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タグ:松平容保 ( 16 ) タグの人気記事

 

幕末京都逍遥 その87 「京都守護職上屋敷跡(京都府庁)」

京都府庁京都府警察本部のあるあたりに、かつて京都守護職上屋敷がありました。

現在、その敷地内には石碑が建てられています。


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上の写真は京都府庁の旧本館です。

明治37年(1904年)の建築で、国の重要文化財に指定されています。


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京都守護職として京に入った会津藩主・松平容保は、当初、「その83」で紹介した金戒光明寺に本陣を置きますが、御所から遠いということで、朝廷からの要請もあって御所から近いこの地に屋敷を置きました。

屋敷は市中に数カ所あったといいますが、ここはそのひとつです。

当時の屋敷の広さは、約3万坪ほどあったといいます。

「その81」で紹介した「京都守護職屋敷門」は、ここから移設されたものです。


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これが、敷地内にある「京都守護職屋敷跡」と刻まれた石碑です。

側面には「昭和七年十一月建之」と刻まれています。


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旧庁舎の建物内は見学できますが、シリーズとは関係ないので、また別の機会に。

その庁舎の中庭に、「容保桜」と呼ばれる大きな桜の木が植えられていました。


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説明看板によると、特に容保が植えたというわけではなく、単に、京都守護職屋敷跡ということに因んでそう名付けられたそうです。

実際に、この地にいたときの容保は、桜を鑑賞するような心のゆとりはなかったんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-07-04 23:20 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その84 「会津墓地(金戒光明寺)」

前稿で紹介した金戒光明寺の敷地内に、幕末に京のまちで命を落とした会津藩士たちが眠る墓地があります。

参道の高麗門横には、「會津藩殉難者墓所」と刻まれた石碑があります。


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道中には、「会津墓地参道→」と刻まれた誘導碑が到るところに建てられています。


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そして、ここが会津墓地の入口


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金戒光明寺のホームページによれば、敷地面積は約300坪だそうで、文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)の6年間に京都で命を落とした237霊と、慶応4年(1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦い戦死者115霊を祀る慰霊碑があります。


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会津松平家が神道であった関係で、約7割の人々が神霊として葬られているそうです。


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「鳥羽伏見戦死者道志るべ」と刻まれた石碑です。


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そして、その奥にあるのが、鳥羽伏見の戦い戦死者115霊を祀る慰霊碑です。


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こちらには、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で落命した22人の墓石が、一段高く積み上げられた台の上に3ヵ所に分けて葬られています。


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どの墓石にも「元治元年甲子年七月十九日」と刻まれています。

まぎれもなく、禁門の変での戦死者ですね。

禁門の変というと、どうしても長州藩士が壊滅的に戦死したという方ばかりに目がいきますが、戦争である以上、当然、薩摩・会津側にも戦死者はいたわけです。


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それ以外の墓でいえば、元治元年6月10日(1864年7月13日)に起きた明保野亭事件の責任をとって切腹した柴司の墓があります。

明保野亭事件とは、池田屋事件残党探索を行なっていた新選組に応援として派遣された柴司が、浪士潜伏の情報のあった東山の料亭「明保野亭」に踏み込み、現場にいた土佐藩士・麻田時太郎を負傷させた事件です。

当初は柴の行為は会津藩から正当な職務行為と認定されましたが、その後、負傷した麻田が土佐藩から士道不覚悟として切腹させられたため、土佐藩士の一部が不公平と反発して事態は紛糾、会津藩と土佐藩の衝突になりかねない事態となり、これを重く見た柴は、明保野亭事件の責任を自発的に取るかたちで自決を決意し、2日後の6月12日に、兄の介錯で切腹しました。

享年21。

明保野亭は現在も営業されており、「その21」で紹介しています。


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こちらは、京都会津藩筆頭公用人の野村左兵衛の墓です。


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会津藩主・松平容保京都守護職就任の要請があったとき、家臣たちは猛烈に反対したといいます。

