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西郷どん 第44話「士族たちの動乱」その1 ~喰違の変と愛国公党~

 明治6年の政変によって西郷隆盛を始めとする征韓派下野しますが、この政府分裂は世の不平士族たちをいっそう刺激することとなり、当時、盛んになり始めていた新聞雑誌などでも、激しく新政府を言論攻撃するようになります。その攻撃の矛先は、政変を指導した大久保利通岩倉具視に向けられました。


 明治7年(1874年)1月14日、宮中での晩餐会を終えて帰路についていた岩倉が、何者かによって襲撃されました。場所は赤坂喰違見附。この頃、皇居はこの前年の火災によって焼け落ちており、赤坂の迎賓館が仮皇居となっていました。そのため、江戸城二重橋前あたりに自宅が会った岩倉は、毎日この喰違見附を通るのが通勤コースとなっていたんですね。テロリストは、それを知って待ち伏せしていました。


e0158128_11234954.jpg 岩倉は馬車に乗っていましたが、襲撃団はいっせいに馬車に飛びかかり、なかの岩倉に刀を浴びせました。岩倉は眉の下を斬られ、横なぐりの刀が入りましたが、幸い帯に差していた短刀が、これを防ぎました。岩倉はとっさに馬車から転がり落ち、そのまま江戸城(当時は東京城)外堀に転がり落ちて、水の中に潜って顔だけを水面から出し、息を殺して身を隠したといいます。その間、何度か刺客がすぐ側を通ったといいますが、岩倉は動揺することなくひっそりと潜んでいました。さすがは幕末に何度も命を狙われた経験を持つ岩倉です。公家出身のなかでは、異端といえる度胸の持ち主でした。これが三条実美だったら、動揺して慌てふためいている間に、簡単に斬り殺されていたでしょう。岩倉がただ倒幕派志士たちに担がれただけのお飾りだったわけではないことがわかりますね。ドラマの岩倉は、ちょっとカッコ悪すぎじゃないでしょうか?


 e0158128_15131733.jpg報せを受けた大久保は、不平士族による政府高官の襲撃という事態を重く見、ただちに警視庁大警視川路利良に早急な犯人捜索を命じます。そして事件の3日後、犯人は逮捕されますが、捕まった犯人は士族の武市熊吉を始めとする9名で、いずれも土佐士族でした。土佐系の高官は、先の政変で板垣退助、後藤象二郎以下、ほとんどが官を辞してしまい、政府にとどまったのは佐々木高行谷干城などわずか数人で、その結果、土佐系士族のほとんどが新政府に不満を持つ野党となりました。これが、のちの自由民権運動につながっていくんですね。


 逮捕された9名は、同年7月9日、司法省臨時裁判所において裁かれ、全員が斬首刑の判決を受け、同日、伝馬町牢屋敷にて首を落とされました。


 e0158128_19013010.jpgまた、ドラマでは描かれていませんでしたが、同じ頃、西郷とともに下野した征韓派の板垣、後藤、江藤新平、副島種臣の4人の前参議が、由利公正などの同志とともに連署して、政府に対して民撰議院設立建白書を提出しました。主唱者は板垣で、その内容は、有司専制(一部の藩閥政治家数名で行われている政治)を批判し、民選の議会開設、つまり、選挙によって選ばれた議員による議会の設立を要望するものでした。そして、それと前後して、板垣たちは愛国公党を結成します。これが日本最初の政党と言われています(もっとも、2ヶ月後に解散していますが)。当初、板垣はこの結党に西郷も誘ったといいますが、西郷はその主旨には賛同しつつも、それが言論で実現するとは思わないとして、連署には加わらなかったといいます。西郷は大久保政府を批判する行動には加担したくなかったか、あるいは、板垣主導ではなく、自身の主導で事を起こしたかったのか、それとも、このときすでに、別の方法で政府を倒すことを視野に入れていたか・・・。今となっては確かめようがありません。


 こうして、各方面で新政府に対する不満が暴発し始めていました。やがて、それが士族の反乱へと発展してくことになります。その魁となったのが、佐賀の乱でした。

 続きは明日の稿にて。


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by sakanoueno-kumo | 2018-11-26 01:04 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第42話「両雄激突」その2 ~征韓論~

