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幕末京都逍遥 その128 「弘源寺(禁門の変時の刀傷)」

前稿で紹介した天龍寺の塔頭・弘源寺の本堂に、長州藩士がつけた刀傷が残っていると知り、立ち寄ってみました。


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前稿でもお話したとおり、天龍寺は元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変(蛤御門の変)」時に長州軍の本陣となった場所です。

天龍寺を宿営としたのは、藩内きっての豪傑・来島又兵衛率いる500の兵でした。

おそらく、その塔頭である弘源寺も、長州兵の宿舎となったことでしょう。


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門の横には、刀傷を紹介する看板が置かれていましたが、そこには、「龍馬の時代」と記されていました。

いやいや、たしかに龍馬の時代には違いありませんが、龍馬は関係ないでしょう。

なんでも坂本龍馬の名にあやかった観光客誘致は、いかがなものかと。


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本堂です。


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そしてこちらがその刀傷

たしかに、自然に出来た亀裂ではなく、何か鋭利なものでえぐったような傷であることがわかります。


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説明書きには、「血気にはやる武士が柱に試し切りした跡」とあります。

あるいは、来島又兵衛その人だったりして。

この種の刀傷の跡は、「その98」「その99」にもありましたが、江戸時代の武士道というのはモラルの塊のはずなんですが、幕末当時の武士というのは、無作法もいいところですね。

寺院側にしてみれば、戦の陣営にされるだけでも迷惑千万な話なのに、意味なく建物に傷を付けられたんじゃ、たまったもんじゃなかったでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-09 01:22 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その127 「天龍寺(禁門の変長州軍本陣)」

世界遺産に登録されている嵐山天龍寺を訪れました。

ここは、暦応2年/延元4年(1339年)に吉野で崩御した後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)の菩提を弔うために、足利尊氏夢窓疎石を開山として創建したと伝わる大寺院です。


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創建から江戸時代にかけての500年の間に、天龍寺は7回も火災で焼失していましたが、8回目の火災が幕末にありました。

それは、元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変(蛤御門の変)」に関連します。


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前年の八月十八日の政変によって京を追い出されていた長州藩は、名誉回復のチャンスをうかがっていましたが、元治元年6月5日(1864年7月8日)に池田屋事件が起きると、藩内進発派の藩士たちは烈火のごとくいきり立ち、ついに総勢2000の兵を京都に向かわせます。

そのとき、本営となったのが、山崎天王山伏見長州藩邸、そして、ここ嵯峨天龍寺でした。


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ここ天龍寺に陣を布いていたのは、藩内きっての豪傑・来島又兵衛率いる500の兵でした。

来島は今回の挙兵を最も強く主張した人物で、ここから進軍した来島隊は、「その55」「その56」で紹介したとおり、一時は薩会軍を圧倒する奮闘を見せますが、結局は多勢に無勢で、来島の戦死を機に形勢は逆転し、結果は長州軍の惨敗に終わります。


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その後、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、洛中は火の海と化しますが、洛中から遠く離れたここ嵯峨野までその火が回ってくることはなく、事態は収まったかと思われました。

ところが、薩摩藩兵はここ天龍寺までやってきます。

その目的は、長州藩兵の残党狩りと、長州藩兵を宿営させた天龍寺に対する処罰でした。


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薩摩藩兵を率いていた村田新八は、天龍寺に向かって大砲を撃つことを命じました。

このときの砲撃による火災で、天龍寺の伽藍はことごとく焼失し、現存の伽藍の大部分は明治時代後半以降に再建されたものです。

長州軍の本陣にされてしまったばかりに、戦火に巻き込まれてしまった天龍寺。

まったくもって迷惑千万な話だったでしょう。


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後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さな局地戦みせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-09-08 00:28 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第27話「禁門の変」 ~蛤御門の変~

