかまわない・・・とまで桂はいいます。
「薩州、皇家ニ尽スアラバ、長州滅スルトイヘドモ亦天下ノ幸ナリ」と。
 長州は面目にこだわりはしたが、「天下」のことを考えていないわけではない。薩摩が生き残り、皇国のために奮闘してくれるならば、長州は滅んでもかまわない、と。この言葉を聞いた龍馬の態度は、また『木戸孝允自叙ノ要領』の文章を借りると、
「龍馬、黙然タルコト稍久シク、桂ノ決意牢固トシテ容易ニ動カスベカラザルヲ察知シ、マタ敢ヘテ之ヲ責メズ。」とあります。

龍馬は桂の立場を理解しました。

 その足で龍馬は、西郷のもとに駆けつけます。薩長両藩の提携は、その目前に際して、感情の整理が必要だったんですね。龍馬は西郷に対して、薩摩と長州のおかれた立場があまりにも違いすぎることを説きます。そして、この期に及んでなおも藩の体面と威厳を保とうとする薩摩を責めました。西郷は龍馬の説くところを理解します。そして翌日、もう一度桂と会い、西郷から長州との提携の議をもちだしました。同席したのは、薩摩側から西郷、小松、長州側から桂、そして仲介人として龍馬の4人でした。


e0158128_15131310.jpgこれが、これまで通説となっている薩長同盟の経緯ですが、ただ、この話は、桂が後年に語った回顧録のみを史料としたものであり、史実かどうかはわかりません。木戸が多少話を盛っているかもしれませんしね。また、薩長両藩とも互いのメンツにこだわって同盟話を切り出さずに暗礁に乗り上げかけたときに、遅れて来た龍馬が西郷一喝し、同盟が成立したという話がよく知られていますが、これも、「西郷を一喝した」という記録はどこにも存在せず、木戸の回顧録にもありません。後世の脚色のようですね。龍馬が遅れて来たのは事実で、龍馬が来てからすぐに同盟が成立したのも事実ですから、龍馬が同盟の成立に何らかの役割を果たしたのは事実かもしれませんが。


また、一般に、薩長同盟の締結によって薩摩・長州両藩がともに幕府に対抗することを確認し、明治維新に向けての大きな転換点となった重大な同盟という認識ですが、実は、歴史家の間では、この同盟は薩長間に大きな温度差があったのではないか、と見られています。というのも、それほど重要な会談でありながら、その内容はその場で記録されず、正式な盟約書も残されていません。ドラマでは薩長の間で合意文書が交わされていましたが、あれはドラマの創作です。現在伝わっている6ヶ条の内容は、会談の翌日に木戸孝允が、同席していた坂本龍馬に宛てて確認のために送った書簡によるもので、その書簡の裏面に木戸の要請で龍馬が朱書をしたものだけです。そのことから、長州側にとっては、この会談の持つ意味は大きかったものの、薩摩側からすれば、「同盟」というほど大袈裟なものではなく、単に意思確認をしただけだったのではないか、とも見られ、しかし、会談による何らかの成果を持ち帰りたかった木戸が、書簡に龍馬の裏書きを求めたのではないか、と考えられています。確かに、正式な盟約書が存在したのなら、龍馬の朱書きなんて必要ないですもんね。そんな観点から、「同盟」といわれるだけの内実を有していないという理由から、学会では「薩長盟約」という表現が用いられています。


薩長間の温度差はあったかもしれませんが、この同盟(盟約)によって幕末の歴史が大きく動いたことは間違いありません。歴史はいよいよ「倒幕」の道をたどることになります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-08-28 22:59 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第30話「怪人 岩倉具視」 ~岩倉具視の蟄居生活~

500円札の肖像で知られる岩倉具視が主人公の回でしたね。ドラマ中、自身をヤモリと卑下していましたが、実際に、当時、岩倉は「守宮(やもり)」あだ名されていました。すばしこくて出没を予測できない策謀ぶりを評したあだ名だったようですが、当時の軟弱な公家のなかで、珍しく智謀と胆力を兼ね備えた人物だったといいます。