 昨日のつづきです。

話はいよいよ「征韓論」の政争に突入しました。「征韓論」とは、読んで字のごとく、お隣の朝鮮出兵して征服する、あるいは、武力を後ろ盾に政治体制の変革を迫るという主張です。このときより遡ること約20年前、日本も米国ペリー艦隊の来航によって開国を迫られ、それをきっかけに幕末の動乱がはじまり、長く続いた封建国家体制が崩れ、近代国家を目指すべく明治政府が樹立されましたが、今度は、そのペリー艦隊の役目を日本が行おうとし、明治新政府が成立して以来、政府は朝鮮国に対して、日本と欧米諸国との関係のような、近代的な国際関係に基づいた新たな国交を結ぼうと交渉を続けてきました。しかし、まだ鎖国状態にあった朝鮮国にとってはありがた迷惑な話で、日本も「洋夷」である欧米諸国と同じだとして拒否し続けていました。つまり、かつて日本が諸外国に対して「攘夷」を訴えたように、朝鮮国も、日本を攘夷の対象としていたんですね。


 朝鮮国外交については、豊臣時代から徳川期を通じて、その地理関係から対馬藩が担当していました。発足したばかりの明治政府は、さっそく対馬藩から外交官を派遣し、王政復古を通告しました。しかし、朝鮮は「貴国の文書の形式がこれまでと違う」といって、これを拒絶します。朝鮮にしてみれば、いきなり西洋化した人物が現れて「天皇」とか「皇室」などといった見慣れぬ文字が並んだ文書を突きつけられても、警戒心しかなかったのでしょうね。誕生したばかりの新政権を、いつまで続くかわからない不安定な政権と見ていたのかもしれません。


 ところが、新政府はこの朝鮮国の態度を非礼であるとして、軍艦を派遣して朝鮮に圧力をかけようという、いわゆる「征韓論」を唱え始めます。当初、最も征韓論を主張していたのは木戸孝允でしたが、その後、まもなく木戸が下野したことから、新政府は朝鮮国の宗主国である清国との日清修好条規締結を優先させ、一時は征韓論も沈静化していました。しかし、明治6年(1873年)のこの時期になると、北の樺太問題や南の台湾問題など外交問題が深刻化し始め、そんななか、朝鮮半島に移住している邦人の保護も含めて、再び征韓論が声高に叫ばれるようになります。


e0158128_19013010.jpg 明治6年(1873年)6月の閣議で、あらためて対朝鮮外交問題が取り上げられました。この席で最も強硬論を主張していたのは、土佐の板垣退助でした。板垣は居留民保護を理由に朝鮮への派兵を主張します。しかし、留守政府の実質首相的立場だった西郷隆盛は、戦争となる危険性をはらんだ派兵は慎むべきだと反対し、まずは非武装外交使節を派遣し、外交交渉を尽くすべきだと主張します。そして、その使節には自分が就任し、朝鮮との交渉に当たりたいと主張しました。朝鮮への使節は、あるいは現地で殺されるかもしれない。そのような危険をはらんだ役目を、筆頭参議である西郷に任せるわけにはいかない。当初、太政大臣の三条実美も他の参議たちも激しくこれを反対しますが、西郷の自分が使節になるという希望は異常なほどに執拗で、その西郷の熱意に押し切られるかたちで、8月17日、とうとう閣議の席で西郷の派遣が合意となりました。


e0158128_15131310.jpg なぜ西郷がこれほどまでに朝鮮使節を志願したのか。その理由は今も謎のままです。一説には、自分が作った明治政府の腐敗した現状に憤りを感じていて死に場所を求めていた、と考える人もいますし、別の説では、自分が殺されることによって戦端を開くための大義名分ができ、不平士族の目を国外に向けることができると考えていた、という見方もあり、また、作家の海音寺潮五郎氏は、武力行使も辞さないとう態度を示しながら最終的には平和的解決に導くのが西郷の常套手段で、長州征伐の際に単身岩国に乗り込んで和議をまとめたこと、江戸総攻撃を目前に単身勝海舟と会談し、江戸城無血開城に導いたときなどのように、このときも、丸腰で単身朝鮮国に渡り、これをやろうとした、と説いています。そして、西郷ならば、きっとうまくことをまとめたに違いないと論じています。海音寺さんの西郷愛は尋常じゃないですから、そこは少し割り引いて考えるべきかもしれませんが、いずれにせよ、このときの動機を西郷が記した史料は存在せず、すべて後世の想像にすぎません。ただ、唯一、征韓論に西郷が触れた史料である明治6年(1873年)7月29日付で板垣退助に宛てた書簡のなかで、西郷は自分が殺されることを高い確率で想定しており、そのときは、「此より兵端を開き候わん」と記しています。やはり、西郷は朝鮮を討つための大義名分になろうとしていたのでしょうか・・・。