今話はあまりにも史実とかけ離れた内容でしたね。まずは史実の解説から。


「八月十八日の政変」によって、長州藩を中心とする尊王攘夷派は都を追放されていましたが、京・大坂に潜伏していた残党と提携しながら、しきりに失地回復をはかり、ふたたび都への進出と勢力の奪還を目指していました。といっても、長州藩内が必ずしも挙党一致だったわけではなく、京都に乗り込もうとの進発論の急先鋒は、来島又兵衛、真木和泉らでしたが、久坂玄瑞高杉晋作らは慎重論を唱えており、桂小五郎(木戸孝允)は反対論でした。そんな情勢のなかで、元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた「池田屋の変」の報がもたらされます。来島や真木ら進発論派がいきりたったことは言うまでもありません。6月中旬から翌月上旬にかけて、長州藩の益田右衛門介、福原越後、国司信濃の三家老は諸隊を率いて東上、真木和泉をはじめ久坂玄瑞、入江九一らも行をともにし、7月中旬、長州藩兵および諸藩尊攘志士らは伏見、嵯峨、山崎方面に集結しました。


e0158128_19212335.jpg元治元年7月19日(1864年8月20日)、伏見、山崎、天龍寺の陣を出た長州藩兵は、まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から京へ出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。蛤御門に殺到しました。


又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、乾門を守っていた薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転。その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬。死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。享年47。西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。


e0158128_15131310.jpg ドラマでは、西郷は来島のみを倒して幕引きさせようと目論んでいたところに会津兵が加勢してきて長州兵を壊滅させていましたが、史実ではまったくの真逆、西郷率いる薩摩兵が加勢したことによって形勢が逆転して長州兵が壊滅したのです。ましてや、この時点での西郷が、「長州と戦うつもりはない」などと言うはずがありません。たしかに、当初の西郷は、会津と長州の私戦として日和見をする考えだったようですが、その後の情勢を見て考えを変え、会津に加勢する策に方針転換したのは、ほかならぬ西郷でした。


ドラマ中、一橋慶喜が長州藩兵を京都から追い落とす命令を下すよう朝廷工作を行っていましたが、あれは史実です。慶喜は、これが受け入れられないと職を辞するとの脅しをかけていました。これに困った朝廷は、薩摩藩軍賦役の西郷を呼び出して意見を求めますが、このとき西郷は慶喜の意見を支持し、長州側が暴発し、命が下れば兵を出すと返答しています。この西郷の決断によって、禁門の変の薩摩兵の参戦の方針が決まったわけです。


 また、変後すぐに大久保一蔵(利通)に宛てた西郷の書簡には、「薩摩兵のみで長州兵を打ち破った」自慢げに記した上に、その後、「鷹司邸内に逃げ込んだ長州兵を火攻めにしたところ、敵兵は堪りかねて逃げ去った」と伝えています。これのどこに、戦を避けようという意思が見て取れるでしょうか? さらに、同じ時期に書かれた西郷の書簡には、長州藩兵を侮蔑した文章も見られます。西郷が長州藩に対して寛大な態度をとるようになるのは、この後の第一次長州征伐からのことで、それも、決して戦争反対といったヒューマニズムの観点からではなく、あくまで政治的判断によるものです。


 わたしは、史実史実揚げ足取りのような批判をするのは好きではありませんし、ドラマである以上、フィクションは不可欠だと思っています。ですが、やっていいことと悪いことがあり、今話は明らかに度が過ぎています。そもそも、慶喜との関係自体ありえない設定ですが、それはまあ目をつぶるとしても、この時点で桂小五郎(木戸孝允)と通じて、しかも、二人揃って慶喜に和平を願い出るなんて、やりすぎにもほどがあります。これは脚色ではありません。完全なる歴史の歪曲であり、先人に対する冒涜です。西郷は好戦家だったという通説に対して、それを否定する海音寺潮五郎氏のような見方もありますが、ここまでは酷くない。2010年の『龍馬伝』もそうでしたが、主人公を非戦論者聖人君子に描けばいいという浅知恵な妄想。ひどすぎます。この調子だと、先の戊辰戦争西南戦争の描かれ方も思いやられます。


 スミマセン。ちょっと興奮してしまいました。禁門の変の解説に戻ります。


戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。


後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さな局地戦にみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。21世紀のいまも変わらない事実です。だからこそ、戦史は美化せず、できるだけありのままに描かねばなりません。今回の禁門の変は、近年の大河ドラマ史上最低の禁門の変でした。



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by sakanoueno-kumo | 2018-07-23 19:32 | 西郷どん | Trackback | Comments(2)  

幕末京都逍遥 その56 「清水谷家の椋(京都御苑)」

前稿で紹介した蛤御門を潜って100mほど東へ進んだ御所の南西の角のあたりに、「清水谷家の椋」と呼ばれるムクノキの巨樹があります。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)の際、長州藩の豪傑・来島又兵衛が、この木の下で自刃したと伝えられます。


