人気ブログランキング |

タグ:木戸松子 ( 4 ) タグの人気記事

 

幕末京都逍遥 その35 「二条大橋」

二条大橋にやってきました。

ここは、桂小五郎(木戸孝允)幾松(木戸松子)の恋物語の舞台ですね。


e0158128_18550961.jpg


元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で敗走した長州藩士は、朝敵として会津藩兵新選組から追われる身となりますが、そのとき桂は、乞食の姿に身をやつして二条大橋の下に潜んでいました。

その桂に、幾松が握り飯の入った包みを橋の上から落として届けていたという逸話は、あまりにも有名ですね。


e0158128_18554983.jpg


実際には、桂がここに潜伏していたのは5日間ほどだったといいます。

その後、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活が不可能だとわかると、しばらく但馬の出石に潜伏することになります。


e0158128_18555512.jpg


現在の二条大橋はご覧のとおり、当時の面影はまったく残っておりません。

桂が潜伏していた(かもしれない)橋の下に、何やら説明板があります。

あるいは、桂と幾松の逸話を紹介したものかもと近寄ってみると・・・


e0158128_18560421.jpg
e0158128_18560965.jpg


狩野永徳「上杉本 洛中洛外図屏風」の紹介でした。

残念。


e0158128_18564095.jpg
e0158128_18564529.jpg


わたしがここを訪れたのは、桜が満開の平成30年(2018年)3月31日。

橋の下の河川敷では、多くのカップルデートしていました。

150余年前の桂と幾松の恋物語を知っているのかどうかはわかりませんが。



「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-04-17 22:37 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その32 「桂小五郎・幾松寓居跡」

前稿で紹介した大村益次郎遺址のすぐ近くに、木戸孝允とその愛人だった芸姑・幾松が住んでいたとされる場所があります。

現在は、「幾松」という名の料理旅館となっています。


e0158128_16484702.jpg


幾松は、若狭小浜藩士・木崎市兵衛の娘として生まれ、8歳で京都に出てきたのち、三本木の芸妓になりました。

木戸孝允(当時は桂小五郎)と知り合ったのは、文久元年(1861年)頃だと伝わり、以後、彼が命の危険に晒されていた最も困難な時代に彼を庇護し、必死に支えつづけた女性です。

禁門の変で長州人のほとんどが京都のまちから追われたのちも、二条大橋のあたりで乞食の姿となって隠れ潜んでいた小五郎に、幾松は足繁く握り飯を持っていったという逸話は有名ですね。


e0158128_16485291.jpg


石碑には「桂小五郎幾松寓居趾」と刻まれています。

他のほとんどの石碑は「木戸孝允」と記されていますが、ここは「桂小五郎」なんですね。

維新後、木戸孝允と名を改めた小五郎は、幾松を長州藩士・岡部富太郎の養女にした上で、正妻として迎え、名を木戸松子とします。

身分差を超えた初めての正式な婚姻だったと言われています。

幕末のシンデレラですね。


e0158128_16485574.jpg
e0158128_16485954.jpg


料理旅館として現在も営業している「幾松」の建物は、国の登録有形文化財に登録されています。

館内には「幾松の部屋」があり、現在も、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井などがり当時に近い状態で保存されているそうです。

入ってみたいのですが、高そうなので入る勇気も甲斐性もありません。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-04-13 01:54 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その3 「東山霊山護国神社~木戸孝允・幾松の墓」

東山霊山のなかで、最も特別扱いとなっているのは、維新三傑のひとり、桂小五郎こと木戸孝允の墓です。

木戸は、ここ東山霊山の創建にも尽力したそうですから、当然の扱いですね。

霊山に入るとすぐに、木戸公神道碑という大きな石碑があります。


e0158128_21330133.jpg


「神道碑」とは、国家に功績のあった人物の墓所参道に建てられた碑で、その人物を顕彰する意味だそうです。


e0158128_21331811.jpg


明治維新以降、木戸の他には、大久保利通、毛利敬親、大原重徳、岩倉具視、広沢真臣、島津久光、三条実美の神道碑が、明治天皇の命により建立されたそうですが、京都に建てられたのは木戸の神道碑だけだそうです。