 8月17日の閣議で決定した西郷の朝鮮国派遣でしたが、ただし、事が重大であるがゆえ、最終的な決定は副大臣である岩倉具視の帰国を待ってということになります。これが、大きなドラマを生むことになるんですね。

 今話のサブタイトルは『両雄激突』でしたが、両雄激突は次回に持ち越しでしたね。つづきは次週の稿にて。



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by sakanoueno-kumo | 2018-11-13 23:59 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その145 「伏見土佐藩邸跡」

前稿伏見長州藩邸跡前々稿伏見薩摩藩邸跡を見て回ったので、となれば、次は土佐藩邸跡に行かないわけにはいきません。


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土佐藩邸跡の石碑は、長州藩邸から300mほど東に建てられています。


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慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで、土佐藩兵は警備についてはいましたが、前藩主山内容堂は、この戦いは薩摩・長州会津・桑名私闘と考え、戦いに参加しないように藩士たちに命じていました。

前年に薩摩藩と同盟を結んでいた土佐藩でしたが、土佐藩は薩長と少し事情が違っていました。

関ヶ原の戦いで徳川家に楯突いた島津家、毛利家と違い、山内家は関ヶ原の戦いの戦功で土佐国24万石を与えられた歴史を持つ徳川家恩顧の大名でした。

なので、容堂としては、できるだけ徳川家と敵対したくなかったんですね。


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しかし、藩大目付の板垣退助が、戦いが起こったときには薩摩藩に味方するように藩士たちに言い含めていたため、一部の兵が容堂の命令に背いて薩摩藩に加わり戦いました。

板垣はもとより武力倒幕論の持ち主で、薩長に遅れまいと水面下で動いていたんですね。

その甲斐あって、のちの明治政府では土佐藩が薩長土肥3番手の座に座ることとなります。

しかし、1、2番手と3番手の差は、あまりにも大きかったのですが。


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伏見薩摩藩邸跡の石碑には坂本龍馬の名が刻まれていましたが、こちらには石碑にも説明板にもまったくその名がありません。

寺田屋には頻繁に出入りしていた龍馬でしたが、ここ土佐藩邸には寄り付くことはほとんどなかったようです。

脱藩浪士という立場ですから、当然ですが。




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幕末京都逍遥


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by sakanoueno-kumo | 2018-10-06 15:01 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

八重の桜 第42話「襄と行く会津」 ~岐阜事件と八重と襄の里帰り~

 明治15年(1882年)4月6日、自由党総裁の板垣退助が岐阜の中教院岐阜の中教院で暴漢に襲われます。世にいう「岐阜事件」です。このとき板垣が叫んだといわれる「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、あまりにも有名ですね。ドラマでは、「わしが死んだち、自由は死なんぜよ!」と、土佐弁で叫んでましたが、たしかに、こっちのほうが信憑性があります。ただ、この言葉、本当に板垣が発したかどうかは微妙のようです。一説には、このとき横にいて暴漢を押さえつけた、同じ自由民権家の内藤魯一が叫んだ言葉で、その内藤が、板垣が叫んだことにしたともいわれていますし、その他も諸説あるようです。その真相はわかりませんが、結局は板垣は死なず、自由も死にませんでした。

 同じ年の夏、新島襄八重は、それぞれの故郷である安中会津に里帰りします。といっても、その目的は伝道活動でした。襄は、前年に山本覚馬の娘・みねと結婚した伊勢時雄(横井時雄)徳富蘇峰とともに、中山道を東へ徒歩で旅します。八重は襄とは別行動で、みねを連れて神戸から海路にて横浜へ向かい、安中を目指しました。