いわば無政府状態に陥っていた京都で守護職を務めるということは、薪を背負って火に飛び込んでいくようなもの、自ら死地に身を投じるなどもってほほか・・・と。

しかし、政事総裁職松平春嶽が会津藩祖・保科正之「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、容保はついに承諾せざるを得なくなります。

これを聞いた会津藩の家臣たちは、「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したといいます。


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この会津墓地に眠る藩士たちは、容保が京都守護職に就いていなければ、ここに眠ることはなかったでしょう。

さぞかし無念だったでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-29 02:09 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その83 「金戒光明寺(京都守護職本陣)」

通称「くろ谷さん」の愛称で親しまれる金戒光明寺にやってきました。

ここは幕末、京都守護職会津藩の本陣となった場所です。


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現地の説明板によると、鎌倉時代の承久5年(1175年)に法然上人が、比叡山西塔の黒谷にならって、この地にを結んだのが始まりとされているそうです。

上の写真は参道にある高麗門

「京都守護職本陣」と記された表札が掲げられています。


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その表札です。

「奥刕會津藩松平肥後守様」とは、言うまでもなく幕末の会津藩主・松平容保のことですね。


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下の写真は高麗門から東へ100mほど坂を上ったところにある山門です。

応仁の乱焼失して万延元年(1860年)に再建されたものだそうで、ちょうど容保たちが入ったころは、新築間もないときだったということですね。


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幕末、尊王攘夷派過激志士たちによる天誅押し込みなどの騒乱が京のまちに横行していました。

幕府はそうした状況を見かね、京都守護職という軍事職の新設を決めます。

そこで白羽の矢が立てられたのが、会津藩と容保でした。

もともと京都には、朝廷の監視を任務とする京都所司代が置かれていました。

通常、10万石前後の譜代大名が任命される役職でしたが、「天誅」と称したテロの嵐が吹き荒れる京都の治安は、所司代レベルの力で抑えられる域を超えていました。

そこで幕府は、23万石の会津藩の武力を持って京のまちを鎮撫しようと考えたのです。


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容保に京都守護職就任を求めたのは、政事総裁職松平春嶽と、当時、将軍後見職を務めていた一橋慶喜(のちの徳川慶喜)でした。

要請を受けた容保が頑なに固辞しますが、春嶽が会津藩祖・保科正之「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾せざるを得なくなります。

文久2年(1862年)8月1日のことでした。

これを聞いた会津藩の家臣たちは、「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したといいます。


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上の写真は御影堂(大殿)

昭和19年(1944年)の再建だそうです。


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こちらは阿弥陀堂

慶長10年(1612年)に豊臣秀頼によって再建されたものだそうです。


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そして、境内東の墓地にある三重塔(文殊塔)

寛永10年(1633年)の建立だそうで、重要文化財です。


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会津藩はこの地を本陣として、藩兵1000人が常駐し、1年おきに国元の藩士と交代しました。

その後、京都守護職は、大政奉還後の王政復古の大号令まで6年間つづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-28 00:34 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その81 「京都守護職屋敷門」

平安神宮の西側にある観光バスの駐車場に、古い門だけがポツリとあります。

この門は、幕末の京都を警備した京都守護職屋敷門が移築されたものだそうです。


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京都守護職の屋敷は、現在の京都府庁と京都府警察本部のあたりにありました。

明治に入って、その跡地には京都府庁の庁舎が建てられ、明治32年(1899年)にこの地に建てられた大日本武徳会の本部道場「武徳殿」の正門として、この門が移築使用されたそうです。

現在、武徳殿は都市武道センターとなっています。


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京都守護職とは、言うまでもなく会津藩主の松平容保です。

幕末、尊王攘夷派過激志士たちによる天誅押し込みなどの騒乱が京のまちに横行し、既存の奉行所所司代のみでは防ぎきれないと判断した幕府が、洛中の治安維持御所、二条城警備などを担う役割として、京都守護職という臨時の軍事職を設置します。

そこで白羽の矢が立てられたのが、会津藩と容保だったんですね。

容保に京都守護職就任を求めたのは、政事総裁職松平春嶽と、当時、将軍後見職を務めていた一橋慶喜(のちの徳川慶喜)でした。

要請を受けた容保が頑なに固辞しますが、春嶽が会津藩祖・保科正之「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾せざるを得なくなります。