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「清水谷家の椋」という名称は、この木のあたりに公家の清水谷家の屋敷があったことに由来します。

幹周は約4mあり、樹齢約300年と言われています。


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長州藩きっての武闘派として知られる来島又兵衛は、若年者が多かった幕末の長州藩士のなかでは、長老格でした。

何より猛々しさを重んじる又兵衛は、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物で、藩士からの人望も厚かったようです。

禁門の変に際して、ギリギリまで慎重論を主張する久坂玄瑞に対して、怒気を飛ばして論破したのがこの又兵衛で、その気質のとおり、彼が強硬派の急先鋒でした。

変当日の又兵衛は、風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて会津藩の守る蛤御門に猛然と攻めかけます。


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勇猛果敢な又兵衛の突撃によって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転

その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。

西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。

しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬

死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。

それが、このムクノキの下だったと伝えられます。

享年47。


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ムクノキの向こうに見える塀は、御所の外塀です。

当時も同じように塀があったのかどうかはわかりませんが、御所の目の前で朝敵の汚名を着せられたままの討死は、さぞ無念だったに違いありません。

西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-17 23:36 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その55 「蛤御門(京都御苑)」

京都御苑外郭九門のひとつである「蛤御門」にやってきました。

元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」の際、最も激戦地となった門として知られ、同変のことを「蛤御門の変」とも呼ばれることで周知の場所です。


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「蛤御門」の名称の由来は、御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて、「蛤御門」と呼ばれるようになったそうで、本来の正式名称は「新在家御門」なんだそうです。

その由来となった火災については、宝永の大火(1708年)後とする説と、天明の大火(1788年)後とする説が挙げられているそうです。


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現在の蛤御門は、明治10年(1877年)から明治16年(1883年)にかけて行われた大内保存および京都御苑整備事業によって移設されたもので、それ以前は現在よりも30mほど東の位置に、南を向いて建てられていたそうです。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)、伏見、山崎、天龍寺の陣を出た長州藩兵は、まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から京へ出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。

そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。

ここ、蛤御門に殺到しました。


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又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。

又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。

そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転

その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助(隆盛)でした。

西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。

しばらくして又兵衛は、胸を撃ち抜かれて落馬

死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。

享年47。

西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。


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門には、複数の弾痕がいまも残っています。


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おびただしい数の弾痕が、その激戦のほどを雄弁に語ってくれます。

このなかには、あるいは川路利良の撃ったものもあるかもしれません。


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戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。

その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。

『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。

一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。

後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。

戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。

21世紀のいまも変わらない事実です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-16 23:10 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(4)  

幕末京都逍遥 その6 「東山霊山護国神社~長州藩殉難者の墓②」

昨日の続きです。

残りは下の3名、いずれも説明するまでもない人物ですね。


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来島又兵衛以外は松下村塾の門下生で、高杉晋作以外は元治元年7月19日(1864年8月20日)に起きた禁門の変(蛤御門の変)討死した人物です。


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久坂玄瑞高杉晋作、入江九一、吉田稔麿と並んで「松下村塾四天王」と呼ばれた人物ですが、その中でも、特に鋭敏な頭脳の持ち主で、高杉とともに「松下村塾の双璧、龍虎」などと称されました。

もともと玄瑞の生家は長州藩医でしたが、若くして親兄弟と死別すると、時勢がら医学より兵学を学び、松蔭の死後は長州藩攘夷派の指導的立場になり、やがて士分となります。

禁門の変に際して、玄瑞はギリギリまで兵をすすめることに反対し、意見を主張しますが、結果的に強硬派に押されて挙兵に至り、それでもなお、朝廷への嘆願をあきらめず、惨状のなかをかきわけ、前関白の鷹司輔煕屋敷に入って帝への取り次ぎをすがりますが、輔煕はこれを拒絶。

このときすでに玄瑞の部隊は包囲されており、万策尽きた玄瑞は、共に行動していた寺島忠三郎刺し違えて自刃します。

享年25。


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長州藩きっての武闘派として知られる来島又兵衛は、若年者が多かった幕末の長州藩士のなかでは、長老格でした。

何より猛々しさを重んじる又兵衛は、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物で、藩士からの人望も厚かったようです。

禁門の変に際して、ギリギリまで慎重論を主張する久坂に対して、怒気を飛ばして論破したのがこの又兵衛で、その気質のとおり、彼が強硬派の急先鋒でした。

変当日の又兵衛は、風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて会津藩の守る蛤御門に猛然と攻めかけ、一時は会津藩を破り去る寸前までいきますが、薩摩藩の援軍が加わると劣勢となり、壮絶な死を遂げます。

