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西郷どん 第47話「敬天愛人」その3 ~西郷死す~

 昨日の続きです。

 明治10年(1877年)9月24日早朝、政府軍は西郷隆盛らの籠もる城山を包囲しました。政府軍は兵力の差で西郷軍を圧倒していましたが、それでも、その包囲網は幾重にも連ね、さらになどで囲って防御用の陣地を構築するといった念の入れようだったといいます。これは、政府軍の参軍・山縣有朋慎重すぎる性格が濃厚に反映していたと見られます。前稿で紹介したように、山縣は前日に西郷に宛てて畏敬の念を込めた手紙を送りましたが、それはあくまで個人的な西郷に対する友情の証であり、政府軍の総帥という立場では、これ以上この戦いを長引かせたくない、是が非にも今日の戦いで決着をつけたいという思いでこの日を向かえたのでしょう。


 午前4時頃、3発の号砲を合図に政府軍の総攻撃が開始されました。これを聞いた西郷は、きっと、「今日が死ぬ日か」と思ったに違いありません。政府軍の戦術は、五個旅団を総攻撃に当て、残りの三個旅団に警戒を命じるというものでした。


 e0158128_15131310.jpgこの総攻撃を受けて、西郷らは洞窟前に整列し、岩崎谷に進撃して敵方を迎え撃つことに決します。この時点で、西郷軍本隊の兵力は、西郷隆盛、桐野利秋、村田新八、桂久武、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太など、約40人になっていました。しかし、政府軍は西郷軍が岩崎谷に兵力を集中させるであろうことをあらかじめ予測しており、第4旅団の主力を岩崎谷に投入していました。この読みは見事に的中し、西郷軍の将兵は、敵弾の雨のなかに次々と命を落としていきます。


 一説には、政府軍の総攻撃が開始されて間もなく、西郷の身辺を警護していた辺見十郎太が西郷に対して切腹を勧めたものの、その時点では西郷はこれを受け入れなかったといいます。西郷は、その前後の言動からみても、自決などという考えはなかったようで、あくまで戦死にこだわっていたようです。それは、戦国武士的な気概を尊ぶ薩摩武士の美徳でもあったかもしれませんし、何より、自殺という行為は、西郷の行動哲学である「敬天愛人」に反するものだったからとも考えられます。人は天命というものを天から与えられ、それに従って生きている。彼は彼の義を貫くために戦いに及んだ。だから、その死は自決ではなく戦死でなければならない。そう考えていたのではないでしょうか。


 e0158128_17565901.jpgしかし、やがて西郷は島津応吉久能邸門前でに敵弾を浴びます。これにより、西郷は自力での歩行は困難となりました。西郷の理想は最後まで戦って戦死することでしたが、事ここに至り、自らの命運が尽きたことを悟った西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて、こう言って介錯を乞うたといいます。


「晋どん、もう、ここらでよか。」


 西郷はそう呼びかけると、東方(明治天皇の住む皇居の方角)に向って手を合わせて跪座しました。これを見た別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫び、泣きながら西郷の首を落としたとされています。享年51。島津斉彬に認められて以来、四半世紀に及んだ彼の長い長い志士人生が幕を閉じました。


 ドラマでは、西郷の介錯のシーンは描かれなかったですね。この西郷の最期については、西郷軍の生き残りである加治木常樹という人物の目撃談によるものですが、別の説では、桐野利秋が西郷を射殺したという説もあり、その真偽は定かではありません。ただ、現存する政府軍の屍体検査書には、「頭体離断」と記されており、生きている間か死んだあとかはわかりませんが、誰かが西郷の首を落としたことは間違いありません。ドラマで介錯のシーンを描かなかったのは、諸説ある西郷の死を曖昧なままにしたのかもしれませんし、あるいは、西郷の望んだ戦死による最期を遂げさせたのかもしれませんね。


 西郷の死を見守っていた桐野や村田ら配下の者たちは、その後、次々に突撃し、敵弾に斃れました。あるいはこの戦争の実質的首魁だったかもしれない桐野は、最後まで塁上に身を晒して凄まじいばかりの勇戦を見せたといいますが、最後は額を打ち抜かれて戦死しました。そして総攻撃が始まって約3時間後、西郷軍の主だった者は全員討ち死にし、戦いは終焉を向かえます。