文久2年(1862年)8月1日のことでした。

これを聞いた会津藩の家臣たちは、「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したといいます。


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京都守護職屋敷門ということは、容保はもちろん、近藤勇土方歳三新選組の面々も、この門をくぐったかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-23 23:57 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その65 「松林院旧跡(清浄華院)」

前稿で紹介した清浄華院の敷地内に、「松林院旧跡」と刻まれた石碑が建っているのですが、その側面には、「松平容保寄宿の地」とも刻まれています。

松林院とは、かつてこの地にあった清浄華院の塔頭寺院です。


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文久3年(1863年)、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂が、将軍としては229年ぶりとなる上洛を果たした際、会津藩士たちの寄宿先となったのが、ここ清浄華院でした。

京都守護職を務めていた松平容保が清浄華院に入ったのは同年12月のことで、翌元治元年(1864年)5月まで松林院に滞在したそうです。

その後、容保は本陣の金戒光明寺に戻りましたが、その直後に池田屋事件が起こり、孝明天皇(第121代天皇)から御所近くに滞在するように求められ、すぐに舞い戻ってきます。

その後は、慶応3年(1867年)正月まで、この地に居座り、御所周辺の治安を守ることとなります。


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松林院は今世紀に入るまであったそうですが、平成15年(2003年)に本坊と統合され、宗教法人としては消滅してしまったそうです。

現在は、旧本堂で現・清浄華院阿弥陀堂と、のみが残っています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-31 23:28 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その61 「凝華洞跡(京都御苑)」

京都御所建礼門の南側にあったとされる凝華洞跡を訪れました。

ここは、かつて会津藩主の松平容保が、仮宿舎とした場所と伝えられます。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)の際、京都御所を守っていたのは会津藩と薩摩藩でした。

その会津藩主の松平容保は、当時、京都守護職を務めていたので、事実上、薩会軍の大将だったわけです。


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ところが、容保は禁門の変の半年ほど前からを患っており、変当日も、両肩を家臣に抱えられながらの戦だったといいます。

そのため、朝廷の配慮によって凝華洞を仮宿舎としたそうです。

凝華洞は、江戸時代中期の後西天皇(第111代天皇)が、退位後の仙洞御所とした場所だそうで、そのような場所を仮宿舎として容保に与えたことからみても、孝明天皇(第121代天皇)が、いかに容保を頼りにしていたかがうかがえます。


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現在、凝華洞跡は小高い丘になっており、松の大樹が聳えます。

樹齢はわかりませんが、あるいは、往時を知っているかもしれません。


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凝華洞跡のすぐ北側に、御所南側の正門「建礼門」が見えます。

文久3年(1863年)の八月十八日の政変の際、かけつけた壬生浪士組がこの門を警護し、その功から、3日後の8月21日に「新選組」の名を賜ったとされるゆかりの門です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-25 01:25 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

坂本龍馬 没後150年の節目に再考する暗殺犯の諸説。 その1

坂本龍馬150回目の命日を迎えた昨日の稿で、襲撃当日の記録を追いましたが、本稿では、その暗殺犯について改めて考えてみたいと思います。

当ブログでは7年前にも同じネタを起稿していますが(参照)、あれからわたしも色々と見聞きし、少し考えが変わっています。

まあ、もとより確信を得た説などないんですけどね。

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実行犯については、今では通説となっている京都見廻組の面々(佐々木只三郎を頭に、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の7人)と見てほぼ間違いないんじゃないでしょうか?

