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越前松平家の福井城跡を歩く。 その4 ~福井神社~

「その3」の続きです。

福井城天守跡から内堀を挟んで北西にある、福井神社を訪れました。

このあたりには、かつて西三の丸御座所があり、藩主の生活の場でした。


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福井神社は福井藩16代藩主・松平慶永(春嶽)を祀る神社として、昭和18年(1943年)に創建されました。

旧社格は別格官幣社

「別格官幣社」とは、国家のために功労のあった人臣を祭神とする神社のことで、明治5年(1872年) に神戸の湊川神社が定められたのに始まり、昭和21年(1946年)に社格が廃止されるまで、日本全国に28社ありました。

ここ福井神社は、日本最後の別格官幣社の指定となった神社です。


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この社標は昭和23年(1948年)6月28日の福井大地震によって福井城の堀の中に埋没していたそうですが、昭和58年(1983年)の内堀浚渫の際に発見され、引き上げられて復元設置されたものだそうです。


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コンクリート製鳥居拝殿です。


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創建当時の社殿は総檜造りだったそうですが、創建からわずか2年後の昭和20年(1954年)7月19日の福井大空襲焼失し、戦後12年経った昭和32年(1957年)に福井大学工学部の設計により再建されたそうです。

総コンクリート造りで、表面はコンクリート打ち放し、神明造を大幅に変形した傾斜の無いフラットな屋根という、他の神社には見られない独特の社殿ですね。

社殿前の大鳥居(二の鳥居)も、同じく福井大学工学部の設計によって再建されたものだそうで、貫がない特殊な形をしています。


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境内には、春嶽の像があります。


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春嶽といえば、幕末、薩摩の島津斉彬、土佐の山内豊信(容堂)、宇和島の伊達宗城と並んで四賢侯のひとりに数えられ、徳川親藩・譜代大名のなかでも尊皇派の支柱となった大名として知られます。


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また、藩内の行政においても、積極的な人材登用殖産興業の推進、富国強兵による藩財政の立て直しなど、藩政改革を行った名君と称えられました。

しかし、幕府大老・井伊直弼の行った安政の大獄によって隠居・謹慎処分を受け、家督を養子茂昭に譲り、5年間に及ぶ謹慎生活を送りました。


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やがて桜田門外の変で井伊直弼が落命すると、再び幕府の要職に復帰。

政事総裁職として参勤交代制の緩和、洋式軍制の採用、幕府職制の改正、京都守護職の新設、そして、229年ぶりとなる将軍・徳川家茂上洛を実現させるなどの働きを見せますが、尊皇派がやがて倒幕論に変わっていくと、佐幕派、倒幕派の間で春嶽の立場は微妙となり、その後は政治的に大きな成果を挙げられませんでした。

まあ、所詮は殿様だったってことですね。


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こちらは境内にある摂社・恒道神社

春嶽の改革を支えた鈴木主税、中根靱負(雪江)、橋下左内が祀られています。




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by sakanoueno-kumo | 2019-03-02 01:20 | 福井の史跡・観光 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その83 「金戒光明寺(京都守護職本陣)」

通称「くろ谷さん」の愛称で親しまれる金戒光明寺にやってきました。

ここは幕末、京都守護職会津藩の本陣となった場所です。


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現地の説明板によると、鎌倉時代の承久5年(1175年)に法然上人が、比叡山西塔の黒谷にならって、この地にを結んだのが始まりとされているそうです。

上の写真は参道にある高麗門

「京都守護職本陣」と記された表札が掲げられています。


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その表札です。

「奥刕會津藩松平肥後守様」とは、言うまでもなく幕末の会津藩主・松平容保のことですね。


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下の写真は高麗門から東へ100mほど坂を上ったところにある山門です。

応仁の乱焼失して万延元年(1860年)に再建されたものだそうで、ちょうど容保たちが入ったころは、新築間もないときだったということですね。


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幕末、尊王攘夷派過激志士たちによる天誅押し込みなどの騒乱が京のまちに横行していました。

