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又兵衛桜 ~樹齢300年超の伝説の枝垂れ桜~

先日の稿で紹介した宇陀松山城跡のすぐ近くに、「又兵衛桜」と呼ばれる樹齢300年以上1本桜があります。

以前から一度観に行きたいと思っていたのですが、平成最後の春、ようやく念願かなって訪れることができました。


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この日は平成31年(2019年)4月8日、令和に改元する3週間前です。

平成最後の桜ですね。


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人との対比で、その大きさがわかるかと思います。


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川下からの遠景。

遠くから見てもデカイ


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「又兵衛桜」の呼称は、戦国武将の後藤又兵衛基次に由来します。

後藤又兵衛といえば、若き日は「黒田二十四騎」「黒田八虎」のひとりとして、晩年は大坂の陣の大坂方の武将として、真田信繁(幸村)と並び称される英雄として後世に人気の人物ですが、播磨国出身の又兵衛と奥大和の枝垂れ桜とどう関係があるのか。


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後藤又兵衛基次は、播磨の別所氏の家臣・後藤基国の次男として、永禄3年(1560年)に生まれたと伝わります。

黒田官兵衛孝高の家臣として武功を重ね、一時は大隈1万6千石もの大封を与えられていた又兵衛でしたが、官兵衛の死後、新しい主君の黒田長政とそりが合わず、慶長11年(1606年)に黒田家を出奔してしまいます。


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それでも、又兵衛の武勇は天下に轟いており、細川忠興、福島正則、前田利長、結城秀康など名立たる大名から誘いがかかりますが、長政がしいた「奉公構」によって実現しませんでした。

「奉公構」とは、出奔した家臣を他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことで、豊臣政権によって始まった制度でした。


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その後、又兵衛は京に流れて浪人生活となり、そして、慶長19年(1614年)に大坂と幕府の関係に暗雲が立ち込めると、大野治長の招きで大坂城に入ります。

そこで又兵衛は、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝久、明石掃部とともに「豊臣方五人衆」と呼ばれました。


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そして、翌年の5月6日、大坂夏の陣道明寺の戦いにおける小松山の攻防戦で壮絶な死を遂げるんですね。

享年56。

大坂城が落城して豊臣秀頼淀殿自刃する前日のことでした。


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とまあ、ここまでが通説の歴史ですが、ところが、別の説では、大阪夏の陣ののち又兵衛は密かに落ち延び、ここ奥大和の宇陀地方で隠棲し、再興の時期を待ったという伝説があります。

そのときの後藤家屋敷跡にあるのが、この又兵衛桜だと伝えられるんだそうです。


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大坂夏の陣における豊臣方の生存説は多数あり、又兵衛以外にも、真田信繁や豊臣秀頼、淀殿らの生存説も各地に残っています。

ただ、いずれも根拠に乏しく、伝承の域をでません。

おそらく、豊臣方の武将に生きていてほしいと願う人々の思いが、このような不死鳥伝説を生んだ理由でしょう。

当時の庶民感情のなかに、徳川新政権への反感と、豊臣政権の復活を望む声が、少なからず存在していたことの表れだと思います。


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実際には、又兵衛がその後も生きていたということは九分九厘なく、したがって、ここが又兵衛の屋敷跡という事実も存在せず、この桜は又兵衛とは縁もゆかりもないということになるでしょう。

でも、それを言っちゃあ無粋というもんですよね。

実際、樹齢300年以上の古木であることは間違いないわけですから、あるいは、400年前の大阪の陣に関わった誰かが、この桜を目にしていたかもしれません。


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かつては知る人ぞ知る名木でしたが、平成12年(2000年)のNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』のオープニング映像で使用されたことで有名になり、その後、多くの見物客が訪れるようになったそうです。


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この日も、たくさんの観光客で賑わっていて、道中も渋滞していました。