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文政8年(1825年)に参議正三位・堀河康親の次男として生まれた岩倉は、天保9年(1838年)に公卿・岩倉具慶の養子になります。安政元年(1854年)には孝明天皇(第121代天皇)の侍従となり、次第に朝廷内において台頭し、発言力を増してきました。


若き日の岩倉は攘夷派で、幕府の推し進める日米修好通商条約の調印に反対して「廷臣八十八卿列参事件」の中心人物となりますが、その後、幕府との調和の必要性を悟り、公武合体をすすめるため、孝明天皇の妹・和宮親子内親王の将軍家への降嫁を推進ます。このとき岩倉は、将軍・徳川家茂から直筆の誓書を提出させることに成功し、孝明天皇から直々にその功労を労われました。岩倉の推し進めた公武合体は、あくまで朝廷主導の公武合体であり、一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのですが、ところが、尊皇攘夷派は岩倉を佐幕派の巨頭と見るようになり、尊攘派の圧力によって失脚に追い込まれます。


文久2年(1862年)8月に蟄居処分となって朝廷を去った岩倉は、落飾して西賀茂の霊源寺や洛西の西芳寺に身を隠しますが、同年10月に長男の岩倉具綱が洛北の岩倉村に住居を用意してくれたので、移り住みました。以降、洛中への帰参が許される慶応3年(1867年)11月まで、岩倉村で5年間も蟄居生活を送ることとります。


e0158128_17375658.jpg 岩倉がふたたび政治活動をはじめたのは、慶応元年(1865年)秋ごろから、つまり、ドラマのこの時期からでした。この頃になると、薩摩藩や朝廷内の同志たちが再び岩倉のもとへ訪れるようになります。ドラマ中、西郷吉之助(隆盛)が箱の中に眠っていたたくさんの意見書を見つけて感嘆するシーンがありましたが、これは、おそらくこの時期の岩倉が書いた『叢裡鳴虫』という政治意見書のエピソードを下敷きにした話でしょう。岩倉はこの意見書を来訪した薩摩藩士の井上石見に託し、大久保一蔵(利通)小松帯刀の意見を求めました。西郷はいません。この時期、岩倉と熱心に接していたのは大久保で、西郷と岩倉の接点は薄く、むしろ、どちらかといえば西郷は岩倉を苦手としていたようです。


 岩倉の示した意見書『叢裡鳴虫』は、「草むらに隠れて鳴く虫」を例えた題名で、自身の置かれた境遇を表した言葉ですが、その内容は、公武一和を説いたものでした。このなかで岩倉は、島津久光の偉材であることをたたえたうえで、先の禁門の変後の長州藩の処遇について、薩摩藩がイニシアティブをとって寛大な処置をすべきだと説いています。そして注目すべきは、薩長両藩が手を結び、朝廷と協力すべきだと説いていることです。岩倉は洛北のあばら家で蟄居生活を送りながらも、すでに薩長同盟の必要性を感じていたんですね。ただのヤモリではなかったということです。


 ちなみに、ドラマ中、岩倉が開いた賭場に乞食に扮した桂小五郎が列席していましたが、もちろん、これはドラマの創作であり、ありえない設定です。この時期、桂は但馬の出石藩で商人に扮して潜伏していました。どうも、このドラマでは必要以上に桂と西郷の接点を作りたいようです。それは、今後のドラマの展開の伏線なんでしょうか。


 ちなみにちなみに、岩倉と西郷は、実は2歳しか変わりません。老獪な策謀家というイメージでのキャスティングだったのでしょうが、ちょっと無理があったような気がしないでもないですね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-08-13 01:20 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その71 「小松帯刀寓居跡」

前稿で紹介した薩摩藩二本松藩邸跡の石碑から800mほど北上したところに、五摂家のひとつである近衛家の別邸(御花畑御屋敷)があったとされ、幕末には薩摩藩家老の小松帯刀が寓居としていました。

現在、その跡地には、「小松帯刀寓居跡」と刻まれた石碑があります。


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石碑の反対面には、「薩長同盟所縁之地」と刻まれています。