彼らの供述に多少の矛盾点があることから、一部、見廻組説を否定する意見を耳にしますが、歴史研究家の方々のあいだでは、否定する人がほぼいない定説となっているかと思います。

問題は、誰が彼らに殺らせたか?・・・ですね。

実際、今井信郎渡辺篤(渡辺吉太郎と同一人物?)は、襲撃の理由を「上からの御指図」と供述しており、また、自分たちの斬った坂本という人物が、それほどの大人物だとは知らなかった、と後年に語っていることからみても、彼らは所詮、末端の実行犯に過ぎなかったでしょう(リーダー格の佐々木只三郎だけは龍馬を暗殺する政治的意図を知っていたかもしれませんが、佐々木は龍馬の死の2ヶ月後に戦死しており、死人に口なしです)。

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「上からの御指図」という供述を素直に解釈すれば、見廻組の上役である京都守護職、つまり会津藩主の松平容保になります。

事実、前年の寺田屋事件以降、幕府は龍馬を罪人として指名手配しており、見廻組も新選組も、龍馬を追っていました。

シンプルに考えれば、松平容保の命令という見方が正しいように思いますが、ただ、釈然としないのは、京都守護職からの指図であれば、正当な警察権の行使であり、暗殺する必要があったのか?・・・という疑問です。

殺さずに捕縛すればいいはずで、仮にやむを得ず殺してしまったとしても、新選組の池田屋事件のように、堂々と名乗りをあげれば良かったはず。

しかし、龍馬襲撃は紛れもなく暗殺でした。


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この疑問について、この時期は大政奉還後であり、京都守護職も見廻組も「公務」ではなかったとする意見もあります。

たしかに、この約1ヵ月前に将軍・徳川慶喜によって大政奉還が宣言されましたが、幕府の廃止が公式に宣言されるのは12月9日の「王政復古の大号令」においてであり、薩長の新政権が誕生するのも、そのあとのことです。

龍馬が襲撃されたこの時期はまだ、政権は幕府にありました。

現代でも、衆議院を解散しても次の選挙で新しい内閣ができるまで、現状の暫定内閣が国の執行部ですからね。

現に、慶喜は政権を投げ出すと公言したものの、容保はじめ幕府役人の多くはこれに反対の意志を示しており、彼らにしてみれば、少なくとも鳥羽伏見の戦いで薩長軍に錦旗が掲げられるまでは、自分たちの行いは幕府という日本国政府「公務」だという認識だったと思います。

したがって、容保の命令であれば、「坂本を捕縛せよ。抵抗するならば斬り捨ててもよい。」となったんじゃないかと。


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歴史家の磯田道史氏は、佐々木只三郎の兄で会津藩公用人であった手代木直右衛門が、松平容保の命で佐々木に実行させたと説かれています。

龍馬は、幕府若年寄永井尚志のもとへ、暗殺される前日まで連日のように通いつめており、その永井の寓居の向かい側に佐々木の下宿していた松林寺があり、龍馬の行動は逐一監視されていた、と。

磯田氏がMCをつとめる『英雄たちの選択』で力説しておられました。

なるほど、そう聞けば説得力がありますが、だとしても、なぜ暗殺しなければならなかったか、という疑問は拭えません。

こうした事件は穿った見方をせず、シンプルに考えたほうがいいとは思うのですが、闇夜に紛れた暗殺という事件の内容を思うと、やはり、腑に落ちない点が多いんですよね。

というわけで、次回、他説を考えます。







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by sakanoueno-kumo | 2017-11-16 03:43 | 歴史考察 | Trackback | Comments(2)  

八重の桜 49話「再び戦を学ばず」 ~山本覚馬と松平容保の最期~

 新島襄の死後、山本覚馬が同志社臨時総長を務めますが、その覚馬も、明治25年(1892年)12月28日にこの世を去ります。享年64歳。思い起こせば文久2年(1862年)、京都守護職に就任した会津藩主・松平容保に従って京に上ってから30年、波乱に満ちた・・・とか、苛烈極まりない・・・などというありきたりな形容では言い表せない、まさに、筆舌に尽くしがたい人生だったといえるでしょう。

 賊軍として捕らえられ、盲目足が不自由という二重の障害を抱えながらも、明治新政府にその才を買われ、京都府顧問、京都府議会議員、同初代議長、京都商工会議所会頭と要職を歴任。人材が少ない時代だったとはいえ、覚馬がいかに有能な人物だったかがわかりますね。とくに、慶応4年(1868年)の幽閉中に獄中から覚馬が新政府に宛てて出した新国家構想ともいうべき『管見』は、「三権分立」の政体にはじまり「二院制」「女子の教育機会」などなど、実に先見性に富んだもので、西郷隆盛岩倉具視など新政府の要人たちをうならせたといいます。同時代のものとしては、坂本龍馬の『船中八策』『新政府綱領八策』が有名ですが、この山本覚馬の『管見』も、もっと注目されてもいいように思います。