幕府はそうした状況を見かね、京都守護職という軍事職の新設を決めます。

そこで白羽の矢が立てられたのが、会津藩と容保でした。

もともと京都には、朝廷の監視を任務とする京都所司代が置かれていました。

通常、10万石前後の譜代大名が任命される役職でしたが、「天誅」と称したテロの嵐が吹き荒れる京都の治安は、所司代レベルの力で抑えられる域を超えていました。

そこで幕府は、23万石の会津藩の武力を持って京のまちを鎮撫しようと考えたのです。


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容保に京都守護職就任を求めたのは、政事総裁職松平春嶽と、当時、将軍後見職を務めていた一橋慶喜(のちの徳川慶喜)でした。

要請を受けた容保が頑なに固辞しますが、春嶽が会津藩祖・保科正之「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾せざるを得なくなります。

文久2年(1862年)8月1日のことでした。

これを聞いた会津藩の家臣たちは、「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したといいます。


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上の写真は御影堂(大殿)

昭和19年(1944年)の再建だそうです。


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こちらは阿弥陀堂

慶長10年(1612年)に豊臣秀頼によって再建されたものだそうです。


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そして、境内東の墓地にある三重塔(文殊塔)

寛永10年(1633年)の建立だそうで、重要文化財です。


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会津藩はこの地を本陣として、藩兵1000人が常駐し、1年おきに国元の藩士と交代しました。

その後、京都守護職は、大政奉還後の王政復古の大号令まで6年間つづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-28 00:34 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その81 「京都守護職屋敷門」

平安神宮の西側にある観光バスの駐車場に、古い門だけがポツリとあります。

この門は、幕末の京都を警備した京都守護職屋敷門が移築されたものだそうです。


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京都守護職の屋敷は、現在の京都府庁と京都府警察本部のあたりにありました。

明治に入って、その跡地には京都府庁の庁舎が建てられ、明治32年(1899年)にこの地に建てられた大日本武徳会の本部道場「武徳殿」の正門として、この門が移築使用されたそうです。

現在、武徳殿は都市武道センターとなっています。


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京都守護職とは、言うまでもなく会津藩主の松平容保です。

幕末、尊王攘夷派過激志士たちによる天誅押し込みなどの騒乱が京のまちに横行し、既存の奉行所所司代のみでは防ぎきれないと判断した幕府が、洛中の治安維持御所、二条城警備などを担う役割として、京都守護職という臨時の軍事職を設置します。

そこで白羽の矢が立てられたのが、会津藩と容保だったんですね。

容保に京都守護職就任を求めたのは、政事総裁職松平春嶽と、当時、将軍後見職を務めていた一橋慶喜(のちの徳川慶喜)でした。

要請を受けた容保が頑なに固辞しますが、春嶽が会津藩祖・保科正之「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在」との家訓を引き合いに出したため、ついに承諾せざるを得なくなります。

文久2年(1862年)8月1日のことでした。

これを聞いた会津藩の家臣たちは、「これで会津藩は滅びる」と、肩を抱き合って慟哭したといいます。


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京都守護職屋敷門ということは、容保はもちろん、近藤勇土方歳三新選組の面々も、この門をくぐったかもしれませんね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-23 23:57 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その74 「横井小楠殉節地」

京都御苑の南東、寺町通りと丸太町通の交差点を少し南に下ったあたりの歩道に、「横井小楠殉節地」と刻まれた石碑があります。

ここは、維新の十傑のひとりでもある横井小楠が襲われて落命した場所です。


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元は肥後熊本藩士でしたが、越前福井藩主の松平春嶽に招聘されて福井藩のアドバイザーとなり、春嶽が幕府の政事総裁職に就任すると、幕政改革にも関与します。