でも、京都や奈良などの桜の名所なんかに比べれば、ぜんぜんマシだったと思います。

京都の名所は外国人だらけで、ちょっとウンザリですからね。

その点、ここは外人さんはほとんどいませんでした。

外人さんはこんな奥地までは来ないようです(笑)。


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とにかく見事な枝垂れ桜

これを見てしまうと、普通のソメイヨシノショボく感じちゃいますね。




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by sakanoueno-kumo | 2019-06-06 00:55 | 奈良の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

桜満開の赤穂城を歩く。 その4 「元禄桜苑」

「その3」の続きです。

赤穂城本丸の東側にある厩口門を出て、二ノ丸南に向かいます。

写真は、本丸側から見た桜と厩口門の高麗門


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天気が曇りじゃなかったら、もっと綺麗だったでしょうね。


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門の外にも桜が見えます。


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こちらは本丸の外から見た厩口門。


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正保2年(1645年)に入封した浅野長直によって築かれた赤穂城ですが、浅野家は3代当主の浅野内匠頭長矩刃傷事件が起こり、改易となります。

城は一旦、お隣の播磨龍野藩主・脇坂安照の預かりとなりますが、その後、下野国烏山藩より永井直敬が3万3,000石で入封。

しかし、直敬はわずか4年で転封となり、代わって備中国西江原藩より森長直が2万石で入部。

以後、明治4年(1871年)の廃藩置県までの12代、165年間、森家が赤穂城主を務めます。


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説明板によると、この門が厩口門と呼ばれていたのは浅野家時代で、森家の時代には「台所門」と呼ばれていたそうです。


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その厩口門もしくは台所門から内堀に沿って南に向かいます。


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桜並木が見えてきました。

石垣が切れている部分は、前稿で紹介した刎橋門跡です。


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こちらが二ノ丸側からみた刎橋門跡。


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そのまま南に進むと、内堀最南端に隅櫓跡の石垣があります。

横矢掛けの形状をしています。


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本丸西側の二ノ丸は市民憩いの芝生広場公園として整備されており、元禄桜苑と名づけられた花見の名所となっています。


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この日は天気が良くなかったので、あまり花見客はいませんでしたが、たぶん、いつもはもっと賑わっているのでしょう。


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水面に映る逆さ桜


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晴れてたらもっと綺麗だったでしょうね。


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元禄桜苑の最北端には、「その2」で紹介した二ノ丸庭園に入る西仕切門があります。

ただ、二ノ丸庭園は整備中のため、平成29年(2017年)4月現在、この門はまだ閉じられたままです。


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元禄桜苑最南端には、南沖櫓台があります。


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土塁を登ってみました。

南沖櫓台の外側には、現在外堀が巡らされていますが、かつてはこの先はだったそうです。


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南沖櫓台から見た土塁と桜です。


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南沖櫓台の東側にある水手門跡の向かい側に、米蔵があります。

この米蔵の建物は復元で、現在は休憩所になっています。

説明板によると、古絵図や古文書によると、かつてこの場所に2棟ないし3棟の米蔵があったそうです。


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さて、本丸、二ノ丸と攻略しましたが、もう1回だけシリーズを続けます。




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by sakanoueno-kumo | 2019-02-20 16:49 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その122 「忠成公(三条実万)隠棲地碑(薬師堂)」

前稿で紹介した葉山観音から西へ300mほど歩いたところある薬師堂に、「忠成公隠棲地」と刻まれた大きな石碑があります。

忠成公とは、幕末の公卿・三条実万の諡号。

あの明治の元勲・三条実美のお父さんです。


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清華家の三条家に生まれた実万は、光格天皇(第119代天皇)・仁孝天皇(第120代天皇)・孝明天皇(第121代天皇)に仕え、議奏、武家伝奏、内大臣などを歴任しますが、久邇宮朝彦親王(青蓮院宮・中川宮)近衛忠凞と親しく、安政5年(1858年)の日米修好通商条約調印には強く反対の立場をとります。