 襄たち中山道組の一行は、道中に立ち寄った長野県の「寝覚の床(ねざめのとこ)」で、名物蕎麦の大食い対決をおっ始めます。襄は無類の蕎麦好きだったそうです。のちの襄自身が八重の語ったところによれば、襄が12杯で蘇峰が11杯だったそうで、襄の勝ちだったとか。一方、蘇峰が残した記録によれば、襄が9杯食べたのに対して蘇峰は9杯半食べて、負けた襄が2人分の蕎麦代を払ったとあります。結局のところ勝負の真相は、いまとなっては歴史の闇の中・・・って、どっちが勝とうがどうでもいい話ですけどね(笑)。いずれにせよ、双方自分が勝ったと主張しているところが、なんとも滑稽で可愛くもあるエピソードです。

 そんなこんなで、京都を出発してから1週間後に安中に着いた襄たちは、先に着いていた八重たちと合流します。そこで1周間ほど滞在したあと、いよいよ八重とみねの故郷、会津に向かいます。襄や時雄はもちろん初めて、八重とみねにとっては12年ぶりの会津でした。故郷の景色を目にしたときの感情は、えも言われぬ思いだったに違いありません。ドラマのように、いろんな思いがこみ上げて、過去の出来事が走馬灯のように頭を駆け巡ったことでしょうね。

 「大事なものは皆、ここにあったんです。」

 山本家の角場跡があったかどうかはわかりませんが、未だ会津戦争の爪痕が残る故郷の姿を目の当たりにして、筆舌に尽くしがたい思いだったことでしょう。

 「必ず蘇ります・・・八重さんたちの美しい故郷は。」

 襄の言葉どおり、やがて会津は復興を遂げるのですが、その約140年後に、かつてない天災人災に襲われようとは、ゆめゆめ思わなかったことでしょう。

 みねの母・うらと再会したという記録は残っていません。つまり、本話の設定はドラマオリジナルの創作というわけですが、でも、会わなかったという記録もないわけですから、会ったかもしれません。ていうか、会っててほしいですね。この数年後、みねは短い生涯を終えることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-21 23:22 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)  

八重の桜 第29話「鶴ヶ城開城」  ~会津戦争終結~

 奥羽越列藩同盟の諸藩は次々と新政府軍に降伏していきましたが、9月に入ると、同盟結成の中心的役割を果たした大藩、米沢藩仙台藩までもが新政府軍の軍門に下ります。これで残った同盟国は会津藩庄内藩だけとなりました。孤立無援状態となった鶴ヶ城内の会津兵は懸命に抗戦を続けますが、新政府軍の攻撃力は増すばかりでした。ある史料によれば、城内の会津兵約3千人に対し、城を包囲した新政府軍は3万人ともいわれます。そんな圧倒的な兵力差のなか、9月14日の総攻撃では、約50門もの大砲が火を吹き、八重の記述によれば、午前6時から午後6時までの間に1208発も城内に着弾したといいます。

 山川大蔵の妻・トセが落命したのもこの日でした。本丸にある照姫の部屋を警護していたトセは、「焼き玉押さえ」で爆発に巻き込まれ、命を落とします。「焼き玉押さえ」とは、着弾しても爆発していない砲弾を、水に浸した着物や布団で包み、爆発を防ぐというもの。ドラマでは八重が婦女子たちに指南していましたね。これは言うまでもなく極めて危険な仕事でしたが、八重のように武器を持って戦えない婦女子たちにとっては、お役に立てる大きな役割でした。彼女たちも男たち同様、みごとに死に際を飾ることを常に考え、もしものときは自分を介錯してくれる女性をあらかじめ決めていたといいます。

 追い詰められた会津兵は、9月15日、最後の大規模な攻撃を仕掛けます。一瀬要人萱野権兵衛らに率いられた部隊は、兵糧補給路を絶とうとする新政府軍と、城南の一ノ堰村で激突します。この「一ノ堰の戦い」と呼ばれる戦闘で、八重の父・山本権八が命を落とします。享年60歳。鶴ヶ城に白旗が上がるわずか5日前の9月17日のことでした。