「諸君たちは学業を終えそれぞれの仕事に就かれる。どうか弱い者を守る盾となって下さい。かつて私は会津藩士として戦い、京の町を焼き、故郷の会津を失いました。その償いの道は半ばです。今世界が力を競い合い、日本は戦に向けて動き出した。どうか聖書の一節を心に深く刻んで下さい。」
『その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし、国は国に向かいて剣を上げず、二度と再び戦うことを学ばない』
「諸君は一国の、いや、世界の良心であって下さい。いかなる力にもその知恵であらがい、道を切り拓いて下さい。それが身をもって戦を知る私の願いです」


 ドラマで描かれていた同志社卒業式での覚馬の訓示ですが、実際に記録が残されている覚馬の言葉は、
「弱を助け強を挫き、貧を救ひ富を抑ゆるものは誰れぞ、諸子乞う吾が言を常に心に服膺して忘るゝ勿れ」
 となります。大意は同じようなものですが、聖書の一節を引用したのはドラマの創作でしょうね。でも、舞台は同志社の卒業式、決して的外れではなく、良い演出だったんじゃないでしょうか。

 『二度と再び戦うことを学ばない』

 敗軍となった会津藩を中心に描いたこの物語で、この言葉がもっとも伝えたいテーマだったのでしょうね。会津戦争までの前半の物語と、明治以降の同志社の物語は、まるでまったく違うドラマのような演出でしたが、いまここで二つの物語が結びつきました。

 覚馬が永眠した約1年後の明治26年(1893年)12月5日、松平容保もこの世を去ります。享年59歳。容保は会津藩改め斗南藩が廃藩置県で消滅したあと東京に移住し、その後、徳川家康を祀る日光東照宮宮司などを歴任しますが、決して表に出ることはありませんでした。既に謹慎処分は解かれていたものの、一度は朝敵とされたことを重く受け止め、自主的に謹慎状態を続けていたそうです。自身の言動が、政治的にどう利用されるかわからないことを知っていたのでしょうね。ただ、やはり朝敵の汚名を着せられたことは無念の極みだったのでしょう。八月十八日の政変後に孝明天皇から下賜された『宸翰』を、小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放さなかったといいます。のちにこの『宸翰』は、山川浩山川健次郎兄弟が編纂した『京都守護職始末』で公表されますが、それは容保の死から18年が過ぎた明治44年(1911年)のことでした。戦犯者扱いとなった者の汚名返上は容易ではないのは、いつの時代も同じようです。

 ひとつの時代が終わり、次回、最終回。



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by sakanoueno-kumo | 2013-12-10 11:11 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)  

八重の桜 第30話「再起への道」 ~萱野権兵衛の切腹~

 鶴ヶ城白旗が掲げられる2週間前の9月8日、元号が「慶応」から「明治」へと改元されていました。この約2ヶ月前には、江戸の名称も「東京」と改められ、会津藩が新政府軍と降伏交渉を進めていた同じ頃、明治天皇(第122代天皇)は京都を発ち、東京に向かっていました。翌月、天皇が江戸城に入ると「東京城」と改められ、皇居と定められました。こうして、将軍のお膝元であった江戸が消滅し、天皇を迎えた新都「東京」に変わろうとしていました。中学校の歴史授業的にいえば、250年続いた江戸時代が終わり、以後40年以上続く明治時代が始まります。

 実際には、どこまでが江戸時代で、どこからが新時代の幕開けかの線引は難しく、人によって見解のわかれるところだとは思いますが、こうして見ても、佐幕派の象徴的存在であった会津藩の敗北というのは、ひとつの節目ではあったといえるでしょう。世は足早に変わろうとしていました。