享年47。


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そして最後は、高杉晋作

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と称された幕末の風雲児・高杉晋作ですが、彼は他の志士たちと違ってあまり藩の外に出ることは少なく、藩外での攘夷活動といえば、英国公使館焼き討ち事件ぐらいでした。

したがって、禁門の変にも参加していません。

しかし、藩内においては、百姓町人を起用した奇兵隊創設をはじめ、少数でクーデターを成功させた功山寺挙兵、丙寅丸で幕府艦隊に夜襲をかけて幕府軍を敗走させた四境戦争など、風雲児の名をほしいままにする奇想天外な活躍を見せます。

しかし、倒幕を目の前にした慶応3年4月14日(1867年5月17日)、肺結核を患いこの世を去ります。

享年29。

なぜ、山口で死んだ晋作の墓が東山にあるかというと、ここは言わば幕末の志士たちの合祀場所であり、すべてが納骨されているわけではありません。

晋作の墓は山口県下関市に立派なものがありますし、他の志士たちも、ここ以外に墓がある者が多くいます。

言わば、幕末版靖国神社のようなものですね。


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長州藩士は他にも200人以上の墓碑が並びます。





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by sakanoueno-kumo | 2018-03-01 02:19 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)  

花燃ゆ 第27話「妻のたたかい」 ~禁門の変(蛤御門の変) その2~

 元治元年(1864年)7月19日、長州軍は京への進撃を開始します。まず、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3人が率いる隊が三方から出撃しますが、対する会津藩兵桑名藩兵の守りは固く、行く手を遮られます。そんな戦況のなか、来島又兵衛率いる隊が強引に突っ込んで御所の中立売御門を突破。蛤御門に殺到しました。さすがは武勇の誉れ高き又兵衛、単に勇ましいだけじゃなく、よほどの実戦上手だったことがわかります。

 又兵衛の部隊は門扉を突き破って突入し、大激戦を演じます。又兵衛自身は風折烏帽子具足、陣羽織を身にまとい、その出で立ちは元亀・天正の戦国武将さながらだったといいます。そんな又兵衛の奮闘もあって、一時は長州軍が押しまくる展開となりましたが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢は逆転します。その薩摩藩兵の指揮官は、西郷吉之助でした。西郷は馬上の又兵衛さえ討てば長州軍は撹乱すると見、配下の川路利良に狙撃を命じました。しばらくして又兵衛は胸を撃ち抜かれて落馬。死を悟った又兵衛は、自ら槍で喉を突いて自刃します。享年48歳。西郷のねらいどおり、この長州軍きっての豪傑の死から、長州軍の潰走が始まりました。

 久坂玄瑞真木和泉が率いる約500の部隊が御所に着いたときには、すでに又兵衛は討死していました。2日前の軍議で又兵衛と衝突していた玄瑞は、この惨状に及んでもなお朝廷への嘆願をあきらめておらず、前関白の鷹司輔煕屋敷に入ってへの取り次ぎをすがりますが、輔煕はこれを拒絶。このときすでに玄瑞の部隊は包囲されており、万策尽きた玄瑞は、共に行動していた同じ松下村塾同門の寺島忠三郎と刺し違えて自刃します。玄瑞は自刃する直前、同じく腹を斬ろうとしていた同門の入江九一を制止し、急ぎ帰国して藩主父子の上洛を阻止するよう依頼しますが、不運にもその九一も、直後に鷹司屋敷の裏門で待ち伏せていた福井藩兵に槍で顔を突かれ、その衝撃で両眼が飛び出し、見るも無惨な死体となって転がりました。玄瑞25歳、忠三郎22歳、九一は28歳でした。

 前年の雪辱戦とばかりに暴発した長州藩兵は、薩会連合軍の前に潰滅してしまいましたが、その哀れな長州藩士たちに涙する前に、この戦いの巻き添えとなった京の市民たちに目を向けなければなりません。戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。『甲子兵燹図』に描かれたそのさまは地獄絵図さながらで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。一説には焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、253の寺社、51の武家屋敷が焼けました。市民は家を失い、家族と離れ離れになり、まちは蝿のたかる死体が積み上がりました。後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。戦争でいちばん辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということですね。21世紀のいまも変わらない事実です。