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また、将軍継嗣問題では一橋派に与して関白・九条尚忠と対立し、さらに、いわゆる戊午の密勅の降下にも参画したとして、幕府大老・井伊直弼による安政の大獄で失脚。

落飾、謹慎を命じられ、洛南上津屋村に隠棲したのち、安政6年3月27日(1859年4月29日)、一乗村のこの地に移ってきました。

しかし、ほどなく病に倒れ、約半年後の安政6年10月6日(1859年10月31日)に薨去します。

毒殺説なんかもあったりしますが、享年58ですから、当時の寿命を考えると、普通に病没だったんじゃないでしょうか。


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志半ばでこの世を去った実万でしたが、その遺志は息子の実美に受け継がれ、明治の元勲となります。

息子の栄達は、父の無念があったからこそだったでしょう。


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ここを訪れたのは平成30年(2018年)3月31日、桜が綺麗でした。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-30 23:45 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その120 「圓光寺(村山たか墓所)」

前稿で紹介した金福寺でその生涯を終えた村山たかは、その本寺である圓光寺に葬られました。


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圓光寺の開基は徳川家康とされています。

慶長6年(1601年)、家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第9代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立して学校としました。

その後、相国寺内に移され、に寛文7年(1667年)に現在地に移されたそうです。


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山門をくぐると、いきなり視界に枝垂れ桜が飛び込んできます。


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見事な枝垂れ桜です。


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品種に詳しくはないのですが、八重桜に似ているように思います。

ソメイヨシノエドヒガンなどより、鮮やかなピンクです。


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こちらは瑞雲閣


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そして本堂です。


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こちらは坐禅堂


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鐘楼


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そして、その奥にある墓地に、村山たか女墓があります。

こちらがその墓石です。


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たかは明治9年(1876年)に67歳で亡くなりました。

若き日の井伊直弼と情交を結び、直弼が幕府大老となると、大老の元カノとして京都に潜み、直弼のスパイとして働いたと伝わる村山たかですが、長らく、彼女と直弼の具体的な関係は不明でした。

ところが、平成23年(2011年)の末に京都市東山区の井伊美術館で直弼がたかへ宛てた手紙が発見され、その手紙は直弼が20代後半に書かれたものと思われ、藩の反対でたかと会えなくなった際の辛い心情が綴られていました。

この手紙によって、伝承が事実だったことが立証されました。


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若き日のたかは、芸妓となってシングルマザーになったと思えば直弼の愛人になり、直弼と別れると直弼のブレーンだった長野主膳と男女の関係になったともいわれ、恋多き女というイメージですが、直弼の死後はとなってその菩提を弔いながらストイックな晩年を過ごします。。

彼女が悪女だったのかどうかはわかりませんが、きっと、魅力的な女性だったのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-26 00:22 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

幕末京都逍遥 その35 「二条大橋」

二条大橋にやってきました。

ここは、桂小五郎(木戸孝允)幾松(木戸松子)の恋物語の舞台ですね。


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元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で敗走した長州藩士は、朝敵として会津藩兵新選組から追われる身となりますが、そのとき桂は、乞食の姿に身をやつして二条大橋の下に潜んでいました。

その桂に、幾松が握り飯の入った包みを橋の上から落として届けていたという逸話は、あまりにも有名ですね。


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実際には、桂がここに潜伏していたのは5日間ほどだったといいます。

その後、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活が不可能だとわかると、しばらく但馬の出石に潜伏することになります。


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現在の二条大橋はご覧のとおり、当時の面影はまったく残っておりません。

桂が潜伏していた(かもしれない)橋の下に、何やら説明板があります。

あるいは、桂と幾松の逸話を紹介したものかもと近寄ってみると・・・


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狩野永徳「上杉本 洛中洛外図屏風」の紹介でした。

残念。


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わたしがここを訪れたのは、桜が満開の平成30年(2018年)3月31日。

