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太平記を歩く。 その194 「楠木正儀の墓」 大阪府南河内郡千早赤阪村

「その15」で紹介した千早城跡から「その16」「その17」で紹介した金剛山に登る登山道に、楠木正儀の墓と伝わる五輪塔があります。


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楠木正成の三男・楠木正儀は、正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」で兄の楠木正行・正時が討死すると、楠木家の家督を継いで南朝方の先鋒武将として各地で戦い続けます。


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足利幕府内の内紛・「観応の擾乱」に乗じて正平7年/文和元年(1352年)には、一時、京を奪還するも、北朝の盛り返しによってわずか1ヶ月あまりで京を追われます。

正平9年/文和3年(1354年)には、足利直冬と呼応して2度、京を占領しますが、足利義詮の反撃により再び撤退することになります。


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その後、南朝の不利を悟って南北朝合体を試みますが、南朝内の長慶天皇(第98代天皇・南朝第3代天皇)をはじめとした強硬派に遠ざけられ、正平24年/応安2年(1369年)に管領・細川頼之のとりなしによって北朝へ降伏します。

ところが、北朝内で次第に孤立を深めていった正儀は、弘和2年/永徳2年(1382年)に再び南朝へ帰参し、参議に任じられました。

その後も河内・和泉の拠点を中心に北朝と戦いを続け、元中6年/康応元年(1389年)もしくは元中8年/明徳2年(1391年)に死去したとされています。

実に、父・正成が死んでから半世紀以上、兄・正行、正時が死んでから40年以上も戦い続けていたんですね。


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『太平記』では、正儀の性格を「父・正成や兄・正行と違い、少し間が抜けたところがある。」と評しているそうですが、これは少し気の毒な気がしますね。

父も兄も、死後、美化され、信仰の対象となって崇め奉られる存在となっていますが、実は、南朝忠臣としていちばん長く戦ったのは、この正儀でした。

そう思えば、父も兄も、たいそう立派な墓所が複数あるのに対し、正儀の墓はあまりにも寂しい気がします。


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正儀の生年については明確な史料が存在しませんが、享年62との説があります。

とすれば、父・正成が死んだときは数えで5歳くらい。

きっと、顔すら覚えていない父の意志を引き継ぎ、戦い続けた人生だったのではないでしょうか。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-03 00:34 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(2)  

太平記を歩く。 その193 「楠木正儀卿駒繋樟(香具波志神社)」 大阪市淀川区

大阪市淀川区にある香具波志神社に、楠木正成の三男・楠木正儀が愛馬を繋いだ楠の切株があると知り、訪れました。


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社伝によれば、天徳3年(959年)秋、稲荷大神である食稲魂神(うかのみたまのかみ)・

保食神(うけもちのかみ)を祀ったことに始まるそうです。


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「香具波志(かぐはし)」の社名は、孝徳天皇(第36代天皇)が有馬温泉へ行幸の途中、当地を通った際、「かこはしや此花いもみせぬかもやこの花」と詠まれた御製に由来しているそうです。


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拝殿です。


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境内の北側の隅に、小さな鳥居が見えます。

どうやら、ここが伝説の「楠木正儀卿駒繋樟」のようです。


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その伝承によると、楠木正儀が神崎川で北朝方の佐々木秀詮との戦いに向かう途中、ここ香具波志神社の前身・加島神社の楠に愛馬を繋いで参拝し、必勝を祈願したというのですが、ネット情報などでは、それを正平6年(1351年)としており、香具波志神社のwikipediaでも、そう記されています(参照)。


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でも、おそらくそれは間違いで、正儀と秀詮が戦ったのは、正平16年/康安元年(1361年)か正平17年/康安2年(1362年)のことで、約10年違っています

『太平記』巻36「秀詮兄弟討死事」に、そのことが記されています。


和田・楠是を聞て、能き時分也と思ければ、五百余騎を卒して、渡辺の橋を打渡り、天神の森に陣を取る。佐渡判官入道々誉が嫡孫、近江判官秀詮・舎弟次郎左衛門、兼て在国したりければ、千余騎にて馳向ひ、神崎の橋を阻て防戦んと議しけるを・・・


上記、「渡辺の橋」とは、現在の天満橋あたりで、「天神の森」とは、おそらく西成区天神ノ森あたり。

「神埼の橋」とは、おそらく尼崎市神埼かと思われます。


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「楠木正儀卿駒繋樟」は、推定樹齢800年で、樹高27m、幹周り7mと、大阪市内ナンバーワンの巨木だったそうで、昭和13年(1938年)には天然記念物に指定されましたが、残念ながら昭和42年(1967年)に枯死してしまい、その後、樹先や枝を払ってしばらくはその姿を留めていたそうですが、それでも危ないということで、昭和51年(1976年)に今のかたちになったそうです。


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現在は、切株の上にを置き、岩木神社として祀られています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-02 00:07 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(0)  

太平記を歩く。 その192 「宇利和利城跡」 大阪市平野区

大阪市平野区にあったとされる「宇利和利城跡」を訪れました。

「瓜破城」とも書きます。

あったとされると表現したのは、はっきりとした城の位置がわかっておらず、遺構なども残っていません。


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宇利和利城があったとされるあたりはには、現在、瓜破霊園という墓地があります。


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霊園のなかには、花塚山古墳という円墳があります。

古墳をに利用するというのはよくあることですから、あるいはこの古墳も城の一部だったのかもしれません。


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宇利和利城は、楠木正成の三男・楠木正儀の居城だったとされます。

正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の「四條畷の戦い」で兄の楠木正行・正時が討死すると、正儀が楠木家の家督を継ぎ、南朝方の先鋒武将となります。

ここ宇利和利城の築城時期はわかっていませんが、正儀が家督を継いだときには存在していたと考えられています。

足利義満以後3代の室町幕府将軍に関して記した記録『花営三代記』には、「暁河州宇利和利城寄手南方勢引退・・・」といった記述があるそうです。


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霊園の敷地はラグビーボールのような形をしていて、外周を細い道が囲います。

なんとなく、堀の痕跡のような気がしないでもないですが・・・。


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「瓜破」という地名の由来は、大化年間(645~650年)、道昭法師三密行法をしていると仏像が突然落ちてきたそうで、法師がその仏像を安置し、手元にあったを供えたところ、瓜が真っ二つに割れたことから、「瓜破」と呼ばれるようになったと伝えられます。

現在、大阪市営地下鉄谷町線の喜連瓜破(きれうりわり)駅が、難読駅名として有名です。




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by sakanoueno-kumo | 2018-02-01 00:41 | 太平記を歩く | Trackback | Comments(7)