 結局のところ、西郷にとって西南戦争とはなんだったのでしょう。よく言われるのは、西郷は不平士族たちの憤懣を一身に受け止め、彼らに身を預けて戦いに一身を投じることで、自身が作り上げた明治維新を完結させたとする解釈があり、今回のドラマでも、その解釈に則った描かれ方でした。しかし、わたしには、それは多分に西郷を罪人にしたくないという後世の心情が作り出した虚像のように思えてなりません。西郷は、西郷なりに思うところがあって挙兵した。それは不平士族たちのためではなく、自身の思う国家を創るため、もう一度維新をやり直すための決起で、壮士たちの暴発によってその決起が少し早まってしまったものの、挙兵当初の西郷は、決して負けるとは思っていなかった。自身の声望を以てすれば、現行政府を覆すことも難しくはない、そう思っての決起だったんじゃないかと思います。しかし、その見通しは甘かった。そして、結果的に、自身の本意ではなかったにせよ、自身の死によって侍の時代が終焉を向かえ、維新を完結させることになったんじゃないかと。


 作家・司馬遼太郎氏は、その著書『翔ぶが如く』のなかで、このように評しています。


 「西郷とその徒の死は、前時代からひきついできたエネルギーの終焉であったであろう。そのエネルギーというのはただに江戸期だけではなく、室町期あるいはさらに鎌倉期からひきつがれてきているなにごとかであったかもしれない。」


 西郷が死んだ明治10年(1877年)9月24日以降、夜空にひとつの星がひときわ大きく輝くようになりました。この星の正体は、楕円形の軌道を描いてこの年の秋に地球に接近していた火星だったのですが、天体の知識に乏しかった当時の人々はこの星を「西郷星」と名付け、崇めたといいます。また、同時期に火星に寄り添って輝いていた土星を「桐野星」とも呼んだとか。当時の人々が、いかに西郷たちの死を悼んだかということがわかるエピソードですね。西郷はその死後も、星になって人々の心に宿ったんですね。


 さて、西郷の死を以て最終稿としたかったのですが、もうひとつ、語らなければならないことがありますね。大久保利通の死です。明日、もう一稿だけお付き合いください。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-19 01:27 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第46話「西南戦争」その2 ~熊本城攻防戦~

 昨日の続きです。

 東上を開始した西郷軍は、連日の雪のためにその行軍は難行しましたが、明治10年(1877年)2月21日、熊本城下に到着しました。当時、熊本城には日本陸軍の熊本鎮台が置かれていました。ここで西郷軍は軍議を開き、全軍をもって熊本城を攻撃するか、一部の兵で城を攻撃し、残りはこのまま熊本城を捨て置いて北上するかが話し合われます。冷静に考えれば、彼らの目的が上京して政府に詰問するためにあるならば、熊本城の攻撃に固執する必要などなかったはずなのですが、なぜか、このとき彼らの下した決断は、全軍上げての熊本城攻撃でした。ドラマでは、政府が彼らを賊軍とみなして征討令を発したため、戦わざるを得なくなったという設定にしていましたが、たとえそうだとしても、熊本城に固執する理由はどこにも見当たりません。なぜ熊本城攻撃に決したのでしょう。


 e0158128_21591928.jpg一説には、軍議の席で桐野利秋が、「熊本城など、この青竹棒でひとたたきでごわす。」豪語し、慎重派の意見を一蹴したと言われています。このエピソードが事実かどうかはわかりませんが、この当時、鎮台兵の大半が徴兵制で集められた元農民たちで編制されていました。一方の西郷軍は、元薩摩藩士を中心とするサムライ集団で、そのサムライたちのなかでも、薩摩隼人の強さというのは戦国時代から江戸時代を通してほとんど伝説的に信仰されており、また、その強さが本物であることを、戊辰戦争における戦功で実証していました。また、薩摩隼人は兵としての強さだけではなく、その勇敢さにも誇りを持っていました。そんな彼らからしてみれば、百姓兵が守る熊本城など、桐野に言われるまでもなく、青竹一本でひとたたきと思っていたに違いありません。