これを俗に「勅撰碑」ともいいます。


e0158128_21351958.jpg
e0158128_21354594.jpg


木戸の墓所は、霊山のいちばん奥の最も高い場所にあります。

立派な門構えがあり、東山霊山の奥座敷といった感じです。


e0158128_21372527.jpg


「内閣顧問勲一等正二位木戸孝允墓」と刻まれています。

重厚な墓碑です。


e0158128_21374011.jpg


墓石の横には、「明治三十四年5月廿六日以特旨被追陛従一位」と刻まれた石碑がありました。

木戸が逝去したのは明治10年(1877年)ですから、没後24年経って従一位の官位が贈られたんですね。


e0158128_21385518.jpg


木戸がこの世を去ったのは、西南戦争まっただ中の明治10年(1877年)5月26日のことでした。

享年45(満43歳)。

死因は病死という以外に詳しいことはわかっていません。

元来、ナイーブな性格の人物だったようですから、幕末の動乱から新国家設立の過程で、相当な神経をすり減らして寿命を縮めたのかもしれませんね。

木戸は最後まで鹿児島の情勢を憂い、京都の別邸で朦朧状態のなか、訪れた大久保利通の手を握り締め、「西郷、もう大抵にせんか!」と叫んだのが最後の言葉だったとか。


e0158128_21415023.jpg


木戸の場所の横には、幕末に木戸を献身的に支え、維新後に正妻となった芸姑・幾松こと木戸松子の墓があります。

松子がこの世を去ったのは、木戸の死後9年経った明治19年(1886年)のことで、44歳でした。


e0158128_21420776.jpg


墓石には、「正二位」と刻まれていますね。

木戸を献身的に支えた功績ということでしょうか?

女性に与えられた官位としては最高位じゃないでしょうか?

こちらが本家本元のマツコ・デラックスですね(笑)。


e0158128_21421671.jpg


ふたりは、寄り添うように東山の奥座敷に眠っています。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-02-22 23:24 | 幕末京都逍遥 | Comments(2)  

雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」

ここ出石は、幕末のある時期、のちに維新三傑となる長州藩士の桂小五郎こと木戸孝允公が潜伏していた町としても知られています。
元治元年(1864年)に起きた禁門の変(蛤御門の変)で長州藩は朝敵となり、追われる身となった小五郎は、新撰組や幕吏の手を逃れて数日間京都に潜伏していましたが、いよいよ身の危険を悟った小五郎は、出石の町人・広戸甚助という人物の助けを得て京のまちを脱出、ここ出石に逃れます。
出石に逃れた小五郎でしたが、当時の出石藩は佐幕派が主流で、長州藩の大物・桂小五郎を亡命させてくれるはずがありません。
小五郎は広戸家で匿われながら、広江屋孝助という偽名を使い、この場所で荒物屋を営んでいたそうです。
長州なまりとか、どうしてたんでしょうね。
いまは蕎麦屋になっているその跡地に、ひっそりと石碑が建っています。

e0158128_2140933.jpg

小五郎が出石に潜伏していた期間は9ヵ月ほどでした。
禁門の変で朝敵となった長州藩内では、一時保守派が政権を握りますが、高杉晋作率いる奇兵隊軍事クーデターを成功させ、再び攘夷派が実権を握ります。
そこで高杉晋作や大村益次郎は、長州藩の統率者として小五郎を迎えるべく探索し、ここ出石に潜伏しているらしいとの情報をつかむと、さっそく迎えの者を送り込みます。
このとき、小五郎を迎えに来たのが、京都三本木の美人芸者でのちに小五郎の正妻となる幾松だったとか。
小五郎は神道無念流剣術の免許皆伝という剣豪でありながら、真剣を用いたという記録はほとんどなく、追われる身となってからも、商人や乞食に変装し、ときには女装までして闘争を避けることに徹していたため、「逃げの小五郎」とあだ名されたとか。
その逃げの小五郎を献身的に庇護していたのが、幾松だったという話は有名ですね。
朝敵となった小五郎が乞食姿に身をやつして二条大橋の下に潜伏したときにも、出石に亡命するまでの間、密かに食料を運んで支えたのが幾松でした。

e0158128_21405957.jpg

幾松が出石に迎えに来てから、20日間ほどここで一緒に暮らしていたと伝えられます。
その後、小五郎と幾松は城崎温泉に行ったとか。
日本人初の新婚旅行をしたのは坂本龍馬おりょう夫妻だと言われますが、こちらは婚前旅行ですからねぇ(笑)。
こっちのほうが進んでいたともいえるのかなぁ・・・と(笑)。

e0158128_21411483.jpg

明治に入って桂小五郎は木戸孝允と改名。
幾松は正式に孝允と結婚し、木戸松子と名乗ります。
「逃げの小五郎」の最も長い逃亡劇の舞台である出石は、小五郎が幾松との結婚を決意したまちでもあったかもしれませんね。

あと1回くらい続けようかどうしようか・・・。


雨の但馬路紀行 その1 「ハチ北高原・ロッヂ野間」
雨の但馬路紀行 その2 「日本のマチュピチュ・竹田城跡」
雨の但馬路紀行 その3 「但馬の小京都・出石城跡」
雨の但馬路紀行 その4 「日本最古の時計台~辰鼓櫓~」
雨の但馬路紀行 その5 「近畿で最も古い芝居小屋~出石永楽館」
雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
雨の但馬路紀行 その7 「出石そば打ち体験」


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2014-09-11 21:45 | 兵庫の史跡・観光 | Comments(2)