一方で、小楠は討幕派の志士たちにも、大きな影響を与えました。

幕末の人物たちのなかで、小楠に限っては、佐幕派、討幕派を超越した存在だったといっていいでしょう。


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勝海舟『氷川清話』の中で、「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ」と語っており、また、その西郷隆盛も、「小楠が諸国遊歴した際、人材であると言った人で、その後、名を挙げなかった者はいなかった」と、小楠の人物鑑識眼を高く評価しています。

坂本龍馬が作成した有名な「船中八策」「新政府綱領八策」は、小楠が幕府に提出した「国是七条」と福井藩に提出した「国是十二条」をそれぞれ下敷きにしたと言われていますし、また、由利公正が起草した「五か条の御誓文」にも、小楠の「国是十二条」が大きく影響しています。

維新後、新政府に招かれ参与に就任しましたが、ただ、彼の思想があまりにも革新的だったため、単純な尊攘派からたびたび命を狙われ、そして明治2年1月5日(1869年2月15日)、太政官に出仕して退朝する途中に6人の尊攘過激派に襲われて落命します。


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向こうに見える森のような場所は、京都御苑です。

刺客たちは、御所のすぐ傍での襲撃を避けて、このあたりで待ち伏せしたのでしょうか。


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石碑の側面には「昭和七年七月再建之」とあります。

ネット情報によると、大正5年(1916年)建立の石標が損壊し、昭和7年(1932年)に新しく再建されたようです。

小楠は後世、佐幕派としてただひとり、維新十傑に数えられています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-13 23:13 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その25 「土佐藩邸跡」

坂本龍馬中岡慎太郎が襲撃された近江屋跡の石碑から河原町通を挟んで真向かいに、土佐藩邸がありました。

現在、石碑と立て札は、河原町通りではなく木屋町通り側の高瀬川沿いに建てられています。


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この高瀬川を渡った西側、西は河原町通にいたる間、元立誠小学校あたりが土佐藩邸でした。

高瀬川に面しても門が開かれ、土佐橋が架かっていたそうです。


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その高瀬川です。


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土佐藩邸の面積は約1万㎡(約3000坪)程だったと言われています。

これだけ聞けば広大な面積に思いますが、同じく雄藩の薩摩藩邸(現・同志社大学)はその倍近い約1万9000㎡(5805坪)あったといいますから、決して広すぎたわけでもなかったようです。


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近江屋跡と土佐藩邸は、ほんと、目と鼻の先でした。

当時の河原町通りは今のように広くありませんでしたから、歩いて十数歩の距離だったんじゃないでしょうか。

なのに、なぜ龍馬や慎太郎は藩邸に寝泊まりしなかったのか、不思議でなりません。

組織に縛られるのが嫌な性分だった・・・といえばカッコイイですが、少なくとも龍馬は、前年の4月に伏見の寺田屋で捕り方に襲われて瀕死の重症を負っており、命を狙われることの恐怖を十分に味わっています。

今なお、自身の命を狙う輩が大勢いることは自覚していたでしょうから、多少窮屈でも、ここ土佐藩邸に投宿するのが最も身の安全を確保できたはずです。

なのに、なぜかあえて危険な酢屋近江屋に投宿していた。

わたしは、何か、土佐藩邸には入りたくない、入っても安全とはいえない理由があったんじゃないかと思っています。

そのあたりに、龍馬暗殺の真相が隠されているんじゃないかと。


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龍馬は脱藩の罪を文久3年(1863年)に勝海舟松平春嶽らのとりなしによって赦免されていますが、そのとき、ここ土佐藩邸で7日間の謹慎処分をくらっています。

その後、再び龍馬は脱藩しますが、暗殺される9ヵ月前の慶応3年(1867年)2月、慎太郎と共にまたもや脱藩の罪を赦されています。

郷士という低い身分の分際で脱藩という重大な罪を2度も犯しながら、2度とも赦されて復帰していた龍馬。

藩邸内では、必ずしも彼らの存在を肯定する人物ばかりではなかったであろうことは、容易に想像がつきますね。

そのあたりの事情も、ふたりが藩邸に入りたがらなかった理由のひとつだったかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-04-02 22:36 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)  