 e0158128_13192830.jpgところが、事はそう容易くはありませんでした。当時、熊本鎮台司令長官は土佐出身で陸軍少将の谷干城で、作戦立案に当たる参謀長は、西郷らと同じ薩摩出身の陸軍中佐・樺山資紀でしたが、彼らは3千人を超える兵士と籠城し、かつ、要所に地雷を埋めて西郷軍が近づけないようにするなど、徹底して守りを固めていました。また、西郷軍が熊本入する少し前、熊本城内で火災が起きて天守が焼け落ちており、さらに、城下町の家屋にも燃え移って、町は焼け野原になっていました。この火災の原因は不明ですが、西郷軍の城攻めを想定して、攻められにくいように鎮台側が自ら放火したとの説が有力です。そんなこともあって、西郷軍は熊本城攻撃に想定外の時間を取られることになります。


 2月22日に始まった熊本城への攻撃は、3日間に渡って続けられましたが、鎮台方に決定的なダメージを与えることはできませんでした。結局、西郷軍は方針転換を迫られ、一部の兵士を熊本城攻城戦に残し、本隊は小倉方面より南下してくる政府軍と対戦するため、熊本の北にあった高瀬方面に向かうことになります。そして、この高瀬の地で、西郷隆盛の末弟の西郷小兵衛が戦死を遂げることになります。


 e0158128_15131310.jpgその後、熊本城攻城戦は一進一退を繰り広げながら、4月8日には鎮台方の部隊が西郷軍の包囲を突破し、さらに、14日には陸軍少佐の山川浩らの援軍が熊本城に入城したため、攻防戦は終焉をみました。結局、西郷軍は50日余りも城を包囲しながら、熊本鎮台を落とすことができませんでした。その敗因は、政府軍との武器の差や、谷ら鎮台司令部の用意周到さも挙げられますが、一番の理由は、桐野らの鎮台兵に対する「侮り」だったのではないでしょうか。桐野はかつて熊本鎮台の司令長官を務めていた時期もあり、熊本城を知り尽くしているという点でも、この城攻めを甘くみていました。そして、その「甘く見ていた」という点は、西郷にもありました。西郷は自身が立てば、自身の声望によって多くの不平士族が立ち上がり、民衆は支援し、この熊本城も、戦わずして明け渡されるだろうと考えていた節があります。そんな西郷や桐野の甘い見通しが、彼らの死地に導いたといえるかもしれません。

 明日に続きます。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-11 22:58 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

西郷どん 第45話「西郷立つ」その3 ~弾薬庫襲撃事件~

昨日の続きです。

 西郷隆盛暗殺計画が持ち上がる少し前、政府内では鹿児島の不穏な動向に対処すべく、ある計画を立案します。その計画とは、鹿児島の兵器弾薬製造所を大阪へ移すというものでした。もちろん、これは鹿児島での反乱の発生を視野に入れた緊急対策でした。この製造所は、かつては薩摩藩の弾薬庫でしたが、維新後は政府軍の管轄下になっていました。国のものである以上、政府がこれをどこに移そうが鹿児島県には関係のないことですが、実際には、この当時の士族たちには、これが日本国の所有物だとする認識が薄く、また、たとえ国のものであったとしても、それを鹿児島から遠ざけようとする行為は、政府が私学校党軍事的な敵として認めたことになり、この状況で武器弾薬の移設を行うというのは、いたずらに私学校党の感情を刺激して挑発することになりかねないとして、海軍大輔の川村純義が激しく反対し、いったんは中止となっていました。しかし、鹿児島に潜入していた警視庁の密偵から私学校党の不穏な動向が伝えられると、政府は、武器弾薬が奪われるのを防ぐべく、夜中に製造所の武器弾薬の搬出を開始しました。


 ところが、この情報はすぐさま私学校党の耳に入り、これに挑発された私学校党二十数名が、明治10年(1877年)1月29日夜に草牟田にあった陸軍の弾薬庫を襲撃銃砲と弾薬約6万発を奪取しました。さらに翌日の夜には、約1000人もの私学校党が再び草牟田の陸軍火薬庫と磯海軍造船所内にあった弾薬庫をそれぞれ襲撃し、多量の武器弾薬を掠奪します。