 この戦いにより、長州藩は多くの有能な人材を失いました。この発狂したとしか思えない無謀な暴挙によって古い攘夷派は壊滅、激情的な猪突猛進型の攘夷運動は、このときに終わったといえるでしょう。長州藩が目を覚ますには、あまりにも大きな代償でした。


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by sakanoueno-kumo | 2015-07-06 16:34 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

花燃ゆ 第26話「夫の約束」 ~禁門の変(蛤御門の変) その1~

 八月十八日の政変によって京を追い出されていた長州藩は、名誉回復のために挙兵して京に向かうべし!・・・とする「進発派」と、それを時期尚早とする「割拠派」に分かれていましたが、一時は割拠派の意見が主流となっていたものの、そこに池田屋事件の知らせを入ると、進発派の藩士たちは烈火のごとくいきり立ち、そして、一度は廃案になっていた上洛案に、ふたたび火がつきます。それでも、慎重論の周布政之助らは懸命に藩論の沈静化に努めますが、ついに抑えきれなくなり、「三条実美ら七卿と藩主父子の冤罪を帝に訴える」ことを名目に、挙兵が決定します。

 この頃、藩の政務座役といなっていた久坂玄瑞は、当初は周布らと同じ慎重論でしたが、この2ヵ月ほど前に京で行われていた参預会議がものわかれに終わると、これを政権奪還のチャンスととらえ、兵の上洛に肯定的な立場をとりはじめていました。しかし、玄瑞のいう上洛とは来島又兵衛らのいう勇ましい進発論ではなく、あくまで名誉回復のための嘆願が目的であり、すぐに武力行使といった考えではありませんでした。

 元治元年(1864年)6月4日、藩当局から進発令が発せられると、玄瑞は来島又兵衛、真木和泉らと共に忠勇隊、集義隊、八幡隊、義勇隊、宜徳隊、尚義隊など諸隊を率いて、6月16日に三田尻を発ちました。そして京都近郊の山崎に着いた玄瑞は、さっそく長州藩の罪の回復を訴えた嘆願書を起草し、6月24日、朝廷に奉ります。これを受けた朝廷内では、当初は長州藩に同情的な考えを持つ公卿も多く、寛大な処置を要望する声もあがっていましたが、7月12日に武装した薩摩藩兵が上洛するとムードは一変。反長州派の勢いが盛り返します。朝廷内部でも、長州勢の駆逐を求める強硬派宥和派が対立していたんですね。ただ、どれだけ宥和派が声をあげても、肝心要の孝明天皇(第121代天皇)は長州掃討を望んでいたわけですから、結果は見えていたかもしれません。孝明帝は長州がよほど嫌いだったんでしょうね。

 そんなこんなで、一触即発の空気が張りつめた7月17日、男山の石清水八幡宮で長州藩幹部が集結した最後の軍議が開かれます。この席でも、来島又兵衛ら強硬派と久坂玄瑞ら慎重派が激しく対立するのですが、その時の会話の記録は克明に残されています。それによると、玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げる案を出しますが、又兵衛は
 「進軍を躊躇するとは何たることだ!」
と詰め寄ります。これに対して玄瑞は、
 「今回の件は、もともと君主の冤罪をはらすために、嘆願を重ねる目的だったはずで、こちらから戦闘を仕掛けるのは本来の志ではない。それに、世子君定平公もまだ到着しておらず、それを待った上で進撃の是非を決するべきである。いま進軍したところで、援軍もなく、しかも、わが軍の戦闘準備も整っていない。必勝の見込みの立つまで、しばらく戦機が熟するのを待つべきである。」
と提言します。すると又兵衛は怒気を露わにし、
  「卑怯者!!!」
と一喝。(べつに卑怯者ではないと思うんですけどね。この場合、「臆病者」といったほうがよかったんじゃないかと・・・)
 「医者坊主などに戦争のことがわかるか!! もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余はわが一手をもって悪人を退治する!!」
捨て台詞を吐き、座を去ってしまいました。又兵衛の気迫に圧倒された一同は沈黙。そんななか、最年長で参謀格の真木和泉が、
 「来島くんに同意を表す」
と述べたことにより、進軍が決定しました。玄瑞はその後一言も発することなくその場を立ち去り、天王山の陣に戻ったといいます。そのとき歴史が動いた瞬間ですね。