仕事ついでの駿河国紀行 その2 ~徳川慶喜公屋敷跡~

駿府城跡を離れ、土産を買うべくJR静岡駅近くのビル街を散策していると、偶然、徳川慶喜公屋敷跡と書かれた石碑が目に止まりました。

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石碑の横には堂々の門構えがあり、「浮月楼」とあります。
公共の史跡ではなさそうだったので、おそるおそるなかを覗いてみると、どうやらそこは高級料亭のようでした。
徳川慶喜隠棲の屋敷が、いまでは料亭として残されているんですね。

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徳川慶喜といえば言うまでもなく、徳川幕府最後の将軍となった人物。
「権現様(徳川家康)の再来」と期待された英明な将軍・徳川慶喜でしたが、その実力を発揮しないまま、将軍就任わずか1年で大政奉還を行い、徳川幕府三百年の幕を引きます。
その後の王政復古戊辰戦争により朝敵となった慶喜でしたが、江戸総攻撃の前に行なわれた旧幕臣・勝海舟と新政府軍参謀・西郷隆盛との交渉により死罪を免れ蟄居の身となり、自身の故郷である水戸で謹慎した後、ここ駿府に移されました。
そのとき慶喜32歳。
現代で言えばバリバリ働き盛りの歳ですが、慶喜はその後、ほぼ隠居のような人生となります。

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説明看板によると、ここは元の代官屋敷で、近くに鉄道が通りうるさいというので西方へ転居するまで、慶喜は21年間ここに住んだそうです。
慶喜転居ののち払い下げられ、料亭となって現在に至っているそうです。
明治時代には、伊藤博文西園寺公望、井上馨、田中光顕など、錚々たる元勲たちに贔屓にされていたとか。
私は・・・、そんな由緒ある料亭の敷居をまたぐ甲斐性などあるはずもなく、こっそり外から眺めて写真だけ撮ってきただけです(笑)。
(看板によると、庭園はたいそう有名な庭師の作庭だそうです。)

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ところで、その後の慶喜は、明治30年に静岡を離れ、東京に移り住みました。
将軍就任、大政奉還と波乱に満ちた前半生の慶喜でしたが、32歳から約30年の後半生を静岡で目立たぬよう暮らしたことになります。
静岡隠棲の間、多くの女性との間に男10人女11人という子を持つ一方、鉄砲、自転車、写真など、多彩な趣味を楽しんだといいます。
一方で、旧幕臣や明治政府に不満を持つ元士族などには、決して会わなかったとか。
さすがは英明と称された慶喜、自身がそれらの者たちに担がれたら、どんな混乱を起こすか、自身の言動がどう政治的に利用されるか、ちゃんとわかっていたんですね。

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明治政府の足元が固まるまで、じっと30年間逼塞していた慶喜。
ある意味では、明治政府にとって最大の功労者の一人だったといえるかもしれません。
作家・司馬遼太郎氏は慶喜の半生を描いた小説『最後の将軍』のなかで、松平春嶽談として慶喜のことを「百の才智があって、ただ一つの胆力もない」と評していますが、はたしてそうでしょうか?
32歳という血気盛んな年齢から隠居の身となり、その後、新政府に対してことを荒立てるような行動をいっさい起こさなかったことこそが、百の才智であり、胆力であったといえなくもないです。
通常、歴史上の偉人は何事かを成して歴史に名を刻みますが、慶喜の場合、何もしなかったことが最大の功績だったという、歴史上たいへん稀有な存在だといえるでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-16 16:32 | 静岡の史跡・観光 | Comments(2)  

八重の桜 第6話「会津の決意」 ~公武合体論と京都守護職~

 「桜田門外の変」で大老・井伊直弼が暗殺されると、幕府の権威は急速に失墜していきました。そこで幕府は、朝廷と手を結ぶことで権威の回復を図ろうとします。従来、朝廷は政治との関わりを規制されていましたが、黒船来航以来、にわかに高まった尊王思想大政委任論などにより次第に潜在的地位が高まり、さらに日米修好通商条約をめぐる論争・政治工作のなかで、老中・堀田正睦が反対勢力を抑えるために孝明天皇(第121代天皇)から勅許を得ようとしたことから、天皇および朝廷の権威は急速に上昇していきました。