 ドラマでは、この弾薬庫襲撃事件に私学校幹部の桐野利秋篠原国幹が関わっていたかのように描かれていましたが、実際には、このとき桐野ら主要幹部のほとんどが鹿児島城下を不在中で、西郷に至っては、鹿児島城下から遠く離れた大隅半島最南端の小根占で猟を楽しんでおり、事件は血気に逸る若者らの暴発だったようです。この幹部不在という状況が暴発を招いたともいえるかもしれませんが、いずれにせよ、事件の報を受けた桐野と別府晋介が、それぞれの在所から篠原の居宅に駆けつけ、善後策を協議した末、西郷に報せるべく辺見十郎太を小根占まで走らせました。


 事件の報告を受けた西郷はたいそう驚き、「しまった!」とつぶやいたといいます。そして辺見に対して怒気を発し、まるで辺見が火薬庫を襲った張本人であるかのごとく、「何事、弾薬などを追盗せえ!」怒鳴ったと伝えられます。このときの西郷の「しまった!」という言葉が、後世に西郷自身は挙兵に積極的ではなかったとされる根拠となっています。しかし、歴史家の家近良樹氏は、西郷は決起して政府を転覆させる野心を持っており、そのタイミングを窺ってはいたが、まだ機が熟していないと考えていたため、「しまった!」という言葉を発したのだろうと説かれています。いずれにせよ、西郷という人は多くを語らないため、その真意をうかがい知ることは容易ではありません。


 e0158128_21591928.jpg2月3日に鹿児島に戻った西郷は、2月5日、私学校内で幹部および分校校長ら200名たちとともに今後の対策を話し合いました。その席では挙兵論自重論の双方が激論を交わし、別府晋介や辺見十郎太らは問罪のための即時挙兵を主張しますが、慎重派の永山弥一郎河野主一浪らは、兵を挙げるのではなく西郷と桐野と篠原らが幹部のみが非武装で上京し、中原尚雄の西郷暗殺計画の供述書を持って政府に詰問すべしと主張し、一時はその方針に決まりかけます。しかし、ここで、それまでずっと黙っていた桐野が発した一言で、すべては一蹴されました。


「命が惜しいか!」


 この言葉は、勇敢さこそ第一の誉れとする薩摩隼人にとって最も屈辱の言葉であり、すべての議論を無にしてしまう一言でした。さらに篠原国幹が「議を言うな」と一同を黙らせ、最後に桐野が「断の一字あるのみ、旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案。これですべてが決しました。あとは、西郷の裁断を仰ぐのみ。桐野から裁断を求められた西郷は、あの有名な言葉を発します。


e0158128_15131310.jpg 「おいの体は皆に預けもんそ」


 この言葉は、西郷の息子である西郷菊次郎が隣室でふすま越しに聞いたと言われていますが、それが、いつ誰に対してだったかがよくわかっておらず、果たしてこのときの言葉だったかどうかも定かではありません。いまとなっては確かめようがありませんが、いかにも西郷らしい言葉といえます。この言葉も、先の「しまった!」という言葉同様、西郷は挙兵に対してあくまで受け身であり、決して本意ではなかったと言われる根拠となっています。西郷は挙兵には反対だったが、ことここに至っては戦は避けられず、弾薬庫を襲撃した私学校生たちを見捨てることはできず、彼らに身を任せた、と。実際のところ、どうだったのでしょうね。


 かくして西郷らは決起しました。その大義名分を記した通知書には、「今般政府に尋問の筋これ有り」と記されていました。「尋問の筋」とは、言うまでもなく中原尚雄が供述した西郷暗殺計画だったでしょう。しかしながら、後世から見れば、この動機はあくまで西郷個人の命を問題とする私怨いえ、決起の大義名分というには稚拙だったと言わざるを得ません。もし、これが、当時の士族一般が不平を抱いていた大久保政権の在り方を問うというかたちで決起していれば、あるいは、この後の事態は大きく変わったかもしれません。これが、もし桐野や篠原らが主導した大義名分だったとすれば、やはり、彼らに身を任せたのが失策だったということでしょうね。立つなら、西郷自身が主導すべきだったんじゃないでしょうか。