橋の下の河川敷では、多くのカップルデートしていました。

150余年前の桂と幾松の恋物語を知っているのかどうかはわかりませんが。



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by sakanoueno-kumo | 2018-04-17 22:37 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その43 「道誉桜(清瀧寺徳源院)」 滋賀県米原市

滋賀県米原市の清瀧寺徳源院に、佐々木道誉(高氏)が愛したと伝わる、通称「道誉桜」があると聞き、遠路訪れました。

道誉の時代、このあたりは佐々木京極氏の居城・柏原城があったとされています。


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清瀧寺徳源院の正門です。

「史蹟 清瀧寺京極家墓所」と刻まれた石碑があることでわかるように、ここは京極家の菩提寺です。


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そして、これがその「道誉桜」。


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現在の「道誉桜」は二代目だそうです。

それでも、樹齢約350年と伝わり、幹周は2.3m、樹高は約15mあります。


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わたしの妻と娘を比較の対照にしてもらえば、そのスケールが伝わるでしょうか?


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エゾヒガンザクラの一種で糸ざくらとも呼ばれるそうです。


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わたしたちのよく知るソメイヨシノに比べると、小さな花びらが特徴です。

ちなみに、ソメイヨシノはエドヒガン系の桜と日本固有種のオオシマザクラの雑種の交配で生まれた桜で、単一の樹を始源とするクローンだそうです。

ソメイヨシノが日本全国に植えられ始めたのは明治中期だそうで、したがって、「道誉桜」のように全国にある樹齢数百年といわれる桜の大樹は、すべてソメイヨシノではありません。


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境内にある県指定の重要文化財の三重塔前には、三代目の道誉桜も植えられています。


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三代目は昭和52年(1977年)に植えられたそうで、まだ樹齢40年の若者です。


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塔は、寛文12年(1672年)に讃岐国丸亀藩主京極高豊が建てたものだそうです。


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二代目と三代目をワンフレームに。

手前が三代目、奥が二代目です。


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本堂位牌堂です。

ここを訪れたのは先週の4月15日の土曜日で、実はこの日、天気予報がはずれて午前中はで、仕方なく雨の中の桜を撮影して別の場所に移動中、にわかに天気が好転して晴れてきたので、午後からの予定を変更して、もう一回ここに戻ってきて撮影しました。

戻ってきて良かった。


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最後に、お堂裏の庭園の写真です。

道誉の時代からずいぶん時代が下った江戸時代のものですが、県指定の名勝で、秋には紅葉が美しいそうです。


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庭園の端に見える白塀の向こうは京極家の墓所があります。

次稿では、その墓を紹介します。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-21 07:26 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その41 「佐々木道誉墓所(勝楽寺)」 滋賀県犬上郡甲良町

前稿佐々木道誉の名が出てきましたので、ここで少し時系列を離れて、滋賀県にある道誉関連の史跡をめぐります。

まずは、犬上郡甲良町の勝楽寺にある、佐々木道誉の墓です。


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勝楽寺のある集落の地名は滋賀県甲良町正楽寺といいます。

たぶん、元は勝楽寺の名称にあるのでしょうね。

名神高速の高架を潜って集落に入ると、いきなり「ようこそ道誉の郷・正楽寺へ」という看板が迎えてくれます。


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その向かいには、「道誉の郷」と記された石碑が。


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こちらが勝楽寺の山門

ここを訪れたのは先日の日曜日で、満開から少し散り始めといった状況でした。


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山門の軒瓦には佐々木京極家の「四つ目結紋」が。


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山門を潜ると、左手に「道誉記念堂」というお堂があります。


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道誉は北近江の守護・佐々木氏の支流京極家の当主で、京極道誉とも呼ばれます。

佐々木氏は鎌倉時代に二家に分派し、本家は六角氏、分家が京極氏となりました。


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「道誉」という名は法名で、諱(実名)は「高氏」といいます。