 この一ノ堰の戦いの裏側で、実は降伏・開城の手はずが進められていました。一時は降伏・恭順を主張した西郷頼母を領外へ追放するほど強硬姿勢を崩さなかった藩首脳部でしたが、9月に入ってその姿勢は軟化し始め、さらに、先に降伏した米沢藩から降伏を促す書面が送られてきたことも相まって、とうとう、降伏論で固まります。そして、一ノ堰の戦いが行われていた15日には、秋月梯次郎手代木直右衛門が米沢藩の陣所に向かい、そこで米沢藩を介して新政府軍の陣所に護送され、19日、新政府参謀の板垣退助と会見、降伏交渉に入ります。

 降伏の嘆願を受けた板垣退助は、次のような条件を示します。

一、大旗に降伏の二文字を大書きし、追手門外に立てる。諸隊はこれを合図に発砲をやめる。それから一時間後に重役は礼服を着し、兵器を一切持たずに罷り出る。
二、肥後父子(容保・喜徳)、刀を小姓に持たせ、嘆願書を持参する。病気の場合は駕籠でよい。
三、肥後父子、出城の節は二十人ずつ随従、臣下は脱刀のこと。
四、城中の兵士は追々、出城苦しからず。
五、城中男幾人、女幾人、他邦脱走者幾人を、帳面に差し出すこと。
六、肥後家内へ随従の者は一人が五人、女子随従の儀は幾人でもよい。
七、十四歳以下と六十歳以上ならびに婦女子は城外に退いてよい。
八、男子は追々出城の上、猪苗代に移る。
九、城中滞在の患者は青木村(小田山西麓)に退く。


 そこには、これまで新政府軍が要求してきた松平容保斬首はありませんでした。もちろん誰もお咎め無しというわけにはいかないので、家老の萱野権兵衛がその責任を負って切腹するのですが(これは次週描かれるようですね)、会津藩にとっては、のめる条件を提示されたといえます。新政府軍にしてみれば、まだまだ基盤が不安定な新政府において、戦後の安定した政権運営のためにも、必要以上の遺恨を残したくないといった思いがあったかもしれませんし、あるいは、新政府軍も早く戦を終結させたかったのかもしれません。いずれにせよ、会津側にしてみれば、この寛大な条件をのまない理由はなく、20日に交渉がまとまり秋月らが帰城。22日に白旗が掲げられ、ここに、約1ヶ月続いた会津籠城戦は幕を閉じます。

 白旗の大きさは長さ三尺(約90cm)、幅二尺(約60cm)で、城中の女性たちが小布を縫い合わせて作ったものでした。その作業の指揮をとったのが照姫だったといいます。八重はその針仕事には加わっていなかったそうですが、晩年になっても、このときのことを思い出すと無念極まりない思いでいっぱいだったと語ったそうです。

 明日の夜は 何国(いずこ)の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ
 (明日の夜になれば、慣れ親しんだこの城を照らす月のあかりを、どこの国の誰かが眺めるのだろう)


 降伏前夜に、八重が三の丸の白壁にかんざしで刻みこんだといわれている歌です。あるいは辞世の句のつもりだったのかもしれませんね。弟が死に、そしてまた父を失い、兄はいまだ生死不明で、城を追われ、明日の運命もしれず、無念と不安の思いでいっぱいだったのでしょうね。そんな心の叫びがひしひしと伝わってきます。こののち会津の人々にとっては、籠城戦以上に過酷な日々が訪れようとしていました。


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by sakanoueno-kumo | 2013-07-23 22:34 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(5)  

八重の桜 第24話「二本松少年隊の悲劇」 ~武士の本懐と玉砕戦~

 白河口を占領した新政府軍の軍事参謀・大村益次郎は、会津を討つ前に、まず奥羽越列藩同盟の弱小諸藩を落とす作戦に出ます。慶応4年(1868年)6月には、常陸平潟から北上した新政府軍が棚倉藩を陥落させ、つづいて泉藩、湯長谷藩を制圧し、磐城平藩を攻めました。磐城平藩の前半主は、老中職を務めたこともある安藤信正でした。磐城平城には仙台藩兵なども駐屯していましたが、7月13日の攻防戦で同盟軍は敗北を喫し、磐城平城は落城します。