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by sakanoueno-kumo | 2018-12-05 15:14 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その85 「赤松小三郎の墓(金戒光明寺)」

金戒光明寺の墓地内には、會津墓地以外にも多くの歴史上の人物の墓がありますが、幕末の人物でいえば、「その53」で紹介した信州上田藩士の赤松小三郎の墓があります。


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赤松は大政奉還の約半年前の慶応3年(1867年)5月に、二院制の議会の創設、選挙による議会政治、内閣総理大臣(赤松の訳語では「大閣老」)以下6人の大臣を議会が選出するという議院内閣制度など、現代にも通じる具体的な新国家構想が書かれた「建白七策」を提唱した人物として知られ、また、薩摩藩が長州藩と武力討幕計画を固めるなか、内戦の危機を回避しようと、薩摩の西郷隆盛小松帯刀、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していました。

しかし、彼の考えがあまりにも開明的でありすぎたため単純攘夷思想の志士たちらの理解を得ることができず、慶応3年9月3日(1867年9月30日)、京都から上田に帰る途中に待ち伏せていた中村半次郎(桐野利秋)らに暗殺されました。

赤松はかつて薩摩藩からの要請で薩摩藩邸において学教授を務めていたこともあり、中村半次郎も受講者のなかにいました。

赤松も、かつての教え子に殺されることになろうとは、思いもしなかったでしょう。


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赤松を殺した実行犯が中村半次郎だったということは、大正8年(1919年)に旧薩摩藩士の有馬藤太が口述したことで明らかになりますが、その証言が確証されたのは、昭和47年(1972年)に半次郎の『京在日記』の散逸部分が発見され、半次郎本人が赤松暗殺を日記に克明に綴っていたことが判明したためでした。

半次郎はその日記で、「幕奸だから斬った」と記述しています。

ただ、実行犯である半次郎が独断で行ったのか、あるいは半次郎に指示した人物がいたのかは定かではありません。


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暗殺から3日後の9月6日、赤松の遺骸はここ金戒光明寺に葬られました。

そして12月6日に建てられた墓石には、「薩摩受業門生謹識」として薩摩藩門下生が、赤松に対する称賛と死を悼む言葉を刻みました。


先生姓源諱某赤松氏称小三郎信濃上田人

也年甫十八慨然志於西洋之學受業同國佐

久間修理及幕府人勝麟太郞東自江戸西至

長崎游方有年多所發明後益察時勢之緩急

専務英學於其銃隊之法也尤精嘗譯英國歩

兵練法以公于世會我邦兵法採用英式旦夕

講習及聘致先生於京邸取其書更使校之原

本而肆業焉今歳之春   中将公在京師也

召見賜物先生感喜益尽精力而重訂書成十

巻上之   公深嘉称速命剞○将以有用於

天下國家也蓋先生平素之功於是乎為不朽

可不謂懿哉不幸終遭緑林之害而死年三十

有七實慶應三年丁卯秋九月三日也受業門

人驚慟之餘胥議而建墓於洛東黒谷之塋且

記其梗概以表追哀意云爾

         薩摩受業門生謹識


当時の墓石は風化による傷みが激しく、平成23年(2011年)に新しい墓石が建てられました。

元の墓石は、故郷の信州上田にある赤松小三郎記念館に記念碑として保管されているそうです。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-30 14:35 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その53 「赤松小三郎遭難の地」

京都市営地下鉄烏丸線五条駅から東へ100mほど歩いて東洞院通を少し南下したあたりに、「贈従五位赤松小三郎先生記念」と刻まれた石碑があります。

ここは、信州上田藩士の赤松小三郎暗殺された場所です。


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赤松小三郎はそれほど有名ではありませんが、その経歴はあの坂本龍馬に似ています。

龍馬より先に勝海舟の門人となり、その従者として長崎海軍伝習所に赴き、航海術オランダ式兵学などを学びました。

慶応2年(1866年)には京都で私塾を開き、英国式兵学を教えました。

また、同時期には薩摩藩から兵学教授への就任を請われ、京都の薩摩藩邸において中村半次郎(のちの桐野利秋)や、のちに元帥海軍大将となる東郷平八郎ら約800人に英国式兵学を教えます。