そう、共に鎌倉幕府を倒した足利高氏(尊氏)と同じ名前なんですね。

吉川英治の小説『私本太平記』では、同じ名の足利高氏をかねてから気に留めていた道誉との出会いが、たいへん面白く描かれています。


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また、道誉は「婆裟羅大名」という異名がよく知られていますね。

「婆裟羅(ばさら)」とは南北朝時代の流行語で、形式や常識から逸脱して奔放な生き方をポリシーとすることをいいます。

『太平記』では、を廻らし権威を嘲笑し、粋に振舞う道誉の逸話が多く記されています。


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道誉は尊氏と同じく、当初は北条幕府方に属していましたが、尊氏が後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)に呼応すると、これに従い、共に幕府を滅亡に追い込みます。

一説には、事前に尊氏と密約があったのではないかと言われていますが、定かではありません。

その後、後醍醐天皇の建武の新政が始まると、新政権の役人になりますが、尊氏が新政権に参加せず反旗を翻すと、いったんは足利軍と戦う姿勢をみせながら、土壇場で新田義貞を裏切り、足利軍に勝利させます。

これも、尊氏と同様はあらかじめ示し合わせていたんじゃないかとも言われています。


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その後は、一貫して尊氏のブレーンに徹し、高師直、土岐頼遠と並んで婆裟羅三傑のひとりとしてその歴史に刻みます。


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勝楽寺は閑静な正楽寺の集落の奥にあり、道誉の墓は境内のいちばん奥にあります。


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苔むした物寂しいたたずまいの墓石でしたが、図らずもこの日は桜舞い散る晴れた日で、婆裟羅大名として奔放に生きた道誉の人生を華やかに演出しているかのようでした。


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最後に、勝楽寺前にある西蓮池の桜並木です。



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by sakanoueno-kumo | 2017-04-19 00:27 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

桜に彩られた大楠公像と、鞍上を失った騎馬像。

昨日から4月、ですね。

今日の神戸は初夏のような暖かさで、2~3日前から一気にの木がピンクに染まり始めました。

まだ七分咲きといったところですが、今日は天気が良かったのと、明日からはしばらく忙しくて桜を観る余裕がなさそうということもあり、カメラを持って桜見物です。

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今日訪れたのは、神戸市兵庫区にある湊川公園

ここには、巨大な楠木正成銅像があります。

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というのも、いまから700年近く前の建武3年(1336年)5月25日に起きた「湊川の戦い」において、楠木正成軍と足利尊氏の弟・足利直義の軍が激突したのが、ちょうどこのあたりだったといいます。

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楠木正成というと、戦前の皇国史観における忠臣の象徴のようなイメージの人物ですが、神戸では、この近くにある正成を祀った湊川神社も含めて「楠公さん」と親しみを込めて呼ばれています。

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桜に立ち向かう楠公さん。

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桜を飛び越える楠公さん(笑)。

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青空にピンクがよく映えます。

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公園内には、馬の銅像があるのですが、実はこの馬の像、以前は聖徳太子が乗っていたのですが、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災で太子が落馬し、いまは馬だけになっています。

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なぜ神戸に聖徳太子像かというと、太子が法隆寺を建立した際、このあたり一帯も法隆寺の寺領だったそうで、明治以降の学校教育で聖徳太子の人気が高まると、神戸でも太子信仰が広まったからだそうです。

で、大正10年(1921年)にこの地に像が建てられたそうですが、70余年後に落馬、胴が真っ二つになったそうです。

隣の大楠公像の馬と違って、こちらの馬は、なんか寂しそう・・・。

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現在、休日を利用して『太平記』ゆかりの地の史跡めぐりをしており、その関連もあってここを訪れました。

そのうちシリーズをレポートしたいと思っています。

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たぶん、明日か明後日には満開でしょうね。

この感じでは、入学式の頃には散っちゃってそうですね。

新入学生を持つ親御さんにはお気の毒なことです。



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by sakanoueno-kumo | 2016-04-02 19:20 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

なだ桜まつりと阪急電車。

今週末の神戸雨予報だったので、先日、七分咲き桜レポートを起稿したのですが(参照:都賀川公園の桜の木の下で思う。)、今日(正確には昨日)、予報を覆して晴天だったので、せっかくなので、再び会社近くの都賀川公園を訪れました。

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今日は土曜日ということもあって、「なだ桜まつり」のイベントが開催されており、人でいっぱいでした。

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今日の都賀川公園は、おそらく満開だったんじゃないでしょうか?