 城を出た松平容保喜徳父子、そして照姫は、滝沢村の妙国寺に入り、約1ヶ月の謹慎生活を送ります。その警備を土佐藩越前福井藩が担当。しかし、容保らを守るための警備のはずが、その大砲の砲門は容保らがいる本堂に向いていました。容保父子の奪還を画策する旧会津藩士たちの動向を警戒していたのです。降伏・開城したとはいえ、政府軍と会津藩の緊張状態は依然として続いていたようです。

 その後、容保父子の身は東京に移され、12月7日、政府の処分が下ります。その内容は、死一等を免じて、容保は鳥取藩、喜徳は久留米藩に永のお預けというものでした。しかし、これで一件落着というわけにはいかず、政府としては、藩主に代わって戦争を引導した首謀者の出頭を求めます。となれば、その対象は藩の指導的立場にある家老職となるわけですが、すでに筆頭家老である田中土佐神保内蔵助は自害しており、西郷頼母は藩首脳部との対立によって領外追放処分で行方知れず、そこで、家老としては4番目の地位にあった萱野権兵衛が、ひとりで責めを負うことになります。
 「松平容保公の代わりに首を討たれるのは、それがしの役目だった・・・・。萱野権兵衛殿ひとりに、責めを負わせてしまった。」
ドラマでの頼母の台詞ですが、そういう背景からの言葉だったわけですね。

 権兵衛が処刑されたのは、降伏・開城から8ヶ月後の明治2年(1869年)5月18日、場所は照姫の実家である飯野藩保科家の下屋敷でした。政府の命令は「斬首」だったようで、公文書などには「刎首」とあるそうですが、実際には、保科家のはからいによって「切腹」のかたちが取られ、武士らしい最後を遂げることができたようです。権兵衛の処刑に際して照姫は、次のような和歌を贈ったそうです。

 「夢うつゝ思ひも分す惜むそよ まことある名は世に残るとも」

 この歌と容保からの親書を受け取った権兵衛は、「まことに光栄である」と感涙したといい、親書を持参した梶原平馬山川大蔵の熱涙をさそったといいます。

 「では、さらばだ!」
 柳沢慎吾さんのいつにないシリアスな演技、なかなかなものでしたね。
 「あばよ!」・・・じゃなかったのが、少々残念ではありましたが・・・(笑)。

 萱野権兵衛の処刑から4ヶ月後の9月28日、容保の罪が許され、松平家の家名も再興となります。この年、容保は側室との間に長男(松平容大)をもうけていました。こんなときに、よくまあ子作りに励めたものだ!!!と思わなくもないですが、殿様なんてそんなもんでしょう。ドラマでの容保は、少し美しく描かれ過ぎかと・・・。

 11月4日、容大は家名の相続を許され、陸奥国の旧盛岡藩南部家領において3万石が与えられました。ここに、会津藩は斗南藩として生まれ変わります。御家再興を待ち望んだ旧会津藩士たちにとっては朗報だったわけですが、斗南での暮らしは、彼らが待ち望んだものとは程遠いものでした。そのあたりは、また次回以降で・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-07-30 22:16 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

八重の桜 第28話「自慢の娘」 ~西郷頼母と佐川官兵衛~

 山川大蔵ら主力部隊が入城して、一時的に活気づいた鶴ヶ城内でしたが、戦況は悪化の一途をたどっていくばかりでした。会津国境に出陣して守備していた主力兵が城に戻ったことで、新政府軍は続々と会津領に侵入します。日に日に増強されていく新政府軍に対して、会津藩には援軍の見込みもなく、まったくの孤立無援状態でした。それでも、会津軍首脳は徹底抗戦の姿勢を崩しません。そんななか、家老・西郷頼母はひとり降伏恭順の道を主張します。