 人は追い詰められると、過激な意見ほど魅力的に感じるといいます。後世から見れば、玄瑞の意見は至極もっともだと思えるのですが、前年の政変以来いじめられっ子だった長州藩士たちにすれば、玄瑞の冷静な分析よりも、又兵衛の勇ましい侍道の方が輝いて思えたのでしょうね。こうして、世に言う禁門の変(蛤御門の変)は始まりました。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-29 22:39 | 花燃ゆ | Trackback(2) | Comments(0)  

花燃ゆ 第24話「母になるために」 ~来島又兵衛の進発論と、そうせい侯~

 文久3年(1868年)の八月十八日の政変によって、京における政治基盤の一切を失った長州藩は、今後の対策を巡って藩内が紛糾していました。政庁内は、藩の名誉回復勢力挽回を目指して挙兵、京に向かうべし!・・・とする「進発派」と、それを時期尚早とする「割拠派」に分かれます。進発派の中心人物は、長老格の来島又兵衛。長老と言っても、このとき又兵衛は48歳で、長州藩きっての豪傑とて名高く、幕末より戦国時代に生まれたほうが似つかわしい人物でした。彼は上洛を声高に主張しながら、高杉晋作が作った奇兵隊を見習って、さまざまな身分の有志600人を集めた「遊撃隊」を組織し、周防三田尻に駐屯します。

 藩当局も一時は又兵衛の主張に傾いていたのですが、京に潜伏している桂小五郎らの反対意見などもあって方針を一変、慎重論に変わります。しかし、又兵衛はそれで収まるはずがなく、言動はさらに激しさを増していきます。又兵衛は隊士たちからの人望も厚く、隊は又兵衛と共に命を捨てるといった気運が高まり、いつ暴発してもおかしくないムードとなります。

 なんとか沈静化を図りたい藩当局は、又兵衛を説得する使者として、高杉晋作を派遣します。晋作はこの時期、奇兵隊総督の任を罷免され、藩内閣の閣僚ともいうべき「政務役」という重責の任に就いていました。このとき晋作は若干24歳異例の出世でした。三田尻に乗り込んだ晋作は、3日間粘って又兵衛の説得にあたりますが、24歳の晋作が48歳の又兵衛を説得するのは困難なことで、結局は徒労に終わります。すると、ここで晋作は何を思ったのか、萩に戻らずにそのまま船に乗り、脱藩してしまうんですね。これには藩当局はもちろん、又兵衛もビックリしたことでしょう。この辺が、高杉晋作という人の尋常ならざるところです。政務役に抜擢されてから、わずか半年のことでした。

 さて、今話はそれ以外に特に政治的な動きがなかったので、これまで書きそびれてきた長州藩主・毛利敬親についてふれてみたいと思います。ドラマでは、たいへん寛大で懐の深い殿さまとして描かれている敬親ですが、実際には、敬親は名君暗君かで意見が真っ二つに分かれる人物です。というのも、敬親は家臣の意見に対して異議を唱えることが皆無だったといい、ドラマで描かれているように、藩内保守派、改革派のどちらから上申されても、常に「ああ、そうせい」と許していたそうで、そんな敬親のことを家臣たちは、「そうせい侯」と陰で揶揄していました。そのため、後世に有能か無能かで意見が分かれていて、維新の原動力となった長州藩の藩主でありながら、いわゆる幕末の四賢侯にも数えられていません。

 実際にはどうだったかはわかりませんが、ただ、敬親のような人物が長州藩主であったからこそ、幕末の長州が長州たりえたといえるでしょう。ふつう他藩では、藩主の思想、意向によって政治が動くものですが、長州藩にはその機能がなく、家臣たちが藩を動かしました。そのせいで、高杉晋作や久坂玄瑞などの書生あがりが政治活動の中心になりました。藩主という抑制装置が機能していないため、藩の活動はどんどん過激になっていきます。それが、幕末の長州藩でした。幕末の日本史は、長州藩が大暴れしたことによって作られた歴史といっても過言ではありません。その長州藩を演出したのは、松蔭でも晋作でも玄瑞でもなく、敬親だったといえるかもしれませんね。もし、長州藩の藩主が、土佐藩の山内容堂のような人物であれば、晋作や玄瑞などはとっくに処刑されていたに違いないでしょうし、そうすると、日本の歴史もまったく違ったものになっていたかもしれません。