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慶応2年1月21日(1866年3月7日)、土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介で、それまで対立していた薩摩藩と長州藩の間で結ばれたという薩長同盟ですが、その締結の場となったのが、小松帯刀の邸だったと伝わります。

公式な記録は残っていませんが、長州藩士・木戸孝允の伝記『松菊 木戸公伝』の中に、この同盟について「帯刀の寓居に會合し」と記されており、ここが薩長同盟締結の場であったことを後世に伝えています(諸説あり)。


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最近まで、御花畑御屋敷のあった正確な場所はわかっていなかったそうですが、平成28年(2016年)に新たな史料が見つかり、鞍馬口通りにあったことが確認されたそうです。

その史料によると、御花畑御屋敷は鞍馬口通約90m、室町通約60m、中町通約140m、面先は約1800坪という広大な邸宅であったことがわかりました。


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一般に、薩長同盟の締結によって薩摩・長州両藩がともに幕府に対抗することを確認し、明治維新に向けての大きな転換点となった重大な同盟という認識ですが、実は、歴史家の間では、この同盟は薩長間に大きな温度差があったのではないか、と見られています。

というのも、それほど重要な会談でありながら、その内容はその場で記録されず、正式な盟約書も残されていません。

現在伝わっている6ヶ条の内容は、会談の翌日に木戸孝允が、同席していた坂本龍馬に宛てて確認のために送った書簡によるもので、その書簡の裏面に木戸の要請で龍馬が朱書をしたものだけです。

そのことから、長州側にとっては、この会談の持つ意味は大きかったものの、薩摩側からすれば、「同盟」というほど大袈裟なものではなく、単に意思確認をしただけだったのではないか、とも見られ、しかし、会談による何らかの成果を持ち帰りたかった木戸が、書簡に龍馬の裏書きを求めたのではないか、と推察されます。

確かに、正式な盟約書が存在したのなら、龍馬の朱書きなんて必要ないですもんね。

そんな観点から、「同盟」といわれるだけの内実を有していないという理由から、学会では「薩長盟約」という表現が用いられています。


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また、よく知られているエピソードで、薩長両藩とも互いのメンツにこだわって盟約話を切り出さずに暗礁に乗り上げかけたときに、遅れて来た坂本龍馬が西郷隆盛一喝し、盟約が成立したという旧くからの説がありますが、これも、「西郷を一喝した」という記録はどこにも存在せず、後世の脚色のようですね。

龍馬が遅れて来たのは事実で、龍馬が来てから盟約が成立したのも事実ですから、龍馬が盟約の成立に何らかの役割を果たしたのは事実かもしれませんが。


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説明板によると、以前は別の場所が御花畑御屋敷跡だと判断されて石碑が建てられていたそうですが、その後、その場所が誤りだということがわかり、平成29年(2017年)3月、改めてこの地に建碑されたそうです。



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by sakanoueno-kumo | 2018-06-09 09:32 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その36 「池田屋跡」

木屋町通りと河原町通りの間の三条通り沿いに、「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。

説明するまでもないと思いますが、「池田屋騒動」とは、元治元年6月5日(1864年7月8日)夜、在洛の長州、土州など諸藩の尊王攘夷派志士たちが謀議中に新撰組に急襲され、乱闘のすえ多くの志士が落命した事件です。

「池田屋事件」「池田屋の変」ともいいますね。

その舞台となった旅館・池田屋があったこの地には、現在、「池田屋」の名称を掲げた居酒屋が営業しています。


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尊攘派の志士たちが池田屋で密会しているという情報を得た新選組は、京都守護職および所司代に報告し、五ツ時(午後8時)に協力して襲撃することとしますが、守護職、所司代ともに部下の援軍がなかなか来ないので、四ツ時(午後10時)、新選組の単独行動で襲撃を決行しました。

このとき、池田屋の2階に集結していた浪士たちは、宮部鼎蔵吉田稔麿、望月亀弥太ら約30名。

これに対し、新選組は、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名のみで斬り込みました。


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不意をつかれた尊攘派は懸命に応戦し、旅館の内外は大混乱となります。