 「会津は根本なり、仙台、米澤のごときは枝葉なり、枝を刈りて根を残す、ゆえに従って滅ぼせば従って起る、早く根本を絶たば枝葉随って落ちん」
 とは、大総督府参謀の板垣退助の言葉ですが、まさしく、大村の立てた作戦は、枝葉を刈って根本を枯らすというものでした。そしてその作戦はみごとに功を奏し、磐城平城城が落城すると、奥羽越列藩同盟の結束が音を立てて崩れはじめます。7月初旬に秋田藩が同盟を離脱すると、弘前藩、新庄藩、守山藩、三春藩らも次々に降伏。同盟は瓦解の一途をたどっていきます。東北がひとつになったこの同盟でしたが、必ずしも鉄の意志で結束していたわけではなかったんですね。

 7月29日、降伏した三春藩は新政府軍の先鋒隊となり、二本松藩に攻め込みます。二本松城が敵の手に落ちれば、須賀川周辺に駐屯していた仙台藩兵は前後の敵に挟まれることになります。そうなると仙台に帰れなくなるのではないか・・・との動揺が藩兵たちのなかで起こり、戦場からの離脱が始まりました。仙台藩は列藩同盟の盟主。本来であれば、二本松に敵が迫れば応援に向かわねばならないのに、盟主が最初の逃げ出したのです。同盟の瓦解は決定的でした。

 援軍を失った二本松藩は孤立無援の戦いを余儀なくされます。二本松藩兵1000人に対して新政府軍約7000人と、兵力の差は歴然としており、新政府軍に下った諸藩のように、降伏の道を選んでも仕方がない状況でしたが、家老の丹羽一学(富穀)「死を賭して信義を守るは武士の本懐」徹底抗戦を主張したため、二本松藩は新政府軍に立ち向かいます。しかしこのとき、二本松藩の主力兵は白川口方面へ出陣しており、城内にはわずかな手勢と老人兵、そして戦場に出るにはまだ早い少年たちしかいませんでした。そこで急遽結成されたのが、弱冠21歳の砲術師範・木村銃太郎を隊長とする二本松少年隊でした。

 二本松少年隊という名称は後年に付けられたもので、新政府軍に迫られ崩落寸前の城下で、出陣を志願した13歳から17歳までの少年たちで急遽結成された部隊に、名称などあるはずがありませんでした。数えの13歳といえば、今で言えば小学5・6年生ぐらいで、後年の神風特攻隊に繰り出された少年兵より遥かに幼い子どもたちです。丹羽一学が選んだ「武士の本懐」の道は、そんな子供に銃を持たせる道でした。

 少年たちの多くは木村銃太郎の門下生でした。出陣前夜、少年たちは武士として出陣できる喜びに、まるで「修学旅行のようなはしゃぎようだった」と、生き残った隊士が語っています。幼い頃から武士としての心得を叩きこまれてはいたでしょうが、それでも所詮は幼い子どもたち。この後自分たちに襲いかかる事態を、どれほど想像できていたでしょうね。出陣した62人の少年たちのなかで、戦死したのは16人。銃弾に倒れた者もいれば、斬り殺された者もいました。ドラマでスポットが当たっていた13歳の成田才次郎は、長州藩の小隊長・白井小四郎をみごとに刺し殺す功をあげますが、その後長州藩兵に撃ち殺されます。このとき白井は、「自身の油断が招いたゆえの不覚」と、自身を刺した少年の勇敢さをたたえ「殺してはならん」と部下たちに言ったそうですが、隊長を討たれた兵たちとしてはそれを見過ごすわけにはいかず、その場で銃殺されたと言います。撃つ方もまた辛かったことでしょう。

 少年たちの奮闘も虚しく、二本松城はわずか1日で落城します。丹羽一学ら重臣は、城主・丹羽長国を米沢に逃れさせたあと城に火を放ち、家臣ともども自刃して果てます。壮絶な最期でした。

 多くの東北諸藩が新政府軍に寝返っていくなかで、最後まで奥羽越列藩同盟の信義を貫き、凄まじい一藩総玉砕戦で散っていった二本松藩兵。彼らは後世に武士の鏡であるかのように美談として語られます。一方で、予科練などに10代の少年が志願し、特攻隊などに送り込まれた一億総玉砕戦は、史上もっとも愚かな戦争として後世に裁かれています。私には、その違いがよくわかりません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-06-17 20:25 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)