 そんななか、朝廷と結束することで幕府の権威低下を防ごうという「公武合体論」が浮上します。ドラマでは割愛されていましたが、井伊直弼の死後、幕政の中心となっていた老中・久世広周安藤信正らは、第14代将軍・徳川家茂の正室に、孝明天皇の妹・和宮親子内親王を降嫁させます。皇女を将軍家御台所に迎えたいという案は井伊直弼生存中からありましたが、当時の案は幕府が朝廷を統制する手段として考えられていたもの。しかしこの段に及んでの婚姻の意図は、いわゆる「公武合体」、すなわち、朝廷の権威を借りて幕府の権威を強固にしようという考えであり、幕府にとってみれば藁をもつかむ策だったわけです。

 一方、幕府の権威低下に伴い、これまで幕政から遠ざけられていた親藩有力外様大名の政治力が急速に高まり始め、有力諸侯を国政に参画させて国難を乗り切るべきであるという公議政体論が台頭しはじめます。文久2年(1862年)6月には、かつて将軍継嗣問題一橋慶喜擁立を推した島津斉彬の実弟で、同藩最高実力者の島津久光が兵を率いて上京し、朝廷から勅使を出させ、その権威を後ろ盾として幕府の最高人事に介入し、一橋慶喜を将軍後見職に、福井藩前藩主・松平春嶽を大老職に相当する政事総裁職に起用することを幕府に認めさせます。いわゆる「文久の改革」です。

 その頃、京都では攘夷を叫ぶ志士が勢いづいており、朝廷内でも破約攘夷論を唱える公家たちが台頭していました。その結果、開国論をとる薩摩藩は朝廷での支持基盤を失ってしまいます。京のまちでは攘夷論を唱える過激な志士たちによる「天誅」と称した殺傷事件が頻発しており、その対象は、攘夷論に反対する幕府よりとみなされた公家やその家臣たちでした。幕府はそうした状況を見かね、京都守護職という軍事職の新設を決めます。そこで白羽の矢が立てられたのが、八重たちの会津藩だったのです。

 京都には、朝廷の監視を任務とする京都所司代が置かれていました。通常、十万石前後の譜代大名が任命される役職でしたが、「天誅」と称したテロの嵐が吹き荒れる京都の治安は、所司代レベルの力で抑えられる域を超えていました。そこで幕府は、二十三万石の会津藩の武力を持って京のまちを鎮撫しようと考えたのです。

 時の藩主は9代目の松平容保。尾張藩の分家・美濃高須藩主・松平義建の六男として生まれた容保でしたが、叔父に当たる会津藩8代目藩主・松平容敬の養子となります。容保が容敬に変わって藩主の座に就いたのは、黒船来航の前年、嘉永5年(1852年)のことでした。藩主になって10年。容保は大きな決断を迫られることになります。

 容保に京都守護職就任を求めたのは、ドラマのとおり政事総裁職の松平春嶽でした。要請を受けた容保が頑なに固辞したのもドラマのとおりです。家老の西郷頼母をはじめ家臣たちも猛反対。いわば無政府状態に陥っていた京都で守護職を務めるということは、ドラマで頼母が言っていたとおり、薪を背負って火に飛び込んでいくようなもの。自ら死地に飛び込むのと同じというわけでした。しかし、春嶽はなおも容保を説得します。もし、藩祖の保科正之が存命ならば、必ず引き受けただろう・・・と。これは容保にとっては殺し文句でした。将軍家への絶対的な忠誠を歴代藩主に求めた『会津家訓十五箇条』(参照:第1話「ならぬことはならぬ」)にしても、養子という立場での藩主であるがゆえに、なおさら容保の心に重くのしかかっていたに違いありません。ここに至り、容保は京都守護職就任を引き受けてしまいます。文久2年(1862年)8月1日のことでした。この決意により、八重たち会津藩の人々の運命は大きく変わることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-11 02:33 | 八重の桜 | Comments(2)  