 「藩主として余はいまだ迷い、自問自答を繰り返す身じゃが. 志ある者の邪魔立てだけはすまいと決めておる。」

 何話か前の、との面会シーンでの敬親の台詞ですが、あるいは、このとおりの考えだったのかもしれません。幕末の長州藩主は、いわゆる「君臨すれども統治せず」だったわけですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-06-15 21:05 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第12話「蛤御門の戦い」 ~禁門の変~

 「八月十八日の政変」によって、長州藩を中心とする尊攘派は都を追放されていましたが、京都大坂に潜伏していた残党と提携しながら、しきりに失地回復をはかり、ふたたび都への進出と勢力の奪還を目指していました。そして元治元年(1864年)に入って、なんとか天皇をもう一度手中に取り戻そう、そのために京都に乗り込もうとの進発論が盛んになります。といっても、この論に関しては、長州藩内でも必ずしも挙党一致ではありませんでした。

 進発論の急先鋒は、来島又兵衛真木和泉らであり、久坂玄瑞高杉晋作らは慎重派、桂小五郎(木戸孝允)は反対派でした。来島や真木は、いわば古い尊攘論者であり、桂や高杉などはそこから脱皮して、小攘夷をすて、外国との交易をおこない、富国強兵をはかり、諸外国と対等に対峙する力をつけるべきだとする考えに変わりつつありました。いわゆる「大攘夷論」というやつですね。そしてその道は、やがては倒幕へとつながっていきます。

 そんな情勢のなかで、6月には「池田屋の変」の報がもたらされます。来島や真木ら進発論派がいきりたったことは言うまでもありません。6月中旬から翌月上旬にかけて、長州藩の益田右衛門介福原越後国司信濃の三家老は諸隊を率いて東上、真木和泉をはじめ久坂玄瑞、入江九一らも行をともにし、7月中旬、長州藩兵および諸藩尊攘志士らは伏見、嵯峨、山崎方面に集結しました。

 当初、慎重派だった久坂は、長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉っていました。これを受け、長州藩に同情して寛大な措置を要望する藩士や公卿もいましたが、一方で、断固として長州勢の駆逐を求める強硬派の声も大きく、朝廷内でも対立が起こります。そんななか、7月18日には有栖川宮幟仁熾仁両親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と京都守護職・松平容保の追放を訴えますが、一貫して容保擁護の姿勢をとる孝明天皇(第121代天皇)の意見を尊重し、最後は強硬姿勢でまとまります。そして翌7月19日、御所の九門のひとつ・蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発します。

 一時、長州勢は中立売門を突破して御所内に侵入するといった善戦をみせますが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転。結果、長州藩は圧倒的多数の幕府および諸藩兵に撃退されます。このときの様子を、長州勢に与していた公卿の中山忠能はその日記に、「九重(宮廷)の内外、甲冑の武士、切火縄・抜身充満。常御殿の御庭同断」「親王(祐宮南殿において御逆上・・・近臣新水を走り参り進上、御正気」と記し、また橋本実麗も、「今晩、先ず長州勢石山家裏より乱入、蛤門固の会津と戦争、此のところ殊に流れ玉激しく、宮中に及ぶ、浅猿き次第也」と記しています。ドラマにあったとおり、山本覚馬率いる会津藩の十五ドエム(口径15センチ)砲が猛烈な音を立てて打ち込まれ、殿上の公卿たちを震え上がらせた様子がうかがえますね。

 戦いはわずか1日で終わりましたが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京のまちは、たちまち火の海と化します。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされました。「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のようで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりだったといいます。焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、のちの明治政府がこの戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうです。
 「西洋の学問をしても、家焼かずにすむ戦のやりようは、わからんもんでっしゃろか?」
 ドラマ中、大垣屋清八が山本覚馬に対して言った台詞ですが、残念ながら家を焼かずにすむ戦のやりようは、21世紀の今になってもわかっていませんね。もっとも辛い思いをするのは何の罪もない庶民だということも、今も昔も変わっていないようです。

 この戦いにより、久坂玄瑞寺島忠三郎来島又兵衛真木和泉など、尊攘派のそうそうたるメンバーが戦死、あるいは自刃しました。ここで古い攘夷派は壊滅、激情的な猪突猛進型の攘夷運動は、このときに終わったといえるでしょう。覚馬たち会津藩の隆盛もまた、この頃が絶頂期でした。こののち、歴史は足早に展開していきます。


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by sakanoueno-kumo | 2013-03-25 20:52 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(2)