一方で、慶応3年(1867年)には会津藩山本覚馬から依頼されて会津藩洋学校でも兵学を教えました。

討幕派、佐幕派のどちらにも兵学を教えたという珍しい経歴を持っています。


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赤松は、坂本龍馬が起草したとされる国家構想「船中八策」に先立つ慶応3年(1867年)5月に、前福井藩主の松平春嶽、薩摩藩国父の島津久光二院制国会創設など7項目の建白書「建白七策」を提出しています。

この建白書のなかで赤松は、二院制の議会の創設、選挙による議会政治、内閣総理大臣(赤松の訳語では「大閣老」)以下6人の大臣を議会が選出するという議院内閣制度など、現代にも通じる具体的な新国家構想を提唱しています。

一説には、龍馬の「船中八策」の原本が、この「建白七策」だったのではないかともいわれます(もっとも、「船中八策」の存在そのものを疑問視する見方もありますが)。

冒頭で、龍馬に似ていると述べましたが、龍馬が赤松の真似をしていたと考えたほうが正しいかもしれません。

赤松は慶応3年(1867年)8月に薩摩藩が長州藩と武力討幕計画を固めるなか、内戦の危機を回避しようと、薩摩の西郷隆盛小松帯刀、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していた様子が兄宛の書簡からうかがえます。

これも、また龍馬と行動パターンが酷似していますね。

しかし、同年9月、京都から上田に帰る途中にこの地で待ち伏せていた中村半次郎(桐野利秋)らに暗殺されました。

その理由は、赤松が薩摩の軍事機密を知りすぎていたこと、薩摩の武力討幕路線に反対の立場だったことで、半次郎はその日記で、「幕奸だから斬った」と記述しています。

ただ、実行犯である半次郎が独断で行ったのか、あるいは半次郎に指示した人物がいたのかは定かではありません。

あるいは、半次郎に暗殺を指示したのは西郷だったんじゃないか・・・という見方もあるようですね。

このあたりも、龍馬暗殺の薩摩黒幕説と似ています。


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勝海舟への師事、航海術の習得、新国家構想の提言、そして暗殺。

どれもすべて坂本龍馬に先駆けていた赤松小三郎。

もうちょっと、スポットが当たってもいい人物なんじゃないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-12 20:50 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その46 「中沼了三講書之所跡」

前稿で紹介した「梅田雲浜邸址」の石碑から300mほど北上したところに、「中沼了三先生講書所」と刻まれた石碑があります。


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中沼了三は隠岐出身の儒学者で、天保6年(1835年)に上洛し、鈴木遺音の門で儒学を学ぶと、天保14年(1843年)、この地にを開きます。

その門下には、西郷従道、桐野利秋、川村純義などの薩摩藩士が数多くおり、土佐藩の中岡慎太郎も、西郷隆盛との接触を図るために一時期、この塾に入門していたといいます。

弘化3年(1846年)には学習院講師となり、孝明天皇(第121代天皇)の侍講となります。


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慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」では新政府軍の参謀として従軍し、同じ年の隠岐騒動(代官追放、隠岐国に自治政府樹立、松江藩兵隠岐で発砲、隠岐人14名戦死)では隠岐正義党の思想的支柱となります。

そして維新後、明治2年(1869年)には明治天皇(第122代天皇)の侍講となり、昌平学校の一等教授(正六位)を歴任するなど皇室からの信頼は厚く、高い名声を得ていました。


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しかし、その後、明治政府の三条実美、徳大寺実則らと対立し、明治3年(1870年)12月に官を辞すと、翌年に起きた「二卿事件」への関与を疑われて位階返上し、明治9年(1876年)「神風連の乱」でも関与を疑われ、明治29年(1896年)、京都浄土寺村の自邸にて81歳の生涯を閉じます。


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学者が管に就いた場合、対立して辞するというケースが多いですね。

学者は大概が理想主義者ですから、現実と向き合わねばならない管領には向いていないのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-03 00:11 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