近藤勇は、その夜の様子を次のように記しています。

「かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候、藤堂は鉢金を打ち落され候より深手を受け申し候」(徒党の多勢相手に火花を散らし、一時あまりの間、戦闘におよんだところ、永倉の刀は折れ、沖田の刀は帽子折れ、藤堂の刀は刃切れ、ささらのようで、倅の周平は鑓を切り折られ、下拙(自分)の刀は名刀虎徹であるからだろうか、無事であった。藤堂は鉢鉄を撃ち落とされたので、深手を受けた)
と、戦闘の激しさを仔細に伝えたうえで、
「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候」(じつにこれまで、たびたびの戦いをしてきたが、二合わせ戦った者はまれに覚えているほどであるが、今度の敵は多勢であるとはいえ、いずれも万夫の勇者で、まことに危ういところを助かった)
と、戦った尊攘派志士たちに対しての感想を綴っています。


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戦闘のあと、守護職・所司代配下の者など約3000人が駆けつけましたが、その時には多くの志士たちの息はなく、池田屋の女将までもが命を落としました。

幸運に命が残った者は捉えられ、わずかに桂小五郎(のちの木戸孝允)、渕上郁太郎らがからくも脱出します。

小五郎は一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、襲撃時に池田屋におらず難を逃れたと言われていますが、別の話では、小五郎はこのとき屋上に出て間一髪逃げ去ったという記録もあります。


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この池田屋事件の功績によって、新選組は幕府、朝廷から感状褒賞金を下賜され、その武名は一躍、天下に轟きました。

一方、尊攘派は、宮部鼎蔵をはじめ多くの逸材を失い、大打撃を受けます。

この事件によって明治維新が1年遅れたという人もいれば、逆に、この事件が尊攘派を刺激して、維新を早めたという人もいます。

いずれにせよ、幕末の歴史を大きく動かした事件であることは間違いないでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-18 23:05 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(6)  

幕末京都逍遥 その35 「二条大橋」

二条大橋にやってきました。

ここは、桂小五郎(木戸孝允)幾松(木戸松子)の恋物語の舞台ですね。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で敗走した長州藩士は、朝敵として会津藩兵新選組から追われる身となりますが、そのとき桂は、乞食の姿に身をやつして二条大橋の下に潜んでいました。

その桂に、幾松が握り飯の入った包みを橋の上から落として届けていたという逸話は、あまりにも有名ですね。


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実際には、桂がここに潜伏していたのは5日間ほどだったといいます。

その後、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活が不可能だとわかると、しばらく但馬の出石に潜伏することになります。


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現在の二条大橋はご覧のとおり、当時の面影はまったく残っておりません。

桂が潜伏していた(かもしれない)橋の下に、何やら説明板があります。

あるいは、桂と幾松の逸話を紹介したものかもと近寄ってみると・・・


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狩野永徳「上杉本 洛中洛外図屏風」の紹介でした。

残念。


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わたしがここを訪れたのは、桜が満開の平成30年(2018年)3月31日。

橋の下の河川敷では、多くのカップルデートしていました。

150余年前の桂と幾松の恋物語を知っているのかどうかはわかりませんが。



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by sakanoueno-kumo | 2018-04-17 22:37 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その34 「木戸孝允旧跡」

前稿で紹介した長州藩邸から300mほど北上したあたりに、明治維新後に木戸孝允が邸を構えた場所があります。

明治2年(1869年)、木戸は近衛邸を買い取って、自身の京都別邸としました。

現在、「石長松菊園」という旅館の玄関前にその石碑が建っています。


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「木戸孝允旧跡」と刻まれています。

このあたり一帯に、かつて木戸孝允の邸があり、明治10年(1877年)5月26日、この地で木戸は死去しました。


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この石碑がいつ建てられたものかは調べがつきませんでしたが、もともとここに大正5年(1916年)に建てられた石碑があったそうで、のちに作り直されたものだそうです。


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「石長松菊園」命名由来の「松菊」は、木戸の雅号だそうです。


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石長松菊園の北側にある「お宿いしちょう」の玄関前にも、同じ石碑が建てられています。