龍馬伝 第16話「勝麟太郎」

 坂本龍馬の生涯に最も大きな影響を与えたのが、この勝麟太郎(勝海舟)との出会いだったというのは誰もが知るところだろう。もっと大袈裟にいえば、この二人の出会いが、後の日本の運命にも大きな影響を与えたといっても言い過ぎではないかもしれない。幕末の風雲児・坂本龍馬は、この軍艦奉行並・勝麟太郎の知遇を得たことによって作られた。この運命的な出会いは、いつ、どのようにして実現したのだろう。

 最も馴染み深い話は、龍馬と千葉重太郎の二人で、開国論者であった勝麟太郎を斬るつもりで訪ねたものの、麟太郎に世界情勢を説かれ、逆に弟子入りしてしまったというエピソード。司馬遼太郎著「竜馬がゆく」を始め、多くの物語でこの話は使われている。しかし今回のドラマではこの話は採用されていなかった。この説の根拠は、明治中期になって麟太郎自身が著した「追賛一話」「氷川清話」に詳しく、ほぼ通説のようになっているが、実はこの話は麟太郎の創作した法螺話という見方が正しいようだ。というのも、自分を斬りに来たというほどインパクトのある来訪者のことを、同時期の麟太郎の日記にはまったく記されていない。勝海舟と名乗った晩年の麟太郎には法螺癖があり、そこがまた勝海舟という人の味のある一面なのだが、それゆえ彼の語るエピソードは話半分で考えなければならないようだ。

 それでは何故、龍馬が麟太郎に出会えたのか。ドラマでは、まず越前藩前藩主であり幕府政治総裁職でもある松平春嶽と会見し、そこで麟太郎に自分を紹介してくれるよう懇願していた。何の名声もない一脱藩浪人の龍馬が、幕府のお偉方である春嶽にそう簡単に会えるはずがない・・・と思いがちだが、実はこの話は本当のようで、春嶽自身が書き残したいくつかの記録に出ている。ドラマのように千葉定吉の口利きがあったという史料は残っておらず、どういうコネがあったかは定かではないが、とにかく龍馬は春嶽に会っていた。同行者は近藤長次郎間崎哲馬の二人だったようだ。どういう目的で春嶽と会見したかはわからないが、彼らにとって雲の上の人物とも言える春嶽に会おうという発想と行動力に驚かされる。龍馬の大器の片りんが垣間見れるエピソードだ。

 龍馬が春嶽と会見したのは文久2年(1862年)12月5日。この4日後の12月9日の「海舟日記」の中に、「此夜、有志、両三輩来訪。形勢の議論あり。」という記述がある。これこそが、龍馬と間崎哲馬、そして近藤長次郎の三人ではないかと考えられている。であれば、春嶽との会見によって麟太郎への紹介状をもらい、その4日後に来訪したという考え方が最も自然だ。龍馬が麟太郎への紹介を望んだのか、春嶽が麟太郎に引き合せようと考えたのかはわからないが、こうして坂本龍馬と勝海舟の運命的な出会いは実現した。今話のドラマの設定は、極めて史実に近いかたちだと思う。

 春嶽からの紹介とあって仕方なく会見したものの、龍馬の器を見抜けず×××の評価で追い返してしまった麟太郎。勝麟太郎の人柄といえば、せっかちで癇癪持ちの性格だったというのは有名なところ。一目会って運命を感じた・・・なんてベタな設定よりも、この方が実に麟太郎らしくていい。博多弁ならぬ、べらんめぇ口調の武田鉄也さんも新鮮だった。次週からの龍馬と麟太郎のかけ合いが楽しみだ。


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-19 00:50 | 龍馬伝 | Comments(6)