龍馬伝 第15話「ふたりの京」

 「人斬り以蔵」として後世に名高い、土佐藩郷士・岡田以蔵。そして、その人斬り以蔵を影で操っていたとされるのが、土佐勤王党首魁・武市半平太。 坂本龍馬を主役とする物語の多くにおいて、この二人の存在は欠かせない。幕末の一時期、京の町を震撼させたテロリストの以蔵だが、物語の中に見られる彼の姿は、いつもどこか切ない。人を殺して殺して殺しまくった狂気の男のはずなのだが、後世の私たちが受ける彼の印象はなぜか同情的で、彼の墓前には今もたくさんの献花が絶えないという。

 以蔵の最初の暗殺は、前話にあった土佐藩下目付けの井上佐一郎。このときは人斬りではなく、ドラマのとおり絞殺だった。もっともこれは単独犯ではなく、以蔵を含め4人で犯行に及んでいたようだ。この暗殺事件には思想的な動機はなく、吉田東洋暗殺を捜査していた井上に対して危険を感じたというのが理由だろう。この後、「天誅」という名のもとに暗殺が繰り返されるのは、同じ時期に「人斬り」として恐れられていた薩摩藩士・田中新兵衛の犯行で、「安政の大獄」時に攘夷志士の摘発に励んだ九条関白の家臣・島田左近の暗殺が始まりといわれている。今話で以蔵が殺した目明しの文吉は、その島田左近の手下の岡っ引。井上佐一郎を殺害したのが文久2年8月2日。以後、同月20日に本間精一郎、2日後の22日に宇郷玄蕃頭を、その8日後の30日に上記の文吉を、その後も9月、10月、11月と、短期間で立て続けに暗殺を繰り返している。「暗殺とは癖になるような気がする。」と、第13話「さらば土佐よ」の稿でも述べたが、そのとおり、この時期の土佐勤王党は暗殺が癖になっていた。

 岡田以蔵と武市半平太の関係は、まさに光と影。この時期、事実上土佐藩を動かしていた半平太の影の部分を以蔵は支えていた。その支えを半平太が要求していたのか、それとも以蔵が自主的にしていたことなのかはわからない。後世の私たちに半平太がダーティーな人物としてイメージされるのは、この以蔵との関係によるものが大きいだろう。現代で言えば、大物政治家とその身代わりになって逮捕される秘書官といったところだろうか。似たような関係を例にあげれば、薩摩藩士・西郷隆盛などにも、上記田中新兵衛や中村半次郎(桐野利秋)といった影の部分の担い手がいたのだが、こちらはあまりダークサイドなイメージには描かれない。半平太と以蔵の関係がダーティーに感じられるのは、半平太の急激な出世と以蔵の短期間のテロ実行が、あまりにもラップしすぎることと、後に二人が人生の最期を迎えたときの、以蔵に対する半平太の態度によるものだろう。「邪魔者は抹殺する。」といった方法で暗殺を繰り返した以蔵だったが、やがて自分が邪魔者となってしまうことになるのだが、それは物語の今後に譲ることにしたい。

 浅学だったとされる以蔵だが、それだけに純粋さを感じてしまう。
 「人の道に外れたことをしてはいかんぜよ。」
 以蔵が人斬りになっていることを悟った龍馬が以蔵に向けて言った言葉だが、自分の行動が「人の道に外れたこと」だとは思ってもいなかっただろう。学のない自分にとって、己を生かせるのは剣の道だけであり、その剣を使って自身の師である半平太の力になる。間違っているわけがない・・・と思っていたに違いない。
 「人にはそれぞれの道があるきにのぉ、みんなぁが同じ道は歩いていけんがじゃ。」
 「世の中にはいろんな人がおるがじゃ。意見が違うてあたりまえちゃ。」

 龍馬の言うとおりだが、しかし、自分の意見を持たない・・・持てない人もいる。そういう人は、誰かの意見を信じて自分の進むべき道を決めるしかない。龍馬や半平太のように、自分の進むべき道を自分で決められる者ばかりではないのだ。

 以蔵は信じるべき人物を間違えた。信じる人を見定めたのが自分自身だとすれば、それも自分の意見だと言えるかもしれない。そこに岡田以蔵という男の切なさがある。


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by sakanoueno-kumo | 2010-04-14 00:11 | 龍馬伝 | Trackback(4) | Comments(4)