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「石長松菊園」とは姉妹店だそうです。


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そして、そこから東へ入ったところにある「京都市職員会館かもがわ」の入口前には、「明治天皇行幸所木戸邸」と刻まれた石碑があります。


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木戸が死去する1週間ほど前、明治天皇が自らこの地に御見舞に訪れたそうです。

当時、天皇が皇族など身内以外を自ら見舞うことなど、前例のないことでした。

そもそも木戸は長州の一介の武士に過ぎず、これが10年前であれば、天皇に拝謁するなどあり得ないことでした。

明治天皇が見舞いに訪れたという事実は、当時の人々をさぞかし驚嘆させたことでしょう。

時代は変わったのだということを、改めて世間に知らしめた出来事だったかもしれません。


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かもがわ敷地内には、孝允が没した木造二階建て家屋が残されています。


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建物前にも昭和11年(1936年)に建てられた石碑があります。


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建物は江戸後期の築ですが、大正12年(1923年)に改築工事が行われ、その際に多くの建物は移築さたそうで、現在は小さな2階建てのこの建物だけが残されています。


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なかには入れませんでしたが、1階は10畳1間、2階は6畳の出床と3畳の次の間の2部屋だそうです。


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こじんまりとした正方形の建物で、おそらく茶室離れのようなあつかいだったんじゃないでしょうか。


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明治天皇が御見舞に来られた1週間後の明治10年(1877年)5月26日、木戸はこの邸で息を引き取ります。

木戸はその死の直前、西南の地で挙兵した西郷隆盛と明治政府を案じ、昏睡状態のなか見舞いに訪れた大久保利通の手を握りしめ、「西郷、いいがげんにせんか」と言ったといいます。

盟友といえたかどうかはわかりませんが、木戸にとって西郷、大久保は共に明治新国家を作り上げた同志であったことは間違いなく、その同志のふたりが敵対している現状は、木戸にとって最大の心残りだったに違いありません。

結局、西郷は木戸の死から4ヶ月後、大久保も約1年後に落命します。

「維新三傑」と呼ばれたこの3人が、偶然にもわずか1年の間にこの世を去ることになるという事実も、歴史というのは実にドラマチックにできていると思わずにいられません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-15 00:03 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その33 「長州藩邸跡」

京都市営地下鉄東西線「京都市役所前」駅をの地上にあるホテルオークラの南側に、「長州屋敷跡」と刻まれた石碑があります。

かつてこのホテルの敷地には、長州藩邸がありました。


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説明板によると、藩邸は、はじめ南北2か所に分かれ、北側屋敷は表口39間(約70m)、裏行31間(約56m)、南側屋敷は表口30間(約54m)、裏行8間(約14m)に及んだといいます。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で、会津、薩摩を中心とする朝廷、幕府側に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち、京都を逃れたそうです。

邸内の放火はたちまち市中に延焼し、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。

その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川鴨川の間、一条通七条通の間の3分の2が焼き尽くされました。

『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。

一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。

市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。

後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。

ホテルオークラ東面北側には、木戸孝允のほぼ等身大のがあります。


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なかなかイケメンですね。

まあ、残されている写真を見ても、なかなかな伊達男ですしね。


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禁門の変の発端となったのは、その約1ヵ月、このすぐ近くにあった池田屋において、長州系の浪士たちが、京都でテロ事件を起こそうと密儀を行っていたところを、新選組が襲撃して浪士たちの多くが命を落とし、テロは未然に防がれたという事件、世にいう池田屋事件でした。

これを知った長州藩は、兵を率いて京都に乱入し、禁門の変となります。

その池田屋での密儀に、実は木戸孝允(当時は桂小五郎)も出席する予定だったといわれ、偶然、池田屋に行くことができず、難を逃れたといいます。

もし、池田屋の密儀に出席していれば、ここに銅像が立つこともなかったかもしれません。


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明治維新後、この藩邸跡は官有となり、明治初年には府下産業の振興を図るため、勧業場が設立され、後に常盤ホテル(京都ホテルの前身)が建てられました。

そして、現在はホテルオークラの高層ビルが建ちます。

この建物を建築するにあたっては、激しい景観論争が繰り広げられたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-14 00:53 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)