 頼母の説くところによれば、この城はもはや保ち難く、ここら辺で、主君・松平容保をはじめ、自身も含めた重臣全員が腹を切り、それで事態を収拾させよというものでした。しかし、他の重臣たちは「そのようなことは、まだ早い」といって聞き入れず、主君の自害などとんでもないとはねつけます。負け戦をこれ以上続けて無益な血を流すより、戦争責任のある幹部の首と引き換えに戦を終結させ、残った者に会津再建を託そうという主張で、いま聞けば真っ当な主張のような気がしますね。しかし、当時の美徳はそうではなく、主君のために玉砕するは誉れ高きことで、ましてや主君に自害を推めるなど武士の風上にも置けないことでした。結局、頼母の主張に賛同するものはひとりもおらず、そればかりか、西郷は自制心を失っているとして軍議から外されました。そんな頼母に、容保は追い打ちを掛けるように、城外に駐留する部隊への伝令と、米沢藩への救援要請に向かうよう命じます。本来、この程度の任務は家老の役目ではなく、つまりは主命にかこつけた追放処分でした。

 「頼母、生きよ・・・。」

 頼母が会津を去ったあとに容保がひとり呟いた台詞ですが、つまりドラマの設定としては、このまま降伏を主張した頼母が会津にいては、藩内主戦派から命を狙われる恐れがあり、そうならないために容保が頼母を逃したという設定でしょうか? なるほど、そう解釈できなくはないですし、そのほうが感動的なシナリオではありますが、はたしてどうでしょうね。頼母を追放したあと容保は、家老・梶原平馬に命じて頼母を暗殺するよう刺客を送らせたという説もあります(結局、刺客の任にあたった者たちは、敢えて頼母を追わずに暗殺は実行されませんでした)。どうもこのドラマでは、容保という人が美しく描かれ過ぎているような気がします。

 籠城戦が始まって1週間が過ぎようとしていた慶応4年(1868年)8月28日夜、会津軍は城下の敵を一掃すべく大作戦を発令します。田中蔵人率いる朱雀士中二番隊、原田主馬率いる朱雀三番隊、春日佐久良率いる別撰隊、杉浦丈右衛門率いる正奇隊、田中左内率いる砲兵隊、小室金吾左衛門率いる進撃隊、辰野源左衛門率いる歩兵隊、間瀬岩五郎率いる朱雀足軽二番隊など約1000人の部隊が編成され、29日早朝を期して突撃するというものでした。戦況劣勢の会津軍にとっては、起死回生の作戦でした。

 出撃の前夜、壮行会が催され、容保より隊員一同を励ますためにが下賜されます。この席で総督の佐川官兵衛は、
「臣誓って西兵を撃攘せん、若し不幸にして利あらずんば再び入城して尊顔を拝せず」(『會津戊辰戦史』)
と、感涙にむせびながら並々ならぬ決意を述べ、これに感激した容保は、官兵衛に正宗の刀を下賜して激励します。ところが、その官兵衛が痛恨のミスを犯します。なんと、酒を飲み過ぎて寝過ごしてしまい、奇襲の機を逸してしまいます。なんともお粗末なミステイクですね。結果的にこの「大寝坊」がアダとなって会津軍はこの戦い(長命寺の戦い)に惨敗、この日の会津側の戦死者は110人とも170人ともいわれ、城下での戦いがはじまった8月23日以降、最大の死傷者を出す結果となりました。「失敗したら二度と城内には戻らない」と豪語した官兵衛。その言葉どおり、これ以後、降伏開城まで二度と入城することはなかったといいますが、当然ですよね。大事な大一番の決戦当日に主将が深酒で寝坊なんて、これこそ切腹ものか、軽くて追放処分ですよ。現代のサラリーマンでも、大切なプレゼン当日に責任ある立場の者が前夜の深酒で寝坊なんて、よくて降格・左遷、ヘタすりゃクビもんですよね。そんな官兵衛が最後まで会津藩兵を指揮し、恭順を唱えた頼母が追放された歴史を、後世の私たちはどう見るか・・・ですね。やっぱ、どう見ても、藩主の無能に尽きるのではないかと・・・。

 「自慢の娘」というタイトルでしたが、八重が容保の前で不発弾を分解して弾の仕組みを説明したというエピソードは、先走って前話の稿(参照:第27話)でふれてしまったので、よければそちらもご一読ください。



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by sakanoueno-kumo | 2013-07-16 16:57 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)