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先日と同じ桜のアーケードです。

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桜との阪急電車です。

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数年前、『阪急電車』という映画がありましたが、たしか、あの映画の中でも、桜のなかを走る電車の絵がありましたよね。


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関西以外の人はそれほど馴染みがないと思いますが、このあずき色の阪急電車の車体は、何十年もずっと変わらない伝統の車両で、鉄道マニアにはたいへん人気の高い車両です。
関西を離れて暮らす関西の方は、この車体を見るときっと昔を思い出すことでしょう。

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少し葉桜になり始めました。
桜の季節も、あとわずかですね。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-05 00:51 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

都賀川公園の桜の木の下で思う。

昨日から4月、ですね。
年々寒さが苦手になっていくわたしも、先週末あたりから、ようやくコートとセーターを脱いでジャケットを羽織りました。
日本の春といえば
毎年、誰かがスイッチを入れたかの如く一斉に開花します。
なかには、季節を間違えて開花するドンくさい奴がいてもよさそうなものですが、ぜったい間違えないですもんね。
ある意味、人間より優れているといえるかもしれません(わたしの知人には、今頃インフルエンザにかかった季節外れな奴もいます)。

で、今年も毎年恒例の桜レポートです。
4月2日現在、神戸はまだ満開にはなっていませんが、明日からしばらく悪天候予報が続いているので、七分咲き程度で妥協し、昨日撮影してきました。

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場所は神戸市灘区の中心部を流れる都賀川沿いの公園です。

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遊歩道を演出する桜のアーケードです。
これ、満開だったらもっと綺麗なんでしょうけどね。

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都賀川に降り注ぐ桜の枝です。

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この日のソメイヨシノは、なんとなく例年よりも白く感じました。
その年の冬の温暖差で、花びらの色が濃くなったり淡くなったりすると聞いたことがありますが、本当なんでしょうか?

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ここ都賀川の川辺は、夏には子どもたちが水遊びをしたり、散歩道ジョギングコースとして市民に愛される憩いのスペースです。
ところが、六甲山から海までの短い南北を、急激に滑り落ちるような形状の河川であるため、ひとたび大雨が降ると、たちまち滝のような濁流の川へと変貌します。
平成20年(2008年)7月28日、局地的な豪雨による増水(鉄砲水)によって5人の方が犠牲になった水難事故を憶えておられる方も多いかと思いますが、あの川です。

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桜並木の公園内には、あの水難事故の慰霊碑が建てられています。

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あと、都賀川の周囲といえば、阪神・淡路大震災の被災地のなかでも、特に被害の大きかった地域でもあります。
当時、わたしの会社はこの川の近くだったんですが、ほとんど倒壊率100%に近い状態のこの地域に毎日足を運び、この川を渡って出社していました。
公園内には、震災の慰霊碑もあります。

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今年は震災20周年のメモリアルイヤー。
10年一昔などといいますが、20年経っても、この川を渡ると当時のことを思い出します。

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神戸では、明日から来週の火曜日あたりまで、ずっと雨の予報です。
来週中頃に入学式が行われる学校が多いと思いますが、それまでに散っちゃうかもしれませんね。
こればかりは、人の手ではどうにも調整ができません。
ゲリラ豪雨も大地震も桜の開花も、天の恵み災いも、すべて神のみぞ知るところですから。
だから、人は自然を尊び、自然の中で生かされているという思いを忘れてはいけないんですね。
わたしたち人間も桜と同様、自然の一部だということを・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-02 17:55 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)